投稿者「サティヤー」のアーカイブ

バクティ・サンガム キールタン

すっかり春!桜が満開になっています。バクティ・サンガムでは3月から新しいキールタンを歌っています。「Panduranga Vittale」(パーンドゥランガ ヴィッターレー) ヴィシュヌ神を讃えるキールタンです。4月、5月とこのキールタンを中心に歌っていきます。

神の御名を何度も何度も唱えるキールタンですが、御名に集中し、心を込めて歌っていると、突然心の奥から歓びが溢れ出す瞬間があります。先日久しぶりにバクティ・サンガムに来てくれたゴパーラも良い体験があったようですよ、ご紹介します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー私にとっては約3年ぶりのバクティ・サンガム。

  あなたがラーマの御名を唱える時

  百万の罪の記憶が消え失せる

  幾生涯の記憶は

  ラーマの御名の朗唱によって消滅する

 最近、中世のミーラー・バーイーのこの詩を目にして、「そんなことってあるのかな? もしそうなったら、それはいいな」と漠然とながら憧れのようなものを感じていました。

 この日のバクティ・サンガムは、キールタンのメドレーでした。会が始まってすぐ、「世俗の話も聞かなくていい、余計なことも考えなくていい。神だけを思い、それだけに浸れるこのバクティ・サンガムはとてもいいな~!」という思いが湧いてきました。

 会の前半、「ラーマとシーター」だけのフレーズの曲がありました。「なんてシンプルな曲なんだ!」と思い、歌い始めました。目を瞑って、ただただラーマとシーターの御名だけを歌いました。曲が終わった時、自然と涙が溢れていました。隣で歌っていたチャイタニヤさんも泣いていました。

 その後もたくさんのキールタンを歌いました。そしてミラバイさんが「次がラストの曲です」と言った時、「えっ、もう終わり!?」と思い、とても驚きました。

その時、自分が時間の感覚を失っていることに気付きました。瞑想に座っても、ここまで時間を忘れたことはありませんでした。

 百万の罪と幾生涯の記憶が消滅したのかは分かりません、でも神の偉大な力と、グルバイの力強い歌声とメロディーに包まれた「至福」のひとときでした。

ゴーパーラ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー誰でもが簡単に歌うことができるキールタン、初めての人も、久しぶりの人も、ぜひバクティ・サンガム にこの歓びを体験しに来てください。


さまらさの台所 パエリア

今月のさまらさの台所では、パエリアを紹介しました!

長ーーーい間、たっっくさんの方からリクエストがあったパエリア!やっと紹介することができました。ただのパエリアではありませんよー!これは私たちの先輩であるシャーンティマイーさんのレシピです。今回担当してくれたゴパーラも、さまらさ班のサラニーさんも私も、それぞれが別の機会にご馳走になったことがあります。何かの折にシャーンティーマイーさんが作ってくださるパエリアはとても美味しく、華やかで、食事をしたシチュエーションにも思い出があり、あんな風に作れるようになれたらいいなーという憧れのお料理でした。

参加者のみんさんからは、パエリアを習えることをとても楽しみにされていることが伝わってきました。開始から、調理、食事と終始、華やかなパエリアにふさわしく、歓びに満ち溢れる会でした!!

今回の会のテーマは「食事を楽しむ」、昨年から引き続きでゴパーラが担当してくれました。(毎回担当者がテーマを持って取り組んだ内容を話してくれます)当日話しをしてくれた内容を掲載します。

去年のさまらさの台所ではお弁当という形で、「旬をいただく」というテーマに取り組みました。旬をいただく中で、その旬の食物がもつ美味しさやプラーナから、大地のエネルギーを感じるようになり、「命の恵みをいただいている」という感謝の気持ちが自然と内から湧いてきて、食物が愛おしく、丁寧に調理する自分がいました。それからは、料理を作るのが楽しく、自分の作る料理が美味しく感じられるようになってきました。それまでは訓練として料理をしていたところがありましたが、「楽しんで料理を作り、いただく」というところに心が向かい始めました。今回のパエリアは、みんなでお皿を囲んで楽しく食べれるメニューということで、自分の今の心境にピッタリだと感じました。

