さまらさの台所

今日は毎月一回のさまらさの台所でした!

2月3日の節分にいただく、精進太巻きといなり寿司を作りました。
2月4日は立春です!その前日の節分は今で言う大晦日みたいなものなんですね。

巻き寿司 材料
精進巻きに入れる具材は七福にちなんで七種の具を入れるようです。

巻き寿司1
たくさんの具材をきれいに巻くにはちょっとしたポイントがあります。
みなさん手元を凝視!!真剣そのものです!

いなり寿司
精進巻き寿司もいなり寿司もたくさん出来上がりました。
2月3日には、今年の恵方(方角)の西南西を向いていただいてくださいね〜。

来月からは毎月第2日曜日に開催されます。
2月8日(日)11時〜 ヨーガ・ヴィハーラにて、
豆腐を使った料理いろいろ(ステーキ、スープ、サラダ、白和え)

サティヤー


次の瞬間に死んでもいいという生き方

この間は年末のことについて書きましたが、今日は年始のことについて書きたいと思います。みなさんはお正月、家族や親戚の方たちと賑やかに過ごされたのでしょうか。私は、元旦から仕事でした。正月だからって患者さんはおられるので、休むわけにはいきません。そして、死は正月だからって遅れてきてはくれないんですよね。元旦から急死、急変、看取り、さまざまなことがありました。年末年始に亡くなる人って、結構多いんです。

その日、私はサブリーダーといって、患者さんを担当しているスタッフの補佐をする役割でした。血圧を測ったり、医師の指示を聞いて書類を作成したり(これがまた都会のようにパソコン一つですべて処理できるのと違ってやり方がアナログ!すごい面倒×××)、薬を準備したり、医師の処置の介助をしたり、やることが多くて結構スピードが問われます。

うちの病棟にMさんという高齢の男性患者さんがおられまして、朝9時過ぎに私が血圧を測りに部屋に入ると、「おぉっ!下顎呼吸になっている!」。これは、死が近い兆候です。死の間際に置かれた患者さんは、血圧が低下した後、胸郭を使った呼吸から下顎を使った呼吸に変わり、呼吸回数が極端に減少します。その後、心拍数が低下し始めます。もともとMさんの状態は良くはなかったのですが、これは明らかに家族や主治医を呼ばないといけないレベル。そんな申し送りもなかったので、慌てて大声でスタッフを呼びました。でも…、あれれ?誰も来ない…。ここにはスタッフコールとか、病院なら普通にある気の利いた設備がありません。(注:スタッフコールとは、緊急事態にスタッフが他のスタッフを呼ぶコールで、患者が押すナースコールとは別にある)。仕方なくナースコールを押してみた。うぅっ!誰も出ない…。なんでやねん!(←つっこみではない)。本当はこういう場合、患者から離れてはいけないんですが、仕方なくあたふたと部屋のドアを開けに行って、大声で人を呼びました。それで何とか、その日のMさんの担当看護師と二人で看取る体制を整えたんです。

でも結局、家族が到着する前にMさんの心臓は止まってしまったんですね。亡くなったのは、私が発見してから30分後のことでした。家族はすごく悲しまれていました。毎日病院に来ては食事介助したり優しく話しかけたりされるような熱心な家族でしたから、見ていられないくらい泣いておられました。Mさんにはとてもしっかりしたお孫さんがおられて、その方が詰所に来て言われたんですね。まったく何の準備もできていないので、しばらく置いておいて欲しいと。Mさんが亡くなることを家族は誰も想像してなかったということなんです。師長が15時までならということで許可したのですが、急死ならともかく、Mさんは長い間重症の肺炎を患っていて、ずっと治療してきたし、何度も主治医から覚悟するようにと言われてきたんですよね。なのに死ぬと思っていなかったって…とスタッフはみんな驚いていました。

でも、きっと人間って皆そうなんですね。特にMさんのように何度も肺炎にかかり、何度も死ぬような状況を乗り越えてくると、また今度も大丈夫だろうと思ってしまう。いつか医者のいうこともお決まり文句だくらいに思ってしまって、死が間近に迫っているという実感がわかなくなっていく。

Mさんの家族を見て、あぁ、私もそうなんだなと思いました。私だって明日死ぬなんて思ってもいないけど、そうならないとは限らない。いつか自分が、身近な人が死ぬという実感がない。どれほどたくさんの患者さんを看取ったとしても、その経験によって自分の死を実感することはないんです。

