聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

「私を愛している?」

黄緑色だった若葉も濃い緑に変わり初夏の陽気を感じます。生い茂る木の下を通ると、葉と葉の間から届く満ち足りた光や空気に、気持ちがスーッと静まります。
以前よく一緒に歩いた目の不自由なおばあさんが、建物の陰と木の陰とでは心地良さが全然違うから見えなくても木の陰に入ったらすぐに分かるわ~とよく仰っていました。それまで私は木の陰よりも建物の陰の方がしっかりした陰で涼しいのでは?と思っていたのですが、意識して感じてみると本当に仰る通りで、なるほど!と一緒に喜んだものでした。また、おばあさんは整備された歩きやすいアスファルトの道よりも不安定で危なそうな河原や砂利道などを好まれる方で「土とか石のデコボコ道の方がしっかりと踏み込んで気ぃ張って歩ける。天然の足裏マッサージみたいで気持ちいい~」とも言われていました。私の固定観念を次々と壊していただき(笑)自然を感じて豊かに生きる、ということを実地で教わった方でした。自然に抗わずその時々を楽しまれ、また暮らしぶりや持ち物が驚くほどシンプル身軽で、闊達な方で憧れでした。今も木陰に入ると、あのおばあさんのクシャっとした笑顔が浮かび嬉しくなります。

大きな木陰

包み込まれるような大きな木陰

ところで、まだ福祉的な仕事とは無縁だった頃、目の不自由な方に拙い道案内をしたことがありました。その時、お相手がとても素朴であたたかい感謝を示されたため、その御恩をお返ししたくて、しばらく気持ちがずっと落ち着きませんでした。どうすればいいのかが分からなかったからです。でもその時、以前に『パラマハンサ』(機関紙)の紙面で読んだ『ホーリー・マザーの生涯』からの大好きなお話に導かれるように私はある方法を見つけられました。これからは道で出会った目の不自由な方へ、みんなへ同じようにしていこうと。
時には、さまざまな事情から会いたくても会えない人や状況があるかもしれません。人とは本当に一期一会だなと感じます。そのお相手には直接出来ないことを別の方へ、他のみんなへ、同じようにする、ということを意識するようになりました。

きっかけとなったホーリー・マザー(ラーマクリシュナの御伴侶であられたサーラダー・デーヴィー)のお話はこんなお話です。


たいへん手のかかる家庭の厄介者だったという女の子が、お母さんと一緒にホーリー・マザーをよく訪ねていました。女の子はホーリー・マザーが大好きでしたが、ある日ホーリー・マザーが別の場所へ発たれる日が来て、少女へおっしゃいます。

いい子ね、私のところに来るようになって、もう随分になりますね。私を愛している?

「はい、とっても。大好きです」

どれくらい?

女の子は思いっきり両腕を伸ばして言います。「これくらいよ」

・・・遠くなってしまっても、それでも愛してくれる?

「はい、同じように愛します。忘れることはありません」

どうしたらそれが分かるかしら

「マザーに分かってもらうには、どうしたらいいかしら」

もしあなたがお家の人をみんな愛することができれば、私を愛してくれていることもきっと分かるわ

「分かったわ。家族のみんな愛します。わがままはもうやめにします」

それはとっても良いことですよ。でもあなたが分け隔てなくみんなを平等に愛するってことが、どうしたら私に分かるかしら

「みんなを等しく愛するにはどうすればいいの」

平等に愛するには、愛する人々から何も求めないことですよ。もし求めれば、もっとたくさん与えてくれる人とそうではない人ができるでしょう。そうなれば、もっとくれる人たちを好んで、少なくしかくれない人たちは愛さないということになってしまうわ。そしてあなたのみんなへの愛は平等ではなくなってしまうでしょう。偏りなく皆を愛せなくなってしまうわ