 ただ、「楽しむ」ということを考えた時、みんなでワイワイと料理をいただくことも楽しいことの一つだと思いましたが、パーティーのように賑やかに食事することは稀で、普段の料理は割と淡々として地味なもののように思いました。そんな中、「日常の中で料理を楽しむとは何だろう?」と思いながら、今回のパエリアに取り組みました。

 そして今回、パエリアを作っている中で楽しいと感じたこと、それは「輝き」を感じた時でした。今回、パエリアのメインはあさりとホタルイカですが、タマネギも大きく切って一つの具材としていただきました。エリンギは小さく切りましたが、この小さい中に魚介の出汁の旨味が吸い込まれて、深い味わいを出していました。トッピングのパ プリカは火を通さず蒸らすことで、色鮮やかでシャキッとした食感になり、アクセントになりました。最初はシャーンティマイーさんにただ教わった通りに作っていましたが、自分で作っていくうちに、シャーンティマイーさんが食材一つ一つのことを思って作っていることが自然と感じられました。そして自分がこのように一つ一つの食材のことを感じながら作って出来上がったパエリアを見た時、それは輝いて見えました。その輝きに触れ、その料理をいただいた時、内からくる歓びのようなものを感じ、何だか嬉しい、楽しい気持ちになりました。

 この感覚は、去年から実践しているお弁当でも感じられました。私は今までは、「お弁当を作る時間がもったいない」と思っていて、お弁当は前の日の 残りを持っていくことがほとんどでしたが、去年のさまらさの台所でお弁当を担当した時、さまらさ班のサティヤーからは「朝に一品でも作ってみたらいいよ」と言われ、朝にお弁当の一品を作るようにしました。その時にサティヤーは、「私は忙しい仕事の中、お弁当を開けた瞬間が仕事中の唯一の喜び!」とも言っていて、それを聞いた時は「何か食いしん坊やな、それって食べ物に執着してるんちゃうの?!」と心の中で思ったのですが、実際に朝一品のおかずを作ると、お弁当が瑞々しくなり、その蓋を開けた瞬間、お弁当が輝いていて嬉しい気持ちになり、とても美味しい味わいだと感じることがありました。

 毎日の料理は淡々としているかもしれません、でもそんな中にもその輝きが 感じられると、嬉しい楽しい気持ちになるように思います。このさまらさを通していただいた気付きを大切にして、これからも食の恵みに感謝し、楽しい思いで日々の料理に取り組んでいきたいです。

                                        ゴパーラ



 


キールタン バクティ・サンガムへのお誘い

1月のバクティ・サンガムでは、これまで歌ってきたいくつかのキールタンでメドレーをしました。そして、曲と曲の間には、シュリー・ラーマクリシュナのバクティの教えを紹介しました。

クラスの中で紹介した教えを少しご紹介します。
(Mは、ラーマクリシュナの福音を書いた著者、詳しくは6つ前のブログ記事をご覧ください。師はシュリー・ラーマクリシュナ)

M「師よ、どのようにして神に心を集中したらよろしいでしょうか」

師「神の御名をとなえ、彼の栄光を歌い、よい仲間と交わり、ときどき神の信者やサードゥたちを訪れなさい。心は、日夜世俗のこと、つまり世間の務めや責任に没頭していたのでは神を思うことはできない。時々人気を離れたところに行って神を思うことが最も必要である」

M「神を見ることはできるのでしょうか」

師「できるとも。時々一人で暮らし、神の御名をとなえ、彼の栄光を歌い、そして実在と非実在を識別する、これが神を見るために用いられる方法だ」

M「どのような状態で、人は神を見るのでございますか?」

師「強烈な渇仰の心で主に泣きつくのだ。そうすれば必ず彼を見る。人々は妻子のために水差し一杯ほどの涙を流す。金のためには涙の中を泳ぐ。しかし、誰が神を求めて泣くのか。本当に泣いて、彼に泣きつきなさい」

