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言葉を使わずとも真実は伝わる

ヨーガの学びを深めようと決めて最初に当たった壁が、いわゆるヨーガの専門用語、例えば、ギャーナ、カルマ、バクティ、ヤマ、ニヤマ、サットヴァ 等々、が分からないということでした。
それでもクラスやサットサンガの後に先輩グルバイと話をしたりするうちに、少しずつ用語の意味を理解し覚えていきました。
用語の意味が分かってくるとますます学ぶことが面白くなり、ヨーガを始めて2年経つ頃にはより熱心に学ぶようになっていました。学びを繰り返すうちに、少しずつ教えが腑に落ちていくように感じていたのですが、ちょうどその頃、それだけでは駄目なのだと気付かされる出来事がありました。

ある知人と話していた時のこと。
時間さえあれば各地域の神社にお参りをしている人で、しょっちゅう神様の話をしていました。
知人曰く、神様にも人間と同じような社会があり、ある神社の神様は優秀で素晴らしいとか、あそこの神社の神様は力が弱いとか、あの神様とこの神様はいがみ合っているとか、願い事をしたらお礼参りに行かないとかえって悪いことが起きるとか…
当時その話をされる度にモヤっとして、何度も聞かされるうちに「なんでこんな話ばかり聞かされるのだろう。神はそんな存在ではないのに!」とイライラするようになっていきました。
私は知人がその話をする度に、ヨーガの教えを話すようになりました。ヨーガでは神様は雲の上の存在ではなくて、あらゆる命の中に等しく存在している、だから上下関係もないし仲違いすることもない、願い事をしたらお礼をしなければならないという取引のようなものではないこと──など。どうしたら分かってもらえるのかと一所懸命に考えて言葉を尽くしましたが、結局知人には分かってはもらえませんでした。

東京都府中市にある東郷寺の枝垂れ桜。たくさんのメジロが花の蜜を食べにやってきていました。

伝えようと言葉にした内容は間違っていなかったと思いますが、なぜ伝わらなかったのだろうか?
その時すぐには気付けませんでしたが、その後のグルバイ(兄弟姉妹弟子)との交流する中で、伝わらなかった理由に思い当たりました。
私の話に真剣に耳を傾けてくれるグルバイたちのように、私は知人の話に耳を傾けられていたかというと、できていませんでした。最初からそれは違うと偏見を持って聞いていたことに気付きました。
また、先輩グルバイとお話する際に、私が理解できるように丁寧に話をしてくださっていること、少しずつヨーガの道を歩んでいる私の様子を見守りつつ、タイミングを見て的確な助言をもらえていたことにも気付けました。難しい言葉を用いることなく、考えを押し付けられることもなく、楽しくお話しているうちに新たに腑に落ちることがあったり、発見があったり。話し終わると心身ともに軽やかで心地よさに包まれたことも何度もありました。

きっと知人は私と話していても楽しくなかったと思うし、むしろ不快な思いをさせてしまっていたかもしれません。
私は学んでいるということで満足して、学んで知っているだけなのに体得したような錯覚を起こし、自分は正しいことを知っているという傲慢さから、知人に対して謙虚さも優しさもありませんでした。
そもそも、神様はあらゆる命の中にあると、確信を持って知人に言える状況にもなかった。
頭でっかちで、しっかりとした実践ができていなかった現実をまざまざと思い知らされたのです。

ヨーガを実践していくということは、生きることそのものでもあります。
生まれてきた以上、命が終わりを迎える瞬間まで生きていく必要があります。ヨーガに出会えてなければ漠然と生きていたのかもしれませんが、ヨーガに出会ったことでその可能性は消えました。確かに真実があることを知り、生きる目的や理想とを持つことが大切なのだということを知りました。
向かうべき方向が定まったら、その一点へと歩み続けるだけ。その過程は一人一人異なります。見える風景も味わう感覚も。それがその人の生き様であり、それを他者が見た時に語らずとも伝わるものがある。

ちょうどこの頃に師に質問した際に頂いた答えがメモに残っていました。

ヨーガの言葉を使わなくても、真実のみを話すことはできる。神様は全ての人・物の中にある、ということを、そういう考えを持っていることを伝える。それ以上は言わなくてもいい。言う必要はない。

これは知人との出来事が起こる前で、当時確執があった父のことで相談した時のものです。この時のお答えは聞いた瞬間から私の胸深く刺さり、常に大切にしていたはずだったのですが、この知人との出来事にも全く同じことが当てはまっていたのだと、このブログを書くにあたり再度読み返して初めて気付きました。

教えを学んで真理とは何かを知る。それを実践する。そうすると体感が訪れる。
ひたすらに繰り返すこと自体も生き様。

正しい智慧も悟りに至るまでの間、無知がある間だけ必要なのですよ。悟りというのは無知も智慧も超えていますから。それはちょうど痛みを与える棘をもう一本の棘で抜くようなものです。苦しみがなくなれば両方いらない。
                                                                                                     シュリー・マハーヨーギー

2つとも棘が抜けてすっかりなくなってしまったら、私の生き様が言葉以上に雄弁に語ってくれるようになるのかもしれません。
それまでは地道に着実に、学び・実践・体感を繰り返していきたいと思います。

ハルシャニー


ヨーガと心の傾向 ③真理に向かってもっと大胆に!

