投稿者「ゴーパーラ」のアーカイブ

識別とヴィヴェーカーナンダ(2)

「言葉」——それは心の思いから出てくるものである。
心は十人十色と言われるように、同じ言葉を使っていても、人によって意味や捉え方、その色合いはさまざまである。
例えば「社会」という言葉。
「社会に出る」「社会経験をする」「社会性を養う」という表現が使われることから、社会という言葉からは会社や仕事、また組織での秩序や協調性が連想される。
ただ、この社会という言葉の意味合いは、人の経験や価値観、立場や環境によって微妙に、また大きく異なってくるのである。
私自身を振り返れば、私は大学を7年通っていたため学生期間が長く、「社会に出る」ということに関して二十代前半の頃は悩んでいた。
「職に就かなければいけない。でも、好きでもない仕事はしたくない。組織や秩序に縛られず、自由に生きていきたい。世俗を離れ、瞑想を行ずるヨーガに惹かれる。でも、年金を納めるなどの社会貢献は無視していいのか……」などなど堂々巡りのように、社会というものに対して漠然とした不安や葛藤を抱いていた。

前回のブログ(「識別とヴィヴェーカーナンダ⑴」)では、「十字架」という言葉について見た。
師シュリー・マハーヨーギーは、十字架=神聖という既存の概念に縛られず、十字架という言葉に鋭くメスを入れ、その実体を明らかにしていた。
言葉本来がもつ意味がクリアーになれば、それについて余計に考えたり迷ったりすることはなくなり、思いもクリアーになる。
そして私自身の悩みであった「社会」というその実体が何であるかを、言葉を通してクリアーにしてくれた人物に出会った。
それが、十九世紀インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダである。

ヴィヴェカーナンダは「社会に必要なこと」として、次のように述べている。

「社会には宗教が必要」

「えっ、社会に宗教が必要? 必ずいるっていうことだよね? 無宗教でもいいんちゃうの? 信教の自由という権利が憲法で定められているし、そんなの個々人の勝手やろ」と思ってしまう。
しかし、これも宗教という言葉本来の意味が曖昧だからこそ、そのように思ってしまうのである。
宗教と聞くと、キリスト教や仏教、イスラーム教などの一宗一派を連想してしまう。
でも少し考えてみたら、「宗教」=「キリスト教」ではない。
無論、キリスト教は宗教には属するが、宗教のすべてではない。その一部分、枝葉のようなもので、宗教の根幹、宗教という言葉がもつ本来の意味ではないのである。
では「宗教」とは何か? また「社会」とは何か?

ヴィヴェーカーナンダはそれらの言葉に鋭く切り込んでいき、その実体を明らかにしていたのである。
話が長くなるなので、続きは次回に……🙇

ゴーパーラ


識別とヴィヴェーカーナンダ(1)

今日から2月ですね。暖冬とはいえ、大寒の節気。皆さま、暖かくしてお過ごしでしょうか?

ところで新年から1カ月が経ちましたが、今年の目標を立てられた皆さん、その歩みは順調でしょうか?  私は「徹底識別」が目標ですので、この1カ月は識別の大家ヴィヴェーカーナンダの著作を熟読したり、識別瞑想を行なって過ごしていました。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ

また、今年4月の春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー—神性示現大祭—」では、ヴィヴェーカーナンダの師シュリー・ラーマクリシュナにフォーカスされることもあり、『ラーマクリシュナの生涯』『ラーマクリシュナの福音』も読んでおりました📖

そこで4月の祝祭に向けて、またこの1年を通して、ブログメンバーを中心にして、ラーマクリシュナとその弟子たちについて学んだり感じたりしたことを、ブログ全体で載せていきたいと思っています‼️

私は1年を通して「識別とヴィヴェーカーナンダ」と第して、識別とヴィヴェーカーナンダについての理解と実践を深めていきたいと思います。以下が、その1回目の内容となっております。今回はヴィヴェーカーナンダには触れていませんが、それは2回目以降になります。では1年間、お付き合いいただけたら幸いです😊🙏


