空白地は存在しない

ヨーガを始める少し前、沙漠に憧れたことがあった。
人間が作った意味や義務や正しさに埋め尽くされていない、「無意味」の空白地に行きたいと思った。
それで中国のタクラマカン沙漠にも行ってみた。
あるいはアフリカの中央部にも行ってみた。
しかしどこに行っても、自分が日本人の何某であることを証明しなくてはならない。
世界地図はどこも何色かに塗られており、誰かの(どこかの国の)土地であった。
空白地が存在しないことの絶望。
常に何者かであり、何者であるか証明し、意味のあることしかしてはならない世界にとてつもない息苦しさを感じたものである。

外界に空白地を求められないことを知るのとほぼ同時期に、内面に空白地を求め始めてもいた。
頭の中は言葉でいっぱい。
心は常に忙しい。次々に勝手に悩みを作り出す。
自縄自縛とはこのこと。
蜘蛛が吐き出した巣の網に、自分自身で引っかかっているようなものだ。
心に重い鎖をかけられ、引きずっているように感じていた。
こんなのはもう嫌だ——何の確信もなかったが、その向こうに空白地を探し始めた。

必死にヨーガをした甲斐があって、これらはすべて過去の話になった。
「意味の世界」は、原因と結果の果てしない連鎖の世界、昔の言葉で言えばカルマ(業)によるサンサーラ(輪廻)の世界だということも分かった。
今はずっと自由だ。胸いっぱいに息が吸える。
それどころか、世界はずっと広く、果てしない可能性が含まれているものに感じる。

今また空白地のことを思い出したのは、意味の世界に再び戻ってきたからである。
意味に縛られなくなってきて、再び戻ってきた。
そして気づくことは、今の我々人間の考え方が無限の空白地があることを前提に成り立っているということだ。
いくらゴミを捨てても誰も困らない土地や、いくら使ってもなくならない自然や、いくら酷使してもよい物やあるいは人、いくらでも豊かに、いくらでも獲得して消費して、いくらでも生産することを許す無限の空白地があるかのように振る舞っている。

ヨーロッパ大航海時代のメンタリティーが500年たっても変わっていないのだと思う。
むしろ歴史的には「適者生存」とか「見えざる神の手」だとか、それを正当化する理論の方が発展してきた。
人や価格どうしの衝突(競争)が最適な位置を見つけるという、人間社会内部にしか目が向いていない考えである。
それは無意識のうちに、外部には何をしてもいい無限の空白があることを前提にしている。
でも、大航海時代にも空白の新大陸などなかったし、奴隷にしてもよい人などいなかったかったように、人間(自分)の外側に無限の空白地があるわけではない。
いくらでも生産して、いくらでも消費すればいいと、その需給バランスは「見えざる手」が決めると、人間社会の内部の論理だけで考えてきたが、ついに自然がそれを許さないところまでやってきて(需給のバランスでなく、自然の限界が決定権を持ち始め、予想外の「見えざる手」となって)、やっと無限の空白地という前提が間違っていたことに、我々は気づき始めている。

人の命も、自然の命も有限。
隣には他の人がいる。動物や植物がいて、自然がある。
誰もいない場所は存在せず、世界は網の目のように構成され、自分はその一部である。
それは確かにカルマによるサンサーラ。
でも自分がその一部であることに、今は喜びを感じる。
どうして? 以前にはとてつもない苦しみだったはずなのに。
そこに積極的に身を委ねていこうと思えてくる。
そこに貢献していこうとする喜び。
奉仕の喜び、献身の喜び。
有限の命はそのために生かされてこそ輝くのだと思い始めている。
業による輪廻を生み出す幻術(マーヤー)、その力は女神として捉え直されるとき、歓喜の遊戯(リーラー)になるという。
母なる地球、大地母神、その怒りの鉄槌も悪くないのかもしれない。
もしそれによって人の目覚めが起こるのなら。
我々がそれを受け入れ、行動で応えることができるのなら。

Kali


空白地は存在しない」への2件のフィードバック

  1. 宮武和夫

    ただの百姓です。
    畑仕事をしていると、天網という関わりを感じます。
    ひとも、植物も、獣や昆虫たちも、同じ営みのなかで、暮らしている。同じ仲間じゃないかとね。
    だけど、ひとは欲が甚だしい。
    だから、自然の関わりと、仲良くやっていけないのかと思います。

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  2. サナータナ 投稿作成者

    『華厳経』という仏典の中に「インドラの網(因陀羅網)」という譬えがあります。
    網の結び目1つひとつに水滴がついていて、その1つひとつの水滴が網にあるすべての水滴を映し出しているという話です。
    1つひとつの部分の中に全体が入っているということを言おうとしたものです。
    生命とか世界というのはそういうものではないかなと最近特に思います。
    いわば、それを実感されているということですよね。

    人と自然の関係も、人と人の関係も、好き嫌いとか、合う合わないとかを超えて、自我の境界を超えていけば、自分の中に他者があり、他者の中に自分があるという境地から自然も人間社会も見られるのかなと思います。
    自我の境界を強くするのが確かに利己的な欲望ですね。
    でも、たとえ自然から離れた現代の都会人でも、その自然の本能ともいうべき直観を取り戻すことができるのではないかと思っています。
    人は目覚めることができるはず、という希望を持っています。

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