先輩方のお話をうかがって、ヴァーサナー(心の傾向)と闘うには「真理だけをみていく」ということを改めて理解した私は、今現在これまで以上にそのことを意識しながら日常生活の中でヨーガの実践に取り組んでいます。(前回のブログ

まず、自分のヴァーサナーについてあれこれ考え、そこにエネルギーを費やすことは止めました。空気のように掴みどころがないヴァーサナーを相手にするのではなく、ヴァーサナーの原因であるエゴや無知をなくしていくこと。そのためには、既に自覚している自分の傾向やそれに気が付いた時にはその都度ヨーガの教え、真理に心や行動を沿わせていくように改めて意識するようにしています。
これもずっと師が言われ続けている事ですが「日常生活に必要なことにおいては、その時必要なことを淡々と行う」こと。苦手意識があるものに対して「また失敗するんじゃないか」とか「嫌だなー」という感情が湧いてくると、極力その思いには意識を向けないようにして、その時必要なことに気持ちを集中するように努めています。時間もかかりますし、上手くいったり失敗したりしていますが、諦めず一歩一歩です。
また、先輩からは「苦手なことを積極的に行為していくことが、日常における最も単純で効果的な方法だと思います」とアドヴァイスもいただきました。苦手なことを積極的に行うというのはなかなか楽しく!?できることではないとは思いますが、確かに真理に好き嫌いはありません。これも実践あるのみ!です。

そして、唯一真理だけを求めていくこと─。真理、本当の自分、神、様々な呼ばれ方をしますが、それらはすべて同じ一つのものであるといわれ、ヨーガではその一つのものに向かうために、それぞれの性質(ヴァーサナー!)に合った道が用意されています。古来より真のヨーガの師は弟子の性質を見抜き、一番速やかに真理へと進める道を示されるといわれています。師は私にバクティ・ヨーガの道を示して下さり「いつもどんな時もすべての思いを神に向けるように」とおっしゃいました。その時から、私は湧き起こってくる色いろな思いを師と神に向けるようにし、心の中で話しかけるようにしています。キールタンを歌うと自然に心は神の御名で満たされます。いつからか、師と神は常に私の胸の奥に在り、忘れることはありません。ですが私は、すべての人の中に、この世界の森羅万象すべてに光り輝く神の姿を見る、その境地に憧れてやみません。それにはサンスカーラもカルマもヴァーサナーもエゴも無知も、一切を燃やし尽くすくらいの神への強い想いが必要なのだと感じています。

空に向かって真っ直ぐに咲く白木蓮

2016年に京都で行われた特別サットサンガで師が語られた教えが、以前このブログで紹介されていました。私は胸が熱くなるような感銘を受け、いまだに時折読み返しては当時とまったく同じ気持ちになる言葉があります。

ヨーガは未来志向の、自分の運命は自分でしか切り開けないという考え方なのです。過去のカルマがどうであれ、それに引きずられていたのでは運命的に縛られて生きていくということになるでしょう。でもたとえどんなカルマがあろうとも、そんなことはもう過去のこと。今、今からは違う、自分自身で変えていくという、ものすごくダイナミックな、積極的な考え方に基づいています。自分が自分を生きていくという、主体性、自立性、これを大事だと考えています。
そうして本当の私と言う自立自存、それだけがあるという、何ものにも依存していない、独立してそれだけが尊い存在である!ということを体得するわけです。誰もがそれをできます!ここに生まれてきた本当の意味があるのですよ。たとえ数え切れないほどの輪廻転生をしてきたとしても、これがゴールです!!

今回、自分のヴァーサナーへの疑問から、先輩を通じて、私にとってまた新たな発心を得ることが出来た貴重な機会となりました。
ヨーガには自分で自分を変えていく力があります。そしてヨーガとは自分の運命を自分自身で切り開いていくこと!
ヨーガの教えへの理解を深めることも、諦めず一歩一歩前進することもヨーガの実践においてとても大切なことですが、自分のヴァーサナーなどに捉われず、真理に向かってもっと大胆に進んでいきたいと思います!

シャルミニー


アヒンサー(非暴力)に徹する

新型コロナウイルス感染症は私たちの日常を大きく変えました。
私が暮らしている地域でも、医療従事者のお子さんの保育園登園拒否や、病院内駐車場の通勤車への心ない張り紙など、差別や偏見による行為を聞くことが度々あります。
過剰な不安感や間違った情報によるものがほとんどだと思われますが、決してあってはならないものです。そして、医療従事者に対してだけではなく、身近なところでも起きています。

以前にブログで少し紹介させていただきましたが、職場の鍼灸治療院に来院される患者さんにも、状況が長期化するに連れて気持ちに余裕がなくなっているように見受けられる方が少なくありません。
高齢で一人暮らしの方は、買い物に出かけることすらも怖くなり、塞ぎがちになっています。そんな気持ちを抱えて買い物に出かけた時に、家族連れが賑やかに買い物しているのを見ると、自分ばかりが我慢を強いられているようで腹立たしくなると言っていました。同じく高齢の方で日頃から警戒心が強かった方は、陽性者が出たと噂で聞いた建物には絶対に近付かないようにしている、怖くて人が歩いているのを見ると、陽性者ではないかと疑って見るようにしている、と言っているのも聞きました。 また会社勤めの方は、社内で陽性者が出た際に、その感染経路が飲み会だったと聞いて、憤りを感じて投げやりな気持ちになってしまったと言っていました。

話を聞いているとそう思ってしまう気持ちが分かるような気がして、つい感染対策に気を付けていない人達のことを一緒になって話してしまいました。でも、それを言ったところで現実は何も変わらないし、むしろ心の中がもやもやとして余計に波立つような感覚になりました。自分は感染対策に気を付けて生活しているという自負の元、会ったこともない人達に対して偏見を抱き、差別的な 発言をしてしまっていることに気付き、反省しました。
こういう何気ない会話をする中でも、互いの思いや言葉の持つ力に影響を受けているのだと痛感します。

ヨーガの教えの中に、アヒンサーがあります。非暴力の教えです。
アヒンサーは、他者(全生命)に対していかなる苦痛も与えない、という意味。それは行為はもちろんのこと、言葉で与える苦痛や心の中で思うことも含まれています。
日常生活でアヒンサーを実践していく時は、苦痛を与える言動をしないように気をつけますが、自分にはそんなつもりはなくても、言葉遣い一つで相手を傷付けてしまうこともあります。頭で分かってはいてもそう簡単にできることではありません。だから、やはり根本である思いを正しいものにしていくことが重要だと思います。

