聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

ヨーガとインド神話 ~バクティ・ヨーガとクリシュナ神話

前回のブログでは、クリシュナ神について簡単にご紹介しました。

そのクリシュナ神の神話が記されているのが、聖典『バーガヴァタ・プラーナ』です。
この聖典はヒンドゥー教ヴィシュヌ派の根本聖典とされ、その第十巻にはヴィシュヌ神の第八の化身とされるクリシュナ神の物語が描かれています。このクリシュナ神話は私にとっても、とても大切で大好きな聖典の一つです。

クリシュナ神話を簡単にまとめると、次のような物語です。
暴君カンサを討つため、ヴィシュヌ神は人の子クリシュナとして地上に顕現します。クリシュナは牛飼いの村ヴリンダーヴァンで、育ての両親や村人、牧童や牧女たちに深く愛されながら、すくすくと成長していきます。子どもらしい悪戯や遊びに満ちた日常を送る一方で、カンサ王が差し向ける数々の悪魔を退け、村人たちをさまざまな危険から救います。そこには、穏やかで牧歌的な人々の日々の営みと、宇宙の絶対神としてのクリシュナの姿が不思議な調和をもって描かれています。
やがて成長したクリシュナはカンサ王を討ち、実の両親のもとへ戻り、王としての役割を果たしていきます。

クリシュナが奏でる笛(ムラリ)の音は全宇宙を魅了する神聖な響きであり、真理そのものであるがゆえにゴーピーも動物たちも抗えない力で引き寄せられるのだと教わりました。

ヨーガの道の一つに、バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)があります。
バクティ・ヨーガでは、神を全知全能の畏怖の対象として、あるいは概念的に捉えるのではなく、もっと身近で、親しみをもって愛し、慕い、心を向けることのできる存在として捉えます。
クリシュナ神話に描かれるクリシュナは、宇宙を支配する絶対神ヴィシュヌの化身でありながら、同時に人として生き、人と関わり、愛され、愛する存在です。母ヤショーダに叱られ、友人たちと戯れ、ゴーピー(牧女)たちに慕われるその姿は、神と人とが愛によって結ばれる親密な信愛(バクティ)の在り方を具体的に示しています。

そのことが象徴的に語られているかのようなエピソードを、一つご紹介したいと思います。

ある日、幼いクリシュナが土を食べたと聞いた母ヤショーダが、その口を開けさせるとそこには無限の宇宙が広がっていました。ヤショーダは我が子が神であることを悟り、恐れおののきます。しかし次の瞬間、クリシュナの神秘力によってその啓示は覆い隠され、ヤショーダは再びクリシュナを「愛しい我が子」として見るようになります。

幼いクリシュナは、友だちとともに家々に忍び込み、大好物のバターを盗み食いするいたずらをします。母や村人たちは困りながらも、クリシュナを愛さずにはいられません。手間をかけて作られるバターは純粋さのエッセンスであり、神はそれを好み、私たちの行為の結果はすべて神への供物として捧げられるものという教えが含まれているそうです。

私たちは、あまりにも遠く畏怖の念だけを抱かせる存在に対して、心から親しみを持ち近づきたいと感じることは難しいものです。
クリシュナ神話は時代や文化、宗教を超え、今なお魅力的な物語だと思います。それは「真の愛」が普遍であるからにほかなりません。物語を読むことで、私たちはその世界を疑似体験することができます。それが神の物語であるなら一体どんな体験が待っていることでしょう!!
私のバクティを大きく育ててくれたクリシュナ神話。機会があれば、ぜひ一度読んでクリシュナ神話を一緒に体験してみてくださいね。

MYMの機関誌『パラマハンサ』で2015年5月〜2025年3月まで連載されていた「バーガヴァタ・プラーナ細密画シリーズ」に掲載された細密画の一つ。クリシュナが暮らす村の様子が描かれています。敬愛する大先輩が執筆されていたこのシリーズを通して、クリシュナ神話が大好きになりました!

※Web版『パラマハンサ』のサンプル版でこの細密画が詳しく紹介されている「バーガヴァタ・プラーナ細密画シリーズ(1)」がお読みいただけます!

