投稿者「ダルミニー」のアーカイブ

ヨーガの道

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

先日行なわれたサットサンガの内容をお伝えしています。

質問者「ヨーガは、瞑想に坐ることができる身体をつくるために行なうと伺ったのですが、何のために瞑想をして、何を目指しているのかということを教えてください」

師「全く今のご質問が、それこそ何千年も昔から国とか民族に関わらず沸き起こる大きな問題なんですね。その答えを探求していった歴史の中で、やはりインドにおいてその探求が非常に深く大きくなされていきました。誰もが生まれ落ちて人生というものを過していく、しかしやがて死んでいくわけですよね。いったいその中で本当の幸せというのは何なんだろう。快適に裕福に暮らせることが幸せなのだろうか、例えそういう境遇に恵まれたとしても、いつ死んでしまうか分からないし、それだったら幸福だと思っていたのも一瞬にして不幸になるわけでしょう。いったい幸せというのは何なのだろう。ましてやそれの経験者たる主人公、自分ね、自分というのはいったい何なのだろう。神というのはあるのだろうか、ないのだろうか。この宇宙の秘密は何なのだろう。
そういう謎というか問題を掘り下げて答えを出していった結果、本当の自分というものは苦楽を味わうものではなくて不滅の存在である。そして自分だけではなく万物、宇宙すべての本質はそれ、同じであるということが発見されました。その境地、その悟りといってもいいけれども、その真実の境地のことをヨーガといったんです」

本当の幸せとは何なのだろう。自分はいったい何のために生まれてきたのだろう。自分はこの世界で何をするべきなのか。自分はなぜここにいるのか。人は誰しも一度は必ずこういう疑問に悩まされることがあるだろうと思います。やがて大人になり、世の中は浮き沈みがあって当たり前、喜怒哀楽もあって人生のうちと、次第にこの疑問が薄れていったり、諦めに代わったり、また忙しさに紛れて忘れてしまったりしてしまうのだと思います。でも、どうしても自分の生きていること、していること、それが不思議でたまらない、なにかがおかしい、それがなぜなのか知りたくてたまらない、本当のことが知りたい、そういう人たちがヨーガに辿りつくのだと思いました。

師「そしてそれを実現するための教えとか方法、そういうものもヨーガというふうに称されるようになって、身体が弱ければその探求も続かないから、身体も健康で強くしなけりゃいけない。そのためにはアーサナによって肉体を調えて、そして心というのは常に動揺するから心も調えなければならない。そのときには呼吸というものも同時に乱れるから呼吸を調えて、そして心を制御していく。つまり心というのは欲望とか煩悩とかいうものによって振り回されることになる。いい経験もするかもしれないけれども苦しい経験もいっぱいある。そういう心の浮き沈みというものに動じないように心も制御していかなければならない。そういう一連の修行というか勉強というものもヨーガというふうに称されるようになりました。だからその真実の実現という目的をヨーガという名称で表し、また同時にそこに至る道もヨーガというふうに称されることになりました。これが何千年、何千年というのは四、五千年ということですけれども、にも渡るヨーガの歴史なのです。
このヨーガがインド以外の国に知られるようになってまだ百年たっていないんです。特にこの数十年の間に欧米とか日本、世界中に広まって、ヨーガのほんの一部分である健康だけを目的としたアーサナというものが流行しているので、それをヨーガだと思っている人がいるかもしれないんですけれども、それは誤解なんですね。それはほんの一部分のことに過ぎない。だから瞑想というのは、ヨーガの全体の体系の中にアーサナと同じように位置付けられている大事な部分なんです。特に心を制御していくというところにおいてね。これがヨーガの全体像です」

世の中で少々の自由や幸福を得たとしても、それらは刻々と変化して一瞬のうちに不自由になり、不幸になってしまう、そうではない相対的な状況を離れたところにあるものが、本当の自由、本当の幸せ、本当の真実であると師は教えてくださっています。そのためにも心のことや、真実、真理というものを学んでいくようにと教えてくださいました。

学校では教えてくれない真実、サットサンガで繰り返し師から真実の教えを聞き、そして真実のみを行為される師の日常から真実を学ぶことによって、私たちはヨーガの道を迷わず歩み続けることができるのだと思いました。

ダルミニー


ヨーガの福音 〜カルマ〜

皆さん、こんにちは

皆さんが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、あなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

今日、ご紹介する「ヨーガの福音」はカルマです。

カルマとは作用と反作用、原因と結果のことです。
「蒔いた種は刈り取らなければならない」ということです。
今日は昨日までの結果です。
今日の原因が明日の結果となるのです。
だから「今」を生きなさい

