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シヴァと三日月🌙

ヨーガの第一修行者であり、グル(師)であり、守護神であられるシヴァーー
シヴァはヨーギー(ヨーガ行者)にとって憧れの存在です。


大学生の頃、インドを旅行していた時からシヴァを目にしていて、「シヴァ、カッコいいな〜!」と思っていました。
でも意外と知らないことも多く、

「シヴァの頭に付いている三日月は何なのか?」

とグルバイ(ヨーガの仲間)とオンラインで話している中で話題に上がり、「うーん…」となり、調べることに。
ネットや書籍で調べるのはどうかと思い、いちばん信頼のおける師シュリー・マハーヨーギーのシヴァと三日月について説かれた教えを兄弟子から教えていただきましたので、以下たっぷりとご紹介させていただきます!

「三日月そのものはーーナンディーという牛がいるでしょう、ナンディーのシンボルなの。ナンディーは牛で、シヴァの本当に親しい仲間ですけれど、やっぱりアジア――インド、日本もそうだけれども、農耕民族に牛というのは欠かせないものですし、その欠かせない牛を使って農業、作物を恵みとしていただいてきたわけです。そこに必要なのは雨ですよね、雨。あまりに降り過ぎるとそれこそ山崩れになるから、度が過ぎるとだめだけれども、やっぱり水が不可欠です。その水というのは、もちろん天から降りてくるわけだし、シヴァは暴風雨の神として――前身はルドラーという神であったということも言われているしーーそういう土着的なシンボルとして神格化されているのがこのルドラーでありシヴァであり、またナンディーもそういうふうにして神格化されている。だからシヴァが三日月を戴いているというのは、やっぱりそこにその重要性を象徴しているんじゃないかと思います。
もちろんアムリタとも関係をしていて、アムリタというのは直訳すれば不死ということです。これが霊的な甘露という味わいを指すことにもなっていくのですけれども、この自然界を見てみれば、朝に草木に夜露がくっ付いているのが見られますよね。あれは天から降りてきたアムリタというふうに理解されるわけです。夜の間に、月の時間の中においてアムリタが滴り落ちている。だからシヴァも、月というナンディーを象徴する三日月というのは、夜の象徴なんです」

ーーシュリー・マハーヨーギー

なんとシヴァの三日月は傍にいるナンディー(牛)の象徴であり、それは農業や雨、夜露(アムリタ)と密接に関係していることを意味していたのですね!

ではなぜ、形が半月や満月ではなく、三日月なのでしょうか?
その意味も師はお答えになっていました。

「シヴァの三日月は月を表していますけれどもーー月も本来は丸なんですけれどもね、三日月で表されていることの意味は、月の満ち欠けという活動性。よくインドの代表的な三神を創造、維持、破壊というふうに呼ばれることがあります。ヴィシュヌは維持を司り、シヴァが破壊を司る。破壊は破壊で終わるわけではなく、そこには再生という意味がもたされていますから、ここでも命のダイナミックな活動性が見えています。月もそのように、同じように理解できると思います。だから、シヴァの三日月は自然界における変化のあるダイナミックな活動性、そして死と再生、そういうものも象徴的に描かれている。それが三日月という形になっているということです」

ーーシュリー・マハーヨーギー

三日月の形は、月の満ち欠けという活動性を表していて、それは死と再生のシヴァのダイナミックな性質を象徴しているということーー
なるほど、謎が解けました!

