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ナーグ・マハーシャヤ

松山でのこと、ヨギさんはある方の質問に対しておっしゃいました、「謙虚さがなければ、ヨーガは進めていくことができません」。

8月21日は、その謙虚な心で知られた、シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるナーグ・マハーシャヤ(1846−99年)が誕生された日です。彼の生涯は『謙虚な心』という比較的小さな書籍に記されています。私たちはその本から、ナーグ・マハーシャヤという尊き家住者が、燃え上がるような情熱を持って心の中に謙虚さを築き上げていった、その生涯を知ることができます。 

「謙虚さ」とはどのようなものなのでしょうか。初めてこの本を手にした頃、私は「謙虚さ」という言葉に、静かで穏やかなイメージを持っていました。ですので、この本を読み始めて、驚愕してしまいました。ナーグ・マハーシャヤは、自分の心の中に良くない感情を見つけると、石などで自分の頭を打って血だらけになってしまうのです。そればかりか、自分のために炎天下で働く人々を見ていることができず、屋根修理の職人に対して仕事を止めるように泣き叫んで懇願し、自らを打ち始めます。いったい、これは何なのでしょう、頭を打つのが謙虚さなのでしょうか。それが最初の感想でした。

けれども、少しずつヨーガを学んでいくにつれて、常軌を逸しているように見えるこれらの行為の意味が少しだけ分かってくるようになります。本の中では、ナーグ・マハーシャヤと親交深いギリシュ・バーブがこのように言っています。

「常に打ち続けることで、ナーグ・マハーシャヤは、自我の頭を粉々に砕いた。何を持ってしても、彼の自我の仮面を蘇らせることはできなかった」

つまり、ナーグ・マハーシャヤはあらゆる方法を使って、自分の心から「私」と「私のもの」を破壊し続けていたのです。謙虚な心とは、静かで穏やかな状態なのかもしれません。けれども、その状態に至るためには、こんなにも激しく「私」を打ち砕いていかなければならないのでしょうか。

頭を打つだけではなく、ナーグ・マハーシャヤは積極的に他者に奉仕することによって、心から「私」と「私のもの」を追放します。その奉仕も尋常なものではなく、自分が飢えたり、借金することになってしまっても、当然のように、困っている人々にお金や食べ物を与えました。雨季、雨漏りのないたった一つの部屋に来訪者を泊まらせ、彼と彼の妻は、玄関で瞑想と祈りに一晩を過ごしたといいます。あるいは、やはり雨季に、彼を慕ってやってきたずぶぬれの信者のために、食事の準備に必要な燃料として自宅の棟木を切ってしまうのです。家を破壊する白アリにも愛情を注ぎ、追い出すことなく保護します。いったいどうして、ここまでして彼は、「私」と「私のもの」を破壊し、あるいは謙虚な心を持つことを選んだのでしょう。 

実は、ナーグ・マハーシャヤの献身的な性質は、シュリー・ラーマクリシュナと出会う以前から顕著だったようです。彼は、いつでも困っている人を喜んで助けたといわれています。ただ、それでも彼には大きな悩みがのしかかっていました。神に会いたい! 彼は信仰深い一生を送りたいと願っているのに、妻もいて、仕事もしています。そうした足枷から自由になり、神に会うためだけに生きたい。彼はそう悩んでいたようです。

ですから、ナーグ・マハーシャヤが初めてシュリー・ラーマクリシュナと出会ったときは、もうどんなにか感激して、興奮したことでしょう! 最初の出会いが「彼の興奮した心に献身の炎を燃え上がらせた」と、本には書かれています。そして、そのように燃え上がる心を抱えて、翌週再びシュリー・ラーマクリシュナに会いに出かけたのです! そのとき師は彼に「あなたの霊的な進歩については何一つ恐れることはない。あなたはすでに、非常に高い状態に到達している」とおっしゃいました。その後、彼の放棄の姿勢は、先に書きましたような、通常の人々には理解し難く、常軌を逸していると思われるほど強烈なものとなっていったのです。