少女は何の見返りを求めることもなく、みんなを愛することを約束したそうです。

*参考・引用:『ホーリー・マザーの生涯』


2020年にコロナが蔓延し始めサットサンガ(真理の教えを問答形式で学ぶ場)もお休みになり、マスク生活で息を潜めるように過ごした3月、コロナ禍で初めての『パラマハンサ』が郵便で届きました。サットサンガの記事に、いちばん聞きたかった師のお言葉がありました。

質問者「ヨギさんのことはとても好きですが、自分のことをもっと愛していることに気付きました。このような自分は嫌です。どうしたらいいでしょうか」

師「そうして気付いたことは良かったです。これからはそれを改めていけばいい。そして本当に私を愛しているのならば、あなたの周りにいる人たちを愛して、奉仕してください

師のお言葉は、ホーリー・マザーのあのお言葉と全く同じものに感じ、以来、大切な指針となっています。ホーリー・マザーが少女に仰った「私を愛している?」。その問いかけは、その時々の目の前の人、一(いち)なる「あなた」からの声なのかもしれません。

長岡京の花

クラスへ行く道すがらの一期一会

 

 野口美香 


『あるヨギの自叙伝』を読んで(11)ーースリ・ユクテスワ

本日5月10日は、ヨーガーナンダのグル(師)のスリ・ユクテスワ(1855ー1936)の御聖誕日です。
今回のブログでは、彼について少し触れてみたいと思います。


THE 教師とでも言いましょうか、とても威厳に満ちた面構え……もし彼と街ですれ違って目が合ったら、「すっ、すいません!」と私は思わず言ってしまいそうです……
実際、彼は相当厳しいお方だったようで、若きの日のヨーガーナンダは始終叱られっぱなしで、ユクテスワの「自我を打ち砕く鉄槌」は本当に耐え難いものだったと語っています。

少し話は変わりますが、私は幼い頃、祖父母と過ごしている時、ふとある疑問が湧きました。
「じいちゃんとばあちゃんは僕にとても優しいのに、なぜお父さんとお母さんは厳しいのか?」
その理由を母に尋ねると、「親は子供を育てる責任があるから」と言われ、子供ながら妙に納得したのを覚えています。
ユクテスワがヨーガーナンダに厳しかったのも、霊性の息子であるヨーガーナンダを育てる責任があったからだと思います。事実、ユクテスワはババジから来たる将来、西洋にヨーガを普及させる人間(ヨーガーナンダ)を仕込むことを命じられていました。このババジから与えられた使命は、相当な重責だったと察します。しかしユクテスワにはヨーガーナンダへの無上の愛があり、それはヨーガーナンダを育て、そして今やその愛は『あるヨギの自叙伝』を通して世界中に伝播しています!
私は『あるヨギの自叙伝』の中でいちばん好きなのは、「ムクンダ(ヨーガーナンダの出家前の名)」「先生!」という呼び合いです。この名前の呼び合いから私は、叱っても叱られてもそこに絶えずあったグルと弟子との愛と尊敬を感じずにはいられないのです。

1935年冬至祭の行進における2人。中央に掲げられたプラカードのサンスクリットは、上段が「偉大な先達に従え」、下段がシャンカラの言葉で「少しでも聖者と交われば、救いを受けることができる」ーー『あるヨギの自叙伝』より引用

私は今回、スリ・ユクテスワの名前を心の中で唱えながら彼に瞑想すると、『ヨーガ・スートラ』の一文が浮かび上がってきました。

イーシュワラは時の限定を受けないから、古代のグルたちさえものグルである。

彼のあらわれた言葉は、オームである。

名が体を表すように、ユクテスワ(イーシュワラと一致せる者)はグルの中のグルーー
そして、そこから聴こえてきたオームの響きは、フルートのような優しい音色でした。

スリ・ユクテスワーー外見はコワモテですが、内面はとても優しいバクタであったと感じます。
もし今、彼と街ですれ違っても、私は「すっ、すいません!」と言ってしまうことはないでしょう。(たぶん……😅)

1998年5月のマハーヨーギー・ミッションのカレンダー。すごい迫力!!!

