さまらさの台所 里芋いろいろ

10月14日(祝月)はさまらさの台所があり、里芋のレシピを4つご紹介しました。
左上から時計回りで、里芋ナゲット、里芋サラダ、里芋の煮っころがし、里芋ご飯

里芋の歴史は古く、日本では縄文時代から食べられていました。現代では、芋というとじゃがいもやさつまいもを思い浮かべますが、江戸時代までは、芋=里芋のことだったとか、古くから栽培され、私たち日本人には馴染みのある野菜なのです。しかし近年では、じゃがいもやさつまいもの方が馴染みがありますよね。里芋は皮をむくのがめんどくさい、ぬめりがあって調理しにくいなど、手間の問題で頻繁に食卓に上がらないのではないでしょうか。

そこで今回は、里芋の皮むきのコツをご紹介したいと思います。
ますは、里芋をたわしでよく洗い、乾かしてから皮むきをします。そうすると、ぬめりが少なくなり、スムーズにむくことができます。洗ってから一時間近く干し、完全に乾かすことができればいいのですが、そんなに時間がないようなら、キッチンペーパーでしっかり水気をふくだけでも、だいぶ違いますよ。

また、皮をむくときは写真のように親指をしっかりと里芋に当てると、滑らず皮をむくことができます。両親指をくっつけておくとさらに安定して皮をむくことができます。

皮をむいてからは塩でもんで水で洗い流す、を繰り返してぬめりを取ります。ぬめりにも栄養素があるため、ぬめりをすべて取り除く必要はありませんが、味を染み込ませたい料理、煮っころがしなどは、ある程度ぬめりを取ると良いでしょう。

さて、皮むきが本当に面倒なときは、皮付きで茹でる(蒸す)という方法もあります。里芋は根菜なので水から茹でる(蒸す)ことで芯までムラなく火が通ります。火が通ると、皮はつるりと簡単にむけますし、ぬめりも残り、栄養素を逃がしません。

今回は、蒸した里芋でサラダを作りました。

蒸した里芋の皮をむき、フォークなどで粗くつぶして冷ましておきます。マヨネーズと醤油、柚子こしょう適量を混ぜ合わせ、冷ました里芋にさっくりと混ぜ、かつお節も混ぜて出来上がりです。簡単ですので、里芋の美味しい旬の時期に、ぜひ作ってみてください!


グルの存在と導き 〜サットサンガより

十月五日、秋の日は釣瓶落としという言葉通り、サットサンガ開始時間には、日が完全に沈み、暗闇が広がっていました。師から聞くヨーガの教えは、暗闇を照らす光のようだと感じ、その暗闇さえも美しく思えました。師のお座りになられる椅子の前には、すすきや秋の草花が涼やかに生けられており、はじめて師に会われる方も含め、たくさんの弟子が集いました。質疑応答は、途切れなくおこなわれ、質問内容は日常のこと、識別や瞑想、心のしくみ、マントラなどヨーガのあらゆる視点から行われました。

印象的だった師の教えをご紹介します。

「ヨーギーたちは昼間眠るようにしながら、そして夜中に活動する」っていう言葉は事実です。それは、何を意味しているかといえば、執着です。
世間一般の人たちは、はからずも、カルマによって、世界という社会や様々なつながりの中で執着というものがあり、その執着が活動的にさせるということで、朝日が昇れば起きるわけです。そして、疲れて夜眠る。しかし、ヨーギーたちは、まず、執着をなくしていますから、たとえ朝、目が開いていたとしても、そこには、執着する対象がない。しかし、義務としてなんらかの仕事や生活をやっていく上の活動というのは、あたかも眠ったかのような無執着の心で行うというそういう意味です。

