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神への愛は伝染する

Love is an infectious disease. 直訳すると、愛は伝染病である。なかなか衝撃的な表現ですが、これはマザー・テレサの言葉です。

私は2011年の3月にインドのマザー・テレサの施設へ行ったのですが、その時偶然日本のイエズス会の神父さんと知り合いました。私は彼と出会って以来、キリスト教について質問をしたり、マザーについての話を聞いたり、本を紹介してもらったりと色々お世話になっているのですが、この出会いは私にとってマザーを深く知っていくことになる、とても大きな転機となりました。この出会いが無かったら、パラマハンサに連載を書くこともできなかったかも知れません。

神父さんは、震災以降福島の親子をサポートする活動をされていて福島と繋がりがあり、9月にも福島市内の大学で講演をするために来られたのですが、その時南相馬にも足を運んでくださったのです。私の家のほんの近くにカソリックのボランティアセンターがあり、そこで「苦しみを越えて」というテーマで、マザーにまつわる話をされました。ほとんどがかつて聞いたことのある話なのですが、私にとってはマザーにまつわる話は何度聞いても嬉しいものなのです。その中でも、愛は伝わっていくものなのだというこの言葉がよく表れた、私が最も好きなエピソードをこの時も話してくださったので、今日はそれを紹介したいと思います。

オーストラリアから一人の農家のご婦人がマザーに会いにやってきました。夫はアル中で、息子は非行に走って、どちらも彼女に暴力をふるっていたそうです。彼女は死のうとしていました。死ぬ前にずっと憧れていたマザー・テレサに会いに来たわけです。マザーは彼女を温かく迎えました。30分から40分間、手を握りながら彼女の話を聞いたと言います。話が終わると、そのご婦人はこう言いました。「用事は済みました。オーストラリアに帰ります。こんなにも私のことを大切に思ってくれる人が世の中に一人でもいるなら、死ぬのはもったいない。死ぬのは止めました」。彼女は喜びいっぱいに帰っていったそうです。

マザーの周りでは、このようなことがたくさん起こりました。神父さんはなぜだろうと不思議に思っていたそうなのですが、ある時、マザーの言葉を聞いて納得したそうです。

「私の所にはたくさんの人が訪ねて来ますが、その時その時で目の前にいる人がイエス・キリストであり、私にとっては全てなのです」。あのご婦人がマザーからどれほどの愛を受け取ったか計り知れません。

ところで、感染症というのは、予防するための3つの要素というのがあります。感染したくなかったら、この要素を減らしていくことが必要なのです。

一つはウイルスや細菌などの病原体に接触した物や人です。これを感染源といいます。二つ目は感染経路です。空気感染や接触感染など病原体が侵入する経路のことです。三つめは感受性で、免疫の低下など個人の感染しやすさのことを言います。

もし神の愛に感染したかったら、反対にこの条件を高めていくことが必要なのです。神の愛に接触した人は、バクタと呼ばれます。神を純粋に愛する人のことです。マザーがバクタですね。感染経路はバクタと会ったり話を聞いたりすること、バクタのことを考えるだけでも感染しやすくなります。そして感受性、神の愛を受け取れる純粋な心にするために日々怠らずアーサナしたり瞑想することですね。これで3つの条件は整うわけです。ただひたすら単純に粘り強くこれを続けるんです。そうすれば、何があってもいつも神を愛する歓びを心に持ち続けることができるのです。さあ、また今日から始めましょう。

マザー
神父さんが自分で撮ったマザーの写真で毎年作っているカレンダー。2015年版です 。

ユクティー

 


死に逝く人は美しい

死に近づくと人の顔貌は変わります。顔色が悪くなるとか、見ていられないくらい痩せてしまうとか、そういうことではありません。意識がなくなるにつれ、焦点の合わない独特の表情になっていきます。生命力のない、弱々しい目のように映るかもしれない。ある医師は、それを「仏様の目」だと表現していました。私は、何とも言えない美しさを感じます。それは、息をするのを忘れるほど美しいのです。あまりに美しすぎて、ため息も涙も出ません。ただ、ちっぽけな自分が偉大なものの前に立ちつくし、その美しさを茫然と眺めるしかないのです。自分が手を入れられる領域ではないこと、ただ偉大な者の手に委ねるしかないことを思い知らされるのです。誰もが同じように感じているわけではないと思います。違う表現をする人もいるでしょうが、多くの人が神聖な何かを感じているはずです。

