投稿者「サナータナ」のアーカイブ

聖地を巡る

パワースポットなるものが人気ですね。
(今でも人気があるのかな? もう下火なのでしょうか?)
われわれ日本人は宗教を毛嫌いしていると自分たちでは思っているのですが、世界でもまれに見る宗教的な民族だと思います。
どうしてパワーがあるのか知らなくても信じることができるわけですから。(感じる能力が精細とも言えるし、ある意味では迷信的とも言える)
それが良いところであり、悪いところでもあると思います。

パワースポットというのは、昔の言葉で言えば「聖地」ということなのだと思います。
聖地はどうして聖地なのか?
そこで聖なることが行われたからです。

そこを訪れる人が皆、聖なる気持ちをもって歩くだけでも、その思いが土地のプラーナ(生命)として蓄積されて、現代的に言えば「パワー」として感じられるのでしょうね。
特に、聖なる人がかつて住んでいた場合には、特別な聖地になります。
聖者の純粋な思いと行為がその地に染みつき、人々にそれを思い出させ、また無意識のうちにもそれに影響されます。
インドにおける聖地というのは、そういうものです。
インドの人はそうした聖地を巡って、かつてそこに生きた聖者たちの思いや息吹を浴び、祝福を受けようとします。

シッダ・マールガでは今、そういう試みをしています。
かつてこの地上を生きた聖者たちの生命(いのち)、息吹を感じ、清純な思いと憧れで、その生命の中に入っていこうとしています。
手がかりは彼らの生きざま、その行為と言葉です。
残された手がかりを頼りに、彼らの思いそしてハートへと入り込んでいきます。
どのような決意をもって彼らは悟りを目指す旅に立ったのか? 日々を淡々と過ごしながらも、その無執着とは対称的な燃える信仰をいかに生きたのか? 彼らの人々を見つめる眼差しはいかなるものだったか?
残された情報は多くはありません。
それでもその行間に彼らの魂を感じることができます。

今週日曜日のシッダ・マールガでは、佐野さんが素晴らしい発表をしてくれました。
近代の覚者シュリー・ラーマクリシュナの直弟子、スワーミー・ラーマクリシュナーナンダについて本を読み、彼の生きざまについてじっくり考えて、瞑想をしてくれました。
じっくりとはいっても、考えて瞑想していたのは実質3日だったそうです。
時間・期間の長さではなく、やはり瞑想は集中の強度が大事だということが改めて分かりました。
インドの地図を買ってきて、スワーミーが歩いた足跡を丹念に辿りながら、まるで聖地を歩むように、彼の魂の足跡を辿っていったようです。
その地を歩き、修行に情熱を傾け、そして人のために働いたスワーミーの短い生涯が、佐野さんの言葉を通して伝わってきました。
特に、師であるシュリー・ラーマクリシュナに捧げられた思いが格別で、それが彼を愛と無恐怖の境地に導いたことが印象的でした。

聖地を巡ってパワーをもらうというのも、その根源の真実を知って、むしろダイレクトにその聖なる生命の源に入っていけば、単なる迷信に終わらない、確かな祝福があると思います。
そういう意味で、聖者たちのハートこそが詣でるべき真実の聖地であり、またその息吹を感じられれば、われわれの心もまた聖地にすることができるのだと思います。

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空白地は存在しない

ヨーガを始める少し前、沙漠に憧れたことがあった。
人間が作った意味や義務や正しさに埋め尽くされていない、「無意味」の空白地に行きたいと思った。
それで中国のタクラマカン沙漠にも行ってみた。
あるいはアフリカの中央部にも行ってみた。
しかしどこに行っても、自分が日本人の何某であることを証明しなくてはならない。
世界地図はどこも何色かに塗られており、誰かの(どこかの国の)土地であった。
空白地が存在しないことの絶望。
常に何者かであり、何者であるか証明し、意味のあることしかしてはならない世界にとてつもない息苦しさを感じたものである。

外界に空白地を求められないことを知るのとほぼ同時期に、内面に空白地を求め始めてもいた。
頭の中は言葉でいっぱい。
心は常に忙しい。次々に勝手に悩みを作り出す。
自縄自縛とはこのこと。
蜘蛛が吐き出した巣の網に、自分自身で引っかかっているようなものだ。
心に重い鎖をかけられ、引きずっているように感じていた。
こんなのはもう嫌だ——何の確信もなかったが、その向こうに空白地を探し始めた。

