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グルデーヴァ! 【後編】―『あるヨギの自叙伝』よりー

前編(→前編の記事)では、ヨーガーナンダが真正の師、スリ・ユクテスワにめぐり会い、厳しくも愛ある薫陶を受け、師の下で生涯の最良の十年間を過ごしたこと、そしてそのすべてはババジ、神の導き、計画であったことに触れました。『あるヨギの自叙伝』に貫かれているものは、ヨーガーナンダの大師への敬愛と、また大師の完璧なる導きだと感じました。
なかでも私が最も感銘を受けたのは、数世紀にも渡って今も生きておられ(!)「唯一の隠れた力である創造主のように、地味に目立たぬように働いておられる」というババジの教えです。


ヒマラヤの山中を少数の弟子たちと移動されているババジの一団の下に、ある時一人の男が現れて、崖の上の岩棚によじ登って言った「大師よ、あなたは偉大なババジに違いありません」。男の顔は言いようもない崇敬の念で輝いていた。
「私はここ幾月もあなたを捜し求めて、このけわしい岩山をあちこちさまよい歩きました。お願いでございます。私をお弟子に加えてくださいませ」
ババジは何の返事もなさらなかった。すると男は、はるか下の岩の裂け目を指して言った「もし受け入れていただけなければ、私はここから飛び降りて死んでしまいます。大師の、霊のご指導を受けることができないなら、私はもう生きていても無意味でございます」。

「では飛び降りるがよい」ババジは冷然とお答えになった「私はお前を、今のままでは弟子にすることはできない」。
男は崖下めがけて身を投げた。ぼう然とこのありさまを見ていた弟子たちに、ババジは男の死体を取ってくるように命じられ、見るも無残な男の死体の上に手を置かれた。すると、男はパッと目を開いてババジの足もとにひれ伏した。
「これでお前は、私の弟子になる資格ができた」ババジは死から甦った弟子をにこやかに見ながら仰った「お前は勇敢にも、この厳しい試練に打ち勝った。死はもう二度とお前を見舞うことはないだろう。今こそお前は、われわれ不滅の仲間の一員になったのだ」

※もし男が飛び降りることに躊躇したら、ババジの導きなしに生き長らえることは無意味だと言った言葉が嘘であったことになり、また、師に対する完全な信頼に欠けていたことを暴露することになる。それゆえ、この試験は、思い切った異常な手段ではあったが、この場合完全な試験方法だった。


目まぐるしい毎日の中で、いくつかの壁があるように思えて私が混乱していた時、このババジの言葉が突き刺さりました。
私はお前を、今のままでは弟子にすることはできない

・・・ヨーガは実践。師であるヨギさんと燦然たる大師たちの凛々しいお顔が浮かび、ヨーガの道を進むために導いてくださっていることを感じ、壁があるならぶつかっていこう、と思いました。砕けるのは、エゴであり、真の自己は決して砕けない。だから恐れずに、当たって砕ければいいと思いました。
ヨーガーナンダは、古から伝えられてきた真理、神を悟るための道を、先達に続き世界へ具体的な形で伝えられましたが、それは時空を超えたババジの導きであることが、はっきりと本の中に開示されています。師の言葉、神の導きを完全に信頼し、まっしぐらに突き進んだヨーガーナンダは、勇敢に壁にもぶつかり崖下へも躊躇なく飛び降りたと私には思えます。これこそが生涯を懸けた大事業、ヨーガなのだと思いました。

今回、久しぶりに一から読み返した『あるヨギの自叙伝』。ヨーガーナンダの溢れる愛とユーモアに、泣いたり笑ったりしながら一気に読み終え、ヨーガーナンダの聖なる魂の息吹が、颯爽と駆け抜けていったようでした。
時空を超えた大いなる導きに、感謝を捧げます。
グルデーヴァ!!!

