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大いなる真剣さで実践し、堅固な基礎を持つ

 

〝修習は、長い間、休みなく、大いなる真剣さをもって励まれるならば、
 堅固な基礎を持つものとなる”   
 

『ヨーガ・スートラ』第1章-14 

アーサナ・クラスに通い始めたばかりの頃、『ヨーガ・スートラ』という聖典があることを知りました。読むと、見慣れない言葉が並んでいる中で、この一節がすっと目に入ってきました。 

当時、鍼灸の技術を身に付けるための基礎訓練がうまくいかずに悩んでいたので、惹かれたのだと思います。この言葉の通りにやればしっかりと基礎的な技術が身に付くかもしれない、と、実践してみることにしました。 
諦めそうになったらこの一節を読む、それを繰り返すうちに気付いたのは、長い間休みなく続けることは比較的実践しやすいけれど、真剣さをもつのは、そう簡単ではないということです。元々あった思いをもっと強くして、退路を断つ思いでひたすら練習を続けることで、次第に訓練することが日常生活の一部となり、少しずつ技術を習得していけたように思います。
 

数ヶ月前、ふとしたことをきっかけに、この一節を思い出しました。 
今私はこの一節の通りに実践できているだろうか。アーサナ、瞑想、仕事…長い間休みなく続けてはいるけれど、大いなる真剣さをもって臨めているか? 
「大いなる真剣さ」とは何なのか? 

悟りへの道はカミソリの刃をわたるようなものだと言われますが、「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないかと思い至りました。 

私にとって悟りとは、師です。悟りへの道を歩むということは、師に少しでも近づいていくために一歩一歩進んでいくということ。 

師のように、ただ他者への愛ゆえに、いついかなる時も誰に対しても、優しさを持って行為できるようになるには、私も悟らなければなりません。それがどんなに難しくても、師が私にしてくださっていることを同じように誰かにするためには、悟りを目的地として進むしかないのです。 

そして、私には治療をする上での理想があります。 
師の目で見て、師の耳で聞いて、師の口で語り、師の手で触れる。 
「あなたの中にも真実がある」 
私が関わる全ての人に少しでもそれを感じてもらうために、外側から見える姿形は私であっても、内側は全て師に明け渡して、師のみがおられる状態であり続ける。 

そうなれるように、あらゆる行為に対して「大いなる真剣さ」もって励み、堅固な基礎を積み重ねて、悟りへの憧れをもっともっと高めて向かっていきたいです。 

ハルシャニー


真理を愛す

バクティ・ヨーガは「感情も五感も全てを愛する神に向け、愛そのものである神との合一を果たす」と表現されていて、ヨーガを学び始めた頃、私はこの強烈なイメージに漠然とした憧れを持っていました。何となく魅力的だなとしか思えなかったのは、瞑想の対象は神というよりも真我や真理の方が集中しやすく、神に瞑想するということがどういうことか私にはピンとこなかったからです。
もう何年も前のことになりますが、それまで誰かを好きになるとか愛するという感情に縁なく(興味なく?)生きてきて、グルバイ(仲間)が嬉しそうに「ヨギさん(私たちの師)の夢を見た」と話しているのを羨ましく思い、「あぁ、私にはバクティがないのだろうか」と不安が募り、勢い余ってヨギさんに尋ねたことがありました。この時、ヨギさんは何も仰らずに、静かに微笑んでいらっしゃるだけでした。何か答えてくださるものと期待していた私は拍子抜けして、それ以上尋ねることもできないまま、もやもやした思いが心の隅に残ったのです。
その後の数年間はキールタンを歌う機会やバクティ・サンガムに参加することで、少しずつ神に触れ学ぶ時間も持てましたが、結局それ以外の時間は神を忘れることが多くて、その存在を身近に感じるという実感はあまり持てなかったように思います。

けれど少し前からバクティ・ヨーガへの憧れが次第に強くなってきたのです。ちょうど瞑想専科のバクティ・ヨーガ編が始まり、この講座で多くの仲間と学べたことは大きな支えとなりました。日常生活で神を忘れることはしょっちゅうでしたが、そのたびに思い出すの繰り返しです。課題の聖典とともに、大好きな本である『悟り』の中のバクティ・ヨーガに関する記述も何度も読み返したりしていました。そうしていくうちに自然に神を思う時間も増えていき、いつの間にか、自分にはバクティがないのでは、という思いは消えていました。そして『悟り』の中のある箇所が目に飛び込んできました。