必死にヨーガをした甲斐があって、これらはすべて過去の話になった。
「意味の世界」は、原因と結果の果てしない連鎖の世界、昔の言葉で言えばカルマ(業)によるサンサーラ(輪廻)の世界だということも分かった。
今はずっと自由だ。胸いっぱいに息が吸える。
それどころか、世界はずっと広く、果てしない可能性が含まれているものに感じる。

今また空白地のことを思い出したのは、意味の世界に再び戻ってきたからである。
意味に縛られなくなってきて、再び戻ってきた。
そして気づくことは、今の我々人間の考え方が無限の空白地があることを前提に成り立っているということだ。
いくらゴミを捨てても誰も困らない土地や、いくら使ってもなくならない自然や、いくら酷使してもよい物やあるいは人、いくらでも豊かに、いくらでも獲得して消費して、いくらでも生産することを許す無限の空白地があるかのように振る舞っている。

ヨーロッパ大航海時代のメンタリティーが500年たっても変わっていないのだと思う。
むしろ歴史的には「適者生存」とか「見えざる神の手」だとか、それを正当化する理論の方が発展してきた。
人や価格どうしの衝突(競争)が最適な位置を見つけるという、人間社会内部にしか目が向いていない考えである。
それは無意識のうちに、外部には何をしてもいい無限の空白があることを前提にしている。
でも、大航海時代にも空白の新大陸などなかったし、奴隷にしてもよい人などいなかったかったように、人間(自分)の外側に無限の空白地があるわけではない。
いくらでも生産して、いくらでも消費すればいいと、その需給バランスは「見えざる手」が決めると、人間社会の内部の論理だけで考えてきたが、ついに自然がそれを許さないところまでやってきて(需給のバランスでなく、自然の限界が決定権を持ち始め、予想外の「見えざる手」となって)、やっと無限の空白地という前提が間違っていたことに、我々は気づき始めている。

人の命も、自然の命も有限。
隣には他の人がいる。動物や植物がいて、自然がある。
誰もいない場所は存在せず、世界は網の目のように構成され、自分はその一部である。
それは確かにカルマによるサンサーラ。
でも自分がその一部であることに、今は喜びを感じる。
どうして? 以前にはとてつもない苦しみだったはずなのに。
そこに積極的に身を委ねていこうと思えてくる。
そこに貢献していこうとする喜び。
奉仕の喜び、献身の喜び。
有限の命はそのために生かされてこそ輝くのだと思い始めている。
業による輪廻を生み出す幻術(マーヤー)、その力は女神として捉え直されるとき、歓喜の遊戯(リーラー)になるという。
母なる地球、大地母神、その怒りの鉄槌も悪くないのかもしれない。
もしそれによって人の目覚めが起こるのなら。
我々がそれを受け入れ、行動で応えることができるのなら。

Kali


はるか未来を歩くブッダに我々は追いつけるのか?

——心を静めて強烈な探求を行なえば真理は自ずから現れる。
本当ですか? それが事実だと経験から言えますか?
僕は言葉を超えた事実が欲しい。

真理はどのように現れるのか。
それは(悟りという)最後の最後の瞬間にだけ訪れるものなのか。
それまではそういうことがなくても当然なのか。

「真理」という言葉を定義して、「あるべき事実(真実)に関する直観知」だと捉え直すとする。
最近気づいた直観知の経験を話したいと思います。

今年の4月に「永遠のブッダ」というお芝居を上演し、僕はその脚本を書きました。
題材にしたのは『アングリマーラ経』という仏典に描かれているブッダと一人の弟子の話です。
1000人にも及ぶ人を殺害して人々に恐れられた残忍な盗賊アングリマーラのもとに、ある日ブッダが赴き、不思議な力と教えの言葉と慈悲によって彼の心を開かせます。
ブッダの弟子となったアングリマーラは、アヒンサカ(不殺生)という名を与えられて、新しい聖なる命に生まれ変わり、ブッダから「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と教えられます。
アヒンサカは過去の悪業による苦難に耐えながら、ブッダの教えを守り、生来の正直さを生かし、ついに一人の妊婦とその胎児の命を救います。
それが彼がブッダの教えを実践した瞬間だったというところでフィナーレを迎えます。(実際の芝居の映像は以下)

