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ミラバイさん、台湾訪問の報告! (by プリヤー)

2年ぶりに、ようやくミラバイさんを台湾に招待することができました!

4月25日から5月8日までの2週間、台北で各2回のアーサナ‧瞑想クラスとバクティ‧サンガム、3回のサットサンガが行なわれました。また今回はそれに加え、特別企画を開催――グルバイ(兄弟姉妹)のマールラーが住んでいる台中で初めてアーサナ‧瞑想クラスが行なわれました!
このミラバイさん訪台の様子を、写真を交えながら私プリヤーが報告させていただきます!

毎回のアーサナ‧瞑想クラスは静かで集中感が漂い、参加者たちは自分の限界までポーズと呼吸を深めていきました。クラス最後の30分の質疑応答の中では、ポーズの順番や注意点、毎日のアーサナの時間帯、飲食とアーサナの関係、瞑想についてなど、たくさんの質問が出ました。どの質問に対しても、ミラバイさんは丁寧で分かりやすく答えていました。ミラバイさんの励ましを通じて、みんなはもっと自信をもって実践を続けられるようになりました。

アーサナ・瞑想クラス@台北

アーサナ・瞑想クラス@台北

アーサナ・瞑想クラス@台中

『真実を求めて』を買ってサインをもらうシーン

サットサンガでは、最初多くの参加者は悩みや不安を抱えているように見えましたが、ミラバイさんから出るヨギさんの教え、真実の答えは、不安の雲を吹き払って、聞いているうちにみんなからは笑顔がこぼれて、時にはミラバイさんのユーモアで大笑いしました。会が終わると、誰もが晴れやかな表情になっていました。

サットサンガ@台北

サットサンガ@台北

またバクティ・サンガムは、たくさんの人が心待ちにしていたことでした! 今回ミラバイさんは、台湾の私たちが歌ったことのないキールタンを2曲紹介されました。一つは踊りたくなってしまう『Siva Sambho』で、もう一つは歌詞とメロディが簡単で覚えやすい『Tumi Bhajare Mana』です。ミラバイさんはずっと私たちを励ましました――キールタンはいつでもどこでも歌える。どんな曲でもどの神の御名を唱えてもいい。その神にまつわる物語を知らなくても問題ない。大事なのは、神の御名を唱えることによって、私たちの心に再び神聖な存在を憶えさせること。キールタンでは、何人かが陶酔するように目を閉じて歌っていました。それは神とのつながりを、その歓びを感受していたのかもしれません。

ここで、グルバイのシューシューとアヤノの感想をご紹介します!

シューシュー:
ミラバイさんの来訪をとても楽しみしていました。最近仕事のため、アーサナクラスに行けなくなって、それで心がだんだん動揺してきて、自分で制御できないほどの葛藤と苦しみを感じていました。でもミラバイさんのキールタンのおかげで、私は解放されて、もう一度平安を味わいました。目を閉じてキールタンを歌うと、ミラバイさんの歌声がまるで滝のように私の胸を急激に打ち、脳天が衝撃を受け続けました。涙も止められませんでした。最後のマントラの時、メロディを教えるためにミラバイさんが一度唱えました。その時、とても自然にミラバイさんはまず目を閉じて呼吸をしてから口を開きました。その敬虔な姿を見て、バクティ・サンガムはミラバイさんのコンサートでもなく、パフォーマンスでもない、彼女がリードされるのは私と神との会話だったのだと気付きました。今回の機会を通じて、再び先輩の力強さを感じました。これからも頑張ります!

アヤノ:
3月にヨギさんが日本に帰られた後、私は病気になったこともあって、心の中にたくさん真理に逆らうものが浮かび上がっていました。苦しんで葛藤していましたが、ミラバイさんが来られたのは、恵みの雨のようでした。
何回もミラバイさんにお会いしましたが、特に今回、ミラバイさんのお姿にヨギさんが見えるように感じました。それはいったい何なのでしょうか? 本当に知りたいです!
1回目のキールタンでは、歌を歌って心の中が歓びでいっぱいになり、ミラバイさんの笑顔と歌声からヨギさんの愛を感じました。サットサンガでは、この1カ月間の葛藤について質問をしました。その中で、あたかも他には何も存在せず、神との関係だけがここに在るように感じました。
ヨギさんは以前、「もっとグルバイと一緒に時間を過ごすように」とおっしゃったことがあります。今回ミラバイさんの来訪を通じて、実際に真理を実践している方の様子を身近に見ることができました。ミラバイさんが優しく話されるうちに、「真理を心に教える」ということがどんなことなのか、突然分かるようになりました! もし真理を頑固な心に教え込めば、私も優しい態度でみんなにヨギさんの教えを分かち合えるでしょう!
ミラバイさんは私たちのような小さなお花の世話をしてくださいました。本当にありがとうございました。また前に進めます!