自宅近くの公園で見つけたフキノトウ。「真理は一つ」という花言葉があります。

それで、先ほど書いた通り、コロナ禍にまつわる様々な患者さんとの会話の中で、私自身がアヒンサーを実践できていないなあと感じ、改めて意識して今できる具体的なことは何かを考えました。先入観を持たない、ネガティブな話題が出ても同調しない、そういう話題に終始しないように話の方向を変える、等々。でも、何かもっと大切なことが抜けているのではと思い至りました。
それは、上辺の行為だけ調えるのではなく、「すべての生命は等しく尊い」という真理が思いの根本になければならないんだということ。
思いが正しくなれば自ずと謙虚になり、優しさに満ちた言動に繋がっていく。

ふと、昨年末のブログに書いた「愛は優しさでしか表せない」ということと、アヒンサーを実践することとは同じであるという気がして、今一度ただ他者を愛しむようにしようと決意を新たにしました。このことが根本にあれば、小さな行為でも大きな意味を持つかもしれない。最初からうまくいかなくても、謙虚さを持って訓練していこうと思い、具体的な実践を始めていきました。

  • 患者さんと会話をしながらも、その人の中にある純粋な存在をイメージして感じるようにする。
  • 話に安易に同調しないように気をつける。
  • 揺らぎそうになったら、みんな尊い存在なのだから、と心の中で繰り返す。
  • 相手の思いや言葉を否定するような発言にならないよう気を付けながら、少しでもその人の気持ちが明るい方に向かっていけるように願いながら発言することを心がける。
  • 話をしたタイミングでうまくいかなかった時は、その患者さんが玄関を出てお帰りになるその瞬間までチャンスを伺い続けて、チャンスがなかった場合は思い切り笑顔でお見送りするようにする。

今やっていることが本当にアヒンサーと言えるのかどうか分かりませんが、やり続けた先に体得されていくものだと思うので、今は自分がよいと思うことを根気強くやっていきたいと思っています。

登山中に見つけた杉の切り株から、小さな幼木の芽が芽吹いていました。

ヨーガの聖典『ヨーガ・スートラ』では、アヒンサーについてこう書かれています。

非暴力(アヒンサー)に徹した者のそばでは、すべての敵対が止む。

一人一人がアヒンサーに徹することで、少しずつでも差別や偏見をなくすことができる。穏やかな空気が流れて平安な世界に変わることができる。そうなれるよう、まずは自分自身が徹底して実践していきたいと思います。

ハルシャニー


ヨーガと心の傾向 ②ヨーガはヴァーサナーとの闘い!?

「自分のヴァーサナーを何とかしたい!!」と悶々としていたある日、長年師の下でヨーガを続けておられる京都の先輩と電話でお話をさせていただく機会がありました。そこで私は、先輩にヴァーサナーについてうかがってみることにしました。(前回のブログ

私は「ヴァーサナーについて教えて下さい。自分のヴァーサナーをどうにかしたいのですが、どうしたらいいですか?」と率直に質問しました。先輩はとても丁寧に答えて下さいました。
「そうですね。“長い間ニンニクが入っていた壺からニンニクを取り出しても、ニンニクの匂いは消えずに残っている”とよく例えられるけれども、ヴァーサナーは空気のようなもので実体がないんですよ」
そして、次のように説明して下さいました。
ヴァーサナーというのはサンスカーラ(※1)が積み重なってできる心の傾向であり、例えば、好き嫌いやその対象に対してどのような反応をするか、また様々な物事の理解の仕方の傾向や、その人がとる行動、話し方や文章の書き方など、すべてに影響を与えている。師は「風向きのようなものだ」とおっしゃられたそうで、心に入ってきたものはすべてその方向に流されることになるそうです。
真理を学び、自分がヴァーサナーの影響を受けていると頭では理解できたとしても、その理解の仕方自体も影響を受けていることになるので、ヴァーサナーを相手にしても仕方がないし、ヴァーサナーに意識を向けるとかえってそれに捕われてしまう。けれど、そのままにしておくと新たなカルマ(※2)を作り出す温床になってしまうのだそうです。(前回のブログ参照
そして、「ヨーガはヴァーサナーとの闘いなんですよ」と穏やかかつ軽やかな口調で言われました。
今まで何となく理解していたのですが、なんと厄介なものなのでしょうか…!!それにヴァーサナーを相手にせず、ヴァーサナーと闘う!?一体どうやって闘えばよいのでしょう??
「では、どうすればいいのですか?」私は更に質問を続けました。
「やはり真理だけを見ていくことしかないんですよ。唯一真理を求めていくことだけが、大元であるエゴと無知を滅ぼして、心の消滅にともなってヴァーサナーに打ち勝つことになるわけです」と先輩は言われました。

その後、しばらくして別の先輩にグルバイが質問をしている場面に居合わせることがありました。彼女は「頭では、やってはいけないそっちにいってはダメだ!と思っているのに、どうしてもそっちに行ってしまうんです。止めようとしてもなかなか止められないという時はどうしたらいいでしょうか?」と話されていました。私はヴァーサナーのことかなぁ、と思いながら聞いていました。
その先輩はご自分の経験を例に出しながらこう答えられました。
「車やバイクってある程度スピードが出ていると、ブレーキを踏んでも“惰性”の力が働いてすぐには止まれないよね。それと同じで、これまで長年続いていた習慣や性質って、すぐには改まらないことが多いよね。
昔、私がバイクに乗っていて山道のカーブにさしかかった時、曲がり切れずにガードレールにぶつかって転倒したことがあったのだけれど、その時ぶつかってはいけない!と思ってガードレールばかり見ていたら、吸い寄せられるようにそっちに向かって行ってしまったんですよ。本当はそっちではなく自分が進む道の方を見なければいけなかったんですよね。
避けたい対象を意識するのではなく、やはり自分が本当はどうしたいのか、どうなりたいのかということに意識を向けるようにした方がいいよ」と話されました。
私は、なるほど!どちらの先輩も同じことを言われているなぁ!と思いました。“ガードレール=ヴァーサナーやその対象”を見るのではなく“自分が進む道=真理”を見ること。
分かりやすい例え話や言葉を使って物事の本質を丁寧に説明されるお二人のお話を聞きながら、私は先輩方に師のお姿が重なって見え、長年師の下でヨーガを続けて来られた先輩方にまた改めて憧れと尊敬の念を深めたのでした。

