私ヨガ!~私も実践できるヨーガ

今年に入って仕事を探さなければいけなくなった。これまでずっと慣れた仕事に携わってきたけれど、会社の都合で勤務日数が減ったのだ。新しい仕事が私にとって更なるヨーガ実践の場になるようにと願いつつ仕事を探した。この先いつまで働けるかということも含めた自分の年齢や給与、等々を考えると、介護職が好条件の一つとして上がってきた。介護の資格は両親の介護の為に10年ほど前に取得していた。でも実は介護の仕事は避けていた仕事でもあった。
避けていた大きな理由は、両親の世話は自分の親だから、何があっても(例え怪我をさせるようなことがあっても)自分が全責任を持ってすることができるけど、他人様の身体を大袈裟に言えば命を預かってお世話をするのは私には荷が重い、と感じていたことだった。
そう思う反面、会ったことのない先輩グルバイが医療現場で正に献身奉仕に生きておられる姿を過去のブログから知り、そして今もそのように行為し続けておられることをたまたま伝え聞いたりすると、その姿にもの凄く憧れた。そんな中、あるオンラインミーティングで別の先輩グルバイが、自分はヘルパーをしているとおっしゃったのを聞いた瞬間、私の心が「かっこいい!」と叫んだ。仮面ライダーのように(古い?)首にスカーフをなびかせ、バイクにまたがった先輩の姿が目に浮かんだ。そしてかっこいいと叫んだ自分の心に自分で驚いた。

ヨーガでは仕事は何でもよいと教えられる。それなのに今も介護職に尻込みする気持ちはなぜなのか、改めてよくよく考えてみた。そこには評価を恐れている私がいた。失敗することが怖かった。そして、自分の親と他人を同じように大切とは思えていない自分もいた。これは真理の教えに反しているなと気付いた。
気付いたけれども、さて、どうしよう?介護職と言っても働く所は色々あるし、Wワークかフルタイムか、それに別に介護職に拘らなくても、本当に仕事は何でもいいのだ。

「神様、どうか私に相応しい仕事を与えてください」
そう祈って眠った翌朝、ポストに入っていたのは介護の資格を取った事業所からの就業相談会の案内ハガキだった。これは神様のお導きと素直に思い、そこからはとんとん拍子にコトが進んで、4月から私はヘルパーとして週2日働き始めた。

短大を卒業してから、両親の介護で離職した時期を経て働いている慣れた職場の桂離宮。通勤は自転車で8分。

真面目に新しい仕事に取組み、しばらくしたら、とても疲れていることに気が付いた。自分の心を見てみたら、たまたまもらった良い評価を手放したくないと思っている私がいた。失敗しないようにと常に緊張しているから疲れるわけだ。私はこれまでもずっとこうだった。真理の教えを学んで頭では分かっていても、長年の自分の心の癖はそう簡単には修正されない。
だけど、これが真理でないことはもう嫌というほど頭では分かっている。心は思ったものになっていくなら、心が分かるまで繰り返し心に言い聞かせるしかない。ちょうど今、良いタイミングで受講している『誰ヨガ』クラスでは、毎回教えを自分に当てはめてできる実践をするようにと宿題が出る。私は今まで学んできた教えを何度も何度も心に言い聞かせ、日常の実践を繰り返した。
成功も失敗も、出来る出来ないも、どちらでも良いのだ。人生で大切なのは真理を悟ることであって、この世で執着すべきものなんて何もない。心が思うことなんて、何の値打ちもない!結果を見るのではなくて、目の前の瞬間瞬間を良くしていくように心を使うだけ!!