「識別って何だろう?」

ヨーガを学び、実践していこうとすると、誰もがこの疑問をもったことがあるのではないだろうか。
ヨーガを始める以前に大学で仏教を学んでいた私は、「識別」という言葉は知っていた。だがそんな言葉上の理解にあっては、「修行の中途段階にあるもの」ぐらいにしか捉えていなかった。実際、悟りの境地にあっては識別は放棄される。しかし、私の師シュリー・マハーヨーギーは十代の頃、この世界の理や心の仕組みを隈無く識別された。そしてよく、「徹底した識別をしなさい」とおっしゃられる。

「識別は、自分の思いや行動が真実に沿っているかどうか、矛盾していないかどうかを吟味する。聖典を学んでいったり、正しい真理の言葉を聞いておくことによって、自らの心の中にある思いが正しいかそうでないかということが識別されていきます」

これは『悟り』の本に書かれている識別の説明であるが、ヨーガを始めた頃は実際にそれが何なのか、またどのように行なっていったらいいのか、全く分からなかった。
だが9年前にニューヨークで師と生活をともにした時、「識別とは何ですか?」と尋ねると、師は次のようにおっしゃられた。

「識別とは『ヴィヴェーカー』、『弁別』ともいって、法律家が法律を基準に物事を判別するように、ヨーギーは真理でもって物事や思いを判別する。そして識別ができたかどうかは瞑想の中ではなく、日常において試される」

とても分かりやすいと思った。これを聞き、識別のイメージのようなものはつかめた。だが正直なところ、その内身はよく分からないままであった。

それから約2年が経ったある時、私は師に次のことを話した。
「昔から雑誌を立ち読みする習慣があったのですが、ニューヨークから戻ってそれをすることに違和感を覚えました。雑誌って『雑な誌』と書き、精妙な瞑想とは反対なものだと思ったので、それからは雑誌の立ち読みをやめました」
すると師は次のように言われた。

「識別、できてるやんけ」

自分ではそれが識別だとはあまり意識していなかったが、師は物事の本質に迫る際に「言葉」―—「名前」と「形」から辿っていると感じた時があり、それを雑誌にあてがってみたのであった。
ニューヨークに滞在中、私は瞑想をしていると十字架のようなものが見えた時があった。神聖なヴィジョンだろうと思って師にそれを話すと、師はいつになく強い口調で次のように言われた。

「十字架、あれは磔台、つまり処刑台。手足をあの十字の形にできるのは人間の肉体だけ。肉体は変化するものだから真理ではない。だから十字架は神聖なものではなく、肉体を象徴している無知なんや」

十字架=神聖な象徴という既存の概念に縛られず、師はその本質を見抜いていると感じた。私はただただ、師の物事の本質の迫り方に圧倒されたのだった。(続く)

ゴーパーラ


MYMロングTシャツ販売開始‼️

すでにHPではお知らせしていますが、1月12日からカーリーヤントラのロングTシャツの販売が開始されました‼️

また、昨年の夏に完売しました同デザイン半袖Tシャツも1月末まで同時販売します!

私、前回の半袖Tシャツはプレゼントを含めて9着を購入しましたが、今回ロングTシャツはもちろんのこと、半袖Tシャツの持っていないカラーも注文します✌️

修行者を悟りへと導くこの逆三角のカーリーヤントラは、インドでは伝統的に瞑想で用いられているそうで、「目に見えないヴァイブレーションというのがそこから発散されているから、持ち歩いて行く所、行く所が神聖になっていくと思います」と、デザインをされた師はおっしゃっていました。

素晴らしいこのホーリーアイテム、ぜひこの機会に購入していただけたらと思います!

トートバックも好評販売中です‼️

ロングTシャツ、半袖Tシャツ、トートバックのご注文はこちらから☜😀

ゴーパーラ


「師との出会い」from NY サーディヤー

1/1にニューヨークのマハーヨーギー・ヨーガ・ミッションのブログ「プロジェクト サハスラーラ」にアップされたサーディヤーの記事が素晴らしい内容でしたので、日本のブログでも翻訳して紹介させていただきます!彼女の師との出会いと、それに至るまでの経緯や心情が、ありのまま素直に書かれています!