ヨギの自叙伝カバー

1946年、初版のブックカバーの写真

※参考・引用『あるヨギの自叙伝』

ナリニー  


グルデーヴァ! 【前編】―『あるヨギの自叙伝』よりー

真実の師の存在がなければヨーガの道は一歩も進めないことを、私は『あるヨギの自叙伝』を通してパラマハンサ・ヨーガーナンダから教わりました。インドでは生涯をかけて師を探すと言われています。

少年時代から霊的探求心の深かったヨーガーナンダは、師を求めて聖者、賢者を訪ね歩き、青年になると家を飛び出し僧院に入ります。17歳の時、導かれるように行った外出先の狭い小路で、ついに真正の師、スリ・ユクテスワとめぐり会いました。スリ・ユクテスワのその神々しい顔は、ヨーガーナンダが何百回となく幻に見た顔。狭い小路で、じっとヨーガーナンダを見つめていたスリ・ユクテスワのもとへ、ヨーガーナンダは急いで駆け寄り、足もとにひざまづきます。「グルデーヴァ!(尊い先生!)」それ以上、言葉を発することができず、もう言葉は必要なく、沈黙のうちに二人の心は溶け合いました。

実は師の僧院とヨーガーナンダの実家は近い距離だったのですが、過去に師の姿を見たこともなく、このめぐり会いはそれぞれの外出先でのことでした。ヨーガーナンダは念の入った神の演出ぶりに驚いたといいます。ところが彼は、その後、師から家族のもとに帰りなさいと言われるも、霊的生活を求めるあまり「私は家には絶対に帰りません」と言います。師は仰いました「お前が安易な気持ちで私の弟子になるのを認めるわけにはゆかない。私の弟子には、私の厳格な訓練に対する絶対服従が要求されるからだ」。すぐに弟子になることが叶わなくなったヨーガーナンダは、奇跡的なめぐり会いがどうしてこのようなちぐはぐな結末に終わってしまったのか・・・と夜道を歩いて帰ります。しかし数日後、結果的には実家へと帰ることとなり、そこで家族との問題を円満解決してから、一カ月後に師の下で霊的訓練を受ける環境が与えられたのでした。
まさに師は、弟子が解消すべき問題や義務を果たしてからヨーガの道に邁進できるように、大切に弟子の人生を完璧に導かれていることを私は感じました。一見、遠回りに思えることでも実はそれが近道なのだと。

師に自分の心理的ひずみを取り除いてもらう不屈の決意をしていたヨーガーナンダは、その時のことを「私の慢心を打ちくだくために加えられた先生の容赦ない叱責のむちに今でもはかり知れない感謝をいだいている。先生はまるで虫歯を一つ一つ探し出しては強引に引き抜くように、私の欠点を取り除かれた。執拗な自己中心主義の根は、このような手荒な手段でなければなかなか根絶することはできない。この根が取り除かれてはじめて、神は人間の中に自由な通路を見いだすのである」と記されています。スリ・ユクテスワからは「もし私に叱言を言われるのが嫌になったら、いつでも出ていきなさい」「私はお前の進歩だけを期待している。お前がここに居てためになると思ったらとどまっていなさい」と厳しくも愛ある薫陶を受けていました。

私は、大先輩から聞いた「師は弟子を導くために存在されている」という言葉を思い出します。弟子の身に起こることは自己中心主義の根を取り除くための師からの導き。師は弟子にとっての障害を取り除き、道をスムーズにしてくださっているのです。そして欠点を取り除くその過程こそが実践。教わったことを実地で行動し実践してこそヨーガと言えることをヨーガーナンダが今、本を通して教えてくれます。

ヨーガーナンダが、師と過ごした日々のことを「生涯の最良の十年間を過ごした」と表現されている一文に、彼の師への言葉にならない思いを感じて胸が熱くなります。読んでいくと、ヨーガーナンダと師スリ・ユクテスワの、またスリ・ユクテスワの師のラヒリ・マハサヤの、そのまたさらに師のマハー・アヴァターラ・ババジの、それぞれの大師たちと弟子との純粋な愛の物語に触れると同時に、今もその続きが繰り返されている・・・と思わずにはいられません。ヨーガは本当に師から弟子へと直伝されてきた宝なのです。

