仕事の動機は?

面接や履歴書で問われるのは、志望動機。幼い頃も「将来は何になりたい?」と聞かれた。私はずっとなりたいものが見つからず、学校の進路指導では、最後は先生にも諦められた(!)

仕事というのは、人生の中で重要な位置を占めていると思っていた。けれど、ヨーガでは仕事が特別な位置付けではなかった――仕事自体は何でもよく、従事することになった仕事に対してベストを尽くすが、それ以上でもそれ以下でもない、仕事での結果にも執らわれない。それを知った時、目から鱗が落ち、仕事像の呪縛から解き放たれた。

空に向かって真っ直ぐ咲く!

ところで私は最近、転職を考えていた。目の不自由な方に付き添う仕事をしてきたが、情熱が薄れてきていた。しかし、「仕事は何でも構いません」と師もいつもおっしゃっているし、ここから淡々と続けるのも大切に思える。これまで仕事を続ける中で、師はさりげなく私の仕事への思いを尊重され、そして優しく背中を押してくださった。だからこそ迷いながらも続けられてきた。…と、悩んでいた矢先、不意に元日から眼に不調があり仕事をセーブすることになり、調子が元に戻ると次はコロナ禍で仕事ができなくなった。必然的にお金や仕事について、じっと見つめることになった。(お金については前回書かせていただいた→前回ブログ

振り返ると、始めた当初は、私が目になる!役に立ちたい!と思い入れがあり、やりがいも大きかった。いつからか、誰もがそれぞれの立場で人生を歩んでいると知るにつれ、目が不自由ということが単純に不自由とか障害というふうには思えなくなり、最初に抱いていた「困っている人」という見方がなくなった。この仕事の必要性を見いだせなくなり、最近は仕事をする動機がよく分からないまま働いていた。
その状態を何とかしたくて、ヨーガの教えを拠り所に仕事自体の目的を考えていたことがあった。目の不自由な方が求める視覚情報を正しく伝え、自分の体を道具にして道中を安全に案内し、相手がその日の目的を果たせれば、仕事の目的も果たされたことになる。仕事の前には、そう意識し、相手の今日の目的に集中するよう徹していくと問題点は気にならなくなり、どんな仕事も仕事自体の目的を果たすことが仕事なのだと実感する瞬間があった。仕事が存在しているということは、その仕事自身の目的があるから。道理として、目的がない仕事なんて存在しないことになる。だから、この仕事は必要ないのでは?と私が考えるのは愚問だったことが分かった。けれど、情熱は戻らないままだった。

そしてステイホーム期間、生活にさほどお金がかからないと気付いた時、お金を得るための仕事は優先順位が下がっていった。その頃、前回ブログを書き進めていた。
種明かしになってしまうけれど、前回ブログ『何のためのお金?』の中で
「生きていく、それだけをシンプルに考えれば、本当はそんなにたくさんのお金は必要ないのかもしれない」という文章の後、最初は
“そんなにたくさん働く必要もないのかもしれない”
と続けて書いていた。しかし校正してくださった先輩から、この一文に対してコメントが添えられていた。
「働くのは結果的にはお金を得ることが目的になりますが、それだけでなくて、仕事を通じて様々な経験を積むというカルマを果たすためだとも考えられます。生きている限り行為をしなければなりませんし、ではどう働くのかという働き方と働きの目的が大事になってくるのかなと思います」

ハッとした。 ここだけ文章の校正というよりも、私への核心を突かれるヨーガの教え…、働きの目的…、私自身の働きの目的は、はっきりしないままだった。お金、仕事、人生…もう一度それぞれの目的について考え続けた。

そんな時、久しぶりに長時間の仕事があった。内容的にも安全確保に神経を注ぐ仕事だったので、ちゃんと動けるか不安もあった。結論からいえば、私の体が私自身を導いてくれた。口からは必要な情報が勝手に飛び出し、足と手は安全確保をしながら勝手に動いてくれた。不思議だった。こんな感覚は初めてだった。仕事後、妙に静まり返り、私はこの身体を生かさなければいけない、と思った。昔、「自分が人間として生まれたからには、この心と身体を使って生かせることがしたい」と思ったことを突然、思い出した。たしか当時の履歴書にもそう書いた。人生の目標が「悟り」なら仕事もそのためにある、だから働くんだ、ということが実感を伴って繋がった。

仕事帰りによく立ち寄る。いつも季節の花が咲いている。

眼に不調が出た期間、やっぱり困ること不自由なことがあった。それで気付いた。困っている、不自由というのは、ただの事実なだけで良い悪いの次元ではないと。つべこべ考えず、ただあるがままを見よ!と自分の眼から一喝された気がした。仕事にベストを尽くすには、自分の情熱とか、相手が困っている・いないとか感情論は必要なく、あるがままの事実を正しく見ることがまず必要だった。そういえば、事あるごとに意識してきた言葉がある。「一にも二にも観察」 十数年前、福祉職に転職した時にヨーガの先輩から言われた言葉だ。先輩は全く違う仕事をされていた。けれど私はこのアドヴァイスを守ることで、仕事中、幾度も助けられてきた。職種は関係なかった。どれだけ自分を棄てて、対象だけを正しく見れるか? 長年、師の下で学ばれた先輩は私にそう示唆されていたのかもしれない。

どんな仕事にも必ず対象(人やモノ)があり、対象のために仕事を進めていっている。その仕事自身の目的を果たすことが仕事。でも仕事は単なる一つの役割。だからこそ役割ならば、それに徹しなければいけない。もっと目的に集中しなければいけない。この身体に任せて、今の仕事がくるなら無心で働けばいい。「どんな役割にも優劣はなく同等で、できることは心を込めてやっていくということ」と師から教わってきた。
この命が生かされ、身体が動くのは、やっぱり摩訶不思議で、大いなる存在を思わずにはいられない。ヨーガでは、本当の自分はこの体でもなく、この心でもないという。心のざわめきが静まったとき、本当の自分が輝き出るという。

夏の光で輝く花

自分のやりがいも動機も何も要らないじゃないか!と思えた。むしろこれからは、自分自身の個人的動機のない働きを目指したいな。そして、師が仕事に対して贈ってくださった言葉、「真心を込めて、やっていく」を胸に、その時々の与えられた役割に徹したい。それが仕事をする動機だと思う。
今なら進路指導でも、「将来は何になりたい?」の質問でも、堂々と言えそうかな(笑)「なりたいものはヨーギーです」

野口美香


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