この他にも師は、毎年作っているマハーヨーギー・ミッションのカレンダーに満月と新月の印があることーー月の暦の太陰暦にも言及されていました。

「最近は、なかなか夜空を見上げるという機会はめっきり減りましたよね。だから、今夜の月の形がどんなのかというのは知らないままに、一年一年が過ぎ去っていっているような気がします。でも自然界の働きというのは、太陽より、むしろ月の満ち欠けによって運行している。例えば、潮の満ち引きであるとか、作物の成長であるとか、あるいは四季折々の自然の命であるとか。そういうものを少し思い起こすことができたらということと、現代私たちが使っているカレンダーというのは太陽暦ですけれども、その昔は太陰暦といって、月の満ち欠けによる暦、カレンダーを使っていたそうで、いまだにアジアの地域ではそういうものも併用して使っていることが多いです。太陽と同じぐらいに月の神秘性というか、その存在というものも時には思い出して、美しい月を眺めることができたらといったヒントにもなればと思いまして、満月と新月を入れているんです。
ヨーガをやっていれば、シヴァ神の髪のところ、あるいは額に三日月が描かれているのをよく見つけていると思うのですけれど、あれはシヴァという神格がこの自然というものに深くかかわっている――月というのはシャクティ(根元力・女神)ですよね――それと一体になっているという象徴が込められています」

ーーシュリー・マハーヨーギー

月の満ち欠けが潮の満ち引きなどの自然界の働きに影響しているということは知ってはいたのですが、こうやってしっかりと教えていただくと納得というか、月はシャクティー(自然・女神)の象徴でもあるということで、もう唸るしかできないシュリー・マハーヨーギーのシヴァと月についての教えです。
これら師の象徴を読み解く深遠な力に、私自身はシヴァの如き瞑想力を感じずにはいられませんでした。

リシケーシュのシヴァ像

ちょっと余談になりますが、私は約4カ月前から職場のある嵐山に引っ越しました。
昨年までの6年間くらいは北野天満宮近くにあった自宅から嵐山まで、テレビでよく映る渡月橋を渡って自転車通勤していました。
嵐山は洪水や河川の氾濫が数年前にあるなど、水害も多い地域です。
嵐山近くのだいたい車折神社辺りになると急に雨が降ってきたり、スコールのような凄まじい大雨と雷に襲われたこともあり、山と川が隣接している地形から雲が発生しやすく、大雨や嵐に見舞われることが多い場所なのかなと感じていました。
ただその反面、嵐山は本当に自然豊かな表情を見せてくれる景勝地でもあります。
桜はもちろんのこと、新緑もきれいですし、秋の夕暮れも美しい。
渡月橋に奇跡のような虹のアーチがかかっていたこともありました。
大雨の後は川の流れる音が「オーム」に聞こえるほどダイナミックな流れになり、心が一瞬にしてその轟音に奪われる体験もありました。
そして夜は、「渡月橋」という名が示すように、橋から見える月が本当にきれいなのです。

嵐山を南に下がった松尾大社のすぐそばには、古くから月の神様を祀る月読神社というものもありますし、遥か昔からここに住んでいた人たちは月への感謝の念を感じていたのだろうと想起させます。
月、雨、雷、川、山という自然のダイナミックな運行が凝縮されている嵐山ーー日本でシヴァを感じられるスポットなのでは👀、と私は思います!

 

過去のブログにはシヴァのことを紹介しているブログがいくつかあります。
久しぶりに読むと、とても面白かったです!!
皆さまもぜひ読み返してみてください。

・「シヴァ神」
・「神と魂を結ぶ愛の歌ーーキールタン」
・「不滅なる主ーーキールタンの味わい」
・「ブラヨーヘイ」vol.7 北野天満宮編

リシケーシュのシヴァとガンジス河

 

ゴーパーラ


永遠の物語 悪から善がでて来る

またもや永遠の物語を読んでいると、こんな話がありました。

王様が大臣をつれて狩りにでかけました。王様は無神論者でしたが、大臣は大変信心深く、人の身に起こったことはなんであれ、究極には神の思召しで彼のためによいことになる、と信じていました。

王様は森の中で雄ジカを見つけました。弓に矢をつがえようとした時、鋭い矢の先端で手の指を1本傷つけてしまいました。大臣は王様にこの傷は何かお為になるでしょう、と進言しました。これを聞いて王様は腹を立て、近くの井戸に大臣を突き落としました。王様は憎々しく、井戸に落ちたのはお前の幸せためであるぞ、と言いました。