「あなたの心を私に固定し、知性を私の中に置くのだ。そうすれば今、あなたが私の中だけに生きているということは疑いがない」
– Words of Krishna, Bhagavad Gita, Ch. 12 Verse 8

地下鉄の階段の側に立っていました。どこから来てどこに行こうとしていたかは覚えていません。でもそのニューヨークの各地下鉄駅の特徴である緑色に塗られたフェンスの側に立ち止まっていました。
「この世に欲しいものなど何もない」という思いが手にとって掴めるほど明瞭に、心の中で具体化したのはその時でした。私のハートはただ一つの欲望に満たされました。——神への奉仕にこの人生を完全に捧げたい。

何かを欲するということは、私にとってはおかしなことでした。成長の過程で神への概念に関する様々な段階を通過しました。教会が示す概念をそのまま受け入れていた時もありました。その時はそれだけしかなく、それが触れることのできるすべてでした。その後、キリスト教の神に対する概念に幻滅し、叔父が送ってくれた様々なアメリカ原住民の暮らしの本で読んだグレート・スピリットを崇めて祈りを捧げていたこともありました。10代になると姉に影響されて神を完全に否定しました。神は存在せず、宗教は偽善であり冗談だと。キリスト教徒の宗教を見下し、神を信じる人たちよりも自分を上に見ていました。‘あの人たち’は妄想的で差別的で、常に自分たちの信条を他人に押し付けていると。私はそこから自分を隔てていました、冷笑的だったからだけではなく、そうすることが「カッコイイこと」だと思っていたからです。キリスト教徒の宗教とは関わりたくなかったし、神とも関わりたくなかったのです。

他の宗教をよく知っていたとは言えません、私の宗教教育の多様性は極限られたものでした。けれども、宗教を正当化して残虐に満ちた戦争が今なおあることは知っていましたし、全く理解することも受け入れることもできませんでした。それで宗教やそれに関する事柄を拒絶し、長年こういった意識やものの見方を保ってきました。それは『あるヨギの自叙伝』を読み、『バガヴァッド・ギーター』のようなヨーガの聖典を知り、神に対する概念がほぐれ始め、神についてもっともっと知りたいとハートを開き始めるたった数年前のことでした。

そういった過去があっても、今では私のすべては神に向けられています。神が何であるのか知りませんでしたし、神に私の人生を捧げたり、神に奉仕をするとはどういうことなのか想像もできませんでした。ただわかっていたのは、そうすることだけが私の人生を生きる価値のある唯一のことだということです。それ以外はすべてが偽りでした。ニューヨークを離れる手配をする準備ができていました。最初の考えはインドに行き、すべてを捨てて隠遁生活を送り霊的な生活だけに専念できるアシュラムを探すことでした。世俗的なことへの興味は失っていました。

その一日か二日後、ある友人との会話の中で、彼が噂を聞いて会いに行ったニューヨークにいるヨーガのマスターについての話がありました。彼は鞄の中から『ヨーガの福音』という小さな本を出して私に差し出しました。私は両手でその本を持ちました。その本のデザインの独特な作風である表紙のヨーギーのイメージと、本の中にあったヨーガのマスターの笑顔が際立って見えました。友人がこのヨーガのマスターについて話しているとき、私はとても真剣に聞いてはいても、自分自身がこのマスターに会うことができるなどとは思いもよりませんでした。友人は週末にこのマスターのプログラムに参加するので、どうであったかを教えてくれるとのことでした。

翌週彼に会い、彼の体験を聞きました。すぐに何かが違うと感じました。いつもより彼が静かで、何かが彼の中で変わったようでした。彼がヨーガのマスターについて話す時、涙が浮かんでいて、まるで長い間失っていた何かを見つけたかのような彼の気持ちを感じることができました。彼は言いました、「自分で会いに行くといいよ」。それまで、それが可能だという思いさえもありませんでした。どういうわけか、そんな簡単に会いにいける方だとは思っていなかったのです。誰かを知っているとか紹介がないと会えないものだと思っていたのです。このシュリー・マハーヨーギーという名前のヨーガのマスターは、日本から来られていて、ニューヨークを訪問されているのだと彼は続けました。日本に戻られる前に、ヨーガのクラスを幾度か行なわれ、サットサンガ(質疑応答)も一度行なわれるとのことでした。友人は翌日にアメリカを出るため、シュリー・マハーヨーギーにお会いする機会はそれ以上なかったのですが、情報を教えてくれて、行くように勧めてくれました。