シャルミニー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑱

今回は、『パラマハンサ』No.90の表紙絵をご紹介します。
これは2012年4月から12回シリーズで開講した講座「誰もが実践できるヨーガ」のチラシのイメージに描いたイラストを、ヨギさんが表紙としてデザインしてくださいました。

ヨギさんは「ヨーガは誰でも(どんな人でも)できる」し、「ヨーギーには誰でもなれる」とよくおっしゃっていました。ヨーガとは、本当の私を知ることだと言われますが、それは、今私たちが人生において苦楽を経験しながら右往左往しているのが当たり前だと思っているこの状態は、実は夢の中に生きているようなもので、本当は、もっと自由であり、至福に満ちた状態であるというのです。それを知るための道がヨーガであり、そしてそれは誰でもできること。その道を実践できるようにと願って、この講座のタイトルを決めました。

そしてこのイラストのモティーフとした内容は、この講座のコンセプトにぴったりだと思って選びました。表紙にはウパニシャッドの言葉がデザインされていますが、ヴィヴェーカーナンダが語られた『ギャーナ・ヨーガ』の最後に物語として分かりやすく掲載されていますので、ぜひ読んでみてください。

シャチー


ヨーガとインド神話~ビシュヌ神のアヴァターラ「クリシュナ神」

クリシュナ神は前回ご紹介したシヴァ神と並び、ヒンドゥー教の三大神の一柱であり、現代でもとても人気がある神様です。そしてまた、シヴァと同様にヨーガととても深い関わりがある存在なのです。
例えば、ヨーガの聖典として有名な『バガヴァッド・ギーター(神の詩)』の中で、アルジュナにヨーガの教えを説くのがクリシュナ神です。

クリシュナ(左)とアルジュナ(右)が戦場で対話する場面。クリシュナが戦車の上で教えを説く場面が描かれています。1830年ごろの作品。

さて、ヒンドゥー教の三大神とは、宇宙を創造するブラフマー神、維持を司るヴィシュヌ神、破壊(再生)するシヴァ神を指します。この三柱を総称してトリムルティ(三神一体)と呼ばれています。
「おや、クリシュナ神はどこに!?」ですよね。
クリシュナ神話を理解しやすくするために、ヒンドゥー教の重要な概念をひとつ押さえておくと分かりやすいと思います。

ヒンドゥー教の神がこの世界に姿を変えて現れることを「アヴァターラ(化身)」と呼びます。(インターネットなどで使われる「アバター」の語源にもなっています)
特にビシュヌ神においては10~20のアヴァターラがあるともいわれ、クリシュナ神はその第八の化身であるとされています。
ちなみに、古代インド叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマは第七の化身です。
ビシュヌの系統の神は額にUの字が描かれていることが多く、これが特徴的な印となっています。

クリシュナ神も、長い歴史のなかでバラモン教が各地域の土着神を取り込みつつヒンドゥー教へと発展していく過程で、姿を変えていきました。
現在に伝わるクリシュナ像は、モデルとなった英雄的人物(ヤーダヴァ族の英雄)や地域の土着神(ヴァスデーヴァ、パンドゥランガ・ヴィッタル、ジャガンナート)など、複数の要素が融合したものともいわれているそうです。

『シュリーマッド・バーガヴァタ厶』(日本ヴェーダーンタ協会発行)の表紙絵のクリシュナ神。 頭にはクジャクの羽根飾り、黄色の腰巻を着て、片足を曲げ横笛を持っている姿で描かれることが多い。

古代から人々は神への信仰を持っていますが、時代によって人々が神に求めるものが変化し、信仰の対象である神の役割や物語も変化していっています。
一見すると、人々の思惑や時代の波に神さえも翻弄されているように見えますが、この宇宙の一切万物の創造主が、私たちの理解に合わせて真理の表現を変えている──という見方もできるのでないでしょうか。いつの時代も、宇宙の主は大いなる愛と慈悲によって、姿かたちを変えながら私たちに真理を示し続けているように思えます。

クリシュナ神が描かれている主な文献としては、
・叙事詩『マハーバーラタ』(聖典『バガヴァッド・ギーター』)
・聖典(神話・伝説)『バーガヴァタ・プラーナ』(聖典『シュリー・マッド・バーガヴァタム』)
・抒情詩『ギータ・ゴーヴィンダ』
があります。

次回は、聖典『バーガヴァタ・プラーナ』からクリシュナ神とバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)について取り上げてみたいと思います!