人は死を宣告された後も希望は持ち続けると言われます。希望というのは、明日にでも新薬が発明されて病気が治るかも知れないとか、パリで個展を開こうとか、こんな料理に挑戦しようとか、大小さまざまな希望です。でも、体は徐々に思うようにいかなくなる現実を見せつけられます。そうすると、希望はどんどん剥ぎ取られ、死が現実のものとして見えてきます。ある医師はその状態を「剥ぎ取られるというよりも、自ら手放していっている」と表現していました。そしてもう何かを欲したり感じたり、そんな余裕すらなくなった時、人は呼吸の一息一息がすべてになります。一瞬一瞬を生きるだけになります。心のいらないものが捨てられ人の本質に最も近くなった姿、それが死に逝く人の姿なのです。だから美しいのです。

神は、人が死に逝く時のために神秘的な体のシステムを作られたようです。それは、死に近づくに従って、人は苦痛を感じなくなっていくのではないかというものです。これはある医師が著書の中で書いていた彼自身の考えのようですが、医学的にもある程度説明がつくとされています。呼吸機能が低下すると二酸化炭素が吐き出せなくなり、体内の酸素と二酸化炭素の割合は逆転します。この状態になると、意識が朦朧として痛みが感じなくなるということが証明されています。また、脳の中で強い鎮痛作用と多幸感をもたらす脳内モルヒネと呼ばれる物質が増えるという報告もあるそうです。見た目は苦しそうに見えても、その人の中で本当に起こっていることは、計り知れないのですね。こうして人は死に向かうと共にそのための準備を進めているそうです。

しかし、肉体的な苦痛が和らいだだけでは死の恐怖からは救われません。ある癌を患った患者が死に直面してその苦悩を書いています。「死に至る病の苦しみさえなければ、と人は考える。それさえなければ死もそれほど怖いものではない、とすら思う。しかし、その考え方はまだまだである」。医学では、死に逝く人の痛みは肉体的なものだけでなく、精神的な痛み、社会的な痛み、そして魂の痛みというものがあるとされ、数年前からこの魂の痛みに対するケアが行われるようになってきました。魂の痛みは、スピリチュアルペインとも呼ばれ、生まれた意味、病気になった意味、死にゆく意味を自らに問うものです。ただ、これは外からのアプローチでは答えを見出しにくいと言われています。 医療では、長年死は敗北だとみなし、救命に力を注いできましたから、この分野は不得意なのです。

それを担うのは宗教の役割だと言われます。かつて、生老病死に寄り添うのは宗教者の役割でした。それが多くの人が病院で亡くなるようになると、医療者が担うようになってきた。しかし、現場は忙しく、また医療者自身が答えを見出すよう導く術を知りません。

宗教も医学も行きつくところは同じ問いであると言われます。それは「人の本質は何なのか」ということです。自分は一体何者なのか、この問いに自らの内に答えを見出すことができた時、生きる意味、死ぬ意味、すべての謎が解き明かされ、私たちは自分自身だけではなく、他者をも死の恐怖から救い出すことができる。そしてその時、本当の意味で生きることも死ぬこともすべてが美しいのだということができるのだと思います。

コスモス

 

                              ユクティー


ヨーガの実践「心と四つの意識」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

『ヨーガの福音』にこうあります。

ヨーガ行者たちは四つの意識があることを発見しています。
1、起きている時の意識
2,夢見の意識
3,熟眠の意識
4,そして、その三つの意識をすべて知っている第四の意識
その証拠に今あなたの心はその意識によって観られている。通常は第四の意識が心に同化してしまって分からなくなっている。

第四の意識とは、純粋で、永遠の意識だといわれています。ではこの第四の意識とはどんなものなのでしょうか。
私は子供の頃、自分の事しか分からないということが不思議でしかたなかったのです。
なぜ私は、大好きなあの子の事を知らないのだろう。なぜ私はお父さんやお母さんのことが分からないのだろう。
こんな事、当たり前すぎて大人に聞く事ができませんでした。でもヨーガを学んで、その謎が解けたんです。私の心は第四の意識によって観られているのです。

