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ヨーガとインド神話~シヴァ神

インドの神様といえば、「シヴァ神」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?

8月にこのブログで、聖典『デーヴィー・マハートミャ(女神の素晴らしさ)』に登場する女神ドゥルガー(カーリー)をご紹介しましたが、その夫がシヴァ神です。
シヴァは破壊と再生を司る神であり、ヒンドゥー教の三大神の一柱として、ヒンドゥー教の国々で現在でもとても人気があるそうです。

瞑想をするシヴァ神

シヴァ神はとても古い神で、そのルーツは暴風雨の神「ルドラ神」まで遡り、数千年の歴史の中でさまざまな地域の土着神や信仰が融合して、今日の「シヴァ神」として伝わっているようです。

実はヨーガの実践者にとっても、シヴァ神は非常に重要な存在です。
なぜなら、シヴァはヨーガを最初に人間に伝えた“ヨーガの祖”であることが、いくつかの聖典に記されているからです。
確かに、シヴァ神の絵には修行者の姿で坐し、半眼で瞑想している様子がよく描かれています。

パシュパティの印章(PashupaiSeal)。ヨーガ行者の姿をした人物を刻んだインダス文明の印章。シヴァにパシュパティという別名があることから、シヴァの原型と関連付けられることも…。

そのような古い歴史をもつシヴァ神には、体系化されていない数多くの神話が各地域に伝えられていて、その中にはシヴァから人間にヨーガが伝わった経緯に関する伝承もあるようです。
例えば、ある日、川のほとりでシヴァが妻パールヴァティーに深遠なヨーガの奥義を語っていたところ、一匹の魚が熱心にその教えを聴き取り、奥義を理解して人間の姿に変わり、最初の弟子マッチェーンドラナートとなってヨーガを広めたというお話や、シヴァがヨーガの奥義をまとめた聖典を作ったが、普通の人間には危険だと考えてそれを川に投げ捨てたところ、一匹の魚がその聖典を呑み込み、漁師がその魚を捕らえて魚の中から聖典を発見し、その聖典を学んでマッチェーンドラナートになったというお話など。これ以外にも諸説あるようです。面白いですね。
ヨーガのアーサナ(ポーズ)の中に「マッチェーンドラ・アーサナ(ねじるポーズ)」や「マッチャ・アーサナ(魚のポーズ)」があるのも、興味深いことだと思います。

左/マッチェーンドラ・アーサナ(東京・国分寺クラス) 右/マッチャ・アーサナ(東京・中野クラス)

私自身のシヴァの体験は、以前バクティ・サンガムでシヴァ神のキールタンを繰り返し歌った後、無性にシヴァに瞑想したくなり、そのまま瞑想に入りました。
そのとき感じたのは、山のように雄大などっしりとした不動の存在感。いつも瞑想していたクリシュナ神とはまったく異なる感触で、とても驚いたのを覚えています。

このブログ「ヨーガを生きる」でも、シヴァ神について何度も取り上げられています。ヨーガとシヴァ神の関わりが詳しく書かれていて、とても面白いので、ご興味のある方はぜひご覧ください。

シャルミニー


台湾グルバイの滞在報告🇹🇼

9月23日〜10月1日の8日間、3人の台湾グルバイ(仲間)が来日していました🪷

今回は私の自宅であるシャーンティ庵に滞在し、毎日朝は瞑想し、その後はヨーガクラスの参加や日本の弟子と交流するなどして、まさにヨーガ三昧の日々でした。 彼らが日本に来たのは、先輩弟子からマハーヨーギー・ミッションの活動やワークスを学ぶという目的があり、そこには大いなる真剣さがありました。

毎朝6:15〜7:15に瞑想。忙しい滞在だったにもかかわらず、不思議と眠くならなかったそうです😲

プレーマ・アーシュラマでアートワークを学びました🖼

月曜日のアーサナクラス。3人並んでのブリッジ。

土曜日のアーサナクラス。3人並んでの逆立ち。

土曜日の朝の瞑想クラス。松山のグルバイやちょうど台湾留学生シヨさんも参加されました。

早いもので、台湾のグルバイと交流が始まって11年が経ちましたが、いつも接していて思うのがハートの「純粋さ」です。
台湾の方たちは本当に素直で明るく、心温まる純朴さがあります。
私は今回、師シュリー・マハーヨーギーがおっしゃった「品(ひん)」についての言葉を思い出しました。