真のヨーガのマスターに会うことは容易ではない

家に戻って、すぐにマハーヨーギー・ヨーガ・ミッションのホームページを調べました。シュリー・マハーヨーギーが帰国される前に行なわれるクラスと一度行なわれるサットサンガについて確認しました。次にあるクラスはラージャ・ヨーガクラスでした。クラスの受講料はこれまで私が馴染んでいた以上のもので、当時、予算的に厳しかったのですが 、このマスターに会おうと決めていたので、「クラスを一度だけでも受けてみよう」と決断しました。ホームページにあるように、予約をするために電話をしました。女性が電話を受けました。クラスについてどうやって知ったのかと聞かれました。「友人から」とだけ答えました。すると彼女は、「どなたですか」と聞きました。当時は、沢山の人たちが通う大きなヨーガのスクールに電話をしているとばかり思っていたので、それを不思議に思いました。その大きなヨーガのスタジオだと思っていた所が「ケーヴ」というマハーヨーギー・ヨーガ・ミッションの本部であり、アーナンダマーリーがたった一人ですべてのクラスの問い合わせに懸命に対応されている、あの小さなアパートだったとは考えてもいませんでした。

クラスの日と共にハリケーン・アイリーンもやってきました。クラスの前日に、市は地下鉄とバスの運休をし、交通網を遮断する可能性を勧告しました。クラスに行く手段がなくなり参加できなくなることが心配で、クラスの予約をした同じ番号に電話をしました。クラスは、友人をその存在によってこんなに早く変えてしまったシュリー・マハーヨーギーという偉大なマスターに会う機会と捉えていたので、そうする必要があるのであれば、191丁目から10丁目まで歩くのは厭いませんでしたが…ハリケーンなので、そうするべきかどうかも分かりませんでした。電話口からは予約をした時と同じ女性の声が聞こえました。クラスを行なうか否かは、まだ未定とのことで、もう少ししたら決断を下し、ホームページでアナウンスするとのことでした。
少なくとも、決まったかどうかを確認するためにもう一度電話をしたと思います。最終的にクラスが中止になったと聞いて、そこに行く手段がなくて私が行けないがためにクラスに参加できないわけではないことにホッとしたと同時に、大切な機会を逃すかのような気持ちになりました。

お帰りなさい

クラスは再度スケジュールされ、遂に機会が訪れました。クラスに早く到着すると、後にカルナーと知ることになる一人の女性が準備をしていました。何かお手伝いできることはないかを聞くと、彼女は快く花瓶の位置を動かすよう指示してくれました。シュリー・マハーヨーギーがどのようにクラスに入場されたか、どのようにクラスが始まったかなど、詳しくは覚えていません。ただ覚えているのは、前列のシュリー・マハーヨーギーの持ち場の右側でプラクティスを行なったということです。

アーサナの最中に、指示の多さとその細やかさに驚きました。クラスは二人の女性が声でリードし、実習者のアーサナを指導していました。自分がアーサナをしている時にたくさんの 注意を向けられて指示を受けることに慣れていなかったので、時には少し圧倒されましたが、ここでは注意を払うべきたくさんの細かいポイントがあるようでした。一つ一つのアーサナは、並外れて長く保持するようで、ポーズの間に休憩を挟みました。以前にアーサナをしばらくやっていましたが、ここではすべてが私にとっては新しく、異なったものでした。頭立ちのポーズ時になり、いつも通りに行ないました。頭立ちのポーズは私にとって、なんてことのないものだったので、シュリー・マハーヨーギーが私の横におられることを突然感じた時にはとても驚きました。シュリー・マハーヨーギーの存在感は明らかに否定しようのないほどの強烈さで、今まで感じたことがあるすべてと違いました。私の体位を真っ直ぐになるように導かれた時、私の心臓は突然波立ちました。こんなことは本当に稀で、ポーズを戻した方がいいのだろうかと、一瞬不安になりました。でも、すぐに思いました。「いや、シュリー・マハーヨーギーはマスターだから、私を怪我させることはないわ」師のいかなる指示にも従う弟子の意思の話を一瞬思い出しました。「何がなんでも、戻すように言われるまで留まり続けるわ」その時には、シュリー・マハーヨーギーがどういった方なのかよく知りませんでしたが、これは私がどれだけ師に委ね、どれほど信じる意思をもっているかの私へのテストであるかのように感じました。

