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木陰の下で〜グルとサンガ〜

私は介護の仕事で車椅子の方と外出する時、休憩する小さな公園があります。暑くなり始めた先週、その公園の蔦が絡まる木陰のベンチに座ると、その場所がとても涼しく、一瞬にして癒されました。その瞬間、野口美香さんのブログで「木陰は涼しい」と書かれていたのが思い出されました。隣の車椅子の方もその涼しさに癒されたのか、笑顔で嬉しそうでした🍀


さて、そんな5月の終わり、名古屋近郊からはるばる京都のアーサナ・瞑想クラスに一人の女性の方(以下:Yさん)が見学に来られました。Yさんは私たちのブログ『ヨーガを生きる』を1年半ほどずっと読んでくださっていたようで、なんと2週間前、まだ会ったことのない私たちにブログ内でコメントを寄せてくれたのです!それがきっかけとなり、「ぜひ、お会いしてお話しましょう!!!」ということになり、コメントをくださってから1週間後、すごいスピードで交流が実現しました。
クラスの見学も含め、その前後でもたくさんのお話ができ、とっても楽しく素晴らしいひとときでした!!!

5/28(土)京都アスニーのアーサナ・瞑想クラス

Yさんはインドにグルがおられ、その教えを日本で毎日欠かすことなく一人で実践されています。
1年半ほど前にYさんは、私たちの師シュリー・マハーヨーギーのYouTubeを見つけ、そこで紹介されている教え「ヨーガの瞑想は、一生涯のその結果に留まらず、何百、何千生涯を通過するぐらいの威力をもってなされなければならない」に触れてとても感じるところがあり、それがきっかけで私たちのブログを読み始めたそうです。【師のYouTubeはこちら💁‍♂️『サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ:現代に生きる真正のヨーギー』】彼女はグルも仲間もいない日本でたった一人で実践し続けることが本当に苦しかったそうですが、ブログを通して、自分と同じようにグルへの思いをもったマハーヨーギー・ミッションの修行者の存在やその情熱に励まされながら実践を続けていたと話してくださいました。

今回の交流中、1秒たりとも真理・神以外の話をされなかったYさん。そんな大変熱心で信仰心の厚い彼女と交流して、私たちもとてもインスパイアされました!!!そして、グル(師)とサンガ(仲間)が修行者にとってどれだけ大きくかけがけのない存在なのか、改めてその有り難さを教えていただいたように思いました。本当にグルとサンガは、この世界における木陰のような避難所です!!!


私自身、木陰の一枚の葉っぱになれるようにと願い、これからその木陰の下に多くの人が集い、休足し、語らい、そして遊び戯れることを心から願った今回のYさんとの出会いでした。
Yさん、この度はご縁をいただき、たくさんのお話ができたこと、本当にありがとうございました🙏🙏🙏ぜひぜひ、また京都にいらしてください!!!一同、心よりお待ちしております😇

ゴーパーラ


真理を愛す

バクティ・ヨーガは「感情も五感も全てを愛する神に向け、愛そのものである神との合一を果たす」と表現されていて、ヨーガを学び始めた頃、私はこの強烈なイメージに漠然とした憧れを持っていました。何となく魅力的だなとしか思えなかったのは、瞑想の対象は神というよりも真我や真理の方が集中しやすく、神に瞑想するということがどういうことか私にはピンとこなかったからです。
もう何年も前のことになりますが、それまで誰かを好きになるとか愛するという感情に縁なく(興味なく?)生きてきて、グルバイ(仲間)が嬉しそうに「ヨギさん(私たちの師)の夢を見た」と話しているのを羨ましく思い、「あぁ、私にはバクティがないのだろうか」と不安が募り、勢い余ってヨギさんに尋ねたことがありました。この時、ヨギさんは何も仰らずに、静かに微笑んでいらっしゃるだけでした。何か答えてくださるものと期待していた私は拍子抜けして、それ以上尋ねることもできないまま、もやもやした思いが心の隅に残ったのです。
その後の数年間はキールタンを歌う機会やバクティ・サンガムに参加することで、少しずつ神に触れ学ぶ時間も持てましたが、結局それ以外の時間は神を忘れることが多くて、その存在を身近に感じるという実感はあまり持てなかったように思います。