「品とは純粋さ。それはお金で買えないもの」

今回来られたエミリーさんマークさん夫妻、プリヤーさんはまさに「品」がありました。
エミリーさんは何気ない気遣いをよくしてくださり、慣れない台所で美味しい手料理を振る舞ってくださいました。いつも凛としていて、芯のある品やかな女性だと感じました。
夫のマークさんは、今回の滞在で「生きる目的」が明確になりました。瞑想クラスに参加して、「どう生きていきたいのか?」という問いに瞑想した時、「ヴィヴェーカーナンダのように大きなことはできないけれど、自分を世界に捧げたい」という思いが胸の奥から湧き、その時に彼は涙を流しながらその思いを語り、その場の参加者たちは彼の純粋さに胸を打たれました。
そして11年前の留学生時代から親交のあるプリヤーさんは、通訳中によく涙を流し、人の歓びを自分の歓びとして感じる素晴らしいハートの持ち主です。日本のお笑いやアニメ好きということもあり、普段の会話もとっても面白いです。

左からマークさん、エミリーさん、プリヤーさん、シャーンティマイーさん。マハーヨーギー・アーシュラマでは連日美味しい食事をいただいたそうです🍱

台湾のグルバイとは年々、友好関係が深まっていて、本当の兄弟姉妹のように感じています。
ヨーガの語源はユジュという「繋ぐ」ですが、ヨーガを通して、そしてヨーガを教えてくださるグルを通して、私たちは繋がっています。
主クリシュナはこのようにおっしゃっています。

「私は、すべての真珠を貫く糸である」

神を通して、たくさんの真珠と出会い、繋がっていくことは歓びです。
私ももっとヨーガを深め、純粋になっていきたいと感じた台湾グルバイとの交流でした😇🙏

バクティ・サンガム後に記念撮影。皆さん、良い表情です✨

※台湾のグルバイたちが日本に来始めた時の懐かしいブログを見つけました💡
マールラーさん(当時はエセーさん)が日本に来て感じられた内容が書かれています。
翻訳はプリヤーさん(当時はルーさん)です。
よろしければ、読んでみてください💁『MYMとの出会い』

ゴーパーラ


『マハーヨーギーの真理のことば』~瞑想─基本編

ひと昔前に比べて、瞑想に興味を持つ方が増えてきたように感じます。瞑想に関する情報も多くなりましたが、その一方で、「瞑想をしてみたいけれど、どんな方法がいいのか分からない」といった声を、私の周りでも耳にすることがあります。

私自身も、師に出会うまでは、瞑想を基礎から学んだことがなく、ほんの少し習った知識で見よう見まねで行なっていました。確かに、心が落ち着いたり、何かひらめいたような感覚を得ることもありましたが、どこか茫洋としていて、「これでいいのかな…」と何度も考えることがありました。

シュリー・マハーヨーギーの下で、瞑想を一から教えていただくようになり、私はそれまでかかっていた心の靄(もや)がサーッと晴れていくように感じました。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章「瞑想─基本編」には、これから瞑想を始める方や、始めて間もない方でも共感できる問答が数多く載っています。
例えば――

─良い瞑想とはどういう状態ですか。
─瞑想の効果がいちばん現れる時間というのはあるのでしょうか。
─アーサナの後に瞑想すると、直ぐ眠くなってしまうのですが、何か良いアドヴァイスがあれば教えて下さい。
─集中がすごく難しくて、いつも雑念ばかりになってしまいます。どういうふうにしたら集中しやすいのかを教えていただけますか。

ここで、特に大切な「瞑想の対象」についての問答を一つご紹介します!