 師ご自身も、お仕事をされていたある時期には、昼間は精一杯、フル回転で働き、真夜中に家族が寝静まってからアーサナをされていたそうで、この教えは、師、ご自身の経験でもあると話されました。また、「朝、目が開いていたとしても、そこには執着する対象がない」と表現された、師ご自身の境地に胸が震えました。私は、その時、師が真のヨーギーであることを改めて実感したのです。私たちと同じ現代社会を生きる真のヨーギーが、日本の京都という地にいてくださって、こうしてその叡智に実際に触れられるという事実がどれほど尊いことなのかと思いました。そして、師はさらに、昼間眠るように世間の義務を果たすコツを教えてくださいました。

コツは何かと言えば、無執着心でいること、もうひとつには、真実である神を見つめること、同時にまた目の前の人たち、いろんなものに対して神を見ること、それが、コツになると思います。

 師の教えは、質問者がその境地に至るように、今、実践できることが必ず示されています。どんなにその境地が遠くても、今できることを指し示されます。そこには真理だけがあります。そしてそれは、純粋な愛によって発せられ、祝福と共に質問者に授けられる、とてもリアルなものです。それに触れるだけで、自らの不純なものがあぶり出され、消え去るように感じます。改めて、師(グル)の存在と導きを実感したサットサンガでした。

オーム タット サット オーム!!

山口正美


掃除の心得

先日、マハーヨーギー・アーシュラマでサットサンガが開かれ、前回のブログには参加した方の素晴らしい感想が多く寄せられていましたね。
覚者であるシュリー・マハーヨーギーと今生で出会うことが本当に吉祥なことなのだと、皆さんの感想を通して感じられ、たいへん感動しました。
私の職場の方もこのサットサンガに参加し、その後少しだけ話ができたのですが、「あの空間にいれたことが、本当によかった。ヨギさんは質問に対して、とても真剣に考えてきちんと答えてくださり、それに驚きました。どんな方に対しても平等に接せられていると感じました」と嬉しそうに話していました。

ここ数年は、サットサンガの会場が変わったこともあって、マハーヨーギー・アーシュラマに集うことが少なくなったのですが、「もっとアーシュラマを活用していこう!」という思いで、先月の9月1日は京阪神のグルバイが集ってアーシュラマのお掃除をさせていただきました。(その時の様子はこちらのブログにて⇒『アーシュラマの集い』
その際、先輩グルバイのシャーンティマイーさんから「掃除の心得」を教えていただきましたので、ご紹介させていただきます。

「掃除で物を移動させても、物はあるべき所にきちんと戻す。単に清掃するのではなく、場のプラーナ(気)を乱さないということ。自己流ではだめ。そのためには落ち着いて掃除をすること」

シャーンティマイーさんは、アーシュラマで掃除を始めた頃、掃除で物を移動した際、その位置が変わっていて、シュリー・マハーヨーギーは何も言わずに元の位置に戻され、シャーンティマイーさんはそのことを何度か目にし、ハッとさせられたそうです。
私自身もアーシュラマのお掃除をして何度か元の位置や角度とは違う置き方になっていたことがあり、改めてこの掃除の心得を教えていただいて、心を落ち着けて集中して掃除に取り組むように心掛けました。
そのためか2時間の掃除はあっという間に過ぎ、終わった後はとっても清々しい気持ちになっていました。
それは私だけではなく、掃除をした方が一様に言っていました。

もともと私は掃除することは嫌いではなかったのですが、このアーシュラマでのお掃除からは普段の掃除が何だか楽しく、楽に行なえるようになっていて、心身が軽快になっているのに驚きました。

掃除は日常の身近で地味な行為です。
でも心持ち一つで、場もそして人の心も浄化する、奥が深い行為だと感じさせられました。
単純ですが、「掃除って、すごい!」と実感させていただいたアーシュラマでのお掃除とその心得でした〜!