例えばあなたはあの時、嬉しくて、嬉しくて、この世で最高の幸せ者だと飛び上がらんばかりの喜びに包まれました。私はその事を知りません。でもあなたはその事を全部知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、悲しくて、悲しくて、御飯も食べられないくらい落ち込み、最低な気持ちを味わいました。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心を知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、とても怖い目に遭いました。どうしていいか分からないくらい混乱しました。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心をよく知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、この世で最も尊敬する素晴らしい人と出会いました。あなたは昨日とは全く別の人生を歩む事になったのです。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心を知っています。それが第四の観ている意識です。

私はこの第四の意識にふれた時、「あー、私は一人ではなかった。この意識はずっと子供の頃から、いやもっと以前から共にあり、見守っていてくれていたのだ」と感謝の念がこみ上げました。しかしこの意識は心と同化してしまっているので、なかなかその意識に留まり続けることができません。師は本当に徹底的に目覚めるためにも、一連のヨーガの修行をやり続けることが必要だとおっしゃっています。

ヨーガの日常の行為の中で、慈悲喜捨の態度を培うことが大切であることは皆さんもご存じでしょう。慈悲喜捨とは、他の幸福を喜び、不幸を憐れみ、他の有徳を歓び、不徳を捨てる、簡単なようでなかなか難しい事かもしれません。ではなぜこのような行為が必要なのでしょうか。

『ヨーガの福音』はさらにこう続きます。

私はこの体でもなければ心でもない、それを知っている、観ている純粋な意識。この世界での経験はいわばそれを教える材料です。真実を悟ることが目的です。私たちは皆、一人ずつ神聖な存在なのです。

私たちは純粋な意識そのものだと教えられます。純粋であるということは、単純に不純ではないということですから、心を常により良く、清らかにして、静めておくことによって、その純粋な意識により目覚めやすくなれるのです。そしてそれを常に行為し続けなさいとヨーガは教えてくれます。

私たちはなぜ生まれてきたのか、そしてこの命とは何なのか。ヨーガは一つ一つの謎を解き明かしてくれる鍵です。私たちはもうこの鍵を手にしました。さぁ、この鍵でもう一つの扉を開けましょう。

ダルミニー


ヨーガの実践 「ヨーガって何?」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

ヨーガを志した皆さん、皆さんにとってヨーガとは何ですか?自分の人生のどんなところに位置していますか?「そんな大袈裟な、ただの習い事よ」と思っていますか?

最初は本当にこの身体を良くしたい、痛いところをなくしたいなど、自分の身体のことからヨーガと縁をもつ人も多いのではないかと思います。私もそうでした。私が最初に見たヨーガのポーズ(アーサナと呼びます)はアルダマッチェーンドラ・アーサナでした。この見たこともない捻るポーズを見て、身体によさそう、いつかやってみたいと思ったのがきっかけです。みなさんもきっかけはどうであれ、ヨーガに魅せられ、引きつけられていることでしょう。ヨーガを志すこと自体が身体にせよ心にせよ、このままの自分ではいけない、自分をより良くしたい、自分を大切にしたいという思いの表れなのだと思います。

ではこの自分とはいったい何なんでしょうか?

師は教えてくださいます。

「私たちはこの身体でも心でもない。誰もの中に本質としてある純粋な意識、それが本当の自分である」

そしてヨーガの聖典『バガヴァット・ギーター』にこうあります。

「武器で傷つくこともなく 火で焼かれることもない 風はこれを乾かさず 水はこれを濡らさない これがアートマンである」

アートマンというのは自分自身のうちにある純粋な意識のことです。真実とも言うし、神とも言うし、魂とも言います。「私たちは傷つかないんだよ。心は傷ついたと言って泣いているかもしれないけど、それは本当のことではないんだよ。そのことに早く気が付いてね」と言っているのがヨーガです。私たちは、本当はこの真実を知っているのだと思います。だから私たちはヨーガに魅せられ、引きつけられているのだと思います。