─考えたいことがある時に瞑想しようとするのですが、一点に集中というよりは、考えてしまうのです。まだ瞑想がどういうものなのか全然分かっていないのですが、瞑想の具体的な対象について教えていただけますか。

瞑想の内容は大きく分けて三つある。一つは私は誰か、アートマンという本当の自己を探求する、それだけに集中する。これは私という言葉と概念がその入り口になります。もう一つは、神もしくは神的存在、理想の神の姿を思い浮かべる。そしてもう一つは、真理という抽象的なものについての集中。何か他の様々な考えはこの三番目のものに該当する。どういう考えが起こっていようと、それが真理かどうか、真実かどうかということを瞑想で悟っていく。
だから、この三つの柱のどれかには纏めないといけない、どれかにしないといけないということね。これが混乱していると集中感がなかなか掴めないと思う。

─その三つのうちから自分でどれかを選ぶということですか。

そうです。

─自分には何がしやすいかということでしょうか。

何を求めているかです。しやすさの問題ではなくて、何を本気で真剣に求めているかということ。それによってこの三つのどれがいちばん身近に感じるかというのが自然に繋がってくると思う。

─行き着くところは全部一緒なのですか。

そうです。
真実の幾つかの面というか現れとして、その違いがあるわけです。自己を探求するのがギャーナ・ヨーガ、神的存在に瞑想するのがバクティ、そして真理、真実を確かめていくのはラージャ・ヨーガ。そういうふうにその集中対象と内容に応じて呼び名は違いますけれど、行き着くところは同じだし、またギャーナ・ヨーガでもバクティ・ヨーガでも純度を高めるためには識別を必要とします。識別というのは心の中にまだ残っているかもしれない煩悩性のものを取り除く作業です。これは真実と突き合わすことによって放棄されていく。だからそれらをしっかり覚えておいて、そして最も切実に求める対象を選ぶ。

─対象は一つだけにするものなのですか。

いえ、そういうわけではないです。その三つを、一時にではないけれども、一人の修行者が行なっていくことは普通です。
( 『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章「瞑想─基本編」第一節 瞑想の基礎/瞑想の対象を選ぶ)

私は、バクティ・ヨーガの瞑想を何年も続けていましたが、今はアートマンへの瞑想に変わりました。
それは、神を求めなくなったからではなく、むしろ神を求めて瞑想を続けるうちに自然とアートマンという真我への瞑想に繋がっていったという感覚です。
瞑想の進み方やその様相は一人一人それぞれに違うものだと思いますが、行き着くところは同じ一なる真実。私の中にあるその真実を実現するまで、これからも真剣に瞑想を続けていこうと思います。

シャルミニー


『ヨーガ・スートラ』写経ーー『インテグラル・ヨーガ』

9月に入っても暑い日が続いていますが、皆さまはこの酷暑、どのように過ごしておられますか?
私は先月、『ヨーガ・スートラ』の写経に取り組んでいました✍️
3年前にもその写経をしたのですが(『ヨーガ・スートラ』写経)、今回はスワミ・サッチダーナンダが『ヨーガ・スートラ』を解説した『インテグラル・ヨーガ』を写経しました。
実はこの本、私たちの師シュリー・マハーヨーギーが翻訳監修に携わっていて、私はその一つ一つのスートラ(節)を写経していると「あぁ、師の的確で明細な表現だ〜!!」と感じ入り、師の息吹に触れたように感じられました。
さて、ちょっと問いかけなのですが、ヨーガの偉大な発見って、何だと思いますか👀?
「梵我一如」の発見、「無知」の発見、「バクティ(信愛)」の道の発見など、たくさんありますが、「見ている意識(本当の自分)」の発見もその一つだと思います。
『ヨーガ・スートラ』では、心をただ客観的に観照している「見ている意識」があり、それが「本当の自分」であると説いています。
私自身、「見ている意識」を知ったのは、師シュリー・マハーヨーギーのニューヨークでの問答が収められた『プラナヴァ・サーラ』という聖典を読んだ時でした。
その時まで私は、心が自分だと思うこともないほど、心が自分であり主体だと何の疑いもなく思い込んでいました。
しかし、「見ている意識」を知った時、「今、確かに見ている意識が在り、心は見られている。心は客体であり、主体は見ている意識である」ということに気付かされ、そして次の瞬間、心は電流に打たれたかのような天地がひっくり返るほどの衝撃と顛倒(てんどう)が起こりました。
それにより、その後の1週間ほどは心が真実を知った歓び、そしてそれを教えてくださった師への感謝で満たされたのでした。


