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『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑥

私が絵を描き始めたのは、ヨギさんにインドの細密画について教えていただいてからです。
最初はインドの細密画を模倣するところから始まったのですが、何枚か描いていくうちに、ヨギさんは日本にお生まれになり京都にお住まいなのだから、京都アーシュラマや日本を感じるような風景の絵を描きたいと思うようになりました。

そう思って描いた1枚が、今日ご紹介する『Paramahamsa』No.29の表紙絵で、この号には、2001年のサットグル・ジャヤンティーの模様が掲載されました。

 

そして、今年、2023年のサットグル・ジャヤンティー、師の御聖誕75周年祭はもう目前です。

私たち各国の弟子にとって、今年は大きな節目を迎えた年であり、来たるサットグル・ジャヤンティーは、私たちにとって意味深いものとなると思います。
たとえ師のお姿が見えなくても、師が目の前におられる時と同じようにジャヤンティーを迎えることができますように。

師はおっしゃいました。
アヴァターラがこの世界にお生まれになる日、全世界が祝福されるのだと。
この吉祥な日を、全員で歓びをもって迎えたい。
そして、師に出会えたことを、決して良き思い出として終わらすことなく、一人一人が師の教えを生き、師が示された真実を生き生きと表すことができるように、身口意をもって行為していきたい、そう思います。

シャチー


瞑想入門 〜インド思想を学んで瞑想する〜

11月〜京都・大阪でスタートする「瞑想入門」のクラスのご案内です💁


テーマは「生きるとは何か? 〜インド思想を学んで瞑想する〜」です。
生きることについて、インド思想を通して考え瞑想し、人生の目的を明らかにしていきます。

古よりインドでは、生まれたことの意味やその本質を瞑想によって探求してきました。
それにより、カルマの法則や輪廻転生、また梵我一如の真理が発見されました。
一見すると、それらは難解で現実離れしたもののように思うのですが、実は私たちの人生に直結したものなのです。
例えば、カルマの法則は「自業自得の理」といわれていますが、「何事も他人や状況のせいにしない」という教えであり、それをしっかりと理解・体得できれば、主体的な人生が送れるようになります。
そのようにしてこのクラスでは、インド思想がどのように実生活で適用できるのかを学んで瞑想し、「生きるとは何か?」という大いなるテーマにアプローチしていきます。

今回は全8回で、基本となるインド思想を網羅できますし、瞑想の実習もあり、月2回のペースでじっくりと学ぶことができます。
1回だけの参加や途中の回からの参加も可能ですので、少しでもご関心があれば、お気軽にご参加ください。
詳しくはこちらをご覧ください💁➡️『瞑想入門』

ゴーパーラ


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ⑤

インドの細密画は、15世紀から19世紀を最盛期としてインド各地で描かれ、文化やその土地によって画法やモチーフが異なり、様々な特徴があるといわれています。
小さなものだと数センチ、大きくても一辺が20cmほどといわれる小さな画面に描くのは、「見る人と絵が一対一で対話をする」という考え方があるからだといいます。またそれは魂を清める行為であるともいわれています。
確かに、細部にわたって繊細に描かれた小さな絵をじっくりと眺めていると、時には心が静まり、時には愛に満ちていくようにと、そこに秘められた物語の真意が、心の奥深くに豊かに広がっていくのを感じます。

さて、今回は『Paramahamsa』No.79の表紙を紹介させていただきます。

この絵は、シャクティ(キールタンを歌うメンバー)が毎週、ヨーガ・ヴィハーラに集まって、キールタンを歌っていた時に感じたことをかたちにしたものです。
当時の思いを、『Paramahamsa』の裏表紙に掲載していましたので、ここで紹介させていただきます。

「Panduranga Vitthale(パーンドゥランガ  ヴィッタレー)」、この曲を歌う時、ヨーギニーがただ一人荒野に座り、神を求め続けるという絵が浮かんできます。曲の高まりとともに、彼女の神への愛、神の御名の叫びは、やがて木々や山、大自然にも神を求める声を上げさせる、そんなイメージです。歌の中に入り込んでいくと、いつも深い瞑想へと導かれるような感じを受けますが、そうして歌っている中で、ある日気付きました。私たちは初めは神に会いたいと願い、探し求めるけれど、本当は大自然のみならず、自身の全細胞までが神そのものだということを。
神を感じ、神とともにある不動のヨーギニー、今回はそんな思いを絵にしてみました。

