投稿者「サティヤー」のアーカイブ

さまらさの台所 手作りでご飯のお供

パラマハンサ会員向けのさまらさの台所があり、19人の参加がありました!
今回紹介したのは、ちりめん山椒、昆布の佃煮、新生姜の甘酢漬け、味噌玉の4種類。冷蔵庫にあるとご飯のお供として日々の食事に重宝するものばかり、手作りすることで、安心して食べることができます。

さて、味噌玉って何だと思います?

お湯を注いだらすぐに味噌汁ができる、あさげやゆうげというインスタント食品をご存知ですか?家にある味噌で出汁を取らずに、同じように簡単に味噌汁を作ることができるのです。
味噌(大さじ1)にかつをぶしの粉(ひとつまみ)を混ぜ、そこに乾燥わかめ、お麩などを入れてます。そこにお湯を注ぐと、出汁を取らなくても簡単にお味噌汁が出来上がります。

サランラップに包んでおくと、持ち運び便利!!お弁当に持っていくこともできます。
こんなに簡単にお味噌汁が作れると、手間が省けて本当に助かりますね。

今回のさまらさの台所では、ご飯にお味噌汁、おかずは、ちりめん山椒と昆布の佃煮、新生姜の甘酢つけという一膳をいただきました。一見すると何と質素な!メインのおかずはないの?・・・という一膳ですが、実は食べてみるとこういう食事は体も心もほっとすることに気がつきます。どうしても、メインのおかずを作らなければ!とか、あまりに簡単な食事だと、手を抜いてしまった!という印象が残ったりします。けれど、本来食事には「〇〇しなければならない」というものはないと言うことを学びました。

ヨーガの実践を中心とする生活(日々のアーサナ、瞑想を実践する生活)には、その日、そのとき、またその時期にふさわしい食事があります。

あるときは夕食を速やかに済ませてサーダナ(アーサナや瞑想)にしっかり時間を取るときもあります。あるときは、時間に余裕を持ち、旬の食材を使って、できたての料理をいただくこともあります。またあるときは、誰かと一緒に過ごす時間を大切にするときもあります。その日の状況や、自分の修行の時期に応じて、ふさわしい形で食事ができるようにするには、自分自身で判断していく力をつけていくことが必要になります。

食事は人生の目的ではなく、本当の目的(自分の理想)を実現するために必要とするこの体を調えるために取るものです。まずは、その目的をしっかり見据え、日々の食事作りをしていくことが望ましく、自分の判断に対して「今日はこれでよし!」と思う力をつけていくことも大切です。

 


USAフェスティバル

今より遡ること約100年前、かのパラマハンサ・ヨーガナンダは神の啓示を受け、海を渡りアメリカへと布教の旅に出られました。そして2018年6月15日の明日、私たちの師のヨギさんも海を渡り、N.Y.へと旅立たれます。わたくしヨーガダンダも、ヨギさんに先駆けて、海を渡り、USAフェスティバルに行ってまいりました。とは言いましても、USAとは大分県宇佐市の宇佐のことで、海を渡ったと言いましても、関門海峡をバスで渡ってまいりました。

縁あって、1年ほど前からヨーガのクラスをさせていただいている宇佐市は、田園風景が広がるのどかな街なのですが、お店の前に自由の女神の像が建っていたりする、何だかお茶目な街なんです。そんな宇佐市の町興し的なお祭り――USAフェスティバルでヨーガ体験クラスの依頼があり、参加させていただくことになりました。10回目を迎えるUSAフェスティバルは由緒ある宇佐神宮での開催です。

宇佐市のクラスには、不思議と子供さんが多く通われていて、今回はその仲良し二人組にデモンストレーションをしてもらいながらクラスを進めていきました。石畳の地面は硬くてヨーガマットだけでは不十分だったのですが、近所の畳屋さんが畳みを提供してくださいました。地域の人たちの結び付きに感銘を受けました。

鋤のポースです。視界の先にはどこまでも続く大空。

瞑想の前に、座るポーズをいくつか紹介させていただきました。

瞑想の時には、ガヤガヤした雰囲気の中に静寂の空間が生まれたように感じました。

最後に、お菓子をもらいにきた子供たちと立木のポーズ!