「クリシュナという神の化身を普遍の神に置き換えてもよろしい。アートマンでもいい。またブラフマン、真理に置き換えることも可能です」

そうか、神を愛するとは真理を愛することでもあるのだ、それならすごく分かる。今まで何回も読んでいたはずだったのに、初めて目にしたような言葉でした。
かつて質問をした時に、ヨギさんが答えてくださらなかった理由が今なら分かります。言葉で説明されたなら、きっとそれに執らわれてしまっていたでしょう。
それよりも、「バクティは既に、その胸の奥にあるよ」と伝えてくださっていると感じます。

祭壇のヨギさん。 私もいつも笑顔でいたいと思います。

マイトリー


置かれた場所で生きる

風の中の落ち葉のようにこの世に生きなさい。そのような葉はあるときは家の中に、あるときはごみの山に吹きやられる。木の葉は風の吹くままに飛んで行く…ときには良い場所に、ときには悪い場所に。いまや、神がお前をこの世におおきになったのだ。けっこうなことだ。ここにいなさい。また、彼がお前を持ち上げてもっと良い場所に置いてくださったら、今度はどうしたらよいかその時に考えても十分に間に合うことだ。

神がお前をこの世においてくださったのだ。そのことについてお前に何ができるのだ。彼に全てをお任せしなさい。彼の足下に自分をささげきりなさい。そうすればもう困ることはない。そうしたら、いっさいのことを行うのは神だ、と悟るだろう。すべては「ラーマの思召」にかかっているのだ。”

                       『ラーマクリシュナの福音』より抜粋

 

 木などの植物は自ら動くことはできませんが、生命を繋ぐために種子をつくり、その場に落下したり、鳥など動物が食べることで新たな場所に運ばれたりします。その場所で芽を出し、葉を茂らせ、時期が来ると枝から離れ、そこに留まるものもあれば、雨や風などによって遠くに飛ばされるものもあります。
天候や環境がどうであろうと身を任せ「置かれた場所で生きる」植物からは、逞しさ、あるがままに全てを委ねて生きるしなやかさを感じます。

人の場合はどうか。
風に舞い上げられた木の葉のように飛んで行った先が、良い場所であれば感謝し、悪い場所であれば不満を持つ。
置かれた場所やそこで起きる出来事によって感情が揺らいでしまう私たち人が、植物のようにあるがままに生きるには、何が必要なのでしょう?
それは謙虚さではないかと思います。
この一節を繰り返し読み、ラーマクリシュナが神を熱烈に愛し全てを任せられたのは、ご自身をより小さな存在として神に捧げきる謙虚さが必要であることを、示してくださっているように感じました。
読む毎に、ラーマクリシュナの限りない優しさと強さに圧倒され、この言葉を素直に信じて生きていきたい、強く思いました。

それにはまず、私たちが日々考え行動する力も何もかも、神から与えられたものだということを知ること。そうすれば、自ずと今その場にあることを感謝し、謙虚でしかいられなくなる。

自分のものなど一つもなく、全てが与えられたもの。
この感謝の想いを一瞬も忘れることなく、置かれた場所で神に自らを捧げきりたいと思います。

写真/侘助(ワビスケ)が咲く姿からも、謙虚さを感じます

ハルシャニー

 

 

 

 

 

 


本当の自分は何があっても変わらない

国立市にある谷保天満宮の梅。梅の花が咲き始めると、いよいよ春が近づいてくる感じがします。
 

〝…私というのは何者であるのか。そう、私というのは変わらないのです。身体の状態がどうであ れ、世界のありさまがどうであれ、また心がどういうふうに反応しようが、それらを全て、ただ知っている、見ている——そういう意識のことです。もちろんそれは自我意識ではありません。自我意識というのは自己と他を区別する自己中心的な意識のことをいいます。それは心の領域のものです。心を造り上げている一つの大きな柱です。本当の私というのはそれをも知っている、さらにその奥にある意識のことです。
本当に不思議なメカニズムですけれども、誰もが私という自分を意識しているに違いないのですから、自分が自分を知らないということはないはずです。でも今言ったような、心と真我の意識との区別——別ものであるという——これがはっきりと識別されれば、一切の迷いや悩みは解消していきます。学ぶべきことはそれです。そしてそのための具体的な方法が瞑想であり、またそれを調えるために呼吸や身体を調節していくわけです〟

『悟り』より抜粋
 

私は見ている意識のことを初めて知った時、なんて面白い考え方なんだろうと興味を持ちました。 理解するのに時間はかかりましたが、ヨーガを学び実践するにつれてそれは確かにあるのだと感じられるようになりました。
次第に、その見ている意識が本当の自分であり誰もの中にあるということを思うと、どの命も尊くて愛おしいと感じるようになりました。

これは私がヨーガを実践しているから感じられるようになったのか? ヨーガを知らない人たちには感じられないことなのか?