王宮に帰ろうとした矢先、王様は盗賊の一団に捕まってしまいました。彼らは女神カーリのお祀りの準備をしていて、生贄(いけにえ)として祭神に捧げる男を探していました。王様は女神の前につれてこられ、沐浴させられた後、身体を調べられ、指の傷が発見されました。身体が完全に無傷な人間しかお供えしない、というのが盗賊たちの掟でした。それで彼は放免されました。

ここで王様は今日の出来事をよく考え、指の傷が自分を救ったことに思いいたり、大臣の言葉の正しさを悟りました。彼はそこで井戸に戻って大臣を引き上げました。彼が大臣に一部始終を話すと、後者もまた、もし王様が私を井戸に突き落としていらっしゃらなかったら、盗賊は私を捕らえて生贄にしたでしょう、と言いました。


どんな状況下にあっても、素直に神を信じ続ける大臣の姿に胸が躍りました。すべては神の思し召し、と言葉にするのは簡単ですが、実際にどんな状況も受け入れていくということは、尋常でない強い信仰が要ることです。そして物語の結末は痺れました。王様は大臣の進言の通り、指に傷を負ったことで命が助かり、大臣は王様に井戸に突き落としてもらったお陰で、盗賊に見つからずに命が助かったというのです。神のなさることは人間の想像を超えている、と言います。そして神は不可能を可能にすると言います。どんなときも神へのゆるぎない信仰をもつ大切さが、とてもよく感じられる物語でした。

ところで最近、私はわりと長く働いた職場を辞め、新しい仕事に就くことになりました。新たな人との関わりや、新たに仕事を覚えることなど、今までと勝手の違うことに慣れるのには、しんどいことも色々あるだろうな・・・と思うと、自分で決断したこととはいえ少し不安を感じていました。けれどこの物語を読んで頑張れる気がしてきました。すべては神の思し召し。どんなことも自分のためになるのです。この金言を常に胸に抱きながら、新しい仕事と向き合っていきたいと思います。

                                  アマラー

 


『あるヨギの自叙伝』を読んで(6)ーーラマナ・マハリシーー

約2年ぶりの「『あるヨギの自叙伝』を読んで」のコーナーです‼️

今回は、20世紀インドの覚者ラマナ・マハリシです。

「身体は死滅するが、魂は死によって決して手を触れられることはない。私とは不滅の魂なのだ」

ーーラマナ・マハリシーー

16歳でこの不滅の魂である「本当の私」に目覚めたラマナ・マハリシ。
今年に入り私は、「本当の私」に瞑想を始め、ラマナ・マハリシにすごく惹かれるようになりました。

そこで最近、『あるヨギの自叙伝』にヨーガナンダがラマナ・マハリシのもとを訪ねていたことが書かれていたのを思い出し、読み返してみました。

すると、ラマナ・マハリシについて記されていたのは、写真を含めてわずか1ページ……😅

なぜこんなに短いのだろうと思ったのですが、2人の交流がわずか数時間だったこと、またラマナ・マハリシにはすでに弟子がいたので、ヨーガナンダは詳しい紹介を留めたのかもしれないと思いました。(現に今、ラマナ・マハリシの著作は弟子や信者によって数多く出版されています)

ただ、この1ページの中には、「沈黙の聖者」と称されるラマナ・マハリシとの「言葉ではない交流」が感じられます。

例えば、アーシュラマ(僧院)を訪れたヨーガナンダを暖かく迎えたラマナ・マハリシは、傍にあったヨーガナンダが発刊していた雑誌『イースト・ウエスト』が積まれた山を指差したそうです。
また、ラマナ・マハリシの弟子たちを交えての会話だったため、ラマナ・マハリシ自身はほとんど何も語らなかったようですが、その穏やかな顔は神のような愛と英知に輝いていたそうです。

心の波が静まる「沈黙」が訪れると、その奥に在る不滅の魂「本当の私」から「無限の歓び」が湧いてくると言われています。
たとえ言葉を発さなくても、ラマナ・マハリシのちょっとした行為やその表情から、霊的な交歓がなされていたことが感じられるエピソードです。