シャルミニー


『マハーヨーギーの真理のことば』~心が唯一頼るべきもの  

11月23日は、私たちが敬愛してやまない師サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの御聖誕日です。私たち弟子にとって、師へ心からの感謝を捧げるとともにヨーガの成就に向かい心新たに誓願を立てる日でもあります。

15年ほど前、私は長年実践してきたヨーガに疑問を抱き、進むべき道を見失ってしまったことがありました。そして、心の奥底から真のグル(師)を求めました。
その数ヶ月後、まさに「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」という聖句の通り、ヨーガのご縁によってその願いは現実のものとなりました。
皆が親しみを込めて「ヨギさん」と呼ぶその方は私が求めていた“真のヨーガの師”であり、私はシュリー・マハーヨーギーのもとでヨーガの道を歩むことを決心しました。

非常に残念なことですが、最愛の師は2023年5月に肉体を離れられ、直接お姿を拝することは叶わなくなってしまいました。深い悲しみに沈みながらも、「今こそ師から学んだ教えを実践する時だ」と自分を奮い立たせていたある日、『マハーヨーギーの真理のことば』の中にまるで師からの励ましのような教えが目に飛び込んできました。

「心が唯一頼るべきもの」

グルの真実は姿形ではなく、その本質にあります。それは形と言葉を超えている、存在そのもののことです。真実です。それはあなたの中の、あなたの真実と同じものです。
唯一、心が頼るべきは、グルとその真実の言葉です。

――『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章「聖なる存在」/第三節「グル」より

私はハッとしました。
師の教えはこの御本の中にあり、師の言葉は師の本質であり存在そのもの。師の存在は失われたのではなく、言葉を超えた「真実」として今も常に私の中にある――と。

私が師に巡り会えたように、これからも一人でも多くの人がこの『マハーヨーギーの真理のことば』の中に師の存在を見出し、シュリー・マハーヨーギーのもとに導かれることを心から願っています。
私もまた心を新たに、師が教えて下さった「私の中の真実」を実現するために精進を重ねていきたいと思います!

シャルミニー


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ⑤

宗教会議で一躍有名になったヴィヴェーカーナンダは、アメリカの東部や中西部の大都市を駆け巡り、週に12回から14回の講演を行ないました。何百何千という人々が押し寄せましたが、そこには教養豊かな人たちや真理探究者に混じって、人を欺く人や興味本位の人やならず者もいて、どこででも厚遇されたわけではありませんでした。

ヴィヴェーカーナンダの目的は、永遠の真理を説いて誠実な人々の霊的生活が深まるように手助けすることでしたが、無知、迷信、宗教一般、特にヒンドゥー教についての誤解を取り除くという仕事は大変に困難なものでした。

あらゆる類の障害や反対や脅しに対してのヴィヴェーカーナンダの答えはただ一言でした。

「私は真理のために闘います。真理が偽りと手を結ぶことは絶対にありません。たとえ全世界を敵に回そうとも、真理は最後には勝利するに違いありません」  

(『ヴィヴェーカーナンダの生涯』より)

次第に裕福な特権階級の人々を離れて、霊性の生活に熱心な学生の訓練に専念し、静かに個人の人格形成をすることに熱意を抱くようになりました。ニューヨーク滞在中にブルックリンで定期クラスが開かれることになったのをきっかけにして、貧しくも熱心な数人の学生がニューヨーク市内の貧困地域に部屋をいくつか借りました。ヴィヴェーカーナンダはその一部屋に暮らし、貸家の二階にある普通の部屋で講義と授業を行ないました。講義中のヴィヴェーカーナンダは床に座りましたが、数多い受講者はタンスやソファの肘掛けや部屋の隅にある洗面台までも利用して座りました。扉は開け放たれたままで、あふれた人々は廊下や階段をも埋め尽くしました。真理に関する理解を深めるために、数人の選ばれた弟子にギャーナ・ヨーガを教え始め、自己制御、集中、瞑想の科学を教えるためにラージャ・ヨーガも指導し始めました。

