聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

無知の中で百年生きるより、真理の中で一日生きる方がよい

八年前、私は師に同行させていただいたニューヨーク滞在の後半、「瞑想が深まらないのですが、どうしたらいいのでしょうか」と質問し、師は次のことを言われました。

「どう生きていきたいのか?」

先週のアーサナ・瞑想クラスで姉弟子のシャーンティマイーさんから「瞬間、瞬間を生きる」ということが話されました。
「アーサナを形づくる中、ポイント、ポイントを押さえ、呼吸を吐き切ることで、アーサナが完成へと導かれる。それをしっかりと意識してアーサナを行なうことが身口意(形・呼吸・意識)の一致になり、それが瞬間、瞬間を生きるということになる」

ニューヨークで師は「どう生きていきたいのか?」と言われる前、瞑想を深めるために、もう一つの教えをおっしゃっていたことを思い出しました。

「日常の身口意を一致させなさい」

十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日です。
「ラージャ・ヨーガの八支分とブッダの八正道は共通している」と師はおっしゃられ、それら一つ一つをニューヨーク滞在時に教えていただきましたが、あれから八年経ち、私は改めて師からいただいた教えの深遠さを感じさせられます。

今、私の思いは「真理に生きる」、それだけです。
しかし、未だ悟れていない。余計な思いや雑念、本能の制御ができていない。
本当の意味で真理に生きる、「無知の中で百年生きるより、真理の中で一日生きる方がよい」と言ったブッダのこの心境を切に願うのなら、もう一度改めて、基礎である八支分のヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)、八正道の正見・正思・正語・正業の教えの意味を考え、瞑想して心に刻み込み、日常の身口意を一致させていきたい。
そしてただ一つの的、アートマン(真我)だけを見て!!!

ゴーパーラ


もうすぐ師の御聖誕日!!!

最近ふとした時、親への感謝の気持ちが湧いてきました。
自分がこうして生きているのも親が一所懸命に育ててくれたからだと感じました。
それと同時に、次の師の言葉が蘇りました。

「最大の親孝行は、悟ることです」

言葉上では知っていた教えでしたが、本当はどういう意味なのか疑問に思い、師に尋ねてみました。
師は、次のようにおっしゃられました。

「それはブッダの生涯が物語っている。
ブッダは出家し、のちにブッダの親子は彼の弟子になっている。
親は誰もが子供の幸せを願っている。
親は親で人生の幸不幸を経験する中、悟りを実現したブッダに本当の幸せを感じたのだと思う」

私はこの言葉を聞いた瞬間、まるで師がブッダの生涯のすべてを見たかのようなリアリティを感じ、驚きました。
諸行無常や涅槃という仏教用語を使わずとも、聖なる存在として生きたブッダの息吹に触れたかのようでした。

師は知らないことや知りたいことは何でも教えてくれます。
私にとっては父のようであり、兄のようであり、また光り輝くスターのような憧れの存在です。
師と少しでも会ったり話したりするだけで、私の心は踊り、歓びに満たされます。

その師の御聖誕日がもうすぐです!!!

私は親から生まれ、親に育ててもらい、成長することができました。
大人になった今、師と出会い、師に身も心も改めて育てていただき、生かされていると感じます。
11月23日、私たちを本当の幸せに導いてくださる師の存在とその御聖誕に、最大の感謝を捧げたい。

ゴーパーラ


笑顔になりますように!

師がヨーガを教えてくださるようになって40年以上が経ち、その間、真理にそって生きていきたいと真剣に求める弟子が年々少しずつ増えてきました。住んでいる国、性別、年齢、職業とさまざまな弟子がいる中で、師に会いに京都に来るのが難しい弟子も大勢いますが、皆、それぞれの形でヨーガを深めています。
その中の一人、現在東京で暮らしている佐野さん。数年前までは大阪に住み、中央公会堂のクラスには毎週通い、クラスのムードメーカー的存在でもありました。

最近の佐野さんの近況をお聞きすることがあったので、ここに紹介させていただきます。

(東京に移ってから、仕事もお忙しく以前ほどクラスに通えていないとのことですが)
Q「佐野さんにとってヨーガとは何ですか?」
佐野さん「軸。何においても、はっきり正しいと言えるもの」