そしてヨーガナンダは、ラマナ・マハリシの紹介を最も主要な教えである「私は誰か」で表しています。

スリ・ラマナは、苦悩する人類に、彼らが見失ってしまった〝完全なるもの〟を取り戻させるために、「人はたえず『おのれとは何者か』と自らに問いかけるべきである」と教えている。これこそまさに〝偉大なる問い〟である。これ以外の考えを厳しく排除することによって、人は、真の自己の中にしだいに深く沈潜し、雑念に惑わされないようになるのである。

「おのれとは何者か」、つまり「私は誰か」ーーこれをヨーガナンダは「偉大なる問い」と言っています。
いろんな問いがこの世界には溢れています。
例えば、「仕事とは何か?」「人生とは何か?」
ただ、どんなことを考えるにしても、「仕事をしている私」「この人生を生きている私」というふうに、そこには「私」がいます。
「私のしたい仕事をする」「私がやりたいように人生を生きる」とはよく聞きますが、「では、その私は誰か?」と考える人は本当に稀です。
この主体を考えないこと、これこそ苦悩する人類の盲点であり、その主体である「私」を熟考し、偉大なる「本当の私」を自覚するための問いが、「私は誰か」にあると思います。

今年に入り私自身、「私は誰か」という瞑想を始めていますが、上記のヨーガナンダの一文にそのヒントをいただいた気がしました。
それは「たえず」「それ以外の考えを厳しく排除」というところです。
バクタが神以外のことを思わないように、心にいかなる思いが起こったとしても本当の私に立ち戻る「私は誰か」、その問いを繰り返し繰り返し実践していく、これを徹底していきたいと私自身、強く思いました。

そして今回、『あるヨギの自叙伝』はどんな小さなエピソードや一文からでも真理が学べ、本当に素晴らしい聖典であると改めて実感しました!
まさに真理で埋め尽くされた宝の宝庫です🌝💎

ゴーパーラ


永遠の物語 牡牛ー神

最近、『永遠の物語(日本ヴェーダーンタ協会)』の本を読みました。

その中でこんな話がありました。

ある1人のヨーガ行者が人里はなれた森で修行をしていました。1人の牛飼いが、このヨーガ行者が何時間も瞑想や苦行をし、1人で勉強して過ごしているのを毎日見て、何をしているのか興味が湧き、近寄って言いました。

「旦那、神への道を教えてください」このヨーガ行者は非常に学識が深く、偉大な人物でした。「お前がどうやって神を理解できるのかね。お前はただの牛飼いだ。うすのろめ。帰って牛の番でもしていろ」と答えました。男は立ち去りましたが、しばらくすると本当に知りたいという欲求が強くなりました。居てもたってもいられず、またヨーガ行者のところにやって来て、神の教えを請いましたが、また追い返されました。

それでも牛飼いは神について知りたくてたまらず、またヨーガ行者のところに行きました。あまり強引にせがむので、ヨーガ行者は男を黙らせようと、「お前の飼っている群れの中の大きい牡牛のようなものだ。それが神だ。神はそのような大きい牡牛になるのだ」と言いました。

男は牡牛を神と信じ、日夜拝み始めました。その牡牛のために一番緑の濃い草をやり、横で休み、明かりを灯してやり、近くに座り、後を追いました。そのようにして年月がたちました。

ある日、あたかも牡牛から出たような声が聞こえてきました。「私の息子よ、私の息子よ」牛がしゃべっているのかどうなのか、心の悩みを思いめぐらしました。何度か声を聞くうちに、やっと分かりました。声は自らの心の中から聞こえて来たのです。そして神は自分の心の中に居ることを悟りました。最高の教師が説くすばらしい真理が分かったのです。「私はつねに汝とともにある」。まずしい牛飼いは神秘の全容が分かりました。

そこで彼はヨーガ行者のところにまた赴きました。牛飼いは全身神々しい姿に変わり、顔つきにも天国の光の輝きが放たれているかのようでした。ヨーガ行者は思わず立ち上がりました。「何という変わりようだ?どこで見つけたのだ?」「旦那、あなた様がそれをくださいました」「なんだって?私は冗談で言っただけなのに」