けれど少し前からバクティ・ヨーガへの憧れが次第に強くなってきたのです。ちょうど瞑想専科のバクティ・ヨーガ編が始まり、この講座で多くの仲間と学べたことは大きな支えとなりました。日常生活で神を忘れることはしょっちゅうでしたが、そのたびに思い出すの繰り返しです。課題の聖典とともに、大好きな本である『悟り』の中のバクティ・ヨーガに関する記述も何度も読み返したりしていました。そうしていくうちに自然に神を思う時間も増えていき、いつの間にか、自分にはバクティがないのでは、という思いは消えていました。そして『悟り』の中のある箇所が目に飛び込んできました。

「クリシュナという神の化身を普遍の神に置き換えてもよろしい。アートマンでもいい。またブラフマン、真理に置き換えることも可能です」

そうか、神を愛するとは真理を愛することでもあるのだ、それならすごく分かる。今まで何回も読んでいたはずだったのに、初めて目にしたような言葉でした。
かつて質問をした時に、ヨギさんが答えてくださらなかった理由が今なら分かります。言葉で説明されたなら、きっとそれに執らわれてしまっていたでしょう。
それよりも、「バクティは既に、その胸の奥にあるよ」と伝えてくださっていると感じます。

祭壇のヨギさん。 私もいつも笑顔でいたいと思います。

マイトリー


真実という宝

松山のヨーガ・サーラ・スタジオに通う太宰さん。昨年より松山のスタジオだけではなく、MYMのオンラインクラスを最大限に活用され、誰ヨガ、瞑想専科バクティ・ヨーガ編、バクティ・サンガムなどにも熱心に参加されています。実は最近、太宰さんに大きな心境の変化があったとのこと。今回はそんな太宰さんにインタビューをしてみました。

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Q: 最近はよく日常でキールタンを歌われているそうですね。歌われていてどうですか?

太宰さん: (笑顔で)キールタンはすごいですね! 元気になる。楽しい! 今は日常生活において、掃除、洗濯、食事の用意の時もとにかくずっとキールタンを歌っていて、それが自然となっています。嫌なことがあってもキールタンを歌うようにしたら、自然と笑顔になるんです。とにかくキールタンが好きになって、めちゃくちゃ楽しいです!

 

Q: 何かきっかけがあったのですか?

太宰さん: 昨年、瞑想専科バクティ・ヨーガ編に参加しました。そこで、「信じることができればそれでいい。これ以上のものはない」というラーマクリシュナの教えが紹介されたんです。それを聞いて理解はできるけど、では自分はどうしたらいいのかなって思って。講座では実践方法や体験談も紹介されていたので、私にもできるかなと思って、二つのことを実践しようと思いました。一つは、キールタンができるかなと思いました。

Q: そうなんですね、あと一つは何を実践されているのですか?

太宰さん: 信じるということはどういうことかと思った時に、真剣さが一番だけど、信じることに対しても(自分には)謙虚さがない。そう思って、とにかく(瞑想に)座る、ということを決めました。「純粋で素直な信仰心をお与えください」ってお願いするだけなんですけど、まずそこからと思っています。最初からはできませんでしたが、回を重ねて講座の終わり近くになって、もっと真剣に頑張ろう!本当に変わりたい!変わらなければいけない!と強く思いました。

 

Q: 実践を続けてこられた中で、何か気付きや変化などはありましたか?