ふと気になるようになったある日のこと。高齢の患者さんと話していると、ご自分と同世代の方々のことをおばあさんと言っているけれど、ご自身のことはおばあさんと思っていないような口振りで、自分のことは年齢に関係なくただの自分として認識しているのかな、と感じました。
それからしばらく経ったある日、子育て中の患者さんが、「自分はずっと自分のことを知っているから、子供を産んだり歳を取ったりしていてもずっと同じような気がする」と話されました。
この2人の方の中にも「ただ見ている意識=何があっても変わらない本当の自分」が確かに存在しているという、証のようなものを感じました。
それがあると知らなくても感じているのなら、何かのきっかけでもっとはっきりと感じられるようになる可能性が誰にでもあるはず。

今世の中では、他者との違いを見て区別や差別をする傾向が強まっているように感じます。それぞれの信念を貫き通すために他者を傷付ける言動に及んでしまうケースも少なくありません。
1人でも多くの人が「何があっても変わらない本当の自分」を体感し、自分以外の誰もがそうであると感じられたら、思い込みや偏見のないまっさらな目で見て、囚われのない心を持って互いを愛おしむことができるのではないか。

身体の状態がどうであれ、世界のありさまがどうであれ、また心がどういうふうに反応しようが、 何にも影響されない変わらない自分がいる。 この真実があるということが今を生きる人にとって救いなのではないかと思います。

 いつまでも見続けていたくなるほど美しい『悟り』の表紙。

ハルシャニー


「働く」歓びをリスに学ぶ ~『ラーマーヤナ』より

ヨーガを学んでいると、ある時突然、ヨーガの教えが胸の中をサァーッと明るく照らしてくれることがあります。

昨年のバクティ・サンガムで「神への愛でハートが満たされた時、すべての行為は歓びとなる」というテーマで、聖典『ラーマーヤナ』が取り上げられたことがありました。『ラーマーヤナ』は、神の化身ラーマ王子が悪魔に連れ去られた王妃シータを取り戻すという物語ですが、ラーマとシータへの愛ゆえに力戦奮闘する猿神ハヌマーンは、西遊記の孫悟空のモデルともいわれ、ご存知の方もおられるのではないでしょうか。

『ラーマーヤナ』は本を読んで少し知っていたのですが、私はこの日のクラスで、物語の一場面に登場する小さなリスにインスパイアされました!
ラーマ王子が悪魔の住むランカ島へ渡る場面──。たくさんの生きものや水に住む怪物までもが、ラーマのために喜んで橋を作り始めました。そこへ小さなリスがやって来て、ラーマに「私に何かお手伝いすることはありませんか?」と尋ねました。そこでラーマは、リスに体に砂をつけて、それを石と石の間に落として橋をつなぎとめる仕事を頼みました。リスたちは喜んで一生懸命働きました。

(橋を作っている場面。楽しそうに働く生き物たちとラーマ) Made in Kangra,1850

私は、以前から「いつも神や師の道具となって働けますように!」と願っていたのですが、時々「こんなちっぽけな私に一体何ができるのだろう…。神の道具になるなんて、そんな大それたことが本当にできるのだろうか……」と、弱気になってしまうことがあったのです。
それがこのお話を聞いた時、「あぁ、このリスのようにただ素直にラーマ(神)に“私に何かお手伝いできることはありますか?”とお尋ねするだけでよかったんだ! そうすれば、神は私にできるぴったりの仕事を与えてくださる。いや、もう与えてくださっているはずだ!」と思いました。と同時に、“私”に何ができるのだろう……と考えること自体が“エゴ”であることに気が付きました。