ヨーガとは、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものです。

まずヨーガを始めて気が付かされるのは、思い通りにならない、また見て見ぬふりをしていた自分の身体と心のことです。いかに自分のことを知らなかったかが良く分かります。そして次第に今の自分の問題を認識しはじめ、その問題を解決するべく努力をしていくようになります。自分自身を大切にしている皆さんであれば、それは自然に辿っていく道でありましょう。そして自分自身が変わっていくことによって、周りの人たちが変わりはじめ、互いが影響をし合い、共により良くなっていくということにも気が付かされるようになります。そうしてヨーガが、生きていくうえで自分に本当の勇気や愛や自由を与えてくれるものだということが分かってくるのです。そして師は、それらはもともと自分たちの中にあったのだということも教えてくださいます。そうするとヨーガがますますおもしろくなってくるんですよ。

大切な自分自身のことを後回しにしていてはいけません。一緒にやっていきましょう。

 ダルミニー


最近のオシゴト

南相馬にやって来て約1年半、経験した事や感じたことを綴っています。

私にとって、ここはもう支援の場所ではなく、生活の場になりました。京都が南相馬に変わった、それだけです。ただ、ここでしか経験できないことはたくさんあります。その一つは、今任されている仕事です。今日はそのことについて少し書きたいと思います。

この地域の病院は、どうすれば生き残れるか、それを必死に模索しています。

あの原発事故以来、多くの人が避難したきり戻らず、職員の数も激減しました。都会でも看護師不足は深刻で閉鎖する病棟もありますが、それでも都会はまだ入って来る看護師が期待できます。でも、ここでは今後職員が増えることはありません。今いる人だけで何とかやっていくしかない。しかし、職員自身も高齢化しており、定年間近の人も多く、今の体制も徐々に保てなくなっていくはずです。

私の病棟を例に挙げると、今いる看護師は14人、3年後には6人に減ります。6人のうち、支援看護師や夫の転勤で来た期間限定で働く看護師を除くと、3人になります。3人で50人の患者さんを看ることは不可能ですから、今後病院は縮小したり、形態を変えてやっていくことになります。

そのために私が今取り組んでいるのは業務改善で、その中でも看護記録時間の短縮を図るために記録用紙を作り変えることです。田舎の病院というのは、色々な面で古いやり方をずーっと続けているところが多い。人の出入りが激しい都会の病院とは違い、この病院の看護師はほとんどが定年までの40年間をここで勤めます。働く人も同じだし、多少手間がかかっても、みんななんとなく面倒だと思っていても、自分たちが慣れたやり方の方が安心だしやりやすい。病院間の競争もほとんどない。だから、業務改善があまり行われず、時間も労力も無駄が多いのです。

そこで私は、看護記録用紙をもっと効率的なものにすることを看護師長に提案しました。でも、最初は師長にも主任にも無理だと言われました。それでも、今後業務改善は必ず必要になることを伝え、師長と話し合いました。そうすると、一度見本を作ってみましょうということになり、よそから来た看護師さん2人にも助言をもらいながら、高齢の看護師さんでも抵抗なく書けるような工夫をして、記録用紙の見本を作って見せました。今は看護部長(看護部のトップです)の許可も得て、師長と話し合いながら、さらにうちの病棟に合ったものへと作り変えています。

こうして新しいことに自主的に取り組んだり、ありきたりの方法に捉われず創作していくのって、とても楽しいですね!これまで私にとって業務改善というのは、上司から言われてやることでした。正直、あんまり興味がなかった。ただただ受け身だったんですね。自分のことを大きな組織の末端にいる一員としか思っていなかった。確かに、出来上がった組織の効率化された業務は、素晴らしい。ここは田舎の小さな病院で医療や看護も遅れている。でも、まだ形になっていないこの病院だからこそ、みんなで作り上げていく楽しさを、今私は味わえているのかなあと思います。

ただ、こういうことを、来てすぐの私がやっても、周りの反発しか受けなかっただろうなと思います。いくら正しいといわれていることでも、それが人に受け入れられるとは限らない。やっぱり人間って感情の生き物なんですね。このことは、震災後石巻に支援に行った時に自分自身の経験からも、そして同じ団体で活動した仲間の経験からも学んだことでした。でも、一年半経って、ただ言われるままに働いてきただけだったけれど、少しは周りにも信用してもらえるようになったのかなあと思います。

残念ながら、作成中の記録用紙は守秘義務のためお見せできないですけど、代わりにといっては何ですが、最後に私の働く姿をよかったら見てください。

詰所1
私のいる病棟の詰所です。この日は夜勤。看護師一人と助手さん二人の体制です。

薬
朝5時。仮眠の後、仕事再開です。いつになく真剣です。薬を扱っているので間違ってはいけないのです。この後配薬、検温、採血などなど盛りだくさんの業務をこなします。まだまだ帰れません…。

fufu1
笑っている場合ではないのですよ‼さっさとしましょう。

 ユクティー


野外演劇「永遠のブッダ」公開!