職場近くの公園の白梅の花が咲き始め、風に乗って甘やかな香りが運ばれてきました。

私は、先輩が教えて下さったヴァーサナーとの闘い方「唯一真理を求めていくことだけが、大元であるエゴと無知を滅ぼして、心の消滅にともなってヴァーサナーに打ち勝つことになる」とは、『ヨーガ・スートラ』の一番最初に書かれている「ヨーガとは心の作用を止滅することである」と同じことだということにはたと気が付きました!ということは、ヴァーサナーはヨーガが成就するまでなくならないということになります。だから「ヨーガはヴァーサナーとの闘い」なのか…。なんという長期戦なのでしょう!?

「何事も一足飛びにはいきません。一歩一歩です」
私は、師に出会った頃、私が質問したことに対して師が答えて下さったことをまた思い出しました。何も前進していないのではないかと焦りを感じる時に、いつも励みにしている大切な師の教え。あぁ、やはり師のおっしゃる通りなのだなぁ…と、今さらながら心の中で師の御前に額づく思いがしました。四の五の言わず真理の教え、ヨーガを実践しよう。やはりそれしかないのだ。私は自分のヴァーサナーとの闘いに腹を括りました。
それから私は、これまで以上にそのことを意識して日常生活の中でヨーガに取り組むことにしました。
(続く)

※1 サンスカーラ/この世界で経験するあらゆる事柄は心に何らかの印象を残し、その内容に応じた結果(カルマ)をもたらす。この潜在的な残像印象をいう。
※2 カルマ/行為とそれによってもたらされる結果を意味する。利己的な悪しき行為は苦という結果生み、非利己的な善き行いは楽の結果を生む。それゆえ、本来の意味である行為とともに、その結果と、さらには作用・反作用、因果応報の真理も含んでいる。
(『悟り』/サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ著 用語解説より)

辛夷も春の準備を始めています。

シャルミニー


パラマハンサWeb化の衝撃と歓び!!!

ついにこの日がやってきた!
「紙媒体のパラマハンサがWebに移行する」というお知らせに、コロナ禍にあっても何とか以前と変わらない気持ちで暮らしていた私は、思ってもみない衝撃に見舞われました。

機関誌『パラマハンサ』には、多くのサットサンガから選りすぐられた師の教えが記されたプラナヴァ・サーラをはじめ、バラエティに富んだヨーガのエッセンスが掲載され、読者を真理へと導いてくれていました。私自身は、好きな記事には見出しを貼り、さまらさのレシピはリストに書き出し、大切な教えの載ったページをばらして持ち歩く、そんなふうにして、いつでも手に取り、繰り返しじっくり読むことのできる紙面の『パラマハンサ』を、どれほど自分が頼りにしていたのか、痛感しました。

振り返ると、私自身のヨーガの歩みは、常に『パラマハンサ』とともにあったと言えると思います。師がいらっしゃる京都からは遠く離れて住む身にとっては、『パラマハンサ』はヨーガの道を歩む上で掛け替えのないものです。先輩方の経験談を読むと大いに励まされましたし、たとえ文字を読むのがしんどくても、表紙や写真を眺めていると心穏やかになれました。パラマハンサ-至高の白鳥-という名の通り、毎号郵送で飛んできてくれるのを心待ちにしていました。
しかしもう、新しい号の紙面を手にすることはないのだと思うと、ちょっと残念さと悲しさでなんとも言えない気持ちになりました。

見出しを付けた過去の『パラマハンサ』と書き写したさまらさレシピ。大変お世話になりました!

スマホでのトップ画面!パラマハンサが美しく、各記事のアイコン写真も綺麗です!(サンプルページ 5月以降に正式にアップ予定)

しかし、いつまでも沈んだ気持ちでいるわけにはいかないので、気を取り直してサンプルのパラマハンサWebページを見てみることに。
するとそこには、今までモノクロでしか見られなかったサットサンガの写真がカラーになり、色使いの美しい細密画が何枚も掲載されている! さらに、初めは画像の鮮やかさに目を奪われがちでしたが、画像の貼られた記事を読んでいると、これまでの『パラマハンサ』を読んでいるときとは違う感覚が働き、その話の内容にすっと入っていけるような気がしてきました。
印象的なのはプラナヴァ・サーラの写真で、サンガに集う人たちの真剣なまなざしと、問いに応じてくださる師の慈愛に満ちた面持ちとが相まって、自分もその場に参加しているような臨場感を感じました。師が直々に教えを授けてくださっている場面を目にし、実際の問答を読むことができるとは、なんと貴重なことかと思います。他にも体験記やシリーズとなっていた読み物は、一気にまとめて読めるし、気になる言葉を検索すると関連する記事が選び出されてきます。いつでもどこでもヨーガの教えを読むことができる! 忙しい毎日でも仕事でヘコんだときでも、パラマハンサのサイトを見れば前向きになれる! 画像に加えて音声や動画も配信されるようになれば、さまざまな面からヨーガを知り、学ぶことができるに違いありません。
そんなことを考えているうちに、紙面ではなくなると知った時のショックや、横書きになって内容が頭に入るのかしらという心配はいつの間にかどこかに吹き飛び、Web版パラマハンサがとても楽しみになってきました!