純粋な愛の前ではエゴは消え去り、神への愛でハートが満たされた時、すべての行為は歓びとなる! それに気付いた瞬間、私の胸は歓びでいっぱいになり、涙が溢れました。

それ以降、心の中で「私に何かお手伝いできることはありますか?」と神に尋ねるようにしました。そして、自分の目の前にあることや起こることを小さなことであったとしても、神の大きな仕事の大切な一つとして愛をもって誠実に行為するよう、今まで以上に意識するようにしました。そうしているうちに、最近では不思議と以前のように弱気になることがなくなりました。そして、日常生活の中で「働く(行為する)」ことに歓びを感じることが自然に増え、心がまた少し軽やかになったような気がしています。

これからもリスの純粋さと素直さを忘れず、いつかハヌマーンのように神の道具として力強く勇敢に、海や山をひとっ飛びすることができますように!!!

シャルミニー


新年のご挨拶 2022年

皆さま、明けましておめでとうございます!
 
今年のお正月は厳しい寒さとなりましたが、それぞれの場所で気持ちを新たに新年を迎えられたことと思います。
 
元日の朝焼けの中の富士山

 

私は今年の抱負を「一つの物事に対して粘り強く取り組むこと」に決めました。
 
先月のブログに書きましたが、神の道具として使っていただけるようになるために、今私がやるべきことだと思ったからです。
神に自分を明け渡して委ねるという信念をもとに、目の前のことに丁寧に向き合い、じっくり考え、行為する。
そうやって繰り返し行なう中で、少しでも自分の理想に近づいていけるよう、より一層強い覚悟を持って生きていきたいと思います。

 

今年の正月花はいろいろな種類の菊を選びました。
季節を問わず見かける菊ですが、冬の菊からは凛とした強さを感じます。

 

2022年も、このブログ「ヨーガを生きる」が少しでも皆さまのお役に立てる場となれば幸いです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ハルシャニー


神の道具になるために必要なこと

 

”わたしは、自分が特別な資質を持っているとは思いません。

わたしはこの仕事に対して、何も要求していません。

これは神のみ業なのです。

わたしは、ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、

ほんとうに、ただそれだけです。

神がお考えになります。

神がお書きになります。わたしという鉛筆は、それに対して何もすることはありません。

鉛筆は、だた使っていただくことを、

許されているだけなのですから。”

※『マザー・テレサ 日々のことば』 女子パウロ会

 

私は以前からこの言葉が好きで、一切の私というものをなくして、神の手の中の小さな鉛筆になりたい、小さな道具として神に使って頂けるようになりたいと思っていました。しかし、マザー・テレサがどのような思いでこの言葉をおっしゃったのかを、きちんと考えたことがありませんでした。

今回、改めて考えてみると、マザー・テレサがおっしゃる、”小さな”とは、謙虚さを表しており、”ただ神の手の中の小さな鉛筆に過ぎません、ほんとうにただそれだけです” という境地には、謙虚さを徹底することが必須なのではないか、と感じました。

その上で、いついかなる時も神に全てを委ねる、覚悟を決めること。

そこには自分の思いなど微塵もない。
ただの道具として神に使って頂くというのは、あらゆる局面で、神に完全に自分を明け渡して委ね続けるということなのではないかと思いました。
この信念のもと、強い覚悟がなければ、使って頂ける道具にはなれない。

では、マザー・テレサはどれほどの覚悟を持ってただ使われる鉛筆になったのか。
今の私にはその大きさ、強さは計り知れないものに感じられます。
ただ、マザー・テレサに憧れる思いはこれまで以上に大きくなりました。もっともっと近づいていきたいと思いました。

苦しんでいる人がいたら手を差し伸べ寄り添う。お腹を空かせている人には食べ物を、愛に飢えている人には愛を与える。

マザー・テレサが目の前の人々に行為され続けたように、私も目の前にいる人に対して一つでも行為し続けていきたいと思います。

*写真:一時期、事あるごとに眺めていた写真です

ハルシャニー


プラティヤーハーラ

師の教えが書かれた「ヨーガの福音」を通勤電車で読んでいました。プラティヤーハーラについて書かれていました。一心に読み進めてふと目を車窓に向けると見慣れない風景が。電車、乗り過ごしていました。車内では確かに駅名がアナウンスされ、私の耳はそれを捕らえていたはずです。しかしその情報は意識に伝わりませんでした。好きなことに夢中になって他のことが目や耳に入らないのはよく経験することですが、これはプラティヤーハーラなのかと疑問がわきました。