この問答は、Mが初めて師を訪れたときのものです。その後聖者となったMも、かつては私達と同じ様に「どのようにして神に心を集中したらよいか」と思っていたのですね。とても親近感が湧きました。Mも実践したであろう、シュリー・ラーマクリシュナの教えを私も実践しようという気持ちになります。

さて、シュリー・ラーマクリシュナの教えに二度も出てきた「神の御名をとなえ、彼の栄光を歌う・・・」これはまさしくキールタンを歌うことではないでしょうか!!

そして「よい仲間と交わり、神の信者を訪れる・・・」これはまさにバクティ・サンガムに参加することではないでしょうか!!!

ということで、Mのように神に心を集中させたい方、信仰を深めたい方はぜひぜひバクティ・サンガムにご参加ください。2月もメドレーを行います!!大阪は2月9日(金)19時〜、京都は25日(日)16時45分〜、詳しくはWebでご確認ください。


聖典を読む喜び 『ラーマクリシュナの福音』

先月のサットサンガで、『あるヨギの自叙伝』に感銘を受けたと嬉々として話しておられる方がいました。その方が言われ、印象に残ったのは「踊り出したくなるくらい」という言葉。その言葉を聞いて、私も以前聖典を読んでいた時に同じような気持ちになったことを思い出しました。私の求めているものが、ここにある!!!という強烈な喜びが溢れ、転げ回って喜んだり、大泣きしたり、色々したなーと思ったのです。そして、久しくそのような気持ちで聖典を読んでいないことに気がつき、彼女にあやかって、彼女が次に読むという『ラーマクリシュナの福音』という聖典を読みはじめました。

こちらがその聖典です。辞書のように厚く、大変に読み応えがあります。

この聖典は、シュリー・ラーマクリシュナ(1836年〜1886年)が晩年の5年間に弟子たち、信者たちに語った教えを、弟子の一人であるマヘンドラナート・グプタがテープレコーダーなどない時代に記憶を元に編集したものです。

聖典の中では、シュリー・ラーマクリシュナの部屋や信者の家で行われるサットサンガの質疑応答が綴られています。季節や風景の描写が美しく、質問者の背景や境遇も書かれているので、容易に当時の様子を感じることができます。読み進めると、まるでサットサンガに同席しているかのような気分になり、シュリー・ラーマクリシュナをとても身近に感じます。毎日読むことで、だんだんとその世界の中にいる時間が長くなります。シュリー・ラーマクリシュナはいつも、「神だけを求めなさい」と言われます。その重要性を繰り返し教えられるうちに、私の心はその思いだけで占められるようになりました。

ある日、『ラーマクリシュナの福音』を読んで瞑想に座ったとき、神を思い、こうして静かに座ることができる自分の人生がなんと恵まれ、幸福なことかという思いが押し寄せてきました。大変な幸福感に包まれた瞑想の中、突然一つの確信というか決意が浮かび上がりました「この人生で神を愛すること以外、望むものなど他にない!」雑多なものが一気に剥がれ落ち、とてもクリヤーな、そこには一つの確信だけがありました。

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、「神を恋い焦がれて泣き叫んでいたら母なる神が放っておくはずがない」と言われます。もっともっと激しく、狂おしい気持ちで神に祈り、神だけを求めていけるようになりたい、まだ半分ほど残っている聖典を、大切に、喜びを持って味わいながら読み進めようと思います。


淡味を知る さまらさの台所 12月

12月10日((日)に今年最後のさまらさの台所がありました。今回のテーマは「淡味を知る」ーー淡味とは素材の持ち味が生かされており、間の抜けた薄味でも、素材の持ち味が損なわれている濃い味でもない味付けのことです。しかし、味覚は習慣によって作られるので、普段自分が食べているものが濃い味なのか薄味なのか、淡味なのか、自分自身で判断することは難しいところでもあります。