          サットグル・シュリー・マーハーヨーギー・パラマハンサ

 「自業自得」、「因果応報」、この言葉と法則は、誰もがもうすでに知っていることだと思います。私は昔、「因果応報」という言葉を初めて知った時、それを試してみました。人に優しくするとどうなるか試してみたのです。それは単純なことでしたけれど、確実に自分に返ってきました。そして、それはおもしろいほど本当の事でした。そしてそれは、自分のことしか考えていない人、人を押しのけてまで自分が得をしようとする人には、その人が困った時に助けを求めても、誰も手を差し伸べてくれないということも教えてくれました。「因果応報」、「自業自得」の理は、この世界で山ほどありますよね。師は、この単純な因果の法則のもと、悪い結果を招きたくなければ善くしていくことであるし、そして人がその努力をしているのか、していないのかだけの問題なのだと教えてくださっています。

師は説かれます。
昨今、騒がれている環境問題というのは、人類の歴史そのもののカルマの蓄積が結果を迎えているというふうに見なすことができます。それは快適さという幸福を求めた結果の自然破壊であったり、社会の混乱であったり、あるいは犯罪もまたそうです。犯罪にはもちろん、個人的なものもあれば戦争という巨大な犯罪もあります。すべては悪徳を原因として生じたものだと思います。人類と一口に言っても、それは一人ずつの人間の集まりですから、一人ずつのカルマを無くしていく他ありません。まさにそのカルマを無くす作業こそがヨーガでもあります。無益な欲望を無くしていくこと、知足という足りたるを知ること、さらには献身奉仕という有徳の行為を積むこと、これらはすべてヨーガの主要な柱であり、それがカルマを無くしていくことになるのです。

宇宙の理を知り、ヨーガを学び深めていくことがカルマを超越する道であり、そしてそこに自らの真実が存在していると師は教えてくださっています。その教えを深く信じ、生きる支えとして、私は今日もヨーガを実践しているのです。

ダルミニー


ヨーガの福音 〜あなたは真剣か〜

皆さん、こんにちは
春ですね。この時期、桜が本当に美しいですね。古来、桜の木は花王と称せられ、国花とされて守られていたようです。桜にはいろいろな種類があり、次々と咲き乱れては、私たちの目を楽しませてくれます。そうした後に、儚げに散りゆく桜もまた美しいものですよね。

さて、お知らせです。長らく絶版になっていた「ヨーガの福音」、みんなが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この書は私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの珠玉の教えが、シュリー・マハーヨーギー自らの手によって抜粋、編集、製作されたものです。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、今のあなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

ヨーガを学び始めた頃、手にした「ヨーガの福音」、そして最初に開いたページ、そこにはこうありました。

あなたは真剣か 

まだ悟りへの情熱が不十分です。三日でもいい、寝ないで「自分は本当にこの人生で何を望んでいるのか」、「自分自身は一体何なのか」を問いかけてみなさい。生きているということは何なのか、ただ食べて寝て、そして死ぬだけなのか……これこそ恐ろしい話です。私たちは永遠の命なのです。そんな限定された命に満足するはずがありません。そんなちっぽけな人生の成功や失敗を恐れる必要はありません。幸福も不幸も塵ほどにもならない。皆さんは悟りに関して、あるいはヨーガに関しての知識は随分お持ちだと思います。でもまだ実体験は赤子のようです。頭だけでやっているからです。そうではない、悟りは「体得」と言われます。体全体で実現するものです。そう、体がなければ実現できないのです。それが人生の、生まれてきた大きな目的です。悟りにあっては体も心も消えていきます。でもそこまでは役割があるのです。生きざまそのものを、一日一日、一瞬一瞬の生き方を真剣になさい。

              サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

「あなたは真剣か」最初に目に飛び込んできたこの教えにどきっとしました。そしてこれは「真剣にヨーガを学びなさい」というメッセージなのだと思いました。私はそれまで、正にここに書かれてあるように、食べて寝て、遊んで仕事して、それだけでいいのかな?他にすることがあるんじゃないのかなと思っていたのでした。そして師と出会い、私たちは永遠の命なんだよ、それを体得することが生まれてきた目的なんだよと教えていただいて、俄然生きていることが嬉しくなりました。他にすることってヨーガだったのね、そっちの方が大事だったのねと思ったのです。「真剣」とは、自分が取り組んでいること、自分の生き方に対して、手を抜かず夢中になること、ひたむきに、真摯に向き合うこととありました。