そんなことを感じながら思い出すのは、やはり聖者たちの言葉です。聖者たちの言葉を見ますと、一瞬一瞬を、その時その時を生きなさいというのをよく目にします。聖者たちがそのように生きたということですね。私たちのヨーガの先生も言われます。次の瞬間に死んでもいいという生き方をしなさいと。では、次の瞬間に死を感じれば、そういう生き方ができるかと言えば、そうではないです。次の瞬間に死ぬって感覚、本当に私たちは持つことができるのでしょうか。

私は過去に自分の死を予感したことがあります。私の場合は病気でしたが、症状が日に日に重くなり、死を自ら感じるというより、いくら拒んでもいやおうなく感じさせられるという言い方のほうが的確です。症状による苦痛はひどく、言葉に表せませんが、何と言っても孤独感がひどい。次の日目覚めなかったらどうしようと思って布団に入り、体は重くてくたくたなのに、怖くて眠れないんですね。でも一方で、このままずっとこの苦痛が続くのかと、苦悩し続ける自分もいる。この時、私は生まれて初めて、誰でもない自分がもうすぐ死ぬんだと感じるようになっていたんですね。毎日、恐怖と不安でビクビクしていた。だから、次の瞬間に死ぬかも知れないとは思っているけれど、死んでもいいという生き方をしていたわけではない。

しかし、やがて、ほんの少しずつ死を受け入れ始める日がやってきます。

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

 長くなったので、つづく
ユクティー

 


長岡京 夜クラス♪♪

続きまして、長岡京 夜クラスをご紹介します〜。
JR長岡京駅すぐ隣にある、長岡京市中央生涯学習センターが会場です。
やっぱ駅近はとっても便利〜!!駅から直結です!
クラスは19時スタートなので、お仕事帰りの方がたくさん来られています。
週の半ば、一日の仕事を終えた後にクラスで自分をリセットしましょう!

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クラスには、始めて間もない方から、10年以上(20年近く?)ヨーガを続けている方まで色んな方が参加されています。人数が多いので、男性と女性とに分かれてクラスは進みます。

奥が男性部屋(わかりにくいですけど…)。
男性は先生のサーナンダさんの指導のもと、各自のプログラムでアーサナや浄化法、呼吸法を実践しています。女性はマードゥリーがクラスをリードします。この日はなんと北海道から参加された方も!吹雪で飛行機が欠航になるなどハプニングもありながらも、無事到着。空港から直接長岡京クラスに来られたとのこと。情熱に心打たれます!!

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この日は昨年末のクラスで、一年間行なってきた「瞑想しっかりDay」の最終日でした。アーサナを40分ほど行なってから、全員集合!ヨーガの目的と瞑想の全体像について、サーナンダさんのお話をしっかり聞きました。

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みなさん熱心に聞いてはりますね〜!質問もたくさん上がっていました。
瞑想しっかりDayは終了しましたが、新たな学びのコースが始まるそうですよ〜!
「ラージャ・ヨーガを基礎から学ぶ10回コース」3月からスタートです!!(第3水曜日夜)

nagaoaka2015 ←長岡京クラスの新しいちらし完成!

詳しい内容は長岡京クラスのページをチェックチェック〜!
ヨーガを始めてみたい方もこの機会にぜひぜひお越しくださいね。
ヨガマットのレンタルできます♪

マーダヴィー


長岡京クラス♪

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こんにちは、マーダヴィーです。
今日は長岡京のヨーガ・瞑想クラスをご紹介します!
長岡京では現在、奇数週水曜日の午前10時からと、
毎週水曜日午後7時からの2つのクラスがあります。

まずは、朝クラスから〜♪
会場は、JR長岡京駅から趣のある石畳の道を歩いて、徒歩約10分。
有形文化財にも指定されている町家です!

