私はあなた

私の鍼灸院に9年前から来院されている80歳の患者さんがいます。
好奇心が旺盛でお話しするのが好きな方です。いつも私の知らない話を聞かせてもらえることが楽しかったのですが、少々気難しいところもあるので、言葉遣いには特に気を付けて接するようにしていました。
出会ってから5年ほど経った頃、それまでの気難しさとは異なった感情の起伏が見られるようになりました。物忘れや勘違いも多くなり、おそらく認知機能が低下し始めたのだろうと、これまで以上に注意して接するようにしていました。
しかし、予約時間を間違えて来院されて本来の予約の患者さんの前で自分が正しいと激昂したり、治療中の会話でも突然怒りだしてしまったり、そのようなやり取りを繰り返すうちに私はその患者さんに接するのに身構えるようになっていきました。
そこから1年以上、互いにストレスを感じるやりとりが増えました。この患者さんは一人暮らしで近くに親族の方もおらず、病院を受診していないので症状からの推測になりますが、おそらく認知症だと思われます。ただ病気によるものだと理解してはいても、面と向かって怒鳴られたりすると怖いという感情が勝ってしまい、腫れ物に触るように恐る恐る接するようになってしまいました。

この6月で開院10周年を迎えました。最初に治療院を構えた建物は、都立殿ヶ谷戸庭園のすぐそば。庭園の外からの眺めも意外に良いので、患者さんに好評でした。

この悪循環から脱したいと試行錯誤しているうちに、「私はあなた」という聖典の中の言葉をよく思い出すようになりました。
「私」も「あなた」も本来は等しく尊い一つの存在。それぞれ異なる肉体を持っているけれど、本質は同じ。

この患者さんは病気によってこれまでできていたことができなくなり、記憶することもできなくなり、不安でいっぱいになっている。これは私に起こっても不思議ではない事態。歳を重ねた私もこうなっているかもしれない。
ここまでの思考には何度も至っていましたが、そこを超えられないのは頭で考えてばかりでこの患者さんのことを真剣に思っていないからだ、と気付きました。
もう考えるのはやめた。この患者さんといる時間は何を言われてもされても、その中に変わらない本質があると信じよう。見えなくてもある。それが真実なのだから。
それからは何度失敗しても気にせずに真実だけを見るように努めました。

そうしてしばらく経ったある日、それまでできていた動作ができなくなって困っていた患者さんのお手伝いをしていた時に、「この人は私だ」と直感的に感じました。そう思おうとしたのではなく、目の前にいる患者さんが私であるとしか感じられなくなったのです。それまで見えていた景色は一変し、不安や恐れは消え去っていました。

その後、常にこの感覚に留まれている、とは言えない状況ですが、肚が据わったというか、何を言われてもほとんど動じなくなりました。
認知症の方は通常の高齢者の方よりも視野が狭いので、その方の視野にしっかりと入るためにお顔の正面からお話する必要があるのですが、それまでは怖さが先に立ってつい目を合わせるのを避けることがありました。この体験以降は、伝えたいことがある場合はしっかりと視線を合わせて話せるようになり、言葉以上に伝わることが増えたように感じています。たとえ患者さんが不穏な感じの時でも、とにかく今この瞬間にだけ集中して丁寧に接するように意識することで、私自身が動揺することはなくなり、患者さんを冷静に観察してその時々に必要なことができるようになりました。

治療院の最寄駅、国分寺駅の駅ビル屋上から見た空。梅雨の晴れ間、雲がゆったりと流れていました。

それから1年が経ち、現在。
患者さんの認知症状はさらに進行し、激昂することは全くなくなりました。表情豊かな方でしたが、ぼんやりしている表情が多くなり、怒ることが減った分、不安そうにされることが増えました。以前は饒舌に話をされていたのに思うように言葉が出なくなり、時系列でお話しされることもできなくなったので話の内容を汲み取れないこともしばしば。電話をかけると私の名前も分からなくなっていることもあります。
この患者さんはもう以前のように自分の伝えたいことを伝えることができません。一時期激昂していたのは、きっと自分に起きている変化に付いていけず強烈な不安を感じていたことも影響していると思います。そのピークは過ぎたといっても、認知機能の低下に伴う不安感がなくなったわけではありません。むしろ表情に出にくくなったことで、これまで以上に注視して行為しなければならないと感じています。
私が接している僅かな時間でさえも困っている姿を目にするということは、日常生活を一人で過ごす中で多くの困難が起きていることが容易に想像できます。
何か私にできることがあればと焦る気持ちが出てくるし、どうにもならない事態に翻弄されそうになるけれど、そんな思いにいちいち惑わされては本当に大切な「私はあなた」であることを忘れてしまう。一緒にいる時間だけはこの患者さんに楽しく過ごしてもらえるよう、私も思い切り楽しもう。この1年で少しずつですがそれを実行できるように心がけてきました。

今思えば、1年前に「この人は私だ」と感じるまでの私の行為は、自分のための行為でした。相手のことを考えているようで自分が苦しまなくて済むような逃げ腰の姿勢で、その場さえ凌げればいいというエゴ丸出しの行為でした。しかしこの患者さんと接する中で直感した「この人は私だ」という感覚は私の胸に存在し続けていて、この患者さんが喜ぶことを一つでもしたいという明確な目標を与えてくれました。患者さんがどう感じられているかは分かりません。ただ、来院された時に不安で強ばったように見えた表情が、お帰りになる時にほっとしたように和らいでいるのを見ると、それが一つの答えなのかなと思います。

治療後帰られる時に、この患者さんがにっこり笑いながら言ってくれる言葉が好きです。

「あー、生まれ変わりました!」

それを聞いた瞬間に何もかもがまっさらになります。
私もあなたもなく、全てが純粋そのもの。言葉には言い表せない歓び。
こんなにも素晴らしい体感を与えて下さってありがとう。ありったけの思いを込めて、私もにっこり笑いながらお見送りしています。

この患者さんは芍薬の花が大好き。他の花を飾っているときよりも長めに眺めてから帰られます。

記憶をなくすということは、その瞬間瞬間に生きているとも言えると思います。
それはヨーガの理想とする境地。
この瞬間に目の前にいる人のために、その人の喜ぶことを行為する。瞬間瞬間に実行することを繰り返していく。
今日も明日も明後日も、いつでもこの瞬間に生きることができますように。

ハルシャニー


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