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『マハーヨーギーの真理のことば』第十四章「瞑想―実践編」


湖面のさざ波が月の姿を正しく映さないように、
私たちの心のざわめきが真実を覆い隠している。
ヨーガによって心のざわめきを静めたなら、
真の自己は自ら輝き出るだろう。

 

第十四章のページを開くと、上記の師のお言葉が目に飛び込んできます。
私は師にお会いする前に、マハーヨーギー・ミッションのホームページでこのお言葉に出会いました。まだヨーガも何も知らない頃でしたが、そのお言葉からしんと静まり返った寂静の境地を垣間見て、暗闇に光が差したような何とも言えない安堵感を覚えました。ヨーガによって心のざわめきが静まるということ、そうすれば本当の自分――真の自己が“自ら輝き出る”というところに希望を見ました。そして今も、このお言葉の示す境地に惹かれてヨーガを学んでいると思います。その状態へ至るための具体的な方法、ヨーガの本格的な中身、瞑想のその内容についての導きが第十四章にははっきりと示されています。

瞑想は人それぞれ違う景色が広がっているのかもしれないし、中身を確認し合うこともできない。だからこそ本当に瞑想を知っている方、ヨーガを成就されている方、悟りの境地におられる方、そういう方から瞑想のことを教えていただくのが、いちばんだと思ってきました。

今、師にお会いして瞑想のことをお尋ねすることはできなくなりました。でも、師は『マハーヨーギーの真理のことば』の第十四章に、とても細やかに、具体的に、瞑想についての手解きを遺してくださっているのでした。

第十四章は52ページもあり、おそらく一番ボリュームのある章です。「瞑想ーー実践編」なので、ヨーガの要の部分だと思います。とにかく一つずつ項目について記事が書けそうなほど(笑)一つの項目が濃いです。これは、一つ一つ、じっくりと自分が向き合って瞑想していく中で理解できることだと思いましたし、この章にはヨーガの秘義的な内容も含まれていると感じます。

瞑想の実践について、四つの節に分けて解かれています。

一節 「識別瞑想の実践」
二節 「死の瞑想」
三節 「真我への瞑想」
四節 「聖者・神への瞑想」

まず一節を読むと、瞑想がしたくなります。理由は、ただ読んでいるだけではそこに書かれていることを十分に理解できないからです。自分が識別瞑想に取り組まなければ、とらえることができないような微妙なところが書かれているからです。

この複雑な迷路のような心の状態のことや、心の性質や、この世の正体、世界の理(ことわり)について、ものすごく分かりやすい言葉を使われて、具体的に解き明かされ導いておられる師の存在には、今更ながら本当に驚愕しました。とても本格的な内容なので、もしかしたらすぐに分からないこともあるかもしれません。そういう場合は、「瞑想――基礎編」の第十三章に戻ってから第十四章を読むことをお勧めします。私もすぐに分からないことが多かったので何度も十三章に戻りながら十四章を読みました。二節、三節は、こんな貴重な深淵な内容を公開してもいいんだろうか・・・と思うくらいの唯一無二の内容です。

十四章の中で特に私が何度も読んでしまうところは、四節「聖者・神への瞑想」です。人によって違うとは思いますが、私は瞑想をする時は自分の理想の姿、つまり聖者や神のお姿に瞑想することがほとんどなので、四節の内容は、とても分かりやすく大きな道標、導きとなっています。

そして何といっても、四節には師ご自身がブッダに瞑想された内容が記されています。なかでも特別に感じている項目は「ブッダその人のハートに集中する」。ブッダがどういう人であったか。師のお言葉を読んでいると、もう師そのものじゃないか・・・と思えて仕方ありません。師のお言葉は本当に不思議なのですが、聞いていると自分も瞑想しているような感じになり、師のお言葉に自然と導いていただけます。

