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木陰の下で〜グルとサンガ〜

私は介護の仕事で車椅子の方と外出する時、休憩する小さな公園があります。暑くなり始めた先週、その公園の蔦が絡まる木陰のベンチに座ると、その場所がとても涼しく、一瞬にして癒されました。その瞬間、野口美香さんのブログで「木陰は涼しい」と書かれていたのが思い出されました。隣の車椅子の方もその涼しさに癒されたのか、笑顔で嬉しそうでした🍀


さて、そんな5月の終わり、名古屋近郊からはるばる京都のアーサナ・瞑想クラスに一人の女性の方(以下:Yさん)が見学に来られました。Yさんは私たちのブログ『ヨーガを生きる』を1年半ほどずっと読んでくださっていたようで、なんと2週間前、まだ会ったことのない私たちにブログ内でコメントを寄せてくれたのです!それがきっかけとなり、「ぜひ、お会いしてお話しましょう!!!」ということになり、コメントをくださってから1週間後、すごいスピードで交流が実現しました。
クラスの見学も含め、その前後でもたくさんのお話ができ、とっても楽しく素晴らしいひとときでした!!!

5/28(土)京都アスニーのアーサナ・瞑想クラス

Yさんはインドにグルがおられ、その教えを日本で毎日欠かすことなく一人で実践されています。
1年半ほど前にYさんは、私たちの師シュリー・マハーヨーギーのYouTubeを見つけ、そこで紹介されている教え「ヨーガの瞑想は、一生涯のその結果に留まらず、何百、何千生涯を通過するぐらいの威力をもってなされなければならない」に触れてとても感じるところがあり、それがきっかけで私たちのブログを読み始めたそうです。【師のYouTubeはこちら💁‍♂️『サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ:現代に生きる真正のヨーギー』】彼女はグルも仲間もいない日本でたった一人で実践し続けることが本当に苦しかったそうですが、ブログを通して、自分と同じようにグルへの思いをもったマハーヨーギー・ミッションの修行者の存在やその情熱に励まされながら実践を続けていたと話してくださいました。

今回の交流中、1秒たりとも真理・神以外の話をされなかったYさん。そんな大変熱心で信仰心の厚い彼女と交流して、私たちもとてもインスパイアされました!!!そして、グル(師)とサンガ(仲間)が修行者にとってどれだけ大きくかけがけのない存在なのか、改めてその有り難さを教えていただいたように思いました。本当にグルとサンガは、この世界における木陰のような避難所です!!!


私自身、木陰の一枚の葉っぱになれるようにと願い、これからその木陰の下に多くの人が集い、休足し、語らい、そして遊び戯れることを心から願った今回のYさんとの出会いでした。
Yさん、この度はご縁をいただき、たくさんのお話ができたこと、本当にありがとうございました🙏🙏🙏ぜひぜひ、また京都にいらしてください!!!一同、心よりお待ちしております😇

ゴーパーラ


一切万物として顕現しているのだ!!

歓喜の祝祭から数日後の余韻の中、バクティ・サンガムの今期のクラスが先日、最終回を迎えました。祝祭会場でもあったプレーマ・アーシュラマから、講師のお二人がいつものように柔和な笑顔で爽やかにクラスを進められます。後ろに見える祭壇には祝祭で献上されたばかりのアーラティーの灯明のランプとお花とマーラーが掲げられ、師がお座りになっていたお姿を彷彿とさせます・・・いや、その日はそこに、師がおられるように感じたバクティ・サンガムだったのです。