昨年ステイホームが始まった時にまとめて玄関に飾った教え(写真左)は、今も毎日読み返している。誰ヨガクラスの後にサーナンダさんが送ってくださるレジュメ(写真右) は、まるで心の処方箋のよう。

ヨーガを学んできたからこそ、新しい仕事をする中で自分の心がなぜ苦しいのかがあぶり出されてきたと思う。まず私は、評価イコール自分の価値だという思いをなかなか手放せないでいた。だから凄く凄くしんどかった。
そして、特に人間関係での良い評価、他人からの好意、良好な人間関係の中に自分の居場所を見つけて、そこに物凄く執着しているなあと気付いた。社会人になった時、特になりたい職業はなかったけれど人の役に立つ仕事がしたいと思っていた。今も、ありがとうと言ってもらえることがうれしくて、私の行為に良い反応を返してくれた人に対してはそれがまたうれしくて「もっともっと行為」して、またそれに対しての良い反応に「もっともっともっと行為」してる。そしてその心地好い関係性を手放したくないといつの間にか思ってしまっている。
最初の私の行為に対して普通の反応を返した人には対しては、私はただ「行為」を繰り返してる。これって、外からの刺激に対して無防備に反応してるということだなあと思った。悪い評価は気にしないようにと心掛けるけれど、良い評価、好意にも反応しないって意外と難しいと思った。相手がどんな反応であろうとそれは見ないで、どの人に対しても同じようにただ誠実に行為すべきなのに。
自分の判断基準の良い悪いを棄てて、好き嫌いに執らわれないこと。
そう思って仕事をしていたある日のこと。訪問先のご夫婦に私は好感情を持っていた。でも、そんな感情は横に置いて、「もっともっと行為」にならないように、ただやるべきことを淡々とやって帰ろうと思っていた。「ここまでやって終わろう」と思った瞬間、「これは神に捧げられる?」と思いが浮かんだ。
全ての行為を神様への捧げものにするなら、中途半端には終われない。思い入れを棄てるというのは自分の好き嫌いを棄てて、いつでもどこでも誰にでも「もっともっともっと行為!」100%の心を込めること、だと思った。
そして、評価イコール自分の価値という思いからなかなか抜けられなかったけれど、高齢になって自分でできないことが増えていく、そんな人は価値がないのかというとそんなことはない。何かが出来るとか出来ないとか、知ってるとか知らないとかは人の価値とは関係ないということが、理屈ではなくて言葉ではなくて、利用者さんといると分かった。だったら私も同じはずだ。みんな同じ尊い存在だということが今はわかる。

利用者さん宅へ向かう道の横には田んぼ。

ある時上司に言われて印象的だったことがある。
「人を相手にする仕事は決まった手順通りにはいかない。その中でいかに工夫して、やらなければいけないことをやるかだ」と。これは私に足りないものだなと思った。
確かに仕事で利用者さんを訪問すると、あるはずの物がなかったり、介護拒否にあったり、時には利用者さんが不在だったり、いろんなことがある。私はこれまで仕事でも何かをする時にはまずイメージして、必要と思われる準備をしていた。そうすることでたいていは上手くいった。でも反面、想定外のことが起こるとどうしたら良いか分からなくなってしまい、間違えるのが怖いから判断を他人に頼ってしまう。でもそもそも人生そのものが想定通りにはいかないし、その時にすぐに心を切り替えて、状況打破に向けて今やるべきことに集中しないといけない。そしてヘルパーの仕事は自分ひとりで何とかしなくてはいけないのだ。これが苦手だった私にとって、新しく与えられた仕事は正に最適の訓練の場だなあと感じた。

命の謳歌真っ最中の家のラズベリー、トマト、むくげ。 町内の親切なおじさんがラズベリーの棚を作って日当たり良くしてくださり、おまけにトマトを植えてくださった(感謝!)

後で分かったことだが、先輩グルバイのゴーパーラさんと私は同じ事業所で介護の資格を取っていた。これは絶対にクリシュナのお導きだ!と私は信じて疑わない。新しい仕事が更なるヨーガ実践の場となるようにと願い、その通りになった。いつも神様は導いてくださっている。だから実践を続けるだけだ。
早く目を覚まして、ヨギさんにもっともっと!!もっともっと!!喜んでいただくために!!!

吉岡恭子


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