牛飼いの、偏見をもたれても2度断られても諦めず、ヨーガ行者に教えを請いに行った心の強さに感服しました。彼の中では、ただ純粋な神への探求心で胸がはち切れそうなのがひしひしと伝わってきました。

そして牛飼いは、方便であるヨーガ行者の言葉をそのまま素直に受け入れて実行し、ついに内なる神に目覚めました。牛は神のシンボルとなっていたのです。純粋に神だけを求めて礼拝する真剣な思いを、ヨーガ行者の思惑とは別のところで神はちゃんと受け止めておられ、ついには恩寵を与えられたのです。

どこにいても、何をしていても、純粋に神に捧げたいという気持ちで日々を過ごしていれば、神はその思いに応えられ、いつか道が開ける時が来るのだと勇気をもらいました。

                                                                                                               アマラー


人はパンのみに生きるにあらず

「誰でも空を見ることはできます。地をはう虫でも青空を見ます。しかしそれはなんと遠いことでしょう!われわれの理想もそれと同じです。確かにそれは非常に遠い、しかし同時に自分はそれを持たなければならないということを知っています。われわれはまさに最高の理想を持たなければならないのです……、そしてこの理想が自分のハートに、頭脳に、血管の中に入るまで、それが自分の血管の一滴一滴の中まで振動し、身体の毛孔の一つ一つに浸透するまで、できるだけよく聞かなければなりません。それを瞑想しなければなりません。ハートが満ちあふれて口が話す、ハートが満ちあふれて手も働くのです。
われわれの内部の推進力は、思いです。心を最高の思いで満たし、今日も明日もそれらを聞き、この月も、次の月もそれらをお思いなさい。決して失敗を気になさるな……理想を千たびも掲げ、もし千たび失敗したら、もう一度努力しなさい。人の理想は、あらゆるものの中に神を見ることです……時間をおかけなさい、そうすれば目標に到達します」

これはスワミ・ヴィヴェーカーナンダの『ギャーナ・ヨーガ』の「あらゆるものの中の神」という章に書かれている一説で、1896年10月27日、ロンドンでの講演内容です。『ギャーナ・ヨーガ』にはロンドンやニューヨークでの講演の内容が収められていますが、どの講演の内容も、真理を直感した魂が、言葉のゆるす限りを尽くして、私たちに真理の片鱗を伝えようとする情熱と活力に満ち溢れています。何よりも驚くことは、ヴィヴェーカーナンダは、講演に原稿を持ち込まなかったということ。120年以上の時を超え、紙という媒体を通じてさえ、その情熱と活力、慈悲と生命の輝きを感じますが、実際にこの講演を聞いた人は、どれほどの衝撃を受けたことでしょうか。

私にとって『ギャーナ・ヨーガ』は、ヨーガを始めて間もない頃に読み、それまで私の中にあった「神」や「宗教」という言葉の観念を覆し、新たな概念を納得する形で教えてくれた本でもあります。納得せざる得ないほどの説得力があるということもありますが、それよりも彼の持つ熱量(プラーナ)の凄まじさに圧倒され、そして魅了され、自分の持つちっぽけな考え方は見事に破壊されたという感じでした。毎回、読むたびに感動し、細胞一つ一つが真理を求めて躍動するかのようです。キリストの言葉に「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉がありますが、まさにこの本を読むと真理への渇仰で体と心はパンパンになり、私はそれによって生かされていると思うのです。


識別とヴィヴェーカーナンダ(最終回 )& 今年の締め括り

2019年も残すところ、あと2日になりましたね。
皆さま、年末をいかがお過ごしでしょうか?

