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松山特別サットサンガ速報!

松山でのサットサンガ一日目が終了しました!!松山のみなさんが、日常の中でヨーガを深めるために、地道に実践しているのをとても感じるサットサンガでした。

松山ヨーガサークル会場

何人かの方は、一年前のサットサンガでヨギさんからいただいた言葉を大切にしながら日常の中でそれを実践し、新たに生じた疑問をグルに質問されており、サットサンガの本来の姿がそこにあったと思いました。

実践が出来ていない、辛い状態が続いているという方にヨギさんは言われました。

「私から見たら、本当の自分を見失っているように見える」

ヨギさんは、このサットサンガの中で本当の私というのは、生まれることもなく、死ぬこともない、永遠で至福そのものなのだということ、そして本当の私には苦しみなどない、それが自分自身の本来の姿なのだと何度も教えてくださいました。

そして、とても力強く「それを知り、体得し、生きてください!」と言われました。そこにいた誰もが、鼓舞され、それこそが人生でするべきことだと思った瞬間だったと思います。

また明日もサットサンガがあります!!!ヨギさんに会えて、みんな本当に嬉しそう!


ラーマクリシュナの導き

私はヨギになり、愛という山の洞窟に住もう。

至福の泉のそばで、ヨーガに没入しよう。

真理という果実によって知識の飢えを満たそう。

離欲という花を添えて、神の御足を礼拝しよう。

わが魂なる水瓶に平安という水を引き入れよう。

あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた

甘露水を飲んで、歓喜のあまり

笑って踊って泣いて歌おう。

 

これは『ラーマクリシュナの福音』の中で歌われる歌の歌詞です。これを聞いたラーマクリシュナは、「あぁ、なんとよい歌だろう」ととても喜ばれます。私もこの歌の最後の部分が特に好きです。

「あなたの、蓮華の御足の栄光に満ちた甘露水を飲んで、歓喜のあまり、笑って踊って泣いて歌おう」まるで、先日行われた祝祭を象徴しているかのように感じ、当日の歓びが蘇ってきます。

先日の祝祭では(祝祭の内容はこちら)祝辞をさせていただきました。私は『ラーマクリシュナの福音』が好きで、よく読んでいたこともあり、福音を通してラーマクリシュナの霊性と息吹を話すことになっていました。そして、その場に参加しているみんなが福音の世界に入っていければ…という目標もありました。

祝辞の原稿は歓びをもって割と早い段階で仕上げることができました。出来上がってから当日までも福音を読みながら過ごしていました。でもある日、心の中に浮かんだ思いがありました「こんな祝辞の内容でいいのかな……」

『ラーマクリシュナの福音』は直弟子であるマヘンドラナート・グプタが1882年2月にラーマクリシュナに初めて会ったその日の記録から始まり、ラーマクリシュナが亡くなる1886年8月16日まで、弟子や信者を導くために説いた教えの記録が詳細に残されています。教えはもちろん、信者との会話、日常の様子まで書かれており150年前の記録ですが、その細やかな描写により親近感を持って聖者に接することができる、真理を求めるものにとって、いや、人類にとって宝のような福音です。

そのようなものについて、いったい私が何を言えるでしょうか……急に我に返り、恐れと不安が心を占領しました。もう一度祝辞を読み返してみても、なんと稚拙な文章、とても個人的な内容、これでは普遍的なラーマクリシュナの福音について話をするというような段階ではないように感じ、ネガティブな思いでいっぱいになりました。当日まであと10日、書き直すべきかどうか悩みましたが、焦りもあり、書き直すことができるのかどうかも分からないような状態でした。