今回の台所では、淡味を知るためにお出汁を使って、ある実験をしました。
昆布出汁に調味料を加えず、まずは素材の味をみんなで確認しました。昆布出汁は昆布を水に浸けている時間にもよりますが、そのままでも昆布の優しい味わいがあり、香りもあります。次に塩を少々加えました。すると塩味がするというのではなく、先ほど感じた昆布の味が突然味わい深いものになり、香りもより引き立ちました。次に薄口醤油をほんの少し加えました。すると体に染み渡る美味しさになりました。お吸い物の出来上がりですね。

このように淡味を知るためには、まずは素材そのものの味を知ることも大切です。素材の味を損なわないように、むしろより美味しさが引き立つように調味料を使う。さまらさでは、調味料は素材の味を引き出すために使うものだと考えています。決して調味料の味で食事をするのではないのです。

今回作った筑前煮やかぶの煮物もそれぞれの野菜の味がしっかりと味わえました。
    

節度ある食生活を心がけていくことは、行為や考え方にまで反映されます。ヨーガでは舌と心は非常に密接に関係していると言われ、習慣的に味の濃いもの、辛いもの、甘いものなど、欲求のままに食べているとそれらに依存し、それらがなくてはならなくなります。また体調の不調和を招き、心は依存を強めると言われます。味覚が習慣に頼っているのなら、素材の味を知り、淡味を味わうことが新しい習慣になることが望ましいですね。そうすることで、体調が整うのはもちろんのこと、心の依存を無くし、心を強くしていくことができると思います。日々の食生活を通しても心を整える術があります。

dav

 


バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

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先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い


バクティ・サンガム キールタン 

10月から新しいキールタンに挑戦しています。先月までシヴァ神を讃えるキールタンを歌っていましたが、今月からはクリシュナ神、12月まで同じキールタンを歌います。

タイトルは『Murali Krishna』、みなさん、バーガヴァタプラーナ(聖典)の中にあるクリシュナ神とゴーピー(牧女)たちの美しい愛の物語をご存知ですか?このキールタンはその物語の最後に出てくるラーサリーラーを思わせる歌詞と、甘美なメロディーが特徴的なキールタンです。

歌詞の一部を紹介します・

Murali Krishna Mukunda Krishna Mohana Krishuna Krishna Krishna

Murari  横笛を奏でるクリシュナ
Mukunda  解脱を与えるもの(クリシュナの別名)
Mohana  帰依者のハートを魅了するもの(クリシュナの別名)

意味は、クリシュナという神の御名のみ、ただただ、クリシュナと繰り返しているのです。

先日のクラスの中でミラバイさんが言われた印象的な言葉をご紹介します。キールタンを歌うときは「言葉と思いを一致させる」この歌詞の中での言葉とは神の御名のみ、それはイコール神そのものです。そして、「自分の心が神の御名に染まるまで繰り返し歌ってください」と言われました。

私にとって神なる存在はただ一人、私の師であるヨギさんだけです。クリシュナ神のキールタンであっても、シヴァ神のキールタンであっても、神の御名を口にするときはヨギさんだけを思っています。そうして一曲のキールタンを歌うと、ハートはどんどん大きくなり、神のみで満たされ、圧倒される時があります。他のものが入り込む余地はなく、ただ、神との繋がりだけを感じる至福の時となります。

今月はヨギさんのご聖誕をお祝いするジャヤンティが行われます。もっとも大切な日に愛する人と共に過ごすことのできるその日を心待ちにしています。


さまらさの台所 〜丹波秋野菜を使って〜

丹波・篠山のさまらさの台所に続いて、京都でもパラマハンサ向けさまらさの台所を開催しました。 こちらでも丹波お野菜をいただきましたよ!