「あなたは真剣か」この言葉に再び励まされ、私は初心を思い出し、前だけを向いて、ただひたすらヨーガの道を歩んで行こう、そう思うのでした。

ダルミニー


一切は神

今回は、ラマナ・マハリシの「沈黙の聖者」をご紹介いたします。

インドの聖者であるラマナ・マハリシはその生涯をアルナーチャラという聖なる丘で過ごされました。インドの聖地の中でもアルナーチャラは最も聖なる場所、シヴァ神の秘められた聖なるハートの中心であるとも表現されています。そしてアルナーチャラにはさまざまな動物が住んでいて、この本の中でもたくさん紹介されています。

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いちばん有名なのは雌牛ラクシュミーの逸話です。子牛のラクシュミーは、毎日シュリ・バガヴァン(ラマナ・マハリシ)のところへやってきては足元に頭を垂れていくのでした。また牛小屋の定礎式のときにはたいそう喜んで、シュリ・バガヴァンを迎えに来たりしました。たいへん利口で気の利いたラクシュミーが亡くなった後の墓碑銘には、タミル語で「雌牛ラクシュミー、ヴィシャーカ星座の下で解脱したことをここに記す」とあります。そしてたくさんのお猿さんたちもアルナーチャラには住んでいました。猿たちがシュリ・バガヴァンの前にサマーディの状態で坐り、瞑想の手ほどきを受けている様子も書かれています。また白い孔雀も登場します。このときシュリ・バガヴァンは、これは混じりっけのない純白、グナの混合をもたないスッダ・サットヴァ(純粋の自己)を意味すると言っておられますが、その前を得意そうに通り過ぎる孔雀の写真が載っています。また三日間、同じ枝に止まり続けたカラスの話も出てきます。シュリ・バガヴァンに会いにきたこのカラスは、待ち望んでいたかのように主の手のひらの上で死んでいくのでした。他にも虫や、犬や蛇などたくさんの動物たちがラマナ・マハリシと一緒にアルナーチャラで暮らしていたのでした。その中には高貴な魂の動物たちもたくさんいたのでしょうか。ラマナ・マハリシはすべての動物たちに対して、本当に分け隔てなく接し、共に暮らしておられたのだなと思いました。

師は説かれます。

「ヨーガ行者たちがどのように社会と対処していけばいいのかといえば、すべて平等に接していくのがいい。すべては尊いアートマンなる存在、神なる存在なんだから、その真理を心得た上で丁重に接する、優しく接するということが基本になります」

「結局のところ、実存という、真実在として在るのは真理であるアートマン、あるいは神という存在だけです。形が千差万別あったとしても、そこにあるのは一つの真実だけです」

「ヨーガやあるいは神について学んでいけばいく程に、神は打算がない、そして駆け引きもない、そしてヨーガが教えるところはすべてが神でありアートマンである。単純にその思いだけが心を占めれば、さまざまな出来事の中に自ずと謙虚と感謝が生まれると思います」

 日本にも山を、神がいる場所、神が降臨する場所とみなすような山岳信仰がありますよね。それを思うとラマナ・マハリシがアルナーチャラという丘に住み続けておられたことも、私たち日本人にとっては、なんら驚くべきことではない、素直に受け入れられる出来事なのではないでしょうか。そして京都の町中の至るところにたくさんのお地蔵さんがおられます。日本古来の宗教である神道は「一切は神である」という考えを持っていますが、神々が住むこの日本に、そしてここ京都に、真実を説かれる私たちの師がお生まれになったことも、なんら不思議なことではないのかもしれないと思うのでした。

ダルミニー


平和にあるということ

在るのは平和である。
私たちに必要なのはただ静謐(せいひつ)だけだ。
平和が私たちの真の性質なのだ。
                       ラマナ・マハリシ

ヨーガを学び始めた頃、心は、身体のように目に見える物質ではないけれど、微妙な物質であると聞いてびっくりした覚えがあります。物質なのだと思ったとたん、心が自分から少し離れていったように感じました。心はいつも何かを考え、片時も静かにしていません。そのように客観的に「心」を眺めたことは今までにはなかったことでした。

師は心についてこう説かれています。

「心は自立できません。そのために常に何かを所有したがっている。『私は何々である、誰々である』『これを持っている、あれを持っている』『これができる、あれができる』『知恵がある、力がある』。何であれ心はそういうものであってしか成立しないのです」

師は、心は常に何かに依存しているものであると教えてくださいました。そしてそういう一切の依存関係、執着関係を離れた状態に心があるとき、それが静謐というものであり、その静謐を得る方法がヨーガにあると教えてくださっています。