この演劇の内容自体は、元の仏典の内容と大筋において同じですが、各部分では脚色が入っています。
脚本を書いている時は、この経典の真意は何なのか、つまりアングリマーラという人の存在の本質は何なのか、そしてブッダは何をしようとしたのかということに集中して、それを最もよく表すように、経典の構成や言葉を離れて、場面もセリフも生み出していきました。
そこではただ、この芝居が楽しく、面白く、そして何より深い真意を表すようにということにだけ集中していたのです。

しかし、最近になって気づきました。
この芝居は、4月から今までの6カ月間、それから今後数年にわたることの預言でもありました。

今の僕にはこう見えます。

アングリマーラは、自分の村の人1000人を全滅させた都の人間を恨み、被害者の生き残りとして、自らの正義(=法)のために、人々の殺害を繰り返している。
一方、都の人々は、罪もない人々が被害にあっているため、恐ろしい盗賊を無法者と見なし、アングリマーラの縄張りにブッダが近付かないように警告する。
双方とも正しいのは自分であり、正義は自分たちにあると考えています。
そして自分こそ悪の被害者だと思い、暴力に対する暴力の報復がなされている。
決して交わることのない対立です。

これに対してブッダは、アングリマーラのもとへ何も言わず進んでいく。
人々が止めるのも聞かず、平気で進んでいきます。
彼はどうするつもりだったのでしょうか。
僕が思うところでは、ブッダははっきりとすべてを見通していました。
アングリマーラという盗賊がいて、彼のせいで多くの命が奪われている。
人々は彼を無法者と決めつけており、行為においてはその通りだが、しかし、その外面的行為には微妙でかつ複雑な内面的原因があり、それが正されない限り問題は解決しない。
そしてアングリマーラの内面的苦悩は、その被害者である人々の内面の苦しみと異なるものではなく、同じものとして重なるものなのだと見た。
ブッダは、人々の実際的被害と不安、そしてアングリマーラの苦悩を取り除くために、両者を共に生かすため、自ら立ち上がり、歩を進めたのです。

ブッダは火中の栗を拾いに行ったと思う。
ブッダは出家者である。
法律や社会に対して関与せず、超然としていることが本来の姿だ。
たとえどんな問題が世の中で起こっていようとも、それに当事者として関わる必要はない。
それどころか、そうした世間の出来事に執らわれてはならないのである。
たとえ両者を哀れだと思い、あるいは殺害のむごさを見るに忍びなく、助けに入ったとしても、両者に話し合いの場を設けて仲裁に入るというような方法が取れたはずだし、今だってそれが一般的だろう。
それなのに、ブッダはアングリマーラを弟子にしに行ったのである。
犯罪者、それも極悪人を弟子にとれば、人々の世論や法や社会を敵に回すことは明らかで、犯罪者をかくまったとしてブッダの教団全体が社会の圧力によって潰されてもおかしくない。
長老弟子のアーナンダが「他の弟子たちに悪い影響がありませんか」と心配するが、常識的なのは彼であって、ブッダの方が非常識である。
面倒なことにあえて首を突っ込むようなことをしなくてもよかったはずである。
ブッダはどうしてそのようなリスクを冒す行動に出たのか。

ブッダはあえて当事者になりに行きました。
当事者になって、自分個人とは元来関係のない問題を解決に行った。
自分には害の及ばない、超然とした客観的第三者の立場でアドバイスをしたり、なだめたりするのではなく、悪と苦しみの根源を自ら引き受けに行きました。
近代の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、「たった1人の人を救うために私は地獄にでも行く」と言ったが、まさに彼はブッダの心境をそのままハートに写し取ったのだと思う。
そうしてブッダは、アングリマーラとアーナンダ、そしてブッダを慕う都の人々を兄弟弟子にしてしまった。
互いに害を与え合ってきた人々を、本来愛のみで結ばれるべき兄弟にしてしまったのである。
そして彼らの親として、すべての面倒を見る責任を負ったのである。
問題とは本来、そうした自らを犠牲にするような関与がなくしては解決しない。
ブッダの無言の行動はそれを強く指し示しているように思う。