最後に「ブッダその人のハートに集中する」より、師のおことばをご紹介いたします。

 ・・・ブッダという言葉と彼が生存していたシーンに瞑想していきました。
時間と空間を超えて、昔のブッダの時代に集中していった。
そして瞑の中でブッダは本当に最低限度の布を纏(まと)っている姿で佇んでいた、座っていた。
そして朝が来たら徐(おもむろ)に起き上がり、托鉢に歩く。
そしてまた座る。
そして時には多くの弟子や信者たちに教えを授ける。
そういう姿が毎日毎日続いていた。
弟子や信者たちはいろんな質問をする。
そしてブッダはそれに相応しい助言を与え、答えを導き出す。
それを聞いた、教えを授かった弟子たちは皆、とても霊的に引き上げられた。
ブッダを思うと、ブッダの五十年近い教えの姿は何も変わらない。
ブッダそのものは五十年間近く全く同じ姿、同じ境地。
彼は本当に真実の、永遠の存在であった。
そして彼自身が様々な瞑想で得た答えが多くの人に与えられた。
それがブッダの教えというもの。
だからブッダを瞑想する時には、ブッダその人のハートに集中していけばいいと思うよ。
この世界がどんなに変化しようと、いろんな人がいろんなことを言っても、
ブッダは全く乱れることはない。
ずーっと同じ。
それこそが、それが真実の存在の至福にあったということです。
そしてブッダの教えの究極は、「あなたもそれである」ということです。
そう、あなた方一人一人の本当の姿は永遠の存在であり、至福なのだということです。


『マハーヨーギーの真理のことば』

 

ナリニー


『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章 瞑想ーー基礎編

私は10代の頃から「早く落ち着きたい」と口癖のようにしょっちゅう言っていました。自分はただ落ち着きたい願望が強いタイプだと思っていましたが、ヨーガに出会い、「自分の中に真実(神)が在る」という教えを知り、「落ち着きのない心が静まってわだかまりのない心境になることで、自分の中に在る真実(神)が自ずと顕れてくるのか」と妙に納得しました。ずっと感じていた落ち着きたい願望は、「自分の中に在る真実(神)を無意識に求めていたからだ」と気付き、嬉しくなりました。そしてそれを実体験したいと思い、瞑想を始めました。
瞑想における心とその奥に在るものについて、『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章 瞑想ーー基礎編に説かれているので引用させていただきます。

瞑想の実際的な面として、座って息を調えて心を落ち着かせる、これも簡単な瞑想の一つになりますけれども、経験すると、少々普段の活動とは違う心地良さが伴ってくると思うのです。その心地良さがどこからくるのか、これは私たちの本質として、心の潜在下、奥の方にはもう既にその心地良さのような状態、平安な状態があって、逆説的ですけれども、普段は心の表面の活動によってその平安な状態が現れないでいる。日常の様々なことや行動、あるいは心の様々な想念によって搔き乱されてしまっている。ですから息を調え、静かにすることによって、その上辺の活動が静まって、本来の静けさが現れてくる。

「自分の中に在る真実(神)」に触れたいと瞑想を始めましたが、集中力のなさ、また座法の不安定さに苦労しました。それでも自分の内面を見つめようと努力することに安らぎを感じ、とにかく毎日瞑想するようにしていると、不思議と日常で自分を見失うことが減っていきました。またやり続けていく中で、座ると自然と心が静まることが増えていきました。

ただ、毎日の瞑想が習慣付いてくると、瞑想を深めていく難しさを感じ、それには根気強くこつこつやり続ける熱意が必要だと感じました。そのような時、師は力強く励ましてくださいます。

サマーディは必ず訪れます。それを聖典の中だけの話だと思わないでください。熱心になることです。それだけが必要です。それを十分に準備するためには真理を学び、それだけを求めなければならない。自分は何者なのか、誰なのか、あるいは完全なる存在としての神、そのどちらかに集中していくなら、心の中にあるそれ以外のものは取り除かれていきます。
覚者の命の言葉をよく学んでください。更には、その覚者たちは私たちと全く同じ体を持っていたということを忘れないでください。その具体的実例が、無知とエゴという名の敵に勝つための私たちの最も強い味方であり、武器です。学び、考え、そして瞑想。そして、あなた方は真理を実現するでしょう。
【注釈:サマーディ 三昧。心が消え、対象のみが意識面にある状態】

師はご自身を通して、サマーディは本当に在ると私たちに見せてくださいました。師のお言葉、行為、1つ1つが真実の現れそのものでした。師が与えてくださった大きな導きは、たとえ師にお会いできなくても、この『マハーヨーギーの真理のことば』を通して感じ取ることができます。そして師の境地への憧れが、瞑想への情熱の支えになります。師が与えてくださった大きな祝福に感謝し、これからも熱心に瞑想を実践していきたいと思います。

 