ゴーパーラ


サットサンガ@マハーヨーギー・アーシュラマ

先週の土曜日、マハーヨーギー・アーシュラマにてサットサンガが行なわれました。趣のある調えられた京町家の空間に、各クラスからの初参加の方が中心に集いました(なんと九州から遥々来られた方もありました!)。

和やかな雰囲気の中、活発な質疑が続きました。シュリー・マハーヨーギーは終始にこやかに様々な質問に応えながら、私たちが人生において何を一番大切にするべきか、何をゴールに据えるべきか、丁寧に語ってくださいました。
誰もが師の存在に魅了され、師が語られる真理の言葉を受け止め、これから歩みを進めるための大きな力をいただいたように思います。

終了後にはたくさんの感謝と感動の声が届けられました。師の尊さ、人となり、導きをそれぞれがどのように感じ取られたのかが、それらのメッセージからみずみずしい喜びとともに伝わってきます。ここにいくつかをご紹介します。


ヨギさんに近くでお会いして、実際のお声を聞くことはなかなかないのですが、それだけで透明な、とても純粋な水に触れたような、清らかな心地よい時間を過ごさせていただきました。
自分は誰か?という問いかけについて、瞑想クラスで教えていただいてきたことが、より具体的に理解できたように思います。
エゴで覆い隠されてしまっている本当の自分を少しずつ明らかにしていくことがするべきことなんだとわかりました。
そして、カルマについても果たしていかなければいけないんだと気付きました。
みなさんの真剣な問いかけに対して、ヨギさんの柔らかな笑顔がとても印象的でした。本当に素晴らしい機会を与えてくださり、ありがとうございました。
これからのヨーガの実践のための、心の支えになりました。

* * *

質問に対して真理から答えを出されているということが初めての体験で、非常に心に響きました。ヨギさんが言っているからという理由でただ信じるのではなく、「自分で考えて、確かめて、実感してください」と言われたことが印象的でした。

* * *

ヨギ様にお会いできて一番強く感じたのは「何もない中にすべてある」ということでした。
所有や肩書きの多い生き方より、最も豊かな生き方だと思いました。
「すべての命が永遠であり、一つである」
あなたが私で、私があなた。すべては一つ。
みんなが「それ」に目覚めたら、争いも諍いも苦悩も消滅すると思いました。
貴重な体験をさせていただき心から感謝いたします。
また必ず参加したいです。

* * *

アーシュラマの2階に着いた時、不思議と緊張がほぐれ、以前お会いした時と変わらない雰囲気のヨギさんにほっとしました。
「わたしは誰?」ということを考えていくことで真我が目覚めることに近づいていく、名前はあくまで印であるということが強く印象に残りました。
家に帰ってからそのことについて考えていると、そういえば「ブッダ」という言葉は人の名前でもあるけれど、「目覚めた人」という意味があったことを思い出しました。本当の自分(=真我)に目覚めることが、今後の目標だなということを、今回のサットサンガを通じてようやく実感しました。
まだスタート地点に立っている感じで、まずはヤマ・二ヤマできているかなという確認と実践から取り組んでいく所存です! 道は長そうだし、今世で実現できる可能性は限りなく低い気がしますが、今回知ることができただけでも一歩踏み出したのかなと思います。
また、食事や働き方に対する姿勢など他の方の質問も、自分自身の今ある状況に置き換えて考えることができてとても勉強になりました。ヨギさんと今回この場を作ってくださった皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。

* * *

子どもに伝えるべきことについて、ヨギさんが「神はここ(胸の内)にある」とおっしゃられたことがとても胸に響きました。自分の子が救われ、また自分も救われた思いがしました。
ヨギさんの眼差しと、ヨーガと瞑想に励みなさいとのお言葉を胸に努力していきたいと思いました。

* * *

ヨギさんの印象は、(上手な表現ができません。失礼をお許しください!)よい意味で拍子抜けするほど、師匠とか教祖とかにありがちな変な威張るような力んだ威厳が全くなくて、もんのすごいニュートラルな感じの方(力みが全く感じられない人)だなぁと感じました。
一連のお話を拝聴させてもらって感じたことは、アートマン(真我)を覚醒することが人生の目標、目的であるということ。そのためには、自分の心のモヤモヤ(カルマやエゴ)が起こらないような選択をし、思考を変化させていくことも必要なのかなと感じました。
かなり独りよがりな思考に陥りがちな私には、よい影響を受けたと思います。