この2週間、とってもハードなスケジュールをこなしてくださったミラバイさん。台湾のみんなはミラバイさんの魅力に深く惹かれました。ヨギさんやヨーガの教えを話される時のミラバイさんは揺るぎなく、明快でロジカルであり、同時に優しく広大な心をもって、全く批判せずに完全に相手の状態を受け入れ、誠心誠意、真理の言葉を与えてくださいました。また、ミラバイさんの真摯な眼差しと明るい笑みはすべてを溶かし、誰もの顔が自然に綻んでいきました。みんなはまるで子供のように不安も心配もなく、楽しくミラバイさんと交流することができました。

ミラバイさんが執筆された『真実を求めて』を開けば、ヨーガを学び始めた反抗的で頑固な女性がそこにいますが、今、目の前にいるミラバイさんの姿は美しく光り輝いています。この二人は本当に同じ人なのか!と思ってしまうくらいです。けれど、「私でも歩んでこれたので、みんなも必ずできますよ」と、ヨーガの道を歩む先輩ミラバイさんは保証してくださいました。

真実を求める道には起伏があり、うまくいかない時もあるかもしれませんが、ミラバイさんのような先輩が前を歩んでいるからこそ、私たちは安心を得て、勇気をもって前進できます。
ミラバイさんが台湾に来て、無私にヨギさんの教えと一切を分かち合ってくださって、本当に感謝の思いでいっぱいです。ありがとうございました! 次回のミラバイさんの来訪を楽しみにしています!

*速報:
今回ミラバイさんの来訪とともに、ヨギさんから台湾への祝福が届きました。クラスや読書会を行ない、グルバイたちがよく来る場所は216巷と呼ばれていましたが、ヨギさんはその場所に「Ananda Ashrama(アーナンダ アーシュラマ)」と名付けられました。その名前を受け取った時、グルバイたちはみんな感動して大歓びしました。本当に大きな贈りものを受け取りました。このアーシュラマに来る人たちが至福を感じられるように頑張ります!!
ヨギさんに心からの感謝を捧げます。

プリヤー


サットサンガより 今を生きる

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
桜も早々と葉桜となってしまいましたね。でも今度は、色とりどりのハナミズキが私たちの目を楽しませてくれています。移り変わる季節のように、この世の中も常に変化し続けています。変わることのない、永遠の真理を求める求道者たちが、この日も集まり、サットサンガが行なわれました。

仕事をする上で、また日常の中で、いろいろな問題が起こってきます。過去の失敗に執らわれて萎縮してしまったり、不安を感じたり、その環境に居心地の悪さを感じてしまう時には、どうしたらいいのかという質問がありました。
師「これも一つのヨーガを深め、進めていく大事なところなんですけれども、ヨーガが考えている時間論というのがあるんですよ。時間というのは普通、流れているように、つながっているように見えているかもしれないけれど、実はそうではない。それは心の錯覚であると。あるのは、その一瞬一瞬のつながりにすぎない。つながってはいない。その一瞬前に過ぎ去ったことと今の一瞬が同じものをもっているから、つながっているように見えるだけ。だからやがて来る未来的一瞬にしても、今の一瞬と未来的一瞬のニュアンスが似ているかのような錯覚を起こしてしまうからつながっているように見えるだけで、実は全く独立している。
瞬間瞬間は独立しているという考え方なんです。だから時間なんていうのはない。時間は単に心が造り出した幻想にすぎないというのが、私の考え方です。つまりヨーガの考え方なんです。
ということはね、グナというヨーガの考え方があるでしょう?このサットヴァとラジャスとタマスというグナによって万物、それから世界、すべての宇宙すらもが活動している。このグナの三つ巴になったような様子というものが、一瞬一瞬激しいダイナミックな動きをしている。つまりラジャスの力によって、激しい変化の連続にすぎない、だから一瞬というものをとってみれば、この一瞬とちょっと前の一瞬とこれから来る一瞬とは、全くそのグナの様相が違うということがいえるわけです。
でもこれはものすごいヒントなんですよ。つまりもう過去はない、ね、つながっていないんだから、ないんだと。未来もこれもまた、未来に思いを馳せれば、これは取り越し苦労とか心配性とか鬱とか、やがて病気の名前を付けていくようになるわけでね、これも幻想なわけです。あるのは、今のこの一瞬だけ。これが済んだとしても、次に来ているこの一瞬だけ。つまり一瞬一瞬、この目の前のこの一瞬だけしか勝負できない。
ということは、この一瞬において、心を心機一転させることができる。これをやっぱり訓練していかないとだめ。過去は今言ったように時間論的にみてもないんだから、記憶というのも同じこと。その時間というこの装置に育まれた単なるメモリー。だからそんなものは、もうセンチメンタルに、感傷的になる必要はない。
いいも悪いも、あるのは今だけ。だから今を良くしていくこと。だからヨーガ・スートラには『無くすべきは未来の苦である』という名文がある。未来の苦を無くすには、今を良くするしかないわけですよ。今が未来を作るわけだからね。だからこそ、これはできるの。変化は作れる」