シャチー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ ④

 今回は、『Paramahamsa』No.78の表紙を紹介させていただきます。

アール・ヌーヴォー調のフォントをあしらった表紙は、師であるヨギさんがデザインしてくださったものです。
ヨギさんは、毎回その絵にあうようにとフォントを選ばれますが、いつも何かしら、明確な、具体的なイメージがあり、そのイメージに沿ったものが見つかるまで何度も見返して探されました。
言葉にすると単純な作業ですが、その集中力は並大抵ではなく、また選んでくださったフォントでデザインされたものは、いつも私の想像をはるかに超えた美しさを放っていました。

*実際に発行された『Paramahamsa』はモノクロです

 No.78の裏表紙に、この絵を描いた当時のエピソードを掲載していましたので、ここに紹介させていただきます。

毎週金曜日夜、シャクティたちはヨーガ・ヴィハーラに集い、キールタンを歌い踊っている。いえ、実際には踊っていないのだけれど、まさに踊っているようだと感じたことがありました。
その日、私たちは輪になってシヴァ
を讃える歌を歌っていました。身体を左右に揺らし、満面の笑顔で声高らかに歌うシャクティたち。そこにはヨギさんがおられ、ともに遊び戯れている! そんなふうに感じ、私は深く感動したのでした。そして「あぁ、こういう絵を描きたい」と思ったのです。

このミニアチュールから、神だけを見つめ、神と一緒に遊ぶシャクティたちの歓びが少しでも伝われば嬉しいなぁと思います」

*2023年7月20日配信のWeb版Paramahamsaにて、このイラストを紹介していただきました。

シャチー

 

 


ブッダから届いた宝物

木曜日と土曜日に、京都、大阪で開講されている瞑想入門のクラスでは、講師のゴーパーラさんならではのヨーガ行者としての鋭い視点で、瞑想やこの世界の理、心のしくみについての興味深いお話が聞けて参加者たちの質問も活発です。先日は、ブッダってどういう人だと思う?という投げかけからそれぞれのイメージを共有し合い、ブッダを身近に感じてよりブッダが好きになってしまいました♡ 「入門」というだけに素朴な質問がしやすい雰囲気があり、質疑応答を通じたみんなでの交流も楽しく、また、瞑想の時間はピタッとした静けさと集中があり、メリハリがあります。

そんな瞑想入門クラスに熱心に通われているNさんは、「自分はまだまだ真理やヨーガを信じられていない」と包み隠さず話されます。ある日のクラスで、「真理があるか、ないかを確かめたい」と真剣に言われました。ゴーパーラさんは、ブッダの教えにもある「たとえ古い聖典が出てきてもそれを盲目的に信じる必要はない」という言葉を紹介され、師も同じように仰っていることを話されました。

師は「まずヨーガを進めていくには、それまで経験で培った観念とか概念とかいう心の秤を無視するところから始める、あるいは疑うところから始める。またその聖典とか真理の言葉といわれるものも、鵜呑みにする必要はない。ただし、その両方についてよくよく考え、そして瞑想して、間違いのない答えが出てくるまでそれを探求しなければいけない」と説かれています。

まさに師のこの教えの通り、探求の真っ只中のNさんと私たち。ゴーパーラさんは、瞑想を山登りに例えられ、学生時代に行ったチベットの高度5000メートルの山で、高山病になったことを紹介されたことがありました。どんな山を目指すかは人それぞれ。目指している山が違ってもいいけれど、でもどんな山を目指すにしても頂上に辿り着くためには、やらないといけないことがある。それは土台作り。基礎体力が必要! その基礎作りが瞑想入門のクラスなのです。基礎は何度も繰り返し学び実践することで強固になるなぁと私は感じています。