瞑想の前に、シュリー・マハーヨーギーは私の前に座り、辛抱強くそれぞれの坐法を見せてくださいました。そのお優しいお顔に面食らい、その見抜くような眼差しと笑顔は私のハートの奥底まで届きました。クラスの終わりに、師がお話をされたかどうかは覚えていません、ただ、師を見続けないではいられませんでした。まるで師は太陽のように眩い光に包まれていました。その場を離れては欲しくなかったけれど…クラスは終わってしまいました。

参加者がマットを丸め、クラスの部屋から退出して行く時、アーナンダマーリーが私のところに来ました。幾つかの言葉を交わしたと思いますが、よく覚えていません。とにかく非常に明瞭に、はっきりと覚えていることは、アーナンダマーリーは私の目を真っ直ぐに見て、「お帰りなさい」と言って、私を強く抱き寄せたことです。世界が回り始め、まるで気絶するかのようでした。何かが起きたのです…それが何であるのか言葉にすることはできませんが、感覚で確かに感じました。「戻ってきた」その時私の心がそれを理解できようができまいが、私のすべてがそれを知ったのです。

***

経済的な理由でシュリー・マハーヨーギーのその後のクラスを受けるつもりはなかったのですが、他のことはすべて横に置き、シュリー・マハーヨーギーが日本にお戻りになる前のサットサンガとクラス両方に参加できるようにしました。サットサンガについてあまりよく覚えていませんが、質問は何もせず、シュリー・マハーヨーギーの真ん前に座り、一瞬たりとも目をそらせたくありませんでした。

最後のクラスで、シュリー・マハーヨーギーが部屋から歩いて退出される時、涙が溢れ、去って欲しくなかった、まるで父を見つけたのに、また会えるのか、いつ会えるのかわからないままサヨナラを言わなければいけないかのように感じました。

その後、とにかく家に戻り一人になりたかった。その晩の睡眠はいつもとは違い、夜中に突然目を覚まし、心の中に残っているシュリー・マハーヨーギーのイメージと存在を思っては涙しました。シュリー・マハーヨーギーは私と共におられ、これからも共におられるように感じました。感謝の気持ちに圧倒され、泣いて神に頭を垂れることしかできませんでした、それがどういうことなのかよく分からなかったけれど、神が、私が求めていたものを授けてくださったのだと何かが私に教えていました。「私の人生を、神に奉仕することに専念したい」という私の思いへの答えだったのです。

October 14, 2018
サーディヤー


新年のご挨拶

皆さま、明けましておめでとうございます🌅🎍
今日から仕事始めの方も多いかと思いますが、お正月の三が日はいかがお過ごしでしたか?
私は実家の愛媛に帰省して家族や親戚と団らんのひと時を過ごしましたが、空いた時間はヴィヴェーカーナンダの『わが師』を再読していました。


この聖典は、ヴィヴェーカーナンダが師シュリー・ラーマクリシュナについて紹介した講演『わが師』をはじめ、アメリカやイギリス、インドで行なわれたヴィヴェーカーナンダの講演が収録されています。
久しぶりに触れるヴィヴェーカーナンダの力強い言葉に、新年から私の心は痺れました!

さて、皆さんの今年の目標は何でしょうか?
私の今年の目標は「徹底識別」です!