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中庭もあり、季節のお花たちが朝の日差しを受けて、暖かく迎え入れてくれます。
こういう伝統的な町家にいるだけで、気持ちがほっこり落ち着きます〜。

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平日の午前中だけあって、来られている方は主婦の方が多いです。忙しい朝の一仕事を終えて、日常とは違うゆったりとした時間の流れの中、アーサナに集中!!自分のために過ごせる貴重な時間です。

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アーサナを終えたら、午前の水々しい光を感じながら、瞑想です。
クラスが終わっても、アーサナと瞑想の心地よい余韻を味わいながら、日常のあり方やアーサナのことなど、ヨーガのお話を和気あいあい心ゆくまで楽しまれている方が多いのが印象的です。

この日、大阪から久しぶりにクラスに参加された方は「この日が来るのを指折り数えて待っていました。アーサナをしてとても清々しいです」と仰っていて、私まで嬉しい気持ちになりました。

また、「アーサナをして無心になることができた。毎回クラスに来る度に、何か自分に変化がある」と仰っていた方がおられました。“今の自分がよりよく変わることができる” ということを実感できる、変化への気付きを与えてくれる、それがこのクラスの魅力の一つです!

長岡京 朝クラスは明日ありますよ〜! 夜クラスは、次にご紹介しますね。

マーダヴィー

 


まっすぐなお客さま

新しい年があけましたね。みなさんは、年末年始をどんな風に過ごされましたか?年末、私のところには素敵なお客さまがみえました!とても愉快で安らぐ時間でした。今日は、その時のことについて書いてみたいと思います。

人が来てくれるというのは、とても幸せなことです。なぜなら、ここでは誰かが去るのを見送ることの方が多いからです。私は今年の春からここに来て三年目に入ります。この二年で何人の人が去っていくのを見送ったでしょう。近々また別れがあります。

さて、お客さまは誰かと言えば、パラマハンサの表紙を描いておられる、東京在住のグルバイ内山さんでした。出張でいわきに来たので、寄ってくれたのです。寄ってくれたといっても、バスを乗り換えて約4時間半。しかも年末、帰省客でバスは満員だったそうです。震災前はいわきまで電車が通っていたのですが、原発の関係で途中の区間がまだ開通していないので、遠回りしてもらわないといけないんですよね。

彼女とは京都ではあまりお話したことがなかったのですが、よくぞ来てくれました!地元の知り合いは時々遊びに来てくれるのですが、彼女は私にとって記念すべき初めて家に来てくれたグルバイだったので、とっても興奮しましたよ!

内山さんとは、ヨーガの先生のこと、ミッションのこと、グルバイのこと、自分のこと、いろんな話をしました。話の内容というよりも、話をする彼女から何を感じたかというと、それは神へのまっすぐな思いです。淡々と話す彼女から不安や悩みなどは聞かれませんでしたが、毎日を過ごす中できっと大変なこともあるでしょう。でも、そんなことを越えるまっすぐな思いが彼女の心の中に根付いているのを感じました。自分の意見をしっかりと持ちはっきり言葉に出す、そんな彼女のまっすぐな性格も神への思いに表れているのかもしれません。そんなことを感じながら、私はふと旧約聖書に出てくる預言者イザヤの言葉を思い出しました。旧約聖書はすべて読んだわけではないのですが、この言葉はイエス・キリストと深くかかわった人が発したことで有名なので、私も覚えているんです。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」

道というのは、神に向かう思いです。人間の思いは色々なものが入り混じり、まっすぐではなく凸凹です。虚栄心や妬み、捉われ、打算、コンプレックス…。それを誠実で偽りのないものにしないといけない。それがまっすぐな道であり、最も神に近く最も早く神に辿り着く道だといわれます。彼女のまっすぐな思いは私の思いのゆがみも正してくれたようで、まるで京都に行ってサンガに参加した時のようにすがすがしく、新たに神に向かおうとする力をいただいたように感じました。

彼女の滞在中は家でリラックスしながら話したり、ドライブに行ったり…。初日は震災で何にもなくなってしまった海岸に行きました。

海辺なにもない

ここら辺は民家がありましたが、全部流されてしまいました…

ここら辺は民家がありましたが、全部流されてしまいました…

 翌日は外で昼食を食べた後、私のおススメ、いわき発「木村のむヨーグルト」を買いにスーパーイオンへ。これ、すごく美味しいんですよ~。

ヨーグルト

いよっ!いい飲みっぷり!

いよっ!いい飲みっぷり!