とっても為になる実践的な瞑想入門クラスなのですが、実は参加人数が少なくて(涙)クラス宣伝のため、チラシ蒔きを兼ねて数人でインドカレーのお店に行く機会がありました。私はそこでNさんと初めてゆっくり話しました。Nさんは、すっごく正直で、真っすぐで、ある意味、師の教えの言葉を地で行く(!)絶対に何も鵜呑みにしない人(笑)なんだなということを感じ、何てヨーガ向きな人なんだ?!と思いました。真理も神ももちろん全く鵜呑みにはせず(笑)、自分自身で確かめながら、着実に道を歩んでこられたんだと分かりました。Nさんは師のサットサンガでも師に、疑心暗鬼になるんです、神という存在についても信じられないです、どうやって信仰する神を選ぶのですか?というような正直な質問をたくさんされていました。私はNさんに対して、疑心暗鬼だと言われながらも、でもこんなにも熱心にサットサンガやクラスに参加し、これだけヨーガを続けられるその理由は何なんだろう??凄いなと密かに思っていました。お話してその謎が解けました、Nさんは師の存在にただただ惹かれている! 好きになってしまっている♡

さて、そんなNさんからあるエピソードを聞きました。Nさんが書いてくださったそのエピソードをここでご紹介したいと思います。(ナリニー)

* * *

 

「まあ、なんてかわいらしい仏様!」
2019年12月8日、この絵はわたしのもとに届きました。
その1週間前、師の特別サットサンガの日、瞑想の対象を決められずにいたわたしは

師に「神様に来てくださいとお願いしてもいいですか」と尋ねました。
師は「お願いしてもいい。その中で親しみのもてた神を信仰すればいい」と
仰ってくださいました。

それから数日後、知人から「Kさんが、渡したい絵があると言われている」というお電話がありました。Kさんは長年マザーテレサの下で奉仕活動をされている方だったので、わたしは「もしかしたら、キリスト様かマリア様が家に来られるのかなぁ」と思っていました。

そして、12月8日、ブッダが悟りをひらかれたその日、この絵はわたしのもとへ。
以来、ずっと見守ってくださっています。

師のはからいによってもたらされた宝物です。

 

ブッダの版画
N 

* * *


『マハーヨーギーの真理のことば』 第九章 大宇宙と小宇宙の神秘

私はヨーガを始めてまだ数年の初心者です。ヨーガの教えは、聖者・覚者によって見出された叡知であり、目から鱗が落ちるようなものが多く、学ぶのがとても楽しいです。今は、シュリー・マハーヨーギーへの質問と答えがまとめられた『マハーヨーギーの真理のことば』を読んでいます。シュリー・マハーヨーギーのお話は自らの経験に基づいており、とても説得力があります。また、対話形式で書かれていて、とても読み易いです。
今回はこの御本の第九章をレビューさせていただきます。

第九章は「大宇宙と小宇宙の神秘」というタイトルとなっています。ヨーガでは、物理的に存在する宇宙を大宇宙、それに対して私達の身体のことを小宇宙ととらえています。私は瞑想中に、自分の中に内なる世界が広がっていることを感じることがありました。小宇宙という言葉を聞いた時、本当にその通りだなと思いました。

さて、この章の中で私にとって最も印象的だったのは、大宇宙と小宇宙の一致(梵我一如)の部分です。
私が梵我一如という言葉を知ったのは高校生の頃で、教科書にこのように書いてありました。
「ウパニシャッド哲学では自己の本質であるアートマン(我)と宇宙の理であるブラフマン(梵)が一体であるという真理(梵我一如)を悟ることで輪廻転生から解脱できるとされる」
言葉の雰囲気にとても惹かれたのですが、意味は分からないままでいました。

シュリー・マハーヨーギーは、梵我一如について、このように説明されています。

サマーディ(三昧)においては、いわばその物質的な粗大な局面から、より微細な原因体の方に心が移行していくことになる。そうするとその大宇宙と小宇宙を造り出した原因というのは同じということになってくるので、そこでの物理的な空間の大きさとか量とか時間とかいうものが消滅してしまうということになる。そういう中でより深まっていけば、その根源的な宇宙と万物の展開を始める原初体のようなところに入り込んでしまう。するとそれは二つとないものとして、体感することになるのです。相対的な大宇宙、小宇宙というふうに物理的な条件を伴った観念がそこにある以上は、大宇宙と小宇宙の一致とか一体というような表現になるだけのことです。要は宇宙万物の根源にサマーディは連れていく、あるいはサマーディの中でそれを体験するということです。