✳︎スリ・ユクテスワ(1855年5月10日ー1936年3月9日) 大師ラーヒリー・マハーシャヤの高弟で、パラマハンサ・ヨーガーナンダの師。ヴェーダとキリスト教との同一真義を見い出し、ヨーガーナンダをして西洋にヨーガを布教せしめた。

ゴーパーラ


これぞまさにラーサ・リーラ―だ!

バクティ・サンガムのWebクラスを2年間受講させていただき、その最後のクラスでキールタンを歌っている時でした。画面の向こうに広がる、喜び溢れる笑顔の数々、距離を超えて共に高らかに歌う姿。
みんなの笑顔の中に、クリシュナが見える。
クリシュナが姿・形を変え、楽しんでいる。
Web上とはいえ、このようにみんなで歌っている状況に神の恩寵を感じ、涙が止まらなくなりました。

2年前、コロナ禍において、バクティ・サンガムのWebクラスが開催されることになりました。これまでも大阪や京都でバクティ・サンガムの実クラスが開催されていましたが、静岡に住む私はなかなか参加することができず、バクティ・サンガムの話題があがる度、私もみんなと一緒に歌いたいなぁといつも憧れの気持ちをもって聞いていました。そんな憧れのクラスがWebで開かれるということで、喜び勇んで参加を決めました。

この2年間、キールタンの歌詞だけでなく、関連するお話を毎回趣向を凝らして(ミニチュアールの紹介や手書きの紙芝居もあり!?)教えていただきました。歌に対する理解が深まるだけでなく、情景がリアルに感じられ、これまでにも増して神に対する思いを乗せて歌うことができるようになりました。またクラスの後には、紹介していただいた神や聖者のことをもっと知りたいと思い、関連する本を読みました。そうすることによって私の中でぼんやりと理解していた神や聖者が確かな存在として感じられるようになりました。

特に印象的だったのは、クリシュナ神とゴーピー(牧女)が織りなす「ラーサ・リーラー」のお話です。 ラーサ・リーラーとは、クリシュナとクリシュナを愛してやまないゴーピーたちとの愛の遊戯の物語。そのクライマックスとして、クリシュナがご自分の姿を複数に顕現させ、ゴーピーたちと輪になって踊るシーンが紹介されました。

そのお話を聞いた瞬間、ありありとその歓喜に包まれた美しい情景が私の脳裏に浮かび、「私はこれを知っている」という直観のようなものが胸に押し寄せました。それは、この光景を実際に見たことがあり、経験したことがある!というような、なんとも不思議な感覚でしたが、知っているという感覚がずっと胸の中に残りました。

その後、『ラーマクリシュナの福音』の中に、次のような詩を見つけました。

「深く潜れ、おお心よ、
神の美の大海に、

 もしお前が底の底までおりるなら、
 そこに愛の宝石を見いだすだろう。
 行って探せ、おお心よ、
ハートの中のヴリンダーヴァンを探せ、

 そこで彼の愛する信者たちと、
 シュリー・クリシュナが
永遠に遊んでいらっしゃる」

この詩を読んだ瞬間に、あの「知っている」という直観の理由が分かりました。私の胸の中にヴリンダーヴァンがあり、クリシュナとゴーピーたちが踊っているのだ。私は甘美な喜びに包まれました。ラーサ・リーラーのお話を聞いてから、その絵を眺めては、クリシュナと踊ることをずっと夢見てきました。そんな折、冒頭のように感じたのです。

ラーサ・リーラーとは、本来はあらゆるところに溢れている歓びなのかもしれません。心を純粋にし、神だけを想うことができれば、あの喜びは今ここにあるのだと思います。クリシュナに手を取られ、踊ることができるのなら、他に何を求めるというのでしょうか。