またまた、マーダヴィーです〜。

本日8月25日、京都の吉祥院天満宮では古くから伝わる六斎念仏という法会があるそうです♪そして25日と言えば天神さんの日ですね!北野天満宮近くにお住まいの方は行ってきましたか〜?

さてさて、今年の4月6日に大阪市天王寺区にある西照寺で行なった野外演劇「永遠のブッダ」の映像を公開しました!

毎年4月の第一日曜日に、大阪・一心寺周辺では「なにわ人形芝居フェスティバル」が開催されています。私たちは2011年に初めて参加させて頂いて、今回が2回目の参加となります。お寺や神社などが主催されているフェスティバルなので、お釈迦さま(ブッダ)についてのお話をお芝居にして、皆さんに見て頂きました。

2011年は、ブッダ御自身の誕生〜悟りを啓かれた後のお話を取り上げました。その時の「ブッダの物語」映像も前・後編に分けて、YouTubeで公開していますので、復習兼ねて、ぜひもう一度ご覧くださいね。

ちなみに今日の大阪での瞑想専科では「ブッダの物語」を上映し、脚本・主演のサナータナさんが熱ぅ〜く解説してくれはる予定です!京都では8月28日木曜日の瞑想専科にて上映しますので、お楽しみに!!

今回の「永遠のブッダ」は、ブッダとある弟子との物語です。取り上げられたテーマは、現代の私たちへのメッセージでもあります。(人は生まれ変わることができるのです!!)時代と空間を超えて、ブッダが教えられたことは、私たちへと伝わっています。

アクション・シーン満載のこの物語、私がこれ以上ネタバレしてしまう前に(笑!)、ぜひぜひぜひぜひご覧くださいませ〜。最後にはブッダの言葉の贈り物がありますので、最後まで見てね。

マーダヴィー


あなたは何を持っていますか?

残暑お見舞い申し上げます。 マーダヴィーです!

さてさて、わたくし事なのですが、今年の始めに実家を処分しました♪

住んでいたのは私一人だった(一軒家に一人暮らし!)ので、いつか家の処分はしなくちゃいけないな~と分かっていたものの、なかなかそのような大事には踏み切れず、いつでもできる、でも自分しかやる人いてないぞ、あぁかなり大変そうだ (TーT) ・・・と後回しにしてきましたが、とうとう「やるぞー!」と一念発起して実行しました。

大阪は住之江区の商店街から歩いて15秒の所にあった実家。めっちゃ下町です。ご近所さんとも家は違えど、一つの大きな家族のように育ってきました。今でも私を身内のように心配し可愛がってくれます。

誰もが生まれては死にを繰り返す輪廻転生の中で、自分自身で両親や環境を選んで生まれてくると言われています。私が生まれてきたところはちょっと事情のある家庭で、自分の手で解決しておきたい諸問題もあったので、それも含めてこの際一気に片を付けて、シンプルに生きるのだ~! と決心しました。

まずは、物理的な面での第一歩です。私は生まれてからずーーっと同じ所で暮らしてきたので、実家には相当の物があるのは分かっていましたが、ずっと見て見ぬフリ。自分の物は簡単に処分できますが、いざ開かずの扉を開けてみると、ありゃ~、出るわ出るわの大荷物。私の幼稚園の制服(大事に残してくれていたのね 涙)や、祖母の日本刺繍のお道具や大量の着物、はたまた20年以上も前に亡くなった祖父の3ピース・スーツまで綺麗なまま保管されて・・・ そして、いつか使うやろうと残してあったものの数々(ちょっと置いとこ~と思ってる物は、結局要らないのです)

・・・結局、家にあるものの98%の物を処分しました。

処分するのに一通り自分で目を通して、はいゴミ、これもゴミ、という風にガツガツ進めていきました。物を捨てる時に、例えば写真とか手紙とか、それらを見始めたらもうキリがないですよね。(みなさんも経験あります?) 色んなことを思い出したり、感傷に耽ったり……。 自分の物だけではなく、家族の物を見ても、その一つ一つに嬉しい思い出やら悲しい思い出やらがいっぱいくっついています。