船勢洋子


ヨーガーナンダから教わった信仰心 -『あるヨギの自叙伝』より-

季節は巡り秋になりましたね。半年前が随分昔のようにも感じますが、今年の春の祝祭のテーマはパラマハンサ・ヨーガーナンダだったので、その期間『あるヨギの自叙伝』を読み込み、関連でブログ(『グルデーヴァ!』(尊い先生!)前編後編番外編)に書くためにも何度もヨーガーナンダに瞑想していました。そのためかそれ以降ヨーガーナンダには特別な親近感があり影響を受けてきました。 そこで今回は、ヨーガーナンダの一体何に自分が影響を受けているのかを考えてみようと思いました。

ヨーガーナンダがアメリカ行きを決意された時の心境について私は、師がおられたのに異国の地に行こうとよくぞ決心されたよなぁと思っていて、師と離れることに迷いや未練はなかったのか凄いなと感じていました。ラーマクリシュナの直弟子たちは、師の没後に布教されていますが、ヨーガーナンダの場合はまだ師がいらっしゃる時でした。

ヨーガーナンダはババジからの命で西洋にヨーガを布教するその使命を果たされた方だと今だから私たちは知っていますが、当時のヨーガーナンダ自身になって考えてみれば、師がいてくださり、またかねてからの夢であった子供たちを正しく教育するためのヨーガの学校を作り、そこで大きな働きをしている真っ最中です。いくらヴィジョンを見たからといって西洋に行くのは今ではなくまだ先だと思わなかったのか?そこで満足することなく、さらに一歩飛び出してアメリカに行こう!と、どうしてそのタイミングで突き進めたのか? 本の中には師と離れる不安はあまり書かれていませんが、とにかく相当な覚悟と決意で渡米されたことがその部分の記述に表れています。まるでブッダが道を求めて出家を決心し、苦行林に入っていかれる時のようなものを私は感じました。何の不自由もない暮らしをしていたのに出家して伝道されたブッダと似ているように思いました。

ヨーガーナンダはアメリカ行きのヴィジョンを与えられ師に相談にいき、師からは「すべてのドアがお前のために開かれている」「今をはずすと、機会は二度と来ない」と言われ決心します。そしてある朝に、神のみ声を聞くまでは、死ぬまでも祈りつづけようという鉄のような決意を固めて祈り始めます。

西洋の近代的実利主義の霧の中に自分を見失うことのないように、神の助けと導きを求めたのである。私の心はアメリカ行きの決心はすでに着いていたが、いま一つ、神の直接の同意と励ましが欲しかったのである。私はむせび上げて来る声を押さえながら、祈りに祈った。だが、何の応えもなかった。私の祈りはしだいに熱烈さを加え、昼ごろにはついに頂点に達した。私の頭は苦悩でぐらぐらしてきた。もし、もう一度激情を爆発させて泣き叫んだら、脳が張り裂けてしまうのではないかと思われた

脳が張り裂けてしまう・・・。その表現だけで、どれほど神を求めておられたかが伝わってきます。そしてそこに、神が応えてくださるという確信、信じる強烈な思いを感じます。必ず応えてくださると信じているからこそ、すべてを懸けて死ぬまでも祈り続けようと決意できると思います。それで応えが与えられないなら本当に死んでもいいと命と引き換えにする並々ならぬ思いです。だから、ババジが姿を現されたのだと思いました。マリーゴールド

そんなふうにヨーガーナンダが、より神を信じ求めるようになっていったエピソードのうちの一つだと私が感じている、とても好きな章『大学の学位を受ける』があります。ヨーガーナンダの大学時代の日課は、朝9時半に自転車に乗って下宿から先生(スリ・ユクテスワ)の所へ行くことから始まったそうです。片手には下宿の庭で切ってきた数本の花を持ち、先生を訪ねます。先生はいつも機嫌よく迎えてくださり、そして昼食に誘ってくださり、ヨーガーナンダは喜んでごちそうになります。それからそのまま学校のことなど忘れてしまって何時間も先生の比類ない英知の言葉に耳を傾け、また時には僧院の仕事を手伝ったりして真夜中近くになり、しかたなく下宿に帰ったそうです。どうにかすると、先生との話に夢中になって、夜を明かしてしまうことさえあったとあります。

ただ先生に会いたくて、先生が喜んでくださる花を持って自転車に乗っていくその姿が浮かび、ヨーガーナンダの思いがすごく分かります。学校のことなんて忘れてしまうくらい先生の話が面白くて、聞き惚れてしまって、気付いたら夜中になっていたということも。あぁ、結局そういうことなんだよな、と思いました。