ヴィヴェーカーナンダは西洋で働いていた間も、インドのことを忘れることはありませんでした。講演で稼いだ金銭を、宗教、教育その他慈善活動のために送り、彼の熱烈な手紙がインドの兄弟弟子たちを奮い立たせました。「自分の足で立つのだ!」と繰り返して、自立するように励ましました。

ヴィヴェーカーナンダは、どれだけ想像しても及ばないほど、全てを注ぎ込んで働かれたのだろうと思います。それはひとえに人々を真実へと導くためでした。

ヴィヴェーカーナンダが西洋に真理を伝えてくださったことで、現代の日本でもその教えを知ることができます。ヴィヴェーカーナンダが残した言葉は私にも届き、励まし、奮い立たせます。真理が真理であるからその真理のために闘うという、ただそれだけが在るということを突きつけられ、心に光が差して、それだけを求めて歩もうと背中を押されるのです。

サルヴァーニー


ヨーガとインド神話~シヴァ神

インドの神様といえば、「シヴァ神」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?

8月にこのブログで、聖典『デーヴィー・マハートミャ(女神の素晴らしさ)』に登場する女神ドゥルガー(カーリー)をご紹介しましたが、その夫がシヴァ神です。
シヴァは破壊と再生を司る神であり、ヒンドゥー教の三大神の一柱として、ヒンドゥー教の国々で現在でもとても人気があるそうです。

瞑想をするシヴァ神

シヴァ神はとても古い神で、そのルーツは暴風雨の神「ルドラ神」まで遡り、数千年の歴史の中でさまざまな地域の土着神や信仰が融合して、今日の「シヴァ神」として伝わっているようです。

実はヨーガの実践者にとっても、シヴァ神は非常に重要な存在です。
なぜなら、シヴァはヨーガを最初に人間に伝えた“ヨーガの祖”であることが、いくつかの聖典に記されているからです。
確かに、シヴァ神の絵には修行者の姿で坐し、半眼で瞑想している様子がよく描かれています。

パシュパティの印章(PashupaiSeal)。ヨーガ行者の姿をした人物を刻んだインダス文明の印章。シヴァにパシュパティという別名があることから、シヴァの原型と関連付けられることも…。

そのような古い歴史をもつシヴァ神には、体系化されていない数多くの神話が各地域に伝えられていて、その中にはシヴァから人間にヨーガが伝わった経緯に関する伝承もあるようです。
例えば、ある日、川のほとりでシヴァが妻パールヴァティーに深遠なヨーガの奥義を語っていたところ、一匹の魚が熱心にその教えを聴き取り、奥義を理解して人間の姿に変わり、最初の弟子マッチェーンドラナートとなってヨーガを広めたというお話や、シヴァがヨーガの奥義をまとめた聖典を作ったが、普通の人間には危険だと考えてそれを川に投げ捨てたところ、一匹の魚がその聖典を呑み込み、漁師がその魚を捕らえて魚の中から聖典を発見し、その聖典を学んでマッチェーンドラナートになったというお話など。これ以外にも諸説あるようです。面白いですね。
ヨーガのアーサナ(ポーズ)の中に「マッチェーンドラ・アーサナ(ねじるポーズ)」や「マッチャ・アーサナ(魚のポーズ)」があるのも、興味深いことだと思います。

左/マッチェーンドラ・アーサナ(東京・国分寺クラス) 右/マッチャ・アーサナ(東京・中野クラス)

私自身のシヴァの体験は、以前バクティ・サンガムでシヴァ神のキールタンを繰り返し歌った後、無性にシヴァに瞑想したくなり、そのまま瞑想に入りました。
そのとき感じたのは、山のように雄大などっしりとした不動の存在感。いつも瞑想していたクリシュナ神とはまったく異なる感触で、とても驚いたのを覚えています。

このブログ「ヨーガを生きる」でも、シヴァ神について何度も取り上げられています。ヨーガとシヴァ神の関わりが詳しく書かれていて、とても面白いので、ご興味のある方はぜひご覧ください。