「私」と「私のもの」を心から放逐してきたナーグ・マハーシャヤの心には、他者あるいは「あなた」しか残らないのでしょう。そして、シュリー・ラーマクリシュナとの出会いによって、そのあなたは神であり師に他ならないことを知り、そうして万物の中に神を見て、神の召使いとして生きることになったのでしょう。実際に彼は「もし彼が、『なぜ手を合わせているのか』と、尋ねられると、『あらゆる所、そしてすべての存在の中に、イシュタを認めるからです』と答えた」そうです。そのような心のあり様こそ、本当の意味で謙虚さなのだろうと思います。

 

「神はまさに願望成就の木なのです。神は、我々が望んだものは何であれ、与えます。しかし我々は、生死の輪廻へ再び引きずり込むような願望を、欲するままに求めてはなりません。人は、神の神聖な御足に対する揺るがぬ信仰と、神御自身の真の知識をお与え下さい、と主に祈願しなくてはなりません。ただそうすることによってのみ、人は世界の汚らしい枷を逃れ、神の恩寵を通して自由を獲得するのです。世俗的な目的を欲すれば、それに付随する害悪も引き受けなくてはなりません。神の瞑想と、神の信者たちとの霊的な交わりに、ときを捧げる者だけが、災難と惨めさに満ちたこの世界を越えることができるのです」

『謙虚な心――シュリー・ラーマクリシュナの弟子ナーグ・マハーシャヤの生涯』より抜粋

「私」と「私のもの」を放棄し、神だけを求めながら、真理の教えを誠実に守って慎ましく、謙虚に生きていくことができますように。そして、そのために必要な、狂わんばかりの情熱を持つことができますように。

笹沼朋子


つくレポ 〜完熟トマトとナスのパスタ〜

私はこれまで料理をするという機会はほとんどなく、もっぱら食べ役でした。そんな私が、さまらさの台所(ヨーガの料理)のオンラインクラスを受講させていただいたことを機に、料理にチャレンジしています! 7月のブログ掲載記事「ヨーガの料理 さまらさの台所 動画クラス紹介!」のメニュー:完熟トマトとナスのパスタを何度か作ってみました。このブログは、料理初心者男子がさまらさレシピのパスタを作ってみた!のつくレポになります。

料理をするにあたり、さまらさのクラスで学ばせていただいたことを心がけました。「食材の選び方」「丁寧に調理をすること」「何より楽しんで料理をする!」など、教えていただいたことを心に留めて取り組んでみました。

ステップ1   食材選び!
買い物では新鮮なお野菜を選ぶために、店員さんに尋ねてみました。「新鮮で甘いトマトはどれになりますか?」というように質問すると・・・私には新情報!?トマトの特徴を教えてくださりました。「今は北海道産のトマトが甘くておすすめですよ! また少し時期が進むと南の方の熊本県産のトマトも美味しくなってきますよ」とお聞きしました。そして、沢山並んでいるトマトの中から赤くて一番美味しそうなものはどれだろ〜と食材とにらめっこしながら選びました。ナスを選ぶ時には色鮮やかで軸がしっかりしているものを見分けながら決めました。


ステップ2   いざ調理!
調理する前にもう一度動画を観て確認しながら始めました。食材の量や調味料の分量、火加減などは奥さんに教わりながら料理を進めました。まず食材を切っていく工程では、動画でされているのに倣って見様見真似で切りました。大きめのカットだったので包丁が不慣れな私でも切りやすかったです。それでも、同じ幅間隔で切っているつもりが、だんだん切る幅が小さくなったりもしました。次にお野菜を焼く工程では、ナスの火の通りや焼き加減を見ながら炒めてはいましたが、ちょっと焦げてしまいました(汗)。木べらを使って炒めるのも手の動きが何だかぎこちなく、丁寧にできているだろうかと不安に思う心もありました。それでも気にし過ぎないように気持ちを切り替えて料理を進めました。炒めたナスにトマトを加え、しっかりと煮詰めました。「美味しくできますように・・・」と心を込めながら混ぜてトマトソースが完成です。ここまで料理が仕上がってくると先ほどの弱気がどこにいったのか・・・「僕、料理できるやん!」という気持ちにもなり、嬉しくなってきました。 

ステップ3   盛り付け!
いよいよ盛り付けまでやってきました。最後の工程ということもあって、一番緊張していたように思います。額からは汗を感じ、手の感覚もいつもより硬く張りつめていました。作った料理が美味しく見えるようにゆっくりと丁寧にお皿に盛っていきたいところでしたが、パスタがグチャっとしたり、ぼたっと・・ソースが落ちたりすることもあって心はざわつき状態でした(汗涙)。必死でお皿に盛りつけて最後にバジルの葉っぱを添えて、やっとの思いで完成できました。