少し時間が遡りますが、私は2004年の師の御聖誕祭の練習の時、キールタンに初めて出会い、インドの讃美歌みたいなものかな~と、うっとりしました。それからは毎年ヨーガ・ヴィハーラに皆で集まってキールタンの練習をする機会も多く、それは楽しい時間でした。みんな真剣そのもので、音程やリズムはもちろん、とても細かいところまで・・・ある意味、子供の頃入団していた少年合唱団よりもこれはスパルタな特訓・・・と実は私は感じていました。そのキールタンの練習の時「目を開けたほうがいい」とよく言われました。キールタンは神へ向けての愛の歌で感情が内に向くせいか、つい目を閉じて歌いたくなります。ですが、当時は御聖誕祭で師へお捧げすることが目的であったり、また外向けのイベントでは観客がいらっしゃることもあったので、自分の内にこもったり感情に浸るのではなく、皆との調和や息を合わせることも大切で、そのためには練習の時から常に目を開け、感じて歌うことに慣れた方がいい、というアドバイスを受けた記憶があります。
本番で最高のものを献上するためには、練習も一回一回ベストを尽くし、まず基本的なことや技術的な面を磨くのは当然で、時には専門的な先生?のような方から発声指導を皆で受けたり・・・とにかく地道な修練に、みんなの凄い熱情を感じていました。毎日の自主練も欠かせませんでした。キールタン練習のことは、今の私の物事への取り組み方の基盤にもなっています。

それで、当時は目を開けるようにしましたが、練習の時は視線のやり場に困る思いもありました。目を閉じた方が、師、神だけと繋がって歌える気持ちがあったからでした。つまり、目を開けて、目で世界を見ていると神を感じられない、と当時の私は思っていたのです。
ちなみに、今のバクティ・サンガムのクラスでは、目を開けても閉じても特に注意を受けることはなく、それぞれの思いのままにさせていただけます(笑)しかもオンラインクラスでは、自分の声は他の人には聞えないので(ミュート設定)音を外したり間違えても恥ずかしくないし人に迷惑も掛かりません(笑)

私は、最近は目を閉じたり開けたり自然に任せていましたが、最終回では、みんなの顔も見たいから今日は目を閉じないゾと決意しました。ただ最終回は、初めての曲で歌詞を見ないとならないから、みんなの顔を見る余裕もないかも?と少し心配しつつ。そして、歌い出しました。すると実は以前に歌った曲で、当時のみんなの歌声がありありと蘇り、その歌声と今がシンクロし、歌が歌を導きました。カーリーやマーという母なる神の御名を讃える詩です。以前も今も、ずーっとみんなでこの歌を途切れることなく歌い続けてきたような至福感に包まれ、気付くとまた目を閉じて歌っていました。その時、ふいに『ラーマクリシュナの福音』で読んだラーマクリシュナからのお言葉が響きました。
目をとじて思うときだけ神がいらっしゃるのだろうか。目をあけて見まわしたときにも、彼はいらっしゃるのではないだろうか
私は目を開けました。パッと咲いたお花のような美しい表情をした、みんなのキラキラした姿。小さな子供みたいに元気いっぱい、ありったけの思いで歓び歌うみんなの生き生きした姿がそこにありました。ここ数ヶ月、思い続けて、封じ込めてきたマーへの自分なりの思いがそこに燦燦と溢れ出し、みんなの顔、みんながそれに見えて、目を開けても閉じても、見えても見えなくても、歌が聞こえても聞こえなくても、やっぱりそこに、ここに・・・と思いました。目を開けて、みんなを見ていると、師のお言葉が波のように、何度も何度も押し寄せました「一なるものが、一切万物として顕現しているのだ」。

至高の真実は名も無く形も無く、ただ存在である。
それだけが真実在であり、真我であり、神と呼ぶものである。
その一なるものが一切万物として顕現しているのだ。
不二の寂静の中、歓喜に遊び戯れなさい
――シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサのお言葉

チューリップ、菜の花、桜

春爛漫

 

 野口美香 


神への明け渡し ––マハリシの教え––

私たちには思いや悩みが尽きないものです。欲しいものがなかなか手に入らなかったり、駄目だと思ってもついやってしまったり、大事な時にオロオロして何もできなかったり、沢山の事で思い悩むものです。それについてバガヴァーン・ラマナ・マハリシはこう言います。

『神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
我々は列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい』
 

ーー『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』より引用ーー

そうです、自分の小さな思いを神に渡して、神の言うことに従えば楽になるのです。なんて簡単なことでしょう!