太宰さん: 以前、ヨギさんが松山に来られた時のサットサンガで、いろんなことに執らわれている悩みを相談した時に、「目の前に宝物があるのに、もったいない!」と言われたことがあるんです。それで、目の前の宝がどういう意味なのか分かりませんとお聞きしたら、「至福という――壊れない幸福のことを至福といいますが――そういう歓びに満ちた状態、それがその宝の山の正体なんです。それはどこに在るのかといえば、自分の中に、胸の中に在るんです」と言ってくださったんです。ただ、言葉上は理解していたんですが、本当の意味では理解できていなくて。

それで、瞑想専科の最後の方なんですが、座っていた時にやっとその宝の意味を理解できて、あぁ、これと同じことをヨギさんは教えてくださっていたのかなと思いました。宝というのは、真実であったり、真理のことです。瞑想専科で学んだ神への愛ということと自分はマッチして、同じことなのかなと捉えました。私はこれまで非実在のことでいっぱいで、たくさんの時間を費やしてきて、本当にもったいなかったなぁと思いました。
まだまだ、これまで積み重なってきたものがふつふつと出てきたりするんですが、今は「もったいないからやめよう。ここに真理があるんだ!」というふうに言い聞かせて、そのように思いを変えていくというようにしています。
やっと、スタートに立てたかなと思っています・・・こんなこと話したら、いいようにばっかり言っているように思うんですけど笑。

Q: それは本当に良かったですね! 今後の目標はありますか?

太宰さん: 今、していることを頑張って実践して、体得して、心が穏やかになりたいです。そして神を感じて、神で(身も心も)パンパンになりたいです! そして、次にヨギさんにお会いする時には、「目の前の宝、頑張ってつかんでいます!」というふうに言えるようになりたいです。

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 インタビューの間も、真剣でありながらも、終始とても楽しそうな笑顔を見せてくださった太宰さん。本当に心が軽やかになられた様子と実践の大切さが伝わってきました。

目の前にある宝を、私たちもつかんでいくことができますように!

MYM京都 


熱心に神を求める 〜瞑想専科バクティ・ヨーガ編を受講して〜

昨年10月から12月まで、瞑想専科バクティ・ヨーガ編が開講されました。毎回欠かさず参加されていた、和歌山在住の中島さんがご感想を寄せてくださいましたので、ご紹介します。

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 第1回目から、講師のミラバイさんの「バクティ・ヨーガで大切なことは、熱心に神を求めること!」という力強い言葉に刺激を受けて、やる気満々でスタートした3カ月。
私は、『ラーマクリシュナの福音』を毎日読むという課題や毎回の宿題に加えて、神の御名を唱える・常に神を想う(忘れていると気付いたらすぐに思い出す)ことから実践し始めました。 

3カ月の実践中、強く感じたのはオンラインクラスの素晴らしさです。
毎回、宿題や聖典を読んだ感想を発表する方の純粋な想いをダイレクトに受け取り、一緒に泣いたり笑ったりするうちに一体感が生まれ、皆で意欲を高め合うことができました。そして、画面に映る皆さんがキラキラと輝き出し、そこから伝わるサットヴァなプラーナに包まれて、クラスが終わる頃には充電完了! 次のクラスまで実践を続ける大きな力となりました。

また、講師のお二人の熱意あふれる講義は、ご自身の体験談などを交えた分かりやすい内容で具体的な実践への足掛かりとなり、バクティ・ヨーガの教えに対する理解も深まりました。それでも理解の深まりとは裏腹に、すぐに神から離れる心に振り回され、その状況を打破する糸口がなかなか見つかりませんでした。しかし5回目の講座は、それまでの「実践」のとらえ方や、自分の生き方を見直す大きなきっかけとなりました。

この時に紹介された、師への純粋な愛と信仰心だけを拠り所に、快楽的な生活を送る大酒飲みから神の思し召しのままに生きる聖者へと生まれ変わった、ラーマクリシュナの信者ギリシュの真っ直ぐでひたむきな生き方は、強く私の心を打ちました。そして「思し召しのままというのは、”私には何もできない”という消極的なものではなく、とても積極的な生き方。人としての本来の生き方だと感じる」というミラバイさんの言葉にも衝撃を受けた私は、自分の生き方を振り返り、自分がまだ神だけを求めて生きているとはいえないことに気付いたのです。

そこから私はまず、日常の出来事に心が執らわれる暇のないくらいに、絶え間なく神を求めることを目指しました。そして、家事をしながらキールタンを唱え、バターを見たらクリシュナを、雨が降ったらシヴァを思い、神から心が離れても「心を見ない!」というアドヴァイスを思い出してはすっぱりと切り替えて、とにかく心と身体を目いっぱい使って全身で実践し続けました。

