『あるヨギの自叙伝』を読んで(4)――マスター・マハサヤ――

今回は、宇宙の母と愛を語らう至福の聖者マスター・マハサヤ、通称「M」について紹介させていただきます😃

十九世紀インドの大覚者シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子で、聖典『ラーマクリシュナの福音』の著者であるM。
その彼と、若き日のヨーガーナンダが出会っていることに、またヨーガーナンダが以前住んでいた家にMが住んでいるというその深いつながりに、とても驚かされます😲‼️

二人は何度か、シュリー・ラーマクリシュナが聖母カーリーを見神したダクシネスワのカーリー寺院を一緒に訪れています。
『あるヨギの自叙伝』には、二人で初めてそこに詣でた時の様子が書き記されています。

われわれは、九つの屋根が立ち並ぶカーリー寺院に入っていった。マスター・マハサヤの顔は至福に輝いていた。彼は、宇宙の母との尽きざる愛のささやきに沈潜していた。彼が聖母様の御名を唱えると、恍惚に酔った私の心は蓮の花びらのように千々に砕けてしまうかと思われた。
二人はそこを出ると、境内を散歩した。そしてタマリスクの茂みのわきにしばらくたたずんだ。この木の放つ特有の香りは、マスター・マハサヤが私に与えてくれる天のマナ(食物)を象徴しているかのように思われた。彼は深い祈りを続けた。私もまた、桃色の羽毛のようなタマリスクの花に囲まれて、草の上に身動きもせずに座っていた。私の魂は、しばし肉体を離れて天に舞い上がった。

もうこの文章全体から、自然万物を産み育てる宇宙の母が喚起させられ、ヨーガーナンダがMの存在に魅了され、陶酔していたことがありありと感じられますよね。

ところで、私の先輩弟子であるヨーガダンダさん(ヨーガーナンダではありません😦✏️)は、ヨーガーナンダがMに花の首飾りを捧げるところを読むと、いつも涙が出ると話していました。
私は師に、そのシーンがどういう意味なのか尋ねたところ、次のように答えられました。

「インドで神像に花の首飾りを捧げるのを見たことあるやろう? つまり、ヨガナンダはMを神と見ていたということなんや」

私は改めて、そのシーンを読み返してみました。

毎日夕刻近くになると、私はアムハースト通りに足を運んだ。そして、マスター・マハサヤの聖なる杯からあふれる甘露のしずくを求めた。今まで私は、無条件の尊敬をもって人の前にひざまづいたことがなかった。だが今は、マスター・マハサヤの足跡によって浄められた土の上に一緒に立っていることさえ、無上の特権のように思われたのである。
「先生、このチャムパックの花輪をどうぞ先生の頸にかけてください。私が先生のために特別にこしらえたものです」
ある晩、私は花輪を持ってマスター・マハサヤを訪れた。しかし彼は恥ずかしそうに、そのような栄光を受ける資格はないと言って辞退するばかりだった。しかし、私の落胆する様子を見ると、とうとう笑いながら承諾した。
「われわれはともに聖母様の弟子だ。だからそれを聖母様への捧げものとして、この肉体の神殿に掛けておくれ」

捧げるものと捧げられるもの、双方が神の御前で謙り、その純粋さで光煌めいている、本当に美しいエピソードだと感じました🌺

 

ゴパーラ


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