ある時の問答で、この地球上での戦争や環境破壊、さまざまな理不尽なこととどう向き合っていけばいいのかという質問に、師は、人として苦しんでいる人たちにできることをしていくべきだとも教えてくださいましたが、それよりも自分自身をより良くしてくことが先決だと教えてくださいました。

「第一には自分自身の器、心とか身体とか状況とか、そういうものをより良くしていく。これは心が作り出す間違った欲望とか執着をなくしていくということに他ならないと思いますし、そうして普遍的な愛や慈悲あるいは平和を望む心、そういうものを培って、それを具体的な行為に移していくことができればいいと思います。ともあれ、まずすべきは自分自身の中の平和を確立すること、真実を確立すること、それによって外への働きは有意義に行なわれると思います」

自分自身をまずより良くしていくこと、それがこの世界をより良くしていく第一歩となる、この意味はヨーガの教えを学び、実践していくと実に良く分かります。なぜならヨーガを実践していくと家庭や職場の中で、次第に自分と人と人との間に調和というものが生まれてくるのを感じることができるからです。平和が私たちの真の性質であるからこそ、私たちは平和を強く望んでいるのだと思います。
ヨーガを実践し、もともとの性質である平和な自分自身に戻ろうではありませんか。
それが、世界の平和に貢献することになるのですから。

ダルミニー

シュリー ラナマ マハリシ

シュリー ラマナ マハリシ

 


シュリーマッド・バーガヴァタム アンバリーシャ王の物語

かのスータ(神話を朗唱したり解説する高徳な吟遊詩人)が、「バーガヴァタム」を語り続けている。

アンバリーシャは全地の王となり、すべての富と快楽を思いのままにしました。しかしそれらは王にとって何の意味もありませんでした。なぜなら彼は主クリシュナを愛していたからです。永遠で至福に満ちた存在であられる神、主クリシュナを愛するようになった者は、この世の空しい欲望に魅了されることはないのです。

アンバリーシャの心は、いつもシュリー・クリシュナに集中していました。
彼の唇は主クリシュナの栄光のみを語り、手はクリシュナへの奉仕のみを行ない、耳は主の御言葉のみを聴いていました。眼は主の神聖な現れを観、触感は主の現存を感じ、臭覚は主の神聖な香りのみを嗅いでいました。味覚は主の取られた食べ物のみを味わい、足は主のおられる場所のみ赴き、頭は主クリシュナの蓮華の御足に触れていました。

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シュリー クリシュナ

ある時彼は、全宇宙の主に、ある誓いを立て、一年間の特別な修行を行なっていました。その最後の断食を解こうとしていた時、聖者ドゥルヴァーシャがやってきました。王はうやうやしく挨拶をし、祝宴の席にその聖者を招いたのでした。その後、ドゥルヴァーシャは沐浴に行ってしまい、断食を解く吉祥な時間になっても帰ってきませんでした。そこでアンバリーシャは誓いを無効にしないために、水だけを飲むことにしました。これは招き客に対しても無礼にはならないことだったのです。

しかしドゥルヴァーシャは戻るなり、王が水を飲んだことに対してひどく立腹しました。自分が軽んじられたと思い、瞬間的な怒りの熱で王に呪いをかけたのです。呪いはデーモンの姿を取って、アンバリーシャに襲いかかろうとしました。しかし、悪魔は王の平静で恐れのない態度に敵意を挫かれ、反対にドゥルヴァーシャの方に向き直り、彼を食い殺そうと襲いかかってきたのでした。自己の呪いから必死に逃げようとするドゥルヴァーシャは、ブラフマーやシヴァのもとへと赴きましたが、誰も彼を助けることができませんでした。最後の手段としてドゥルヴァーシャは主ヴィシュヌのもとへ行きました。主ヴィシュヌはこう告げます。

「私もまたどうすることもできないのだ。なぜならお前は私の帰依者を侮辱したからだ。私は自分の帰依者を愛し、喜んで愛する者たちの奴隷となっている。また彼らは私のためにすべてを喜んで犠牲にし、自らを全く私に捧げきっているのだ。もし誰かがそのような帰依者を呪うなら、その呪いは力を増して、その者自身へと戻ってくる。唯一人だけお前を救える者がいる。呪いによって侮辱した者のところへ行って、彼の許しを請え。それだけがお前を救い得るだろう。さぁ、すぐに行け。成功を祈ろう」

ドゥルヴァーシャは自己の呪いから逃れる術がないことを知り、王のもとへ行き、謙虚に許しを請いました。王は十分な敬意を示して、聖者を快く許し、その魔力からドゥルヴァーシャを救うために、主に祈りを捧げました。