そして、受講を終える頃には、聖典を味わえるようになったり、いろんな気付きがあったりと、参加して良かったと思いましたが、肝心なバクティの深まりはほとんど感じることがありませんでした。しかし、日々の小さな積み重ねは、自分でも気付かないところで心に変化をもたらしていました。ふとした瞬間に、胸の奥から理由のない歓びが溢れ出し、その源に神の存在を感じるようになってきたのです。

聖典の中でラーマクリシュナは、どんなにつたなくても信念を持って熱心に求め続けていれば、神は必ず応えてくださるとおっしゃっています。純粋なる歓喜ともいわれる神。この歓びの先に純粋なる歓喜、神がおられるという直感を手掛かりに、これからも毎日熱心に神を求め続けたいと思います。


~オンラインクラスを通して大きな力を下さった講師のお二人とクラスメイトの皆さん、
そして師のお導きに感謝しています~

中島尚子

 


ヨーギーから伝わる人生の「虎の巻」

京都、長岡京ヨーガクラスの新年のスタートは、112日でした。
会場の神足ふれあい町家の風情ある大きな格子窓からは、天から降りそそぐ真っ白な雪がしんしんと舞い降りてくるのが見えていました。照明が落とされた和室からは、その雪景色が絵画のように浮かび上がっていました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

この日は、約150年前のインドに聖者スワミ・ヴィヴェーカーナンダがお生まれになった日であり、講師のマードゥリーさんがこの吉祥な日にクラスが行なわれることへ感謝の思いを話されました。

かつてヴィヴェーカーナンダが師の御仕事を担われて、インドの叡智を世界へ向けて伝えていかれた。その恩恵があって、今私たちが学んでいるヨーガがある。
それを聞き私は、このヨーガは実際に生きていた聖者が精魂込めて人へ伝えられたその結晶なのだと初めて意識し、それを今教わっている不思議さを思い、講師の方々、そして師に、感謝しました。

受講者たちはみんなとってもいい笑顔で、凍える外の寒さがまるで嘘のように、部屋の中は穏やかでアットホーム。あぁ、きっとヴィヴェーカーナンダも喜ばれている、彼の師であるラーマクリシュナの存在、そして私たちの師であるヨギさんの笑顔が自然と浮かび、白い雪は祝福の散華のように見え、胸の奥から込み上げるものがありました。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

真っすぐ背筋が伸びたみんなの後ろ姿が凛としていました。アーサナを真剣に行なう清々しい姿がありました。
受講者同士でワイワイと会話をされるようなことはないですが、いつも自然で、さりげない気遣いと優しさをそれぞれに感じ、こういうのすごくいいなぁ~と私は行くたびに思います。みんなの背景は何も知りませんが、ただヨーガで繋がっている妙な安心感があります。それぞれの思いでヨーガを拠り所にされていることを感じ、ずっと続けて通われていることを尊敬します。クラス中に質問なども特にされていないようですが(私が知らないだけかもしれませんが)みんなどうしてこのヨーガを続けられているのかな~とふと思ったことがあります。一つのことを続けるのは、結構大変だからです。

長岡京ヨーガ・瞑想クラス

クラスの最後に今年の干支である虎にまつわるお話が紹介されました。
古代のヨーガ行者たちは、虎の皮を敷物にして瞑想をしていたそうです(ヨーガ行者は決して生き物を傷付けないので、自然死した虎の皮です)。百獣の王とも呼ばれる虎の上にヨーガ行者が座っている意味は、すべてを支配するという象徴的な意味もあるとか。ヨーギーは何ものにも執らわれない、自由を私は感じました。
また、虎は千里行って千里帰る、というように、一日で千里もの距離を走り戻るような威力があり、修行者をその背に乗せて、悟りの境地へ連れて行ってくれる乗り物でもある。そして「虎の巻」といえば、由来は秘伝が書かれたもの、奥義の秘伝書という意味合いを持つそうです。まさにこのヨーガも秘伝ですね、今年もヨーガの智慧、秘儀を一緒に学んでいきましょう、とマードゥリーさんは結ばれました。