ヨーガーナンダはババジとスリ・ユクテスワからの命である西洋にヨーガを伝えるという聖なる責任を果たされましたが、それは決して生易しい仕事ではなかったといいます。後年、その仕事に対してやりがいがあったかどうか?という質問に対して「主の試練を受ける者は幸いです。主は、ときおり私を思い出されては、私に重荷を背負わされました」と答えられ、そして続けられます「しかし、私の答えは断じて『イエス』です。東洋と西洋が永遠の霊的絆によって互いに固く結ばれてゆくのを見るとき、私はこの仕事がはるかにやりがいのある仕事であったことを痛感します」。
どんな事も神から与えられたものと信じ委ねるヨーガーナンダの純粋な信仰心、そして主の仕事の歩みを絶対に止めずに推進していく強さに感服します。その源にあるのは師の存在・・・師と弟子との特別な絆について、ヨーガーナンダから私は教えていただきました。
(後編につづく)

大師たち

(左から)マハー・アヴァターラ・ババジ ラヒリ・マハサヤ スリ・ユクテスワ

※参考・引用『あるヨギの自叙伝』

ナリニー  


純粋に想い、行為する

15年前の2月私は初めてサットサンガに参加しました。 
サットサンガとは、聖者の祝福と教えを授かる聖なる集いのことです。 
クラスで、一人一人の質問に対して師が答えてくださる対機説法という形だと聞いてはいましたが、私には特に聞きたいと思うことがなく、必要を感じませんでした。 

参加のきっかけとなったのは、N.Y.から来られていた先輩グルバイ言われた言葉でした。 
「まだヨギさん(師)にお会いしたことがないの!?もったいない!」 
その後、先輩グルバイから師のお人柄や行動について伺っているとお会いしてみたくなり、1週間後のサットサンガへの参加が決まりました。 
参加するのであれば質問を、と考えてみましたが、思いつかないまま当日を迎えました。 

サットサンガが始まり、まず、師が合掌されているお姿に目を奪われ、すっと背筋を伸ばした美しい座り姿に釘付けになりました。 
次に、質問する人が真っ直ぐに師を見つめる表情が印象に残りました。 
そして、質問に対して丁寧に答えられる師の優しいお顔と心地良く響くお声にどんどん惹きつけられていきました。 
また、師と質問する人との間には、何か強い結び付きのようなものがあるように感じました。 

問答を聞いているうちに、ヨーガの教えというのは哲学的なものとして存在する難しいものではなく、日々生きていく上で支えとなるものなのだと気付き、師に尋ねました。 
「人の役に立ちたいと思うのはエゴですか?」 
「純粋な信仰を持ってするならば、可能です。純粋にそれを想うことができたら、素晴らしいこと。崇高なものとなります。」 

「純粋な信仰」という言葉が強烈に胸に刺さりました。 
人の役に立てるようになりたいと思っているのに、私は「純粋」ではなく、「信仰」もないことに気付いたのです。そして自分の中に見て見ぬふりをしてきた問題があり、それが苦しみとなっていることを自覚しました。 
翌日も師にお会いする機会があり、私は立て続けに質問をしました。苦しみを一刻も早く解消して、本当に人の役に立つことができるようになりたくて、「純粋な信仰」が何なのかを知りたくて、必死だったのだと思います。 
師のお答えの中には、聞いた瞬間に受け入れ難い言葉がありましたが、師の穏やかに微笑まれているお顔を見つめていると受け入れることができて、「やってみます」と素直に返事をしていました。 

そんな風に誰かに対して素直になったことがなかったので、自分が自分ではなくなるような感覚でした。その感覚に戸惑いながらも、師に「やってみます」と言ったことを一つずつ実行していきました。 
日に日に私の中で師の存在は大きくなり、抱えていた苦しみは少しずつ消えていきました。 