そしてもう一つ、脚本家として僕はブッダにこう語らせていた——「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」。(とはいえ、ブッダ役としてこのセリフを語らされたのも僕なのですが)
これは、そのまま仏典にある言葉ではありません。
元の経典の本旨は、経典中に見られる詩、「悪い行ないも善によって克服されるなら、雲を離れた月のようにその人はこの世界を照らす」という一点に極まっていると思いますが、悪人が悪を償うだけでなく、この世界を照らし出す聖なる存在にもなれるということを、「人の命を生かす」というセリフにしました。

ブッダは当事者となって(同時にまったく巻き込まれることなく)、それぞれの人を生かし、またその人たちにも他の命を生かすように導いた。
脚本を書いて芝居を上演していた時にはまったく気づかなかったが、自分が書いて演じていた中に、自分のあるべき姿とそれに向かう未来が含まれていたことに最近気がついた。
「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と書いたのは僕であり、そのセリフを読んだのも僕だが、その過去の自分が未来に先回りして、これからのあるべき自分を示しているようにも思うのだ。
あるいは、今から2,500年前に生きたブッダが、むしろ今から2,500年先の未来に先回りして、僕に道を示しているようにも思う。

事実、4月以降の僕は、その方向に動き、感じ、決断してきた。
我々ヨーガ行者のあるべき姿、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションのあるべき姿を、ブッダのサンガやヴィヴェーカーナンダが作ったラーマクシュナ・ミッションに求めてきた。
それは単に形を真似るということではなく、彼らの情熱を自分の胸にも灯し、自らのミッション(使命)を自覚するということである。
過去に求めながら、同時に未来に求めることでもあった。
それと同じようなことが、たまたま手に取った経営学の本にも書いてあった。
サンガやミッションも人の集まった組織だから、組織運営のことも少しは学ぼうと思って駅の本屋で偶然手にした本だったが、たいして魅力的なタイトルでもないのに、引き付けられるようにその本を取った。
7月のことである。
そして8月には、東京に引っ越すことを決めていた。
東京でのヨーガの活動を活発にするためである。
今月10月には東京で最初のクラスを行なった。

そうした顕著な出来事だけでなく、あらゆる考えと感じ方と行動が1つの方向に向かっていた。
それはまるで、「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と、まったく無意識だった自分あるいはブッダ自身が、未来のあるべき姿、あるはずの事実を指し示していて、知らないうちに、この半年はまったくその通りに生きてきたようなものだと最近気づいた。
潜在意識の中にそうした願望があったのだといえばそうかもしれないが、しかし直観に基づくであろう感性と行動が、これほどまで頭脳よりも速く動いたのを経験したのは今までにはなかったのである。
自分が書いたり言ったことを、半年後の自分が解釈するなんて、いったい何が起こっているのだ!

とても長くなりましたが、これが預言とも感じられた、「あるべき事実(真実)に関する直観知」の経験でした。
劇中、ブッダがアングリマーラの縄張りに向かっていったとき、走る馬でも捕まえられたほどの脚力を持つアングリマーラが、全速で走ってもブッダに追いつけない場面があります。
彼はブッダに対して「止まれ!」と叫ぶのだが、逆にブッダに「お前こそ止まれ」と言われる。
それはアングリマーラが暴力の思いに捕らわれて心が止まっていないということを教え諭すためだったし、僕もそう理解して脚本を書いた。
しかし今になって、それだけでなく、ブッダは彼以降2,500年の間に生まれ死んでいったあらゆる人類が、最大の努力を行なっても未だに追いつけない、はるか未来に先行していることをひしひしと感じる。
それは、現在も世界各地で起こっている決して交わることのない紛争、その根源にある正義感と悪と憎しみ、そしてもう末期的とすら言われている民主主義のあり方(その真の姿としてのサンガ)……これらはみな未だ解決・解明されることなく、しかしブッダによって2,500年前に解決されていた。
ブッダ、新し過ぎる!!
我々はまだ、2,500年前のブッダに先を行かれているように感じる。
はるか未来を歩くブッダに我々は追いつくことができるのか?
しかし今それに気づいたということは、少なくとも後ろ姿ぐらいは見えているはずなのだ。