やっぱり、楽しい時間はあっという間に過ぎるんです。二日目の夕方彼女をバス停まで見送りました。また元の生活に戻った私は、残された寂しさよりも、神に見守られている温かさと安心を感じていました。そんな良いものを彼女は残していってくれたんですね。これからますます厳しくなっていくだろう現実にきちんと向かい合っていこうと決意を新たに固めるのでした。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」

内山さんが来てくれた日からずっと、この言葉が私の心に残っています。

 ユクティー


『ラーマーヤナ』御礼

水の上に住む家なく
地の上にも住む家なく
空の中にも住む家なし
霊魂よ けがれなき神の道をすすみ
神の御前に辿りゆけ
永遠の光 神の御前に輝く

(レグルス文庫『ラーマーヤナ』より)

こんにちは。ミラバイです。昨日、大阪での『ラーマーヤナ』の語り芝居&キールタンWSが、おかげさまで無事に終わりました。初めての方やヨーガ・瞑想クラスに来られている方、久しぶりの方なども参加してくださり、年明けにふさわさしく新鮮で楽しい会となりました。

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『ラーマーヤナ』の語り芝居は約3年ぶりです。今回改めて私自身も久しぶりに物語に目を通したのですが、気付くとまた子供のようにわくわくしながら本を読んでしまっていました。初めて物語を読んだ時にいちばん心打たれたのは、ハヌマーンという猿の神様が、主ラーマのために命懸けで海を渡るシーンでした。しかし、聖典は読むたびに違った発見があります。今回ももちろんそのシーンにも引き込まれましたが、実はいちばん印象に残ったのは、敵であった悪魔でさえも、その本性は神なる魂をもっているというくだりでした。

通常の映画や漫画なら、悪魔を倒してそれでハッピーエンドとなるのかもしれません。けれども『ラーマーヤナ』の中では、ラーマたちが敵を倒しても、その死を悼み、葬送を行ないます。そのとき、その魂は悪魔という肉体を捨て去って、この地上の世界から無限なる神の世界へと飛び立っていくのです。その際にどこからともなく聞こえてきたお祈りの歌が、冒頭に紹介した詩でした。

私たちが本当に心の拠り所とすべきは、神の御足下である。
そこにこそ、本当の幸せがある。
そして、その神は私たち誰もの中にあって、誰もが聖なる存在であるーーーいつも師から教わっているヨーガの教えを、また改めて説かれたような気がしました。

 

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さて、その後は、『ラーマーヤナ』の物語を紹介しながら、みんなでキールタンを歌いました。2時間があっという間に終わりました。最後に皆さまからいただいたご感想を紹介します。

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「物語をお話しされている時にすごく思いを込められていて、その姿の後ろに、まさに情景が思い浮かびました。海を渡ったお猿さんや、(シーターを助けるために)一緒に橋を作った動物たちやお月さんのようになれたらと思いました」

「ハヌマーンの心の純粋さに圧倒されました」

「演技力がすばらしく感動した。キールタンは単語が覚えにくかったけれど、繰り返せば慣れるのかなと思いました。仕事終わりに、神話はほっとひと息つけてうれしい。どうしたらあんなにすてきな笑顔で唄えるのだろうか。興味しんしん」

「前回一度見ましたが、今日の語り芝居は全く新鮮でした。変わったりしていませんよね……、私が変わったのかな? 『ラーマーヤナ』を読みたくなってきました。胸がいっぱいです。よい年明けの企画で楽しかったです」

「とてもとてもすばらしかったです。感動しました。いつも最高です」

「ラーマのお話、よかったです。ハヌマーンのラーマを思う気持ちが、人が神を思う気持ちなんですね〜。またよろしくお願いします」

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お越しくださいました皆さま、ありがとうございました! 私たちにもハヌマーンのような純粋な信仰心が芽生えますように〜!

ミラバイ


ヨーガ・瞑想クラス

こんばんは、サティヤーです。今日のクラスのひとこま(ウイングス京都)
このクラスが始まって1年と3ヶ月。始まった初日から続けてクラスに通ってくださっているお二人です。とても静かに瞑想されています。最近では瞑想をする時間も少しずつ増えてきています!
「継続は力なり〜!」

クラス瞑想

 

 


破れた布団とミシンと私

2000年問題から早15年。
こんにちは、マーダヴィーです。

突然の告白ですが、私はお裁縫がとっても苦手。
女子であるにも関わらず、出来れば避けて通りたい分野です。

ですが、年始早々、とうとうそれに立ち向かわないといけない時がやってきました。

同じお布団を何年も使っているうちに生地が弱くなり、ふちがビリビリに裂けてしまいました。お気に入りのお布団なので、これまでは破れた部分を手で繕ってきましたが、それも手間と時間がかかる。しかも仕上がりははっきり言って、、、、、、上手くない。