また、どうしてもヴィヴェーカーナンダの晩年の言葉・・・
私はバンニャンの樹の下で師の素晴らしい言葉に耳を傾けて心を奪われていた少年に過ぎない。それが私の本性なのです」という声と重なってしまって胸が熱くなります。

結局、私たちはそうなのです。師に会いたくて、師の下に集まり、師の言葉に聞き惚れていた少年少女に過ぎない。それは永遠にそうだと思う。誤解を恐れずに言えば、本当はヨーガとか悟りとかそれ以前に、師の人となりに、ひどく惹かれてきたのだと思う。憧れた師が真正なヨーギーだった。師の生きざまがヨーガというものだった。だからヨーガを志した。師のあの声、あの優しい眼差し、あのお姿、笑顔。ただ会いたくて、それだけだったのだと思う。何を聞いても応えてくださる。それもただの答えじゃない。自分の芯の深いところで心底納得ができるものが与えられる。そのような存在と会ったからには、信じずにはいられなくなります。

私は、『あるヨギの自叙伝』を読んで、ヨーガーナンダが何を決めるにも、神、師との対話によって進めていかれたことを感じました。
求めよさらば与えられん」と先輩弟子のサーナンダさんに言われたことがあるのですが、これは本当に真実だと思います。求めれば必ず与えられてきました。もし与えられない時は、自分の求め方、ドアの叩き方の問題(汗)。
そんな時は、ふと「あなたは真剣か?」と師の声が聞こえる気がします。ヨーガーナンダのように真剣に求めること、それを私はヨーガーナンダから教わりました。

私がヨーガーナンダから影響を受けていること、それは信じる心です。ヨーガーナンダに元からあった信仰心、信じる心をさらに強く育てられたのは師スリ・ユクテスワだと思います。神は必ず応えてくださる、そのことをスリ・ユクテスワは何度もヨーガーナンダに実体験を通して導き与えられました。『大学の学位を受ける』という章も、ぜひまたいつか読んでいただければと思います!

秋の空

空は永遠!

グルデーヴァ!!!

 

※参考・引用『あるヨギの自叙伝』

ナリニー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑤

インドの細密画は、15世紀から19世紀を最盛期としてインド各地で描かれ、文化やその土地によって画法やモチーフが異なり、様々な特徴があるといわれています。
小さなものだと数センチ、大きくても一辺が20cmほどといわれる小さな画面に描くのは、「見る人と絵が一対一で対話をする」という考え方があるからだといいます。またそれは魂を清める行為であるともいわれています。
確かに、細部にわたって繊細に描かれた小さな絵をじっくりと眺めていると、時には心が静まり、時には愛に満ちていくようにと、そこに秘められた物語の真意が、心の奥深くに豊かに広がっていくのを感じます。

さて、今回は『Paramahamsa』No.79の表紙を紹介させていただきます。

この絵は、シャクティ(キールタンを歌うメンバー)が毎週、ヨーガ・ヴィハーラに集まって、キールタンを歌っていた時に感じたことをかたちにしたものです。
当時の思いを、『Paramahamsa』の裏表紙に掲載していましたので、ここで紹介させていただきます。

「Panduranga Vitthale(パーンドゥランガ  ヴィッタレー)」、この曲を歌う時、ヨーギニーがただ一人荒野に座り、神を求め続けるという絵が浮かんできます。曲の高まりとともに、彼女の神への愛、神の御名の叫びは、やがて木々や山、大自然にも神を求める声を上げさせる、そんなイメージです。歌の中に入り込んでいくと、いつも深い瞑想へと導かれるような感じを受けますが、そうして歌っている中で、ある日気付きました。私たちは初めは神に会いたいと願い、探し求めるけれど、本当は大自然のみならず、自身の全細胞までが神そのものだということを。
神を感じ、神とともにある不動のヨーギニー、今回はそんな思いを絵にしてみました。

シャチー


スワーミー・プレーマーナンダの強さ

スワーミー・プレーマーナンダ(1861〜1918)という聖者をご存知でしょうか?