なるほど、梵我一如とはサマーディの中で体験できるもの――では、サマーディとはいったいどのようなものなのでしょうか? 興味はつきません。

第九章にはその他にも、プラーナーヤーマ(調気法)、クンダリニー(根源力)、シュリー・ヤントラ(象徴的な真理の図象)、宇宙開闢(かいびゃく)論など、ヨーガの生理学と宇宙観に関する興味深い内容が、数多く取り扱われています。
ぜひとも読んでみてください。きっとヨーガの理解が進むと思います。

右は『マハーヨーギーの真理のことば』の表紙、左はシュリー・マハーヨーギーの描かれたブラフマーンダ(ブラフマンの卵)。ヨーガでは、宇宙が始まる前、有もない、無も無い時、そこから宇宙が生まれ、そして万物、万象が展開していったと語られています。ビッグバンが発見される遥か昔、太古の昔のヨーギーが、宇宙の始まりを直観していたことに感動します。

島本廉


かけがえのない時間 ~弟子たちのサットサンガ~

梅雨に入った6月18日。その日は、私たちの最愛の師がこの地上から去られてちょうどひと月目の節目でした。まだまだ夢のまた夢を見ているような、きっと多くの仲間たちが実感も、整理もつかないまま日々を過ごしていたかもしれません。しかし、季節は確実に巡っていました。気が付けば、あちらこちらには鮮やかな色彩の紫陽花が咲き始めています。また台風が来たり、雨が降ったり、突然晴天になったり、まるで私たちの心模様のようでもあります。
そんな時節に、コロナ禍以来初めての一同が会してのサットサンガが開催されたのでした。久しぶりに再会する仲間も多く、それぞれが再会を素直に歓び合いました。
 
コロナ禍以前は、毎月サットサンガが開催されていた、あの同じ会場の同じ部屋。皆で師がお座りになっていたムートンを囲み、まず礼拝が捧げられ、少しの瞑想を行ない、会が始まりました。師のお席の横には、清楚な水色と薄ピンクの紫陽花が可憐に生けられ、会場の大きな窓からは梅雨の晴れ間の明るい青空と、大きな木の爽やかな緑が広がっています。師はいつも晴れ男さんなのでした。
かつて師が毎年NYにご布教に行かれていたご不在中も、弟子たちはいつも皆で師のムートンを囲んでサットサンガを続けてきました。今、実際に師の肉体とお会いすることは叶わないのかもしれませんが、それでも弟子たちがやっていくことは同じです。
 
今回のサットサンガの詳しい内容は、WEBパラマハンサにて掲載されますが、印象的だったことをお伝えさせていただきます。それは誰もの中に、確実に師の教えが生きている、ということです。師がお姿をお隠しになられた今、それが余計に際立ち、師の教えが燦然と輝いて見えました。一人一人が師の教えと存在を身に纏い、これから自分たちの足で歩いていく、ということを確認し合ったかけがえのない時間でした。

師は肉体を離れられてもなお導かれていて、その導きは永遠です。肉体には限りがあり人は誰もが死にますが、肉体が無くなってもその存在が無くなるわけではないことを師はずっと教えてくださってきました。弟子たちが話したことは、この度のことは弟子に与えられた最大の教えだというふうに受け止めていることや、ラーマクリシュナの直弟子たちは師のご入滅後、厳しい修行を行ない、その後献身奉仕へと身を投じたけれど、その生き様に現代の私たちはどう倣うべきなのか。そのためには、これからヨーガ行者として一人一人が、より具体的に行動、実践していく必要があるという話もありました。
師の存在と教えを多くの人に伝えていくためには、本当にみんなそれぞれの力が必要で、それぞれが出来ることを活動していくこと、そのお手本として遠く離れた台湾の仲間たちが積極的に活動している話も出ました。

