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生きる意味を知り、この命を生きる

先日、祖母が亡くなりました。93歳、大往生と言って良い年齢だと思います。

最後に会ったのは2019年の秋。コロナ禍で会えないまま別れの時が来るかもしれないと覚悟はしていました。しかし、いざその時を迎えてみると、祖母にもう会えない寂しさが溢れてきて、葬儀にも参加して見送ることすらできないという現実を受け入れられない自分がいることに気付きました。

ヨーガで学んだ、「死とは服を着替えるように肉体を脱ぎ捨てていくこと」「死とは心の死滅であり真の自己は決して死なない」という教えを事あるごとに意識し、私なりに理解していたつもりでした。葬儀やお墓といった形式がなくても故人を偲び大切にしていくことはできると思っていました。だから死を嘆き悲しみすぎてはいけないと思っていました。しかし、今回会えないまま祖母が亡くなり、最期のお別れにも立ち会えなかったという事実は、私の心を大きく動揺させました。悲しさと寂しさと虚しさが一気に押し寄せて心を支配しようとしましたが、その勢いを止めてくれたのは記憶の中にある祖母の笑顔でした。
明るくて、雲ひとつない青空のような祖母の笑顔が、私は大好きでした。

祖母の死を受け入れようと、その人生に思いを馳せ、数々の思い出を振り返るうちに気付かされたことがあります。
それは命の偉大さと尊さです。
この世界にはたくさんの命が存在していて、人間だけではなく動物も植物もそれぞれ与えられた役割があり、それを全うするために生きています。祖母はその役割を全うしたから肉体を離れた。私にもいつかその日が来る。私が関わっている人たちにも、関わっていない人たちにも、必ずその日が訪れる。
人は様々な関わりの中で互いに影響を与え合っている訳ですが、具体的に何かしてあげたりしてもらったりということでその影響し合っているのではなく、その命が存在していること自体が大きな力を持つから他の命に影響を与えているのではないか。一つ一つの命が他に代えることのできない尊い存在だから、互いに与え合うのではないか。
そう思い至り、全ての命に対する畏敬の念と、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

今年は近場の蓮を見に行きました。早朝だったため、これから開こうとする状態。生命力を感じました。

私は今生において孫という立場で祖母に出会いました。一緒にいる時間だけではなくて、離れている時間も、祖母が生きていて存在してくれていることがいつも力を与えてくれていました。
その魂が肉体を離れることで、その力はなくなってしまうのか?
答えは否です。
私たちの本質は純粋で尊く、肉体が死を迎えても決して死ぬことがない。それが変わることのない真実だから。今回祖母との別れの辛さに心が支配されそうになっていた時、祖母の笑顔によってその勢いが止まったことも、祖母が私に与えてくれていた力の影響なのではないかと思います。

そんなことを思っていた時、Web版パラマハンサ7月配信の知らせが届きました。
「プラナヴァ・サーラ 本当の生きる意味」で、数年前のサット・サンガでの師のお言葉が、このタイミングで読んだことで、胸に染み入りました。

質問者:『プラナヴァ・サーラ』(書籍)の死に様に関しての内容で、強い信仰を持つということと、神の中で死になさいということがすごく印象的でした。信仰を持つということと神と一緒になるということで死を超えられるという、そこにはそういう意味がありますか。

あります。それからもっと実質的なところにおいては、臨終の間際の思いというものは非常に強いとされているのです。だから通常だとカルマの連続で、ある一定量のカルマによってまた来世という流れになるのですけれども、その臨終の一念発起というかその思いの強さによって、それらのカルマを飛躍的に良くするという、そういう力が生まれるというふうにもいわれています。

祖母が亡くなる前日に親族数人が面会を許可され、声をかけた時、ニコッと笑ったと聞きました。誰の声かは分からなかったかもしれないけれど、最後に祖母の耳を通して何かが伝わり笑ってくれたということは、肉体を去る前に安心して穏やかな気持ちで旅立てたのかもしれない。それが来世に良い形で繋がっていくのかもしれない。そんな風に思えました。

この日のサット・サンガの中で、師はこうも仰っています。

本当は誰もの本性という本体は神聖なもので、エゴとかそんなものは初めから本当はない。無知なんていうのも本当はない。…自分もそうだし、他人も他者も全てのものが同じ本質を持っている。二つとない同じものだから、愛おしい、尊い。そういうふうに他者に対しても優しく尊敬を持つこともできるし、全てのものを愛おしくいたわることもできます。これが生まれてきて、生きる本当の意味になると思います。