バガヴァーンは自我を無くすために『私は誰か?』という真我探求を説いたことで有名です。しかしそれはなかなか険しい道なので、彼は多くの信者には探求よりも容易な神への明け渡しを勧めました。しかしこの道も非常に困難な道であるのは確かです。なぜなら頭に載せた荷物のうち少しは降ろせるでしょう、しかし全ての荷物を降ろすとなると、自分の思いの全てを神に委ねるということになるのですから、自分では好き嫌いも、都合の良い悪いも言えなくなるからです。それが全て自然にできるようになって初めて明け渡せた、となるのです。といっても、バガヴァーンは一足飛びにそうしなさいと言っている訳ではありません。彼はその準備として神への瞑想、ジャパ、神の賛歌を歌うなど、神に帰依することなどを信者に勧めました。

彼が住んでいるアルナーチャラ山はプラダクシナという巡礼をするための山でした。巡礼のために人々は山の麓(13.5km)を神の賛歌を歌ったりジャパを唱えたりしながらゆっくりと歩くのだそうです。バガヴァーンはこれをよく信者に勧めました。そしてさらに彼はこう言います。プラダクシナをしているうちに、

『身体は疲れ、感覚器官は力を失い、すべての活力は内面に吸収されます。こうして自己を忘れることが可能となり、瞑想状態に入っていくのです』  

  ーーラマナアシュラム HPより引用ーー

長距離を歩くのですから何度もジャパなどを繰り返すことが必要で、それが自動的にできるくらいやることが大事なのだと思います。さらに大事なことは、本当のサーダナができるのは、体と心がフラフラになってからなのだということです。与えられたサーダナをやり続けること、そしてやってくるタパスを受け入れること。それをやり続けていけば神に本当に帰依することができるはずです、そうすれば神への明け渡せる日は近くなっていることでしょう。

早く頭に載せた荷物を降ろして本当に安心したいものです。

グルダース


悟りを頭で難しく考えない

沈丁花

沈丁花。ふわりと届く春の香り

3月21日は春分の日ですね。昼と夜の長さがほぼ同じになり大気のプラーナ(気)が整い、私たちもその恩恵を受けヨーガの修練も行ないやすくなるといいます。また、春分の日は、自然を称え、生物を慈しむ日だそうです。
電信柱の上にある雀の巣に、代替わりした新しい雀たちがやってきたようで、朝からチュンチュンチュンチュン・・・と可愛らしい声が聞こえてきます。私がよく通る道にはたくさんの街路樹があり、中でも多いのが桜の木。枝先の花芽が日に日に膨らんでくる様子がよく見えます。

バス停までの道すがら、その桜の枝を見て、もうすぐ春だなぁ~とホッとして嬉しくてスキップぎみで歩いていました。すると、やけにきれいさっぱりと明るい場所があり、あれ?こんなんやったかな?と立ち止まりました。下に目を落とすと、地面ギリギリに大きな切り株が幾つか残されていて、大きな木々がすべて伐採されたことに気がつきました。
でも木は、そんな姿になっても、じっと沈黙を守っているように見えました。この世界に次々と出来事が起こっても、いつも木々が同じようにただ在ることに私は安心を感じてきました。季節が巡り、鳥が歌い、虫が蠢き、木は葉を付けたり落としたりしながらも静かに佇み、変化する中にあっても一定の同じで在る何か、たった一つの絶対的なものが続いているということを教えてくれます。それがどれほど尊いものか……。切り株を見ていると、幹が無くなっても、やっぱり木は、あなたは同じだ、と思えました。姿、形が無くなっても無くならない、ずっと在る、と木が無言で教えてくれた気がしました。子供たちや生き物にはどんぐりを、鳥たちや虫たちには住処を、また真夏の暑い日には木陰を提供し、時々そこで腰かけて休憩しているおばあさんもいました。一本の木の存在に、どれほど私たちは恩恵を受けてきただろう、ありがとう!と思いました。