今回は一風変わったチャレンジングな企画をしました!
いつものさまらさの台所と違い、決まった献立はありません!丹波から送ってもらう野菜を見て、その場で献立を考えて作るというもの、題して

「丹波の採れたてお野菜を使って秋の一膳を考え、いただく」

今回の企画は日常の食生活により近く、実践的なものになります。ポイントは、献立、調理の段取り、調理法の工夫や盛り付けを臨機応変に考え、行為するというところにあります。

それは、誰もが日常で何気なくやっていることと思いますが、もう一度、基本的な献立の立て方や段取り、盛り付けの工夫を見直しました。ただ単に一般的な考えを学ぶのではなく、さまらさならではの旬の食材を生かした一膳の考え方、より自然にやさしく、無駄のない調理法、野菜だけでなく、調理に欠かせない水や火をも無駄にしない段取りの立て方、季節を感じる盛り付けの仕方などを学びました。

前日に丹波から旬の野菜を持ってきてもらいました。何の野菜が届くかは、当日まではっきりと分かりません。それこそが旬野菜の醍醐味ですね。

生き生きした採れたての野菜たち。素材自体が新鮮で良質なので、何を作っても美味しくなる予感がしました。お野菜を育て、届けてくれたヨーガの仲間クリパールに感謝しています。

今回は3班に分かれて会を行ったのですが、各班にはそれぞれテーマがあり、それに沿って進めていくことになります。

・秋の炊き込みごはんの一膳
・秋野菜のパスタの一膳
・さっとできる秋のお弁当

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今回は、「秋野菜のパスタの一膳」の担当者から感想をいただきました。

私は秋野菜のパスタ班だったのですが、まず様々な野菜たちの中でもひと際良い感じで、私を使っておくれ!と言わんばかりにピカピカだったかぶをメインにしたパスタを決めました。そして、次にせっかくなので、丹波の特産物、黒枝豆を使う副菜を考えていきました。

初めての試みでしたので、うまくいくかな〜と当日まで不安がありましたが、いざ始まると皆さんが話し合いから調理、試食までずっと積極的に会に関わり楽しんでおられ、とても良い会になった!と感動しました。中でも参加者同士でより良い料理になるよう、ここはもっとこうした方がいいんじゃない?といった提案をしあっているのが印象的でした。

そして決まった献立は、かぶのペペロンチーノ、枝豆とブロッコリーのポタージュ、野菜チップス。食感や色味などバランスよく献立を決めることができました。

感想にもありましたが、参加者みんなが積極的に取り組めて、学びがある会になったようです。また季節を変えて、やりたいと思っています。今回残念ながら参加できなかった方もぜひ次の機会にご参加ください〜!

サティヤー


瞑想を深めよう 6ヶ月コース 10月19日(木)から始まります!!

 

瞑想専科は楽しい。

このところ巷で、瞑想という言葉をよく見聞きします。チョットしたブームもあるようで、TVや雑誌にも特集が組まれたりしていますね。

瞑想はヨーガの根幹にあたる行法です。一般にヨーガというとアーサナがイメージされますが、そのアーサナも実は瞑想で長く快適に座っていられる身体を作るのが目的なんだそうです。

私が瞑想専科に通い出してから、それまで漠然とした瞑想というイメージがとてもクリアになりました。それこそ、座り方の種類から、姿勢や呼吸についての具体的なやり方を一つ一つ丁寧に教わりました。そして、瞑想の種類や対象、その時に感じる体感や心の状態まで、外からは見えない自分の内側で起こる変化など、一人でやっていてはなかなか確かめようのないことを具体的に確認できました。瞑想状態とはどんなの?識別と考え事の違いとは?瞑想したら何が変わるの?何がおきるの?そんな疑問を次々明らかにしていけました。

また参加者の方たちと体験を共有したり話を聞くことで、自分の進み方の確認やお手本にすることが出来ました。最初は皆、眠気や雑念との戦いがあるのだと知って、自分だけじゃ無かったと安心しました。