また一人の先輩が話されたことも印象的でした。
「一人一人が味わってきた歓び、それを行為を通して、身近なところで真実をお伝えすること、日常の当たり前の生活の中で本当に純粋なものは伝わっていく。ヨーガは実践あるのみ、と師は何度も仰ってきた。地道な作業だからこそ、独りよがりにならないよう行為するためにも、時折、弟子のサットサンガなどの場は貴重。学びを深めて今まで以上に師と共に活動していく。みんなの思いは一つ。どのように形として伝承していくか」

「ヨーガというものを自らが信じて、周りの方々にちょっと言ってあげたり、話したりすることで、その方が心が楽になったなぁと思ってもらえたらいい、ただ純粋な行為をしていけたらいいと思う」

思いやりと優しさ溢れる中で会は進行されていきました。泣いている者もたくさんいましたが、次第にその涙はあたたかい涙に変わっていきました。きっと、もう十分に、みんな思いはある。その思いをこれからは、より素直に、大胆に行為していく、すべて行為に転換していけるはず。そんな勇気と力を、師がみんなに与えてくださっているように感じました。

皆が少しずつ思いを話した後、サットサンガの最後に素晴らしいサプライズが待ち受けていました。
・・・なんと四名の方がこの日、師からの法名を授かりました。師は生前、法名をご準備されていたのでした。なんということでしょう。法名は、師の直筆で、それはそれは美しい、愛おしい師の字で記されていました。清らかな散華のように皆からの清々しい拍手喝采が沸き起こりました。こんな演出、一体誰が想像するでしょう。師の、神の、なんという粋な計らい。私たちのことをずっとずっと変わらず見守り、手を取り、足を取り導いてくださっていることを強く感じました。悲しみだけで決して途方に暮れないように、すべてを導いてくださっている、肉体は無くなっても、存在は永遠だと。
そして皆で師へのストートラムを奉納しました。空間すべてに、皆の美しく、清らかで尊い思いが満ち満ちていきました。今日は偶然か必然か新月。そういえば、先日ある仲間が話していました、ここからが船出だと。新月の日は、新しいスタートを切るにふさわしいと師も仰っていた吉祥なこの日、皆で決意を新たにし、師からの祝福が与えられたことを感じる機会となりました。
「これからが楽しみやなぁ!」と師の声が聞こえてくるようです。

師のムートンを囲み、弟子たちが半円形で座っているサットサンガの写真

 

ナリニー


聖なる交流は、師からの贈り物

私たちの最愛の師が御入滅されました。こんな時、一体ブログに何を書けばいいというのか。
でも・・・こんな時だからこそ、いつも通りにしないとです。だから今回もいつも通りに、毎回、自分が立ち返って確認すること“タイトルに沿う”に従って、進めたいと思います。このブログのタイトルは『ヨーガを生きる』。サブタイトルは、『ヨーギーたちのダイアリー』です。

*  *  *

お別れのセレモニーの日、日本各地、世界から弟子たちが集まりました。お別れをした後、私は、ヨーガを志しておられる台湾のご夫婦とお会いすることになっていました。ただ、言語のこととデリケートな心境の時に交流するに相応しいお店の雰囲気に心配がありました。
しかし、師の恩寵の下、皆の優しさによって、すぐさま心配は消えていきました。先輩の家で、ニューヨーク、台湾の仲間とみんなで交流することができたからです。皆が辛い心境ではありましたが、お互いがお互いのことを思い合い、それは本当に尊く、美しい時間でした。

書ききれないほど印象的な事がありましたが、今回は台湾の仲間たちに焦点を絞りたいと思います。
その場には、夫婦三組が居合わせていました。新婚夫婦のご主人は、初めて日本のヨーガ仲間と交流されたそうですが、皆の辛さを吹き飛ばすような快活さで、ヨーガへの真剣なピュアな思いを話されました。また、皆のために絶えず通訳までしてくださり、彼の存在そのものと、その素晴らしい献身のおかげで、私たちは大変救われました。印象的だったお話があります。ヨーガを真摯に学びヨーガを生きておられる奥さんは、既に何度か日本に来られていますが、毎回ヨーガの拠点以外のどこにも観光へも行かず、ヨーガを学ぶためだけに日本に滞在されていたそうです。それを知っていたご主人は、本当にそのような滞在の仕方で満たされているのか?と不思議に感じていたそうです。