そんなことを考えながらバス停に着き、乗車した市バスの窓から景色をボーっと眺めていると、一軒のお家の庭に、赤と白の見事な梅がぱぁ―っと咲き誇っているのが目に飛び込んできました。あまりにも元気いっぱいに咲く力強さに圧倒され、その生命の力に感動しました。次はお葬式をする会館があり、前には黒光りした長い霊柩車が停まっています。こんなうららかな春を予感させる日にも・・・当然ながら死も生も同じようにあると思いました。すると今度は、保育園のまだ2歳か3歳くらいの子供たちがぞろぞろと先生に連れられて、子供同士で手をつなぎ合いながら、おぼつかない歩き方でニコニコ「バチュ(バス)バチュ~」と無邪気に手を振ってきます。思わず満面の笑みになりました。そしてバスが終点の駅に到着すると、少し離れた所に総合病院の送迎車が来ていて、大勢のおじいさんおばあさんたちが、ぞろぞろと送迎車に乗り込んでいくのが見えました。バスの窓を通して、自然の営みという一つの映画でも見たような気分でした。

水仙

春風に可憐にゆれる水仙

バスを降り歩きながら、これが自然の様相なんだと思いました。季節は止まることなく進み、そして世界も変化し、生まれる命があって、成長する命の育みがあり、死にゆく命もある。すべてが神の顕れ。どれも本当に同じなんだなと思いました。

最近、悲惨な出来事を目にしてから、胸の奥で騒めきが静まらないことを自覚していました。でも、そうやって感情的になることで、それで私は正しい判断や何かより良いことができるのか?と歩きながら自分に問いました。感情が際立ってしまったら肝心なものを見失ってしまう、平常心でいられない時こそ平常心で、と自然の様相を通してなぜかその時、思いました。そして万物の背後にある見えざる存在を思い、そうだ木のように不動でありたいと思いました。

師から教えていただいたことがあります。
悟りとは不安や苦悩の無い安心。平安な満ち足りたムードが壊れないようにすれば、それが悟りとも言える。だから悟りを頭で難しく考えないように

常に安らぎにあり、常に同じである存在は他者にも安心を与えることができる。木のように。
いつか師が仰っていた、ヨーガとは真人間になることーー正直で、人に優しく、慈悲深く
それこそが悟りにある人の姿であり、私にとって単純に人間としての理想です。
私たちは人間として生まれました。だから、誰もが真の人間、真人間になれると思います。正直で、人に優しく、慈悲深く。

木蓮のつぼみ

春を待つ木蓮のつぼみ。触るとふっくらフワフワしていました。

 

 野口美香 


ヨーギーから伝わる人生の「虎の巻」

京都、長岡京ヨーガクラスの新年のスタートは、112日でした。
会場の神足ふれあい町家の風情ある大きな格子窓からは、天から降りそそぐ真っ白な雪がしんしんと舞い降りてくるのが見えていました。照明が落とされた和室からは、その雪景色が絵画のように浮かび上がっていました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

この日は、約150年前のインドに聖者スワミ・ヴィヴェーカーナンダがお生まれになった日であり、講師のマードゥリーさんがこの吉祥な日にクラスが行なわれることへ感謝の思いを話されました。

かつてヴィヴェーカーナンダが師の御仕事を担われて、インドの叡智を世界へ向けて伝えていかれた。その恩恵があって、今私たちが学んでいるヨーガがある。
それを聞き私は、このヨーガは実際に生きていた聖者が精魂込めて人へ伝えられたその結晶なのだと初めて意識し、それを今教わっている不思議さを思い、講師の方々、そして師に、感謝しました。

受講者たちはみんなとってもいい笑顔で、凍える外の寒さがまるで嘘のように、部屋の中は穏やかでアットホーム。あぁ、きっとヴィヴェーカーナンダも喜ばれている、彼の師であるラーマクリシュナの存在、そして私たちの師であるヨギさんの笑顔が自然と浮かび、白い雪は祝福の散華のように見え、胸の奥から込み上げるものがありました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

真っすぐ背筋が伸びたみんなの後ろ姿が凛としていました。アーサナを真剣に行なう清々しい姿がありました。
受講者同士でワイワイと会話をされるようなことはないですが、いつも自然で、さりげない気遣いと優しさをそれぞれに感じ、こういうのすごくいいなぁ~と私は行くたびに思います。みんなの背景は何も知りませんが、ただヨーガで繋がっている妙な安心感があります。それぞれの思いでヨーガを拠り所にされていることを感じ、ずっと続けて通われていることを尊敬します。クラス中に質問なども特にされていないようですが(私が知らないだけかもしれませんが)みんなどうしてこのヨーガを続けられているのかな~とふと思ったことがあります。一つのことを続けるのは、結構大変だからです。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