時間は単に心が作り出した幻想にすぎない、時間論的にみれば過去はない、ただ今を良くしていくだけであると、師は説かれます。思えば時間とは一体どんなものなのでしょうか。たったの五分しかない時もあれば、この上もなく長い五分もあるわけで、時間は完全に私たちの心の状態に依存しています。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは『ギャーナ・ヨーガ』の中で、「すべての奮闘努力は、常に我々の道の障害物である、時間、空間及び因果律へのこの強い執着から脱するためである」と説かれています。

質問者「カルマとかの過去とか過去生は時間的にはどういうことになるんですか」
師「カルマというのは、やはり心が無知に覆われた中で活動をしているわけで、だから幻想的時間というものも設定されているわけです。つまりカルマも時間と空間とその因果律によって構成されるわけですね。だから真実から見れば……カルマも幻想なんですけどね、カルマなんて本当は無い。カルマも無ければ、無知も本当はない。それは真実から見た場合はもう全くそうなる!ただ心がその真理を見られなくて、無知に覆われてしまっているから、そういう幻想的空間に放り込まれてしまって、その中で活動を右往左往しているというような滑稽な状況なんです」
質問者「ということは心が空間も時間も因果律もカルマも造って……。自分たちで造ったものを自分たちで一所懸命理解してということをやっている」
師「そう!一人芝居(笑)。究極の一人芝居」

師の教え、ヨーガの教えによって、この世界の謎が一つずつ解き明かされていきます。ただ今をより良くしていく、この単純なことを素直に行為していくこと、それがこの夢の世界から目覚め、カルマから解き放たれる、永遠の真理へ続く道なのだと思いました。

ダルミニー


歓喜の春の祝祭! サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー!

2018年4月8日(日)、偉大な主ブッダのご聖誕日に、マハーヨーギー・ミッション主催、
第2回 サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー -神性示現大祭-
が開催されました。

今年は全国的に3月末に初夏の日和が続き、桜も驚いたのか一斉に咲き始め、春の祝祭は若芽の緑が春光に映える中で行なわれました。全国各地から、そしてニューヨークから、また先月末に師がご訪問された台湾からは想いによって、プレーマ・アーシュラマにはたくさんの弟子たちが集いました。祝祭会場には、溢れんばかりの喜びの笑顔が輝きました。

今年も祝祭前に仁和寺ツアーが開催されました。ツアーコンダクターはターバンを巻いたゴーパーラと、残念ながら写真に写っていませんが、着物姿の高橋さんが担ってくれました。

サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーは、永遠普遍の真理サナータナ・ダルマとそれを100%純粋な形で具現されたアヴァターラ(神の化身)の顕現に感謝を捧げ、私たち自身アヴァターラが示された道を歩み、サナータナ・ダルマの実現を誓願する、喜びの祝祭です。

続々と参加者が美しい笑顔をまとってやってきます!