また、もう一組のご夫婦は、お仕事上ではパートナー、ヨーガでは同志、家では夫婦、という、つまり四六時中一緒におられ、ヨーガへの思いが真剣なあまり、時には衝突などもあると正直に仰いました。それが特に顕著だったのは台湾で開催されたヨーガの展覧会を作り上げる過程だったそうです。いかに真のヨーガを空間に表現するか?という点において、夫婦で幾度も諦めずに話し合いを重ねられたといいます。私はそれを聞き、尊敬しました。はっきりいってその状況は逃げ場がどこにもない。すべての行動を共にしなければならないなかで、衝突が起こっても、そこから逃げずに、ヨーガ的に真剣に真正面から話し合い、その問題をなかったことにはしないと仰っていたからです。ヨーガの教えに沿って自分を隙なく律して、夫婦ともに真摯にヨーガの教えを生きていく、その強い忍耐の精神力と覚悟が伝わってきて圧倒されました。近しい人や家族にはエゴが出やすいと思いますが、そんななかで師の教え、ヨーガを生きて、切磋琢磨されていることを強く感じ、とてもかっこいいと思いました。

その交流の場には、台湾、アメリカ、日本、の三か国語が飛び交っていましたが、全員一致で分かる共通言語がありませんでした。また、言語の通訳はできても、ヨーガを学んでいる年数の違いや教えや言葉の理解度も違います。だから全員でフォローしあいながら、人から人へ時間をかけて丁寧に伝えていくことでしか交流が成立しませんでした。みんなが平等に理解できているか?その一点に神経が集中されていき、一つの熱い塊のようなものの中にいた気が私はします。

台湾でいつも通訳を担っておられる女性は、全体の話を把握されつつも、全てを自分一人では通訳してしまわないで、他の皆にも通訳する機会を分かち合うようにして、見事な調和を保たれていました。時に、彼女が目を真っ赤にしながらも感情を制御して通訳に献身される姿には、なんて優しいんだろう・・・と強烈に胸を打たれました。台湾の仲間の自然な助け合いと、素晴らしい分担に感動しました。相手に応じて、ヨーガの教えや言葉を、瞬時に分かるよう訳し伝えることは簡単なことではありません。何語であっても、聞き、要約し、それを相手に伝える、という作業は、本質を掴んでいないと出来ないと思います。言葉を超えて、彼らの行為から伝わってくるものがたくさんありました。

そして、その陰では、交流を断念して他者のためのご飯作りに専念してくれる人、みんなが交流できるように場を調えて一人で洗い物をしてくれる人もいます。通訳に徹してくれる人、インスパイアに満ちた話をしてくれる人、質問をしてくれる人、相手の話を真摯に聞いてくれる人、静かにお茶を淹れてくれる人・・・皆一人ずつに完璧な役割があるように思えました。すべてが他者のために存在しているようでした。その中の誰か一人でもが欠けていたら、どう考えても物理的に、聖なる交流ができませんでした。師はいつでも私たちを、一人も残さず全員を活かされていると感じました。

その場には、生前の師と会ったことのない人、師から教えのお言葉を直に聞いたことのない人もいて、彼らに、どうしても今、師の教えを、師の尊い行為をそのまま伝えたいとみんなが思って、悲しんでばかりなんていられない状況が与えられていました。師であるヨギさんの教えを分かち合いたい。そうするためには一人では無理で、お互いがお互いのことを思い合わないと出来ない状況でした。これから一体どうしていったらいいのか?その答えがその交流そのものに思えて仕方ありませんでした。

それは、まさに『ヨーガの福音』と『マハーヨーギーの真理のことば』にも載っている師の教えでした。どうしていくか?それは自分たち次第でいくらでも変わる、とその時学びました。