「生きる意味」を知ったからには、今生でそれだけを見て生き切ることができるはず。

誰もが真実を実現することができると、それが既に私たちの中にあるということを、師は常々おっしゃってくださっています。それを体現し、ありありと見せてくださっています。
その言葉を信じ、その姿に倣い、最期の瞬間まで諦めることなく生きていきたい!今、私史上最高に強い決意を感じています。

何度挫けそうになっても何度でも立ち上がって、私が与えられた役割を全うしていきたいです。

ハルシャニー


私ヨガ!~私も実践できるヨーガ

今年に入って仕事を探さなければいけなくなった。これまでずっと慣れた仕事に携わってきたけれど、会社の都合で勤務日数が減ったのだ。新しい仕事が私にとって更なるヨーガ実践の場になるようにと願いつつ仕事を探した。この先いつまで働けるかということも含めた自分の年齢や給与、等々を考えると、介護職が好条件の一つとして上がってきた。介護の資格は両親の介護の為に10年ほど前に取得していた。でも実は介護の仕事は避けていた仕事でもあった。
避けていた大きな理由は、両親の世話は自分の親だから、何があっても(例え怪我をさせるようなことがあっても)自分が全責任を持ってすることができるけど、他人様の身体を大袈裟に言えば命を預かってお世話をするのは私には荷が重い、と感じていたことだった。
そう思う反面、会ったことのない先輩グルバイが医療現場で正に献身奉仕に生きておられる姿を過去のブログから知り、そして今もそのように行為し続けておられることをたまたま伝え聞いたりすると、その姿にもの凄く憧れた。そんな中、あるオンラインミーティングで別の先輩グルバイが、自分はヘルパーをしているとおっしゃったのを聞いた瞬間、私の心が「かっこいい!」と叫んだ。仮面ライダーのように(古い?)首にスカーフをなびかせ、バイクにまたがった先輩の姿が目に浮かんだ。そしてかっこいいと叫んだ自分の心に自分で驚いた。

ヨーガでは仕事は何でもよいと教えられる。それなのに今も介護職に尻込みする気持ちはなぜなのか、改めてよくよく考えてみた。そこには評価を恐れている私がいた。失敗することが怖かった。そして、自分の親と他人を同じように大切とは思えていない自分もいた。これは真理の教えに反しているなと気付いた。
気付いたけれども、さて、どうしよう?介護職と言っても働く所は色々あるし、Wワークかフルタイムか、それに別に介護職に拘らなくても、本当に仕事は何でもいいのだ。

「神様、どうか私に相応しい仕事を与えてください」
そう祈って眠った翌朝、ポストに入っていたのは介護の資格を取った事業所からの就業相談会の案内ハガキだった。これは神様のお導きと素直に思い、そこからはとんとん拍子にコトが進んで、4月から私はヘルパーとして週2日働き始めた。

短大を卒業してから、両親の介護で離職した時期を経て働いている慣れた職場の桂離宮。通勤は自転車で8分。

真面目に新しい仕事に取組み、しばらくしたら、とても疲れていることに気が付いた。自分の心を見てみたら、たまたまもらった良い評価を手放したくないと思っている私がいた。失敗しないようにと常に緊張しているから疲れるわけだ。私はこれまでもずっとこうだった。真理の教えを学んで頭では分かっていても、長年の自分の心の癖はそう簡単には修正されない。
だけど、これが真理でないことはもう嫌というほど頭では分かっている。心は思ったものになっていくなら、心が分かるまで繰り返し心に言い聞かせるしかない。ちょうど今、良いタイミングで受講している『誰ヨガ』クラスでは、毎回教えを自分に当てはめてできる実践をするようにと宿題が出る。私は今まで学んできた教えを何度も何度も心に言い聞かせ、日常の実践を繰り返した。
成功も失敗も、出来る出来ないも、どちらでも良いのだ。人生で大切なのは真理を悟ることであって、この世で執着すべきものなんて何もない。心が思うことなんて、何の値打ちもない!結果を見るのではなくて、目の前の瞬間瞬間を良くしていくように心を使うだけ!!