クラスの最後に今年の干支である虎にまつわるお話が紹介されました。
古代のヨーガ行者たちは、虎の皮を敷物にして瞑想をしていたそうです(ヨーガ行者は決して生き物を傷付けないので、自然死した虎の皮です)。百獣の王とも呼ばれる虎の上にヨーガ行者が座っている意味は、すべてを支配するという象徴的な意味もあるとか。ヨーギーは何ものにも執らわれない、自由を私は感じました。
また、虎は千里行って千里帰る、というように、一日で千里もの距離を走り戻るような威力があり、修行者をその背に乗せて、悟りの境地へ連れて行ってくれる乗り物でもある。そして「虎の巻」といえば、由来は秘伝が書かれたもの、奥義の秘伝書という意味合いを持つそうです。まさにこのヨーガも秘伝ですね、今年もヨーガの智慧、秘儀を一緒に学んでいきましょう、とマードゥリーさんは結ばれました。

私は、みんながヨーガを続けているのは、答えはヨーガが秘伝だから、と腑に落ちました。ヨーガはまさに私たちにとって生き方の秘伝書。秘伝は、それを知った者だけに分かるもの。これは体験した人にしか分からないものがあります。ちなみに私は、クラスへ行く行かないとでは全く違う!と最初の頃から毎回同じことを思います。今はオンラインでも様々なクラスがあるので、参加しやすいと思います。

虎にあやかって、今年も私たちが積極的にヨーガの道を全力疾走できますように。虎の背に乗せてもらえますように!

 

 野口美香 


ものごとの真正面

久しぶりに会えた7歳の姪っ子と、簡単なフラワーアレンジメントの会に参加しました。早くお花を触りたい姪っ子は、先生の説明に集中できないようでした。勝手にやろうとするので、私はヨーガの『お花を生ける会』で昔に先輩から教わったことを伝えました。

私 「お花にもお顔の正面があるねんて。私たちも正面からのいちばんいいお顔を見てほしいやん?お花がどの角度から見たら正面のいいお顔かを探してあげて、いいお顔が見えるように立ててあげよ」
姪っ子の顔は半分以上マスクに覆われていましたが、そこからのぞく濁りのない瞳は真剣そのものでした。
姪っ子 「わかった!」
そして直ぐさまお花を一本ずつクルクル回しだし、正面を探して、あっという間に生けてしまいました。子供は迷いがないようです(笑)。
私 「テーマとかあるの?」
姪っ子 「お花畑!」

無為自然な感じでお花も伸び伸びと嬉しそうです。作品として綺麗に見せたいという意図が全く無いからか、単純にただお花の正面探しだけに夢中だったからなのか?? 意図が無いほうがそのものが生きる、という真理を、姪っ子を通して教わった気がしました。そして、先輩からのヨーガの教えは、こんな小さな子にもバッチリ分かる真理なんだと感動しました。師が、「真理とは難しいものではなく、小学生にも分かるようなもので、またそうでなければそれはおかしいからね」と最初にお会いした時、教えてくださったことをふと思い出しました。

同じく先輩から料理の時、こう教わりました。
まな板で野菜を切っている時、ちょっと別のことを考えていたりすると手を切ることがあるでしょう。やっぱり正面から真っ直ぐ見ていないとね
何気ない言葉ですが、この真理の言葉を私はよく思います。

また、師がニューヨークミッションにご滞在中、そのお部屋を掃除する機会を昔いただきました。トゥリヤーナンダの本にも載っている「物を正しい場所に置く」ことについて意識しました。彼の師であるラーマクリシュナは、「どんな物でも、それのあるべき場所に置かなければいけないのだよ」と教えられたそうです。だから私は、師がその場所に置かれている物は必ず元あった場所に戻さなければ!とガチガチに気を張り、掃除をしました。
暖房器具の上に、観葉植物が置かれていました。掃除のためにその植物を移動させ、掃除した後、注意深く元あった位置に戻しました。しばらくして師が音もなくスッと立ち上がられ、植物をわずかに動かされました。しまった!!と思い、即座に師に謝りました。位置が少しズレていたと思いました。スラっとした佇まいの長身の師はこちらを振り返り、優しく葉っぱに触れられながら微笑まれて穏やかにおっしゃいました。
「ううん~、違うねん、植物に暖かい空気があたったらかわいそうだしねぇ~」

