きれいになりたい!

ゴールデンウイークにテレビをつけると、どこかの国の、深海の生き物たちが映った。海底の無人カメラには、10メートルもの巨大イカの姿が・・・。俊敏に手足をビュンッと動かし一瞬で獲物を捕らえる。思わず釘付けになって見ていたら、ふとハタチくらいの時に育てていたクラゲのことを思い出した。

クラゲの体は、ほぼ水でできていてデリケートだった。小さなミズクラゲの飼育なら、装置がなくても毎日水をきれいにすれば、ガラスのボールでもOKだった。餌になる微生物みたいなエビの幼生をスポイトでとり、クラゲの傘の部分にそっと与える。その後は排泄物で水が汚れるので、作った人工海水と交換する。別の容器に一時避難させるとき、クラゲの体に触れるとクラゲが傷付くので、触れないよう注意して、フワフワ浮遊するクラゲを水と共にすくいとる。これがわりと至難の業で、神経を使うし時間もかかる。毎日繰り返していると、年頃の遊び呆けていた私は、面倒だなーと思うことも…。しかし面倒くさいと思おうが水をきれいにしないとクラゲが死んでしまうので、その一連の作業は欠かせなかった。

水面の煌めき。・・・私にはクラゲに見える。笑

ところで、ヨーガの全行程は浄化です、と聞いたことがある。
ヨーガに出会う前は、心の中の矛盾で、体感的に漠然とした気持ちの悪さを抱えていた。自分という存在は、そういった思いでできている塊のように感じて、疑いもなく、体=自分、心=自分、だと思っていた。だから、身体(自分)が何だか気持ちが悪い、スッキリさっぱりきれいになりたい、とよく思っていた。でも、どこかでは、人間ってそういうもんなのかな、と有耶無耶(うやむや)にしていた。有耶無耶にしなければ生きていけなかった。
ところがヨーガでは、本当の自分はこの体でもなく心でもない、と教えられた。師は言われた「そういう自分をただ見ている、知っている純粋な意識がある、それが真の自己です」。

それを実感したい思いが年々募る。体が自分ではない、とはっきり言われているのだから、体が自分だと思っている限り私はヨーギーになれない。スワミ・トゥリヤーナンダ(インドの昔の聖者)が言われている、「自分は肉体である、と思うことが肉体の苦痛を感じる原因なのである」。

それで少し前、聖典のある言葉に動揺した。内も外も浄めること、不潔な人は決してヨーギーにはなれない、内面の清らかさの伴わない外面だけの清らかさは価値がない、という内容だった。不潔な人は決してヨーギーにはなれない!? 私はヨーギーになりたい。絶対にその不潔にはなりたくない!きれいになりたい!と思った。「潔」の字は辞書によれば、汚れがなく清らか、余計なものがない、心や行ないがけじめ正しい、など。不潔とか清潔とか安易に言ってるが、本当に清らかなるものって何なのか? 不潔とは、見た目ではなく目には見えないものかもしれない。

ヨーガの全行程は浄化だと聞いてきたから、ヨーガを学ぶ過程自体もその不潔からは遠ざかっていくと思う。学べば学ぶほど、内面の汚れである余計な思いや、良くない習慣などに気付かされる。拙い実践であっても、不純物は師によって、有難くも浄化されていると思う。なぜなら、身体が気持ちが悪い、というかつての感覚も消えている。ちょうどクラゲの水交換みたいに、知らない間に毎日浄化された水に新しく体が入れ替わっているような…。クラゲをすくう時、やむを得ず一緒に入る古い水もあるけれど、毎日の浄化を続ける限りは希釈されていき、いつかは古い水も無くなる。ということは、ヨーガの実践も、途切れさせたら浄化はストップされる。そういえば実践を怠れば、まるで魔法が溶けたように、心身の重~い感覚を味わったこともある。一日でも水換えをサボれば、たちまち水が汚れてクラゲが衰弱するように、心と体も浄化が不可欠。クラゲの飼育とちょっと似ている?!

と分かったふうなことを書いているが、実はこの記事に苦戦していた…、先輩が助け船を出してくださった。師のヨーガの清浄(せいじょう)の教えを改めて教わった。そして、師ご自身の境地に、今更ながら驚愕してしまった。師から、理屈ではないんだよ、と教えられたようだった。散々悩んだからか師の教えを読んだとき、まるで泉に清澄な水が広がっていくようだった。皆さんにもぜひご紹介したい。

少しヨーガを進めていけば、直観的に感じてくることは、この肉体は不浄に満ちているということ。暑い時期は老廃物として汗が出てきたりしますでしょう。それもまた不浄なもの。だから生理的に見れば、極めて自然で当たり前なものであったとしても、その自然のメカニズムそのものが相対的な変化を被っている以上、完璧な清浄という、浄らかなるものとは言えないものなのです。動物たちやあるいは人の死を見ても、三日もすれば腐敗していきます。そしてどんどんどんどんおぞましい姿に変化していく。また心の中を覗いてみれば、もっと醜いものがいっぱいある。様々な欲望に執らわれた執着、これも浄らかなものではない。もう一方で真理とか真実、あるいはアートマン、ブラフマン、あるいは神を思い起こす時、誰もの心の中に浄らかなるもの、完璧なるもの、絶対なものという漠然とした印象があるに違いない。そこには一点の曇りさえもが認められない。そういう直観的な真理とそうでないものへの識別感が基本となって、シャウチャ、清浄というものが(ニヤマの中で)一番目に挙げられています。だから決してこれは身体的な、特にお風呂に入ったら解決するというような問題ではない。その意味ではニヤマの清浄というのは、ニヤマだけでなく、その後のすべてのヨーガの完成に至るまでの意味合いを示唆しているというようにも見えます。