今回、『ヨーガ・スートラ』の写経をして再認識したことは、やはり「見ている意識」について『ヨーガ・スートラ』は克明に書き記しているということです。
また、「見ている意識」に留まれるように、心の煩悩を無くすアプローチも仔細に説いています。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、『ヨーガ・スートラ』は苦悩する人類を救う「希望の光」だと感じています。
心は「見ている意識」を知らないから、欲望や世界に巻き込まれ、苦しんでいます。
そして何より、聖典が輝き、人を苦しみから救済へと導くのは、「グル(師)」によってです。
グルの存在ゆえに、難解な聖典に光が当てられ、人は真実を知り、実現したいと思えるのです。

私がグルから教えていただいた「見ている意識」ーーその真実を初めて知った方は、今、この瞬間、目を閉じて、その存在を感じ取っていただけたらと思います。
それは誰もの中に在る確実なるものです。

ゴーパーラ


ヨーガ・サーラ・スタジオ20周年記念企画 アーサナクラス/瞑想特別クラス 基礎編

8月23日(土)愛媛県松山市では、ヨーガ・サーラ・スタジオ20周年記念企画の一環として、京都のマードゥリーさんをお招きして、特別クラスが開催されました。
午前中は、近くの公民館をお借りしてアーサナクラスがあり、最初に30分ほどの講座もありました。

講座の様子。細密画やチャクラ図を使って目に見えないプラーナ(気)やチャクラ、土、水、火、風、空という五大の物質との関わりについて分かりやすく教えてくださいました。

体操とは違って、大いなる哲学を土台に持つことを学んだ後に行なうアーサナ。会場全体がしんとした神聖な空気に包まれました。

午後からの瞑想特別クラスでは、識別の瞑想についてお話と実践がありました。真理を学び、考え、瞑想する。識別の大事なポイントを教わりました。
識別というのは、自分の心を真理と照らし合わせて、不要な思いなどをバサバサと心の中から切り捨てていくことです。真理とは、完全、純粋、永遠、不動のものです。真理ではないものは、必ず変化していきますので、心がそういうものに執らわれていると、それがどんなに魅力的なものであったとしても、必ず苦しみに終わるのです。苦しみを取り除いて、軽やかに生きていくためにも、真理ではないものを心から切り離して捨てていくのです。

「何のために生きるのか」ーーマードゥリさんご自身がじっくり向き合った体験談を交えて識別について話してくださいました。

30分間、静かに瞑想。

当日、マードゥリーさんが選んでくださった7つの真理の言葉の中から各自、好きな言葉を選んでしおりに書き写して、持ち帰りました。

真剣に選ぶ参加者の皆さん。15分以上考えこむ方もおられました。

しおり作成チームのスタッフが喜びをもって美しいしおりを用意してくださいました。好きなしおりを選んで真理を書き込みました。

朝から夕方まで、盛りだくさんの1日でしたが、参加者のみなさんはとても充実されたようで、喜びの声がたくさん届いています。

(参加者のみなさんのご感想)

・今日の講座を聞いて強く感じたことは、「何のために生きるのか」という問いをあやふやにしてしまっている自分です。マードゥリーさんもはっきりおっしゃったようにあやふやにせず、真理を軸に徹底して追求し、検証すること。アーサナを1つ1つ大切に行なうように、命の様々なシーンに対しても、情熱をもって集中していけるようになりたい。

・30分じっくり座って、自分の心の奥深くまで潜っていく感覚がありました。普段ふわっとした理解で満足しているところを感じ、無意識に執着している対象があることに気付かされました。「もっと知りたい」という知識欲も煩悩の一つだと再確認しました。心の習性はしぶといものだと、また学びました。また、こういう機会があれば参加したいです。

・マードゥリーさんの力強いメッセージが明確に入ってきたことで、聖典を読む時に自分なりに漫然と読んでいることに気が付きました。不要なものに時間を割いていることを再自覚しました。