ステップ4   いただく!
なんとかパスタが出来上がって少しほっとしました。料理が冷めないうちにいただきます。隣で食べている奥さんの表情も横目で気になりながら一口・・・「うんっ! 美味しいやん」と心の中で一言。自分で作って言うのも何ですが(笑)、初めて作ったにしては良い味に仕上がっていると思いました。そして、食べてくれた奥さんの表情にも笑顔が溢れていて、とても嬉しい気持ちに満たされました。
作ってみたパスタの味付けはトマトの甘さと塩だけでシンプルなのにこんなに美味しくできるんだと、さまらさの料理ってすごいなと感じました。料理ができなかった私が誰かを笑顔にできる料理が作れたことはさまらさの魔法!?・・・いや、それこそがヨーガの精神なんだと思いました。
さまらさの台所のオンラインクラスで講師のシャーンティマイーさんが仰っていたお言葉「料理はうまい、へたではなく、真剣に食材に向き合い活かす。これが大事」ーー誰でもどんな人でも料理ができるということを自分が作ってみて改めて教わったように思いました。

その後も何度か作ってみました。2度目以降は準備を整えることをより意識しました。使う調理道具が必要な時にすぐに取って使えるように置き位置を考えたり、スムーズな料理ができるように準備しておくことで少し手順も良くなりました。気持ちのゆとりが少しできて、より丁寧に美味しくできるように一層の思いを込めて作ることもできました。また、作って食べることを重ねた中で感じたのは、食材そのものの味によって料理自体の味も変わってくることです。特にトマトは少し酸味を含むものなどもありました。じっくり火にかけることで食材の味わいが出てくることも繰り返し作ることでよく分かりました。

料理を作ることを通して今回、行為に対する考え方を学んだ気がします。料理は食材を選ぶところから調理する工程、調理したものをいただくまでの一連の行為の一つ一つがとても大事だと思いました。また、思いを込めて行為することで、料理の味はいかようにも変わることを知りました。さまらさの料理はシンプルで初心者の私にも優しくて作りやすいものでしたが、シンプルだからこそ純粋な気持ちが味に現れるのだと感じました。そして誰かを思い、その人のために、心を注いで料理に向き合うことで喜びや幸せにつながることを実感しています。
男子ごはん、これからも楽しんで続けていきたいと思います!!

金森淳哉


東京のグルバイ(ヨーガ仲間)をご紹介します!

こんにちは。夏真っ盛りですね!
コロナ禍となり二年以上が経ちましたが、東京は人の多さからさまざまな行動が制限される状況が続きました。
MYM東京のクラスや活動も最小限に抑えざるをえなかったのですが、感染者数の増減を考慮しながら少しずつ活動を再会し始めました。
今日はそのような中で、ずっと変わらず真摯にヨーガに取り組まれている中村さんをご紹介させていただきます!
中村さんはご家庭の事情で、以前からクラスなどに参加出来ないことも多かったのですが、最近、クラスでお会いした時にとてもイキイキとされているご様子を拝見して、お話をうかがってみました。

─中村さんは決まった時間にご自宅でアーサナをするのが難しいこともあり、オンラインクラスへの参加が出来ず、お一人でのヨーガの実践が続いていたと思うのですが、どのように過ごしていらっしゃいましたか?

中村さん)
コロナの影響で、京都に行くことはもちろん、クラスにも行けなくなりました。いろいろな予定がなくなって時間がとれるようになり、パラマハンサ(機関誌)を遡って読んだり、瞑想の時間ができたのは良いことでしたが、やはりクラスがお休みなのは寂しいことでした。
やっとスタジオでのクラスが一ヶ月に一度ですが再開して、皆さんとお会いできた時は涙がでました。

─先日、東京のメンバー数人で多摩川にキールタンを歌いに行った時、飛び入り参加されましたよね。すごく嬉しかったです!