師であるシュリー・ラーマクリシュナに「骨の髄まで浄らかで、不純な思いが心身を横切ることがない」と言われるほど、生まれながらにして純粋な魂であり、兄弟弟子のヴィヴェーカーナンダと共にラーマクリシュナ・ミッションの礎を築いた聖者の一人です。
その生涯はヴィヴェーカーナンダのように表舞台に出ることはありませんでしたが、僧院の管理者としての責務を担い、信者を神と見てその奉仕に身を捧げました。

そんなプレーマーナンダの生涯に触れると、特に二つの打撃を乗り越えて、元来の純粋さに加えて「強さ」が備わっていったことが感じられました。
一つは師シュリー・ラーマクリシュナとの別れ、もう一つはヴィヴェーカーナンダとの別れでした。
その時、プレーマーナンダは考えました、自らの為すべきことをーー

一つ目の打撃の時、プレーマーナンダは「師の導きに従うこと、神を見ること、真理の実現」を覚悟し、二つ目の打撃の時は「ヴィヴェーカーナンダの仕事を力の限りを尽くして続けていくこと」を覚悟し、それらを誠実に徹底してやり通したのでした。

これらの詳しい内容は、『真実の愛と勇気』(日本ヴェーダーンタ協会)、Web版『パラマハンサ』(マハーヨーギー・ミッション)に載っています。

人は打撃を受けた時、どうすればいいのか?
今、何を為すべきか?
プレーマーナンダの生き様に、そのヒントがあると思います。

最後に、私が感銘を受けたプレーマーナンダの力強い教えを紹介させていただきます。

信仰を呼び覚ませーーグルの言葉への信仰、聖人の教えへの信仰、聖典への信仰である。それで初めて結果が得られるのだ。単なる感傷的な態度は何の役にも立たないだろう。あなたはこのような力強い決意を持つべきであるーー「私は、この人生において何としても成功を収めなくてはならない。執着を離れ、まさにこの肉体から自由にならなくてはならない。私に不可能なことがあるはずがない」と。あらゆる恐れと不安を投げ捨てよ。「私たちは神の子である」と考えよ。そうすれば、弱さはつけ込むすきを見出せないであろう。

ーーー『真実の愛と勇気』p132

 

ゴーパーラ


師からのことば

試練を乗り越える
「努力です。あと必要なものは純粋さというものでしょうね。それがあれば必ず道は開けますよ、必ず」
「努力と言ったのは勇気と実行のことです。どんなに重そうな大きいドアでも、叩けば開きますよ、必ず」

『マハーヨーギーの真理のことば』より

 

2年ほど前から『ラーマクリシュナの福音』を毎日読み、その日、気になった教えをノートに書き留めてきました。(その記事はこちら→『ラーマクリシュナとの約束』、『ラーマクリシュナとの交換日記』)

毎日続けていくと、それはラーマクリシュナと私だけの約束事のように思えて、なくてはならない掛け替えのない時間となっていました。そんな素晴らしい時間だったので『マハーヨーギーの真理のことば』が発刊された際には、待ってましたー!とばかりに『ラーマクリシュナの福音』を読む日課の中に、『マハーヨーギーの真理のことば』も毎日読み、その教えを書き留めることを加えました。

歓びの中で喜々と始めた日課。しかしそれは予想外に変化していきました。『マハーヨーギーの真理のことば』を読み進めるにつれ、内容の深さ、重みに衝撃を受け、少し怖く感じていきました。師は本当にこれからもサットサンガ(真理の集い)をしてくださるおつもりなんだろうか・・・。それほど、すべてがここに記されていると思える内容だったからです。

さらに正直に告白すれば、コロナ禍以降サットサンガ休止はやむを得ないとは思ってきたけれど、毎日、本を読み、師のことばに触れることによって師の存在がより大きくなってきて、師に会えないのがやっぱり切ない、早くサットサンガで師の生の声を聞きたい・・・と思いが募り、余計に悶々と涙する日々でした。

そんな折、師は御入滅されました。アーサナ、瞑想、聖典の学習は、たった一日でも怠ると師との約束を破る気がしました。師のご容態のことを聞いた日も、そして御入滅された日も、ご葬儀の日も、それだけは止めたらいけないと、祈る思いで淡々とサーダナ(修練)を続けました。

日が経つごとに本を開くその時間が、師のご不在を実感することに繋がり読むのが辛くなっていきました。表紙を見ると、じっと止まってしまい、なかなか開けない・・・。しかし、一番辛い時、やっぱり自分には師の教え、ヨーガを実践することしかないと最後はそこに戻ります。それに、師はじゃあ何のためにこの聖典を私たちに遺してくださったか? そう思うと、どんな精神状態であっても・・・と本を開きます。