「おお主よ、あなたの無限の御力は、すべてのものの内に存在しております。
日の中にも、太陽の中にも、月や星々の中にも、あなたはおられます。
また水や地の中にも、空や風の中にも、そして、全宇宙の微細なエレメントの中にもおられます。
あなたは全てのものの内の全てです。
どうか、まったき愛の御力によって、ドゥルヴァーシャを守護してくださいませ。
そして、私たちすべてが、あなたの平安を知ることができますように」

ドゥルヴァーシャはハートのうちに平安を見出し、すべての悪から清められたのでした。

この美しい、愛あふれる物語を読んでいるだけで、私の心は深い充足と安心に満たされます。
主ヴィシュヌの愛、そして、その帰依者であるアンバリーシャの愛によって、ドゥルヴァーシャは清められ平安へと導かれていったのでした。

バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)の中で、愛はこう定義されています。

バクティ・ヨーガは、真の、純粋な主の探求です。愛に始まり、愛でつづき、愛に終わる探求です。たった一瞬の神への愛の狂気は、我々に永遠の自由をもたらします。
「バクティは、神への強烈な愛である」「人がそれを得ると、彼はすべてを愛し、何者をも憎まない。彼は永久に満足してしまう」「この愛は、いかなるこの世の利益の期待にも、格下げされるものではない」

まさにアンバリーシャ王は、この愛の中に生きた人であったのだと思いました。
師はヨーガによって、本当の愛に目覚めることができると教えてくださっています。
私たちすべてが、本当の愛に目覚めることができますように。

ハレ クリシュナ ハレ クリシュナ  クリシュナ クリシュナ ハレ ハレ
ハレ ラーマ ハレ ラーマ      ラーマ ラーマ ハレ ハレ

ダルミニー


サットヴァ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

サット11

先日行なわれたサットサンガの内容をお伝えしています。
質問者「アーサナが一通り終わったらボーッとなるのですが、それはどうしてですか」
ヨギ「心は常に雑念とか、なんらかの想念を抱えて活動しまくっていてね。本当に一瞬たりとも空白の状態というのは与えてくれないものです。しかしアーサナによってアーサナの一時間半前後の中でそういう心の習慣性というものが破壊されるというか、心が常に想念、なんらかの雑念的想念を伴っているその関係を壊してしまうという、その結果、空白のようなボーッとした状態が生まれるということです」

 質問者「ボーッとした空白のときに、平安な感じとか喜びみたいなものを感じることがあります」
ヨギ「グナでいうならば、いつもはラジャスというね、動き回る性質の状態、それにちょっと習慣性というタマス性の要素が加わっているんだけれど、アーサナによってそれらが打破されてサットヴァ性になるということ、サットヴァというのは透明性のある快活な状態のことですから、本質としてある喜びの要素のみたいなものを醸し出すようになるということです。無条件に中からそれが出てくるという、条件なく泉のようにそれが沸いてくるという感じがすると思います」

そして師はサットヴァについて、こう説かれています。

体が健康な時には、体は無いかのように思うままに体を行為させることができる、それでいて体に執らわれていない。心もサットヴァな時は思うままに、はつらつと心の思い、行為ができて何にも執らわれていない、心のことにも悩まされない。サットヴァ性というのはそんな感じです。

例えばお腹がすいていて、何か食事をとって満腹になって至福感があるとか、欲しいものがあってそれを手に入れた時に喜びがあるとか、あるいは恋人同士の関係の中でそういう愛が結ばれる時とか、それぞれ幸福感とか至福感というのはあるかもしれません。でもそれらは全て何かに依存をしているという関係になって、その対象が無くなればあるいは変化すれば、その至福感は同時に消えていきます。反対に苦しみが残る。だから依存関係にあるかないか、そのサットヴァ性のそれが自立しているかどうかというところで見極めることができます。

質問者「常にサットヴァ性の泉が湧き出るような思いでいるには、普段からどういうふうに過したらいいですか」
ヨギ「喜びの源というのは真実というものからやってくる、真実そのものが喜びの原点なんですよね。それは誰もの中に、もうすでにあるものです。しかしその周りを心がこの世界の中で外向きに働いて、あれやこれやと喜びを見つけようとしているんですけれど、それらには限界もあるし、条件が必ずありますよね。だからやるべきことは真実というものに親しむこと、それにはもちろんアーサナとか瞑想とか、そういう身体を使った具体的な修練というか、それを行なう、そして真理の教えというものを心に充分教育することね。それは本を読んだり、またこういう場やグルバイたちと話し合ったり、語り合ったり、そういうことで真実をできるだけ身につけるというか、体得、体感していくようにするのがいいですね。だから特にクリヤー・ヨーガといってね、クリヤーというのは実行するという意味ですけれども、毎日行なうべきこととして、真理を学ぶこと、これは聖典の学習とかね、それから今言ったなんらかの修練をすること、そして神や真理に対して瞑想をすること、これを毎日やればいい」