永遠の歓喜の中で、神と戯れたい。
そしていつの日か、クリシュナと一つになりたい。

これが私の願いです。

森ひとみ


『あるヨギの自叙伝』を読んで(10)ーーアーナンダマイー・マー

今回のブログは、ベンガルの“至福に浸る聖女”アーナンダマイー・マーをご紹介します。

中央がアーナンダマイー・マー。向かって左が夫のボーラナート。

ある意味、『あるヨギの自叙伝』の中でもっともインパクトのある写真だと思います(笑)。アーナンダマイー・マーはヨーガーナンダを見るなり、「まぁ、パパ様! ようこそおいでくださいました」といかにも懐かしそうにそう言ってヨーガーナンダに密着し、その突然の行動に彼女の信者たちも驚愕したそうです。この写真はその初対面の時に撮られたもの……
こんなに自由で愛らしい彼女とは、いったいどんな御方だったのでしょうか?

アーナンダマイー・マー(1896−1982)は東ベンガル(現バングラデシュ)の小さな村の出身。両親はヴィシュヌ派の熱心な信仰者でしたが裕福な家庭状況ではなく、彼女は小学校に2年も満たないほどしか通えませんでした。しかしながらそこに暗い影はなく、ハーシ・マー(微笑みの母)、クシール・マー(幸せの母)と近所の人から呼ばれるほど彼女は朗らかで愛らしい気質でした。ただ、幼い頃からしばしば恍惚の状態になっているのを目撃されています。
当時の習慣に従い、13歳に満たない年で結婚します。その5年後に夫と初めて会い、後に夫はアーナンダマイー・マーの弟子になります。
彼女御自身にはグルはおらず、内なる導きのまま毎夜激しいアーサナをし、マントラを数時間唱え、また自らで自らをイニシエーション(師が弟子の入門を許可するときの儀式。秘法の伝授)するなど、通常では考えられない霊性の歩みをしています。彼女のこうした内なる導きは「ケヤーラ」という自然発生的行動、また神の御意志と言われているものです。ヨーガーナンダと初めて会った時の無為自然な振る舞いも、このケヤーラということですね。

その後、アーナンダマイー・マーの存在は世間に知られるようになり、カーストや宗教、国籍を越えて多くの人々を至福へと導き、霊的祝福を与え続けました。
政治的なことをはじめ、自身の肉体的なことなど全く意に介さなかった超俗性の持ち主ですが、それが単なる浮世離れではないことは彼女の残された教えから明らかです。その教えに触れると、「人としてどう生きるべきなのか?」という人間のもっとも根本的なことに立ち還る必要性に気付かされるのです。

「多くの人々が、新しいよりよい世界をつくることをいろいろ考えています。しかしあなた方は、そういう現象的なことよりも、もっと根本的なものに目を向けなさい。それを瞑想するほうが、完全な平和を期待することができます。神や真理を求めることこそ、人間の義務です」
『あるヨギの自叙伝』P474

義務を意味するサンスクリット語「ダルマ」には正義、徳がありますが、「真理」という意味もあります。社会や国という環境下において義務や正義、善行を果たすことはもちろん大切ですが、そういった枠組みを外したありのままの人としての義務ーー「普遍の真理(神)の探求・実践」こそ、恵みに満ちた神の御足下(地上)に生まれ生かされている人間の根源的義務であると彼女は教えてくれます。そして、その義務を行為していくことは決して堅苦しいものではなく、何より人に完全な平和ーー「永遠の至福」をもたらしてくれることを彼女の微笑みが物語っています。

『あるヨギの自叙伝』の中でヨーガーナンダは、アーナンダマイー・マーの目が片時も神から離れていないことに驚いたと述べています。そして今なお、彼女の甘美な声がありありと聞こえてくると述懐しています。