シャウチャは清浄、要するに身も心も清浄にしていくということです。そして、それはもちろん環境も含めた全部を浄化していくということですけれども、他のニヤマとかヤマ、あるいは瞑想やサーダナ(修練)を行なっていかなければ当然心の浄化はできないし、それをも含みます。『ヨーガ・スートラ』に、シャウチャに徹すれば肉体への厭(いと)わしさが生まれる、あるいは他者との接触が煩わしくなるとあります。
それは嫌悪して触らなくなるのではなくて、触っていこうとすると、物質というものがまるで体に撥(は)ねつけるような、そういう生理的な、物質的なものが自然に出てくる。それで結果として何にも触らなくなる。特に他人の体というのがいちばん顕著なのだけれども、それを他人の体はカルマ(業)で汚れているとか浄化されていないからというのは後からのこじつけであって、そうではない。事実そうかもしれないけれど、理屈抜きにそういうことが出来上がってしまう、変化してしまう。

そういえば師は、人に触れることがおできにならなかった期間がある、と聞いたことがある。簡単に言葉にするのも憚られるが、師はヨーガを完成されたその境地におられるからこそ、このような深遠な事柄を、誰も分からないような肉体の本質についてを、科学のようにスッと解き明かしてくださるのだと思う。本当に物凄いことだと思う。

地域の人が、いつもきれいにしている花壇。ハッとするような花が咲いていた

また、肉体の浄化と聞けば、私はインドの沐浴も連想する。トゥリヤーナンダは生涯にわたり、環境や身体がどんな状態であろうとも自分が日課と定めた宗教上の務めを怠らなかったそうだ。毎朝、夜が明ける前に起床され、沐浴、瞑想、聖典の学習を行なわれた。それは晩年まで続き、病で歩くことが難しくなっても、ガンジス河まで歩いていかれ、身体にふりかけるための河の水を汲んできてもらったりまでされている。私には、信仰という文字しか浮かばない。
トゥリヤーナンダは言われている「絶え間なく自分はこの肉体ではなく、アートマン(真我)である、ということを忘れないように努力していた」。
“努力”をされていたというのだ。
トゥリヤーナンダの、けがれのない心の清浄さが際立って感じるようなエピソードがある。

彼が若い頃のある日、沐浴で河の中にいる時、浮いているある物体を見た。でも暗がりで見わけることができなかった。すると岸辺の人たちが「急いで上がってこい!ワニがお前をめがけて来ているぞ!」と叫んだ。彼は本能的に岸に駈け上がった。しかし水から出ると同時に思った「お前は何をやっているのだ。お前は朝に夕に、ソーハーム!ソーハーム!私は`かれ`である!私は`かれ`である!と繰り返しているではないか。それなのにたちまち、自分の理想を忘れて自分は肉体であると考えている!恥知らずめ!」と。そして直ちに水の中に引き返した。ワニは決して彼に近づかなかった。彼はいつも通りに沐浴をした。だが自分が早く終えようとして急いでいると気が付き、自分に言った「いや急がないぞ、いつものように沐浴するぞ」と。そしてそうした。

アートマンへの信仰を貫く、理想に従う、本気で理想以外のものを棄てる、浄化ってこういうことなんだと思う。死ぬかもしれない場面で、一度は岸に上がりながら、でも再びまた戻るという強さ、潔さ。信仰心への潔白さ。内も外も浄らかにする、本気の浄化とは、死をも超える覚悟、一念が必要なのかもしれない。

凄まじい水の音

よく師がおっしゃるように、粗大な汚れを落とすところから始まり、きれいになれば小さな汚れや塵に気付く。浄化の対象も、ヨーガの深まりとともに微細なものへと移行していくのかもしれない。
私は最初、師に、ヨーガをしていけば全然違う自分になるんでしょうか?と伺った。その変わっていった自分が本当の自分なんですか?それは終わりはないのですか?と。師は教えてくださった。

最後までそれは変化して、もう変化しないところまで行き着いたときに、本当の自分が見つけられる。でも、間違いなくその方向に進んでいってることになるから。本当の自分に近づいていくということは、本当ではない自分をなくしていくということだからね。

クラゲがきれいな水でしか生きていけないように、毎日の浄化を怠ればヨーギーとしては致命傷、死ぬと思う。一点の曇りさえも認められない、浄らかなるものーー師の言われた真理と、いつも共にあれるよう、実践していくのは自分。
というわけで、今年もステイホームなゴールデンウイークだったが、深海の生物たちによって心と体の浄化に気付かされた、ある意味まさに黄金の週間だった。まずは粗大なものから、ということで部屋の掃除もまとめてできたし、きれいスッキリさっぱりした!

目指すところ!

野口美香


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