* * *

ヨギさんが慎重に言葉を選んで長くなく必要なお話を受け答えされている姿に感銘を受けました。お一人ずつの思いは違えどその方の必要な答えと言葉には、普遍的な共通するものがあり、サットサンガに集まる理由がわかりました。真の導師のお姿に感謝の念を覚えました。
私へのお答えにも、確たる確信の言葉を得られました。この日が来たことに大きな感謝と、これからは迷わずひたすらにヨーガの道を歩んで行きたいと決心したところです。


マハーヨーギー・ミッションでは、毎月第一土曜日、師の定例サットサンガを行なっています。
また今月、10月19日(土)、20(日)は松山でも特別サットサンガを開催予定です。
どちらも、初めての方も、どなたでもご参加いただけます。
生き方を模索している人、ヨーガや瞑想を真に学びたい人、師を探している人、自由や愛、真実を求めている人・・・ぜひ、師の息吹に直接触れてみてください!


さまらさの台所 WEBレシピ公開

10月1日から毎月一回、その月の旬の食材を使ったさまらさの台所のレシピをWEBで紹介していくことになりました。

https://www.mahayogi.org/classes/archives/3936

さまらさの台所は2005年に発足し、ヨーガの食事についてクラスや機関紙(パラマハンサ)で紹介してきました。2014年には本が出版され、これまで以上に多くの方にさまらさの台所を知っていただく機会となりました。その後もさまらさの台所は活動を続けていく中で、多くのレシピが生まれてきました。

季節ごとのレシピとヨーガの食事の基本について書かれてあります。

私は2008年からさまらさの台所を学び始めたのですが、それは食生活を見直す大きなきっかけとなりました。さまらさの台所のメニューは、旬の食材を、どの家にでも必ずある調味料を少し使って、手早く作ることができます。とてもシンプルな調理法なので、旬の食材の美味しさを堪能することができ、調理時間は短縮されます。食材のプラーナ(エネルギー)が体に染み渡るのを感じ、私は習い始めてからすっかりさまらさの台所にハマりました。体を維持するためには、毎日何かしら食べなければなりませんが、私の場合は、さまらさの台所によって体を維持することができたと言っても過言ではありません。

ある日、仕事を終えて家に帰り、少し疲れていたのですが、家にある食材でさまらさの台所のメニューをパッと作り、美味しいなーと思って食べ終わり、休んでいたときです、心の底から「さまらさのメニューって本当に美味しいし、簡単だし助かるわー」と思ったのです。それと同時に、もっとたくさんの人に知ってもらいたい!いや、この忙しい現代に生きる人みんなが知ったほうがいい!きっと私と同じように「美味しいし、助かるわー」と思うはずだと思ったのです。

そこで、実際に調理して、その良さを味わってもらいたい、できるだけ多くの人の目に止まってほしいという思いから今回の企画が生まれました。

今月のきのこのパスタもぜひぜひ作って見てくださいね。そして、お友達やお知り合いにも紹介していただけたら嬉しいです!毎月1日(ついたち)に公開予定ですので、これからも楽しみにしていてください!


アーシュラマの集い

9月も下旬になり、秋風が心地よい季節になりましたね。
爽秋の候、いかがお過ごしでしょうか?
 
ところで、まだ残暑が続いていた9月1日、京阪神のグルバイ(ヨーガの仲間)がアーシュラマ(僧院)に集いました!この日は、師のニューヨークからのご帰国前に、アーシュラマを掃除してお迎えしたいという思いで、マハーヨーギー・アーシュラマとプレーマ・アーシュラマの二班に分かれて、両アーシュラマのお掃除をさせていただきました。(参加者はマハーヨーギー・アーシュラマは11名、プレーマ・アーシュラマは10名の計21名)
マハーヨーギー・アーシュラマでは、お掃除が初めての方もおられる中、先輩グルバイから場のプラーナを調えるヨーガ的お掃除の心構えなどを教わりながら、一階と二階、玄関やお庭のお掃除に取り組みました。
プレーマ・アーシュラマは礼拝室、玄関周り、縁側・庭の雑草引の他に、土手の清掃・花壇の手入れをしました。
 