師は、まずサットヴァ性というものを身につけていくようにといつも教えてくださっています。
常にはつらつと軽快で、なんの執われものない状態でいること、なんと私たちはこんな当たり前のことができていないのだろうと改めて考えさせられました。
「あぁ、早く本当の人間としてのあるがままの姿に戻りたい」と普通に思うのでした。

ダルミニー


心と呼吸を変えるヨーガ

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

サンガ20170114

前回行なわれたサットサンガの内容をお伝えします。
質問者「仕事をするときに緊張してしまうのです。ちゃんと仕事ができた時は気持ちもほぐれるのですが、どうすれば緊張せずに仕事をすることができるでしょうか」
ヨギ「ヨーガの長い歴史の中での大きな発見は心と呼吸の関係が見つけられたことです。心というのは、普通は常に動揺してあれやこれや落ち着きなく動きまわる性質で、日常のさまざまな期待や不安、心配、取り越し苦労などの負荷が加わることで落ち着きなく乱れています。呼吸と心はイコールと考えられますので、心が高ぶって雑念がある時は呼吸も同様に不安定で乱れています。逆に睡眠中の呼吸のようにゆっくりと呼吸している時は、一定のリズムで安定していますので心は動きまわることをしばし休憩して、落ち着いているというのが日常の風景です。
ヨーガで呼吸のリズムを変えることによって心を変えることができます。どちらかを安定させれば両方安定させることができます。心を落ち着かそうと思っても落ち着かせることができないので、目先を変えて呼吸を制御していくと心の不安定さはなくなっていきます。仕事や社会生活の中でも心を保って冷静にいることができるのです。呼吸を変えれば心が変わりますが、その前に身体を変えて呼吸のシステムを変えるのがアーサナの役割です」

それから師は、心と呼吸と身体の関係をH2O、水の要素の表現で教えてくださいました。心は蒸気、呼吸は水、身体は氷というものです。氷はいちばんつかみやすく、水は器でつかむことができます。器である身体を水がつかみやすい器に作り替えることで、呼吸はそれなりに調整ができ、呼吸を制御し続ければ、心の悩みは楽にこなせるようになると教えてくださいました。
それから真理を学んでいけば、いろんな事柄も正しい位置関係で理解し把握することができるようになるので、仕事はその時々にベストをつくし、精一杯のことをしていけばいいと分かりやすく教えてくださいました。

私はヨーガをする前に、もっと思いやりのある愛情深い心になりたいと思っていましたが、なかなかその心を変えることができませんでした。師から、ヨーガを行じれば心を変えることができると聞いて大変驚き、本当に心を変えることができるのであればヨーガをやってみようと思ったのでした。そして確かにヨーガによって心は変化していきました。少しずつ心は静かになり、さまざまなことは以前と変わりなく起こりますが、いつも自分のことばかり見ていた心は冷静に周りのことを思い、察し、行為することができるようになりました。それでももっともっとより良くなりたいと精進する毎日です。
またサットサンガで師から直接教えを授かり、その教えにそって生きることが、この人生を誠実に生きるということなのだということも実感できるようになりました。
みなさん、師から授かるヨーガの偉大なる智慧を身につけ、迷いなく生きていこうではありませんか。

ダルミニー


新しい道のその後

こんにちは ユクティーです。

10カ月ぶりのブログです。前回は病院を辞めて、潰れかけの訪問看護ステーションへ転職!という報告でしたが、残念ながら入職して半年でそこは閉鎖となってしまいました。訪問看護の事業所が潰れるというのは全国的にも珍しいことではありませんが、被災地の医療介護事情はさらに厳しいものがあり、病院から地域に出て自分の肌でそれを感じた半年でした。その後、迷いに迷った結果、私は福島に残ることを決め、12月28日に新しい就職のため、南相馬を出て福島県双葉郡広野町という所に引っ越してきました。就職先は原発から22キロ、現在原発からいちばん近い病院です。働き始めてまだ日は浅いのですが、今日はその病院と院長のことを少し書きたいと思います。