感情が動くと作業は全くはかどりません。ただ事務的に、はい要らない、これも要らないという風に、ゴミ袋に放り込んでいくことをひたすら繰り返しました。その時につくづくと感じたのは「あぁ、かつて自分、又は誰かが大切にしていた物は悉く本当に無くなる。そして、それを大切にしていたその人もいなくなる」ということ。

この家だって建てられて60年近く経って老朽化し、解体されて無くなる。いつ誰が定めたかもわからない境界線で囲われたこの土地も、今は私たちの所有物だって言うけれど、すぐに他の人に譲渡されるし、そもそも初めからこの地球には境界なんてないのに、限定作って自分の持ち物だ~なんて主張して、ほんとバカげてる。

「だとしたら、この世界に自分の所有物と言えるものはあるのだろうか?」

という疑問がやってきて、思わずゴミを整理する手が止まりました。

でも次の瞬間

「自分の持ち物と言える物はほんとに何一つないけれど、“純粋な信仰” だけは持ってるわ!!!」と、答えがはっきり分かったのです!!

“純粋な信仰” が自分の唯一持ち物だ!と分かったとき、すーごく嬉しかったです。外側にあるいつかは壊れゆく物や、変わってしまう思いでもなくて、自分の内側にある“信仰”、それだけがどんなものよりも心の中に燦然と光輝いていて、何よりも大切で、自分の生命の源であり、それが私と言えるようなものだったと気がついたんです。

信仰と言うからには、何を信じているかという対象があります。私にとっては、神さまと真実です。(私は神さまが大好きです)

そして突然、中世に生きたミラバイのことを思い出しました。彼女も同じように、神への信仰だけを自らの持ち物とし、神だけを愛して、インドの大地に生きたのだと。ミラバイの魂が、時を超えて私の心に流れ込んできました。彼女は何も持っていなくても、どんな状況になっても、恐れるものは何一つなかった。それは神が彼女を愛し、彼女も彼だけを純粋に愛していたから。そんな愛の人を神さまは永遠に守るしかないでしょう。ねぇ?神さま。

自分が生きていくために必要最低限な物(+α+α+αくらい?結構いっぱいあるやん笑!)を実家から持ち運んで、今は暮らしています。無駄な物に囲まれているより遥かに快適!心も軽い!

以上、本日はマーダヴィーがお届けしました!
なお、もうちょっと続きがありますので、それはまた次の機会に~!


放射能のこと

こんにちは~。京の七夕に対抗するわけではないですが、東北の玄関、仙台では、8月6~8日、七夕祭りという大きなお祭りがありました!!私は6日に行ったのですが、毎年200万人の観光客がやって来るだけあり、多くの人でごった返していました。

この祭りは、伊達政宗が藩の文化を発展させるために始めたものだそうです。くす玉みたいな大きな飾りがアーケードにたくさん吊ってあって、それを見るだけなんですが、それぞれ個性があり、とっても華やか!!仙台の街って、広くてゆったりしていて、私は大好きです。人が多くてもゴミゴミした感じがないのがとってもイイ。

七夕まつり

賑やかな仙台に比べて、私のいる南相馬は閑散としています。ちょっとした街なのに、ひっそりしていて、最初に来た時はなんて寂しげな所だろうと思っていました。でも、今ではそれが当たり前になってしまいました。ここに来て一年と約半年。ただひたすら働いてきただけの単調な生活だったようにも思えますが、いろんな経験もしてきました。これまでの生活を振り返り、私が感じたことをこれから何回かに分けて書いていきたいと思います。

今でも友人や家族は私の体のことを心配してくれます。放射能ですね。たびたびニュースでも内部被爆のことが取り上げられていますから。でも体調はとてもいいです。私はミネラルウオーターも水道水も飲みますし、野菜はこの土地のものを中心に、他の所から仕入れられたものも食べます。どこでもそうであるように、ここの人たちも色々な考えの人がいて、全く土地のものを食べない人もいますし、風呂の水さえミネラルウオーターを使う人もいますし、反対に土地のものを優先して食べる人もいます。(食べ物ではないですが、今でも洗濯物を外に干さない人は結構います)京都では福島産の野菜やお米って目にしなかったし、きっとほとんど福島以外には出荷されないのでしょう。もし見かけたとしても、京都でわざわざ福島産のものは選ばなかっただろうと思います。