昨年ステイホームが始まった時にまとめて玄関に飾った教え(写真左)は、今も毎日読み返している。誰ヨガクラスの後にサーナンダさんが送ってくださるレジュメ(写真右) は、まるで心の処方箋のよう。

ヨーガを学んできたからこそ、新しい仕事をする中で自分の心がなぜ苦しいのかがあぶり出されてきたと思う。まず私は、評価イコール自分の価値だという思いをなかなか手放せないでいた。だから凄く凄くしんどかった。
そして、特に人間関係での良い評価、他人からの好意、良好な人間関係の中に自分の居場所を見つけて、そこに物凄く執着しているなあと気付いた。社会人になった時、特になりたい職業はなかったけれど人の役に立つ仕事がしたいと思っていた。今も、ありがとうと言ってもらえることがうれしくて、私の行為に良い反応を返してくれた人に対してはそれがまたうれしくて「もっともっと行為」して、またそれに対しての良い反応に「もっともっともっと行為」してる。そしてその心地好い関係性を手放したくないといつの間にか思ってしまっている。
最初の私の行為に対して普通の反応を返した人には対しては、私はただ「行為」を繰り返してる。これって、外からの刺激に対して無防備に反応してるということだなあと思った。悪い評価は気にしないようにと心掛けるけれど、良い評価、好意にも反応しないって意外と難しいと思った。相手がどんな反応であろうとそれは見ないで、どの人に対しても同じようにただ誠実に行為すべきなのに。
自分の判断基準の良い悪いを棄てて、好き嫌いに執らわれないこと。
そう思って仕事をしていたある日のこと。訪問先のご夫婦に私は好感情を持っていた。でも、そんな感情は横に置いて、「もっともっと行為」にならないように、ただやるべきことを淡々とやって帰ろうと思っていた。「ここまでやって終わろう」と思った瞬間、「これは神に捧げられる?」と思いが浮かんだ。
全ての行為を神様への捧げものにするなら、中途半端には終われない。思い入れを棄てるというのは自分の好き嫌いを棄てて、いつでもどこでも誰にでも「もっともっともっと行為!」100%の心を込めること、だと思った。
そして、評価イコール自分の価値という思いからなかなか抜けられなかったけれど、高齢になって自分でできないことが増えていく、そんな人は価値がないのかというとそんなことはない。何かが出来るとか出来ないとか、知ってるとか知らないとかは人の価値とは関係ないということが、理屈ではなくて言葉ではなくて、利用者さんといると分かった。だったら私も同じはずだ。みんな同じ尊い存在だということが今はわかる。

利用者さん宅へ向かう道の横には田んぼ。

ある時上司に言われて印象的だったことがある。
「人を相手にする仕事は決まった手順通りにはいかない。その中でいかに工夫して、やらなければいけないことをやるかだ」と。これは私に足りないものだなと思った。
確かに仕事で利用者さんを訪問すると、あるはずの物がなかったり、介護拒否にあったり、時には利用者さんが不在だったり、いろんなことがある。私はこれまで仕事でも何かをする時にはまずイメージして、必要と思われる準備をしていた。そうすることでたいていは上手くいった。でも反面、想定外のことが起こるとどうしたら良いか分からなくなってしまい、間違えるのが怖いから判断を他人に頼ってしまう。でもそもそも人生そのものが想定通りにはいかないし、その時にすぐに心を切り替えて、状況打破に向けて今やるべきことに集中しないといけない。そしてヘルパーの仕事は自分ひとりで何とかしなくてはいけないのだ。これが苦手だった私にとって、新しく与えられた仕事は正に最適の訓練の場だなあと感じた。

命の謳歌真っ最中の家のラズベリー、トマト、むくげ。 町内の親切なおじさんがラズベリーの棚を作って日当たり良くしてくださり、おまけにトマトを植えてくださった(感謝!)

後で分かったことだが、先輩グルバイのゴーパーラさんと私は同じ事業所で介護の資格を取っていた。これは絶対にクリシュナのお導きだ!と私は信じて疑わない。新しい仕事が更なるヨーガ実践の場となるようにと願い、その通りになった。いつも神様は導いてくださっている。だから実践を続けるだけだ。
早く目を覚まして、ヨギさんにもっともっと!!もっともっと!!喜んでいただくために!!!