昨年は第1回目ということで、古来全てのアヴァターラに感謝を捧げる祝祭となりましたが、2回目となる今年の春の祝祭では、アヴァターラたちの中でも特にブッダにフォーカスし、ブッダの存在と息吹に迫ることで、私たち自身がまさにブッダが発見された古道、すなわちサナータナ・ダルマの道の途上にあることを再認識する素晴らしい機会になりました。

詳細は、機関誌『パラマハンサ』5月号に譲るとして、ブログでは当日の写真を中心に祝祭の模様をお伝えしようと思います。

会場のプレーマ・アーシュラマにサハスラーラの旗が翻ります。

玄関を飾る色とりどりの花々が喜びとともに参加者を出迎えてくれます。

ブッダの存在とサナータナ・ダルマに迫った七人の真剣でいながらもユニークなスピーチに、師も参加者も全員が聞き入り、笑い、涙し、歓喜に沸き立ちました!3月末に師が訪問された台湾からも喜びのメッセージが届きました。

吉祥なこの日に3月末にニューヨークで発行された『Seeking Truth』(『真実を求めて』の英語版)のお披露目があり、ニューヨーク・ミッションから参加したエーカーンタ(左)とアーナンダマーリー(右)がそれぞれ本を読んだ感想と出版への思いについて話されました。

一言で言うと、なんと素晴らしい歓喜を味わえたことでしょう!素晴らしいスピーチの数々!それぞれがブッダの清らかな魂に触れ、その振動がその人の生き様、実際の体験を通して溢れ出しました。その喜びの奔流、歓喜の大海に溺れてしまいそうでした。アヴァターラという存在がもたらす永遠の歓喜に触れた魂は、一瞬でみずみずしい命の歓びに蘇りました!

春と秋の二つの祝祭!その歓びの輪が大きく大きく広がっていきますように!

師とすべてのアヴァターラに心より感謝を捧げます。

ジャイ・サナータナ・ダルマ ジャイ・アヴァターラ!

サーナンダ


シュリー・マハーヨーギー、台湾特別サットサンガのご報告(2)‼️

3/23~3/26の三日間、師の訪台に合わせて台湾を訪問させていただきました。前回のゴーパーラのブログに続き、現地で経験したこと、感じたことを報告します。

真理は普遍不滅です。いつどこにいらしても全く変わることのない柔和な笑顔で真理を説き、祝福を与えておられる師。その存在や教えに酔い、熱心に実践する台湾の修行者たち――神と魂との間で行なわれる一期一会の交流、一人一人の魂の救済が、実際に目の前で行なわれていました。

あるご婦人がはきはきとした口調で「日常での他者との関わりの中で、どのように行為していけばいいのでしょうか」と普段からの疑問を師に問いました。師は、各人は各人のカルマに応じ生まれ落ちていること、自分の子供であっても配偶者であっても社会で接する人であっても同じ存在として行為する他ないと話され、「あとは各人に任せましょう!」おっしゃられました。その瞬間、質問したご婦人に安堵がもたらされたようでした。真理が正に今伝えられているという現場に立ち会った感触がありました。私はこれまで「過去にどこどこで覚者が真理を伝えた」と漠然と考えたり話したりしていましたが、具体的にそれは真理に基づいた献身奉仕によって、一人一人に安心や笑顔がもたらされることなのだと思い知らされたのでした。

サットサンガの後で、台湾のグルバイたちと車座になって話しました。「瞑想の中での実感と日常での実践はどのように関連しているか」や、「これまでどのように信仰を保ってヨーガを実践してきたのか」など、皆とても真剣でした。ある男性の修行者から、「台湾と日本のサットサンガはどう違いますか」と質問がありました。私は直ぐに「同じだと思う」と答えました。台湾の修行者も日本の修行者同様、実践を伴った質問をし、師は真剣に且つ純粋な真理を説かれ、導かれていたからでした。いつも京都では訪問者として会う台湾のグルバイ(兄弟姉妹)たちも、ここ台湾では、シュリー・マハーヨーギーの弟子として歓びの中で行為していました。その彼らの働きを見て素直に感動を覚えました。ヨーガでいう信仰や志は、人種や国籍問わず普遍的なものです。彼らと同じものを見て感じ、同じものを理想としている!自らの理想への思いと日々の修行をもっと積極的に実践したい!とインスパイアされました。

帰国の途の飛行機の中、これからの日常のことを考えたとたん、それまでの高揚した気持ちが醒め、素にもどりました。それと同時に、台湾のサンガが育っていること、その背後にはこれまでも並々ならぬ実践と努力がなされてきたのだろうということ、先輩のミラバイさんと中心となって働いてきた台湾のグルバイの思いと行動が感じられ、尊敬の気持ちが湧いてきました。その根底で一人一人をただ大切にされ導いておられる師の偉大な存在と働きを感じ、感謝の思いが溢れてきました。

いつも変わらず導いてくださっている師に、自らの誓願を改める機会を与えてくれた台湾のグルバイと先輩のミラバイさんに、この場をお借りしてお礼申しあげます。これからもっとシュリー・マハーヨーギーの弟子として、自らの修行と積極的な献身奉仕を実践していきます!榮光在(栄光あれ) Taiwan Sangha!