すでにインターネットは人々の生活の中で情報伝達やコミュニケーションの手段として欠かせないものとなっており、ヨーガを学んだり、広めるためにこれを利用するということは大きな意味があると思います。特に先行きの見えない今、将来を不安に思う人、自分の生き方や生きる目的を真剣に考える人が世界中に大勢いて、『Web版パラマハンサ』がその人たちが真理に触れるきっかけになるとしたら、それはとても嬉しいことです。
ヨーガの道は、先入観や固定観念をもたず、変化を恐れず大胆に進むもの、と教えられています。新たに大きく発展していく『パラマハンサ』、5月の配信が待ち遠しいです。

マイトリー


オンライン瞑想会 in 東京

以前はアーサナ・ヨーガクラスや瞑想会を定期的に開催していましたが、そうした当たり前にできていたことができなくなって、早1年が経とうとしています。

東京では昨年の2月を最後に、グルバイ(兄弟姉妹弟子)と思うように会えなくなりました。瞑想会に使用していた会場も借りることができなくなったため、オンラインで瞑想会をするようになりました。

東京でのオンライン瞑想会の画面。この日(2/1)は9名の方が参加されました。

瞑想は1人でもできます。むしろ1人で静かに座るイメージを持っている人が多いのかもしれません。私はヨーガを始めた頃は瞑想にそんなに興味が持てなかったし、みんなで集まってすることなのかな?と不思議に感じていましたが、一度京都で2時間座る瞑想会に参加してからイメージが変わりました。もちろん2時間座るなんて無理で、雑念と足の痛みとの戦いでした。しかし集中して座っている人たちに囲まれた空間にいるだけで、少しずつ集中した感覚を味わえるようになり、2時間の中で確実に変化していきました。
1人でも深い瞑想状態にある人がいるだけでその空間の気が調い、他の人も瞑想しやすい状態になることがあります。また、それぞれが集中して自分の中に潜っていくように取り組んでいるうちに相乗効果で瞑想しやすくなることもあります。それが誰かと瞑想する醍醐味であると思うようになりました。

しかし、実際に空間を共にしていないオンラインでそれがどこまで可能なのか、最初は少し心配していました。でも実際に参加してみると思いの外集中しやすく、同じ空間にいてする瞑想会とほぼ同じような感覚になりました。
毎週メインで話をする人を決めて、順番に担当していくようになり、興味深く話を聞く楽しみもありました。ただオンラインではそれぞれが自由に発言し合うことは難しく、参加者が増えてからはさらに難しさが増したように感じました。
そこでみんなで相談し、1つアーサナ(ポーズ)をして、毎回メインで話す人がそれぞれ大切にしている教えや聖典の言葉を朗読し、その後瞑想に入るようにしてみることにしました。

先日その1回目を迎えました。
私が担当する回だったので、数日前からどの教えをにするか検討しました。参加者の中にはまだ師にお会いしたことがない方もおられるので、より分かりやすい内容をと、『ヨーガの福音』の中から選ぶことにしました。どれにするか、何度も読み返していくのもとても楽しかったです。どの教えも素晴らしいのであれこれ迷った結果、「人生の目的」という一節を選びました。

『ヨーガの福音』は一節が短めにまとめられているので、いつでもどこからでも読みやすい本です。この節は少し長めにはなりますが、タイトルの通り、人生において目的とすべきことについてしっかり丁寧に説明されています。

”人生の目的は真理を実現することです。真理とは何か—- これは頭では答えを出すことはできないのです。しかし体験はできます。その叡智と方法がヨーガにはあります。”

この冒頭の部分は何度読んでも身が引き締まる思いがします。

私は最後の部分が特に好きです。

”・・・それを実践するには毎日を真剣に生きなければならないということに気付かされます。仕事や生活は何でもかまいません。執着をしないことです。そして本当に得なければいけないものを、悟らなければいけないもの、真理だけを求めてください。誰でも、どんな状況の人でも悟りは可能です—-純粋な信仰と真剣な実践があれば。”

この文章の内容をみんなで味わって瞑想したいと思ったことが決め手だったのですが、いざ朗読するとなると私が読むので大丈夫か?とドキドキ。
この素晴らしい内容を私自身が味わって読むこと、そしてみんなにしっかり伝わるように想いを込めて朗読することにしました。

読み進めるうちに心が静まり、平安な気持ちに満たされていきました。

45分ほど瞑想しましたが、同じ空間にいなくても一緒にいるような感覚で座り続けられました。
グルバイの1人から、あっという間だったと感想をもらえたのも嬉しかったです。

ヨーガの仲間の自宅での瞑想の様子。

なかなか先が見通せない日々が続いていますが、こんな時だからこそひたすらに自らの中にある信仰を強くしていけるように感じています。信仰を一層純粋なものとするのは自らの中に深く潜っていくことでもあると思います。それは瞑想そのものでもあります。
人生の目的である真理を実現するということ、その真理を体感する方法の1つが瞑想です。離れていても共に瞑想する仲間がいることはかけがえのないこと。共に実践することで1人で実践するよりも真剣さが増すのを実感しています。

純粋な信仰と真剣な実践があれば、誰でもどんな状況の人でも悟りが可能となる。

まだしばらくはオンラインでの瞑想会を続けることになりそうですが、『ヨーガの福音』の言葉を胸に、真剣な実践の場としてこれからも機会を持ち続けたいと思います。

ハルシャニー


ヨーガと心の傾向 ①自分のヴァーサナーを何とかしたい!