聖典と向き合う事自体が辛いという複雑な心境でしたが、その辛さを取り除き祝福を与えてくださるのもまた聖典の背後にあるものでした。そのようにして現実から逃げないように師が導いてくださっていました。胸の中で師へ思いを吐露したり感情的になったりしながらも、師と強烈に繋がっている絆を感じ、教えを実地で生きるようにと仕向けられていて、実は辛さによって私はドアを強く叩き、大きなドアが開かれるよう導かれていることに最近気付いてきました。

『マハーヨーギーの真理のことば』の教えを書き綴ってきたノートを読み返してみると、何度も師の同じ教えを自分が繰り返し書いていました。
生きていると、日々いろんなことに直面しますが「・・・どうしたらいいか分かりません」毎日、私は師に問いかけ求めていました。夜、パラっと開いたページを読みます。聖典を通していただく答えは、師から届く手紙のようです。


逃げずに立ち向かう

「忍耐、そして直面して努力すること。その時うまくいくかいかないかの結果は別として、どちらであったとしても一つの克服は達成できる。逃げるのは駄目だよ。
本当に私たちの心というのは、結果の良し悪しに凄く惑わされてしまっているけれど、実際はどちらでも同じことなの。どちらでもいいの、そんなのはね。その物事に真面目に向き合って、そして行為するというだけでいい。やがてそれが心を強くする、つまり克服するという偉大な結果を招くことに気が付く」

「変えなければいけないもの、そして変わることのできるものは自分自身、自分次第だということです。それに徹底すれば、たとえどんな自分の至らない面が出てこようと、その原因は自分自身の中にあるということを認めざるを得ません。全ての混乱の解決法は、やっぱり自分の中にしかありません」

「自分の能力は百パーセントかもしれない、しかし信仰によって、またこのヨーガの力によって、プラス九百パーセントがやってくる。するとそれが千パーセントになって発揮されていく、そういうふうに形容される。だから存分に百パーセントの注意を注いで対応すればいいと思う。でもその前に、やはり心を神に、または理想の真理に開け放しておくということで、その九百パーセントの通路が開かれると思います」

「本当の自分というのは、他でもないあなた自身の中に在るあなた自身です。また、神はいったいどこに在るのか。あなた自身の中に在るのです。真理はどこに―あなた自身の中に。これは明白なことです。ですから、神への瞑想が最も実用的です。そうして心が静まれば、神は独りでに顕れます。神への瞑想を続けてください、どこでも、いつでも」

『マハーヨーギーの真理のことば』『ラーマクリシュナの福音』の二冊の聖典。それぞれを書き留めるノート二冊。

本とそれぞれのノート

そう、どこでも、いつでも、心が静まれば、神はきっと顕れる。ですよね、ヨギさん!

 

ナリニー


『マハーヨーギーの真理のことば』 ~第十一章 真の愛

「恋は盲目」という言葉がありますが、周りのことなんて一切目に入らなくなるほどその人のことが好きで好きで、朝から晩まで寝ても覚めても、気が付けばその人のことばかり考えている……。そんな経験がある方はいらっしゃいますか?(私はあります!!)
たとえばそんなふうに神を一心に愛し、神と一つになろうとするヨーガをバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)といいます。

師シュリー・マハーヨーギーに出会うまで、私はバクティ・ヨーガについて何も知りませんでした。師の下でヨーガを学ぶようになってしばらくたったある日、東京の自宅で瞑想中に師のヴィジョンを見るということがありました。驚いた私は京都にいる師を訪ね、そのことについてお話をしました。その際に「あなたはバクティ・ヨーガが向いているかもしれませんね」と言われたことがきっかけとなり、私はバクティ・ヨーガを一から学ぶことにしました。
初めは神を信仰の対象とするだけでなく人間のように愛するなんて!?と困惑し、どうしたら神を人間と同じように愛することができるのだろう?と、正直戸惑いました。
ところが、マハーヨーギー・ミッションのバクティ・サンガムに参加して、キールタン(インドの讃美歌)を歌ったり、インドの神や聖者のことを学び、また自分でも聖典を読むうちに、知らず知らず私はクリシュナという神に強く惹き付けられ、まるでクリシュナ神の神秘力によって絡め取られるように恋に落ち、気が付けばクリシュナ神を心から愛するようになっていました。今、思い返しても、その経緯は不思議としか言いようがありません……。