松山に来てくださったマードゥリーさんは、蓮の花のように優しくきれいな人でした。同時に、何事にも動じない堂々とした佇まいで、未来を切り拓いていくような力強さを感じました。マードゥリーさんと少しばかりの時間を共有したことによって、その力強さが少し、私にも乗り移ったのかもしれません。美しい真理のしおりを抱きながら、元気な足取りで帰路に就く、最高の一日でした。

笹沼朋子


『マハーヨーギーの真理のことば』第一章「愛の真理」

アーサナ中に体験した忘れられない出来事があります。
アーサナを始めて何年か経ち、少しずつ真理の教えにも触れていっていたある日、いつものように自宅でアーサナを行なっていました。すると、「このままではだめだ!!」という思いが突然やってきて、私はアーサナを中断して立ち上がりました。

その頃、我が家では、イチゴという名前の白い犬を飼っていました。私は、彼女の自由にできる場所をリビングだけに制限していました。理由は、部屋が汚れることがとにかく嫌だったからです。今となっては、とてもエゴ的で傲慢な行為だったと思いますが、本当にあの瞬間までは、それが間違っているとは思いもよらず、考えることすらありませんでした。
けれどその時、私はアーサナを中断して、部屋を行き来できないように置いていた柵を取っ払って、彼女が家の中を自由に行き来し、過ごせるようにしました。そして、当たり前のことなのですが、汚れたら綺麗にすればいいと素直に思えたのです。その瞬間、憑き物が取れたかのように、私自身も自由になれたような清々しい感覚と救われたような気持ちを味わいました。そして、彼女以外の家族にも窮屈な思いをさせていただろうことにも気付きました。

それ以来、彼女の毛並みはツヤツヤとして、元の白さを取り戻していったように見えました。そして以前よりも生き生きとして、元気に走り回っているように見えました。私はその姿を見て深く安堵しました。

部屋を清潔にしておくことや整えておくことは、もちろん悪いことではありません。できるだけそのようにしておく方が、私だけでなく、きっと家族も心地良く過ごすことができるだろうと思います。けれど、心の思いは、完全に純粋なものではなく、「私」と「私のもの」への執着が入り混じり、時に、それはエゴ的で傲慢な行為となり、他者を苦しめたり、気付かないうちに傷つけてしまうこともあることを知りました。

天国と地獄は人の心の中にあります。あなたが「私」と「私のもの」を突っ張ればそこは地獄になり、「あなた」と「あなたのもの」に自らを捧げるなら天国になるのです。心は迷いやすく間違いを犯すかもしれないが、自らの苦しみを避けるためには他者を苦しめてはならない。自らの幸いを招くためには他者の喜びに奉仕することです。それは愛です。

『マハーヨーギーの真理のことば』第一章64頁

彼女が旅立った時、自分のしていたことを本当に申し訳なく思い、彼女が生きている間に大切なことに気付かせてもらえたことを改めて深く感謝しました。
そして、また同じような間違いを犯さないように、この教えを大切に心に留めています。

サットサンガで、あの日の出来事についてお聞きした時、ヨギさんは、良い気付きだったこと。そして、アーサナによって集中状態が生まれ、心が静まり、瞑想のような状況が訪れたことを教えてくださいました。

ヨーガを正しく学び、実践していくことは、誰もにとってより良く生きるためのたしかな拠り所となり、道標になってくれると思います。
一人でも多くの人がヨーガと出会えますように。真実を求めて、真摯に学びと実践を続けていきたいです。

藤原里美


夏休みブログ🍉🎐〜円空や鬼、ブッダのことばについて〜

残暑お見舞い申し上げます。
まだまだ暑い日が続きますね☀️
今回は夏休みシーズンということで、ちょっとラフでフリーな感じでブログを書いてみました🏖️🏄
少し長くなったのですが、お付き合いいただけたらと思います🙏