吉岡恭子


ちょっとしたグル(師)の行為 ⑴

私にとってなすべき義務は何もない
しかし、私は行為する
人が私を見倣うように

ーー『バガヴァッド・ギーター』ーー

この世に何の義務や欲望のないクリシュナ(神の化身)が行為するのは、「人が私を見倣うように」という真理の行為の模範を人々に示し、真理に導くためです。

人は聖典を読むことで、真理を学び、実践することができます。しかし聖典の学びだけでは、真理を正しく実践し、体得することが容易ではないことは、霊的実践をしている人なら誰もが感じることです。

何事も人は、直接的に人から学ぶ方がダイレクトです。なぜなら、そこには生きた熱、息吹があるからです。その道のマスターなら尚更です。覚者・聖者、つまりグル(師)の行為が与える影響力というのは、聖典の何千倍もの威力があると私自身感じています。
それは「ちょっとした行為」でもそうです。

「見て覚える」「見て盗む」という習慣がなくなりつつある昨今、グル(師)に出会うまでの26年間、私自身もそういうことをしないで育ってきました。
ちょっと前ふりが長くなりましたが、そんな私がヨーガを実践していく中で、「ちょっとしたグル(師)の行為」を目の当たりにして驚き、学んだことをシリーズでご紹介したいと思います〜!


11年前の7月、私はニューヨークのケーヴ(NYミッションの拠点)に師と滞在していました。
まず師の行為に驚かされたのは、抹茶塩を天麩羅にかける時でした。師は小さい匙に抹茶塩をのせ、匙の肢をトントントンとして、美しく均等にふりかけておられました。その時、私はとてもエレガントだなぁと思ったのですが、すかさずアーナンダマーリーさん(ケーヴのホスト)が褒めていました。私も真似てみたのですが、無惨にもガサッと散乱。。

11年前のケーヴからの景色。(2010.7)

また師の行為はエレガントさだけでなく、大胆さも持ち合わせていました。
師は普段、料理をされないようですが、料理ができない私にケーヴでは時折、料理を作ってくださいました。素麺、天麩羅、お好み焼き、焼きそばなど、料理をしていない人とは思えないほど師が作る料理は美味しいのですが、ある時チャーハンを作ってくださいました。
私は補助をしながら、そばで見ていました。野菜を切る時は普通のご様子でしたが、いざ中華鍋をセットしてガスのレバーを「カチッ」と回した途端、師のスイッチも点火、烈火の如くチャーハンを炒めていました。。🔥
とても美味しくいただいた後、私は師に「チャーハンを炒めている時、火のように燃えて見えました」と伝えると、師は次のようにおっしゃいました。

「日本では聖者のことを『聖(ひじり)』って言うやろ? その語源は火(ひ)を知(し)っている者。つまり火をコントロール(制御)できるということなんや」

行為に裏打ちされたその教えに、私はただただ感嘆しました。真理を体現されたまさに「聖(ひじり)の行為」を間近で見た瞬間でした。

11年経った今、私はチャーハンを作っている時、「自分は火のように燃えているのかな?」とふと思ったのですが、そんなに燃えている気がしませんでした。。それもそのはず、そう思った時点で「私の思い」があり、「火そのもの」にはなっていないのですから。。

ゴールは遠し、しかし理想のみを見るべし!!!


7月24日の満月の日は「グル・プールニマ」です。
完全円満なグルの存在を讃え、感謝の思いを捧げましょう!!!

グル・プールニマについては、ここをクリックして読んでみてください👈🌝

ゴーパーラ


真っ逆さまの世界

何年ぶりかの長岡京の夜のクラス。最近は朝が多かったため、夜のクラスは新鮮! クラスの場所は、JRの線路の上に位置している。会場には瞑想的なインド音楽が流れ、時折、遠くからはガタンゴトン~と電車の音が聞こえてくる。建物に反響しているのか、まるで宇宙へ駆け抜ける列車の音のようにも…。目を閉じると、どっちが上でどっちが下…?と異空間にいるような心地になる。自動的に、永遠とか無限とか宇宙とか、執らわれのない自由な悟りの境地へといざなわれる。上下左右も限界も無い、価値観や観念も通用しない宇宙に憧れる。真正面の大きな窓からは運が良ければ月が見える。いつもクラスに絶えずある、一定の集中感。この独特の集中感は、初めてクラスに行った時からずーーっと同じだ。