私は、みんながヨーガを続けているのは、答えはヨーガが秘伝だから、と腑に落ちました。ヨーガはまさに私たちにとって生き方の秘伝書。秘伝は、それを知った者だけに分かるもの。これは体験した人にしか分からないものがあります。ちなみに私は、クラスへ行く行かないとでは全く違う!と最初の頃から毎回同じことを思います。今はオンラインでも様々なクラスがあるので、参加しやすいと思います。

虎にあやかって、今年も私たちが積極的にヨーガの道を全力疾走できますように。虎の背に乗せてもらえますように!

 

 野口美香 


ちょっとしたグル(師)の行為 ⑵

今日から8月、夏本番ですね〜🌞
梅雨も明け、私は介護の仕事の外出支援も増えて、京都御所や清滝などに行ってきました。(三密は回避してコロナ感染対策はもちろんしております)
暑い日に外に出るのは大変さも感じるのですが、コロナ禍でステイホーム期間も長引いているためか、やはり青空の下、太陽の光を浴びて汗をかくのは清々しいものです。

嵐山を北西に上がったところにある清滝。水がとっても冷たく、オアシスでした。

私は今年、外の仕事が重なっているため、わりと日焼けしているなと感じるのですが、11年前の夏はその数倍日焼けしていました。
その理由はというと……
以下に書き記しました。
連載『ちょっとしたグル(師)の行為』の第2回目です。


「気の抜けた炭酸みたいに眠りこけとるな!明日からランニングや!!!」

11年前の7月の終わり、約3ヶ月の師とのニューヨーク滞在の折り返しの頃、私ともう1人の滞在者アミティ(当時は井上さん)が師のアーサナ・瞑想クラスから帰ってきてほっこりしていると、それまで穏やかであった師が急変、語気を強めてそのようにおっしゃられました。そう、この日のクラス、否、ほとんどのクラスでアミティと私はアーサナで疲れ果てて瞑想中にコックリ&ウトウト……体力も気力もない、まさに「気の抜けた炭酸たち」に師はランニングを命じられたのでした。

翌朝、まずはランニングシューズを探しに出掛けました。師は私の履き心地を重視され、またデザインもユニークな靴底がイエローでジグザクになっているリーボックのランニングシューズをセレクトされました。師はそのデザインを見て、「馬の蹄みたいやな!」とおっしゃられました。(ちなみに、このランニングシューズは使用禁止のマラソン大会が出るほどクッション性や推進力が高いものだったようです)

次にアミティのランニングシューズを探したのですが、とあるお店の倉庫みたいな地下のところに入っていきました。そこには大きな段ボール箱が置いていて、黒のマジックペンで「$19.9」と書いてあり、その中にたくさんのスニーカーが乱雑に詰め込まれていました。師は屈んでその段ボール箱の中から必死になってスニーカーを探し始めました。私は「こんなところにあるはずがない」と思って横で見ていたのですが、そんな心の声が聞こえたのか、ぼーっとしている私に「自分も探さんかい!」と一言……私も一緒になって探し、そしてなんと驚くことに、そこでアミティにジャストサイズのお宝スニーカーを1足どころか2足も発掘&ゲット!!!

その後ケーヴに戻って昼食をとり、これからランニングなのかなと思いきや、次はなんとランニングウェアを探しにいくことに……!!
スポーツ用品店で購入するのかなと思いきや、そのようなところには行かず、カジュアルな洋服屋や古着屋を見て回りました。師はかなり吟味をされ、とはいっても怒涛の勢いで選ばれ、すべてが決まったのが19時を回っている頃でした。この日は夜も遅かったので、日本食のお店で夕食をいただき、帰宅しました。

マラソン選手のようなアミティ。色鮮やかなトータルコーディネートと肌の色が際立っています。それにしても真っ黒に焼けていますね笑。愛媛に帰るとしばらくの間は、すれ違う人に振り返って見られたそうです。