1年半ほど前になりますが、あべのハルカスで開催されていた円空展に行ってきました。
円空は生涯で民衆のために12万体の仏像を彫ったと伝えられている修行僧です。

飛騨千光寺に伝わる金剛力士像。まるで木からそのまま仏が現れたかのような姿です。寺の境内の立ち枯れた木から直にこの像を彫ったとか。

円空の特徴は大胆な荒彫りーー私は初めてその彫りをネットで目にした時、衝撃を受け、私の心にも深い印象を刻み込みました。
そこからというもの、円空に魅了された私は、その仏像が安置されている滋賀や岐阜のお寺に足を運びました。
その時のブログはこちら💁「ブラゴパーラvol.8」

この円空展では、たくさんの作品(円空仏)が展示されていました。
素朴な微笑みを浮かべる数々の円空仏を見ていると、円空が民衆のために12万体の仏像を彫ったという事実が心の中に浸透していきました。
円空のその偉大な行跡はもちろん知ってはいたのですが、実際に円空仏を見ていると、自然と頭が下がる思いになったのです。
ブログを1000書いたとしても円空には遠く及ばないし、アーサナを毎日12ポーズ×12年間やり続けても50000ポーズほどです。
数がいちばん大事ということではないですが、円空仏と対面することで、彼の行動がどれだけ驚異的なことであったのか、また神狂いであったのかと心の奥から感じ、謙虚な気持ちになりました。

そして円空展の目玉は「両面宿儺(りょうめんすくな)」でした。
『呪術廻戦』という人気漫画に登場し、有名になった鬼神です。


歴史上で両面宿儺は朝廷に叛逆した飛騨の豪族だと言われ、異形の鬼の姿で伝えられていますが、地元では武勇に優れた英雄的な人物だったそうです。
その両面宿儺の像を円空が飛騨高山の千光寺に滞在中に製作したようです。

ちょっと話は逸れますが最近、仕事で映画『鬼滅の刃』を観る機会があったのですが、鬼にもいろんな鬼がいて、それがきっかけで「鬼って何なのかな?」って考えることがありました。
それは王権側から見たら叛逆者であり、また人間の心が生み出す嫉妬や怒り、欲望、死への恐怖etcが鬼となって現れているのかな思ったのと、不平不満や嘘、暴言を口にすれば、鬼のように顔が赤くなりツノが生え、その場は修羅・地獄と化します👹
かのブッダは、「人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割く」と言って言葉の慎重さを説いていますし、また「時を空しく過した人は地獄に落ちて悲しむ」とおっしゃっています。
以下が、ブッダが私たちを苦しみから脱するように鼓舞した言葉になります。

起(た)てよ、座れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。
起(た)てよ、座れ。平安を得るために、ひたすらに修行せよ。汝らが怠惰でありその〔死王の〕力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。
神々も人間も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。この執着を超えよ。わずかの時をも空しく過すことなかれ。時を空しく過した人は地獄に落ちて悲しむからである。
怠りは塵垢である。怠りに従って塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。

『ブッダのことば』 第二 小なる章 10、精励

とても力強い言葉です。怠惰になって地獄に落ちないように、瞑想の修行を怠らずに努め励むこと、それが心を平安にするためにすごく大事なことだと分かります。

あと、もし心が波立ったり荒れているな、怠惰になっているなと思ったら、円空仏などの仏像や聖なるシンボルを目にすることも大事なことだと感じています👀
目を通して、心は落ち着き、清涼になると思います👹⇨😊🏝️

ゴーパーラ


ヨーガとインド神話

私は、マハーヨーギー・ミッションのバクティ・ヨーガのクラス「バクティ・サンガム」で、キールタンを歌ったり、インド神話や神々について学んだりする中で、自然とインドの神々に親しみを感じるようになりました。

また、機関紙『パラマハンサ』に長年連載されていた『バーガヴァタ・プラーナ』の記事を読み続けるうちに、「インド神話って本当に面白い!」と強く感じるようになっていきました。

私たち日本人には、古くから「八百万の神」という多神的な感覚が生活に根づいています。多くのユニークな神々が登場するインド神話に、どこか懐かしさや馴染みやすさを感じるのも、そうした文化的背景があるからかもしれません。

ヨーガは特定の宗教に属するものではありませんが、そのルーツはヒンドゥー教と同じく古代インドの叡智にあります。そのため、ヨーガの教えとヒンドゥー教の聖典や神話には、重なり合う部分が多く見られるようです。