優しさに胸がギュッとなり、と同時にラーマクリシュナの教えの真意をも教わったようでした。植物は生き物。私は本質的な大切なところを見られていませんでした。師のあたたかい背中から学んだ忘れられない出来事です。

ものごとを真正面から見れたら、そのものを生かし、大切に扱うことができるのかもしれません。それは物をあるべきところに置くことにも繋がる気がします。子供のような曇りのないピュアな目で、素直に見たいものです。

今、自宅の観葉植物を見ていると、師が優しい手で植物をそっと動かされた印象が蘇ります。師や先輩のように、万物を大切に扱える人に憧れます。植物も人間もみんな同じだからです。

お花畑

畑の一角の小さなお花畑

 野口美香 


マハーヨーギー・ミッション ロングTシャツが到着!!

 10月23日、待ちに待ったマハーヨーギー・ミッションのロングTシャツが届きました。写真はアーサナクラスの後にグルバイと撮影したものです。皆笑顔で喜びに満ちあふれていますね。

撮影時のみ、マスクを外しています。

 この春夏と半袖Tシャツを着られた方も多いのではないでしょうか。私も師のヨギさんがデザインされた神聖なTシャツを着て、クラス、仕事、趣味の場など色々な所に出かけました。このTシャツを着る時はいつも心強い気持ちになりましたし、幸せな気持ちで一杯でした。
 ある夏の日、職場でオレンジ色のTシャツを着ていて、「いい色ですね。よく似合いますね」と声をかけて頂き、話に花が咲きました。出張に出かけた先のホテルで何気なくTシャツを壁にかけると、夕方その部屋はアーシュラムの雰囲気になりました。クラスで皆同じTシャツを着てアーサナをした時の一体感と集中感は、まるでヨギさんの直伝クラスに出ているようでした。このTシャツにより、色々な出来事が起こりますが、それらは皆ヨギさんの恩寵だったと後で気付きました。ヨギさんはいつも、気付かぬうちに私達の人生に喜びを届けて下さり、痕跡を残さず出て行かれます。真のヨーギーの働きはこのような目に見えないものなのかもしれません。
 私は研究を生業としており、そのメカニズムについて疑問を持つのがヴァーサナー(心の傾向・性質)となっています。なぜこのTシャツにはこのような効果があるのか。何か仕掛けがあるのではないかと思い、他のTシャツとも比較しながら、その性質を調べてみました。やはり胸の中心にあるアートマンのデザインに何かあるのではないかと思います。このシンボルを見ると胸の中に何かがグーっと入り込んで集中が高まる気がします。これをデザインされたヨギさんの大切なメッセージが込められているのではないかと思いました。

「本当の主人はその(心の)奥にあるアートマン、真実の自己、あるいは神なのです」
『ヨーガの福音』36ページ

という「アートマン/すべてはそれだけのために」の教えが自然と思い出されます。
 この冬も胸のアートマンを意識しながら、アーサナ・瞑想を頑張りたいと思います。ロングTシャツの周りでどんなことが起こるのか楽しみです。

島本廉


誰もが実践できるヨーガ2021を通して

自分が人生で一体何を求めているのか、どう生きたいのかを真剣に考えるということが、ヨーガをこの先も実践し続けていくためには大切なことだ、ということは分かっていましたが、確固たる答えを自分の内に見つけられずに探していました。