「放棄なしに何一つ成し遂げられることはできない。もしあなたが他者を助けようと思うなら、あなたの小さな自己はなくならなければならない。ヴァイラーギャ(離欲)を持て。立て、目覚めよ、そしてゴールに達するまで止まるな!」——スワミー・ヴィヴェーカーナンダ——

2019年、目標に向かって突き進んでいきたいですね!
本年もブログ「ヨーガを生きる」をどうぞよろしくお願い致します。

ゴーパーラ


イベント報告 & 2018年振り返り

一昨日の12月29日、左京区のZAC BARANにて、アーサナ・瞑想のデモンストレーションを行ないました。
今回の演目のテーマは、ヨーギーの起源であるシヴァ神でした❗️


シヴァ神のルーツは、インド土着のルドラという暴風雨の神だと言われております。
演目は『The Eternal Quest—永遠の探求—』の前半部をベースに、イントロでシヴァ神を想起させる雷雲の音を鳴らし、宇宙万物を司る主であり、またヨーギーの第一人者であるシヴァ神に、アーサナと瞑想のデモンストレーションを通して近づこうと試みました。
ただ私、うっかりして写真撮影を依頼しておらず、その時の様子は写真でお伝えできませんが😓、友人からは「宇宙を感じた!アーサナ、音響、着ていたTシャツ(カーリー・ヤントラ)、すべてがマッチしていた」という嬉しい感想をいただきました。
年末の寒波の中、グルバイやクラス参加者の方々もお越しくださって、とっても嬉しかったです!
本当にありがとうございました😊🙏

それで皆さん、2018年はどんな年だったでしょうか?
私はこの1年を改めて振り返ってみると、主ブッダがその中心にあったと思いました。
今年は、ブッダがテーマであった4月の祝祭をはじめ、師は折に触れてブッダについてたくさんのことを教えてくださいました。
その中でも特に印象に残っていることは、5月の松山特別サットサンガ後の夜でした。
その時に師は、「ブッダはこの世でいちばん偉大な人物」と言われ、私は「なぜそう言えるのでしょうか?」と尋ねると、次のようにおっしゃられました。

「ブッダは聖典の権威に影響されていないから」

私は「それが偉大な理由?」とクエスチョンマークが浮かびましたが、少し考えた後、師がいちばん好きだというシュリー・ラーマクリシュナの次の言葉が思い出されました。

「私はヴェーダも六派哲学も超えている」

そしてその瞬間、師が教えてくださっている次のブッダの言葉とつながったのでした。

「たとえ古い聖典が出てきても、それを鵜呑みにする必要はない。自らで確かめ、実践せよ」

インドの地においてヴェーダをはじめとする聖典は生活やその精神性の支柱であり、最高の権威に位置するもので、「それを超えている」「鵜呑みにする必要はない」とは簡単に言えることではありません。
しかしながら聖典は、人間を悟りという偉大な完成に導く言葉であり、その言葉の意味する内実をどれだけ感じ、肉迫することができるのか、つまり「実践」と「体得」がもっとも大切なことだと私は改めて気付かされ、そして何より、師がブッダやシュリー・ラーマクリシュナが発した言葉の内実を知っていると感じ、驚愕させられたのでした。

聖典の言葉は深遠で、どんな言葉でも奥深い意味や、また修行者を悟りへと導く力が隠されていると感じます。
一昨日の演目で、アーサナを終えて瞑想に座り、『The Eternal Quest』で朗唱されたウパニシャッドの詩を流した際、期せずして次の言葉が私の胸に響いてきました。

「身体の動きを止め、呼吸を制御せよ。御者が馬を操るように、心を制御して、全身全霊で神を瞑想せよ!」

今年も残すところ1日ですが、来年と言わず今日も真剣にヨーガを実践し、もっと、もっと、もっと聖典や師の言葉の息吹を感じたいですね!!!

最後になりましたが今年も1年間、ブログ「ヨーガを生きる」を読んでくださった皆様、まことにありがとうございました‼️
来年はより精進をし、良い形でブログに反映できればと思います。
そして、いつも真理を教え、導いてくださっている師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。
皆様、来年もブログ「ヨーガを生きる」をどうぞよろしくお願い致します😇🙏

ゴーパーラ


ヨーガアーサナ・瞑想 デモンストレーションのイベント案内

イベント告知です📢
12月29日(土)19時〜ヨーガアーサナ・瞑想のデモンストレーションを、私一人ですがさせていただきます‼️
場所は、3年前にも出演させていただいた「ZAC BARAN」という京都の老舗ライヴハウスです。

3年前のZAC BARANでのデモンストレーション。

今回の出演にあたって新たなチャレンジを試みており、それは「音響」です!
今まではシタールやタブラの生演奏とともにアーサナ・瞑想のデモンストレーションを行なってきましたが、今回、師の助言をいただき、『The Eternal Quest—永遠の探求—』前半部の詩の朗唱とシタール音をピックアップして編集録音し、それを流しての演出となります。
また、イントロでは「雷雲」の音を流します。
なぜ雷雲なのか?👀☁︎⚡️
ちゃんと意味とコンセプトがあります〜!