私の祖母はお裁縫が大好きで、ミシンもよく使っていました。祖母が選んで買ったミシンなので大切にしなくちゃと思い、今の家にも持ってきました。案の定、ミシンは置きっぱなし状態へ突入。いい道具も使い手がいないとその本領は発揮されず、まさにこれぞ宝の持ち腐れ。

この破れたお布団をミシンで縫えば早く出来るし、私のお裁縫能力よりもはるかに綺麗に、しかも丈夫に仕上がるだろうということはよくよく分かっているのです、はい。

ミシンを出すのが面倒だ、使うのが大変だ、そんなことしてる時間がない、そもそも一人でミシンを使うことなんてできるのだろうか?中学高校の頃以来か?上手く使えないんじゃないか・・・

結局実際にミシンを出すことをしないで、色々言い訳や理由を並べ立てて、“やっぱやめとこ〜” という結果になるのです。

大変だ、きっと難しいし自分にはできないという結果(自分の未来)を、やってみることなく、事前に作り上げているワケですね。そしてそれを苦手なものとして位置づけて、避けて通ることを繰り返し、これは苦手という傾向をさらに強めていくことになり、ますます苦手という枠から脱出することができなくなる。。。

よし!お正月休みで今はちょっと時間があるし、心を空っぽにして何も思わないでとにかくやってみよう!!とミシン掛けにチャレンジしてみたのです!

そうすると、、、

あれ?意外と簡単やん!(基本的にまっすぐ縫うだけだし、ミシンはほぼほぼ全自動)
こうやって黙々と一つのことをすることは全然苦じゃないし、実は好きやったんや、自分って。
しかも、無心で何かに集中してるって楽しいやーん!
予想外に短時間で出来上がった〜!やった〜!

と、とても気持ちのよい結果に!

それにしても実際に行動に移すところまでには長い時間かかった〜〜のですが、やってみると
苦手の克服あっという間に終了!心も軽い!

そこで気がついたのが、これってアーサナと全く同じ!ということ。

アーサナの中でも、このアーサナはキツイとか苦手なものってありません?
次はあのアーサナか〜とか、キツイなぁ、今日はスキップしちゃおうかとか・・・

結局、それも、それまでの経験でキツイとか苦しいと感じたことが積み重なって、この形はキツイ苦しいもんだという観念や結果を、そのアーサナをする前に自分で勝手に作ってしまっているんですよね。

そんな思いがアーサナの前に出てきたら、まずは心を空っぽにして、何も思わずにとにかくやってみる。そうすると、意外とそのアーサナに自然と向き合えたり、苦手だと決めつけていたのは自分だったと気がつくことがあります。

もし、アーサナの最中に心が動いたら、もう一度吐く息にフォーカスし直して、心に動く隙を与えないくらいに形を作ってみる。(自分の限界を毎回超える努力をする)

アーサナの中でそのように訓練をしていくと、それまでの自分の感じ方や考えや行動の傾向を保持していた力が弱まり、心が空っぽな状態が作り出されていきます。自分を縛り付けていた束縛がなくなり、苦手もなくなり、アーサナを行なっているその最中でさえも(外見はある形としての束縛の中にあるようにも見えるのですが)、その内面においては、身体も心も消え去って宇宙空間だけが広がっているかのような自由な状態がやってきます。

アーサナには自分の心をすっかりと変えてしまう絶大な力があります。(もちろんそれには、正しい先生の導きの元、真実を学びながら実践することが必須ですけどね!)

そして、それがそのまま日常に出てきます。

心を空っぽにして行為する、やっぱこれが秘訣ですね!
アーサナにおいても、日常においても!!

お年始早々、色々な気付きのきっかけを与えてくれたミシンさん、ありがとう〜!

私たちも自分自身が宝の持ち腐れにならないよう、自分たちの中にある宝の原石磨いて、今年は開花させていきましょう〜!!

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マーダヴィー


聖典

サティヤーです。

あけましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、突然ですが「聖典」読んでます?