そんな時、誰もが実践できるヨーガ2021のオンラインクラスが始まりました。4月から9月までの半年間、サーナンダさんが日常の身近なテーマからヨーガの教えを一つ一つ分かりやすく説明してくださり、その教えを元に日々絶え間なく自分と向き合う、心を見つめて瞑想をするという実践をしていきました。初めは、心を見つめるということがどういうことか分からなくてうまくできませんでした。サーナンダさんに伺うと、「今まで心というものを知ろうとしてこなかったから、心自身は心がどういうものかを知らない。そういうものです。これからクラスでヨーガの教えを学び、学んだ教えを自分の心に当てはめて、じっと見つめていきながら心の働きを感じ取っていったらいいですよ」と優しく教えてくださり、自分の心がどう思っているのか、どういう反応をしているのかをじっと見つめる、ということに少しずつ慣れるようにしていきました。
そして、クラスの瞑想ではパソコンを付けたままで、クラスの仲間と一緒にそれぞれの部屋を暗くして行ないました。目を閉じると、まるでアーシュラマに来させていただいたような、ヨギさんがそこにいてくださるような感じがして、いつもより深く自分の中に潜ることができ、空間や時間を超えた歓びに包まれていました。サーナンダさんの講話を通して改めてヨギさんの存在の尊さや素晴らしさ、その意味を強く感じさせていただき、言葉では言い尽くせないほど感謝の気持ちでいっぱいになっていました。

 たくさんの学びがあったクラスが終わり、部屋でゆっくり過ごしていたある日、突然「永遠の実存がほしい!」「永遠のもの以外ほしくない」「永遠でないものなんて、もうたくさん!」と、とても強い叫びと衝動が自分の魂の奥底から湧き起こり、「ガタガタ」と積み上げていたブロックが壊れるような音がし、しばらくの間涙が溢れ出て止まらず、呆然としていました。その後は、安堵感と爽快感で満たされました。今もなお、自分が人生で求めているものは永遠の存在であり、その実現のためにヨーガを実践していくんだ、という確固たる思いが、自分の胸の中にあり続けています。

クラスでの実践のおかげで、自分が探していた答えに気付くことができました。これからもマハーヨーギー・ミッションのクラスに積極的に参加し、永遠の存在の実現に向けて実践を続けていきたいです。

大文字山の頂上からの景色です。
ヨーガの実践の先にある素敵な景色を楽しめるように日々実践していきます!

 

桜井晃己  桜井みき

 


夢の中でも消えないもの

穏やかな光の中で、木や花々たちが呼吸しやすそうに見えます。大気が安定するこの季節は人間の私たちも、その恩恵を受けることができるそうです。

空気がピタッと止まっているようなある日、つかみたいものなどないはずなのに、心が何かをつかもうとする動きをポッと感じました。
瞑想専科で「心は空白に耐えられないもの、常に何かをつかもうとする」と学んだのを思い出し、この世界の中にずっとつかめる永遠のものがあるか?改めて瞑想の中で考えました。どれにも永遠を感じられませんでした。その時、すべてに実体がなく夢の中にいるような不安定感を覚え、心もとない気分の方に気を取られました。そして、本当に夢から目覚めて「本当の自分」を知りたいのか?と自問し立ち止まりました。

すべては消えて変わっていくもの。本当に何が不滅の存在なのかもっと突き詰める。突き詰めが足りない。
いつか師に教えていただいたこと。

識別が上手くいかないまま、泣きつくように師を思い、数日が過ぎました。仕事ではミスばかりしましたが、妙なことにミスさえも実体がない変な感じで、その代わり師の導きや神の存在を身近に感じました。かと思うと、ふとした隙に神から離れているような気持ちになって感傷的になってしまったり、よく分からない不安定感の方にもやっぱり気を取られていました。

そんな頃『誰ヨガ』のオンラインサットサンガ(ヨーガの教えを問答形式で直接学べる真理の集いの場)があり、講師のサーナンダさんへ不安感のことをお尋ねできる機会に恵まれました。サーナンダさんは、「ヨーガは空っぽになること、その空白に耐えなければならない。諸行無常を感じても虚無の方へは行かず、そういう時こそ真実を命綱にもう一段超えていく。そこは必ず通る道」というふうに識別の大切さを教えてくださいました。居眠り運転して脇道に入りかけていたところ、ドスン!「そっちは進入禁止!」とサーナンダさんが立て看板を置いて方向を元に戻してくださったような瞬間でした。真実、神だけを見る、もっと求めよ、と喝を入れ鼓舞してくださったように思います。

