神への態度 バクティ・サンがム キールタン

先日の日曜日は今年最後のバクティ・サンガムでした。10月から3ヶ月間歌い込んできたキールタン、「ゴーヴィンダ・ハレ・ゴパーラ」をみんなで歌いました。ゴーヴィンダもゴパーラもクリシュナ神の幼少期のお名前。このキールタンでは、その御名を、何度も何度も繰り返します。愛らしい幼子ゴパーラが、森の中で無邪気に遊び戯れている様子を見て、母親は愛おしい我が子の名前を叫ばずにはいられなくなる。そんな印象がこのキールタンにはあります。

バクティ・ヨーガの中では、バクタ(神を愛するもの)の神への態度が5つ教えられていますが、その5つの中には、ヴァーツァリアという、神を子供と見立て、母親のように愛するという態度があります。まさにこのキールタンは、ヴァーツァリアの態度がぴったりだと思いました。ちなみに、他の態度には、神を平安な気持ちで愛するシャーンタ、召使いの態度のダースィヤー、親友の態度のサキヤ、そして愛人の態度、マドゥーラがあります。

私は、このバクタの態度の話を聞くたび、自分は一体どの態度なのだろうか…という疑問が生まれます。以前そのことをヨギさんにお尋ねしたとき、「それぞれの人の素直な態度というか、ふさわしい態度というのが自ずと生まれてくる」と教えてもらったことがあります。

「ふさわしい態度が自ずと生まれる」

では、生まれるまでは何をしたらいいのでしょうか。そんなことを考えていたとき『ラーマクリシュナの福音』の中である物語を見つけました。

ある娘が幼いときに夫を失って寡婦となった。彼女は自分の夫に会ったことがなかった。他の少女たちの夫を見て、ある日父親に「私の夫はどこにいるのですか?」と尋ねた。父親は「ゴーヴィンダがお前の夫だ、もしお前が呼べば、彼は来るだろう」と答えた。これを聞いて少女は自室に入り、扉をしめてゴーヴィンダに向かって「おお!ゴーヴィンダ、私のところに来てください、なぜ来てくださらないのですか!」と叫んだ。神は少女の哀れな叫びに抵抗することができず、彼女の前に現れた。人は子供のような信仰と子供が母親を見たいと感じるときの強烈な憧れとを持たなければならない。その憧れは、暁の東の空の紅のようなものだ。空が紅くなれば、必ず太陽が昇る。その憧れの直後に人は神を見る

このお話を読み、「ふさわしい態度が自ずと生まれる」までは、この少女のように、ただ純粋に神を求め続けることだと思いました。神への態度が先にあるのではなく、まずは素直さと熱心さが何よりも大切なのだと思います。

12月でいったん歌い納めした「ゴーヴィンダ・ハレ・ゴパーラ」ですが、1月のバクティ・サンガムでは2018年の振り返りをするので、もう一度歌います!ぜひ、ゴーヴィンダ!!ゴパーラ!!!と叫びにきてください。


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