Q「何を拠り所としていますか?」
佐野さん「愛です。大阪クラスで『ヨーガを深めていくと、すべては愛につながる』と聞いてから、心の中で愛を連呼しています。

今でも、皆の前でヨーガの取り組みについてお話をさせてもらった際に、『ミッションのクラスは、ヨーガを通して愛を教えるクラス』と表現したことを思い出します。雑巾がけされた会議室に行くと、笑顔でシャチーさん、マーダヴィーさんが迎えてくれる。人知れず相手のためを思って行なうその行為こそが、あのクラスで学ぶべきものであったことを痛感しています。
今、私も会社に早朝に行き、皆が仕事がしやすくなるような環境づくりを行なうようにしています。それが私のヨーガです」

佐野さんは今までのご自分の失敗を学びに変え、自分にとっても周りの方にとってもより良くなるようにとヨーガを実践していることを話してくれました。

佐野さんが常に意識しているというマザーテレサの言葉を紹介します。

想いに気をつけなさい。
それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。
それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。
それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。
それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。
それはいつか運命になるから。

2カ月ほど前だったか、大阪の朝クラスに佐野さんの元同僚が来られました。彼女は、ヨーガを始めてから佐野さんが本当に変わったことが印象的だったそうで、何年も前のことなのにミッションの名前を覚えていて参加してくださったということでした。
佐野さんはその報告を聞いてとても嬉しかったそうです。そして自分の何が変わったのか考えてみたということでした。
「あの当時は、自分の主張が先にあったと思います。今は『(相手が)笑顔になりますように』が先になっていると思います。それによって、私も嬉しくなり、幸せを感じます」

私と佐野さんとは、クラス終了後の駅までの道のりを、よくご一緒し、ヨーガについて語り合ったものです。ヨーガの効果は日常に現れるといわれますが、佐野さんのヨーガは着実に彼の日常に浸透していることを感じ、私もとても嬉しかったです。


*大阪在住だった頃の佐野さん(白シャツ)。佐野さんのキールタン好きは私たちの間では有名で、今でも東京バクティ・サンガムでキールタンを熱唱しているとか・・・。

シャチー

 


ラーマクリシュナのうたわれたキールタン 

『ラーマクリシュナの福音』の中で、シュリー・ラーマクリシュナは、たくさんのキールタンを歌っておられます。そのキールタンは、私たちが普段うたっている神の御名を繰り返すという単純なものではなく、歌詞があるものです。メロディーは分かりませんが、歌詞の内容はとても美しく、私もうたってみたいなぁ・・・と思うものがたくさんあります。今回は、その中の一つを紹介します。

これはゴーピー(牧女)たちが、クリシュナ神への愛をうたった歌で、『ラーマクリシュナの福音』の中で何度か出てくるものです。

「私のクリシュナはまだ見つからない。おお、友よ
彼のいないわが家のなんと寂しいこと。
ああ、もしクリシュナが、
私の頭の髪でさえあったなら、

私は念入りにそれを編み、バクルの花で飾るのに。

私のクリシュナ髪のお下げを、
入念にととのえるでしょう。

クリシュナは黒く、私の髪も黒い、
黒と黒は一つになる。

ああ、もしクリシュナが、
私の鼻の飾り輪でさえあったなら、

彼はつねに私の鼻に下がり、
私の唇は彼にふれたでしょう。

    だが、そんなことはあり得ない。
ああ、なぜ私は、こんな愚かな夢を見る。

クリシュナが、私の鼻の飾り輪などになるものか。

ああ、もしクリシュナが、
私の腕の腕輪でさえあったなら、

彼はいつも私の手首にくっつき、
私は誇らしげに歩くでしょう。

腕輪をゆすって音をさせ、
これ見よがしに腕を振り、

クリシュナ腕輪を身につけて、
王様の道を歩くでしょう。」

恋をしたことがある人なら、誰でもわかると思いますが、愛する人とは片時も離れていたくなく、一緒にいたいものです。「ああ、彼が(彼女が)ここにこうしていてくれたなら…」という想像(妄想?)は誰でもするものです。そして「そんなことはあり得ない、なぜこんな愚かな夢を見る…」と言いながらも、また想像を始めてしまうところが、この歌の中でとてもリアルで、素朴で、なんとも言えない可愛さがあります。