皆さんは自分の性格や行動パターンに対して「私ってどうしてこうなんだろう」と思ったことはありませんか?私は何度もあります。笑 特にそれが原因で同じ失敗を繰り返してしまったり、誰かに迷惑をかけてしまったりした時はさすがに晴れやかな気持ちではいられなくなりますよね。もしかすると、そういった性格について人知れず悩んでいる方もいらっしゃるかも知れませんね。

日々ヨーガに取り組んでいると、自分が持っている性質や心の傾向がヨーガの実践の妨げになっているということに毎日直面します。師の下でヨーガを学ばせていただくようになってからは以前に比べて自分の心の動きを客観的に観察できるようになり、自分の心に不用意に振り回されることはだんだん少なくなってきましたが、その分、自分の性質や心の傾向をより自覚しやすくなったからかもしれません。
ヨーガの成就に一心に向かい、一日24時間ヨーギニーとして生きたいと願っているにも関わらず、何故か!私の心はそれほど単純に言うことを聞いてくれません。

一例をあげると、私は料理やお菓子作りが好きなのですが、ある日夕ご飯のおかずのレシピをスマホで検索していたところ、美味しそうな料理の写真や簡単ヘルシーと書かれているレシピがたくさん紹介されています。「わぁ美味しそう!」「今度これを作ってみたいな~」とあれこれ見ているうちに、つい夕ご飯とはまったく関係のない料理やケーキのレシピを長々と見てしまい、夕ご飯を作るのが遅くなってしまいました。そのためにその後の予定が全部ずれていってしまい、その日は寝る前に少し長めに瞑想しようと思っていたのに、結局出来なくなってしまったというようなことがありました。

また、私は子どもの頃から早とちりでうっかりしているところがあり、そのために失敗したり、恥ずかしい思いをしたことは数知れず…。計算や事務的な作業も大の苦手です。そのことで人に迷惑をかけてしまうことも多々あります。ずっと何とかしたいと思っていますし、自分なりに努力もしているのですが思うように改善されません。実際、周りの人にも自分にも不利益を及ぼすことがあるため、そんな時はさすがに気持ちが沈んでしまいます。

その都度、何故こうなってしまうのだろうと原因を考えたり、自分の心をなだめたり言い聞かせたり、時にはそんな自分に向かって心が言い訳をはじめたりもします。こういったことを繰り返すうちに、「こんなことにエネルギーや時間を費やすなんて、馬鹿々々しい!このエネルギーをもっとヨーガに向けたい。何とかしてこの状況を打開したい!」という気持ちが昨年どんどん強くなってきたのです。打開策を色いろと考えているうちに、私はもしやこれはヨーガで“ヴァーサナー”といわれているものが大きく関係しているのではないか?と思うようになりました。

今年のMYMのカレンダー。昨年、新しく生まれ変わったMYMのタペストリーがデザインされています。見るたびに目の覚めるような赤が胸の奥にある情熱を奮い立たせてくれます!

ヨーガでは、あらゆる経験は心に何らかの印象を残し記憶されるといわれます。その経験に対して「楽しい、嬉しい、面白くない、嫌だ(快不快・好き嫌い)」などの印象が、経験したことの記憶と一緒に心に刻まれるということです。そして、一度印象が刻まれると、今度はそれがフィルターのように働いて、例えば好きなものはさらに好きになり、嫌いなものはさらに嫌いな印象が重なって、その結果、見ただけで幸せを感じるものや反対に見るのも嫌だと感じるものが生まれてくるのだそうです。食べ物から人間関係まで、心当たりありますよね~。そして、それが積み重なって性質や性格が形作られていくといわれています。
そういう心の傾向のことをヨーガでは「ヴァーサナー」と呼び、なんと!何生涯にもわたるものだともいわれています。“生まれ持った性質”と言われたりしますが、誰でも小さな頃からそれぞれの気質があるのはこのためかも知れませんね。
日常生活の中で、様々な物事に対して無意識に自分が感じたり考えたり判断したり、また行動する根っこにこういう力が作用していて、それによって人は良くも悪くも千差万別であり、他者と比べて「私ってどうしてこうなんだろう」ということも起こってくるのだと思います。

私は「ヴァーサナーがなくなれば、もっとヨーガの実践がスムーズに進むはずだ!自分のヴァーサナーを何とかしたい!!」と考えるようになりました。でも、どうしたらヴァーサナーをなくすことが出来るのだろうと悶々としていたある日、長年師の下でヨーガを続けておられる京都の先輩と電話でお話をさせていただく機会がありました。私は、先輩にヴァーサナーについてうかがってみることにしました。
(続く)

シャルミニー


焦らず気長に、優しさを持って

愛は優しさでしか表せない。

私が大切にしている、師から教えて頂いた言葉です。
日常の中でつい忘れてしまっている時もありますが、繰り返しこの言葉を思い出すようにしています。特に仕事をしている時はこの言葉を胸において働くようにしています。

鍼灸師として日々様々な方の治療にあたっていますが、ある患者さんとのやり取りで気付きがあり、今回はそのことを書こうと思います。
その患者さんは、毎回ほぼ同じ症状を訴えられます。そして辛く感じる所が幾つもあります。治療する度により良い方法を考えて施術をしますが、次に来た時にはまた同じように辛いと言われます。
話に耳を傾け、時に具体的なアドバイスをしたりもしました。しかし、例えば治療をする中で生活習慣によって症状が出ていると気付く事があり、それを指摘すると抵抗する感じで黙ってしまうようで、こちらが話を変えるまで一切口を開こうとはしなくなるのです。毎回肝心な話ができず終いになっていました。

そんなことを繰り返すうちに5年以上が経ち、万策尽きたと感じた私は、自分の考えや思いを素直に患者さんに打ち明けてみる決意をしました。そうして、なるべくその患者さんが落ち着いている時に話そうとタイミングを伺っていましたが、なかなかその機会は訪れず、結局様子を見るしかない状態になっていました。

そうして迎えた今年の師の御聖誕日。『パラマハンサ』NO.142を読んで、グルバイ(兄弟姉妹弟子)の祝辞から、師に倣い他者のためにどう行為するかという一貫した想いを感じました。

愛ゆえに捧げる、ということ。

私はその患者さんのためにと真剣に考えてはいたけれど、その人そのものを愛しんで思いやれていたか、というと、そうではないとハッとしました。その人のために真剣に考えていたとしても、それが正しかったとしても、相手のことを本当に尊重して慈しみを持っていなければ、相手を追い詰めてしまう可能性も出てきます。