中村さん)
河原で歌うのは初体験!キールタンをみんなで歌うのも何年ぶり!花もいっぱい咲いていて夢の中にいるようでした。
ハルモ二ウムや太鼓を持ってきてくださり本格的でした。曲は難しくないものを選んでくださっていたのですが、間違えてばかり。でもそんなことより、こんな楽しくていいのかしら?というくらい楽しくて、嬉しくて、あっという間のひとときでした。
その時歌ったManasa Bhajareはそのあとも口をついででてきてよく歌っています。

─今年の春から、松山クラスと東京クラスの有志メンバーでヨーガの教えの「ヤマ」の実践に取り組んでいますが、そちらにも参加されていかがですか?

中村さん)
シャルミニーさんから「松山の皆さんと一緒にヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)の勉強会をするので参加しませんか?」とお誘いいただいた時、まず不安になったのはオンラインって、私にできるかしら?ということでした。
コロナが流行ってからインターネットを使うことが増えましたが、私は苦手でした。又、使わなくても済んでいました。ですが、ミッションでもパラマハンサがウェブ配信となり、逃げてばかりもいられないこともわかっていましたし、ヨギさんの「苦手なことこそ、したほうがよいですよ」というお言葉も心に残っていました。
オンラインで初顔合わせの時は私の音声がでず、かなり焦りましたが、その後家族と練習したりして、無事に参加することができました。ほっとしたのと同時に、「わー、遠く離れた皆さんとお会いできてる!」と嬉しくなりました。
コロナの間、ずっと味わえなかったヨーガのお話ができる楽しさ!貴重な一時間となりました。苦手なこともチャレンジだなあと思いました。
グルバイの皆様は、外に出られる時間が限られていたり、ネットの苦手な私をいつも気遣ってくださり感謝しています。今回も大変お世話になっています。ありがとうございます。

─ヤマの一つ目、アヒンサー(非暴力)の実践に取り組まれていかがでしたか?

中村さん)
家族とは仲良くしているつもりでしたが、今回、家族なら多少のことは許してもらえるという甘えから、言葉や態度で傷つけてきたことがだんだん見えてきました。ちょっとした対立から、家族にきつい言い方をしてしまい、それが止められないこともありました。
その思いはどこからくるのか考えたところ、やはり「自分は間違っていない、自分が、自分が…」というエゴそのものだと思いました。
ヨギさんだったらどうなさるだろう。又、相手がヨギさんだったら私はどうするだろう。その光景は目に浮かぶようなのに、実践となると悲しいことになかなかうまくいきません。
それでも、その瞬間にヨギさんを思い浮かべることが一番だと思いました。
そしてその時だけではなく、いつもいつもヨギさんと共にいられるように、と改めて願いました。
頭でわかっていたはずのことも、実践となるとその通りにはいきません。今回、実践したことをオンラインで皆さんとお話するという機会を与えていただいたことで真剣に取り組むことができたと思い、感謝しています。そして、私が初めてヨギさんにお会いした時に、ヨギさんみたいになりたいと願った、憧れの境地へとまた気持ちが繋がりました。
まだ始まったばかりですので、これからも努力を怠らないように精進していきたいと思います。

左手前から2人目が中村さん。大空の下でのびのびとキールタンを歌いました。気分はすっかりガンガーのほとり!? 6/18

同じ師の下で共にヨーガを学ぶ仲間の存在は、なんと心強くありがたいことでしょう!中村さんのお話をうかがいながら、私も勇気をいただきました。そして、どこにいても、どんな時でも常に師の恩寵が降り注いでいることを実感し、喜びでまた胸がいっぱいになりました。
中村さん、本当にありがとうございました!!!これからも、どうぞよろしくお願いします!

シャルミニー


タパスによって無知をなくす

以前陶芸をしていた頃、作品を乾燥させる過程でひび割れたり、成形に納得がいかなかったりすると、乾き切っていない作品を水に浸してこねて、作り直したことが何度もあります。失敗してもまた作り直せれることが嬉しくて、今度こそイメージ通りのものを作ろうと取り組んでいました。

そんな経験があったからか、ある日、コタムリトのこの一説に惹きつけられました。

乾いたツボが壊れたのは、職人は皆捨ててしまう。だが、湿り気のあるツボが壊れても、捨てないでまた小屋の中に持っていってもう少し水をくれてこね直す。そして新しくツボをつくる。捨てないんだよ。だから——と、ケーシャブに言ったんだよ。水気のあるうちは解放されないとね。つまり、智識を完全に体得したか、神に対面したか、そうしない間は何度でも新しくツボに作り直される。くり返し、くり返し、この物質世界に戻ってこなくてはならない。これはもう逃れようのないことなんだ。あの御方をつかめば、自由解脱してツボ焼き職人に捨てられて、二度とマーヤーの創造に巻き込まれなくともよくなるんだ。