『マハーヨーギーの真理のことば』の中に、まさにその時の私の状況を表したような箇所を見つけました。その一部を抜粋してご紹介させていただきます。

バクティ・ヨーガというのは、単純に神を好きになることです。好きになること、そして神に語り掛けることです。ちょうど恋と似ているというふうにいわれる。好きな人が現れたら、やっぱり近づきたいと思うだろうし、話したいと思うだろうし、そのような行為を積極的にしていくよね。その人のことで心がいっぱいになってきたら、他のことなんてもうどうでもよくなる。その人だけが全てになってくる。バクティ・ヨーガというのは、ちょうどそんな感じなの。
本当に、狂おしいほどの情熱というか、神への渇望がそうさせるのです。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十一章 第一節/ 神への渇望 より抜粋

愛は誰もの胸の中に既にあります!神を渇望することで、その愛を大きく大きく育てていくことができます!
私自身、もっともっと神への愛を純粋にし、美しい愛の花を神に捧げることができるよう心から願っています!!!

太陽を見つめ、まるで太陽を真似ているかのような姿のヒマワリ。私もヒマワリのようにいつも神だけを求め続けていたい。

シャルミニー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ④

 今回は、『Paramahamsa』No.78の表紙を紹介させていただきます。

アール・ヌーヴォー調のフォントをあしらった表紙は、師であるヨギさんがデザインしてくださったものです。
ヨギさんは、毎回その絵にあうようにとフォントを選ばれますが、いつも何かしら、明確な、具体的なイメージがあり、そのイメージに沿ったものが見つかるまで何度も見返して探されました。
言葉にすると単純な作業ですが、その集中力は並大抵ではなく、また選んでくださったフォントでデザインされたものは、いつも私の想像をはるかに超えた美しさを放っていました。

*実際に発行された『Paramahamsa』はモノクロです

 No.78の裏表紙に、この絵を描いた当時のエピソードを掲載していましたので、ここに紹介させていただきます。

毎週金曜日夜、シャクティたちはヨーガ・ヴィハーラに集い、キールタンを歌い踊っている。いえ、実際には踊っていないのだけれど、まさに踊っているようだと感じたことがありました。
その日、私たちは輪になってシヴァ
を讃える歌を歌っていました。身体を左右に揺らし、満面の笑顔で声高らかに歌うシャクティたち。そこにはヨギさんがおられ、ともに遊び戯れている! そんなふうに感じ、私は深く感動したのでした。そして「あぁ、こういう絵を描きたい」と思ったのです。

このミニアチュールから、神だけを見つめ、神と一緒に遊ぶシャクティたちの歓びが少しでも伝われば嬉しいなぁと思います」

*2023年7月20日配信のWeb版Paramahamsaにて、このイラストを紹介していただきました。

シャチー

 

 


『マハーヨーギーの真理のことば』 第九章 大宇宙と小宇宙の神秘

私はヨーガを始めてまだ数年の初心者です。ヨーガの教えは、聖者・覚者によって見出された叡知であり、目から鱗が落ちるようなものが多く、学ぶのがとても楽しいです。今は、シュリー・マハーヨーギーへの質問と答えがまとめられた『マハーヨーギーの真理のことば』を読んでいます。シュリー・マハーヨーギーのお話は自らの経験に基づいており、とても説得力があります。また、対話形式で書かれていて、とても読み易いです。
今回はこの御本の第九章をレビューさせていただきます。

第九章は「大宇宙と小宇宙の神秘」というタイトルとなっています。ヨーガでは、物理的に存在する宇宙を大宇宙、それに対して私達の身体のことを小宇宙ととらえています。私は瞑想中に、自分の中に内なる世界が広がっていることを感じることがありました。小宇宙という言葉を聞いた時、本当にその通りだなと思いました。

さて、この章の中で私にとって最も印象的だったのは、大宇宙と小宇宙の一致(梵我一如)の部分です。
私が梵我一如という言葉を知ったのは高校生の頃で、教科書にこのように書いてありました。
「ウパニシャッド哲学では自己の本質であるアートマン(我)と宇宙の理であるブラフマン(梵)が一体であるという真理(梵我一如)を悟ることで輪廻転生から解脱できるとされる」
言葉の雰囲気にとても惹かれたのですが、意味は分からないままでいました。

シュリー・マハーヨーギーは、梵我一如について、このように説明されています。

サマーディ(三昧)においては、いわばその物質的な粗大な局面から、より微細な原因体の方に心が移行していくことになる。そうするとその大宇宙と小宇宙を造り出した原因というのは同じということになってくるので、そこでの物理的な空間の大きさとか量とか時間とかいうものが消滅してしまうということになる。そういう中でより深まっていけば、その根源的な宇宙と万物の展開を始める原初体のようなところに入り込んでしまう。するとそれは二つとないものとして、体感することになるのです。相対的な大宇宙、小宇宙というふうに物理的な条件を伴った観念がそこにある以上は、大宇宙と小宇宙の一致とか一体というような表現になるだけのことです。要は宇宙万物の根源にサマーディは連れていく、あるいはサマーディの中でそれを体験するということです。