ニューヨーク曼荼羅のようなTシャツ。スケーターブランドです。残念ながらスニーカーの写真は残っていませんでした。。

私にとって、この1日はただの買い物の日ではありませんでした。大袈裟ではなく、人生が変わった1日でした。ヨーガをしにきたのにランニングを命じられ、ヨーガとは関係のない服やスニーカーを選び、さらにその師の買い物の仕方・選び方、その必死さたるや、自分の今までの価値観やセンス、観念が一気に破壊されたのでした。すべてが否定されたように感じ、その時私はとても情けなく辛かったのです。

しかし、そんな傷心を引きずったりお落ち込んでいる暇すらもなく、次の日から1ヶ月半、毎日ランニングをしました。大した距離は走れませんでしたし、長年の運動不足と怠惰な生活もたたってしんどかったのですが、走ってみると何だか中学生に戻ったかのような清々しい感覚で、とにかく毎日のご飯がとても美味しく感じられました。日焼けした私がご飯を必死に食べる様子を師は嬉しそうに見ておられ、その視線が今も心に強く残っています。

この道を通って、バッテリーパークまで走っていました。

ちなみに約3ヶ月のニューヨークの滞在で師と外食したのは後にも先にもあの日本食のお店の一度きりでした。
飲食店だらけの欲望の渦のようなニューヨークで外食をされない師の行為にも同時に驚かされたのでした。

ゴーパーラ


ヨーガ・瞑想クラスの再開

緊急事態宣言が解除され、関西のアーサナ・瞑想クラスも先週より再開!
6月26日(土)に行なわれた京都アスニーのクラスは約2カ月ぶりで、中学生を含む6名の方が参加されました。

ヴリクシャ・アーサナ(立ち木のポーズ)からスタート!

まず指導者のヨーガダンダさんが、「師がアーシュラマ(道場)でクラスを始められた時(45年前)、各自が自分のプログラムを黙々と行なっていくクラスを理想とされたそうです」と話をされ、クラスが始まりました。
クラス中は基本的なリードによって進められていきますが、後半は各自が自分のプログラムに沿ってサーダナ(霊的修行)を行なっていきます。

ニワトリ、サソリ、三点倒立!

緊急事態宣言中はオンラインクラスでしたが、受講してみると驚くことに実クラスと同じぐらいの集中感や効果を感じていました。
でも、こうやってクラスに集って顔を合わせ、同じ場所と時間を共有して行なうサーダナはやはり格別!!!
私自身、よりヨーガのプラーナ(気)で満たされる感覚があり、本当に貴重な場であると改めて実感させていただきました。

シッダ・アーサナ、パドマ・アーサナで瞑想。

アーサナは決して柔軟性を競うものではなく、座法と訳され、瞑想の座(シッダ・アーサナ、パドマ・アーサナ)を快適で堅固にするために開発されたものです。
そして師は、アーサナの真の意味を次のように説かれています。

「アーサナの真の意味はブラフマンに留まるということです」

シュリー・マハーヨーギー

私自身、クラス再開を機に今一度この教えを念頭に置き、アーサナ・瞑想によって小宇宙であるこの身体と呼吸、心を静め、そして大宇宙の真実在ブラフマンにしっかりと留まっていきたいと思います!

※初心者の方も大歓迎です!基礎からしっかりと学んでいけるクラスになっています〜! ヨーガ・アーサナクラスのインフォメーションはこちら⬅︎⬅︎

ゴーパーラ


ブラザー・ローレンスの教え〜神との対話〜

最近、複雑な問題に直面し、その答えを求められることがありました。
いろんな人の立場が絡まる問題であったので、答えを出すのが難しいと感じ、どうしようかと考えていました。
そんな時、私はブラザー・ローレンスに出会い、彼の信仰心にとても感銘を受けていました。
彼の実践の特徴の一つが「神との対話」です。

「私たちは何をするにも、すべてのことを主に相談する習慣を作らねばなりません。そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません」