3/24(土)Joyful Living(心悦人文空間)で行なわれた特別サットサンガ後の交流の様子。

ラームダース


シュリー・マハーヨーギー、台湾特別サットサンガのご報告(1)‼️

ブッダは悟りを啓いた後、托鉢をして民衆に教えを説き、その生涯を全うしました。
年齢や性別、カーストを越えていろんな人と関わりをもったと想像できます。
その時、どんな問答がなされたのでしょうか?
またブッダと共に托鉢をしていた弟子は、その師の姿を見て、何を感じたのでしょうか?

3月21日〜3月28日まで、私たちの師シュリー・マハーヨーギーは台湾をご訪問され、全4回のサットサンガが開かれました‼️
私は師を追っかけるようにして、週末に行なわれた2回のサットサンガに参加してきました🏃💨
師の訪台は今回で3度目ということもあって、初めて師にお会いする方だけでなく、何度か師にお会いする方、弟子となってヨーガを実践しているグルバイ(兄弟姉妹)にと、さまざまな方がいました。
そんな中、私が参加した2回のサットサンガでは「仏教」に関連した質問が多くありました。

3/24(土)Joyful Living(心悦人文空間)で行なわれた特別サットサンガの様子。

この台湾は仏教徒の数も多いのですが、通りの名前に忠孝と付いていたり、地下鉄の優先席が博愛座席と表記されているように、目上の人や親を敬い、家族を大切にする忠孝の精神が根付いている国です。
ただその分、家族関係の問題も多くあります。
もし生きている間、その関係が良好ならば、それは幸せなことです。
でも、愛する家族との別れが訪れた時、その悲しみは深く、愛着が強ければ強いほどその関係性は生きている間だけではなく、亡くなった後も続くように感じます。
この台湾のサットサンガでは、「お盆を行なう意味はありますか」「死者に念仏やお経を唱えて浄土に行くことは信じた方がよいでしょうか」といった家族の死に際して執り行なわれる仏教儀礼に関しての質問がいくつかありました。

私たちの師シュリー・マハーヨーギーはどのように応えられたのか――

師は決して、既存の宗教や信仰を頭から否定されませんでした。
お盆については、「死者がこの世に戻り、またあの世に帰るというその行事は輪廻転生の理から矛盾しているけれども、生きている者にとっては先祖や身近な家族への思い出を大事に思い直す、そういう機会だと理解すればいいと思います」と説かれました。
この質問をした方からは、「生きている今が大事ということですね」という言葉が自然と出てきたことに、私は驚きました。

また、真理を実践して成就を目指そうとしている方には、仏教のルーツであるブッダが初めて説いたといわれる「苦集滅道」の教えを、四苦八苦から一つ一つ丁寧に紐解いていかれ、まず実践を深める上では「真理を正しく理解すること」が重要であると言葉を尽くして説かれていました。
この質問者は終始、師に魅了されて吸い込まれたかのような眼差しで、その教えを聞き入っていました。

私はこの台湾の特別サットサンガに参加させていただいて、ブッダの次の言葉が思い出されました。

「私は宗教を壊しに来たのではない、成就しに来た」

師は、さまざまな人に対して、その人が真理に向かうための最善の教えを慈悲深く丁寧に説かれているのを感じました。
もちろん宗教とも呼べないニューエイジ的な考え方に対しては「間違っている」とスパッと言い切る問答もあって、そんな師のギャップに笑いが起こる場面も……笑
否定も肯定も超えた真理の道、まさに中道!
ブッダが托鉢をしながらさまざまな人に説いた対機説法がありありと蘇ってくるような、ブッダの臨在を感じた最高の台湾特別サットサンガでした!!!

ゴーパーラ


サットサンガ 知っている人と知らない人

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

季節がめぐるのは本当に早いです。ついこの間まで、いつまでも寒い日が続くなと思っていましたが、明日は春分の日。もうすっかり春の様相ですね。
気分一新、今回はあらためてヨーガの悟りについて考える機会がありました。

ヨーガで教えられるのは本当の自分という存在です。それは肉体でも、心でもなく、私という意識。もちろんエゴ・自我とは違う純粋な“私”という意識です。
それは、「真我」と呼ばれたり、「真理」と呼ばれたり、そして「神」と呼ばれたりもします。それぞれ全く同じただ一つのものを表す概念ですが、この呼び方が一番しっくりくるという、いろいろな意見をヨーガは差別しません。
その存在と合一することがヨーガの目的ですね。
ただ、そこに至るアプローチは人それぞれです。合一、つまり悟った人を覚者・聖者と言いますが、彼等でさえその悟りの境地の表現は様々です。

