石の上にも三年

ヨーガに出会って3年ほどになります。

もともと子供の頃から能動的・積極的な性格ではなく、主体的に何か新しいことに挑戦したことなどほとんど記憶にない私ですが、ヨーガに関しては(神の思召しや恩寵という話は置いといて)自らの意志で求め、やると決意しました。周囲に流されるように始めたことが長続きしたことはあまりなかったので、ヨーガを始めた頃、『少なくとも3年間は続けよう』という思いが密かにありました。そして3年経った今、紆余曲折ありましたが何とかヨーガとの縁は続いており、とにもかくにもその時の思いは実現したという感慨が、なきにしもあらずです。

このブログの執筆依頼を機に、この3年間を振り返ってみました。

実家の近くにあるでっかい石。の上にも三…

日々の変化は微々たるものですし、ヨーガの実践によって、変化に対して無頓着になってきたり過去を蒸し返すことが減ってきたこともあって、普段、変化を実感することはあまりありませんでした。しかしこの機会に改めて自分を振り返ってみると、さすがにそこそこ変わっています。

アーサナや瞑想の習慣が身について、暇つぶしにやっていた娯楽は離れていきました。食事を改善しようとする意識も芽生えて、手軽に腹を満たそうとする悪習慣は去りつつあります。上述の、変化に対して無頓着になってきたことや過去を蒸し返すことが減ってきたことなども含め考えると、まだ実感のない変化もあるかもしれません。
こうやって並びたてると、改めてヨーガに対する感謝が湧いてきます。ただ、これらの変化をもたらした実践に対して常に前向きに取り組めたわけではなく、3年という短い期間の中でも紆余曲折ありました。

最初の頃は『カルマの道ではなくヨーガの道を』と張り切ってやっていましたが、高級スイーツにも犬のフンにも止まる蠅の如く、心はヨーガの実践と過去の習慣との狭間をフラフラしていました。徐々に過去の習慣が剥がれていき始めると、今度は、日常の中でカルマとヨーガを二項対立させているような自分の理解に違和感を覚え、「正誤の評価を下して正しい一方へ行こうとしているが、そういう方法で二元性を超越したものであるはずの真実に辿り着けるのか」「辿り着く? そもそも真実は遍在であるはずなのに、どこからどこに到達しようというのか」などなど、言葉上の理屈や納得を求めようとする煩悩とヨーガの実践との狭間をフラフラする始末です。

それでも今なおヨーガとの縁が保てているのは、やはり先輩方の存在が大きかったと感じます。真剣にヨーガを実践されている先輩の姿は、過去の習慣や知的思索の誘惑を遥かにしのぐ魅力を放っています。直接お会いしたり動画などでヨーガに対するその姿勢を拝見するたびに、過去の習慣や知的思索に反応する自分を恥じ入り、ヨーガの実践へと舵を切ることができました。まぁ『実践からフラフラ離れそうになっては先輩の背中に導かれる』ということ自体が、この3年間で何度も繰り返されているのは面目ないところでもありますが。

直近の瞑想専科の動画受講で、その並み居る先輩方が異口同音に、『あきらめず粘り強く実践し続けた』『心が限界まで追い込まれたような時に道が開けた』というお話をされていました。私をいつも導いてくださる力の背景を垣間見るとともに、ヨギさんと出会って以降、さらに道が開けるような体感がなかったこれまでの私の実践には、心が限界まで追い込まれるほどの真剣さがなかったのだと痛感しました。

心が追い込まれるほどの実践に尻込みする思いはありますが、ある意味この3年間で「心にゆとりのある実践を3年続けても、変化するだけで道は開けない」ということを体得したといえる私には、それほどの実践が必要だということは明白です。この厳しくも明白な結論と、できれば追い込まれたくないという甘えとの狭間でしばらくフラフラするであろう私は、また先輩方の背中に導かれ、助けられることでしょう。これまでもこれからも、ありがとうございます。

ヨーガに出会って3年。
3年座り続けてようやく石は温まってきましたが、これから必要なものは、虚仮(こけ)の一念。岩をも通す一念が必要なことがわかった3年目の振り返りでした。

深水晋治


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