これは、一見すると単なる人間の恋愛の様子がうたわれているようですが、本当は魂と神との関係を象徴的にうたったものです。魂(牧女)は神(クリシュナ神)に恋い焦がれ、一心に神を求め、常に一つになりたいと望んでいるのです。バクティの感情を表現する時には、日常の中の誰もが経験するような状況を、バクタの心境になぞらえてあるのものがたくさんあります。キールタンは、神への魂の叫びであり、神と魂を結ぶ愛の歌なのですね。


ラーマクリシュナの福音 〜グルの言葉への信仰〜

ダクシネシュワル寺院

ある日の午後、シュリー・ラーマクリシュナは、ダクシネシュワルの寺院境内の自室で、信者たちに信仰の話をしておられます。 

信仰だ!信仰だ!信仰だよ。ある時、あるグル(師)が弟子に言った。「ラーマだけがいっさいのものになっておられるのだ」と。イヌが来てその弟子のパンを食べ始めたら、彼はそのイヌに「おお、ラーマ、ちょっとお待ちなさい、バターをつけてあげましょう」と言ったそうだ。グルの言葉への彼の信仰はそれほどのものだったのだ。つまらぬ人びとは、信仰というものをまったくもたない。しじゅう疑ってばかりいる。
神への愛が唯一の大切なものだ。真の神の愛人は、何ひとつ恐れるものはない。何ひとつ悩むことはない。彼は、母なる神がいっさいをご存じなのを知っている。ネコはネズミを扱うのとはまったく別のやり方で自分の子は扱うだろう。

 グルの言葉への信仰というところを読んで、私はヨーガを始めたばかりの頃を思い出しました。「自分の心を変えたい。このままの自分ではいやだ」と思い、私はいろいろな本を読んでいましたが、その方法を教えてくれるものは一つもありませんでした。そうしてヨーガとヨーガの師に出会い、「ヨーガのアーサナ(ポーズ)によって呼吸を変えれば、心は変わります」という教えをいただき、本当に驚きました。「この心を変えることができるのなら真剣にヨーガをやっていこう」、そう決意し、私は仕事を辞め、師の下に引っ越してきたのでした。
しばらくしてから私は、毎日アーサナができること、ヨーガのクラスとサットサンガ(真実の集い)に必ず参加できるということを条件に、仕事を探し始めました。しかし、その条件に合うところはそうそう見つかりません。そうこうしていたある日、師は「仕事は見つかりましたか」と私に声をかけてくださったのです。「いいえ、なかなか見つかりません。でもヨーガのことだけ考えていたらいいんですよね」「その通りです」と師は大きく頷かれました。私は、もうすぐ仕事が見つかるのだなと思いました。すると本当にすぐに今の職場が見つかったのです。その時私はその職場は神様が与えてくださったものだと思いました。そして、この出来事を通して、グルの言葉への信仰を強く意識しました。
それから毎日アーサナをする中で、今度はクラスを担当したいという思いが湧いてきました。正しく伝えられるようになるためにも、アーサナをきっちりやっていこう、そう思い、ますますアーサナの修練に熱心になっていきました。それから何年かして、クラスをまかされるようになってきました。そんな時、友人からいいスタジオがあるからやってみないかと誘いを受けたのです。そのスタジオは朝の日の光が入る、サットヴァなスタジオでしたので、すっかり気に入りました。今、そこでもクラスを担当させていただいていますが、そこもまた神様が私に働くところを与えてくださったのだと思っているのです。

さて次の私の働くところはどこでしょうか?それもすべて母なる神がご存じなのでしょう。私は、グルの言葉への信仰を軸として、神様への信仰を少しずつ深めていっているのだということに気が付かされたのでした。