『コタムリト』第4巻より引用

 

 陶芸においては水気があることで作り直せるのを嬉しく感じていたけれど、この世においては少しの水気でも残っていたら何度でも死と再生を繰り返しマーヤー(幻影)の世界から抜けられなくなる…これは全く嬉しくありません。
この水気というのはエゴや無知など、純粋ではないもののことを指しているのだと思います。
一切の水気がなくなるというのは、エゴや無知が一切なくなること。

水気をなくすためには熱が必要です。
その熱(タパス)は、その問題に真剣に向き合い実践することによって生じ、私たちの心を浄化してくれます。

まずは自分のこと、心 と向き合うこと、そして、悩みや苦しみは真理ではないと気付くことから始まるかもしれませんが、気付けて良かった、と安心していては何も変わりません。真理でないものを完全に放棄しない限り、水気はなくならず、また新しいツボに作り直されてしまいます。
それにはとにかく識別が必要です。識別はエゴや無知との戦いです。かなり手強い相手に立ち向かうので、時に大きな苦しみも生じますが、その過程も全てタパスとなります。失敗しても挑み続けることは決して無謀なことではないし、無駄なことにもなりません。見つけた問題点に対し、常に真理を突き合わせて識別していく。真剣であればあるほどタパスは大きくなり、その熱もさらに高まっていきます。
タパスによって生じた熱で焼かれると、水気は完全に蒸発してなくなり、二度と作り直されることのないツボとして完成する。

タパスという熱でエゴと無知をカラカラに乾かし切り、真理だけを掴んでいきたいです。

多摩川上流の橋の上からの眺め。
戻り梅雨の後の、久しぶりの晴天。湿っていた地面が一気に乾いていくような日差しを感じました。

ハルシャニー 


目の前の人の中に神様を見る

「純粋な信仰とは、神に奉仕すること。自らを神に捧げること」

数年前に初めて師であるヨギさんからこのお言葉を聞いた時、そこから感じる真っすぐで力強い愛にとても惹かれたのと同時に、「自分には無理だ」と感じました。でももしそれを実現できたらきっと本当の幸せに出会えるように思えて、どうしたらできるようになっていけるのかを考え始めました。そして実現していくための実践として、「目の前の人の中に神様を見ること」に取り組み始めました。

取り組み始めてすぐにいくつもの人間関係が好転し、生活全体の中に愛と喜びを感じる瞬間が増えました。ただ、優しい性格の方に神様を見ることは問題なくできても、攻撃的な性格の方に神様を見るのはとても難しく、頭では「全てのものの中に神様はいる」と分かっていても全然それを感じ取ることができない自分に疲れたりしました。

そんな中、(私は介護の仕事をしているのですが)あるご年配の方に対して、その方の中に神様を見続けるということがだんだんとぶれなくなっていきました。その方は喜怒哀楽が激しく、時にはヘルパーに八つ当たりをするし、身体的ケアがたくさん必要なので大変な力仕事なのですが、たとえ八つ当たりされても自分の体がきつくても、そこには変わらず愛と平安があります。その方の中にいる神様が物理的な困難に動かされない愛を与えてくださいます。