日に日に近づく祝祭、どうしよう…という思いが膨らんできた時、突然ラーマクリシュナの教えが胸に飛び込んできました。

「神がしている神の仕事 人は私がするという」

木葉一枚でも神のご意思がなければ落ちることはできない、全ては神がなされていること、神が使い手、人は単なる道具、ラーマクリシュナは常々こう教えられます。
教えが心に染み渡るにつれて不安や恐れは薄れ、消えていきました。そして安堵と歓びが心を満たしました。私に必要なことは、良い道具となるようにラーマクリシュナを愛していくことだけで、恐れを持ったり、不安から祝辞の内容を書き直したり、言葉を変えたりすることではないと分かりました。それからは、「未熟な祝辞ではありますが、どうかあなたへの愛と感謝を捧げることができますように」と祈り、ただただラーマクリシュナを見つめて当時を楽しみに待つことができたのでした。

いつでも、どんなときでも、時間と空間を超えて、常に導いてくださっていることに心から感謝しています。

 

サティヤー


サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラ

桜の花が満開になってきましたね。いよいよ今週末4月7日(日)は、御室にあるプレーマ ・アーシュラマで第3回「神聖示現大祭ーサナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」が開催されます。永遠の真理——サナータナ・ダルマ——それを体現された神の化身——アヴァターラに感謝と喜びを捧げる日です。

今年の祝祭は、19世紀に生きた大聖者、シュリー・ラーマクリシュナに焦点を当てて行われます。シュリー・ラーマクリシュナを通して、その本質である永遠の真理そのものに触れる機会となることでしょう。

シュリー・ラーマクリシュナがどのような方かということや、彼の教えの数々は、このブログの中で何度も紹介しています。ひとことで紹介することは難しいのですが、「ラーマクリシュナの福音」の中で著者であるMがラーマクリシュナについて表現している箇所を見つけましたのでご紹介します。

「ハリ(神)の愛に常に酔っておられ、神聖な愛と燃えるような信仰を持ち、子供のようになって神と語り、神を恋い焦がれて泣くお方。すべての女性を母と観て拝み、世俗の話を嫌って油の流れるように絶え間なく神の話ばかりし、すべての宗教は憎み合わずに、お互いに敬意を持って接し、仲良くしなければならぬと言われるお方」

このような姿を見て、生きておられた時代はもちろんですが、今もなお時代を超えて多くの人が彼に惹きつけられたのです。

去年のサナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーでは、釈迦牟尼ブッダに焦点を当てて行われました。当日は、ハートの全てをブッダに捧げた祝辞の数々を聞き、ブッダに思いを馳せ、まるでそこに神聖なブッダがおられるかのように感じ、歓喜の美酒に酔っ払ってクラクラになったことを覚えています。

個人的には今年、シュリー・ラーマクリシュナへ感謝を捧げることができることをとても嬉しく思っています。私にとってラーマクリシュナは身近な存在で、心底お世話になっていると思っています。ヨーガの歩みを進める上で、たくさんの教えをいただき、時空を超えて導いてもらっていると感じています。常々感謝の思いでいっぱいですが、大切な仲間と一緒にその存在への感謝、歓びと愛を捧げることができれば、それほど嬉しいことはありません。今年もラーマクリシュナご自身がそこにいてくださり、きっと歓喜の中一緒に過ごすことができるのではないかと、今から楽しみにしています!!!!

御室の桜は満開でしょうか?!こちらも当日が楽しみです!

サティヤー


さまらさの台所 おでん風大根

先日の日曜日はさまらさの台所がありました。今回のメニューは早春の肌寒い日にふさわしい、おでん風大根、ひじきご飯、ふきのとう味噌でした。

アレンジが効くひじきご飯と、おでん風大根。たくさん炊くと素材からだしが出て、より美味しくなります。多めに作っておくと、食事を作る時間が短縮されるという主婦の(ヨーギニーの)味方です!!