「ほら、永遠なるおかたといっしょの私は、いつも同じでございます」

4月30日はアーナンダマイー・マーの御聖誕日です。至福の母であり女神であられる彼女に思いを馳せたいと思います。

*参考資料 『シュリ・アーナンダマイー・マーの生涯と教え』アレクサンダー・リプスキ著

ゴーパーラ


神への明け渡し ––マハリシの教え––

私たちには思いや悩みが尽きないものです。欲しいものがなかなか手に入らなかったり、駄目だと思ってもついやってしまったり、大事な時にオロオロして何もできなかったり、沢山の事で思い悩むものです。それについてバガヴァーン・ラマナ・マハリシはこう言います。

『神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、なぜ我々はその力に身をまかせず、何をどうするべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
我々は列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭に載せて苦労する必要がどこにあろう。荷物を下ろして安心しなさい』
 

ーー『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』より引用ーー

そうです、自分の小さな思いを神に渡して、神の言うことに従えば楽になるのです。なんて簡単なことでしょう!

バガヴァーンは自我を無くすために『私は誰か?』という真我探求を説いたことで有名です。しかしそれはなかなか険しい道なので、彼は多くの信者には探求よりも容易な神への明け渡しを勧めました。しかしこの道も非常に困難な道であるのは確かです。なぜなら頭に載せた荷物のうち少しは降ろせるでしょう、しかし全ての荷物を降ろすとなると、自分の思いの全てを神に委ねるということになるのですから、自分では好き嫌いも、都合の良い悪いも言えなくなるからです。それが全て自然にできるようになって初めて明け渡せた、となるのです。といっても、バガヴァーンは一足飛びにそうしなさいと言っている訳ではありません。彼はその準備として神への瞑想、ジャパ、神の賛歌を歌うなど、神に帰依することなどを信者に勧めました。

彼が住んでいるアルナーチャラ山はプラダクシナという巡礼をするための山でした。巡礼のために人々は山の麓(13.5km)を神の賛歌を歌ったりジャパを唱えたりしながらゆっくりと歩くのだそうです。バガヴァーンはこれをよく信者に勧めました。そしてさらに彼はこう言います。プラダクシナをしているうちに、

『身体は疲れ、感覚器官は力を失い、すべての活力は内面に吸収されます。こうして自己を忘れることが可能となり、瞑想状態に入っていくのです』  

  ーーラマナアシュラム HPより引用ーー

長距離を歩くのですから何度もジャパなどを繰り返すことが必要で、それが自動的にできるくらいやることが大事なのだと思います。さらに大事なことは、本当のサーダナができるのは、体と心がフラフラになってからなのだということです。与えられたサーダナをやり続けること、そしてやってくるタパスを受け入れること。それをやり続けていけば神に本当に帰依することができるはずです、そうすれば神への明け渡せる日は近くなっていることでしょう。

早く頭に載せた荷物を降ろして本当に安心したいものです。

グルダース


スワーミー・アドブターナンダ

私の理想の聖者は、シュリー・ラーマクリシュナの直弟子で無学でありながら最高の叡知を悟り、「シュリー・ラーマクリシュナの最大の奇跡」と言われたスワーミー・アドブターナンダ(ラトゥ)です。

彼は幼くして孤児となりましたが、シュリー・ラーマクリシュナにお会いすることで人生が一変しました。ラトゥは疑うことを知らない純真さで師の教えを忠実に守り、心の清らかさを保つようひたむきに努力し続けました。文字の読み書きは全くできず、聖典も読めなかったのですが、夜は一睡もすることなく瞑想を深め、神の御名を繰り返し唱える修行を熱心に行い、神に憧れ、神のために泣き、肉体の快不快に心を乱されなくなっていきました。

ラトゥの心にあるのは神だけでした。ラトゥに出会った人々は彼の独特の言葉に驚き、その清らかさに感化されました。たとえ多くの聖典を読まなくても、豊かな霊的叡智は内的な悟りから生まれることを彼が教えてくださっています。