奉仕に取り組む時に、いつもお守りにしている師のお言葉があります。

「一つの笑顔でもいい、優しい言葉でもいい。苦しんでいる人、悲しんでいる人に彼らの喜ぶことを行ないなさい」

目の前の人の中に神様を見て、師の教えだけを頼りに、今の自分ができることを一つ一つやり続けていこうと固く決心します。

毎朝、神様(シヴァ神)に「今日1日正しく奉仕できますように導いてください」とお祈りしています。

船勢


熱心に真理を求めて識別瞑想する

5月から「瞑想専科実践編 シュリーマハーヨーギーの教えと生き様に学ぶ」が始まりました。

師にお会いできない月日が重なる中で、グルバイとともに師の教えに触れられる貴重な機会となっています。

先日のテーマは「真実の存在と識別瞑想」。
講座の中で、ヨーガダンダさんご自身の識別瞑想の体験談を話されました。
ある出来事により、苦手な人の顔が何をしていても胸に張り付いたように離れなくなり、アーサナを必死でしてもなくならず、瞑想の中でもその人の顔が浮かび上がってくる状況だったそうです。それでも瞑想の対象に集中し続けていたら、突然直観が訪れ、その苦手な人も自分も本質的には同じ存在だと分かり、瞑想の対象から光がやってきて、苦手な人の顔が消えていったということでした。その後その人に対する苦手意識はなくなり、ぶつかることもなくなったそうです。常日頃からできるだけ心を乱したくない、瞑想に没頭したいという思いが強かったからこそ、その人のことが気になるようになり、真実への思いが強くあったからこそ、その障害となるものを見つけられて、心の奥底からの戦いになっていった、とも話されていました。

私はその話を何度か聞いたことがあったのですが、お話の内容だけでなく語り口が軽妙なので、いつも楽しさを感じながら、自分もそんな風に苦手な人のことが一切気にならないようになったらいいなと憧れていました。
しかし、今回はこれまでと異なる気持ちになりました。
何度か識別に取り組みそれなりに結果を得られたことはありましたが、ヨーガダンダさんのお話を改めて聞いたことで、心の表面的な部分でしかできていなかったことに気付きました。心の奥底までしっかりと潜るには、何度でも諦めずに実践するのみです。いつか、ではなく今この瞬間に。

実践するほどに難しさを感じてしまい、時折挫けそうになることもありますが、
先輩グルバイの大きな背中を見せて頂けたことで、しっかりとやる気スイッチを押してもらえました。
もっともっと熱心に真実だけを求めていきたいです。

講座の中で紹介された、講師のヨーガダンダさんが描かれたイラスト。

心は湖面に、真実は月に例えられます。
湖面のさざなみが静まれば、月ははっきりと映し出され、同じように輝きます。
心が静まれば真実のみが輝き出します。

 

ハルシャニー


木陰の下で〜グルとサンガ〜

私は介護の仕事で車椅子の方と外出する時、休憩する小さな公園があります。暑くなり始めた先週、その公園の蔦が絡まる木陰のベンチに座ると、その場所がとても涼しく、一瞬にして癒されました。その瞬間、野口美香さんのブログで「木陰は涼しい」と書かれていたのが思い出されました。隣の車椅子の方もその涼しさに癒されたのか、笑顔で嬉しそうでした🍀


さて、そんな5月の終わり、名古屋近郊からはるばる京都のアーサナ・瞑想クラスに一人の女性の方(以下:Yさん)が見学に来られました。Yさんは私たちのブログ『ヨーガを生きる』を1年半ほどずっと読んでくださっていたようで、なんと2週間前、まだ会ったことのない私たちにブログ内でコメントを寄せてくれたのです!それがきっかけとなり、「ぜひ、お会いしてお話しましょう!!!」ということになり、コメントをくださってから1週間後、すごいスピードで交流が実現しました。
クラスの見学も含め、その前後でもたくさんのお話ができ、とっても楽しく素晴らしいひとときでした!!!

5/28(土)京都アスニーのアーサナ・瞑想クラス

Yさんはインドにグルがおられ、その教えを日本で毎日欠かすことなく一人で実践されています。
1年半ほど前にYさんは、私たちの師シュリー・マハーヨーギーのYouTubeを見つけ、そこで紹介されている教え「ヨーガの瞑想は、一生涯のその結果に留まらず、何百、何千生涯を通過するぐらいの威力をもってなされなければならない」に触れてとても感じるところがあり、それがきっかけで私たちのブログを読み始めたそうです。【師のYouTubeはこちら💁‍♂️『サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ:現代に生きる真正のヨーギー』】彼女はグルも仲間もいない日本でたった一人で実践し続けることが本当に苦しかったそうですが、ブログを通して、自分と同じようにグルへの思いをもったマハーヨーギー・ミッションの修行者の存在やその情熱に励まされながら実践を続けていたと話してくださいました。

今回の交流中、1秒たりとも真理・神以外の話をされなかったYさん。そんな大変熱心で信仰心の厚い彼女と交流して、私たちもとてもインスパイアされました!!!そして、グル(師)とサンガ(仲間)が修行者にとってどれだけ大きくかけがけのない存在なのか、改めてその有り難さを教えていただいたように思いました。本当にグルとサンガは、この世界における木陰のような避難所です!!!