グルバイの話を聞くと、理由や時期は様々ですが、皆目に見えない糸に導かれるようにヨーガに出会っていると感じます。 
それは私たちの中にすでにある真実が、真実そのものを体現している師に惹き付けられているからだと思います。 
初めてサットサンガに参加した時に感じた、師と質問する人との強い結び付きは、ともに永遠に変わることのない真実の存在であることを感じたからかもしれません。 

今は、人の役に立つことができるかどうかは気にならなくなりました。 
純粋に師のことを想い、同じように目の前の人のことを想い、行為したい。それが願いです。


近所の河津桜が次々と咲き始めました

ハルシャニー  


わが師

1896年2月24日、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダはニューヨークで「わが師」という講演をされています。
この講演の中でヴィヴェーカーナンダは、師であるシュリー・ラーマクリシュナに出会った時のことを語られています。

「初めて、私は、自分は神を見ると言い切る人を、宗教は感じることができるところの、われわれがこの世界を感じるより遥かにもっと強烈な形で感じることができるところの、実在である、と言い切る人を見出したのです。(中略)そして実際に、宗教は与えられ得るものであることを見たのです。ひと触れ、一べつが、全生涯を変えることができるのです」

シュリー・ラーマクリシュナと触れ合い、その真実を感じた人から発せられた言葉は、どれほどのリアリティを持って聴衆に響いたことでしょうか。その場で話の内容の全てを理解はできなくても、心の奥深くに強烈な印象を残したに違いありません。
シュリー・ラーマクリシュナの生涯は他の本でも読むことができますが、ヴィヴェーカーナンダが講演されたその光景を想像しながら読むと、その力強い姿、輝く姿が想起され、心が湧き立ちます。きっと瞳は輝き、声は美しく響いたのだと想像します。

サルヴァーニー


『マハーヨーギーの真理のことば』を読んで

松山で幼いお子さんの子育てをしながらも毎週ヨーガ・サーラ・スタジオに熱心に通われている井上さんから本のご感想をいただきましたので、掲載します。

この度は、『マハーヨーギーの真理のことば』を世に送り出してくださり、ありがとうございます。

これまで『ヨーガの福音』『悟り』を愛読してきました。『ヨーガの福音』は美しい詩集のようで、カバンに入れて持ち歩いています。『悟り』はもう少し深くヨギさんの言葉に触れたい時に読んでいます。そして、『マハーヨーギーの真理のことば』はヨーガをより深く探究していく上で、必携の書となりそうな予感がしています。

最初はまず表紙のインパクトに驚きましたが、眺めているうちに、完璧な写真の凄さを、徐々に感じ始めています。日々、心がぶれそうになった時に表紙を眺めると、集中力がよみがえってくるのを感じています。

内容はとても膨大なので、まだ全ては読み切れていませんが、目次から興味を惹かれたページを読んでみたり、パラパラっとめくって目に入ってきたページを読んだり、クラスで紹介されたページをもう一度家でじっくり読んだりしています。どの言葉からもヨギさんの限りないパワーを感じ、心の奥深くまで届いてきます。

私はまだ、先輩方のような所にまでは辿り着いていませんが、この本がヨーガを深めていく上での、確かな指針になると感じています。この本を通して、どんなヨギさんの言葉に出会えるかワクワクしています。

井上江理  


『マハーヨーギーの真理のことば』~真理・真実在、悟りとは何かを知りたい方へ〜

待望の『マハーヨーギーの真理のことば』が発売されて約2ヵ月が過ぎました。皆さまは今どのあたりを読まれていますか? 「面白くてあっという間に読んでしまった!」という方や「じっくり味わって読んでいます~」という方、さまざまだと思います。そこで今回、私の方からは「第二章 真理・真実在」のレビューを書かせていただきます!