聖典の学習というのはヨーガの実践の中でとても大切だと言われます。ニヤマ(勧戒)の中にあり、毎日実践するクリヤー・ヨーガの中にも数えられます。2012年の夏、ヤマ・ニヤマの項目を一つずつとりあげ、ヨーガの仲間と学びました。そのとき、私はニヤマの「聖典の学習」を担当しました。(参加者は、どれか自分が気になるものを担当し、学びを深めました。)その時に書き留めたメモが年末のお掃除をしていたら出てきました。

そこには、まず聖典とは読書とは違うとあります。

心を動かすための本=読書

心を止滅させるための本=聖典

自分勝手に理解しない→聞く耳を養う。素直さ謙虚さが大切。

久しぶりに自分の書いたメモを見て、なるほど〜と感心していました。私はもともと読書が好きだったので、ヨーガを始めた頃は聖典を片っ端から読みまくりました。どれも面白かったのですが、何となく「聖典ってこういう風に読んでていいのかな?」という疑問がありました。読み終えたら終わり。それで終わりでいいのかな?どこか私の知らない世界のお話を読んでいるような、どこか他人事のような……。そんな思いが募っていた時の学びの会だったことを思い出しました。

メモは続きます。どのように読めばいいのか、

「どれだけ自分に関連付けているか」

「感じ取ることが大切」

そして最後のラインには大きな字でこのように書かれていました。
(だいぶ興奮しているような大きな字でした!)

「イシュタ(理想とする聖者)に会える!!」
これは聖典の学習の結果として起こるようです。

さて、先日不思議なことがありました。お昼にこたつの中でぼんやりしていたのですが、突然あるヴィジョンが表れました。気がつけば私の心には、ある聖者との交流が残っていたのです、確実なものとして、夢でも想像でもなく、それは事実として心に残っていたのでした。不思議な経験でしたが、その聖者は私が今読んでいる聖典に出てくる聖者だったとはっきりと分かりました。

メモにあった「イシュタ(理想とする聖者)に会える」というのは、夢で会えるのでも、本の中で出会えるのでもなく、実際に会えるのだということ、彼の身体を見て、彼と会話する、それはそれはとても不思議なことですが、聖典にはそういう力があるのです。3年越しに自分の書いたメモを理解したな〜と思いました。少しぐらいは進歩してて良かった〜。

サティヤー


礼拝

2015-01-03 15.15.20

明けましておめでとうございます。今年のお正月は本当に寒いですね! 各地では元旦から雪が降り積もっていたようでしたが、皆さまはいかがお過ごしですか?

あ、ご挨拶が遅れました。年末に引き続き、またまたミラバイです。私は今日、アーシュラマ(ヨーガの道場)のすぐ近くにある、北野天満宮に初詣に行ってきました。天神さん(北野天満宮のことを、こういうふうに呼ぶんです)はとても近くのため、実はこの三が日にお参りに行ったことはこれまでなかったのですが、今日初めて行って、あまりにもの人の多さに本当にびっくりしました! 本殿から神社の入り口のある今出川通りまでずら〜っと人が並んでて、なかなか前に進めない! ゆっくりゆっくり歩いて、何十分もかかって、ようやく本殿に辿り着きました。お賽銭箱の前に来て、えいっとお賽銭を投げて、パンパンと手を叩いた次の瞬間、いったい何をお願いしたらいいのだろう……と、はたと困ってしまいました。特に、何もお願いすることがなかったからです。そして、ふと昔のことを思い出しました。

ヨーガを始める前は、年末年始の時だけお寺や神社に行ってはお参りをし、一年間の感謝をしたり、またこれから先のことを祈ったりということを普通にしていました。信仰心なんてなかったけれども、お参りは普通のことだと思っていました。でも、ヨーガを始めて数年間、実はお参りに行っても手を合わせることができなくなった時期がありました。神様は本当にここにいるのか、自分は誰に祈りを捧げようとしているのか、私が本当に信じるべきものは何なのか、祈るということはどういうことなのか、そういったことをずっと考えていたのだと思います。
そうしてそれから、はや数年……。今ではそれらの疑問も解消し、以前に抱いていた抵抗感も、もうすっかりなくなってしまいました。神は自らの中にあって、また誰もの中にもある、そして本当に祈るということは、あれが欲しい、これが欲しいと願うということではなく、心をしっかりと神に結び付けて口を閉ざし、黙って行為すること。……なのかな。今はそのように理解しています。皆さまはどうですか〜? きっといろいろ考えておられることと思います。

ともあれ、おかげさまで無事にお参りは済みました!
皆さまにとって、幸多き年になりますように。どうぞ今年もよろしくお願い致します〜。

ミラバイ