私自身、木陰の一枚の葉っぱになれるようにと願い、これからその木陰の下に多くの人が集い、休足し、語らい、そして遊び戯れることを心から願った今回のYさんとの出会いでした。
Yさん、この度はご縁をいただき、たくさんのお話ができたこと、本当にありがとうございました🙏🙏🙏ぜひぜひ、また京都にいらしてください!!!一同、心よりお待ちしております😇

ゴーパーラ


心躍る新緑〜松山特別サットサンガ 振り返り

新緑が輝き始める季節になると体と心が自動的に松山特別サットサンガを連想し、喜びと感謝に満たされます。6年前のちょうどこの季節、2016年5月21日に私たちの敬愛する師は愛媛を訪れ、松山・今治で3日連続で特別サットサンガを開催してくださいました。
(当時の記事はこちら⇨1日目2日目3日目
松山のスタッフはゴールデンウイーク中、ほぼ毎日集まり、家族以上に長く一緒にいて無我夢中で準備をしました。真剣さの中にも常に喜びがあり、スタッフの絆がさらに強くなりました。真のヨーガを一人でも多くの方と分かち合いたいと願い、師を松山にお呼びしたくて地道な活動が始まって11年越しで特別サットサンガが叶いました。


そのサットサンガで印象に残っている質疑応答の一部を要約してご紹介します。
質問者が「以前、本質を見ることが問題の解決になると教えていただいたのに、つかめない。本質を見られるようになるには今の自分の心をしっかり見て、何が本当なのかを徹底的に理解していくことでしょうか。その他にはありますか」と問い、師は次のようにおっしゃいました。

他にはありません。自分自身の本質、あるいはこの世界、宇宙の本質と時々いいますが、この本質が意味するところは真実のもの。真実のものということは、永遠に不滅の存在のことをいっています。昔から、この体の中にあっては魂と呼んでいたり、またこの宇宙にあっては神と呼んでいた存在、それらは架空のものではないのです。実にありありとした、まぎれもない存在としてリアリティをもった唯一のものです。それに比べれば、この体や心は生まれてきて変化をしながら、やがてなくなります。心も幼少の頃から成人し、やがて年老いて、そのさまざまな状況の中で考えたり感じたり、いろんなことを、いろんな働きをしますけれども、それらはその状況に応じて働いている、そういうものです。いわば、この世界の中で生きていく上での道具のようなもの。それが体と心の役割なのです。
ただ間違いが生じて、心の中にあるエゴイズムというエゴ意識ですね、これをあたかも自分だと思ってしまう。そうすると他者との距離が生まれ、そこに差別が生まれ、隔たりが生まれて、またさまざまな問題が生じてしまう。これが人生におけるすべての問題の原因にもなっています。言い換えれば心が心自身を知ること、本当の心のあり方を知ること、本当の主人は心ではなく、その奥に在る純粋な意識、魂、あるいは神の存在、そういうことが体験できたら、すべての過ちはなくなります。
(中略)
このことを学び、そして今まで間違っていたエゴが主人であったならばそれをただ正しめるという、本来の心そのものの役割に回帰させる、そして本当の自分を知ること、これが本質という言葉の意味するところなのです。

すべてを優しく包み込むような師の慈愛に満ちた口調が会場に静かに響き渡り、言葉を超えた細やかな振動が私たちの心を真実へと向かわせました。言葉の意味を頭で理解するのではなく、真実を体感する。これこそがサットサンガの醍醐味です!
「リアリティをもった唯一のもの」への憧れはますます高まり、師に励まされた一人一人は今も弛まず力強くヨーガを邁進しています!
コロナ禍で師にお会いすることはできませんが、常に真理に心をぴたっと貼り付けて、師に再会したとき、師に喜んでいただける自分でありたいです。毎日が心を清らかにする準備だ!と熱意をもって軽やかに精進していきたいです。