 「心の性質は神の御名を唱えることによって変えることができる。次第に欲望と疑いは消える」

後年のラトゥ・マハーラージの言葉で、私の大好きな教えです。どうかラトゥ・マハーラージのように一心に神を求め、神の御名の深遠さに触れ、心が神だけになりますように。

 ※『スワミ・アドブターナンダ―教えと回想―』を参考にしました。

アーナンディー 


置かれた場所で生きる

風の中の落ち葉のようにこの世に生きなさい。そのような葉はあるときは家の中に、あるときはごみの山に吹きやられる。木の葉は風の吹くままに飛んで行く…ときには良い場所に、ときには悪い場所に。いまや、神がお前をこの世におおきになったのだ。けっこうなことだ。ここにいなさい。また、彼がお前を持ち上げてもっと良い場所に置いてくださったら、今度はどうしたらよいかその時に考えても十分に間に合うことだ。

神がお前をこの世においてくださったのだ。そのことについてお前に何ができるのだ。彼に全てをお任せしなさい。彼の足下に自分をささげきりなさい。そうすればもう困ることはない。そうしたら、いっさいのことを行うのは神だ、と悟るだろう。すべては「ラーマの思召」にかかっているのだ。”

                       『ラーマクリシュナの福音』より抜粋

 

 木などの植物は自ら動くことはできませんが、生命を繋ぐために種子をつくり、その場に落下したり、鳥など動物が食べることで新たな場所に運ばれたりします。その場所で芽を出し、葉を茂らせ、時期が来ると枝から離れ、そこに留まるものもあれば、雨や風などによって遠くに飛ばされるものもあります。
天候や環境がどうであろうと身を任せ「置かれた場所で生きる」植物からは、逞しさ、あるがままに全てを委ねて生きるしなやかさを感じます。

人の場合はどうか。
風に舞い上げられた木の葉のように飛んで行った先が、良い場所であれば感謝し、悪い場所であれば不満を持つ。
置かれた場所やそこで起きる出来事によって感情が揺らいでしまう私たち人が、植物のようにあるがままに生きるには、何が必要なのでしょう?
それは謙虚さではないかと思います。
この一節を繰り返し読み、ラーマクリシュナが神を熱烈に愛し全てを任せられたのは、ご自身をより小さな存在として神に捧げきる謙虚さが必要であることを、示してくださっているように感じました。
読む毎に、ラーマクリシュナの限りない優しさと強さに圧倒され、この言葉を素直に信じて生きていきたい、強く思いました。

それにはまず、私たちが日々考え行動する力も何もかも、神から与えられたものだということを知ること。そうすれば、自ずと今その場にあることを感謝し、謙虚でしかいられなくなる。

自分のものなど一つもなく、全てが与えられたもの。
この感謝の想いを一瞬も忘れることなく、置かれた場所で神に自らを捧げきりたいと思います。

写真/侘助(ワビスケ)が咲く姿からも、謙虚さを感じます

ハルシャニー

 

 

 

 

 

 


スワーミー・ブラフマーナンダ 純潔の教え

スワーミー・ブラフマーナンダはヒマラヤの僧院に行く弟子に向けて次の言葉を送ったそうです。

「心をあの山々のように高く保て」

若き日のブラフマーナンダはサマーディを自然のものとするため、8年間の修行を行ないました。
従者のスボダーナンダは、ブラフマーナンダが肉体を離れてしまうほどのサマーディへの没入を何度も、また何日も目の当たりにしたそうです。
最高境地に向かってその心は高く高く飛翔したブラフマーナンダですが、その過程において「ブラフマチャリヤ(純潔・禁欲)」の徹底した実践を行なっています。
以下、後の弟子たちに説いたその教えを紹介します。