きっと多くの人が一度は「自分はなぜ生まれてきたのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」とか、「自分ってなんだろう?」「神様や仏様って本当にいるのかな?」と考えたことがあるのではないでしょうか。もしかすると、今このブログを読まれているということは「この世界、宇宙の本質とは?」「悟りとは一体どういうことなのか?」という、ヨーガ的な疑問を持たれている方もおられるかもしれません。

私が子どもの頃、目の前に広がる世界はたくさんの不思議で満ち溢れていました。成長し、大人になってからも、その時々で形を変えながらそれらは常に私の中にありました。あれやこれやと忙しい日々を送っているうちに月日はあっという間に過ぎていきましたが、ある時転機が訪れました。私は子育てを通して、再びこの世界への疑問に直面することになったのです。「すべての根源、宇宙の理(ことわり)、真理とはなんだろう?」ーー私はその疑問からもう目をそらすことができなくなりました。

この世界の真実を知ろうとしない人生に何の意味があるのかーーそう思い始めた頃、私は師シュリー・マハーヨーギーと出会い、師が語られるヨーガの教えの中にすべての答えを見つけることができたのです。第二章は、私のように子ども心の不思議さを持ち続けている方や、“悟り”“真理”とは何なのかを知りたい方に特に読んでいただきたい内容がギュッと凝縮されています!

第一節 生と死の理では、生きとし生けるすべての生命と私たちの魂の秘密について明らかにされています。第二節 ブッダの教えでは、ブッダが啓かれた悟りとそれに至る道である四締八正道について、第三節 アートマンの真理では、アートマンと呼ばれる生きとし生けるものの本質、また宇宙の開闢(かいびゃく)と神について解き明かされています。そして、第四節 悟りでは、私が憧れ目指す悟りの境地について説かれていて、今回その教えの一つを紹介させていただきます!

真実の体験

一切の心の働きが停止した時、その時に突如として、まるで稲妻のように真実が顕わになる。それを体験する。その体験はこの日常の経験や夢の世界などのような儚いものではなくて、実にリアリティそのものなのです。その真実が誰もの、また万物、この全宇宙の本質に他ならない。

シュリー・マハーヨーギーは、古代から続くヨーガの叡智をとても分かりやすくシンプルに説いてくださいます。きっと、皆さんの疑問の答えも見つかるに違いありません! どうぞ、ワクワクした気持ちでページを開いてみてくださいね。

東京土曜日代々木クラスの後に、よく皆で熱くヨーガトークスをしているカフェのテラス席にて

シャルミニー


マハーヨーギー・ミッションのInstagram

ミッション公式のInstagram(インスタグラム)が始まりました。今は、それぞれ自分に合う方法を使って情報を得られる恵まれた時代だなぁと思いますが、その方法の一つにInstagramがあります。そこで、少しでも多くの方に真理の教えやヨーガを生きるということについて、ご縁を持っていただけばとInstagramはスタートしました。

新刊『マハーヨーギーの真理のことば』からの教えを、マハーヨーギー・アーシュラマや、アーシュラマに由縁のあるお花や、美しい自然の写真などと共にお届けしたり、またクラスに纏わるコンテンツ、旬のお知らせなどもアップしていきたいと計画中です! 秘蔵写真もお目見えするかもしれません(!)ぜひご覧いただき、フォローしてくだされば嬉しいです。

「見る、という行為はフィルターを通さずに直接に心に届く」と師からお聞きしたことがあるのですが、Instagramは、写真や動画をまさに見ることが中心のSNS。
仕事の休憩時間や家事の合間のひとときに、心に静けさを感じたり、胸の奥の真実を思い起こしたり、自分をリセットしたりできる機会となれば・・・。

情報が溢れかえり混沌としている中でも、古(いにしえ)より伝えられてきた永遠の真理を悟るためのヨーガの道を、その一筋の光を、純粋に発信していければと願います。
師がお伝えくださっている真のヨーガが多くの方に届くよう、ぜひみんなで一緒にMYMのInstagramを盛り上げていけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします! 