 
午前の掃除後は、丹波で農業をしているグルバイのお野菜を使って、料理班が作ったお食事をプラサード(神のお下がり)としていただきました。野菜の味わいが存分に生かされたお料理が本当に美味しく、その流れでヨーガ談義に花が咲きました!最近の瞑想の取り組みや、大切にしている師の教えなどを一人一人が話していき、あっという間の楽しいひと時でした〜
 
 
 
プレーマ・アーシュラマでは、ニューヨークに師と5日間滞在した桜井さんの話を聞きたいとの声が多く、その時の話を聞き、その流れで、師の日常の過ごされ方や教えなど各自が今も強く残っているニューヨーク滞在時の導きを話していき、学びも多く、楽しい会になりました😄
 
 
今回参加したグルバイからは、「掃除の素晴らしさ、アーシュラマを大切に守っていこうという気持ち、グルバイ同士の交流が与えてくれる勇気。師からいただいたそういったさまざまなものの有難さを再確認できた良い1日でした」という感想がありました。
サットサンガやクラス以外の時間でゆっくりと話す機会が意外と少なかった京阪神のグルバイですが、今回の集いを通じて、共同してお掃除をしたり皆でお料理をいただくことで、グルバイ同士の親しみが芽生えたり、より深まったように感じました。
また、このようにアーシュラマの集いができればと思っています!
 
 
ゴーパーラ

日常がアーサナにあらわれる

アーサナのクラスを受講していたときのことです。鳩のポーズ(カポタ・アーサナ)をすると、毎回腰が痛いと思っていたので、講師の先生にポイントを尋ねると、「それは落ち着くところに落ち着くというか・・・自分でやり続ける中で見つけていくしかない」と言われ、そして「やっぱり腰に力を入れること」と言われました(違和感のある痛みであれば無理せず控えることも言われています)。実はその前回のクラスで、別のアーサナ(マッチェーンドラ・アーサナ ねじる形)でも腰が引けていることを指摘して頂いていたのでした。

アドバンスで取り組んでいる鳩のポーズ。もっと腰に力が入れられると、顔の位置がさらに足へ近づきますね。

そう言えば猛暑が始まってから身体がだるく、水分を取る量も増えて、普段から家の中では猫と一緒に寝そべってゴロゴロしていることが多い・・・。仕事中もお腹の力を抜いて悪い姿勢をしていることが多い・・・と日常での行為を思い出し、思い当たる節があることをお伝えすると、「アーサナはたった2時間やけど、他の時間の方が長いから・・・・・・。でも今気付いたんやから、もう大丈夫!」と優しく勇気付けてくださいました。日常の在り方がダイレクトにアーサナに影響していることを改めて実感し、自分の身体の癖をしっかりと見てくださっている先生の視点の深さに感謝するばかりでした。

帰りに自転車をこぎながら、心の習慣も同じだなと思いました。何かに執着していたら、どんな場面においてもそれが原因で心は苦しんでしまう。隠そうとしても隠せなくて誤魔化してうやむやにしても状況は変わらない。謙虚になって努力を続けていくことでしか、前には進めないのだと思いました。

さあ、やっと涼しく過ごしやすい季節となりました。アーサナを始めるのにも良い季節ですね。日々の生活も、アーサナも、瞑想も地道に取り組んでいこうと思います。

アマラー


歓びの本質

15日の日曜日、連休の中日、鴨川へキールタンを歌いに行ってきました! 現在は大阪と京都でバクティ・サンガムを行なっていますが、最近は定期的に来てくださる方も少しずつですが増え、まだ外で歌ったことのない方もおられたので、ぜひ鴨川でのキールタンを体験してもらいたい!と思ったからです。