これまで師から、一度たりとも真理の教えを強要されたことはありません。もっと真理を学びなさいと急かされたこともありません。いつでもこの上なく優しく接してくださいます。パラマハンサから溢れ出る愛を感じたことで、自分が患者さんに対してしようとしていたことが、優しさとは正反対の行為になりかねないことに気付きました。

ヨーガの道を歩んでいるとはいっても、一足飛びに成長できるわけではありません。私は他者に愛を持って接することに憧れているものの、後から振り返るとそこから程遠い対応をしてしまっていることがあります。それでも気持ちを入れ替えて少しでもそうなれるようにと足掻いたこともありましたが、それは苦しいばかりでちっとも純粋ではない。師はそのことに気付かせてくださいます。同じことを繰り返してしまったとしても、またか、と呆れられることなく、軽やかに純粋な状態へと引き上げてくださいます。私の中の本質だけを見て、本当に気長に見守りながら導き続けてくださっています。それは何の計らいもなくただただ純粋な行為です。

私が今この患者さんにすべきことは、患者さんがより良い状況になれるよう接すること。焦らず気長に、自分がそうしていただいていたことと同じことをやっていくだけだという答えに辿り着きました。

その後、その患者さんは変わらない様子で来院されますが、私の心境に変化があったためなのか、少しずつ関係性にも変化が起きてきています。治療後、以前よりも笑ってくださるようになったのです。

これからも、少しでもより良くなれるように寄り添っていきたいと思います。少しずつ凪いだ状態を持続できるように。

治療院の玄関に飾っているヒマラヤ杉。ヒンドゥー教では聖なる樹木とされています。古代インドでは賢者が好んでこの木の元に住んでいたそうです。花言葉は「あなたのために生きる」です。

今年からこのブログ『ヨーガに生きる』で文章を書かせていただくようになりましたが、読者の皆さんに力を頂き、支えられて続けることができました。ありがとうございました。師に倣い、これからも一層より丁寧に真摯に行為していけるように精進していきたいと思います。

いつでも愛ゆえに捧げることができますように。

ハルシャニー


東京・代々木クラスのメンズチームをご紹介します!

“ヨガ”といえば女性をイメージする方も多いのではないかと思いますが、各地で開催されているマーハーヨーギー・ミッションの「ヨーガ・瞑想クラス」には男性も多く通われています。そこで、今日は東京・代々木の土曜日クラスに通われている男性陣をご紹介したいと思います!!

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数年前からご自分の人生を真剣に見つめ直すようになったと話される小菅さん。初めは「瞑想専科」に参加され、その後ヨーガ・瞑想クラスにも熱心に通われるように。ご自宅でもアーサナ(ヨーガのポーズ)を続けていらっしゃるそうですが、最近、急にアーサナが深まってこられたなぁと感じ、アーサナを始められてから現在の変化についてうかがってみました!

マハーヨーギー・ミッション(MYM)のアーサナを本格的に始めたのは還暦が近づく頃でした。YouTubeなどで様々なアーサナ向けの筋肉や腱へのアプローチが紹介されているのを見たことがありますが、私はMYMのアーサナを繰り返し練習しているだけです。MYMのアーサナは各ポーズが相互に連動していて、それだけで十分にポーズが深まるように考えられていると思います。ポーズの最中にもう限界!と思う時、呼吸に集中して心を鎮めると、スッとポーズが深まる時があります。ポーズの限界は、実は自分の心が決めているだけで、心をコントロールすると限界がぼやけてくるのを感じます。日常生活でもこの学びを忘れないようにしたいと思います。

いつも穏やかで物事をとても素直に受け止められる小菅さんを拝見していると、いくつになっても心の素直さや柔軟さを持つことの大切さに気付かせて下さいます。私もそうありたいなと思います。

続いて、昨年の春からクラスに参加されている星野さんです。星野さんは、以前からブッダにとても興味があり、ブッダの教えをベースに瞑想をされていたそうです。MYMのクラスに通われるようになったきっかけや今の心境をうかがいました。

ブッダの教えを色々調べていた時、マハーヨーギー・ミッションのWebページを見つけ、釈迦牟尼を含め、古の聖者の教えにとても造詣が深いヨーギーさんの組んだレッスンが近くで受けられるという事を知り、軽い気持ちで申し込みました。
はじめてアーサナに挑戦した当時、体中が痛くてポーズによっては拷問のように感じました。終わった翌日は全身筋肉痛になっていたのをよく覚えています。
ここ1~2年ほど、アーサナを続けて変わったと感じるのは「心と呼吸の変化、感覚への気付き」「基礎体力、忍耐力、集中力の向上」です。はじめは痛くてたまらなかったアーサナも今ではだいぶ慣れ、週に1回のクラスは拷問ではなく楽しみになりました。「毎回、自分の限界を少しずつ破ることを意識する」「どんな時にも呼吸へ集中し、息は常に吐ききる」を心がけてアーサナに励んだ恩恵だと思います。
そのおかげか、最近、瞑想中に痛みに負けて足を崩してしまうなどは少なくなり、深い集中状態にも入りやすくなりました。瞑想中に挫ける事がだいぶ減ったなぁと感じます。また、呼吸が一定で落ち着いていると雑念にもすぐ気づくようになり捕われなくなります。“アーサナは瞑想の為にある”という教えは本当でした。

星野さんはこれまでも毎日一時間以上瞑想されていたそうですが、眠気や雑念に捕われたり体の痛みで中断することが度々あったそうです。普段はあまり多くはお話されない方なのですが、今回お話をうかがって、クラスを続ける中で様々な変化を感じておられるのだなぁと嬉しくなりました!