けれども、どの覚者も悟りの境地を教え説く際に、真我も真理も神も、どの言葉も同じだと言っています。その三つをすべて満たして、それでもまだ言葉がたりない絶対的な存在。
いったいどんな境地なのでしょうか?この境地の事を考えると、私はどうしようもなく憧れる気持ちを抑えられなくていつも圧倒されます。

知らない人は、知っている人の体験を一所懸命聞いたり読んだりして何とかその境地に近づきたいと願ってきました。

先日のサットサンガで、このことについて質問がありましたので、ご紹介します。

質問者「無と神と真実とか真我は全部イコールということなんですか」
ヨギ「無という言葉は抽象的で非常に難しい理解が必要とされます。似た言葉で空という言葉もある。どちらも仏教の教えの中で使われ、またヨーガの聖典にも出てくる言葉でもあるのです。ここでいう無とか空というのは一方ではその心やこの世界、さまざまな有、有限の有、これに反するもう一切のそういう計らいのない無差別の様子を無とか空というふうに表現する場合があります。同時にその無とか空は無尽蔵に福寿というか——福寿というのは至福であったり永遠というものがそこにあると。全く正反対のことを言っているんですけれども、これはどのように理解したらいいかと言えば、一方は心から見た状態を言っているし、もう一方は真理から見た状態を言っている。でも同じ言葉が使われている。こいういうふうに理解せざるを得ない。だから、その無とか空について議論するのは愚かなことなんですけれども、知っているものから言わせればそういうことになります(皆笑)」
質問者「それで神とか真理とか真実は」
ヨギ「そうですね、それを指す場合もあるということですね」
質問者「それは知っているものから見ると」
ヨギ「そう(皆笑)、真理から見た場合は一切の無知とかそういうものがないから、そこにあるのは真理だけだということになるわけです」
質問者「なるほど。本とか読んでいるといろんな言葉があるから、イコールなのかどうなのかなと、ちょっと思っていたんです」
ヨギ「見る立場によってその解釈もずいぶん違って、本によっても違うと思います。でも本当の真実在というものはそんな言葉さえもすべて超えているということも言っておきましょう(おどけられたような様子で)。
無でも空でも、そんなのもどこにも無い。そんなのも全部超えてそれだけがありありとリアリティをもって、それだけが在ります。そしてそれがみんなの本質であり、自分自身です」

生まれて一度も海を見たことのない人に海の説明をするように、言葉を尽くしても決して知らない人のイマジネーションを満足させることはできないです。
しかも悟りの境地は姿形あるものが何一つ及ばない、たったひとつ永遠のものだけがそこに在って、それだけが遍満しているといわれます。
もう知らない人のイマジネーションは限界を超えて自分の思考を飲み込んで、それだけでもの凄い高揚感を覚えます。

何物にも変えられず、何物とも混じらず、永遠にただ在る。
絶対的な存在が私達人間の、そして万物の本質なのだと言われます。この存在を知ったなら、もうどんな思いにも、出来事にも、揺らぐことも煩うこともなく、自由で自立していられる。

ヨーガを続けているとほんの少しの時間ですが、この自由・自在の状態を感じる瞬間があります。心は何の不満も不平もなく、快・不快も超えて…というより、そういった思い自体が湧き上がることなく、目の前の出来事をただ在るがままに見つめているように、泰然とした静けさの中に留まれる瞬間があります。きっとその片鱗を感じ取っているから、知らない世界にいながら、知っている人の世界に強烈に惹きつけられるのだと思います。

絶対に突き抜けてその境地を体得したいです。

Caitanya


シュリー・マハーヨーギー、台湾ご訪問の宣伝動画を公開!

3月に入って春の訪れが感じられる気候になってきましたが、春分を迎えた3月22日から、私たちの師であるシュリー・マハーヨーギーが台湾をご訪問されます!!!
今回で3度目のご訪台!
昨年は2度も台湾を訪れ、多くの台湾の方に霊的な導きと祝福をお与えになられました。
その時の様子は台湾の弟子プリヤーが素晴らしい筆致でブログを書いており、また、新しくなったWebサイトには台湾特別サットサンガの第1日目の問答が掲載されています。
詳しくはこちら→ブログサットサンガ

そして今回、なんと台湾のグルバイ(兄弟姉妹)たちが、シュリー・マハーヨーギーのご訪台に合わせて、宣伝動画を作成しました!