ある人が黄泉の国を見た時のお話です。
一つの館では、大勢の人間が食卓を囲んで、食事をしていて、よく見ると彼らの片腕は椅子の肘掛けに結わえ付けられていて、もう一方の手には長い柄のスプーンがくくり付けられていた。

彼らは目の前のご馳走を食べようとするが、口に運べず、頭に被(かぶ)るやら床に落とすやらで、苛立ち怒りだし、とうとう喧嘩を始める。彼は、これは地獄だと思って次の館に入った。
ここでも多くの人間たちが片手を椅子に、片手に長いスプーンをくくり付けられて食事をするところだった。すると彼らは長いスプーンで相手の口に食べ物を運び、貰った者はお返しをする、という具合で皆満足気に喜んでいた。彼は、ここは天国だと思った。

そう、天国と地獄は人の心の中にあります。あなたが「私」と「私のもの」を突っ張ればそこは地獄になり、「あなた」と「あなたのもの」に自らを捧げるなら天国になるのです。心は迷いやすく間違いを犯すかもしれないが、自らの苦しみを避けるためには他者を苦しめてはならない。自らの幸いを招くためには他者の喜びに奉仕することです。それは愛です。

 その日の交流では、夫婦というキーワードもありましたが、お互いがお互いのことを思えば、そこは天国になる、自分のことを思えば地獄になる、このお話の通りだと実感しました。その時間、師の教えを平等に分かち合うことができたのは、みんながみんなのことを考えて自然に動いていたからでした。誰一人として、自分が自分がという人はそこにいません。尊い師の存在と全く同じである他者のことを考えていた。自分が苦しい時や辛い時にこそ相手を思いやる、そのことを師は私たちに教え、与え続けてくださっている。また、その教えに徹するならば、自分にもできる役割はいくらでもあるのだと教えられました。

優れた能力や技術も何もないけれど人の役に立ちたいと師にお伝えした昔、師はこのように仰いました。

人にはそれぞれの役割がある、そこに優劣はないし同等。ただ役割が違うだけ。だから、やることは心を込めてやっていくということ、それでいい。
何をやるかが重要ではなくて、今やっていることに真心を込めること、たとえ間違えたり失敗したりしても、それでも誠実に純粋にしていく努力を諦めないこと。そこに意識を向け続けることで、いつも事がスムーズに転換します、師の恩寵によって。それを皆の姿から改めて学んだ時間でした。

皆で交流して、新婚夫婦のご主人が最後に言われました。
「彼女がどうして日本に行っても全く観光もせず、それでも十分に心が満たされて帰ってきていたのかが今、よく分かりました!!
私ももう十分に満たされている。もう足りないものがない!!!」

みんなのお弁当を買いにヨーガ・ヴィハーラの前を自転車で通ると、青空の下、師の描かれた看板が生き生きと輝いていました。師が楽しそうに扉にサハスラーラを描かれていた姿を思い出しました!

ジャイ!サットグル!シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ!キ・ジャイ!!!
グルデーヴァ!!!

ナリニー  


ヨギさん、
ヨギさんという方に出会って、私は真実の愛というものがあることを知りました。そしてその愛を、与えて与えて与えて……なんの見返りを求めることなく、純粋に愛し与えられたのがヨギさんでした。
私がアーシュラマに通い始めた頃、ヨギさんの下に集まっていたお弟子さんたちは、まだ数えることができるほどの少人数でしたが、「生きることに真剣に向き合う人たち」であり、私はその姿勢に強く憧れました。そしてその気持ちを引き出してくださったのはヨギさんに他なりません。

5月18日、ヨギさんは私たちの前からお姿をお隠しになられました。その時は突然やってきて、そして過ぎ去りました。

私は、ヨーガをする前からデザインの仕事をしていたこともあって、ミッションのデザインワークスを通してヨギさんから多くの教えをいただきました。それは一度では語りきれません。