Instagram-image

Instagramのプロフィール画面の上に並んでいる丸いアイコン(ハイライト)の「書籍」をクリックすると・・・『マハーヨーギーの真理のことば』の案内が出てきます。その画面の右下にある♡マークを押していただくと、見たよ!いいね!という意思表示で、MYMのInstagram管理画面には、♡ハートがたくさん届きます~! 皆さんの画面からはその様子をご覧いただくことができないので、ぜひここでご覧ください。 こんなふうに師へハートマークが・・・届きます。

Instagram
Instagramアカウント:@mahayogi.mission
https://www.instagram.com/mahayogi.mission/

 

ナリニー  


アーサナの力

“アーサナは堅固で快適でなければならない”

アーサナとは坐法のこと。あらゆるアーサナは、堅固で快適な状態で座り続けられるようになるために行います。
堅固とは、心がしっかりと定まって動かないことだと、昨年先輩グルバイから教わりました。

ヨーガでは、プラーナ(気)を制御することによって身体や心の動き、そして呼吸を制御していきます。
呼吸と心は密接に関わっており、呼吸が止まると心も止まります。
アーサナにおいては一つの形の中で、まず身体の動きを制御し、次に呼吸を制御していくことによって、心が制御されます。

私がアーサナを始めたのは、通っていた鍼灸学校の先輩のクラスがきっかけでした。
元々股関節と腰に痛みが出やすかったのですが、当時は怪我の影響で膝も痛く曲がりづらい状態で、特にバッダコーナ・アーサナでは上体を倒すと膝の違和感が強くなり、形を深めることができませんでした。それでも行うと腰と股関節に効いている気がして、好んでやっていました。

半年ほど経った頃、初めてMYMのクラスに参加しました。
最初に行ったのがバッダコーナ・アーサナ。それまで参加していたクラスとは異なり、静まり返った雰囲気の中、少しずつ形を作りました。膝に多少の痛みを感じつつも、「しっかりと息を吐ききるように」との声に、ひたすら息を吐くことを意識しました。呼吸する度に身体の感覚がなくなっていくようで、いつもよりも形が深まっていきました。
身体の内側では強烈な刺激を感じ、時間が止まったような気がしました。
「戻して」の声でゆっくりと上体を起こすと、頭がぼーっとしていて、その後のことはあまり覚えていません。おそらく心や感覚が制御されたことで、痛みに囚われずにアーサナできていたのだと思います。
アーサナの形自体はこれまで行っていたものと同じなのに、呼吸を意識することでこんなにも違うのかと驚きました。
MYMのクラスに通うようになってからは、膝の状態は改善して身体の調子も良くなり、バッダコーナ・アーサナをしても痛みや違和感がなくなりました。
それでも長時間座る時は必ず足や腰が辛くなっていましたが、アーサナを毎日行ううちに少しずつ座れるようになりました。
アーサナができない時には、背骨を真っ直ぐに伸ばした姿勢で座るだけで、呼吸が落ち着くことに気付きました。また、クラス受講中に頭痛がひどくてアーサナできなくなった時には、座り続けるうちに痛みが和らぎ、クラスが終わる頃に楽になったことがありました。
座る形を作るためにアーサナがあるのだと納得し、身体を癒す力もあるのだと実感しました。

最近は年齢による身体の変化もあり、腰や股関節に違和感と痛みが出ることがあります。
一通りアーサナをするのが困難な時でもバッダコーナ・アーサナを行い呼吸を繰り返すことで、違和感や痛みに囚われなくなります。
いつまでも吐き続けられるような感覚になり、吐き切った後の自然に呼吸が止まった状態が平安で心地良く、ずっとこのままでいられたらと思うほどです。

身体、呼吸、心が制御された状態の中では、心でも体でもない、本当の自分だけが在ることを体感するから、無呼吸の状態を平安で心地良く感じるのではないかと思います。

アーサナは坐法。
師がお座りになるお姿は本当に美しく、坐法が堅固で快適であることを私たちに見せてくださっています。

そうなるための基礎となるアーサナの大切さを感じています。

美しい坐法が描かれているタペストリー。
ずっと見つめていると瞑想しているような感覚になります。

ハルシャニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』“何のために生きるのか”