最後は、転勤で東京に来られる前には大阪のクラスにも長年参加されていたSさんです。仕事がお忙しい中で長くヨーガを続けていらっしゃる理由をおうかがいしました。

本来、毎日アーサナを行うことが推奨されますが、私はクラスに通い始めた頃、週一回のクラスに出来るだけ参加するのを意識していました。クラスに参加した後の心身の変化は十分に実感していましたので、どこかで長く続けていきたいと考えていました。振り返ってみると、心身一如の言葉通り、今をより良く生きていく秘訣がヨーガにあると当時から認識していたのだと思います。

Sさんとお話をするといつも職場の皆さんが気持ちよく働けるように心を配られたり、環境を整えることを進んでされている様子が伝わってきます。ヨーガの成果は日常生活にあらわれるといわれています。継続は力なり。ヨーガの学びを身近な日常の中で実践され、しっかりと生かされていらっしゃるのですね。

クラスの後にパシャリ。左から小菅さん、星野さん、Sさん。クラス中の真剣な様子とは打って変わり、皆さんとても爽やかないい表情ですね!

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皆さんお忙しい中、丁寧に答えて下さり本当にありがとうございました!
週に一度クラスに集まり仲間とともにサーダナ(ヨーガの修練)を行ない、また一週間それぞれが一人で自宅や職場でヨーガの実践や学びに向き合い、またクラスでともに学び合う。とても地道な繰り返しかもしれませんが、それを両輪のように続けていくうちに気が付くと身体や呼吸、心に変化があらわれ、それが日常生活や生き方にまで反映していくのだなぁと、今回お話をうかがってみて改めて感じました。そして、私自身いつもヨーガの仲間に支え助けられていて、クラスでは毎回皆さまから貴重な学びをいただいていることに、また心から感謝と喜びと力が湧いてきました!
東京はコロナ禍の中、さらに困難な状況が続いていますが、最大限感染予防対策に努めながら楽しく元気にクラスを行っています。
このブログを見たメンズ諸氏、ぜひお気軽にクラスにご参加くださいね!!

※今後も感染状況を鑑みてのクラスの開催となりますので、スケジュールについてはHPでご確認下さいます様お願い致します。

シャルミニー


おのれこそ おのれのよるべ

コロナ禍は収束の気配を見せず流行の第三波とも言われる状況になっています。不都合を感じながらも、いわゆる「新しい生活スタイル」に沿って人との距離を出来るだけ取る生活に慣れ始めている自分がいます。しかし昨年の暮れ、来る東京オリンピック・パラリンピックに心躍らせながら社会生活を謳歌していた頃、このような時代が来ると誰が想像していたでしょうか。

部屋から見えた朝焼け。炎と輝き大空を羽ばたく神鳥ガルダのようでした。

微塵も考えなかったことは人生の様々な場面である日突然起こります。一瞬の気の緩み、コンマ数秒のタイミング、そして神の計らいやカルマとしか考えられないことなど、まるで大きな変化の歯車が冷徹に表情ひとつ変えずに廻っていく感じがします。さらに事故や大災害などによって、人生が激変した方々に思いを馳せると表す言葉さえ見つかりません。

名前あるもの。形あるもの。始めと終わりがあるもの。この世の粗大なものも微細なものもすべて変化し、思い通りにならない。私たちは20世紀初頭のスペイン風邪流行を、歴史上の出来事として知っていましたが、思いもしなかったコロナ禍は、くしくも聖典で学んだ知識を私たちに実体験させることになりました。想像もつかない出来事は人間の計らいなどお構いなしに起きる。なぜならこの世はマーヤー(神の幻影)だから。コロナで痛感させられたことです。

それでも私たちは変化に驚き、慄き、悲しんでばかりいるわけにはいきません。それは変化する対象物に依存しているのだと、ブッダは教えてくださいました。「おのれこそ おのれのよるべ おのれを措(お)きて誰によるべぞ。(法句経160)」ブッダは人間の一生における依存の対象の移り変わりを挙げながら、真に頼るべき対象について教えています。赤ん坊は一心に母親を目で追い、小学生になると先生の言葉に目を輝かせます。青年になれば恋人を昼夜想い、社会に出ると地位や財産、中年以降は健康や美への執着も加わるかもしれません。でもそれらは時が来れば消えてしまい何ひとつ残りません。

続けてブッダはこの経で、よるべとなるのは「よくととのえし おのれ」であると教えています。私が読んだ訳本では「自己の中に一切の『他』を見出した偉大な自己」と解説していました。私なりの理解では、それは「アートマン」(真の自己)であり、「真理」であり、「私の中にある神」ではないかと思います。名前も形も始まりも終わりもないアートマン。それは自分を取り巻く世界に遍満しています。自分はアートマンと悟ること。それこそが受け入れ難い変化を受け止めていく究極の方法なのだと思います。

私は執着を捨てるために、本当の自分への瞑想を進めています。瞑想は少しずつ深まっていると感じますが、同時に自分の執着の根深さを垣間見て、恐ろしささえ感じ無力感に苛まれることもしばしばあります。「わかっちゃいるけどやめられない。」昭和の頃の歌謡曲で聞いたことがある様な文句ですが、飛び跳ねる猿のように狡猾な心の正体を知ったからには、絶対に負けられないと日々気持ちを奮い立たせています。

前述の経はブッダが入滅を目前にして、嘆き悲しむ弟子の阿難に語った言葉だそうです。「お前は自分自身に燈火を抱いて、自分の足もとを照らし、ゆく手を照らし輝かせ」と力強く教えられたそうです。ブッダはこの時こうも語ったそうです。「私の肉身を見る者が私の弟子ではなく、私の教えを知る者が私の弟子である。(ヨーガの福音)
今、コロナ禍のために師であるヨギさんにお会いできないという試練に直面しています。私がそれを悲しみ嘆いてばかりいたら、それは私がヨギさんに依存しているのであり、師の教えとは相容れないことなのだと思います。師に依存するのではなく「私は師とひとつである」という揺るぎない事実。その教えを燈火として、ただひとり歩んでいきたい。師はコロナ禍を通して私にその経験をさせて下さっているのだと思います。

最後に一言。でもやっぱり早くヨギさんにお会いしたいです。

昨年の暮れに訪れた足摺岬。自らの足下と行方を照らす灯台の如くありたいです。

小菅 貴仁