このところクラスを担当させていただく中で、子供から大人まで、また元気な方や心がしんどい方、いろいろな方と接する機会を与えていただいています。そんな中で私が願うのはいつも同じでありたいということです。目の前に尊い存在を見て、はからいなく行為する。聖者、覚者の行為から、いつもそのことを感じます。私もそのあり方を見倣って、少しでも近づいていきたいと思います。京都でも、福岡でも、宇佐でも、そしてUSAであったとしても。

 

おまけ

午前中のクラスには、空手の道場に通う子供たちが多数参加してくれました。

『パラマハンサ』の記事――「ヨーガよかばい!」でお馴染みの国友司さんもチラシ配りに汗を流してくださいました。畳みの上で一休みしていた大学生の二人はこの後クラスを体験されました。

yogadanda


松山特別サットサンガのご報告 サティヤー編:私が見た!師のお姿

今回ヨギさんと一緒に、私、サティヤーも松山に同行させていただきました。

サットサンガの内容はゴパーラが報告してくださったので、私はまた別の角度から、私が「見た」ヨギさんのお姿をご紹介します。

松山に行ってまず感じたこと、それは松山のクラスを運営しているアーナンディーを始め、他のみんなの働きの素晴らしさです。ヨギさんが快適に過ごすことができるようにと、細かなところまで気を配って準備をされていました。そして、その準備を本当に喜んでしていることが伝わってきました。食事や移動、どのシーンを切り取っても、おもてなしの気持ちが溢れていました。サットサンガの会場の準備はもちろんですが、参加する方が、ヨギさんに会い、質問をするという大切な機会を逃さないように、いろいろな形でフォローし、寄り添ってこられたことを感じました。本当にヨギさんへの感謝と愛が溢れていて、とても!とても感動し、学ばせていただきました。

でも!!!!でもでもでも、もっともっともっとびっくりしたのは、そのおもてなしと感謝を何倍、いや、何百何千倍も上回る形でヨギさんが彼らを、そして参加された全ての人を祝福し、もてなし、喜ばせておられるお姿でした。それが、どのようなものかということは、もう・・・・・うまく言葉で説明することがきでない・・・(「なら、書くなよ」・・と言わないで)私はただ、それを「見た」としか言いようがないのです。

言葉にすると「無私の行為、人のためだけに生きる姿」というものをありありと見たということでしょうか。でもやっぱりそれを言葉にしたくない!!本当に素晴らしいものを見せていただいたとしか言えないのです。

私の言葉では、到底うまく説明できないので、以前ヨギさんがお話しされていた中から、今回私が「見た」ものはこれだという言葉を見つけたので、紹介させてください。

自分の命を捧げて他者を愛する意味を教えて欲しいと質問した人に対して答えられたものです。

「不二の永遠の存在、もしくは神が、神の中で遊び戯れていることが、究極の意味です」

捧げるということや愛するということ、それらは自分と他者とを分けた中で成立する言葉だと観念づけられています。だから他者に自分を捧げるとき、そこには努力が必要であったり、あるいは無理して疲れたり、そんな時もあります。もちろんそんなことばかりではなく、自然にできることもあるけれど、基本的には私と相手という二つが存在する中での行為として捉えています。

でも、私が見たヨギさんの姿は、私が知っている「愛」や「捧げる」という言葉は届かず、捧げる者も、捧げられる者も、本当は二つとない永遠の存在で、ただ、遊び戯れているという、その言葉通りの美しい、美しい姿でした。それを見た私は、ただただ、お手上げ!感服しました。人として最高の姿を見せていただき、私はその姿を胸に焼き付けました。

ヨギさんが、あまりにも無為自然に、ただ遊んでおられるように見えるので、それはどのようにしたらできるのかとか、どのような心の状態なのかとか、詮索したり、自分の小さな思考のレベルに落としたくはなく、ただ神の遊びが台無しにならないように、せっかくだから私も一緒にその場に身を任せて遊ぼう!という気持ちだけでした。

なんとなんと甘美な3日間だったことか・・・。

でも、もう言葉はこのぐらいにして、その甘美さをただ味わいたいと思います。

サティヤー


野菜たっぷりおうちご飯 5月

外で食べるごはんも美味しいけれど、やっぱり家で作ったごはんを食べると、からだもこころもほっとしますよね。そんな、美味しいから何度でも作りたくなるおうちごはん。5月は季節の野菜を使ったお弁当をご紹介します。
http://www.mahayogi.org/classes/samarasa

青葉が美しい5月は、野外でランチするのが一番気持ちが良い季節、お弁当を持ってぜひお出かけください。

ヨーガでは「食は薬なり」と教えます。

何でも食べたいものは簡単に買う事ができる現代、気分に任せて好きなものを適当に食べていると、風邪を引きやすくなったり、疲れが取れなかったりします。ここで言う薬とは、健康を保たせ、弱っているところを補うものという意味、食事は、病気の時に正しい薬を選んで飲むように、自分の心と体を良い状態に保つために摂るものです。