あるドラマのタイトルの「どうする」というワードに惹かれて最近初めて歴史ドラマを真剣に見ました(笑)。命懸けで戦っていた戦国武将が、どういう事に迷っていたのか?その時どのように決断をし、人生を切り開いていったのかを知りたかったからです。
主人公が戦で窮地に追い込まれた時、「厭離穢土欣求浄土」――穢れたこの世を離れて極楽浄土へ行くという教えに従い、自害して命を断とうとする場面がありました。しかしその後、この教えの本当の意味は、穢れたこの世を浄土にすることこそを目指す、ということだと知り、生きる道を選択します。その場面を見て私は、まさにこれはヨーガに出会う前までの自分と、ヨーガに出会ってからの自分・・・と思えて、『マハーヨーギーの真理のことば』の「天国と地獄は人の心の中にあるものです」の言葉が浮かびました。(※第一章、第五節「真の自由と強さ」)
「何のために生きるのか?」ドラマの主人公も、私も、その目的を見いだせたから、瀬戸際で生きる決断を下したのだと思えました。昔も今も、人は普遍的な真理のことばを求め、それによって生まれ変わることができるのだと感じました。

また、先日の成人の日のニュースで、晴れ着姿の二十歳の人が「どういう大人になりたいか」のインタビューに答えている姿を見て、当時の心境をふと思い出しました。子供の頃から将来どうなりたいのか?どんな大人になりたいのか?どんな職業に就きたいのか?なかなかイメージや答えを見つけられず気付けば二十歳でした。その都度、精一杯考えた無理矢理な答えを当てはめながら・・・世間でうまく生きていくためには自分に無理をしないといけない、それがある意味、立派な大人になるということだとも思っていました。無理をしているから、しんどくて、本心は何もしたくない、ずっと寝ていたいと思っていました(!)。

『マハーヨーギーの真理のことば』のページをめくると、第一章、第一節、いちばん最初にこうあります。

自分の運命は自分で切り開いていくものです。
心次第で未来はどのようにでもなります

何かへの依存や甘えが、迷いを作り出していると気付かされます。全てが自己責任だと腹をくくれば、そこで迷いは断ち切れるのだと思いました。迷いがあるから、無理をして苦しむ。そういえばドラマの中の戦国武将も、迷いが断ち切れたとたん無敵の勇者になっていました(笑)。

本書のまず第一章には、この世の中で不自然な無理をせず、本当の意味で楽になって生きていくためのヒントがあります。 

師シュリーマハーヨーギーは、私がまだ二十代だった時、単純に、こういう大人の人に成りたい!と心から素直に思えた唯一の大人の方でした。社会の歯車の中で生きる意義を感じられず、離島などで自給自足暮らしをする願望を持っていた頃でしたが、それが吹っ飛びました。混沌としたこの世の中でも、影響を受けずに真っすぐ生きる方法があるのかもしれない、と感じたからです。師の生き方に理想を見て、師からヨーガを学んでいた先輩たちは、それを予感させるほど生き生きとして凛としていました。もう、それまでのどんな遊びも、どんなコミュニティも、どんなライフスタイルも魅力的には思えなくなり、あぁ、こんなふうに自然に生きる人になりたいと、そう思える年上の方に出会えたことが人生を転換させました。理想とできる姿や生きる目的が見えたら、人はどんな環境下にいても、信念からブレずに上だけを向いていられるのだと思います。きっと本書との出会いは人生を変えると思います。

第一章のなかで、何度読んでも熱いものが込み上がる箇所があります。二十歳の私はこれが聞きたかった。あの時の私のような人へ、これから生きていくあなたへ、ヒントがありますように。