2011年3月、原発事故により避難指示が出され、次々と病院や施設が休止・閉鎖していく中、この病院は唯一休まず入院診療を続けました。今でも双葉郡で入院を受け入れる病院はここだけです。あの時、どこの病院も患者を避難させましたが移動中や移動先での死亡がありました。この病院でも軽症の患者は避難しましたが、重症の患者は移動に耐えられないだろうと院長が判断し、病院を継続させることを決めました。20人ほどの患者が残り、院長は病院に泊まり込み、看護師は数名、夜勤も日勤もなく働き続けたと言います。院長の決断は、本当に勇気と覚悟がいることだったと思います。病院を続けることには以前より批判がありましたが、院長は「医師免許を剥奪されてもいいから」と言って、残ることを決心されました。当時75歳、震災後病院でたった一人の常勤医師として、すごい回数の当直をこなし、ほぼ365日働かれていたようなものだったと聞きます。その院長が去年の年末、自宅の火事で亡くなってしまいました。81歳。病院は管理者が常勤の医師であることと法律で定められているため、このまま院長が見つからないと存続できないことになります。年末からメディアで大きく取り上げられているので、ご存知の方もおられると思います。今は全国からボランティアの先生が来てくださっており、また2月、3月は臨時の院長に就任してくださる先生がいるのですが、その後のことは決まっていません。

今は病院にマスコミの人がいたり、仕事中にカメラが回っていたり、いろんな人が出入りして慌ただしいですが、それでもスタッフは落ち着いて明るく元気に働いています。

私は年末に病院に行った時、一度だけ院長にお会いしたことがあります。病院の廊下の向こうから壁を伝ってヨロヨロと歩いてくる、かなり具合の悪い患者さんだと思っていた高齢男性、それが院長でした。声をかけると注意が逸れて転倒するんじゃないかと思い、挨拶するのを止めました。見てはいけないものを見た気がしました。今は看護師さんから院長が働いていた時の様子を聞くことがありますが、それはもう衝撃的なものです。院長は、生前「どんな時でも自分のできることを粛々と行なう」とよく言われていたそうですが、正直、81歳の医師ができる範囲を超えていたと思います。

院長は精神科医でしたが、もともとは別の仕事をされていて、人間にとても関心があり、精神科医になったそうです。先日、院長が病院を開設した時書かれた「職員心得メモ」が見つかり、
Facebookで公開されていました。有名な哲学者や思想家の言葉が書かれ、文字が多くて途中で読むのを挫折しかけたのですが、何気なく最後の方を見た時、ドキッとしました。「ヴィヴェーカーナンダ」という名前が出てきたからです!

院長のメモには、「印度のビベカーナンダ」とありました。引用されていたのは、ヴィヴェーカーナンダがグルバイに送った手紙の中に書かれていた以下の言葉でした。

「人の欠点を探すことは非常に容易なものだ。しかし聖者の特徴は人の長所を探ろうとするところにある。決してこれを忘れるな」

院長は自分の言葉で続けます。「相手の心に至る第一歩は相手の長所をまず探ろうとすることから始まるのである。このような身近にあることを注意することが、目立たないことであるが、社会につくすことの一つであり、しかも根本的に大事なことであると思うのである」

私は何度も噛みしめるように読み返し、目の前の一人一人を大切にすること、一つ一つの行為を疎かにしないことを心に刻み込みました。私が広野町に引っ越した2日後に院長は他界し、結局あの病院の廊下で会った(見ただけ?)のが最初で最後になってしまいましたが、ヴィヴェーカーナンダによって導かれここにやって来たような気がして、一人で勝手に感動しています。

去年10月に病院と院長のドキュメンタリーがEテレで放送され、すごい反響があったのですが、今日1月21日の23時〜24時に再放送されます。関心がある方はご覧ください。「原発にいちばん近い病院 ある老医師の2000日」
1月28日の午前0時〜1時にも再放送があるようです。

これから病院がどうなるか分かりませんが、今はここで頑張っていきたいと思います。

ユクティー

 


バーガヴァタ・プラーナ 悪魔バウマの解放

みなさま

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年は酉年ですね。酉年は「とりこむ年」といわれ縁起のいい年です。運気を取り込み、“絶好鳥”な実りある年といたしましょう。というわけで、鳥といえばクリシュナの乗り物である聖鳥ガルーダが有名ですが、今回は「バーガヴァタ・プラーナ」から、主クリシュナが聖鳥ガルーダに乗り悪魔バウマを退治した物語をご紹介しましょう。

悪魔バウマが水神ヴァルナの王座から君主の象徴である傘を力ずくで奪い取り、神々の母であるアディティから耳飾りを略奪し、さらに天界のメール山にあるマンダラ山頂のマニパルヴァタを占領してしまったことを、天界の王インドラ神から知らされた主クリシュナは、妻サティヤバーマーと共にガルーダに乗り、悪魔バウマが治める都まで飛んでいかれたのでした。