こうした背景などを少し知ったうえでヨーガの実践者として神話にふれると、最初は知らない神様に戸惑ったり、荒唐無稽な作り話のように感じられた物語が、次第に知的な理解を超えて、心に深く響いてくるようになりました。

インドの女神信仰の聖典に『デーヴィー・マーハートミャ(女神の素晴らしさ)』というものがあります。

この書籍に『デーヴィー・マーハートミャ』が収録。

この聖典は、女神の誕生からアスラ族(悪魔)との壮絶な戦い、そして女神が完全勝利を収めるまでの大スペクタクルな物語と、女神への賛歌から成っています。
インドの女神は、最も優しく美しい存在でありながら、この宇宙のすべてを生み出しすべてを飲み込むエネルギーそのものであり、宇宙最強で最恐(?!)でもあります!

どれほど最強かというと、宇宙の創造主ヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマー、インドラをはじめとする、あまたの神々から放たれた神の光のエネルギーが一つに集結して誕生したのが女神ドゥルガーなのです。その上、それぞれの神々から、特別な神の武器を贈られ、完全武装した女神となります。その想像を絶する強大な威力を持った女神がひとたび雄叫びをあげると、「全世界が震撼し、海は波立ち、大地は震え、山々が揺れ動いた」と語られるほどのスケールです!

しかし、そんな女神にさえ対抗する力を持っているアスラたちは、倒しても倒しても、しぶとく次々とわいてきます。ついには大憤怒したドゥルガー女神から、より強力なカーリー女神が生まれ、最後にはアスラの王が倒されるのです。

さて、この聖典についての解釈はさまざまあると思いますが、私自身が読み終えた時に、最も印象深く胸に迫ってくるのは、「人間の無知」の象徴とされるアスラの、なんとしつこいことか…ということです。
そして、それをあの手この手で何とか滅ぼそうと戦ってくれる女神や神々の、なんと偉大で慈悲深いことかという思いです。

ヨーガでは、私たち一人ひとりが神の顕れだと教えられています。そう考えると、この壮絶な戦いは、私たち自身の「無知」との心の闘いでもあると思います。

女神とアスラとのあまりにも凄まじい戦いを思うと、気が遠くなりそうですが、物語の最後に描かれているのは「勝利」です!
私にとって『デーヴィー・マハートミャ』は、女神のように猛々しく、そして勝利するまであきらめずに、自分の中の無知と闘い続ける勇気をもらえる、そんな神話であり、聖典です。

それほど長いものではありませんので、もしよければぜひ一度読んでみてください!

(参考文献/平凡社東洋文庫『ヒンドゥー教の聖典 二篇  ギータ・ゴーヴィンダ/デーヴィー・マハートミャ』)

シャルミニー


アーサナの秘儀 ――師が確認された古の道――Raja Yogaを終えて

5月に1年間続いた「アーサナの秘儀――師が確認された古の道――Raja Yoga」のクラスが終わりました。この1年間、一つ一つのアーサナのポーズの作り方のポイントや効果など、教わったことを家やクラスで実践しては質問する。また、他の方の質問に対するアドバイスを聞いて、自分も実践してみるということを繰り返し、正にアーサナと共に駆け抜けた1年間でした。


毎日アーサナをしていたので、できている!と思っていたことが実は全然できていなかったということがありました。ハラ・アーサナ(鋤の形)は手で背中を支えて、と教えられますが、私は手に全く力が入っていなくて、ただ背中に添えていただけでした。意識して背中をしっかり手で支えると、もっと遠くまで足を伸ばしていけることに気付いた時には、今までなぜ気付かなかったのか、と本当に驚きました。
また、サルヴァンガ・アーサナ(肩立ちの形)で、パドマを組んで頭の方に倒そうとした時に、講師の方が背中を一押ししてくださいました。その一押しは自分では今まで行くはずがないと思っていた限界を超えたところまで、ぐいっと背中が倒れていきました。「あっ、いった!」と思った瞬間に体の中が熱くなり、心がすっきりして何か付いていたものが取れたような感覚、壁みたいなものが剥がれ落ちて自然にいろいろなものが流れ始めた感覚がありました。自分でも気付かないうちに作っていた限界や苦しみから解き放たれたようでした。

