信仰を持つということ。

突然ですが、貴方は信仰をお持ちですか?

熱心に神社に参るとか、毎日仏壇に手を合わせるとか、意識せずとも信仰が日常に溶け込んでいる人もおられます。また、お願いごとや困りごとの時だけは、心の底から神様仏様を信じてすがるというのもありますよね。憧れる人、尊敬する人など現存する人間に対して信仰を持つ人も、亡くなった近しい人を心に想う人もいます。

私も信仰を持っています。ですが信仰の具体的な対象というと実はこれが説明しづらいのです。

名前を呼ぶと何故だか心がギューっとなるクリシュナ。絵で見たことしかない異教の神でしたが、キルタンで御名を歌ううちに、理屈ではない“何か”に触れて、バクティ的な信仰がいつの間にか沸いてくるようになりました。それは自発的では無い作用で、突然圧倒されるような、思いも寄らずに感情が崩壊するような。それはそれでとても幸せなものです。でも、私の場合、姿形を見るだけで愛しいとか、驚くような物語を読むだけでウットリするとか、そう言う想いとは少し違うんです。何千年も昔の伝説はもはや神話の世界で、御伽噺の様です。

それよりも「晩年は何々という病を患いながらも、生涯を通して何処何処で人々に教えを示されていました。」という様なリアルで史実のはっきりした方に心を惹かれます。写真が残っているとなお良くて、そうなると自ずと近代以降の聖者・覚者により親しみを感じてしまいます。彼等を経由してクリシュナやシヴァ、カーリーに想いを巡らせる感じでしょうか。

それはきっと私の“心”が、根本的には目に見えるものしか信じていないからで、(本当は信じたいんですよ!)もし世間の常識がまるで通用しないような世界をこの目で見たなら、あるいは心底認めたなら、私も神話や魔法の世界に没入し、そこで神と一つになることだけを、焦がれるようになるのでしょう。でも、そうなるにはまだ私の“心”は理屈っぽ過ぎるし、足りない頭にもかかわらず、余計な知識が邪魔をしてしまいます。裏を返せば科学の常識がブッ飛ぶような体験を、人知れず味わいたいという思いが強くあるのかも知れません。

しかし聖者・覚者はその世界を知っているのです。

私の信仰は、愛することや憧れよりも「この人には敵わない!」と降伏の末に服従せざるを得ない、圧倒的な能力や徳、そして慈悲を持っている方に対する態度かもしれません。平伏し従い、教えを請う内に、尊敬と愛が生まれる。私の大切な師に、私自身を明け渡そうと決めたのもまさにこの通りです。

信仰の態度は人それぞれですが、全ての信仰の動機は、その御方が見たものを自分も見たい、知りたい、感じたい、だと思います。そして正しいグルはそれを認め、忍耐強く導かれます。

人間にとって信仰は大きな宝物だと思います。ただし、それを得るにはそれなりの手順が必要なようです。最後に私の大好きな師の教えをご紹介させて下さい。

「もし貴方が宝物を受け取りたいと思うなら、今手に持っているガラクタを手放しなさい。」

Caitanya


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