そして参加者の皆さんが最も切実に望んでおられる、自分自身の「心の仕組み」を、とても科学的・論理的に、しかもユーモアたっぷりとても分かりやすく学べます。自分の心の癖や、傾向、それによって日常で湧き起こる動揺や不安、苦しみの原因とその発生メカニズム等と直面します。皆さんの心の中から「うぅ~~む・・・!!」という声が聞こえてきそうなくらい、皆真剣に深く頷いておられることが沢山あります。

いつも、90分では全然足りないと思うほど、あっという間に時間は過ぎてしまいます。私が通う京都のクラスでは、熱心な皆さんは終了後も講師のサーナンダさんを捕まえて、会場が閉まる寸前まで質問が続きます。老若男女、全くの他人同士が共に進む同士のように和気藹々とした雰囲気のクラスです。

初めての方がいつから参加されても、一緒に進んでいけるように復習と確認をしつつクラスは進められています。ぜひ瞑想に興味をお持ちの方は参加されてはいかがでしょうか?
おもしろいですよー。

チャイタニヤ


神と魂を結ぶ愛の歌 キールタン

6月から9月まで3ヶ月間バクティ・サンガムでは『Siva Sambho』(シヴァシャンボー)というシヴァ神を讃えるキールタンを歌ってきました。 なかなか好評で、「このキールタンが好きです!」と言われる方が結構いました。歌詞をご紹介します。

Siva Sambho Hara Hara Sambho  
Bhavanasa Kailasa-vilasa 
Parvatipate Pasupatipate 
Gangadhara Siva Gauripate

シヴァよ シャンブよ ハラよ シャンブよ
諸存在を破壊する者よ カイラーシャ山に遊ぶ者よ
パールヴァティーの夫よ パシュパティである主よ
ガンジス川を受け止める者よ シヴァよ ガウリーの夫よ


私はこの歌詞の中で好きなところが2箇所あります。まずはKailasa-vilasa(カイラーシャ ヴィラーシャ) 「カイラーシャ山で遊ぶ者よ」 というところ。カイラーシャ山とはチベットにあるカイラス山のことで、昔からシヴァが住む山と言われ、聖地として崇められています。
今回このキールタンを歌う中、シヴァ神が神話の中の神ではなく、一人のヨーガ行者として私の中で輪郭をもち、それは私のグルであるヨギさんと一体となっていきました。そのきっかけになったのが前回のヨーガダンダさんのブログです。一緒に住んでいるヨーガダンダさんから何度も話を聞く(聞かされる?)ことで、そのように変わっていきました。(ぜひ5つ前のシヴァ神という記事をお読みください)

カイラス山はこの世界の背骨と言われ、この宇宙の中心、そこでシヴァは瞑想しているのではなく遊んでいる!なんとダイナミック!!!遊び方が半端ない!豪快で男らしく、でも繊細で優美で・・・・・それはまさしく私のグルであるヨギさんと一つになりました。

そして、私が一番好きなところ!それはPasupatipate (パシュパティパテ)というところ。Pasuとは世界に縛られた、解脱していない魂たちのこと、それは私たちのことでもあります。patiは主という意味なので、pasuの主という意味になります。

Pasupatipateは解脱していない魂たちの主であるシヴァのことを指していますが、私はそこを「私たちの主!私の主!」という気持ちで讃え歌っています。私の主は偉大で、誰よりもかっこいい!!私の愛おしい主!! 主を讃えることの喜びが歌う中でどんどん広がっていき、その大きさに飲み込まれていきそうになりました。キールタンは神と魂を結ぶ愛の歌と言われます。神の御名を繰り返すことで神を感じ、神に酔い、神と魂を結ぶことができるのだなっと少し感じることができました。今回は参加者みんなでシヴァに酔いしれました。

さて、次回からは新しいキールタンに挑戦します!そちらもぜひお楽しみに。