でも、なぜだか分からないですが、私はここに来て、以前よりずっと食べ物が大切に思えるようになりました。前は自分が食べ物を選べて当たり前だったし、どこかでそれらは無限にあるような気がしていました。でも、今は食べ物も水も自然も「すべては限りあるもの」という意識が強くなったように思います。だから、食べ物だけでなく、空気も人も、今日という日も、そして自分自身ももっと大切に思えるようになりました。

それでも、やはり原発のことは心配です。汚染水漏れのニュースを見るたびに、またか…と落胆しますし、地震が大きければ爆発を起こすんじゃないかと不安になります。そして、ここに来て心配なことが増えました。それは、原発や除染で働く人たちのことです。コンビニには除染の車がよく止まっていますし、業者さんたちが買い物をしている姿も見かけます。うちの病院にも健診に来られますし、入院している患者さんの家族には原発で働いておられる方もいます。ある入院患者さんの息子さんは福島第一原発で働いておられ、週の真ん中が休みらしく、いつも平日にお父さんの洗濯物を持って来られます。福島第一原子力発電所で働く人のことを、現場や地元の人たちはイチエフと呼びます。イチは第一のイチ、エフは福島の頭文字のF。看護助手さんたちから「息子はイチエフなんだって」と聞いて、最初は何のことか分かりませんでした。F1じゃなくて1Fなんですね。その息子さんは、最近ご飯が食べられなくなってきたとのこと。とっても痩せておられます。他の看護師が受診を勧めると、「もう、そういう体になってきたから」と諦めたように言われていました。現場は想像以上に過酷なようです。あの事故から3年、今もこうして最前線で働いてくれている人たちがいるからこそ、私たちの生活が守られている、それを忘れてはいけないな、と息子さんを見るたびに気持ちを引き締める私なのです。色々な人との出会いもまた、私自身が頑張って生きようと思う力になっています。ありがとう!息子さん。でもあなたの体は心配です…。

つづく
ユクティー


ヨーガの実践 「私は正しい?」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

ある時、師はこうおっしゃいました。

「みんな自分は特別だと思っている」「みんな自分は正しいと思っている」

本当にそうだなと思いました。あなたも自分の考えは正しいと思っていませんか?私もそうでした。人はみな自分の経験と照らし合わせて、それと違うことは正しくないと判断するのです。「私は正しい、でもあの人は間違っている」それがこの世の争いの原因ですよね。

常識と言われるものもそうですよね。常識は世界各国で異なっています。日本では常識であることも他国にいけば非常識です。それは皆さんもよくご存じのことでしょう。常識と言われるものも本当はあやふやなものなんだなと思いました。常識と言われることも自分が正しいと思うことも、常に移り変わる人の心が作り出したもので、本当は実体のないものなのです。私たちも、みな誰かに評価されます。子供の頃から、まず親に兄弟たちと比較され、小学校に上がるとすぐに通知簿が付けられます。大人になっても上司や周りの人に評価され、それが私を判断する基準になります。

ところが師はおっしゃいます。

「物事の判断基準は、それが真理なのか、真理でないのかだけです」

では真理とは何でしょう?真理とは、永遠にあるもの、純粋であるもの、本当の幸せであるもの、本当の私であるものです。考えてみてください、およそこの世で永遠なものなどないですよね。私たちのこの身体もいつかなくなります。そして心も、いい時もあれば悪い時もあるし、いつも動揺して止まない、永遠に変らないものではありません。それを聞いて、私は本当に悲しくなりました。この世に真理なんてないんだと。
でもその後、師はおっしゃいました。

「誰もの中に真理はあります。それこそがリアリティです」

「この世の変動して止まないものを追いかけるよりも、自分自身の中にある真理を求めなさい」

私はその言葉に救われ、心が軽くなりました。今までの判断基準が間違っていた、自分をああだ、こうだと判断しなくていい、他者のこともあれやこれやと判断しなくていい、だってみんなが真理なのだから。それから私の判断基準は簡単になりました。「これは真理か」、この世で真理にあるものなどほとんどありません。それはすぐに捨てればいいのです。