私は彼に倣い、瞑想の時にその問題を神へ相談しました。
そうすると突然「光」が見え、「光あれ」という言葉が自分の内側から出てきました。
その時私は、「そうか、自分が答えを出すのではなく、ただ光のようにあれば答えが照らし出される!」と感じ、自分のするべきことが示されたように思いました。
その直後、期せずして次から次へとその問題に関する出来事が起こりました。
私はただ光のようにあることを心掛け、淡々とその事象に対応し、そうすることで複雑に見えていた問題の答えが自然と照らし出され、無事に解決に至りました。

ブラザー・ローレンスはおっしゃいます。

「神は決して私たちに大きなことを望んでおられるのではなく、私たちがすべての時の瞬間瞬間をわずかでも神をおぼえ、神をあがめ、神の恵みを求めて祈り、私たちの苦しみを打ち明けて語り、神がすでに与えてくださった恵みや、今、試みの中に与えてくださっている恵みをおぼえて感謝するのが大切なことだと思います。神が求めておられるのは、あなたができるだけ多くの時に、神を自分の慰めとすることなのです」

私は、ブラザー・ローレンスを通して問題の解決に至ったことを、神に感謝しました。
でも改めてこの教えを読んだ時、もっと大切なのは「結果に執らわれず、どんな時も神をおぼえ、あがめ、祈り、神の恵みに感謝すること」であると、さらにまたブラザー・ローレンスから教わったように感じました。

「世の光」であられたイエス・キリスト。

ゴーパーラ


シヴァの恵み

梅雨の時季、雨が続くと鬱陶しいなどと思ってしまう時もありますが、雨が降らなければ一体どうなるのでしょうか?

今から27年前、私の住む松山市では梅雨に雨が降らず水不足になり、7月下旬から11月下旬までの4ヶ月に渡って給水制限がありました。暑い時期をはさんでいたので、印象に残る出来事でした。
しかし、そんな大変な出来事も、もうすっかり忘れていました。

松山の石手川

今回、3月のブログにアップされた『シヴァと三日月🌙』を読んで、今一度「水」について考える機会をいただきました。
シヴァは私の憧れの存在ですが、シヴァの頭にある三日月が農耕に必要不可欠な雨・夜露と密接に関わっている象徴であると初めて知りました。また、シヴァのルーツはルドラという暴風雨の神です。私たちが生きていく上で欠かせない水が、天から降ってくる雨によってもたらされているということ自体、とても貴重なシヴァの恵みだと改めて感じました。

いちばん好きなシヴァの絵!

水道をひねればすぐに出てくる水、それを当たり前に使ってきたことに気付かされます。水がなければ作物も育たず、飲み水がなければ私たちの肉体を維持することもできなくなります。また身体や身の回りを清潔に保つためにも、水は欠かせません。手や身体を洗うのに水を使う時、神に会う前に沐浴を行なうように心掛けると、穏やかで平安な気持ちになります。

嗚呼、でもそれ以上に私は心清らかになって、本当のことが知りたい!!
しかし心と身体を自分だと思い、食べることを楽しんで夜眠気に負けぐーぐー寝ていては、本当のことが分からず人生が終わってしまうーー

真実を知るためには、月の時間に瞑想を行ない、シヴァの如き存在である師を思うことで、そこに近づいていけるのだと感じています。
今私は、日常は感謝の心を忘れず、清らかな思いで過ごし、月の時間を大切にすることを行なっています。

りょうこ


オンラインで「理想の聖者」について語らう!

6月に入りましたが、皆さま、いかがお過ごしですか?
こちら京都は緊急事態宣言が再々延長され、私の住む嵐山は観光客も少ない状況です。
そんな中ですが、5月は多くのグルバイ(仲間)とオンライン交流をしました!