五つの感覚器官がすべて外向きに付いていて、
心は常に外部の影響を受けてしまいます。
したがってプラティヤーハーラでは、
ちょうど亀が頭や手足を引っ込めるように、
五つの感覚器官と心を引き込め、制御します。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

耳・皮膚・目・舌・鼻などの感覚器官が引き寄せた音・触感・見たもの・味・匂いなどに、心が反応しないように制御する。とらえどころのない「心」の働きを、このように機械的に分解していくヨーガの教えが私はとても好きです。様々な感情に心揺れる時に、「これは感官が捕らえた情報に心が飛びついているだけだ」と思うと気持ちが少し楽になるからです。

私は仕事から帰宅すると夕食前にアーサナをすることに決めています。でもいつもより疲れて帰宅し台所から好みの献立の匂いがすると、心は夕食の方に引き寄せられていきます。聖典の一冊読了に取組んでいても、面白そうな単行本の広告に目移りします。家の隣のコインパーキングで車のエンジン音が続くと「苦情をいうべきか」と心拍数が上がります。職場で職員が深刻そうに電話をしていると、過去のトラブル対応が蘇り不安な気持ちになります。

五感覚器官と意(マナス)は全く無防備で、
いとも簡単に対象に引き寄せられます。
プラティヤーハーラとは「諸感官をその対象から引き戻す」ことであり、
いわば酒飲みが酒に飲まれるがごとく、
感官に服従し対象に隷属化する心を、反対に心が主導権を握り、
感官を支配する構図に切り替える作業です。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

私の心は嬉々として餌に飛びつくカエルみたいだ。どうしたら師が教えて下さっているように心が主導権を握ることができるのだろう。師の教えをあてがって考えてみると、心が動く時は必ず過去の経験や記憶に基づいた対象への執着や嫌悪があることが分かりました。心に刻み込まれた様々な印象をヨーガの修行を通して焼き尽くしてしまいたい。でも怒ったり、笑ったり、泣いたり、人生悲喜こもごも。それが人間らしさではないのかな。師はその疑問にも答えを下さいました。

(夏の安曇野で見つけたカエル。ぴょんと飛びついてきました)


「感情がなければ人間ではない」という考え方こそが無知です。
感情というものは心の煩悩から出てくるものです。
修行が深まれば感情は大きな慈悲となります。
それはもはや個人的感情とは呼びません。
そのエゴ的な感情を普遍的な感情にしてください。
シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

移ろいやすい感情を揺るぎない神の愛に昇華させるために、「神が愛である」ことを素直に受け入れ、人生をかけてそれと一体になることだけを求めていきたい。いつどこにいようとも師が無私の愛で私たちを包んでくださっているように、私も献身奉仕のために命を用いることができますように。

(代々木クラスの後に明治神宮に行ってみました。
揺るがぬ心で真っ直ぐに歩んでいけますように)
 

小菅貴仁


御聖誕祭に向けて

今年も敬愛する師の御聖誕日がすぐそこに近づいてきました。

昨年に続きオンライン開催となりますが、それぞれの場所で歓びを感じながらその日を待ち望んでいるグルバイ(兄弟姉妹弟子)の姿が目に浮かぶようです。

 この時期になると、私はいつも御聖誕祭の様子が書かれたパラマハンサを読み返します。
どの祝辞も一人一人の師への想いと、真理への道を歩む決意に溢れていて、胸が熱くなります。

 私は2009年の御聖誕祭に初めて参加したのですが、当時はまだそれがどういうものなのかよく分からず、次々と述べられる祝辞に、ただただ圧倒されました。目の前におられる師は時にこの上なく優しい微笑みをたたえられ、時に大笑いをされ、温かい眼差しを皆に向けられていました。

師のお顔も、皆の顔も、キラキラと歓びで輝いていました。

最後に祝辞をされた先輩グルバイが、祝辞の中で詩を捧げられました。

 ”この目はヨギを見るためだけにあり、この鼻はヨギの香りを楽しむためだけにあり、
この耳はヨギの声を聞くためだけにあり、この口はヨギの御名を唱えるためだけにあり、
この手はヨギに礼拝するためだけにあり、
そしてこのハートはヨギの尊い御足の気高い塵をいただくためだけにある。
この命はヨギによって光り輝く…
ヨギだけが在る。
一切はマハーヨーギーなり。”