——シュリー・マハーヨーギーとは誰ですか?
多くの弟子は敬愛の態度をもって、シュリー・マハーヨーギーのことをヨギさんと呼びます。
みんなにとって、いったいヨギさんはどのような存在ですか?——

という問いかけに、台湾のグルバイたちが答えるという内容です。
字幕が台湾語で出てきますので、以下に日本語に訳したものを載せています。
映像とともにお楽しみください。
南国の暖かく陽気なプラーナとともに、ヨギさんへの敬愛が感じられる素晴らしい動画となっています〜☺️🌴

 

ケイ:ヨギさんは揺るぎない眼差しと温かい笑顔をもつ先生です。

ザォユァン:ヨギさんは京都に住まれている、とても知恵深くて、ヨーガの知識を教えられる方です。

ツィイー:ヨギさんはヨーギーであり、眼差しが愛で満ちている方です。そして私が今まで会った人たちの中で、唯一身口意が一致している方です。

ラーダー:ヨギさんは自由な方であり、束縛のない方であり、いつも歓びの中におられる方です。それは理想的な人間だと思います。

シンユン:私にとってヨギさんは言行が一致している先生です。

パンパン:ヨギさんはヨーギーであり、覚者であり、私が見倣いたい方です。

ソウ:ヨギさんはエネルギッシュな方であり、彼の教えはシンプルで深いです。

キャリー:ヨギさんは悟った方であり、とても優しい方です。彼はヨーガの教えを通じて、私たちが真理や心の安定を見つけることを助けてくださいます。

リリー:ヨギさんはとてもすごくて、本当にたくさんのことを知っておられる方です。彼の言われることは私たちがこれまで他のところでは全然聞いたこともないことなので、みんなもきっと聞きたくなると思います。

 

今回は4回のサットサンガが開催されます!

台湾特別サットサンガ
● 3/22(木)19:30〜 @SPACE YOGA
● 3/24(土)14:30〜 @JOYFUL LIVING
● 3/25(日)14:30〜 @JOYFUL LIVING
● 3/27(火)19:30〜 @JOYFUL LIVING


サットサンガより プレーマ 真の愛 

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

愛とはいったい何でしょうか?

愛する人がいるとき、気持ちが高まってただその人だけを思う。昼も夜もその人が心を占めている。
強い昂奮と多幸感に支配されて、食事もいらない、眠りもしない、そして何も恐くない。
でもその幸せな状態に長く留まりたいと願う反面、現実には時間と共にその感覚は薄まり、状況が少しずつ変化するにつれ、相手に対する新鮮味がなくなり気持ちが離れていくことも。

愛は絶対のものでしょうか?
永遠の愛、本当の愛とはどんなものなのでしょうか?

先日のサットサンガで、愛とヨーガについて師が説かれました。

「ヨーガの完成、悟るべき真実というのは不滅の存在。これは二つとない唯一の存在であり、純粋意識、そして至福という歓喜です。バクティ・ヨーガの完成とはプレーマという真の愛、本当の愛です。では本当ではない愛といえば何かというと、いわゆる人間的な愛。この世俗に見られる一時的な愛。これはその陰に憎しみやら、さまざまな不完全なものをもっているからゆえに真実ではない。
だけどバクティ・ヨーガにおける愛というのは、真実の愛。これは言い換えれば献身奉仕です。他者への愛。『隣人を愛せよ』というものにも通じる献身奉仕。

この献身奉仕はカルマ・ヨーガのゴールでもある。それは同時に自由自存というラージャ・ヨーガのゴールとされている境地でもある。また、それだけが在るというギャーナ・ヨーガのゴールでもある」 

四つのヨーガで悟る真実というのは、二つとない唯一の存在。それは純粋な意識であり、至福そのもの。
何物にも依存しない自由な自己。それだけが在るという境地、そのありのままの状態で他者に献身奉仕することが至福、つまり完全な真の愛と同一した状態。
これが解脱。ヨーガの完成。
何と美しく、完全で、円満で、自由なのでしょう。

師は最後に、エゴや無知に阻まれ、不完全ながらも世俗で修行する私達弟子に希望の言葉もおっしゃられました。

質問者「真理や神に対する最高の愛、プレーマは世俗に生きる生身の人間同士の間にも発生できますか」                                                                                    (低く力強いお声で)「できますとも」