なるほど、梵我一如とはサマーディの中で体験できるもの――では、サマーディとはいったいどのようなものなのでしょうか? 興味はつきません。

第九章にはその他にも、プラーナーヤーマ(調気法)、クンダリニー(根源力)、シュリー・ヤントラ(象徴的な真理の図象)、宇宙開闢(かいびゃく)論など、ヨーガの生理学と宇宙観に関する興味深い内容が、数多く取り扱われています。
ぜひとも読んでみてください。きっとヨーガの理解が進むと思います。

右は『マハーヨーギーの真理のことば』の表紙、左はシュリー・マハーヨーギーの描かれたブラフマーンダ(ブラフマンの卵)。ヨーガでは、宇宙が始まる前、有もない、無も無い時、そこから宇宙が生まれ、そして万物、万象が展開していったと語られています。ビッグバンが発見される遥か昔、太古の昔のヨーギーが、宇宙の始まりを直観していたことに感動します。

島本廉


『マハーヨーギーの真理のことば』 自分の一生は自分で生きる

子供の頃から我が家にはいちじくの木があった。母が養女としてこの家に来た時に、庭に好きなものを植えたらいいと養父が言ったので、好物のいちじくの苗木を植えたところ、いちじくはだめだ、根が強く他の植物をダメにしてしまうと引っこ抜かれてしまったそうだ。しかし母はその苗木をこっそり家から離れた小さな畑に植えた。養父は数年後に亡くなり、母はやがて結婚し、子供を育てながら、丹精込めていちじくの世話をして、毎年夏になると鈴なりに実がなった。家族だけでは食べきれず、好きな方に差し上げているうちに、甘くて美味しい、販売して欲しいと声が上がり、軒先で売ると、毎朝買いに来られる方が増え、口コミで遠い所からも来られるほど、評判となった。

風邪も引いたことがないと健康を自慢していた母であったが、思いがけず病を得た。手術と治療を繰り返し、なんとか日常生活を送っていたが、病状が進み、最期の2年ほどは坂道を転げ落ちていくように急速に悪化した。それでも母は最後まで前向きに生きた。大切に育てた畑を見るのが何より大好きで、私は週末になると母を車椅子に乗せて畑まで行った。いちじくの世話は父と姉夫婦が受け継ぎ、親木から挿し木をして子供の木も育てた。亡くなる2ヶ月前の6月には、親木も子供の木も立派な葉をつけているのを見て喜んでいた。母がいちじくを愛でたのはそれが最後となり、8月に旅立った。
その1年後、去年の夏の終わりのこと、雨の多い夏となり、例年より少し時期が遅れ、9月の初めになって実をつけた。そんな朝、前日まで青々とした大きな葉を伸ばしていた親木のいちじくが一夜にして実だけ枝に残して、全ての葉を地に落とし、寿命を全うした。この2回の夏に私たち家族は母といちじくの、二つの魂を見送ることになった。

愛する存在の死は悲しい。この上ない苦しみである。苦しみを乗り超えるために私は言葉の通り七転八倒した。そしてやはり最後にすがるところはヨーガだけであった。
死を理解することは今の私には難しい。それなら必死に生きようと思った。そして私は今、真理のことばに支えられて生きている。

問題は、一個人として自分はどう感じるのか。
どう生きたいのかを自分自身に問うべきです。本当の自由が欲しいのではないのですか。本物の幸せを得たいのではないですか。
真実在というべきその存在が自らの中に在ると教えられながら、
どうしてそれを探そうとしないのか。
この単純な問い掛けを自分自身に真剣に為すべきです!
それ以外の想念は全て、単なる情報の影響にすぎません。
そんな影響の渦に巻き込まれて、自らを失いたくはないでしょう。
自分の一生は自分で生きるのです!

『マハーヨーギーの真理のことば』 第八章 実践の秘訣 より

母といちじくが自らの人生を見せてくれた。そのことに感謝して、私も自分の人生を生きたいと思う。それがヨーガとなったら本望だ。
そして今年も我が家のいちじくが大きな葉を広げて甘い実をつけるのが楽しみだ。

サラニー