年末でお忙しいと思いますが、もしご興味ある方は、ぜひおこしください😃
音の編集録音をしてくださっている丹波在住の兄弟子クリパールさんも当日、音響入りします🎧

ゴーパーラ


12/29 sat   start 19:00 (open 18:00 )
@ZAC BARAN (京都市左京区聖護院山王町18 メタボ岡崎B1)
charge ¥1,000

ミッチー(ピアノ)
POP山モアレcity(バンド)
山本無二(ギター弾き語り)+ナカガワ ユウジ(インド楽器サーランギー)
ゴーパーラ(ヨーガアーサナ・瞑想)


無知の中で百年生きるより、真理の中で一日生きる方がよい

八年前、私は師に同行させていただいたニューヨーク滞在の後半、「瞑想が深まらないのですが、どうしたらいいのでしょうか」と質問し、師は次のことを言われました。

「どう生きていきたいのか?」

先週のアーサナ・瞑想クラスで姉弟子のシャーンティマイーさんから「瞬間、瞬間を生きる」ということが話されました。
「アーサナを形づくる中、ポイント、ポイントを押さえ、呼吸を吐き切ることで、アーサナが完成へと導かれる。それをしっかりと意識してアーサナを行なうことが身口意(形・呼吸・意識)の一致になり、それが瞬間、瞬間を生きるということになる」

ニューヨークで師は「どう生きていきたいのか?」と言われる前、瞑想を深めるために、もう一つの教えをおっしゃっていたことを思い出しました。

「日常の身口意を一致させなさい」

十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日です。
「ラージャ・ヨーガの八支分とブッダの八正道は共通している」と師はおっしゃられ、それら一つ一つをニューヨーク滞在時に教えていただきましたが、あれから八年経ち、私は改めて師からいただいた教えの深遠さを感じさせられます。

今、私の思いは「真理に生きる」、それだけです。
しかし、未だ悟れていない。余計な思いや雑念、本能の制御ができていない。
本当の意味で真理に生きる、「無知の中で百年生きるより、真理の中で一日生きる方がよい」と言ったブッダのこの心境を切に願うのなら、もう一度改めて、基礎である八支分のヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)、八正道の正見・正思・正語・正業の教えの意味を考え、瞑想して心に刻み込み、日常の身口意を一致させていきたい。
そしてただ一つの的、アートマン(真我)だけを見て!!!

ゴーパーラ


台湾グルバイとの交流!

御聖誕祭の後、各庵ではグルバイ(兄弟姉妹弟子)たちとの交流会が行なわれました。
その時の様子は前回のブログに掲載させていただきましたが、翌日と翌々日もシャーンティ庵では台湾グルバイとの交流会がありました。
真剣さあり、笑いあり、涙ありの内容の濃い交流会になり、連日深夜までヨーガの話が繰り広げられました。