                                      ダルミニー


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


ラーマクリシュナの福音 〜ウシガエルのお話〜

この小さな部屋で不滅の言葉が語られたのです。

自室の小さい寝台の上に東を向いて座っておられるシュリー・ラーマクリシュナが、床に座っている信者たちに主ラーマの物語から教えられました。 

苦痛と快楽は肉体にはつきものだ。神を悟った人は、心も生命も、肉体も魂も神に捧げる。
ラーマとラクシュマナが沐浴をしようとパンパ湖に入った時、彼らは弓を地面に刺しておいた。ラクシュマナが自分の弓を引き抜くとその先が血で汚れているのに気が付いた。ラーマは彼に言った。「ごらん、弟よ。たぶん何か生き物を傷つけたのだろう」。ラクシュマナは地面を掘り、大きなウシガエルを見つけた。それは死にかけていた。
ラーマは悲しみにみちた声でカエルに言った。「どうして鳴かなかったのだ。私たちはお前を助けようとしたはずだ。お前はヘビにくわえられた時でも、元気に鳴くではないか」。するとカエルが言った。「おお、主よ。私はヘビに襲われたときには『おお、ラーマ、お助けください。おお、ラーマ、お助けください』と言って鳴きます。この度は、自分を殺そうとしていらっしゃるのがラーマであることを知りました、それで黙っておりました」。

私は以前、命を投げ出してでも悟りを得るということはどういうことなのかと師に質問をしたことがあります。師は「私たちの心が最も執着しているのが命です。その命を投げ出す、捧げるということは完全に心が開け放たれた状態、まったく執着のない状態を表しています」と教えてくださいました。
このウシガエルは何の執着もなく、完全にラーマ神のみを信じ、愛し、頼り切って生きていたのだと思いました。神に命を捧げると、自分のことをすっかり忘れ、すべてのすべてが神だけで充満してしまう、そして神以外の一切の思いが消え去ってしまうのだと思いました。

自分のすべてを神に捧げ、行為することができますように。

                                       ダルミニー 


バクティ・サンガム キールタン

Bhajamana Ma

Bhajamana Ma Ma Ma Ma   Bhajamana Ma Ma Ma Ma

Anandamayi Ma Ma    Anandamayi Ma Ma

Anandamayi Ma Ma   Anandarupa Ma Ma

 

6月から3ヶ月間バクティ・サンガムでは「Bhajamana Ma 」というキールタンを歌っています。Bhajamanaとは心から讃えよという意味、そしてMaはお母さん、母なる女神のこと、Anandamayi は至福に満ちている、Anandarupaは至福の姿をとられたという意味です。

「心よ!至福に満ちている母なる女神を讃えよ!!」

というキールタンですね。女神の優しさに包まれるようなメロディー、単純で覚えやすい歌詞、日常でもいつの間にか口ずさみ、その都度Maに思いを馳せることができます。

ところで、Maといえば、一番に思い出す聖者がいませんか?
Maへの信仰に全てを捧げた19世紀のインドの大聖者、シュリー・ラーマクリシュナです。

カーリー(女神、Ma)寺院の神職をしていたシュリー・ラーマクリシュナは毎日熱心に礼拝するうち、「生きているMaに会いたい!」という思いを募らせていきます。そしていつしか寝食を忘れ、狂ったように神を求め、ついにMaを見神するのです。

シュリー・ラーマクリシュナは生涯をかけて神を求め、愛することを教えられます。全身全霊でMaを求めた彼が、実際どのようにMaに祈っていたか、その言葉を弟子に教えておられる箇所を見つけましたのでご紹介します。

「私はいつも彼女(Ma)にこう祈った『おお母よ、おお至福に満ちたお方よ、私にお姿を見せてください。くださらなければ駄目です。おお低き者たちの主よ、おお、宇宙の主よ、私は決してあなたの宇宙の外にいるのではありません。私は知識を失っています。修行もできていません。信仰もありません。あなたはお慈悲をもって私にお姿を見せてくださらなければいけません』」

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、神はもっとも親しい身内だと言われます。子供が母親に泣きつくように心の底から泣いて神を求めたら、神がそっぽを向いておられるわけがないと教えられます。私はこのBhajaman Maを歌うとき、いつもこのシュリー・ラーマクリシュナの祈りの言葉と、神への態度を思い起こし、心でこう叫んでいます。

「私に純粋な信仰を授けてください。くださらなければ駄目です!!」

8月のバクティ・サンガムでもBhajamana Maや、他の女神のキールタンを歌いますので、ぜひぜひご参加ください! 大阪8月10日(金) 京都8月26日(日)になります!


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは

七月も半ばですね。七月にしては暑すぎるような気もします。七月は文月(ふづき、ふみづき)と呼びますが、由来は、七夕の詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからという説と、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もあるそうです。今年は暑い文月になりましたね。

さて、今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。

ある日曜日、シュリー・ラーマクリシュナは朝、カルカッタに近いカンクルガチの村の、彼が愛しておられる在家の弟子たちの一人、スレンドラの別荘にお着きになった。スレンドラがある祝祭に、彼と大勢の信者たちを招待したのである。部屋の床は敷物でおおわれ、その上に白布が敷かれていた。いくつかの長枕やクッションがあちこちに置いてあった。ラーマクリシュナが信者たちに向かってお話になっている。

ラーマクリシュナ「『私が』とか『私のもの』とかいう感情は無知からくる。人々はラーニ・ラシュマニがカーリ寺院を建立したと言うが、誰もそれは神の御わざであったとは言わない。誰もそれは神の思し召しによってつくられたとは言わないのだ。この『私が行為者である』という感情は無知である。反対に『おお神よ、あなたが行為者であられます。私はお道具にすぎません。あなたが運転者、私は機械なのです』という思いが知識である。知識を得ると、人は『おお神よ、なに一つ私のものはありません。これらは全部あなたのものです。妻も息子も家族も、私のものではありません。すべてあなたのものです』と言うようになるのだ。これらのものを自分のものと思って愛するのはマーヤーだ。しかしすべてのものを愛するのは、ダヤー、慈悲である。自分の家族だけを愛するのはマーヤーだ。自分の国の人々だけを愛するのはマーヤーだ。だがすべての国の人を、すべての宗教の信者を愛するのはダヤーである。そのような愛は神への愛から、つまりダヤーから生まれるのだ。マーヤーは人を巻き込み、神に対してはそっぽを向かせる。しかしダヤーによって、人は神を悟る。シュカデヴァやナーダラのような信者たちは、常にハートにダヤーを抱いていたのだ」

ダヤー、慈悲という言葉からは、ブッダの行為がすぐに頭に浮かびます。清貧に中に生き、生きとし生けるものすべてを、生涯をかけて救い続けたブッダ、その慈悲の行為を思い出すことができます。そしてシュリー・ラーマクリシュナは、すべてを神として愛する、神への愛、それはダヤーであると教えられています。

私たちの師もまた、こう説かれています。
「愛は、心が主人公の間は愛着として所有とか支配とかに基づいた、限定的で偏った愛の姿をしていますが、心が純化されて、純粋な意識というアートマンの普遍の意識に目覚めてくれば、その愛そのものが喜びに変わってくる。喜びというのはもちろんエゴがないから利己的な喜びではないし、普遍的な宇宙的な喜びという至福という姿に変わる。そして他者の喜びを見ることが愛の姿となっていく。それは元々、純粋な本質として私たちの中にあるから、無条件に出てくると思う。愛というのは、神そのものがこの万物に現われた原理そのもの、万物宇宙がお互い引きあい、あるいは離れあい、育んでいっている姿そのものも愛の基本。あのクリシュナとラーダーのストーリーでは、あまり慈悲という言葉は出てこない、むしろ愛という言葉が非常に多い。古い時代のブッダに遡る頃は、慈悲という言葉がさかんに使われたと思うんだけれども、よくよく見てみるとそれは非常に同質のもの。時代によって、あるいは時代の思想の影響によって多少言葉が違ってきているかもしれないけど、その本質においては同じようにみえる」

私たちの師もまた、神への愛、真実の愛と慈悲とは同じものだと教えてくださっています。師はその慈悲もまた私たちの中に、もうすでにあるのだと教えてくださいました。ヨーガは私たちの忘れている故郷に帰るようなもの、愛深くあれるよう、慈悲深くあれるよう、少しずつ実践しながら、その理想の姿を目指し、諦めず歩んでいくことで、この生を価値のあるものにしていくことができるのだと思いました。

ダルミニー

 


十二因縁(十二縁起)

師と過ごした台湾での夜、私は原因、原因を探求していくブッダの十二因縁の瞑想の必要性を感じた。(前回のブログ「集」はこちら
では、「十二因縁(十二縁起)」とは一体どういうものなのか?
それは、老いや死をはじめとする一切の苦しみが起こる原因のプロセスを、根本原因である無知にまで遡っている。