マードゥリーさんが撮影してくださった長岡京クラス会場からの景色。窓から黄昏空が見える。真下はJR長岡京駅だ。

鉄棒、マット運動、遊園地の乗り物など、体を逆さまにするものが苦手だった私が、アーサナを初めて習った時、魚のポーズ(マツヤ・アーサナ)に、おののいた。でも、先生が体を支えてくださり頭頂を床に、逆さまに付けることができ、かろうじて静止した目の前には体の苦痛とは無縁の世界があった。体はきつくて悲鳴を上げているのに、全く別の、芯の部分では、何かがじっと止まっている静けさがあった。わぁ・・・きれい・・・、体も、これまでの価値観も、全部ひっくり返って、逆さまの世界を初めて味わった瞬間だった。不安定で苦手だった逆さまの苦痛感は、静まり返った印象に一変した。

数年後に、仕事で腰を痛めて出来るアーサナが減った時、自分の体に苛立ち、力任せに力んだまま、出来ないアーサナを無理に行なってさらに体を痛めたことが何度かあった。悟りへの乗り物であるこの体を大切に扱えない、また、自己管理ができていない幼稚さでもあった。そして何より、集中感が足りてなくて気が散漫だった。出来ない自分がくやしい!という思い、出来ていたことが出来なくなったという結果、それに執らわれ過ぎていた。今できるベストを尽くす、ということや、アーサナのポーズ一つ一つを丁寧に、呼吸と共につくっていく、その基本からは遠のいていた。
そんな頃、体を真っ逆さまにする極み(?)の逆立ちのポーズ(シールシャ・アーサナ)を避けるようになった。たまに失敗して転げると腰にズシンと衝撃が走るので、それが怖くなっていた。シールシャ・アーサナ自体が嫌いなのではなく、転げて痛くなることが嫌だった。万一失敗した場合に腰が悪化して出来ないアーサナが増えることも懸念していた。ヨーガの中の、アーサナの真の意味は、先日のゴーパーラさんの記事にあったように、心を静めるため、真実へ至るためであり、アーサナはその手段であってヨーガの到達点や目的ではない、と教えられているのに。

昔通っていた頃の長岡京夜クラス(2015年)

毎日のアーサナで、今日は腰が痛いから逆立ちはやめた方がいいなとか、今日は体力がなくて転げそうだからやめておこうとか、逆立ちを組み込まない日が増えていった。鋭い痛みがある時はやめた方がいいと教わっている。でもそれ以前に気持ち的にまず避けようとしていた。逆立ちは毎日していないと余計に安定せず、転げることも増え、さらに避けるという悪循環だった。
ところが、師のアーサナ直伝クラスが始まり、そんなことを言っていられなくなり、必死でシールシャ・アーサナも行なった。すると、師のクラスで一度だけ、シールシャ・アーサナを何回やっても足が空(くう)にピタッと吸着して止まり、絶対に転げない感覚になり、どっちが上でどっちが下かも分からないような、逆立ちという逆さまの感覚自体が消え、師が何かされている!と思ったことがあった。私一人では絶対に知りえないその感覚を、体を通して学ばせていただいたおかげで、立つことはできるんだ、という確証をいただいた。だから立てないというのは、自分の中ではもう通用しなくもなった。

昨年、シールシャ・アーサナを改めて教わる機会に恵まれた。指導者の先輩は私の逆立ちを見て「右が縮んでいて、左の腕が開いている、痛めている右の腰をかばって、そうなっているのかもしれない」と言われた。度々、指摘されるようになり、気になったので歪みを正すために毎日必ずシールシャ・アーサナをした。歪みを意識するものの、自分で自分を見ることはできないので、どうなっているかは全然分からなかった。