最近の夏は外に出るのも辛いほど暑い日がありましたが、日曜日の夕方は秋を感じる心地良い風が吹いていて、裸足で柔らかい芝生の上に座るととても気持ちよく、すでにそれだけで、みんなと喜びました笑。10名ほどが集まりましたが、昨年イベントで知り合った方や久しぶりの方が来られたり、また歌う曲ごとに近くを歩いていた方が輪の中に入ってくださったりして、気付くと20名ほどの大きな輪になることもありました。

最近キールタンを歌っていてよく感じることは、師がいつもおっしゃっている、人の本質は歓びである、ということです。この日も初めてキールタンに触れた方が、歌詞は十分には分からないけれども顔を紅潮させながら、今にも弾けそうなほどの幸せな表情で歌われていた姿に、私もとても幸せになりました。キールタンは、私たち魂の本来の姿を、自然と引き出してくれるのかもしれません。そして最後には、みんな踊りだしていた〜〜。

終わってから、初めて鴨川で歌われた方の一人は、「何も気にしなくてもよかった、とても楽しかった」と言われていて、本当にそうだなぁと思いました。自分が人からどう見られているか、ちゃんと歌が歌えているかなどはいつの間にかどこかに行ってしまって、神の御名だけを、自分の思いのままに素直に唱えられたのだと思います。

また、みんなで歌いに行きたいと思います!

あ! でも、毎月バクティ・サンガムもしています。今月の京都は22日(日)に行ないますので、そちらの方にもぜひお越しくださいね〜。

今月からまた3カ月間、新曲に挑戦します!

ミラバイ

 


徹底した識別の先にあるもの~サットサンガより

2カ月にわたるニューヨークご布教から戻られた師にお会いするため、多くの弟子や新しい方が集まった9月の定例サットサンガ。今回、師からニューヨークの様子をお聞かせいただきとても嬉しく励みとなったのは、ニューヨークのサンガ(弟子たちの集まり)のつながりが強くなっているということです。

彼らは個人主義的な教育を受けて育ち、サンガのつながりを深めていくことは簡単なことではなかったようですが、勉強会やミーティングを通じそれぞれの悟りへの熱情が高まり、サンガのつながりが強くなっていったそうです。
ニューヨークでの最後のクラス後、深夜にもかかわらず師と別れ難かった多くの弟子たちが師の滞在するお住まい前の公園に集まり、師にキールタンを捧げたそうです。捧げずにはいられない!!それほど情熱が高まっている!!!そんな様子が目に浮かび、聞いている私たちもその溢れる思いに触れたようでした。
こうした変化について師は、「2年前に話した“ロープの例え話”が薬となったようです(笑)」といたずらっぽくおっしゃいました。(→ロープの例え話のブログ

いくら知識があっても、アーサナをして瞑想をしていても、此岸(しがん)につながっていては一歩も彼岸(ひがん)に進むことはできない。すべきことは、ロープを外すこと。まずこの世界に対する執着を無くすこと。

そして、こうもおっしゃられました。
心にまがい物があるような状態では、真剣さも情熱も限りがあるということになる。

世間への執着を手放し、放棄する。それがなければ、全てに限りがありその先へは進めない。師はこの日のサットサンガを通じて識別の必要性を説かれましたが、まず自分が握りしめているものを見極め、手放さなければならないと強く感じました。そして、初めて師にお会いするために遠方から参加された方にこう説かれました。

放棄というものは、闇雲には出来ないものです。正しい識別によって、心が「これは間違っていたのだ、これはいらないものなのだ、これは完全ではない、永遠ではない」ということを理解すれば、その問題は識別されたということになって、自動的に放棄されます。
やるべきことは、引っ掛かっている問題に対して「それは完全なのか、それは本当の幸せなものなのか、永遠に存在しているのだろうか、真実なのだろうか」と、真理の言葉を突き合わせるようにして。そうすればどちらが正しいかということが直観されます。識別はそのようにしてやっていってください。

識別と放棄を繰り返し、さらに微細なところから原因というところまで識別を徹底する。本質としての真実性があるのか、ないのかを見極めていく。こうした徹底した識別は、「玉ねぎの皮を剥いていくようなもの」と師はおっしゃいます。