第一章、第一節「自らの生き方に責任を持つ」より。

――娘を連れてきました。十七歳です。

何か将来、理想とか希望とかをお持ちでしょうか。

――いいえ。

(微笑まれて)実は私もなかった。十七歳の頃はね。多分そうだろうと思ってこういう質問をしたのです。
その時私はこう思った。この見渡す世間には自分の目指すものは何もない。また参考になるものも何もない。しかし、間違いのないことは、今、自分がこの肉体を持って生きているというこの事実です。自分がどのようになっていこうが、自分で自分を決めていく、そういうふうに決意しました。つまり良いことも悪いことも、何が起ころうとも、それは全て自らの責任だということです。もちろん悪い結果は作りたくありません、苦しむのは嫌ですから。かといって何もしないわけにはいかない。そうして何か自分にとって、自分のために良いことをしていくようにしました。もちろんそれがその先、結果をどう迎えるかも自分次第です。自分の責任です。うまくいかなければ自分の努力が足りなかった――そうすれば、更にもっと工夫をして努力をする。自分は自分から逃げ出すこともできないのです。自分を救い出すのは自分しかいないのです! だからこそ自分を高めて、自分をより良くして、自立していく――それをまず、理想としてください。 

将来どんな職業に就こうが、どんな生活をしようが、そんなことはあまり関係ないと思います。それらも全て自分の行なってきた行為の結果が現れるでしょうから。そして自分の内奥(なか)に、本当に尊い存在が在るということを信じてください。神は雲の上にいるのでも、宇宙の果てにいるのでもない。あなたの胸の中にいます。それは不滅の存在であって、純粋な意識のことです。それが誰もの本質なのです。そのことを知らないから、人々はみな苦しんでいるのです。何も興味がなければ、せめてこの単純なことだけでも実現してください。

マハーヨーギーの真理のことば-up

 

ナリニー  


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ①

マハーヨーギー・ミッション(MYM)から発行している『Paramahamsa』(パラマハンサ)という会誌があります。ここには、師シュリー・マハーヨーギーの教えがぎゅっと詰まったサットサンガ(師と弟子の問答)をはじめ、聖者の紹介、弟子の実践・体験談、MYMの活動報告など、多くの記事を掲載してきました。
今ではWebにて配信していますが、1997年5月〜2021年3月(No.144)までは、会員の皆さまに紙面の『Paramahamsa』をお届けしていました。
私は、初期の頃から中程まで、表紙に絵を描かせていただいていたことがありました。

今回から、それらの表紙絵についていくつかご紹介していきたいと思います。

私は美術系の短大に通っていたこともあり、学生の頃は日々絵を描いていましたが、卒業してからの約10年間はちゃんとした絵を描くことはありませんでした。それは描きたいものがなかったからです。

そしてヨギさんの下へ通うようになってから、ヨギさんから、細密画というインドの伝統的な絵のことを教えていただく機会がありました。いくつか流派がある中でも、特にカングラ派の絵は美しいとご本を見せていただいたのです。「綺麗!」その筆使いの繊細さ、落ち着いた絶妙な加減の色彩の美しさに一瞬で惹かれました。そこから自分でも本屋や図書館に行って調べたりしていく内に、ヨギさんに捧げさせていただく細密画を描いてみたいと思うようになったのです。

その第1作目が今回の絵になります。
これは1998年の御聖誕祭でヨギさんに奉納させていただきました。ヨギさんは包み紙を開けてこの絵をご覧になると、「シャチ、こんなんも(こんな絵も)描けるんやな」と、当時落書きみたいなイラストばかり描いていた私に、ニッと笑っておっしゃいました。そして「パラマハンサの表紙にしたらいい」と。
ただヨギさんに喜んでいただきたい! そんな思いだけで見よう見まねで描いた細密画風絵でしたが、そこから私の表紙絵を描く時間は始まったのでした。

1999.1.10発行 B5サイズ、モノクロ、約20ページ

表紙絵第1作目の下には、アーナンダマーリーの言葉をお借りしました。 

無形の神はわれわれと同じ姿を借りて
ご自身をお顕しになり
われわれを惹きつけ魅了する
ただ一重にわれわれを悟りへと導いていらっしゃるのだ!

*2023年1月20日配信のWeb版Paramahamsaにて、このイラストを紹介していただきました。

シャチー