数日後、ふと調べたい事があり、無作為に手に取った過去の『パラマハンサ』の冊子をパラっと開きました。調べたかった事は見つからず、そこには師のお言葉がありました。

本当の自分は「永遠の存在」です。絶対的に変化することもなく、壊れることもなく、無くなることもない「絶対の存在」――それが私たち各自の、万物の本質です。それ自身で満ち足りていますから、一切の不自由はないし、苦の影も寄りつかない。そこに至福の源泉があります。
この世の中に託している心の夢は見誤っているものだから、方向を変えて、内に向けることによって、自分の中に本来の壊れない不滅の幸せがある。本質が「不滅の存在」であり、「純粋な意識」であり、そして「至福」なんです。だからつい心は、この世界という変化する目の前に広がったところにも永遠の存在を見ようとしたり、そこに永遠の幸せを見いだそうと誤ってしまったのかもしれませんね。本質がそうなんです。本質は「リアリティ」として。

優しく力強い師の声が体中を駆け巡りました。ずーっとつかんでも消えないもの、その唯一のもの・・・。外からはリーンリンと清らかな秋の虫の声が響き、果てしなく高い空は水のように澄み渡っていました。手につかんでいたパラマハンサを、嬉しくて泣きながら抱きしめた日でした。

コスモス

柔らかな陽の光

 野口美香 

 


雨の日の贈り物

すごく嬉しい時、逃げたいくらいの苦しい時、どちらの時も、師の眼差しと共に、

  すべては神の思し召し

という教えが胸の中にやってきます。
つい最近、雨がしとしとと降る日もその教えがやってきました。喜びや苦しみという自分の思いにはまり込む一歩手前で、「私がどう思うかは関係ない、真理だけが絶対」と思いが切り替わり、目の前に真実の輝きだけが残ったように感じたことがありました。

考えたがる私の心ではなく真実を見つめよう、そう方向が定まりだしたのは、「繰り返し真理の教えについて聞いて、考えて、そして瞑想して」と師から教えていただいた、それに尽きます。
真理を拠り所とする中で気付いたことは、自分の存在に拘り過ぎているから苦しむ、ということでした。そして、24時間すべての時間が本当は「すべては神の思し召し」なのに、時にそう思えなくさせているのもまた「私」でした。

私の理想とする姿は『カルマ・ヨーガ』*の中にたくさん出てくるのですが、その理想に近づくためには、「私」という利己心が邪魔になってる、とある時、気付きたくないことに気付きました。だから本を通して、スワミ・ヴィヴェーカーナンダからの言葉が、とても胸に響いてくるのです。

もし皆さんが神を信じるなら、わがものと思っているすべてのものは実は彼(神)のものなのである、とお信じなさい。

われわれは自分の心に、この宇宙間に誰ひとり、自分に頼っている者はいない、一人の乞食も自分の施しをあてにしてはいない、一個の魂も自分の親切に頼ってはいない、一個の生物も自分の助けをあてにしてはいない、と言って聞かせなければなりません。すべてのものは、自然に助けられているのです。

人に何かを与えて何事も期待しないときには――その人が感謝することさえ期待しないときには――相手の忘恩が気にさわることもないでしょう。・・・皆さんはその人に、その人が受けるに値するものを与えただけなのです。その人自身のカルマが、その人にそれをもたらしたのです。あなたのカルマが、あなたをしてそれの運び手たらしめたのです。何であなたが、何かを与えたと言ってそれを誇る理由などがありますか。あなたは、金かその他の贈り物を運んだ運び手、世界はそれ自身のカルマによって、あなたにそれをさせることができたのです。あなたが世界に与えるものは、たいして立派なものではありません。

*スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著『カルマ・ヨーガ』より

やるべき行為に全力を尽くし、結果には何ら無頓着、それがヨーガだと師から学んできました。私の理想の姿はヨーガの中にあります。降りしきる雨の中にいると、この世界とは遮断され、今は神と私だけ、という気持ちになります。天から真っすぐに落ちてくる雨粒が、とても愛おしいと思えた日のことでした。

雨に濡れ、つややかな青もみじ

野口美香