アーナンディー


一点集中

前回のブログで「大いなる真剣さ」とは、カミソリの刃の上を渡り切るほどの強い信念を持ち、一分の隙もなく集中し続けることではないか、と書きました。 
ヨーガではこの状態のことを「一点集中」といいます。常に一点集中の状態でありたいと願うものの、日常生活の中で起きる様々な出来事や、自分の心に振り回されて、持続することができないことが多々あります。 
葛藤したり悩んだりしながらも、その境地への憧れの思いだけは強く持って実践を続けていますが、強烈な一点集中状態になっていたのだと後で気付いたことが何度かあります。 

最初にそれを体験したのは、乗り越えられると思えないような大きな問題が起きた時でした。 

あらゆることが信じられず、真理の教えも無意味に感じてしまい、ヨーガの実践を続けることが苦しくなりました。かといって元通りの生き方に戻るのは怖く、寄る辺ない思いで過ごしていました。教え導いてくださっている師に対し、心の中で申し訳ないと詫びながらも、何とかしてほしいと助けを請うような日々が続きました。 
ある日、息をするのも苦しくなり、体を動かす気力もなくなり、自分の存在を今すぐ消してしまいたい、そんな思いに支配されました。 
私自身のことも世の中のことも真理の教えも、何もかもどうでもいい! 
そう思った瞬間、私という意識や思い煩っていたこと全てが消え、ただ師の存在だけを感じました。 
大量の涙とともに抱えていたもの全てが流れ出て、久しぶりに息ができたような感覚になり、他には何もいらないから師への想いだけは失いたくない!!と必死に願いました。 

それからしばらくの間、師に意識が集中した状態が続き、不安も恐れも全くない、これまで感じたことがないほどの平安な気持ちで満たされました。 
何がそんなに苦しかったのかも思い出せなくなり、気力が戻って普通に動けるようになりました。 
問題が解決されたわけでも、状況が改善したわけでもなかったけれど、意識が師からそれることがなかったため、心が何にも反応しなくなり、やるべきことを淡々と行えるようになっていったのだと思います。

 苦しかった時、光り輝く真の自己が私の中にもあると信じたい一心で、タペストリーを見つめ続けていました。

 

その時の師の存在だけがあるという感覚は、今もずっと胸の奥にあります。 
そして、私の意識が師に集中されている時に平安な気持ちを感じたのは、師が永遠に変わることのない純粋な存在そのものだからだと思います。 
これからも、どのような状況にあっても真実に憧れ向かっていこうとする想いだけは手放さず、強く求めていきたい。それによって、私たちの中にある永遠に変わることのない純粋な存在、それだけになることができるまで。 

ハルシャニー


真理を実現する道〜アーサナ

「ヨーガのアーサナ(体位法)や内容は、すべて生理的にも心理的にも哲学的にも科学のように説明が可能です。いつでも簡単にできます。しかし大事なことは、それらを知的に理解するよりも、体験によって良い変化を身体と心に与えてやることです。悟りとは単に知ること(知識)ではなく、成ること(体得)なのです。これが何千年にもわたる東洋の霊的修行なのです。真理はすでにあなたの中に在ります」——『悟り』より

思い返せば、アーサナの体験によって良い変化を身体と心に、ずっと与えられ続けてきたのだと思います。

七年前、ヨーガへの信頼はすでにありましたが、ヨーガを生きるということに対して、難しいから私には無理なのでは? 何かを失うのではないか? という思いも同時に抱えていました。度々、表面的な心の動揺に心が占められてしまい、苦しくなることがありました。
そのような中、京都でのアーサナのデモンストレーションに参加する機会をいただきました。いつもより自然と集中した中、アーサナを行なっていると、「真理の道とそうでない道」という言葉が浮かんできました。その瞬間、師から伝えられたアーサナは「真理を実現する道」であると直観的に感じました。真理に反する思いがあれば、抗うような力が内にあり、もうすでに私の身体と心は真理の道を歩むためのものに大きく変化させられているということが分かったのです。私自身、本当は真理の道を歩みたいと強く思っていることにも気付かされ、涙が溢れました。

今、私はアーサナを行なうことで心が内向きになり、すでに在る真理に近づいていけることを実感しています。このような具体的な方法を教えられ実践できることは、何と恵まれていることでしょうか。そして、真理の道を歩みたいと心から願うようになりました。それだけが本当の幸せになれる道だと確信しています。
師への感謝を胸に、日々実践を続けて深めていけますように。

師が歩かれた松山の大街道。私にとっては真理の道!

りょうこ