そう考えると、食事の取り方や食材の選び方は、とても大切になりますね。ヨーガをしている、していないに関わらず、誰もが心も体も健康に過ごしたいと願っていると思います。クラスでは、食材の選び方や食事の取り方についてもしっかりご紹介していきます。
ぜひご参加ください。


バクティ・サンガム キールタン

すっかり春!桜が満開になっています。バクティ・サンガムでは3月から新しいキールタンを歌っています。「Panduranga Vittale」(パーンドゥランガ ヴィッターレー) ヴィシュヌ神を讃えるキールタンです。4月、5月とこのキールタンを中心に歌っていきます。

神の御名を何度も何度も唱えるキールタンですが、御名に集中し、心を込めて歌っていると、突然心の奥から歓びが溢れ出す瞬間があります。先日久しぶりにバクティ・サンガムに来てくれたゴパーラも良い体験があったようですよ、ご紹介します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー私にとっては約3年ぶりのバクティ・サンガム。

  あなたがラーマの御名を唱える時

  百万の罪の記憶が消え失せる

  幾生涯の記憶は

  ラーマの御名の朗唱によって消滅する

 最近、中世のミーラー・バーイーのこの詩を目にして、「そんなことってあるのかな? もしそうなったら、それはいいな」と漠然とながら憧れのようなものを感じていました。

 この日のバクティ・サンガムは、キールタンのメドレーでした。会が始まってすぐ、「世俗の話も聞かなくていい、余計なことも考えなくていい。神だけを思い、それだけに浸れるこのバクティ・サンガムはとてもいいな~!」という思いが湧いてきました。

 会の前半、「ラーマとシーター」だけのフレーズの曲がありました。「なんてシンプルな曲なんだ!」と思い、歌い始めました。目を瞑って、ただただラーマとシーターの御名だけを歌いました。曲が終わった時、自然と涙が溢れていました。隣で歌っていたチャイタニヤさんも泣いていました。

 その後もたくさんのキールタンを歌いました。そしてミラバイさんが「次がラストの曲です」と言った時、「えっ、もう終わり!?」と思い、とても驚きました。

その時、自分が時間の感覚を失っていることに気付きました。瞑想に座っても、ここまで時間を忘れたことはありませんでした。

 百万の罪と幾生涯の記憶が消滅したのかは分かりません、でも神の偉大な力と、グルバイの力強い歌声とメロディーに包まれた「至福」のひとときでした。

ゴーパーラ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー誰でもが簡単に歌うことができるキールタン、初めての人も、久しぶりの人も、ぜひバクティ・サンガム にこの歓びを体験しに来てください。


さまらさの台所 パエリア

今月のさまらさの台所では、パエリアを紹介しました!

長ーーーい間、たっっくさんの方からリクエストがあったパエリア!やっと紹介することができました。ただのパエリアではありませんよー!これは私たちの先輩であるシャーンティマイーさんのレシピです。今回担当してくれたゴパーラも、さまらさ班のサラニーさんも私も、それぞれが別の機会にご馳走になったことがあります。何かの折にシャーンティーマイーさんが作ってくださるパエリアはとても美味しく、華やかで、食事をしたシチュエーションにも思い出があり、あんな風に作れるようになれたらいいなーという憧れのお料理でした。

参加者のみんさんからは、パエリアを習えることをとても楽しみにされていることが伝わってきました。開始から、調理、食事と終始、華やかなパエリアにふさわしく、歓びに満ち溢れる会でした!!

今回の会のテーマは「食事を楽しむ」、昨年から引き続きでゴパーラが担当してくれました。(毎回担当者がテーマを持って取り組んだ内容を話してくれます)当日話しをしてくれた内容を掲載します。

去年のさまらさの台所ではお弁当という形で、「旬をいただく」というテーマに取り組みました。旬をいただく中で、その旬の食物がもつ美味しさやプラーナから、大地のエネルギーを感じるようになり、「命の恵みをいただいている」という感謝の気持ちが自然と内から湧いてきて、食物が愛おしく、丁寧に調理する自分がいました。それからは、料理を作るのが楽しく、自分の作る料理が美味しく感じられるようになってきました。それまでは訓練として料理をしていたところがありましたが、「楽しんで料理を作り、いただく」というところに心が向かい始めました。今回のパエリアは、みんなでお皿を囲んで楽しく食べれるメニューということで、自分の今の心境にピッタリだと感じました。