そして何カ月後かのクラス。
「やっぱり右が縮んでいて左の腕が開くのは変わってない、けれど安定しているし腰をかばっているのもあるかもしれないし、それでいいでしょう!」
キツネにつままれたような気分になった。歪みが直ってなくても安定することってあるんやな~と、ほっとした。完璧じゃなくても立つことが大事なんだと教わった気がした。気付けば、調子が悪い日は逆立ちをしない、という日々は終わっていた。どういう時でも立つ、どんな状況でも一人で立たないといけない、そんな気持ちが自然に宿っていた。そして真っ逆さまになった時にしか感じられないあの静けさがやっぱり好きだった。失敗して転んで腰が悪化して、もしシールシャ・アーサナや他のアーサナが出来なくなっても、それはそれで仕方ないしその時に考えよう、と考えが勝手に変わっていた。歪んでてもいい、毎日どこでも立つ、と思いがはっきりしていった。それはとても気分のいいことで、迷いがなくなって、集中もしやすくなった。そのうち、それが日常にもリンクするようになった。今日は疲れてるしやめとこう~と思うことがあったとしても、いつでもやる、と決めたことはやるようになった。

自宅でのシールシャ・アーサナの練習。

「まず立つ気があるのかどうか?」この体を通して、内なる神が問いかけてくださる。本気で立つ気があるのなら、立てるように努力するべきだと。立つ努力もしないで、立てるようになる時期をじっと待っていても、いっこうに立てるチャンスは訪れないと教えてくださった。
不思議なことに、毎日立つ、と決めた日から、なぜか転ばなくなった。これに執らわれても良くないけれど、時々は転ぶのが常だっただけに不思議。なんで突然、転げなくなったのか?? 決めたその瞬間から、気が一点に集まったように思う。もう師の恩寵だとしか思えないけれど、それまでは、立とうと決めてなかったから、フラフラゆらゆらしていたのかな。「心が思うものになる」と師から教わっている。思ったところへ気は動くという。気――プラーナは目に見えないし、私ははっきりと知らない。でも知らないなりにも、このささやかな体験は、「思い」が気(プラーナ)を一つにまとめ、それが集中へと繋がる、ということを実感させてくれた。思いは強烈な力を持っていて、本当に思い一つで変わる可能性があるんだと。気(プラーナ)が自分を形づくっていく、これは本当に教わってきた通りだ。

…と、夜のクラスで、そんなことを改めて感じた。そして逆立ちは、まだまだ要改善のアドバイスを受けたので、これからもがんばりたい。久しぶりに会えた指導者の先輩たち、そして参加者の方たちがやけに爽やかで、かっこよかった。数年前の雰囲気とは少し違っていた。ずーっと夜のクラスへ通っているそうだ。クラスに通い続けるのも自分の意志、思い。ヨーガへ、気が一点に集中されているんだなと思った。集中感のある人は、爽やかで気持ちいい! 私も見習いたい!

野口美香


大いなる真理だけを見る

「海だけを見たい」

3月にアップされた『海と波』のブログを読んで、私はそう感じました。

人との関係で、些細な言動に一喜一憂するのは、海(真実在・真理)を見ず、変化する波(現象)を見ているだけです。また波どころか、小さな一滴に翻弄されるということ。波に巻き込まれない対策をしていないと、簡単に心はどうでもいいことに惑わされる。私自身、「真実だけを見たい」「心の思いに翻弄されたくない」と改めて思っていたところ、早速試されるような状況がヘルパーの泊まりの仕事の時に起こりました。

利用者さんは数日間、夜間にひどいかゆみで眠れておらず、疲れている様子でした。横になって1時間ほど経ったとき、「かゆい、かゆい」と訴えられ、私は指示通り、薬を塗りました。利用者さんはかゆみで感情的になっているのと、私の処置の手際が気に入らず、怒りの言葉をわめいていました。「手際が悪くすみません」と言い、できるだけ利用者さんの要求にスムーズに応えるように、わめく言葉に動揺せず行為しようと心がけました。夜通しこのような調子かもしれないと思い、真理にしがみつくように、「どうか、心が動きませんように。私は海を見たいのです」と心の中で願いました。
そしてオームを心の中で繰り返し唱え、利用者さんからの要望に淡々と対応しました。数時間して落ち着き、利用者さんが寝入った様子で少しほっとしましたが、引き続きずっとオームを唱え続けました。私も少しの間眠り、かゆみの対応をしながら朝を迎えました。利用者さんが目を覚ますと穏やかな表情で私に、「昨晩は大変だったね」と優しく言葉をかけてくださいました。

松山市の梅津寺海岸。

必死で真理にしがみつこうとしなければ、利用者さんの一時的な怒りの言葉に、心は翻弄されていたかもしれません。隙なく聖なる思いで心を満たせば、きっと波に翻弄されることはないと感じる出来事でした。