その都の四方は要塞で囲まれていて、火と水、風の帯がその周囲を囲み、バウマの従者である悪魔ムラの造った罠があちこちに仕掛けられていました。主クリシュナはこん棒と円盤(スダルシャン)を使って、そのすべてをことごとく破壊し、また五つの頭をもつ悪魔ムラをもスダルシャン・チャクラを使って、その頭を断ち落とされたのでした。

悪魔ムラとガルーダ

悪魔ムラとガルーダ

ムラには七人の息子がいて総攻撃をかけてきましたが、ハリ(クリシュナ)は鋭い矢を三本ずつ射て、それらをことごとく粉砕されました。さらに背に主を乗せる聖鳥スパルナ(ガルーダ)は、眼下を駆ける象たちを翼でなぎ倒していき、くちばしや翼、爪で攻撃するや、象たちは完全に狼狽して、慌てて都まで退却していったのでした。こうして自軍が壊滅するのを見た悪魔バウマは、稲妻さえも凌ぐほどの勢いで、ガルーダめがけて槍を投げつけました。しかし聖鳥ガルーダは並の鳥ではありません。その槍は、まるで象の身体に花環が触れたほどのものでしかありませんでした。攻撃が完全な失敗に終わったのを知ると、悪魔バウマはクリシュナめがけて、手に構えた槍を投げつけんとします。その瞬間、シュリー・ハリは剃刀のように鋭い円盤を投げて、象に乗った彼の頭を切断されたのでした。

その後、あらゆる富に囲まれた悪魔バウマの宮殿に入られたクリシュナは、バウマが諸国の王たちを滅ぼして連れてきた一万六千百人もの王女たちが幽閉されているのを発見されたのです。自分たちの部屋へ入って来られた美しい英雄の姿を目にすると乙女たちは完全に心を魅了されて、主を全員が夫として求めたのでした。
「どうか、この方が私の夫となられて、創造主がそれに賛成してくれますように」
そんな王女たちの思いを知られるとクリシュナは、王女たち全員の身を清めさせて、美しく着飾らせ、最高の宝石や馬車、馬などをもたせて、駕籠に乗せ、ドワーラカーへと連れていかれたのでした。

幽閉されていた王女たちは美しい主クリシュナに惹きつけられます

幽閉されていた王女たちは美しい主クリシュナに惹きつけられます

全能の主はその後、自らの普遍性と完全性を保ちながら、王女たちと同じ数にご自身を顕わされて、各宮殿で結婚式をあげられました。自らの祝福において完全であり、想像もできぬわざを為されるクリシュナは、素晴らしい宮殿にて、全く同時に姿を現して、家長の義務を立派に果たし、まるで普通の人間のように振る舞いながら、女神ラマーの部分的顕現である彼女たちと楽しく暮らされたのでした。王女たちには何百人もの侍女がいたものの、主が宮殿に来られるや、自分で主を迎えにいき、礼拝の品や席を捧げ、主の御足を洗い、キンマの葉を捧げたり、扇で風を送ったり、白檀や花環を捧げ、主の髪型を整えたり、沐浴の準備をしたり、食事を提供したりして、主に奉仕をしていったのでした。

シュリー・クリシュナは聖典の中でおっしゃっています。

私の献身者はすべての人に憐れみ深く、そして誰にも敵意を抱かない。彼らは忍耐強く、真理を唯一の力としている。また彼らは汚れなく、すべての生き物たちを平等な眼で観て、すべての人々の利益のために働く。ハートが欲望で汚されず、自制心があって、心優しく、純粋で、エゴの意識がない。また寂静で、節度があり、心をよく制御し、私を拠り所として、絶えず私を瞑想している。

主クリシュナのお妃たちは、主クリシュアの献身者であることに間違いありません。これは、人間の営みの理想の姿を現しているのだと思いました。私たちは家族に対して、また他者に対して、どれくらい献身ができているでしょうか。この物語を絵空事だと片付けてはいけないのだと思いました。
師は、私たちの本当の自己は、純粋な意識、存在、アートマン、または神と呼ばれると教えてくださっています。そうであるなら、私たちすべてのうちに主クリシュナがおられるのです。その思いが私たちを他者への献身へと向かわさせてくれるのだと思いました。そして悪魔は無知やエゴの象徴です。ばっさばっさと悪魔を切り刻む主クリシュナの栄光を、この目で見てみたいものだと素直に思うのでした。

ダルミニー