さて、今年の私の目標は「徹底識別」ということで、この「識別とヴィヴェーカーナンダ」の連載をスタートさせ、ヴィヴェーカーナンダ、おもにその著作『ギャーナ・ヨーガ』を通して、識別を学んでいきました。
また同時に、私自身の心が執着している世界の対象と、それに対する心の動機というものにも「常浄楽我」という真理を当てがって識別を行ない、世界と心の働きにリアリティという実在性がないことを見極めていきました。
しかし依然として、心には「私」と主張するエゴ意識があり、どのようにしてエゴ意識がなくなるのか分からず、識別も難航していました。
そんな時、10月のサットサンガで師にその打開について尋ねると、師は大きなヒントを与えてくださいました。
それがサーンキヤ哲学が説く二十四の原理ーーエゴ意識が発生する前段階の「ブッディ(認識)」ーーその教えです。

「アハンカーラ(エゴ意識)のもう一つ始まりにあるブッディ(認識)というものだけれど、このブッディがすべてのナーマ・ルーパ(名前・形)をつくり出す原因になっている。だから必然的に私意識の源にいけば、そのナーマ・ルーパというものの正体というか、それの根源の方に行き着くことになって、ナーマ・ルーパというものもこの世界が展開するときに発生したものだから、それらは消えていくことができます。消えていくというのは、プラクリティという根源にそれを引き戻すという、実際には消えていくという関係です」

この教えを聞いて、「ブッディ(認識)があるから自分と他者、世界の区別ができ、エゴが成り立ってくるのか」と感じ、目から鱗でした。
そこで私は、エゴ意識に常浄楽我を当てがうということから、エゴが出てくる源のブッディ、そしてプラクリティを辿っていく二十四の原理の瞑想を行なっていきました。それと同時に、二十四の原理の教えと類似している十二因縁の瞑想も行ないました。
その瞑想を続けていくうちに、心にゼロがかけられていく感覚が起こったり、また心を辿っていくと最後に残るのはプラクリティの根源であるカーリー、オーム、師のお姿という感触がありました。
そして忙しい合間、ただ階段に腰掛けて休憩していた時、この識別瞑想を行なうと、心そのものが解体されていく実感がありました。それは家が崩れていくようなものでした。
それからは不思議と、心自身がリアリティという実在性を失い、心の思いに執らわれることが一気になくなっていきました。
そして『ヨーガの福音』の師の教えの一節が自然と思い出されました。

「『複合物』はすべて生まれ、変化し、消滅するということです。『単体』なるものは初めから生まれもしないし、なくなりも変化もしない。それのみが実存しています。実体は永遠なのです。それが私たちの本当の自己であり、神、真理です。それだけを求めなさい。そして実現しなさい。あなた自身なのですから」

人生の主人公は解体されるような心ではない、その奥に在る壊れることない本当の自分、アートマンであります!
心に実在性がないと分かった今、私の心はアートマンに向かっています!!
2019年、この年も師の大いなる導きに誘っていただいたと確信した1年でした。
最高の師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。

ゴーパーラ


バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

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先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い


バーガヴァタ・プラーナ 悪魔バウマの解放

みなさま

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年は酉年ですね。酉年は「とりこむ年」といわれ縁起のいい年です。運気を取り込み、“絶好鳥”な実りある年といたしましょう。というわけで、鳥といえばクリシュナの乗り物である聖鳥ガルーダが有名ですが、今回は「バーガヴァタ・プラーナ」から、主クリシュナが聖鳥ガルーダに乗り悪魔バウマを退治した物語をご紹介しましょう。

悪魔バウマが水神ヴァルナの王座から君主の象徴である傘を力ずくで奪い取り、神々の母であるアディティから耳飾りを略奪し、さらに天界のメール山にあるマンダラ山頂のマニパルヴァタを占領してしまったことを、天界の王インドラ神から知らされた主クリシュナは、妻サティヤバーマーと共にガルーダに乗り、悪魔バウマが治める都まで飛んでいかれたのでした。

その都の四方は要塞で囲まれていて、火と水、風の帯がその周囲を囲み、バウマの従者である悪魔ムラの造った罠があちこちに仕掛けられていました。主クリシュナはこん棒と円盤(スダルシャン)を使って、そのすべてをことごとく破壊し、また五つの頭をもつ悪魔ムラをもスダルシャン・チャクラを使って、その頭を断ち落とされたのでした。