上はひじきご飯のアレンジ:(左)梅おにぎり、いなり寿司、(右)炒飯
下はおでん風大根のアレンジ:(左)麻婆大根、(右)おかか和え

ふきのとう味噌は、普通味噌と白味噌の2種類を用意し、どちらも味見をしました。ふきのとうの生命力あふれる春の苦味と香りは、冬の間眠っていた身体を目覚めさせるようでした。おでん風大根にはお好きなものを付けて食べていただき、みなさん春の味を喜んでおられましたが、大変好評だったのはもうひとつ紹介した柚味噌。美味しくて、これだけでも食べられる!!と言っておられる方もいました。

作り方は、とっても簡単!
写真は右上から時計回り

1柚子の皮をおろし金ですりおろす。
2果肉を絞る。
3白味噌と混ぜて、味を見て必要であれば砂糖を入れて混ぜる。
柚子の旬はもう終わり頃になりますが、見つけたらぜひ作って見てください!!
柚子はそのまま凍らしておくと保存がききますよ!

日差しは春ですがまだまだ寒い日にぴったりのメニューで、身体も心も温まりました。

 


シュリー・ラーマクリシュナの御聖誕日

今日、2月18日はインドの大聖者シュリー・ラーマクリシュナの御聖誕の日です。

シュリー・ラーマクリシュナについてや、彼の教えはこのブログにもたくさん紹介しています。今回は、「不滅の言葉」に載っている、1883年に弟子たちとともに御聖誕を祝われた時の様子を少しご紹介しようと思います。
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早朝から信者たちは一人、また一人と集まってきた。夜明けの献燈がすむと、奏楽塔ではやさしい朝の調べが奏でられた。春なので草木はみな新しい緑の装いをして、タクル(ラーマクリシュナの呼び名)の御聖誕をよろこんで踊るようにそよいでいる。あたり一面に和楽の気が満ちあふれていた。校長(作者のM)が到着してみると、ラーマクリシュナは何人かの弟子と笑いながら何かを話しておられた。Mは傍にすすみ、床にひれ伏してご挨拶申し上げた。ラーマクリシュナは「やあ、来てくれたか」とMに言われ、みんなの方を向いて話された。
「恥ずかしい、憎らしい、恐ろしい、この三つがあるうちはダメだ。今日は本当に嬉しい日だ。だがね、ハリ(神)の名に夢中になって踊れないようなアホはいつまでたっても悟れないよ。神さまのどこが恥ずかしい?どこが恐ろしい?さぁ、お前たち歌え」

弟子たちは歌った!

「喜びのこの日、実に恵まれていること!
私たちは団結して、おぉ主よ、
あなたの真の宗教を説きましょう、

ここインドの聖なる土地で!
あなたはそれどれの人のハートに宿っておいでだ。
あなたの御名はあらゆるところにこだまして
四方の隅々まで大空を満たす。
今日、あなたの信者たちは、
あなたの限りない尊厳を褒めたたえる。

われわれは、富も友も名も求めません。
おぉ主よ、他になんの望みもありません。
あなたの信者たちは、衰えることのない愛を持って、
あなただけを求めているのですから。

あなたの御足のもとにあって安全で、
なんで死や危険を恐れましょう。
われわれは不死の泉を見いだしたのですから。
あたなに勝利あれ、おぉ主よ!あなたに勝利あれ」

シュリー・ラーマクリシュナは手を組んで一心にこの歌を聞いておられた。聞いているうちにすっかりと感動され、長い瞑想に沈んでおられた。

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この日は、朝から晩までたくさんの訪問者があり、ラーマクリシュナは彼らに教えを説かれ、たくさんの歌を歌い、踊り、三昧(サマーディー)に入られています。信者たちは三昧に入って直立しておられるラーマクリシュナの首に花輪をかけ、月のように気高く、聖なる愛の情熱に紅潮しているお顔を拝見したと書かれてあります。歓喜に満ち溢れた日を過ごす信者たちの喜びが、こちらまで伝わって来ます。そして、このようなラーマクリシュナの姿を見て、神は完全無限で、形のないものだと信じていた信者たちは、神が人間の姿をとって現れるということが真実なのだと理解したのです。

ラーマクリシュナは言われます

「形なき神も、形ある神も、両方見える。形ある神 −つまり、霊の姿を見ることができる。また人間の姿をした神を直に見たり、触れたりすることもできる。神の化身(アヴァターラ)を見ることは、神そのものを見ることと同じだ。神は、その時代、その時代に人間の形に化身としてお生まれになる」

なんと吉祥な御聖誕なのでしょう!!!