聖なる思いを常に持ち続けるには、どんな状況であっても、誠実に行為をすることが必要だと感じています。
波を見ずに、大いなる真理だけを熱心に求めていきたいです。

りょうこ


みずみずしい真理の教え

私の住む丹波篠山では、田植えもすっかり終わり、より一層緑が美しく、庭の畑では、じゃがいもやきゅうりが収穫の時期を迎え、トマトたちも色づき始めています。

田植えもすっかり終わり、畑は、黒枝豆を植えるためにきれいに畝が作られています。

我が家の庭の小さな畑のお野菜たちもとても元気です。旬のお野菜はめちゃくちゃ美味しいです!!

季節は巡り、歓喜に包まれた春の祝祭は以前のことのように感じますが、師のお姿は歓びと共に目に焼き付いています。
祝祭で祝辞を捧げさせていただいたことを機に、私は初心に立ち返ることになり、全てを師から与えられていたことに気づきました。
悟りへの情熱が足りないのではないか。どうすればその熱を高めることができるのかと悶々としていた思いは一掃され、確固たる決意を胸に、新たな気持ちで歩み始めました。

以前に比べればエゴは少しずつおとなしくなってきてはいたものの、完全になくすことは難しく、それでも何度も何度も師の教えを思い起こし、心に言い聞かせる日々が続いていました。

ある日、ヨーガの福音を手に取り、心について考えていた時でした。

“心を召使いにしておけばいい”

ふいにその教えがやってきて、心が納得したような感覚がありました。
霧が晴れていくようでした。

心を完全に無くすことは難しいけれど、従順な道具にすればいいんだ。
その為には、やはり心の調教がまだまだ必要だと思いました。
アーサナへの向き合い方を改め、真理の教えに触れ、学び、実践することの大切さをより一層感じるようになりました。

穏やかで美しい月明かりが好きです。明日は満月、部屋の明かりがいらないほどです。

真理の教えは、いつもみずみずしく、私の心を潤してくれます。
師は、求めるべきものも、その為にやるべきことも教えてくださっています。そして、常に導き続けてくださっています。
一足飛びにはいきませんが、余計な心の垣根は取っ払って、もっと軽やかに、それだけを求め、これからも実践を続けたいと思います。

藤原里美


ヨーガ・瞑想クラスの再開

緊急事態宣言が解除され、関西のアーサナ・瞑想クラスも先週より再開!
6月26日(土)に行なわれた京都アスニーのクラスは約2カ月ぶりで、中学生を含む6名の方が参加されました。

ヴリクシャ・アーサナ(立ち木のポーズ)からスタート!

まず指導者のヨーガダンダさんが、「師がアーシュラマ(道場)でクラスを始められた時(45年前)、各自が自分のプログラムを黙々と行なっていくクラスを理想とされたそうです」と話をされ、クラスが始まりました。
クラス中は基本的なリードによって進められていきますが、後半は各自が自分のプログラムに沿ってサーダナ(霊的修行)を行なっていきます。

ニワトリ、サソリ、三点倒立!

緊急事態宣言中はオンラインクラスでしたが、受講してみると驚くことに実クラスと同じぐらいの集中感や効果を感じていました。
でも、こうやってクラスに集って顔を合わせ、同じ場所と時間を共有して行なうサーダナはやはり格別!!!
私自身、よりヨーガのプラーナ(気)で満たされる感覚があり、本当に貴重な場であると改めて実感させていただきました。

シッダ・アーサナ、パドマ・アーサナで瞑想。

アーサナは決して柔軟性を競うものではなく、座法と訳され、瞑想の座(シッダ・アーサナ、パドマ・アーサナ)を快適で堅固にするために開発されたものです。
そして師は、アーサナの真の意味を次のように説かれています。

「アーサナの真の意味はブラフマンに留まるということです」

シュリー・マハーヨーギー

私自身、クラス再開を機に今一度この教えを念頭に置き、アーサナ・瞑想によって小宇宙であるこの身体と呼吸、心を静め、そして大宇宙の真実在ブラフマンにしっかりと留まっていきたいと思います!

※初心者の方も大歓迎です!基礎からしっかりと学んでいけるクラスになっています〜! ヨーガ・アーサナクラスのインフォメーションはこちら⬅︎⬅︎

ゴーパーラ