ブッダの新しいメッセージ

自由というのは個人の心の問題でもあり、社会や世界の問題でもある。
インドが長らく求めてきた自由(解脱)は、太古には至って個人的な問題であった。そこに集団的要素を持ち込んだのは、かのブッダである。
ブッダは、それまで個々の修行者が世間を離れ山林独居しながら行なっていた苦行や修養に、弟子たちが集団となりサンガ(僧伽、集い)を形成して互いに切磋琢磨し良い刺激を与えながら行なう形態を導入した。このサンガ(僧伽)が、現在の「僧」の語源である。今ではそういった集団的修養は当たり前のようになっているが、ブッダの時代にはそうではなく、彼が起こした画期的な変化であった。
しかし目指すべき自由、悟りというものは、やはりあくまでも個人的な問題である。集団が同時に悟るというわけにはいかない。それにもかかわらず、ブッダがサンガという方式を導入したのには、非常に本質的で、今なお新しい洞察や直観が含まれているように思う。

現代になってますます大きな問題になっているのは、世界規模での気候変動や環境問題、そして国際的平和の実現やグローバル経済における好不況である。それらは全世界的な問題であると同時に、個人の心や一つの企業、一つの国の問題でもある。環境破壊は世界規模の問題でありながら、一人ひとりの心、考え方、生活の仕方が変わらなければ決して解決しないし、政治や経済の問題も一国だけで片付くものではない。むしろ一人ひとりの欲望や各国・各企業のエゴがそうした問題を引き起こしているといえる。
それに対して、私たちは未だに有効な解決法を見つけていない。だが、個人の問題が集団や世界の問題でもあるということを考えると、ブッダが導入した集団による目覚めへの道という画期的方法が、今なお新しい、未来への解決法を示してくれているようにも思えてくる。

それは、私たち一人ひとりが欲望から自由になることでしか世界の問題を解決することはできないということを意味するとともに、世界がサンガとして学ぶことによって個々の目覚めが起こりうるということを示している。つまり、個の目覚めとともにサンガ(集団)の目覚めもあり、それは現代的な文脈で言えば、世界としての目覚めもありうるということではないだろうか。

そこで大事なのは、集団が単なる個の集まりではなく、サンガでなければならないということだろう。互いの利害を理解して調整するという単なる横の関係ではなく、個々の深い本質と世界全体の深い本質が一つにつながったところから行動を起こす垂直的な関係。それが個のエゴを離れた自由であり、エゴを棄てた献身、世界・他者そして真の自己への奉仕になる。
私たちは一体何ができるのか? 物理的にも時間的にも私たちの肉体的・心理的存在は限られている。しかし、その個我を超えることができるならば、限定を超えた献身と奉仕が可能になるのではないか? そしてそれこそが真の自由ではないだろうか。ブッダは、弟子たちのほんの小さな集いを作った時から、そうした人間の本質を見抜いていたように思える。それがまた今、人類が一歩前に踏みだすための新しい意識と生き方としてメッセージを発しているように感じる。

サナータナ


人生が始まる

ヨーガを学び始めてから2年か3年かたった頃、「やっと自分の人生が始まったのだ」と感じたことがあったように覚えている。
20代が幕を開けたばかりの頃である。

僕は、小さな子供の例にもれず、「なんで〜は…なの?」を連発して大人を困らせるような子供だったと思う。
子供の問いは恐ろしく素朴で深い。
おそらく中学生の頃に最も不思議に感じていたことは、「どうして一人ひとりの人間に意識というものが宿っているのか」ということだった。
コンセントにつながれているわけでもないのに、この意識はどこからやってきているのか? そして一人ひとりが別の
意識をもって動いている(ように少なくとも見える)のはどうしたわけなのか?

たぶんとても奇妙な問いだったと思う。
一応自分なりに考えて答えを出してみたが、その真偽を確かめるすべはない。
きっと大人になったら分かる。
少なくとも、頑張ればそういったことが分かるような道具(知性)をもつことができるだろうと思った。