悪魔ムラとガルーダ

悪魔ムラとガルーダ

ムラには七人の息子がいて総攻撃をかけてきましたが、ハリ(クリシュナ)は鋭い矢を三本ずつ射て、それらをことごとく粉砕されました。さらに背に主を乗せる聖鳥スパルナ(ガルーダ)は、眼下を駆ける象たちを翼でなぎ倒していき、くちばしや翼、爪で攻撃するや、象たちは完全に狼狽して、慌てて都まで退却していったのでした。こうして自軍が壊滅するのを見た悪魔バウマは、稲妻さえも凌ぐほどの勢いで、ガルーダめがけて槍を投げつけました。しかし聖鳥ガルーダは並の鳥ではありません。その槍は、まるで象の身体に花環が触れたほどのものでしかありませんでした。攻撃が完全な失敗に終わったのを知ると、悪魔バウマはクリシュナめがけて、手に構えた槍を投げつけんとします。その瞬間、シュリー・ハリは剃刀のように鋭い円盤を投げて、象に乗った彼の頭を切断されたのでした。

その後、あらゆる富に囲まれた悪魔バウマの宮殿に入られたクリシュナは、バウマが諸国の王たちを滅ぼして連れてきた一万六千百人もの王女たちが幽閉されているのを発見されたのです。自分たちの部屋へ入って来られた美しい英雄の姿を目にすると乙女たちは完全に心を魅了されて、主を全員が夫として求めたのでした。
「どうか、この方が私の夫となられて、創造主がそれに賛成してくれますように」
そんな王女たちの思いを知られるとクリシュナは、王女たち全員の身を清めさせて、美しく着飾らせ、最高の宝石や馬車、馬などをもたせて、駕籠に乗せ、ドワーラカーへと連れていかれたのでした。

幽閉されていた王女たちは美しい主クリシュナに惹きつけられます

幽閉されていた王女たちは美しい主クリシュナに惹きつけられます

全能の主はその後、自らの普遍性と完全性を保ちながら、王女たちと同じ数にご自身を顕わされて、各宮殿で結婚式をあげられました。自らの祝福において完全であり、想像もできぬわざを為されるクリシュナは、素晴らしい宮殿にて、全く同時に姿を現して、家長の義務を立派に果たし、まるで普通の人間のように振る舞いながら、女神ラマーの部分的顕現である彼女たちと楽しく暮らされたのでした。王女たちには何百人もの侍女がいたものの、主が宮殿に来られるや、自分で主を迎えにいき、礼拝の品や席を捧げ、主の御足を洗い、キンマの葉を捧げたり、扇で風を送ったり、白檀や花環を捧げ、主の髪型を整えたり、沐浴の準備をしたり、食事を提供したりして、主に奉仕をしていったのでした。

シュリー・クリシュナは聖典の中でおっしゃっています。

私の献身者はすべての人に憐れみ深く、そして誰にも敵意を抱かない。彼らは忍耐強く、真理を唯一の力としている。また彼らは汚れなく、すべての生き物たちを平等な眼で観て、すべての人々の利益のために働く。ハートが欲望で汚されず、自制心があって、心優しく、純粋で、エゴの意識がない。また寂静で、節度があり、心をよく制御し、私を拠り所として、絶えず私を瞑想している。

主クリシュナのお妃たちは、主クリシュアの献身者であることに間違いありません。これは、人間の営みの理想の姿を現しているのだと思いました。私たちは家族に対して、また他者に対して、どれくらい献身ができているでしょうか。この物語を絵空事だと片付けてはいけないのだと思いました。
師は、私たちの本当の自己は、純粋な意識、存在、アートマン、または神と呼ばれると教えてくださっています。そうであるなら、私たちすべてのうちに主クリシュナがおられるのです。その思いが私たちを他者への献身へと向かわさせてくれるのだと思いました。そして悪魔は無知やエゴの象徴です。ばっさばっさと悪魔を切り刻む主クリシュナの栄光を、この目で見てみたいものだと素直に思うのでした。

ダルミニー