「君たちはいっさいのものを放棄し、自分の生涯を神に担保として差し上げた。しかし、覚えていたまえ、純粋で汚れのない生活をすることはたいそう難しいのだ。君たちはたやすいと思っているかもしれないが、しかし、言っておこう、それはかみそりの刃を渡るほどのことなのだよ。
完全なる禁欲が、霊的生活における成功の唯一の条件である。しかし、神への愛と信仰なしには、完全な純潔を守ることは困難、というよりむしろ不可能である」

「私は自分自身の経験から君たちに言って上げることができるのだが、純潔を守っていなければ、正しく瞑想することは不可能である。……禁欲によって、頭脳に特別な力が蓄えられる。もし人が禁欲の生活にしかと定住するようになれば、彼は、至る所に神の現れを見はじめるであろう」

「霊性の修行とはなんであろうか。常に誠実であれ。自制心を持て。言葉に気をつけよ。人を羨むな。人を憎むな。嫉妬するな。純潔を守れ。もし一二年間純潔を守るなら、その人は最高境地に達する」

ーー『永遠の伴侶』改訂版より引用ーー

ブラフマチャリヤはヨーガの土台となるヤマ(禁戒)の一つの教えです。
ブラフマチャリヤの実践なくして霊性の目覚めはあり得ず、愛と信仰なくしてブラフマチャリヤを守ることは困難だということーー
この基礎の教えをブラフマーナンダ自身、常に気を付け、そして徹底して実践していたことが彼の言葉からひしひしと伝わってきます。

最後に、兄弟弟子のラージャ(王)であり、リーダーであった霊性の指揮官の如きブラフマーナンダの力強い言葉を紹介させていただきます。

「実践せよ、実践せよ、霊性の修行を実践することによって、ハートは浄められ、新しい世界が開けるのだ。神のみが実在で他のすべては非実在である、ということがわかるだろう。しかし、ジャパと瞑想によって少しばかり眼が開いたときに、目標に達した、などと夢想してはいけない。光だ! もっと大きな光だ! 前進だ! 前進だ! 神に達せよ! 『彼』のお姿を見よ! 『彼』に語りかけよ!」

ーー『永遠の伴侶』改訂版より引用ーー

道がどんなに困難で苦しくても、最高境地に向かって前進するのみです!!!

Standing left to light: アドプターナンダ、ヨーガーナンダ、アベダーナンダ、トリグナティターナンダ、トゥリヤーナンダ、ニルマラーナンダ、ニランジャナーナンダ  Sitting left to light: スボダーナンダ、ブラフマーナンダ、アカンダーナンダ

ゴーパーラ


ラーマクリシュナとの約束

冬に向かう秋ごろから瞑想専科クラスの課題として『ラーマクリシュナの福音』を毎日読みだしましたが、心の中に春の芽生えの予感のように、新しい習慣が生まれつつあります。クラスはもう終わりましたが、そういう種を蒔いてくださっていたのだなぁ~と今になって気付きます。

私は、これまで好きな時に好きなように聖典を読んでいました。でも、必ず毎日読む、と決意してからは、ちょっと大袈裟かもしれませんが、意識して行なうことで、ある意味、儀式のような感じにもなってきて、聖典を読むことはアーサナと瞑想と同じ位置付けになってきていました。

最初は「毎日読むことがクラスに参加する上での約束事だから」「約束したから約束を破りたくない」という一心でした。しかし、だんだんとそれが、ラーマクリシュナと私の約束のように変わっていきました。大事に本棚に仕舞っていた本でしたが、ラーマクリシュナと私の約束だと思いだしてからは、絶対に約束を忘れないようにと、いちばん自分がよく見る祭壇のようなスペースに本を置きました。表紙にはラーマクリシュナのお顔が大きく描かれています。平置きするととても目立ちます。読み始める時も、読み終わった時も、ラーマクリシュナのお顔に始まりお顔に終わります。大切な本を出しっぱなしにしておくのはどうかとも思いましたが、いつもお顔が見えるので、こっちの方がいいなと今は良しとしています。

