聖典を読む喜び

私は今、とても楽しく毎日聖典や聖者の本を読んでいます!

普段の私の日常生活は仕事や家庭が中心なので、自然にヨーガの話に触れたり、いつでも周りの誰かとヨーガの話ができるという環境ではありません。ですがこれまでは、毎週クラスでヨーガの仲間と顔を合わせ、クラスの後にそのままいつまでもヨーガの話をしたり、一緒にキールタンを歌い共に神の御名の歓びを分かち合うということが当たり前のようにできていました。それは私にとって大きな喜びであり、確実に日常生活の中でヨーガの実践を継続していく一つの原動力にもなっていました。
ところが、緊急事態宣言以降はそのような機会がなくなり、長い間、師にお会いすることもできず徐々にモヤモヤとした気持ちが膨らんできました。
「あぁ、師にお会いしたい!真理や神の話が聞きたい!語り合いたい!でもこんな状況でどうすれば……。そうだ聖典があるじゃないか!!」
いつもはじっくり本を読む時間がなかなか取れないのですが、外向きな活動が減り在宅時間が増えたので、分厚くて家でしか読めない本もゆっくり読むことができます。

最近よく読んでいる本。『ヨーガの福音』は師の教えが編纂されたとても読みやすい一冊。いつもすぐ手に取れる所に置いています。

実は、以前は聖典や聖者の本と聞くと何やらとても難解で、私が理解するにはハードルが高すぎるというイメージがありました。実際「さあ、読むぞ!」と気合いを入れてから読み始めるのですが、カタカナで書かれた聞きなれない言葉を正確に読むことから難しく、言葉の意味や書かれている内容を理解するのは更に根気がいることでした。「何のことやら、さっぱり分からん…」何度も挫折しそうになる心を叱咤激励しながら何とか読んでみるものの、大抵はしばらく読んでいるうちに睡魔との戦いにあえなく敗れて本を閉じる、というのがお決まりのパターンでした。笑
そんな状態の私でしたが、師の下でヨーガを学ぶようになってから、たくさんの学びの機会をいただき、聖典に出てくる言葉の意味やヨーガの教えを少しずつ理解できる様になっていきました。師は、真理の言葉や教えを誰にでも分かるように、時にユーモアを混じえながら実に分かり易くシンプルに教えて下さいます。直接師より授かる教えは何ものにも代え難い大切な宝物です。ですがそのような貴重な機会はいつもあるわけではありません。師にお会い出来ない時には、師の教えが編纂された書籍や機関誌『パラマハンサ』を読むことで、いつでも師の教えに触れることができます。
また、皆で聖典の読書会をしたり、バクティ・サンガムではたくさんの神々や聖者の物語に親しみ、キールタンで神の御名を歌うことを通して自分の中にある歓びの源泉に触れるような体験をしました。
そうしているうちに、気が付くといつの間にか聖典がとても身近に感じられるようになり、聖典を読むことが楽しく好きになっていたのです!読んでいるだけで歓びが溢れてきたり、時には面白くて笑ってしまったり、神の栄光と祝福に圧倒されて涙で字が読めなくなったりします。それは、以前思っていた頭で知識として理解するというものではなく、ハートで読んでいるような感覚です。

最近では、日々の生活のいろいろな場面でまるで聖典連想ゲーム?のようにそれらを思い出すようになりました。
先日、ちょうど『ラーマクリシュナの福音』を読んでいたところへ娘がおやつのリンゴを持って来てくれた時のことです。突然、そのリンゴがプラサード(神に捧げられた供物のお下がり)のように感じられ、一瞬輝いているように見えました。運んでくる娘の様子もなぜか恭しく見えます。不思議な気持ちでリンゴを口に入れようとした時、今度は自分の体がヨーガの教えにある“神の神殿”であるように感じ、自分のために食べるのではなく自分の中に住まわれている神のために食べているという感覚になったのです。同時に、神殿であるこの体を大切にしなければいけないという思いが湧いてきました。“食べる”という行為をこの時ほど神聖なものに感じたことはありませんでした。
また、私は今小さな保育園で保育補助の仕事をしているのですが、毎日子ども達がゴーパーラ(ベイビー・クリシュナ)に思えて仕方がありません!幼い子ども達のお世話は気を付けなければいけないことがとても多いのですが、いたずらをしたり、わがままを言ったり、泣いたり甘えたり、仲良く遊んでいたかと思うとケンカをはじめたり…、子ども達の無垢な笑顔を見ていると、まるで純粋で愛そのものであるゴーパーラが私の周りで遊び戯れているように思えるのです。そして同僚の保育士さん達も私自身もヤショーダ(クリシュナの養母)のような気がしてきます。

ゴーパーラ(クリシュナ)は兄のバララーマや遊び友達の牧童たちと一緒にさまざまな悪戯をして大人を困らせます。あ、今みんなでしめし合わせて好物のバターを盗もうとしています!

今、私が聖典を真に理解しているとはとてもいい難いでのすが、それでも本を開けばどのページも真理の教えや神を讃える言葉で埋め尽くされ、それらの言葉を目にするだけでも胸に歓びが広がりますし、聖者の生き様に触れると決して諦めずに少しでも前進しようという勇気が幾度となく呼び起こされます。難解で取っつきにくいイメージしかなかった聖典がいつの間にか私の日常の中に入り込みイキイキと動き出すなんて、以前の私からは予想だにできなかったことです。師の導きがなければ、未だに睡魔との戦いに敗れ続けていたことでしょう。
どうぞ、聖典の真実をこの世界の中に見ることができますように。どうぞ、聖典の言葉が私を通して顕わされますように。最愛の師を想い、お会いできる日を待ち望みながら、今日も歓びとともに聖典を開きたいと思います。

シャルミニー


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