でも、今日はその一つであるミニアチュールを描いてきたことについてお話ししてみたいと思います。

ヨギさんからインドのミニアチュール(細密画)のことを教えていただいて『パラマハンサ』の表紙絵を描くようにと勧めていただいてから、これまで50枚以上の絵を描いてきました。
もともとの性質が繊細さにかける私だったから、この絵を描く時だけは、自分は丁寧で繊細な人であると意識を変えて集中し、ヨギさんが大好きだとおっしゃるカングラ派の美しいミニアチュールに近づくようにと願ってきました。

ヨギさんを描く時は、ヨギさんのお姿を思い浮かべ、それは形というよりは空気感というか、ヨギさんの存在を感じるという方が近いと思いますが、そうしてヨギさんに近づき、ヨギさんで心をいっぱいにして描くことで、ようやく、ほんの、ほんの少しヨギさんという方を小さな絵の中に表すことができたのかなと思います。特にヨギさんのお顔や瞳に筆を入れる時には、ヨギさんの愛溢れる、深い眼差しをごく傍で感じ、息を詰めて描きました。しかし一度で納得がいくことはまれであり、毎回、何度も描き直しました。ヨギさんの瞳は、その絵の中心であり、もっとも重要な部分だったからです。

こうして描き終えたミニアチュールは、サットサンガで『パラマハンサ』とともにヨギさんに捧げさせていただきましたが、気に入っていただけるだろうかと、私は毎回ドキドキしながら絵をお渡ししてきたことを思い出します。ヨギさんはそれを、大切なものを扱うかのように優しく手に取られ、慈しむように、じっとご覧になるのが常でした。そして、「いい絵だ」とヨギさんがおっしゃったその時、この絵は完成を迎えるのです。そしてその時、この絵は私が描いたという思いすらも残さず、私の手から離れていくのでした。

 

『Paramahamsa』No.18の表紙

いつも心を真理
あるいは神だけで満たすようにしなさい
Sri Mahayogi Paramahamsa

 

『プラナヴァ・サーラ』の表紙ーー絵を散りばめたデザインはヨギさんのアイデアです

ヨギさんが、yogiのサインと落款とともにTシャツのデザインをしてくださいました 

 

ヨギさんはこれまでずっと、言葉、行為、生き様を通して私たちを真理の道へと導かれてきました。
「こうあらねばならない」というような型にはめるようなことは一切おっしゃらず、おおらかに、ただ私たちの良いところが伸びていくようにと導いてくださっていることを感じてきました。
その方法は弟子一人一人、様々で、まさに対機説法。その根底には愛のみがあり、その祝福は私たちを永遠に導いてくださる、私はそう信じています。

シャチー


京都・大阪 瞑想入門4回コースのお知らせ

皆さま、こんにちは。
ゴーパーラです。
私が講師を務めさせていただく「瞑想入門  4回コース」が京都(5/13)・大阪(5/18)でスタートします‼️(詳しくはこちらから⇨瞑想入門

昨今、たくさんの瞑想が紹介されていますが、どれが正しい瞑想なのか分からないほど多く出回っていて、混乱しますよね。。
私は瞑想をして15年ほどになるのですが、正しい瞑想のポイントとして「目的と基礎がしっかりとしていること」、それが挙げられると思っています。

例えば、○○大学に入りたいとなったら、その大学に受かるためにがんばって勉強すると思いますし、まずはその目標・目的を定めることが大事なことになってきますよね。
また、どの大学を目指すにしても、いちばん始めにするべきことは、基礎を学ぶことだと思います。
基礎が身に付いていれば、それがベースとなって、勉強をさらに促進させてくれるはずです。

この瞑想入門コースでは、瞑想の「目的」「基礎」をしっかりと学べるプログラムになっています。
瞑想の王道の教え「ラージャ・ヨーガ」を指針に、正しい座り方や呼吸法、ひいては日常の心構えについても学び、目標に向かって実践していきます。
瞑想で実現したい目標は人それぞれかもしれませんーー集中力をつけたい、心穏やかになりたい、また真実を悟りたいなどさまざまかと思いますが、王道に則って瞑想をすれば、それらは実現できます!

瞑想に興味がある、やっていきたい、深めたいという方、誰もに必要な基礎が学べ、無理なく始められるプログラムになっております。
ぜひご参加いただけたらと思います😇🙏

ゴーパーラ