 ただ、「楽しむ」ということを考えた時、みんなでワイワイと料理をいただくことも楽しいことの一つだと思いましたが、パーティーのように賑やかに食事することは稀で、普段の料理は割と淡々として地味なもののように思いました。そんな中、「日常の中で料理を楽しむとは何だろう?」と思いながら、今回のパエリアに取り組みました。

 そして今回、パエリアを作っている中で楽しいと感じたこと、それは「輝き」を感じた時でした。今回、パエリアのメインはあさりとホタルイカですが、タマネギも大きく切って一つの具材としていただきました。エリンギは小さく切りましたが、この小さい中に魚介の出汁の旨味が吸い込まれて、深い味わいを出していました。トッピングのパ プリカは火を通さず蒸らすことで、色鮮やかでシャキッとした食感になり、アクセントになりました。最初はシャーンティマイーさんにただ教わった通りに作っていましたが、自分で作っていくうちに、シャーンティマイーさんが食材一つ一つのことを思って作っていることが自然と感じられました。そして自分がこのように一つ一つの食材のことを感じながら作って出来上がったパエリアを見た時、それは輝いて見えました。その輝きに触れ、その料理をいただいた時、内からくる歓びのようなものを感じ、何だか嬉しい、楽しい気持ちになりました。

 この感覚は、去年から実践しているお弁当でも感じられました。私は今までは、「お弁当を作る時間がもったいない」と思っていて、お弁当は前の日の 残りを持っていくことがほとんどでしたが、去年のさまらさの台所でお弁当を担当した時、さまらさ班のサティヤーからは「朝に一品でも作ってみたらいいよ」と言われ、朝にお弁当の一品を作るようにしました。その時にサティヤーは、「私は忙しい仕事の中、お弁当を開けた瞬間が仕事中の唯一の喜び!」とも言っていて、それを聞いた時は「何か食いしん坊やな、それって食べ物に執着してるんちゃうの?!」と心の中で思ったのですが、実際に朝一品のおかずを作ると、お弁当が瑞々しくなり、その蓋を開けた瞬間、お弁当が輝いていて嬉しい気持ちになり、とても美味しい味わいだと感じることがありました。

 毎日の料理は淡々としているかもしれません、でもそんな中にもその輝きが 感じられると、嬉しい楽しい気持ちになるように思います。このさまらさを通していただいた気付きを大切にして、これからも食の恵みに感謝し、楽しい思いで日々の料理に取り組んでいきたいです。

                                        ゴパーラ



 


キールタン バクティ・サンガムへのお誘い

1月のバクティ・サンガムでは、これまで歌ってきたいくつかのキールタンでメドレーをしました。そして、曲と曲の間には、シュリー・ラーマクリシュナのバクティの教えを紹介しました。

クラスの中で紹介した教えを少しご紹介します。
(Mは、ラーマクリシュナの福音を書いた著者、詳しくは6つ前のブログ記事をご覧ください。師はシュリー・ラーマクリシュナ)

M「師よ、どのようにして神に心を集中したらよろしいでしょうか」

師「神の御名をとなえ、彼の栄光を歌い、よい仲間と交わり、ときどき神の信者やサードゥたちを訪れなさい。心は、日夜世俗のこと、つまり世間の務めや責任に没頭していたのでは神を思うことはできない。時々人気を離れたところに行って神を思うことが最も必要である」

M「神を見ることはできるのでしょうか」

師「できるとも。時々一人で暮らし、神の御名をとなえ、彼の栄光を歌い、そして実在と非実在を識別する、これが神を見るために用いられる方法だ」

M「どのような状態で、人は神を見るのでございますか?」

師「強烈な渇仰の心で主に泣きつくのだ。そうすれば必ず彼を見る。人々は妻子のために水差し一杯ほどの涙を流す。金のためには涙の中を泳ぐ。しかし、誰が神を求めて泣くのか。本当に泣いて、彼に泣きつきなさい」

この問答は、Mが初めて師を訪れたときのものです。その後聖者となったMも、かつては私達と同じ様に「どのようにして神に心を集中したらよいか」と思っていたのですね。とても親近感が湧きました。Mも実践したであろう、シュリー・ラーマクリシュナの教えを私も実践しようという気持ちになります。

さて、シュリー・ラーマクリシュナの教えに二度も出てきた「神の御名をとなえ、彼の栄光を歌う・・・」これはまさしくキールタンを歌うことではないでしょうか!!

そして「よい仲間と交わり、神の信者を訪れる・・・」これはまさにバクティ・サンガムに参加することではないでしょうか!!!