ダクシネシュワル寺院


如何なる場合にも平気で生きる

私が介護の仕事で訪問している方は、病気で体を一ミリも自分で動かすことができません。動くのは、目と口が少しだけ。口が動いても、言葉は話すことはできません。生きるために必要な食事や排泄は、人の手を借りてされ、もっとも生きる上で必要な呼吸は、呼吸器を使ってされています。でも彼は、少しだけ動く口を使って(あと特殊な機械を使って)パソコンで仕事をされ、驚くほど精力的に生きておられます。リフトを使って車椅子に移動され、それに乗って、どこまでも出かけて行かれます。(もちろん家族やヘルパーと一緒に)毎月の予定を見ていると、講演や会議、飲み会?などとても忙しそうです。

先日支援に入っていた時、今度テレビの撮影のためにカメラマンが来ると教えてもらいました。特殊な病気の方なので、これまでにもテレビや新聞に出られたことはあるのですが、今度の企画は、病気や介護がメインではなく、もっと違う角度から彼の生活を撮影したいということでした。メインテーマは、ちょっと意外なのですが、正岡子規。子規は23歳で結核になり、徐々に進行し、死に至るまでの2年間は疾病と患部による苦痛のため、ほとんど動くことのできない重度障害者になったようです。しかし、動けない体になってからも、口述により精力的に執筆活動を続けたそうです。そして、結核という不治の病に冒され、限られた生活空間の中で(六尺、1.8m四方の部屋の中だけにいたようです)あることを悟ったそうです。

「悟りとは、如何なる場合にも平気で生きている事である」

このような言葉を残されていることに衝撃を受けました。私など、ちょっとした思い通りにならないことで悩んだりすることがあるのに、一ミリも体が動かないような状態で生きておられる方がこのように考えておられていたとは!!なんとかっこいい!!

正岡子規が不自由な体になっても執筆活動を続けたように、私の利用者さんも同じような境遇でも充実した生活をされていることが、今回の撮影対象になったのでしょう。尋ねたことはないですが、私の利用者さんも少なからず、正岡子規が感じたようなことを感じておられるのかもしれません。本当は想像にも及ばないほどの、肉体の制限や苦痛の中で生きておられると思いますが、それを感じさせない、その生き様に改めて尊敬の念が湧きました。足元にも及びませんが、私も如何なる場合にも平気で生きていけるようになりたいと強く思いました。

通勤でいつも見る景色、冬の鴨川

 


さまらさの台所 カレーパン パン生地の作り方動画

日曜日は、さまらさの台所がありました。12月、1月と同じメニュー、カレーパンと揚げあんぱんを紹介し、両日合わせて22名の参加がありました。

参加してくださった方には、ぜひぜひお家で作ってもらいたいのですが、パン作りは一度習っただけでは覚えられないという声も多かったので、今回は生地作りを動画でご紹介します。これを見ながらなら、作れるのではないでしょうか!?

参加されていない方も、これを見たら作りたくなるのでは?ということで、分量をご紹介しますので、ぜひ作ってみてください。
強力粉200g 砂糖10g 塩4g 牛乳100cc 水50cc ドライイースト3g 
生地の中に入れたカレーですが、当日はインドカレーと日本のカレーの2種類を入れて作りました。普段家で作るカレーの残りを入れてもらったら美味しくできますよ。

ここまでできたら、霧吹きで全体に水を吹き、パン粉をつけてから濡れ布巾をかけて二次発酵させます(10分ほど)。その後、フライパンに油を入れ、油の温度は弱火〜中火でゆっくりと揚げていきます。生地のつなぎ目は下にして油の中に入れると良いです。生地がふくらみ、きつね色になったら出来上がりです。

美味しくできるといいですね〜!!