質問者「それが自由自存ということになるのですか」                                                                           「はい、そうです。」

質問者「それは肉体の制限を超えるのですか。例えば生涯の間の時間であったりとかそういうものも超えて」
(即答される)「超えます」

質問者「永続するもの」
(ハッキリとしたお声で)「はい。」

私はまた雷に撃たれました。師の御言葉がハートを貫きました。

本当の愛を、何が何でも実現したいと心に誓いました。

Caitanya


サットサンガより カルマ・ヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

 

みなさん、こんにちは
新しい年も明けましたね。今年の目標はもう立てられましたか?目的意識をもって生きるということが私たちの人生にとって、ものすごく大切なことなのだということもヨーガで学びました。その目標に向かって今年も精進していきましょう。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、年明けのサットサンガではカルマ・ヨーガについての質問がありました。ヨーガは、この世の本当のこと、真実を実現するためのものですが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダというインドの聖人は、ヨーガの実践方法には四種類あると説かれています。まずカルマ・ヨーガ、それは働きのヨーガといわれ、働きの秘訣を学び、真実を実現するヨーガです。そしてギャーナ・ヨーガとは知識のヨーガ、ラージャ・ヨーガとは身体や心を使う王道のヨーガ、バクティ・ヨーガとは信愛のヨーガです。
そして、私たちは過去の原因となるものの結果を必ずむかえるという、カルマの法則に支配されていますが、もともとのそのカルマの原因となるものを無くしていって、そのカルマに翻弄されないようにしようというのが、カルマの消化ということになります。

質問者カルマを消化するということについてなんですけど、瞑想の中でカルマを消化することができない場合、カルマヨーガとい手段でもって行なっていくなら良くないカルマも恐れることはない、前に前に進んでいけば、良くない願望でも軌道修正されてそれがいい願望に変わるといにヴィヴェーカーナンダの本に書いてあったんですギャーナヨーガとかラージャヨーガで瞑想してカルマを消化するといことは未来に対してのカルマを無くしてしまといことですよねそしたらカルマヨーガの中で経験しながらカルマを消化するといのは結局苦悩を味わいながら軌道修正して消化するといことなので徹底さといところからみたらカルマヨーガの方が低い感じの印象を受けるんですけれどもなんでしょ
ヨギ高い、低いの区別はないですけれどもねヴィヴェーカーナンダがいっているカルマヨーガといのは単に自分の義務を果たすといだけの劣位のカルマヨーガのみならず少し積極的な他者への奉仕的な、献身奉仕を踏まえながらカルマヨーガとい言葉を使っているよな気がするんです
すると他者への献身奉仕といのはもとよりエゴとかそ煩悩を少なくともその行為の時には無いよにしておかなければできないことですよねだからこそ実際的行為を伴ってカルマヨーガをすれば内面のカルマも落ちていく無くなっていくまたその根源である無知、煩悩も薄らいで無くなっていくとい教えだと思います
ギャーナヨーガとラージャヨーガといのは確かに瞑想の中でカルマやそのカルマの原因を識別していくことなんですけれどねそれはある意味、心の中で行なわけですよねだからそれと心といのは非常に深い領域をもっているのでそんなに簡単に無知と煩悩がそっくり無くなるとい話ではないやっぱりそれなりのものすごい闘いの熾烈さがあるのは事実ですだからそれをやってのけられるにはそれなりの資質と状況がラージャヨーガとかギャーナヨーガといのは求められるその点カルマヨーガといのは誰もが日常の中で行なことができるいったやりやすさといものもそこにありますねそんなところを踏まえながら彼はより多くの人に具体的なアプローチ方法としてそ教えを述べたんだと思います

師は優位のカルマ・ヨーガとして、他者への献身奉仕を積極的に行なっていきなさいと教えてくださっています。

私は、常に他者のために善き思いをもち、善き行為をするという献身奉仕の働きにより、次第に自分のことが後回しになって、それが自分のエゴや煩悩を無くしていくことにつながるのだと気付かされました。スワミ・ヴィヴェーカーナンダは「カルマ・ヨーガ」の中で、こういわれています。

心の表面を動いている善い思い、善い印象の不断の反映によって、善をなそうという傾向は強くなり、その結果、我々はインドリアス(内的感覚器官、神経中枢)を制御できることを感じます。こうなって初めて性格は確立し、その時に初めて人は真理に到達するのです。

優位のカルマ・ヨーガは、私たちのライフワークになっていくのだと思いました。

ダルミニー


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー