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『あるヨギの自叙伝を読んで』(5)――ラム・ゴパール・ムズンダー

この人生の中で誰もが一度ならず、「謙虚になりたい」と感じたことがあると思います。
特に傲慢👺になったりして、鼻を折った時などは……
しかし、打撃を受けた時には謙虚でありたいと反省するも、また同じ過ちを繰り返すこともしばしば……
では、どうすれば謙虚であり続けることができるのでしょうか?
『あるヨギの自叙伝』で紹介されているラム・ゴパール・ムズンダー、通称「眠らぬ聖者」は、驚くほどの深い謙虚さを教えてくれます。

若き日のヨーガーナンダは、人里離れた洞窟で長年クリヤー・ヨーガを行じて魂の目覚めを得たラム・ゴパール・ムズンダーという聖者に会いにいきます。
その途中、タラケシュワのヒンドゥー教の崇拝を集めている寺院に詣でるも、ヨーガーナンダはその祭壇の丸い石に頭を下げる気持ちになれず、寺院を出ます。
その後ヨーガーナンダは一人の男に道を尋ねてラム・ゴパールの家を目指すも一向に辿り着くことができす、灼熱の太陽の下、2日かけてやっとラム・ゴパールに会うことができました。
しかし、会ったばかりのラム・ゴパールは唐突にこう言います。

「ところでお前は、神はどこにおられると思っているのだね?」
「そうですね……神は私の内にもおられますし、また、すべてのものの内にも宿っておられます」
「では、どうして昨日タラケシュワの寺院で、石のシンボルに宿る神にお前はひざまずかなかったのだ? その傲慢さに対する罰として、お前はあのいたずら者から間違った道を教えられたのだ。おかげで今日もずいぶん苦しい思いをしたはずだ」

この会話の後、ラム・ゴパールはヨーガーナンダを家に招き、二人は4時間瞑想し、夕食を共にします。
この聖者は、岩屋で20年間毎日18時間、洞窟で25年間毎日20時間ずつ瞑想していましたが、それをまだ「わずかな瞑想をしただけで、はたしてどれだけ神に歓ばれているだろうか疑問に思っているのだ」と言います。
ヨーガーナンダは思わず、「先生は、そんなにも長い瞑想をなさって、それでもまだ神の愛がしっかりと確かめられないとおっしゃるのですか? それでは我々のような凡人はいったいどうしたらよいのでしょう!」とびっくりして尋ねると、ラム・ゴパールは次のように答えました。

「若者よ、神は永遠無限のものではないか。その神を、わずか四十年や五十年の瞑想で完全に知ろうなどと望むことが、そもそも無理というものだ。しかしババジは、われわれが少しでも瞑想すれば、死と死後に対する深刻な恐怖から救われる、と保証してくださった。お前の霊的修行の目標を、無限の神との合一に置きなさい。途中の小さな山々には目をくれず、ひたすらこの最高の目標に向かって努力すれば、お前は必ずそれを達成することができる」

そして毛布の上に横になって眠りに就いたヨーガーナンダに、ラム・ゴパールは次のように話しかかけます。

「まだ眠らないのか?」
「先生、どうして眠れましょう? 目を閉じても開いても、まばゆい光が私を取り囲んでいるのです」

翌日、もう一度例の寺院に詣でて、その祭壇の丸い石にひれ伏したヨーガーナンダ――

今回このエピソードを読んで私は、自分と同じ名前が付いている聖者ラム・ゴパールから、神への不断の瞑想と礼拝、それこそが謙虚さを深め、謙虚であり続ける秘訣であると学ばせていただきました。

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは
今年はいつにも増して寒さが厳しいように思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
もう一月も終わりですね。一月は睦月といいますが、これはお正月に家族とか親類が集まり、睦み合う、親しくする、仲良するという意味で「睦み月」が「むつき」になったという謂われがあるそうです。なんともいい響きで優しい心持ちになりますね。

さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

冬であった。太陽は昇ったばかりで、河は上げ潮で北に流れていた。朝八時、シュリー・ラーマクリシュナとM(マヘンドラナート・グプタ)は境内北端の松林で話し合っていた。
ラーマクリシュナ「ナングターがトラとヤギの話をしてくれた。ある時、雌のトラがヤギの一群を襲った。漁師が遠くからそれを見て、彼女を撃ち殺した。トラは妊娠していて、いまわの際に子トラを産み落とした。子トラはヤギの仲間に入って成長した。最初は雌ヤギの乳を飲み、メエメエと鳴いた。徐々に子トラは大きなトラになったのだが、相変わらず草を食い、メエメエと鳴いていた。ある日、恐ろしいトラがこの群れを襲った。群れの中に、トラが一匹、草を食い、自分が近づくとヤギたちと一緒に逃げるのを見て驚いた。このトラは草を食べているトラを捕まえ、水辺まで引っ張っていき『さあ、水に映っている自分の顔を見てごらん。ね、お前も私と全く同じ丸いトラの顔をもっているだろう』と言った。次に、一片の肉をその口に押し込んだ、草を食ってきたトラは肉を食うことを拒んだが、やがてそれをうまいと思った。恐ろしいトラは『なんと恥ずかしいことだ、ヤギと一緒に草を食べていたとは』と言った。するとそのトラも本当にそれを恥ずかしいことだと思ったという。
草を食い、メエメエと鳴くというのは、『女と金』を楽しみ、普通の人間のように振る舞うということだ。新しいトラと共にそこを去るのは、自分の霊意識を目覚めさせてくれるグルと共に避難し、彼のみを我が身内と見るというのに似ている。自分の顔を正しく見るというのは、自分の真の自己を知ることである」

 シュリー・ラーマクリシュナの例え話はとても分かりやすいですね。ついつい話に引き込まれてしまいます。私たちは自分のことをこの身体や心だと思っています。ヤギだと思っているんですよね。でも、私たちはこの身体でも心でもない、その奥にある純粋な意識、絶対不滅の存在だと、師はいつも私たちを励まし、導いてくださっています。

心は常に動揺し、それによってまた心はかき乱されます。真理を学ぶことによって、真理への熱望によって心の波を静めてください。その状態が堅固に持続するなら、その時あなたは真実の自己に目が覚めるでしょう。
                                                            サット・グル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

真理を学び、ヤギではなく、トラとして一緒に生きていこうではありませんか。

ダルミニー


絹の糸

去年の御聖誕祭で頂いたプラサード(神のお下がり)は、ヨギさんの絹のお召しものから作られた、匂い袋でした。

その匂い袋を頂いた時、以前のサットサンガで「自分のハートと神の足首を絹糸で結びつけておく」というラーマクリシュナの教えについて、ヨギさんが答えられていたことを思い出し、それが書かれていたパラマハンサの記事を読み返していました。

『十九世紀においては、まだ化学繊維というものはありませんでした。天然の繊維としては綿の糸、麻の糸、絹糸、それから毛糸、このあたりが主要な糸で、これらによってさまざまな衣服や絨毯や繊維製品は作り出されていたのです。またロープとかそういうものも含めて。この中で最も強い糸は何かといえば、絹なのです。最も繊細で、最も上品で美しいにもかかわらず、その強度もまた絹が一番強い。(一部省略)最も尊い絹糸はいちばん細く繊細だけれども、その繊細な気持ちをもって、しっかりと結びつけておきなさい。そうすれば、絹糸は強いから切れることがない。けれども心が揺らぐようなことがあれば、それはすぐに伝わって神の足首を傷つけるようになるよという意味合いが含まれていると思う。』『機関誌パラマハンサNo,88号』より抜粋

大切な、大切な、ヨギさんの御足を傷つけてしまわないように。

どんな人に対しても、どんなものに対しても、神だけを見つめて繊細に、丁寧に、大切に思って行為したい、そう思いました。

まだまだ心は今までの習慣に引き込まれてしまうこともあるけれど、少しでも理想に近づけますように・・・・・・。時々ポケットの中に手を入れて、絹の感触を確かめています。

 


聖典を読む喜び 『ラーマクリシュナの福音』

先月のサットサンガで、『あるヨギの自叙伝』に感銘を受けたと嬉々として話しておられる方がいました。その方が言われ、印象に残ったのは「踊り出したくなるくらい」という言葉。その言葉を聞いて、私も以前聖典を読んでいた時に同じような気持ちになったことを思い出しました。私の求めているものが、ここにある!!!という強烈な喜びが溢れ、転げ回って喜んだり、大泣きしたり、色々したなーと思ったのです。そして、久しくそのような気持ちで聖典を読んでいないことに気がつき、彼女にあやかって、彼女が次に読むという『ラーマクリシュナの福音』という聖典を読みはじめました。

こちらがその聖典です。辞書のように厚く、大変に読み応えがあります。

この聖典は、シュリー・ラーマクリシュナ(1836年〜1886年)が晩年の5年間に弟子たち、信者たちに語った教えを、弟子の一人であるマヘンドラナート・グプタがテープレコーダーなどない時代に記憶を元に編集したものです。

聖典の中では、シュリー・ラーマクリシュナの部屋や信者の家で行われるサットサンガの質疑応答が綴られています。季節や風景の描写が美しく、質問者の背景や境遇も書かれているので、容易に当時の様子を感じることができます。読み進めると、まるでサットサンガに同席しているかのような気分になり、シュリー・ラーマクリシュナをとても身近に感じます。毎日読むことで、だんだんとその世界の中にいる時間が長くなります。シュリー・ラーマクリシュナはいつも、「神だけを求めなさい」と言われます。その重要性を繰り返し教えられるうちに、私の心はその思いだけで占められるようになりました。

ある日、『ラーマクリシュナの福音』を読んで瞑想に座ったとき、神を思い、こうして静かに座ることができる自分の人生がなんと恵まれ、幸福なことかという思いが押し寄せてきました。大変な幸福感に包まれた瞑想の中、突然一つの確信というか決意が浮かび上がりました「この人生で神を愛すること以外、望むものなど他にない!」雑多なものが一気に剥がれ落ち、とてもクリヤーな、そこには一つの確信だけがありました。

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、「神を恋い焦がれて泣き叫んでいたら母なる神が放っておくはずがない」と言われます。もっともっと激しく、狂おしい気持ちで神に祈り、神だけを求めていけるようになりたい、まだ半分ほど残っている聖典を、大切に、喜びを持って味わいながら読み進めようと思います。


スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 御聖誕日

1月12日は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの御聖誕日ですね。

「自らを信じることができなければ、神を信じることはできない」

これはヴィヴェーカーナンダの言葉です。
この言葉には、盲信や偏狭な宗教・宗派主義はありません。
自らを信じること、それだけです。

人は誰もが、戦争のない平和な世界を願っています。
しかしながら、現実はそうではありません。
人種、宗教間の差別や争いは、絶えず起こっています。
ヴィヴェーカーナンダは幼い頃、「タバコのパイプ」から、その矛盾を感じています。
法律家の父の事務所にはカースト別にタバコのパイプが用意され、イスラーム教徒用のパイプだけ離れたところにありました。
ヴィヴェーカーナンダはすべてのパイプを吸って、次のように父に言ったそうです。

「どこに違いがあるのか分かりません」

このようにヴィヴェーカーナンダのみならず、子供や青年の頃、誰もが感じるであろう世界の矛盾――
ただ、大人になるにつれ、それらは忘れ去られていくことがほとんどです。
しかしながら、ヴィヴェーカーナンダは29歳の時、次の言葉を述べています。

「世界が自分の後をついてくるまで、インドにはもう戻らない」

そしてアメリカに渡り、世界宗教会議で「真理はただ一つ」と宣言したのです。

世界の矛盾と真っ向から対決し、行動に移したヴィヴェーカーナンダ。
では、どうしてヴィヴェーカーナンダはそれができたのでしょうか?

大きな要因の一つはやはり、「自らを信じた」からだと感じます。
アメリカ行きを決める前、彼は2年間のインド遊行遍歴の末、旅の最終地カニャークマリで次の誓願を立てます。

「幾度生まれ変わろうとも、千の不幸に苦しもうとも、自らが信じる唯一の神、あらゆる魂、とりわけ邪悪なる我が神、苦悩する我が神、あらゆる民族の貧しき我が神を礼拝せんことを!」

そしてもう一つ、大きな要因だと感じることは――

ヴィヴェーカーナンダ聖誕150周年の2013年、私はベルルマトを訪れました。
一宗一派を超えて「真理はただ一つ」というヴィヴェーカーナンダの思いは、彼が設計をしたベルルマトに表現されていると感じました。
その外観は見る角度によってヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教、仏教の寺院に見ることができるように作られていました。
そしてその聖堂の中には、彼の最愛の師である「シュリー・ラーマクリシュナ」だけが、存在していたのでした。

ゴーパーラ


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
暮れも押し迫まってきましたね。今年一年、どのような年でしたか?
昨日よりも今日、今日よりも明日、日々、より良い自分でありたいものですね。
さて、今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の土曜日、シュリー・ラーマクリシュナはラームの家の階下の客間で信者たちに囲まれて話をしておられた。最愛の娘を亡くしたばかりのブラーミンの婦人が、その悲しみを癒せないものかと、北側のドアのそばに立って話を聞いている。

ラーマクリシュナ「先日、ここにある男がやってきた。数分間坐っていたが、やがて『我が子の「月の面輪」を見に、帰りとうございます」と言ったものだ。私は自分を抑えかねて『お前は神の「月の面輪」より息子の「月の面輪」が見たいのか!出ていけ、この馬鹿者』と言ってやった。
神のみが実在、他のすべてのものは非実在、というのが真理だ。人々も、宇宙も、家も、子供たちも、こういうものは全部、魔法使いの魔法のようなものだ。魔法使いは杖をたたいて『不思議、不思議、摩訶不思議!』と叫び、見物人に向かって『さぁ、この壺の蓋を取り、鳥どもが空中高く舞い上がるのをごろうじろ!』と言うだろう。だが魔法使いだけが本当にいるのであって、彼の魔法は実存しないものだ。実存しないものは一秒くらい存在して消えてしまう。
シヴァがカイラース(シヴァ神の聖なる住まい)に坐っていらっしゃった。従者のナンディがそばにいた。突然恐ろしい物音がした。ナンディが『尊いお方よ、これはどういうわけでございますか』と尋ねたら、シヴァが『ラーヴァナ(ラーマ神に成敗された魔王)が生まれたのだ。そのことを示す音だ』とおっしゃった。数秒の後にもう一つ、恐ろしい音が聞こえた。ナンディが『今度は何の音なのでございましょうか』と尋ねると、シヴァが微笑して、『今、ラーヴァナが死んだのだ』とおっしゃった。誕生も死も魔法のようなもの、魔法は一秒間ほど見えていて、そして消えるのだ。
神だけが実在であって他の一切のものは非実在だ。水だけが実在であって水中の泡は現れたり消えたりする。それらは自分たちが生まれてきたその水の中に消えていくのだ。神は海のようなもの、そして生き物はその中の泡だ。彼らはその中で生まれてその中で死んでいく。子供たちというのは、一つの大きな泡のまわりに立っているいくつかの小さな泡だ。神だけが実存だ。彼への愛を養うよう努め、彼を悟る方法を見出しなさい。悲しんでいても何も得られはしない」

私たちの師は、悟りとは夢から目覚めるようなものだと教えてくださっています。

誰でも眠りから目が覚めたとき、夢の中で一喜一憂していた自分を一笑に付すように、真実在に目覚めれば、現実と思っていた世界も夢幻と知るだろう。

                   サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

現実だと思っているこの夢のような世界で、私たちはああでもない、こうでもないと右往左往しています。人の生も死も宇宙から見れば、ほんの一瞬のことなのでしょうか。
私たちは生まれることも死ぬこともない、絶対不滅の存在、永遠に続く純粋な意識なのだと師から教わってから、死ぬことは不幸なことでも、恐れるものでもないということが分かり、安心したのでした。この生のある間に、神だけに、真実在だけに心を思い留めておくことができること、それこそがこの夢の世界においては、いちばん大切で幸せなことなのだと学んだのでした。
あぁ、早くこの夢から目覚めて、真実となれますように。

ダルミニー


サットサンガより ブッダの悟り

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

みなさん こんにちは
十二月になりましたね、十二月のことを「しわす」と言いますが、その意味と由来は定かではないそうです。十二月は年が果てる、年果つ、しはす、しわすになったという説もあるそうです。師も走る、師走といわれていますが、私たちの師はいつも泰然とされていますので、本当の意味はどうなのだろうと思ってしまいます。
さて前回のブログにもありましたが、十二月八日はブッダが悟りを啓かれた日でもあるというわけで、今回のサットサンガはブッダについての教えが多くありました。

質問者がブッダの説いた、弦は張りすぎても緩みすぎてもいい音は鳴らないというふうに、弦に例えられる中庸の教えについてふれた時のことです。

師「ブッダが言うところの弦の張り具合というチューニングは、当時行なわれていた一般的な修行、一方には苦行というものがあり、もう一方では犠牲供養という快楽的なものもあり、そのどちらでもない、中道の在り方がある、それは苦行のように身体を痛めつけることではなく、健康な身体と健全な心を養いながら、その中でこそ正しい瞑想が行なわれるということを諭した言葉なんです。中庸、中道といわれるところ、まさしくそれがヨーガの道でもあるわけです。
でも、悟りへのあるいは神への願望というのは強烈でなければならない。また純粋にそれを保っていかなければならない。悟りや神に心が全面的に委ねられてしまえば、四六時中、座っていようが立っていようが、何かをしていようが、いつも神への憧れや悟りへの煮えたぎるような思いがやってきます」

師「ブッダは、当時シッダールタといわれていた時代に六年間の苦行を行なっています。当時は苦行という体系が当たり前のように蔓延していたと思われるので、シッダールタもそれを試み、しかも語られるところによれば、過去にも未来にも現代にも、その当時にも、匹敵する者はないほどの苦行を行なった。
けれども悟れなかった、ということを実証したんです。それで棄てた。
伝説に語られるところによれば、衰弱して骨と皮のような状態になった身体をスジャータという娘のくれた乳粥で身体を回復していくわけです。そこに健全な心の境地というか、そういう閃きが生まれたんだと思う。そして静かに菩提樹の下に座って、そうして悟りを得たと、それが十二月八日のことであったということになります。ブッダは必死に可能な限りの苦行を自らに課せたと語られています」 

師が教えられる煮えたぎるような思いとは、例えばそれはシュリー・ラーマクリシュナが神を見ることができないのであれば、その喉をかき切って死んでしまおうとした思いと同じ。そして例えばそれは慧可が弟子入りを乞うため、達磨大師に切り落とした自分の腕を差し出した思いと同じ。例えばそれは明恵上人が世俗にまみえることなく仏道の志を貫くため、自分の耳をそぎ落とした思いと同じ。身命を顧みない、真実の実現のためへの執念と同じなのだと思いました。 

ブッダの凄まじいまでの悟りへの執念、煮えたぎるような思い、ブッダを語られた師のお言葉が、そこにいる求道者たちのハートに火を付け、燃え上がらせたのを私は感じ、胸が熱くなるのでした。

私たちの心にも、その煮えたぎるような思いがやってきますように。
来年もさらなる飛躍の年となりますように。

ダルミニー

 

 

 


スジャータの施しとブッダの悟り

ブッダは断食の苦行をやめ、村の娘スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきました――

私は20歳の時、このスジャータ村を訪れました。
2500年前、ブッダが生きていた当時と変わっていないであろう田園風景と人々の暮らしがそこにはありました。

あれから13年経った今、私はこのスジャータのエピソードから、「人は何のために生きるのか?」ということを考えさせられます。

ブッダと同じ時代、マハーヴィーラという修行者がいました。
彼は生涯において厳格な戒律に従い、すべての生物に対して細心の注意を払って不殺生を実践し、最後は断食の修行で命を終えたといわれています。
不殺生の究極ともとれるマハーヴィーラの生き様からは、彼が命を懸けて「真理」に向き合っていた凄まじさが伝わってきます。

一方、ブッダは六年間の苦行の末、「健康な体と心を持ち合わせていなければ、悟りを啓くことは不可能だ」として、スジャータから乳粥の施しを受け、瞑想の座につきます。

ブッダとスジャータ。菩提樹の後ろに描かれている5人の修行者はブッダが苦行をやめたことを誹るも、後にサールナートでブッダから最初の説法を授かり(初転法輪)、弟子になったといわれています。

そして、その瞑想においてブッダは次の言葉を言ったといわれています。

「無知の中で100年生きるより、真理の中で1日生きる方がいい」

スジャータの施しとブッダの身体を満たした乳粥、瞑想の座についた大地、風や寒さをしのぐ大きな菩提樹、そしてブッダの大いなる覚悟――

一切が真理実現のために存在しているシーンが思い浮かびます。

12月8日はブッダが悟りを啓かれた日です。

ブッダの心境に思いを馳せ、そしてその偉大なる存在の御足に礼拝します。

ブッダが悟りを啓いた菩提樹。スジャータ村から少し歩いたところにありました。

 

ゴパーラ


バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

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先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い


バクティ・サンガム キールタン 

10月から新しいキールタンに挑戦しています。先月までシヴァ神を讃えるキールタンを歌っていましたが、今月からはクリシュナ神、12月まで同じキールタンを歌います。

タイトルは『Murali Krishna』、みなさん、バーガヴァタプラーナ(聖典)の中にあるクリシュナ神とゴーピー(牧女)たちの美しい愛の物語をご存知ですか?このキールタンはその物語の最後に出てくるラーサリーラーを思わせる歌詞と、甘美なメロディーが特徴的なキールタンです。

歌詞の一部を紹介します・

Murali Krishna Mukunda Krishna Mohana Krishuna Krishna Krishna

Murari  横笛を奏でるクリシュナ
Mukunda  解脱を与えるもの(クリシュナの別名)
Mohana  帰依者のハートを魅了するもの(クリシュナの別名)

意味は、クリシュナという神の御名のみ、ただただ、クリシュナと繰り返しているのです。

先日のクラスの中でミラバイさんが言われた印象的な言葉をご紹介します。キールタンを歌うときは「言葉と思いを一致させる」この歌詞の中での言葉とは神の御名のみ、それはイコール神そのものです。そして、「自分の心が神の御名に染まるまで繰り返し歌ってください」と言われました。

私にとって神なる存在はただ一人、私の師であるヨギさんだけです。クリシュナ神のキールタンであっても、シヴァ神のキールタンであっても、神の御名を口にするときはヨギさんだけを思っています。そうして一曲のキールタンを歌うと、ハートはどんどん大きくなり、神のみで満たされ、圧倒される時があります。他のものが入り込む余地はなく、ただ、神との繋がりだけを感じる至福の時となります。

今月はヨギさんのご聖誕をお祝いするジャヤンティが行われます。もっとも大切な日に愛する人と共に過ごすことのできるその日を心待ちにしています。