神への態度 バクティ・サンがム キールタン

先日の日曜日は今年最後のバクティ・サンガムでした。10月から3ヶ月間歌い込んできたキールタン、「ゴーヴィンダ・ハレ・ゴパーラ」をみんなで歌いました。ゴーヴィンダもゴパーラもクリシュナ神の幼少期のお名前。このキールタンでは、その御名を、何度も何度も繰り返します。愛らしい幼子ゴパーラが、森の中で無邪気に遊び戯れている様子を見て、母親は愛おしい我が子の名前を叫ばずにはいられなくなる。そんな印象がこのキールタンにはあります。

バクティ・ヨーガの中では、バクタ(神を愛するもの)の神への態度が5つ教えられていますが、その5つの中には、ヴァーツァリアという、神を子供と見立て、母親のように愛するという態度があります。まさにこのキールタンは、ヴァーツァリアの態度がぴったりだと思いました。ちなみに、他の態度には、神を平安な気持ちで愛するシャーンタ、召使いの態度のダースィヤー、親友の態度のサキヤ、そして愛人の態度、マドゥーラがあります。

私は、このバクタの態度の話を聞くたび、自分は一体どの態度なのだろうか…という疑問が生まれます。以前そのことをヨギさんにお尋ねしたとき、「それぞれの人の素直な態度というか、ふさわしい態度というのが自ずと生まれてくる」と教えてもらったことがあります。

「ふさわしい態度が自ずと生まれる」

では、生まれるまでは何をしたらいいのでしょうか。そんなことを考えていたとき『ラーマクリシュナの福音』の中である物語を見つけました。

ある娘が幼いときに夫を失って寡婦となった。彼女は自分の夫に会ったことがなかった。他の少女たちの夫を見て、ある日父親に「私の夫はどこにいるのですか?」と尋ねた。父親は「ゴーヴィンダがお前の夫だ、もしお前が呼べば、彼は来るだろう」と答えた。これを聞いて少女は自室に入り、扉をしめてゴーヴィンダに向かって「おお!ゴーヴィンダ、私のところに来てください、なぜ来てくださらないのですか!」と叫んだ。神は少女の哀れな叫びに抵抗することができず、彼女の前に現れた。人は子供のような信仰と子供が母親を見たいと感じるときの強烈な憧れとを持たなければならない。その憧れは、暁の東の空の紅のようなものだ。空が紅くなれば、必ず太陽が昇る。その憧れの直後に人は神を見る

このお話を読み、「ふさわしい態度が自ずと生まれる」までは、この少女のように、ただ純粋に神を求め続けることだと思いました。神への態度が先にあるのではなく、まずは素直さと熱心さが何よりも大切なのだと思います。

12月でいったん歌い納めした「ゴーヴィンダ・ハレ・ゴパーラ」ですが、1月のバクティ・サンガムでは2018年の振り返りをするので、もう一度歌います!ぜひ、ゴーヴィンダ!!ゴパーラ!!!と叫びにきてください。


ラーマクリシュナがうたわれたキールタン 至福のお酒

さて、年末のシーズンになり、忘年会などお酒を飲む機会が増えてくる時期ですね。そこで今回は「ラーマクリシュナの福音」に出てくる詩のなかで、お酒にまつわるものをご紹介します。

私は並の酒は飲まない
永遠の至福の酒を飲む
母カーリーの御名を繰り返しながら。
それは私の心を深く酔わせるので
人々は私が酔っ払ったと思う。
まずグルがその酒をつくるための糖蜜をくださる。
わが渇仰の心は、それ酒を変容させる酵母。
知識という作り手が、私のために酒を醸す。
酒ができたとき、私の心はそれを
マントラというびんから飲む。
それを浄めるために母の御名をとなえながら。
この酒を飲め、とラームプラサードは言う、
そうすれば人生の四つの果実はお前のもの