しかし、なかなか言うことを聞かないのが私たちの心です。
そのためには、皆さん、これからが本題です。ヨーガのアーサナ、瞑想が不可欠です。すべては呼吸が鍵を握っています。呼吸を変えなければ心は変わりません。不動のものに心を寄せるには、心を不動にしないといけないのです。ヨーガは私たちの疑問にすべて答えてくれます。本当です。自分自身のことは自分で責任をもたなければいけません。誰もやってくれません。自分のことは自分でしましょうね。私もそうです。呼吸は一朝一夕には変わりません。毎日のアーサナと長い間の修練が必要です。でも必ず呼吸は変わります。呼吸が変われば心が変わり、真理を理解し深めていくことができます。
今の自分から自由になることができますよ。さぁ、今からアーサナをしましょう。


東京 2days by Sakti ダイジェスト公開!

こんにちは〜! マーダヴィーです。

猛暑到来!みなさん、夏バテしていませんか?

さてさて、今日は、新しい映像公開のお知らせでございます〜。

ところで、MYMには映像部門があるのをご存知ですか? えっ、そんなんあったん?という方も??
あるんです! その名もパラマハンサ・ピクチャーズ、略してPPS!
2011年から「Sakti」「Epiphany(聖性示顕)」2つのシリーズで映像を制作し、YouTubeにて公開しています。

pps_new2014

※白鳥さんが新しくなりました♪ 今にも飛び立ちそう!

PPSが今回お届けするのは、シャクティのミラバイとジャヤデーヴヴィーが東京で行なった、ヨーガ特別クラスのダイジェスト映像です。(7月12日ラージャ・ヨーガ/アーサナ・瞑想クラス、7月13日バクティ・ヨーガ/キールタン・ワークショップ。その他のシーンもあり)

「ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、二つのヨーガを体験してもらいたい、そしてその目的は同じであることを伝えたい」というミラバイとジャヤデーヴィーの願いと、東京の仲間たちの熱~い思いから実現したこの機会。その2日間の様子をまとめています。

ラージャ・ヨーガとバクティ・ヨーガのクラスって、面白い組み合わせ♪ そしてその二つのヨーガでは、やっていることはまるで正反対のように見えるけれど、目指している目的は同じなのですね。ふむふむ。

ラージャ・ヨーガでは、身体と呼吸を調えて、心の働きを静め、本当の自分に目覚めます。アーサナ、瞑想が位置づけられている王道のヨーガと言われる道ですね。そしてバクティ・ヨーガでは、神を愛することで神と一つになる、愛のヨーガと呼ばれる道です。キールタンは、ただただ神の御名を唱えるというもの。超簡単で誰もができることです。

一方では心を静止させ、一方では心を神や愛で充満させていく・・・そのいずれもが、私たちを “本当の自分” であるところの “神性” を目覚めさせるよう導いてくれています。

何それ?(言っていることが全く分かりません、という声が聞こえてきそう汗) そもそもそんなことってあり得るの!?と思うのですが、それを実現していくためにはやっぱり、師から正しい教えを学び、実践するということが不可欠です。

私自身、尊敬する先生のもとでこの10年程ヨーガを学んでいる中で、心を静める道と愛を深める道がやがて同じ一つのところに終結していくんだと分かってきました。

自分は完成にはまだまだほど遠いのですが、それでも、心が静まった時に現れる光り輝く尊い存在にただただ圧倒され、純粋そのものである神を愛することだけで自分の心までもが純粋になり、神の愛に歓び震え、ある時には、神々しい神の姿を目にしその美しさに我を忘れてしまう・・・
そのような瞬間・体験を重ねながら、「神は本当に実在するんだ」「自分の内にある尊い存在と、神という存在は同じものなんだ」ということを今は実感しています。

この映像の中で登場しているミラバイとジャヤデーヴィーも、アーサナや瞑想をみーっちり実践し、同時に神への愛を深める中で実感することがたっくさんあるに違いないので、それは今週金曜日(8/1)に大阪のプリヤメーラさんで行なわれる、バクティ・サンガムで直接聞いてみてくださいね (○゚∀゚)♪♪

それでは、前置きが長くなりましたが「Sakti vol.7 – 東京 2days ダイジェスト」お楽しみくださいませ〜。

マーダヴィー