ということで、Mのように神に心を集中させたい方、信仰を深めたい方はぜひぜひバクティ・サンガムにご参加ください。2月もメドレーを行います!!大阪は2月9日(金)19時〜、京都は25日(日)16時45分〜、詳しくはWebでご確認ください。


聖典を読む喜び 『ラーマクリシュナの福音』

先月のサットサンガで、『あるヨギの自叙伝』に感銘を受けたと嬉々として話しておられる方がいました。その方が言われ、印象に残ったのは「踊り出したくなるくらい」という言葉。その言葉を聞いて、私も以前聖典を読んでいた時に同じような気持ちになったことを思い出しました。私の求めているものが、ここにある!!!という強烈な喜びが溢れ、転げ回って喜んだり、大泣きしたり、色々したなーと思ったのです。そして、久しくそのような気持ちで聖典を読んでいないことに気がつき、彼女にあやかって、彼女が次に読むという『ラーマクリシュナの福音』という聖典を読みはじめました。

こちらがその聖典です。辞書のように厚く、大変に読み応えがあります。

この聖典は、シュリー・ラーマクリシュナ(1836年〜1886年)が晩年の5年間に弟子たち、信者たちに語った教えを、弟子の一人であるマヘンドラナート・グプタがテープレコーダーなどない時代に記憶を元に編集したものです。

聖典の中では、シュリー・ラーマクリシュナの部屋や信者の家で行われるサットサンガの質疑応答が綴られています。季節や風景の描写が美しく、質問者の背景や境遇も書かれているので、容易に当時の様子を感じることができます。読み進めると、まるでサットサンガに同席しているかのような気分になり、シュリー・ラーマクリシュナをとても身近に感じます。毎日読むことで、だんだんとその世界の中にいる時間が長くなります。シュリー・ラーマクリシュナはいつも、「神だけを求めなさい」と言われます。その重要性を繰り返し教えられるうちに、私の心はその思いだけで占められるようになりました。

ある日、『ラーマクリシュナの福音』を読んで瞑想に座ったとき、神を思い、こうして静かに座ることができる自分の人生がなんと恵まれ、幸福なことかという思いが押し寄せてきました。大変な幸福感に包まれた瞑想の中、突然一つの確信というか決意が浮かび上がりました「この人生で神を愛すること以外、望むものなど他にない!」雑多なものが一気に剥がれ落ち、とてもクリヤーな、そこには一つの確信だけがありました。

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、「神を恋い焦がれて泣き叫んでいたら母なる神が放っておくはずがない」と言われます。もっともっと激しく、狂おしい気持ちで神に祈り、神だけを求めていけるようになりたい、まだ半分ほど残っている聖典を、大切に、喜びを持って味わいながら読み進めようと思います。


淡味を知る さまらさの台所 12月

12月10日((日)に今年最後のさまらさの台所がありました。今回のテーマは「淡味を知る」ーー淡味とは素材の持ち味が生かされており、間の抜けた薄味でも、素材の持ち味が損なわれている濃い味でもない味付けのことです。しかし、味覚は習慣によって作られるので、普段自分が食べているものが濃い味なのか薄味なのか、淡味なのか、自分自身で判断することは難しいところでもあります。

今回の台所では、淡味を知るためにお出汁を使って、ある実験をしました。
昆布出汁に調味料を加えず、まずは素材の味をみんなで確認しました。昆布出汁は昆布を水に浸けている時間にもよりますが、そのままでも昆布の優しい味わいがあり、香りもあります。次に塩を少々加えました。すると塩味がするというのではなく、先ほど感じた昆布の味が突然味わい深いものになり、香りもより引き立ちました。次に薄口醤油をほんの少し加えました。すると体に染み渡る美味しさになりました。お吸い物の出来上がりですね。

このように淡味を知るためには、まずは素材そのものの味を知ることも大切です。素材の味を損なわないように、むしろより美味しさが引き立つように調味料を使う。さまらさでは、調味料は素材の味を引き出すために使うものだと考えています。決して調味料の味で食事をするのではないのです。

今回作った筑前煮やかぶの煮物もそれぞれの野菜の味がしっかりと味わえました。
    

節度ある食生活を心がけていくことは、行為や考え方にまで反映されます。ヨーガでは舌と心は非常に密接に関係していると言われ、習慣的に味の濃いもの、辛いもの、甘いものなど、欲求のままに食べているとそれらに依存し、それらがなくてはならなくなります。また体調の不調和を招き、心は依存を強めると言われます。味覚が習慣に頼っているのなら、素材の味を知り、淡味を味わうことが新しい習慣になることが望ましいですね。そうすることで、体調が整うのはもちろんのこと、心の依存を無くし、心を強くしていくことができると思います。日々の食生活を通しても心を整える術があります。

dav

 


バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

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先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い