全部剥いてしまえば何もない!からっぽで自由!!それは私たちが拝見している師のお姿そのものです。私も夢からすぐにでも覚めたいけれど、やることは一歩ずつ、日々努力を積み重ねること。玉ねぎを剥いたその先に何があるのかを、ご自身で示してくださる師に出会えた奇跡に感謝をしながら、努力を重ねる!!そう強く思ったサットサンガでした。

ターリカー


一点の光

家族や職場の様々な問題を解決するために、ヨーガに救いを求める人は多いです。ヨーガを実践していくと、不思議なことに、四面楚歌のような状況が打開され、凝り固まった心がいつの間にかほぐされ、一筋の道が見えてくることがあります。

今回、大阪のプレーマ・ヨーガ・サークルで活動されている尾崎さんが、日々のヨーガの実践について寄稿してくださいましたので、ご紹介させていただきます。


昨年の秋、家族が心と体のバランスを崩してしまい家からも出られなくなりました。その時、私は家族にとって何がよいことかを考え実践しようとしましたが、心配事が尽きず、ずっと緊張状態でいたので、疲れ果てる毎日でした。

そんな時、「ヨギさん!」と何度も心の中で繰り返しました。そうするとヨギさんの笑顔が浮かび、呼吸が上手くできていない事に気づくのでした。フーッと深く息を吐くと緊張でガチガチになっていた肩の力が抜けて、途端に安堵感に包まれました。そうしていくうちに、次第にどの様な結果がやってきても気にならなくなっていきました。目の前が真っ暗になってしまった私の狭い世界で、ヨギさんは一点の光でした。その光を見失わないように、必死でヨギさんを思い続けました。

そして、今年の春の祝祭の日、私は参加出来なかったのですが、少しでもお祝いの気持ちを届けたいと、ヨギさんに思いを寄せていました。その時、目に入ってきた日陰で咲いた桜にとても美しい生命力を感じた瞬間、「もっと純粋になりたい!」そんな強烈な思いが湧き上がってきました。それは、家族の為に何ができるのかと、瞑想を続けてきた私へのヨギさんからの答えだと思いました。ヨギさんの祝福はいつも分け隔てなく降り注がれている!それに気づくかどうかは自分次第なのだと改めて教えていただいた気がしました。

家族は上向き調子に良くなってきています。私も、暗闇から抜け出し、相手にとって良き事とは何なのかを深く考えられるようになってきました。私は心配の余り当事者の苦しみを自分の事と感じてしまっていたのです。相手の立場に立って考えるのではなく、相手と同化しようとし、依存していたのでした。家族に対して行なっていたのに「私」が主語になっていたことに気づくことができました。「ヨーガを学んでいる私がどうにかしなければ」と驕っていたのでした。

家族と暮らしながら、家族への執着を放棄することは無理だと思っていました。しかし、それは間違いでした。放棄するのは形ではなく、心の方だったのです。私は私、家族は家族。そこからは識別と放棄の日々が始まりました。見守って、寄り添って、必要な時は手を貸す。そこに私のエゴはないか、本当に相手にとって良き事か行為する前に一呼吸おいて識別し、放棄する。手を貸すことは簡単だからつい手出し口出ししてしまう。それがエゴであっても行為をした満足感を喜びと勘違いすることもある。ほとんどがそんな失敗の繰り返しでしたが、以前よりは相手の気分に振り回されずに行為できるようになってきました。

一時は落ち込んで、疲れ果てて何のサーダナ(修練)もできずにいましたが、ヨギさんという光を見失わずにいられるのは、ずっと私を励まし、光のもとへ引っ張ってくれたグルバイ(兄弟姉妹弟子)の存在があったからです。それもまたヨギさんが与えてくださった祝福なのだと思いました。この降り注がれる祝福に気づく人がもっともっと増え、真理という一点の光を見つけることができるならどんなに素晴らしいでしょう!
「純粋になりたい!」という思いは、身近な家族を超えて、もっともっと広い世界に私を導いてくれるのかもしれないと思いました。

尾崎恭子