私はお酒を飲むことが割と好きなので、これまでの人生でそれなりにお酒を飲んできたと思いますが、この詩に出会ったとき、私が飲みたかったのは、この「永遠の至福の酒」だ!!!とはっきりと分かりました。そして、私はもう並の酒は飲みたくない!と思ったのでした。

ではその永遠の至福の酒はどうしたら飲めるのか!?それをつくる方法が詩の中に書かれています。まず、グルがその酒をつくるための原料となる糖蜜をくださるのです。糖蜜とはサトウキビの絞りかすで、お酒の原料になるもの、日本酒ならお米のことです。まずはグルの恩寵が必要なのですね。そして、お酒作りに酵母が必要なように神への渇仰の心、信仰心は欠かせないものです。そして作り手として、真理の知識(真知)が醸造してくれるのです。

あーそのようなお酒を心が飲むとき、どれほどに甘美なのでしょうか!!この詩を読むたび、私は永遠にその至福のお酒に酔いしれたいと思うのです。最後に書かれてある四つの果実は、ダルマ(正義)アルタ(富)カーマ(欲望の達成)モクシャ(解脱)のことを指します、憧れは増すばかりです。

さて、収穫が秋のお米を原料に作る日本酒は、冬に仕込むことが多いようです。それは雑菌が少なく温度調整がしやすいためと言われています。ぜひ仕込みやすいこの寒い時期に、みなさんも永遠の至福の酒を仕込んではいかがでしょうか。


ラーマクリシュナのうたわれたキールタン 

『ラーマクリシュナの福音』の中で、シュリー・ラーマクリシュナは、たくさんのキールタンを歌っておられます。そのキールタンは、私たちが普段うたっている神の御名を繰り返すという単純なものではなく、歌詞があるものです。メロディーは分かりませんが、歌詞の内容はとても美しく、私もうたってみたいなぁ・・・と思うものがたくさんあります。今回は、その中の一つを紹介します。

これはゴーピー(牧女)たちが、クリシュナ神への愛をうたった歌で、『ラーマクリシュナの福音』の中で何度か出てくるものです。

「私のクリシュナはまだ見つからない。おお、友よ
彼のいないわが家のなんと寂しいこと。
ああ、もしクリシュナが、
私の頭の髪でさえあったなら、

私は念入りにそれを編み、バクルの花で飾るのに。

私のクリシュナ髪のお下げを、
入念にととのえるでしょう。

クリシュナは黒く、私の髪も黒い、
黒と黒は一つになる。

ああ、もしクリシュナが、
私の鼻の飾り輪でさえあったなら、

彼はつねに私の鼻に下がり、
私の唇は彼にふれたでしょう。

    だが、そんなことはあり得ない。
ああ、なぜ私は、こんな愚かな夢を見る。

クリシュナが、私の鼻の飾り輪などになるものか。

ああ、もしクリシュナが、
私の腕の腕輪でさえあったなら、

彼はいつも私の手首にくっつき、
私は誇らしげに歩くでしょう。

腕輪をゆすって音をさせ、
これ見よがしに腕を振り、

クリシュナ腕輪を身につけて、
王様の道を歩くでしょう。」

恋をしたことがある人なら、誰でもわかると思いますが、愛する人とは片時も離れていたくなく、一緒にいたいものです。「ああ、彼が(彼女が)ここにこうしていてくれたなら…」という想像(妄想?)は誰でもするものです。そして「そんなことはあり得ない、なぜこんな愚かな夢を見る…」と言いながらも、また想像を始めてしまうところが、この歌の中でとてもリアルで、素朴で、なんとも言えない可愛さがあります。

これは、一見すると単なる人間の恋愛の様子がうたわれているようですが、本当は魂と神との関係を象徴的にうたったものです。魂(牧女)は神(クリシュナ神)に恋い焦がれ、一心に神を求め、常に一つになりたいと望んでいるのです。バクティの感情を表現する時には、日常の中の誰もが経験するような状況を、バクタの心境になぞらえてあるのものがたくさんあります。キールタンは、神への魂の叫びであり、神と魂を結ぶ愛の歌なのですね。