「フォカッチャの会」では愛媛、金沢、和歌山、また台北のグルバイと楽しく有意義な時間を共有しました。

また、ニューヨーク・ミッションで行なわれている「Study In Practice (SIP)」にも3回続けて参加させていただきました。

「学ぶことを学ぶ」がテーマのSIPは、余談なしの真剣な勉強会で、終始ヨーガの話が展開されます。
「ヨーガは知識ではなく実践、そして体得」
そう師は教えられますが、「どうしたら知識ではない学びができるのか?」「自分の偏った考えに陥らずに学べるのか?」「どのようにヨーガの教えを日常に結び付けられるのか?」といったことを話していきます。
会に参加する中で、私自身改めて感じたのは、やはり「学ぶ」には「理想の存在」が必要不可欠だということです。
「こうなりたい」「こう生きたい」「こうすればいいんだ」という気付きや道標が、理想の存在を見つけることでより明確になるーー
つまり、理想の存在を持つことで、学び、見倣うことがより実際的になされ、修行者の大いなる助けになると思ったのです。

SIPに参加した数日後、フォカッチャの会のヨーガ・トークスの時間には、皆さんと理想について話をしました。

参加したグルバイたちは、それぞれ理想の聖者をもっておられ、そこに近づく努力をされていました。
以下、要約したものをご紹介します!

神に対してひたむきで真っすぐなスワーミー・アドブターナンダが大好きで理想としていますが、私は以前、人間関係に悩み、部屋で声を押し殺してよく泣いていました。そんな時、アドブターナンダのエピソードを読みました。「人気のないところに行き、泣いて神に祈らなければならない。その時に初めて、彼はご自身をお示しくださるだろう」というシュリー・ラーマクリシュナの教えを実践していたこと、「彼はこの世の何事にも頓着せず、人生の唯一つの関心ごとは師にどのように忠実にお仕えするかということだった」、これらに衝撃を受けました。「私は自分のことばかり考えて自分のために泣いている。こんなばかばかしいことは、もうしたくない!神を求めて泣きたい!神に対して誠実に真摯に生きたアドブターナンダのようになりたい!」苦しい時だったからこそ、真逆の生き方をしていたことに気付き、より深く心に響き、理想に生きたいと心底思うことができました。

・昔から闘う女性に憧れている自分がいて、その性質を棄てるのではなく、ある時から生かそうと思い、闘う女性の究極に女神カーリーを見出しました。また理想の聖者は、煉瓦に頭をぶつけるぐらい狂っているナーグ・マハーシャヤ、それしかないと思っています。

・以前、理想(の聖者)を決めかねていた時、先輩弟子から「気楽に決めていいよ」とアドヴァイスをもらいました。理想って気楽に決めてええの?と戸惑いつつ再考……スワーミー・プレーマーナンダの伝記の一節「彼は骨の髄まで清らかだった」に触れた時、「私には無理だ」とすぐに自分でもびっくりするほどの拒否反応が出た事を思い出しました。そして、なぜそれほどまでに拒否したのだろうとその原因を探っていく中で、逆に清らかさに憧れをもっている自分に気付き、プレーマーナンダを理想としました。彼に近づきたいけれど近づけない。壁を感じていたのですが、つい最近、どうにかしたいと七転八倒していると、「プレーマーナンダ」という「名前と姿」を超えた言葉では表せない『何か』が理想であり、更にその先に師のヨギさんがおられるのを感じました。
プレーマーナンダの言葉、「まずはじめに全身全霊でひるむことなく誠実であるように試みることだ。過去、現在、未来におけるいかなる時も、真理は必ず勝利する」が大好きです。

・最近、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を読んで、とても感銘を受けました。この人生を彼のように神への礼拝に生きたいです!

理想について話すのは、本当にいいですね。
とってもポジティブになれます!!

最後に、私の理想の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの最高に力強い言葉を紹介させていただきます。

皆さん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。歌のように、それを昼夜、心の中に響かせなさい。そして死の時には、「私は彼である」と宣言しなさい。それが真理です。世界の無限の力は皆さんのものです。皆さんの心を覆っている迷信を追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかし目覚め、立ち上がり、ゴールに達するまで止まるな!

今こそ、内面へのヨーガを深める時ーー理想を見つけ、学び、近づき、一つになる時だと感じます!!

誰かが間違ったボタンを押したら、こんな画面になりました。

ゴーパーラ