この詩を聞いた時、私もそうなりたい!!と強烈な憧れが胸の奥から一気に溢れ出ました。

涙が止まらなくて、胸がいっぱいになり過ぎて、初めての感覚にどうして良いか分からなくなりました。今も折に触れてこの詩を思い出し、早くこの境地に至りたいと強く願います。

先輩グルバイの祝辞が掲載されているパラマハンサ。

 

”真実を悟るということ、私と不異(おなじ)に成るということを覚悟してください。それによって全ての物事は、できる限り運んでいくことになると思います。”

先日、臨時配信されたWebパラマハンサの中の師のお言葉に、身の引き締まる思いがしました。

これから自分が向かう先にある目標が、計り知れない偉大なものであること。そのあまりの尊さに、果たして自分にそれができるのか?という思いが顔を出します。

しかし、容易に到達できるものではないとしても、困難にぶつかったとしても、いつか果たせる目標であると信じ、真っ直ぐにヨーガの道を進むことが大切なのではないかと思っています。

私の体の全ての器官が師のためだけに機能しますように。私のハートが常に師の存在で満たされ続けますように。生きる意味を教えてくださった師のために、この命のある限り、師に倣い愛を持って他者に行為し続けられますように。

山梨県の栖雲寺(せいうんじ)にある大きなモミジの木。
木の真下にいると、モミジの葉を通した暖かい色の光が差し込んできて、
師の大きな愛に包まれているような気持ちになりました。

ハルシャニー

 

 

 


ミニアチュールに神を見る

『パラマハンサ』がWeb化されて3号目が9月20日に配信されました。コロナ禍でおうち時間が長くなり、外出先で見るよりは自宅のパソコンで閲覧することが圧倒的に多くなりました。コンテンツも増え、読むのも見るのも楽しい記事ばかりです。

その中でも、時間をかけて隅から隅まで味わうことのできるようになったミニアチュールといわれる細密画が掲載された「バーガヴァタ・プラーナ」は、楽しみな記事の一つです。神様や神話になかなか馴染めなかった私ですが、毎号、サーナンダさんの臨場感に満ちた物語の描写と細密画の見方について読んでいくうち、絵を通してそれらを身近に感じられるようになっています。

『パラマハンサ』№120より、懐かしいモノクロ印刷。当時はこれがカラーだったらどんなに美しいだろうと、もどかしく思っていました。

細密画の特徴として、1枚の絵の中に複数の場面が描かれるということを教えていただいた時、そんな描き方があるのかという新鮮さと同時に、1枚で紙芝居が完結できるとはなんて効率的なのだろうと感心もしました。視線を少し動かすだけで別の場面に入っていけるのです。Web画面は拡大することができるので、細部までじっくり見ていると、こんなところにこんなものがという発見もあって見飽きることがありません。あちこち拡大したり全体を見直したり、気が付くと画面との距離が10cm位になっていたりして。こんなに魅入られてしまう細密画の力はどこからくるのでしょうか。

きっと描き手は一心不乱に描くことだけに集中していたでしょう。描いている間、内面は神のことだけでいっぱいになり溢れるエネルギーに衝き動かされるようにペンを走らせる。誰かに何かを伝えたいという思いすら持っていなかったかもしれません。その神への強烈な思いが、見る者をいつしか描かれた世界に誘う。1枚の細密画の中にある物語の流れのまま、身を任せるように見ていると、それが過去のこととか異国のこととか関係なく、時間と場所を超えて実際に存在しているように感じられるのです。

漆黒の背景に鮮やかな衣装が映える細密画 。細密画を端末画面の壁紙にしている方も多いのではないでしょうか。

細密画には作者名や制作年などの情報はありません。以前の私は、いわゆる芸術作品といわれるものを鑑賞する際、誰が作者で、いつ頃どんな状況の下で作られたのか、必ず確認していました。そうしないと不安でその作品を信用することができなかったからです。初めて細密画を見た時には何の手掛かりもなく確かめることができなくて、落ち着かなかったことを覚えています。でも今は、作品に関する情報がなくても全く気にならなくなりました。
「バーガヴァタ・プラーナ」で、神と彼らのエピソード、細密画について基本的なことを教えていただいています。細密画には描き手の神への純粋な思いが込められている、ただそれを純粋に受け取るだけなのだと思います。そこには神のみが存在しているのだから。

マイトリー