シャーンティ庵での交流会

また台湾グルバイたちは、アーサナ・瞑想クラスやバクティ・サンガムにも参加し、多くの日本の弟子たちと交流しました。

長岡京のヨーガ・瞑想クラス

私自身は今回、11名の台湾グルバイの方々と交流して感じたこと、学んだたことは、「台湾サンガの成長」と「他者への感謝の気持ち」でした。
御聖誕祭で祝辞を述べたパンパンは、「祝辞中はヨーギーさんの存在だけがあって、他の人はドット(点)のようだった」という驚きの体験を話してくれましたが、「祝辞ができたことは日本の先輩からアドヴァイスをいただき、通訳をしてくれるプリヤー、また台湾のみんなの思いがあったからだと感じました。ヨーギーさんとすべての方に心より感謝します」と言っていました。
初参加のシンユンは、「日本の先輩から学ぶことが多いと台湾の先輩から聞いていましたが、今回台湾の先輩と日本に滞在して、実は身近に見倣うべき先輩がいたのだと感じました」と述べていました。
黒一点のソウさんは、「今回の御聖誕祭でいちばん印象に残ったことは何か?」と尋ねられると、「台湾の二人の先輩がすごく泣いていたことかな」と言い、「それがいちばんの感想?!」と女性陣に総突っ込みを受けていましたが(笑)、何だか朗らかでよい光景でした😄

そして最後に、プリヤーが日本の弟子と交流したことの感想を寄せてくれましたので、ご紹介させていただきます。

今回の滞在は短かったのですが、先輩と交流させていただく機会が多くありました。
時間に限りがあり、台湾のみんなは積極的に実践に出会った困難を質問して、先輩たちの経験やアドヴァイスも真剣に聞いていました。全体的に話の流れは去年よりスムーズになったと感じました。それは自然に起こったことだと思いますが、そこには理由があると感じました。
一つは、日本の先輩たちはとても優しくいろいろと気配りしてくれたからです。先輩の安定とブレない態度のおかげで、みんなはより心を開いて素直に話せて聞けるようになりました。
もう一つの理由は、この一年間みんなは修行を怠らず、クラスや読書会などで真理を学んで生活の中で実践をし、ヨーガの話ができる基礎を少しずつ作り上げたからだと思いました。
表面的なところに留まらず、交流はいっそう深くなり、先輩の話にも共鳴できるようになりました。その場にいるみんなは、国籍や文化や血縁などの外見を超えて、親密に心の奥の思いや感情を分かち合いました。その時、私たちは一つ一つの孤独な海の波ではなく、歓びの大海に溶けて一体になりました。ヨーギーさんがここに在るからこそ、それが成り得ると感じました。
これからの一年も精進し続けます!そうすると先輩と会う時、もっと話に花を咲かせて、より大きな歓びを味わえるでしょう。
先輩たちに、ヨギさんに、心から深く感謝いたします。(by プリヤー)

いつも素直で明るい皆さんに、私たちは元気をいただいています‼️台湾グルバイの皆さん、次にお会いできるのを楽しみにしています‼️今回の滞在も、まことにありがとうございました😊🙏

ゴーパーラ


プラサード(神のお下がり)

11月23日は、私たちの師の御聖誕祭でした。
その時の様子は前回のブログに紹介されていますが、歓喜に包まれた本当に素晴らしいひとときでした‼️
御聖誕祭の後は、各庵に分かれて交流会が行なわれました。
実は、この交流会も御聖誕祭の醍醐味の一つ☝️
日本のみならず台湾からも兄弟姉妹弟子が集い、御聖誕祭での歓びを語り、味わい、その余韻に浸ることのできる本当に素晴らしいひとときです。

シャーンティ庵での交流会!

そして、その時にいただく「プラサード」のなんとも美味しいこと!!!
今年は、丹波に移住して農業を始めた兄弟子クリパールさんによって丹精込めて作られたお米が初献上され、それをマハーヨーギー・ミッションの料理班さまらさの台所の方々を中心に調理していただきました。

「すべては神から与えられた神聖な祝福に満ちたもの。プラサードとは、神前に捧げられた食事などのお下がりを恩寵とともにいただくという意味合いがあります」

——シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

今年は地震や台風、水害などに見舞われた年でしたが、クリパールさんをはじめ農家の方々の尽力のおかげで無事に初収穫を迎えた貴重なお米——
師は、そのお米を「さまらさ米」と命名されました。
お世辞ではなく、こんなに美味しいと感じたお米は初めてでした😊🙏

蓮根は、石川県の弟子から献上されました。こちらも最高の味わいでした。

※「さまらさ」とは、ヨーガの言葉で「等味」、「至福の味わい」ともいわれます。いただく食材の命も私たちの命も、ともに等しく愛で、作る人も食する人も、ともに歓びを味わえる……そんな意味が込められています。

 

ゴーパーラ