無明…真実を知らず、永遠・絶対でないものを永遠・絶対だと見なす根源的な無知。
…自我意識や執着を生み出す元となる、無意識のうちにある潜在的傾向、サンスカーラ。
…自我と他者を区別し、外界を認識する意識。
名色…名前と形という、区別・差別を生み出す微妙な要素。
六処…視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という5つの感覚機能と思いの働き。
…感覚や思いを通じた外界との接触。
…外界の対象を感じ取ること、感受。
…欲望の対象を渇望・渇愛すること。
…欲望の対象を取ろうと執着すること。
…カルマをもって輪廻する煩悩的存在。
…生まれること。
老死… 老いと死をはじめとする一切の苦しみ。

見慣れない仏教用語が並び、十二の意味を理解するだけでも難解に感じるが、この十二因縁を知的に理解している人は学者をはじめ、仏教者にも少なからずいるだろう。
ただ、どれだけの人が実際に十二因縁の瞑想を行ない、本当の意味を理解しているだろうか?
台湾での夜、師は「知的理解」と「体験的理解」の違いを次のようにおっしゃられた。

ゴーパーラ「十二因縁の公式を、心に当てはめながら見ていってもいいんですか」
ヨギ「それを単なる知的理解で終わらせてはいけない。自分の心を材料にして、自分の心はそれに対してどのような反応を示すか――自分の心がその十二因縁のリアルな体現者となったように順次、十二の原因を遡っていくというのかな」
ゴーパーラ「リアルな疑似体験というか、そういうように進めていく」
ヨギ「本当は疑似体験じゃない。自分の心を材料にするから、(強調されて)直接体験やで、これはほんまは。それを直接体験と思えるぐらい切迫した、心に切迫させていかないといけない。そうでないと知的理解という疑似体験に終わってしまう」
ゴーパーラ「それは言い聞かせのレベルとは全く違う」
ヨギ「言い聞かせじゃない。その原因をしっかり理解すること。単なる言い聞かせはいらない。(強調されて)しっかりと理解すること。それは心そのものが変わっていく。それが直接体験の効果というか結果というふうになっていくはず」

私は小さい頃からずっと執らわれている欲望があった。
台湾の夜から私は十二因縁について考えを巡らせていたのだが、瞑想中にその執らわれている欲望が湧き出てくることがあった。
するとその瞬間、名と形が形成され、そこに手が伸びてつかみにかかり、その対象を渇愛する心の動きが感じられた。
それは一瞬の出来事だった。
この十二因縁とは生死の輪廻という大きなスパンの構図だと理解していたが、一瞬の思いの中にも十二の要素すべてが詰まっているようにも感じられた。
私自身、今まで行なっていた識別瞑想では、欲望やその対象に対して、「それは永遠ではない、絶対ではない」というふうに真理をあてがっていた。
その効果として欲望への執着は薄らいでいたが、まだ完全に消えてはいなかった。
だが、この十二因縁の構図でもって欲望を分解していった時、何か咀嚼しやすい感覚があった。
それは、心の中で欲望の消化が促進されるような新たな実感であった。

そして台湾から帰国して約2週間後の4月7日、ブッダ御聖誕日の前日にサットサンガが開かれた。
私は実践した十二因縁の瞑想について師に確認した。
師は、「それは心が造り出す条件下の構造そのものを明らかにするという意味において、その十二個を辿っていくということは有意義」と言われた。
しかしながら師は、それよりも「もっと大事なことがある」と示されたのだった。
(続く)

ゴーパーラ


*老いや死のような一切の苦しみ(老死)は生まれたこと(生)に原因があり、生まれたことはカルマによって輪廻する煩悩的存在(有)に原因があり、その輪廻的存在はさまざまなものを取ろうと執着すること(取)に原因があり、執着は欲望の対象を渇望すること(愛)に原因があり、渇望は対象を感じ取ること(受)に原因があり、対象を感じ取ることは外部との接触(触)に原因があり、接触は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・思いの六つの感覚機能があること(六処)を原因とし、六つの感覚機能は名前と形(名色)という微妙な想念があるために起こり、名前と形は自分と他者を分けることで外界を認識する意識(識)を原因としながら、名前・形とその外界意識は相互に依存して成り立っている。また自他を区別して外に向かうその意識はサンスカーラという無意識の潜在的傾向(行)を原因とし、潜在的傾向は永遠でないものを永遠と見、自己でないものを自己と見る無知(無明)に原因する。これら十二の因果をまとめると以下のようになる。(原因<結果、で示す)
無明<行<識><名色<六処<触<受<愛<取<有<生<老死