ところが、大学生になり20歳も超えて大人の仲間入りを果たすと、それとは別の不思議な現象が起こっていた。
今こそ、本当に知りたかったこと、本当にやりたかったこと、本当になりたかったものに、やっと挑戦できるだけの能力と機会が開けようとしているのに、友人たちは早々に諦めたような選択をしようとしていた(ように僕には見えた)。
自分にしても、問いは答えがないという焦りの中に蓄積していくばかりで、むしろ社会に飲み込まれるデッドラインが迫ってきていた。
友達とのつきあいや、大学での学問、有名な哲学者の本にも答えはなかった。
本当に知りたかったこと、本当になりたかったものを諦めるのが大人になることなのか?
僕の問いは相変わらずとても抽象的だったが、自分自身にとっては、今日食べるご飯があるかないかというくらい具体的に感じられていた。
「この見えている世界は本物なのか? この世界の正体が、バリバリと壁紙をはがすかのように見えてきそうなのに、どうして見えないのか? どこまでいってもそれは分からないことなのか? 」
ギリギリのところで反発を試みた。
インドとネパールに行き、中国やチベットに行った。
そしてその間にヨーガを始めた。

「窮鼠猫を噛む」ではないが、ギリギリまで追い込まれた心の力(決意)はすさまじかった。
「自分の全存在を懸けた一撃を打つ」という気魄だった。
ヨーガを始めてすぐさま問題が解決したという自覚があったわけではない。
しかし確実に解答に向かう列車に乗っていた。

そして数年がたった頃、「やっと自分の人生が始まったのだ」と感じていた。
知りたかったことを教えてくれる人がいて、自らそれを知るすべもある。
「自分のやりたいことと、自分がやるべきことと、世界の真実が一致している。こんな幸せなことはない」と思った。
今でも時折思うことがある。
もしタイムマシンがあって昔の自分に会えるなら、こう言ってやりたい。
「何も心配するな。お前は自分がなりたいものになるよ」

20年前に僕の人生は始まった。
それから一切のことが革命的な速さで進んできた。
それと同時に、もう一度、人生が始まる予感がしている。
まだ何も成し遂げてはいないし、有り体に言えば、まだ死ぬわけにはいかない。
個人としての人生(自我意識)はもう終わってしまって構わないし、終わらせにかかってもいるのだけど、それと同時に、すさまじい力で生き始めようとする何かがあるのも感じるのである。
それをどう言うかは、まだはっきりしない。

サナータナ


ヨーギーの理想——ブッダ

ヨーガの起源はどこにあるのでしょうか? ヨーガの起源は神話でも聖典の言葉でもなく、ヨーガ行者一人ひとりの体験、体得、悟りの中にあります。

そうした悟りをひらいた覚者の代表格が釈迦牟尼ブッダです。ブッダは人々の苦しみの原因を明らかにし、そこから自由になる道を示しました。
ブッダについてはいくつもの魅力的な逸話が残されています。その中の一つが、アングリマーラという残忍な人殺しの盗賊を改心させ、彼の苦しみを取り除いて安らかな悟りの境地に導いたお話です。

彼の苦しみには、現代の私たちにも通じるところがあります。怒りや憎しみに執らわれて、それを抑えることができず、目の前にいる人たちを害することでしか思いを表すことができないという、自分の心が生み出す際限のない苦しみです。現代でも、子育てや親の介護、日々の仕事や家事を行なう中で、ほんの些細なことであれ、苛立ちや怒りに身を任せてしまう場面があるのではないでしょうか。

そうした出口の見えない苦境に、ブッダならどういう解決を示すのでしょうか? そして極悪人の盗賊にさえ救いの手を差し伸べるブッダは人々をどのように見ていたのでしょうか?

このお話を分かりやすいお芝居にして、花祭りの日(ブッダが生まれた聖誕記念日)も近い、4月6日に大阪で上演します。観覧は無料! 誰でも入場可能です。

ブッダの悟りに興味がある人、ヨーガの静寂の境地に憧れる人、そして今まさに怒りの最中にある人も!(笑)是非このお芝居を見に来てください!

脚本・演出・出演・裏方にいたるまで、すべてヨーガを実践している人が担当しています。生きたヨーガのあらわれを体感しましょう!

リーラー・プレイヤーズによる
野外演劇「永遠のブッダ」
(なにわ人形芝居フェスティバル 参加)
日時:2014年4月6日(日)10:30〜11:00/12:00〜12:30 2回公演
場所:西照寺(地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘」西 徒歩7分)

なにわ人形芝居フェスティバル公式サイトの紹介ページ
http://terateratera.sakuraweb.com/ningyoufes/18/event.html