気付きや学びをいただき、改めて一つ一つのアーサナに集中して、丁寧に意識して作っていくことで、アーサナ全体への集中感が増しました。その集中は瞑想へと繋がり、日常でも心が安定していました。そしてアーサナの大切さや信頼が深まり、自分を信じる強さが生まれたように思います。
このような変化は、クラスのみんなが感じられたことだと思います。

後半に設けられたサットサンガ(霊的問答)では、回数を重ねるごとに「できないと思っていたことができるようになりました!」という感想が増えて、その度にみんなで喜び合いました。ヨギさんから教わったアーサナを正しく理解したいという同じ思いで、真剣に学び、質問し、その質問に対し講師のシャンティーマイーさんが真摯にアドバイスをくださったことで、学びが深まっていきました。そして最終回では、みんながこれからの実践への期待と喜びに満ち溢れた顔になっていました。今、クラスを終えて、本当に貴重な機会だったと思います。これからの実践に生かし、精進していきます!

桜井みき桜井みき


瞑想ワークショップ「アートに瞑想しよう!」in 松山市

先日、2日間にわたって開催された愛媛県松山市のヨーガ・サーラ・スタジオでの「アートに瞑想しよう!」は両日共にたくさんの方にご参加いただきました。
まるで美術館のように作品が飾られた空間は、静かで穏やかな雰囲気と作品ひとつひとつから溢れる神聖さで満たされていました。


会の最初に与えられた個人で自由に作品を見て感じる時間は、参加者全員が食い入るように作品に見入る姿がありました。


そして、その後ゴーパーラさんが話された作者であるヨギさんの紹介や作品が描かれたきっかけ、作品にまつわるエピソードには、笑ったり、驚いたり、圧倒されたりしながら、皆が耳を傾けました。


そしていよいよ各自が魅かれた作品の前に座って20分ほど瞑想です。今回、私は『如意輪観音』に瞑想しました。その理由はお姿が師に似ていて、立膝をついている理由が「必要な時すぐに動けるように」と会の中で知ったこと、また私には手が何本もあるように見えて、それは何か知りたいなぁと思ったからでした。瞑想で感じたことは、その手は、すべての人々を救済していました。

如意輪観音 1984年

会の終盤、それぞれの作品に瞑想し、感じたり体験したことを5人の仲間が話してくれました。その内容は聞いている私たちを鼓舞し、気づきを与えてくれる素晴らしいものでした。その中で私にとって印象的だったのは、如意輪観音ではない別の作品について話しているにもかかわらず「救済」という言葉と共に同じように感じた方がいたことでした。それを聞き、ヨギさんのすべての作品は『人々を救済するため』に描かれたと直観し、ヨギさんの偉大な役割と働きを改めて感じ、心が平伏しました。

5人のスピーカーの1人、笹沼さん。「アーディナート(原初の師ーシヴァ)とシャクティ」に瞑想した体験談をお話されました。

今回、思いがけずヨーガに興味を持ち、ワークショップに参加してくださった職場の同僚は、「色が綺麗だなぁ」という理由で瞑想する絵を決めました。瞑想初体験後、帰宅してからの連絡で「肩の力が抜けて、リラックスできた。そのおかげで今直面している出来事に適切な判断ができた」と喜んでいました。そして2日後、職場で会った彼女は晴れやかな表情と共に「自分を縛っていたのは自分だったと気づいた」と自分の中に起こった変化について話してくれました。彼女の感想は、ヨギさんがすべての人を救済しているという事実となって、私の中に大きな歓びを残しました。

ヨギさんが残された真理への道を指し示すものは、アーサナや書籍、アート作品だけにとどまらず、お写真、映像、Tシャツやバック、さまざまな形となっています。もっともっとたくさんの人に届けて、触れていただけますように。もっともっと松山での活動が広がっていきますように。改めて、その活動を支えていこうと誓う機会となりました。
最後に、このワークショップに参加してくださった皆様、企画や準備、運営にかかわってくださったすべての皆様、本当にありがとうございました!

山口正美