毎日行なうべきことして、アーサナ、瞑想、聖典の学習、この三つをすることをクリヤーヨーガと学んできました。ただ白状しますと私は「聖典の学習」については師から真理の教えを直接学ばせてもらっているのだから「毎日」というのはそんなに重要視しなくていいかも、ととらえていました。

ところが毎日読みだすと、例えばクラスの良さは自分が体感してみない限り、人から聞いているだけでは実際には分からないのと同じように、聖典も自分が毎日読んでみて初めて、なぜ毎日なのか?がだんだん分かってきました。

真理の言葉を毎日聴こうとすることに意味がある、と私には思えました。目で読んではいますが、頭の中では聞いている感覚になるのです。ラーマクリシュナの声を実際に聞きたいですが、今は本を通して声を聞かせてもらっていると信じています。真理の言葉は、それがたとえ文字であっても真理そのものだと私は思っています。真理に毎日触れる、聴く、という、それがなければ何も始まらないんだ、それは自分が意識しないといけない、と感じました。師から、「真理はまず聞いて、考えて、そして瞑想して」と言われているからです。また、読むための時間を捻出しようとすることで、自然と気持ちも神聖なものへと向けられました。

毎日、ラーマクリシュナとの約束で私は繋がっていられるような気がしました。約束というものによって、信仰心が芽生えるよう導いてくださっているようでした。毎日読みます、という小さな小さな誓願を、ラーマクリシュナは大切にしてくださり、じっと見守って待ってくださっている気がします。決めて、そして誓願することは、ささやかな始まりのように感じました。

師の存在がなければ、聖典をただの本ではなく聖典として、こんなリアルには感じられないと思います。聖典の教えは、師の存在と教えを理解する助けになり、真理と強く結びつけてくれます。両輪のように導かれ、支えられます。毎日読むと、自然にいろんなことが日常にもリンクしてきて、面白いなと思います。

そして今日も明日も、ラーマクリシュナとの約束はこれからも続きます……。本を開けば、ラーマクリシュナが待ってくださっています。

ラーマクリシュナ御聖誕の日に。

 

 野口美香 


シュリー・ラーマクリシュナ御聖誕日

 

「神だけが真実で、永遠の実在だ。ほかのものはみな非実在で、一時的な、無常のものだ。こう見分けていくうちに、一時的なものは自然と自分の心から離れていってしまうさ」

「まぁ、ごらんよ、この世界の素晴らしいこと! いろんな種類のものがあってーーお月さま、お日さま。夜空を飾るたくさんの星座。さまざまな生きもの。大きいの。小さいの。善いの。悪いの。力の強いの。力の弱いの・・・あの御方は一切所に遍在して、すべてのものの中にいらっしゃる」

「信じること! 信じること! 信じること! ・・・一番大切なものは信仰だ」

『不滅の言葉』より抜粋

インドに実在し、人類を救済するため降誕した神の化身であるといわれる聖者ラーマクリシュナ。彼の教えは、彼がこの世を去って135年が経つ今も、彼の弟子たちが書き残したさまざまな聖典によって伝えられています。それを読み、触れることで、ラーマクリシュナの教えが生き生きとした生命の息吹となって胸に注ぎ込まれるように感じています。そしてその教えは、私にとって生きる意味と進むべき道を指し示すコンパスとなりました。

『ラーマクリシュナの福音』『不滅の言葉』に描かれているのは、教えだけではありません。キールタンを歌い、信仰しているカーリー女神と会話をし、すべてのものの中にある神を見て、どの神にも同じように敬意をはらわれるラーマクリシュナの美しく、尊いお姿です。そのお姿に魅了され、私はラーマクリシュナが大好きになりました。

2月18日、貴方が肉体を持ってこの世に御降誕くださった吉祥な日。

135年の時を経てもなお、このような祝福をお与えくださるシュリー・ラーマクリシュナに感謝いたします。シュリー・ラーマクリシュナに勝利あれ! 勝利あれ!!

山口正美