シャルミニー


台湾グルバイの滞在報告🇹🇼

9月23日〜10月1日の8日間、3人の台湾グルバイ(仲間)が来日していました🪷

今回は私の自宅であるシャーンティ庵に滞在し、毎日朝は瞑想し、その後はヨーガクラスの参加や日本の弟子と交流するなどして、まさにヨーガ三昧の日々でした。 彼らが日本に来たのは、先輩弟子からマハーヨーギー・ミッションの活動やワークスを学ぶという目的があり、そこには大いなる真剣さがありました。

毎朝6:15〜7:15に瞑想。忙しい滞在だったにもかかわらず、不思議と眠くならなかったそうです😲

プレーマ・アーシュラマでアートワークを学びました🖼

月曜日のアーサナクラス。3人並んでのブリッジ。

土曜日のアーサナクラス。3人並んでの逆立ち。

土曜日の朝の瞑想クラス。松山のグルバイやちょうど台湾留学生シヨさんも参加されました。

早いもので、台湾のグルバイと交流が始まって11年が経ちましたが、いつも接していて思うのがハートの「純粋さ」です。
台湾の方たちは本当に素直で明るく、心温まる純朴さがあります。
私は今回、師シュリー・マハーヨーギーがおっしゃった「品(ひん)」についての言葉を思い出しました。

「品とは純粋さ。それはお金で買えないもの」

今回来られたエミリーさんマークさん夫妻、プリヤーさんはまさに「品」がありました。
エミリーさんは何気ない気遣いをよくしてくださり、慣れない台所で美味しい手料理を振る舞ってくださいました。いつも凛としていて、芯のある品やかな女性だと感じました。
夫のマークさんは、今回の滞在で「生きる目的」が明確になりました。瞑想クラスに参加して、「どう生きていきたいのか?」という問いに瞑想した時、「ヴィヴェーカーナンダのように大きなことはできないけれど、自分を世界に捧げたい」という思いが胸の奥から湧き、その時に彼は涙を流しながらその思いを語り、その場の参加者たちは彼の純粋さに胸を打たれました。
そして11年前の留学生時代から親交のあるプリヤーさんは、通訳中によく涙を流し、人の歓びを自分の歓びとして感じる素晴らしいハートの持ち主です。日本のお笑いやアニメ好きということもあり、普段の会話もとっても面白いです。

左からマークさん、エミリーさん、プリヤーさん、シャーンティマイーさん。マハーヨーギー・アーシュラマでは連日美味しい食事をいただいたそうです🍱

台湾のグルバイとは年々、友好関係が深まっていて、本当の兄弟姉妹のように感じています。
ヨーガの語源はユジュという「繋ぐ」ですが、ヨーガを通して、そしてヨーガを教えてくださるグルを通して、私たちは繋がっています。
主クリシュナはこのようにおっしゃっています。

「私は、すべての真珠を貫く糸である」

神を通して、たくさんの真珠と出会い、繋がっていくことは歓びです。
私ももっとヨーガを深め、純粋になっていきたいと感じた台湾グルバイとの交流でした😇🙏

バクティ・サンガム後に記念撮影。皆さん、良い表情です✨

※台湾のグルバイたちが日本に来始めた時の懐かしいブログを見つけました💡
マールラーさん(当時はエセーさん)が日本に来て感じられた内容が書かれています。
翻訳はプリヤーさん(当時はルーさん)です。
よろしければ、読んでみてください💁『MYMとの出会い』

ゴーパーラ


それだけがある

静岡で、長年ヨーガを実践されている森ひとみさん。
京都のクラスやサットサンガだけでなく、東京での特別クラスにも時々参加してくれています。

ひとみさんの自宅の近くにある海

クリシュナ神が大好きで、クリシュナ神のキールタンを嬉しそうに楽しそうに満面の笑みで歌われているのを見ると、こちらまで幸せな気分になります。

 

ひとみさんがヨーガに興味を持ったのは、2001年。当時勤めていた会社で心身の不調に陥り、退職した頃でした。気持ちを安定させる方法を模索していた中で、瞑想の存在を知りました。
これなら自分の心をコントロールできるかもしれないと、近所で開催されていたヨーガ教室に参加。そこにいた先生とクラス参加者の方々が自由に生きているように見えて、ヨーガを学べば自分も自由になれるかも、と通い始めました。

そのヨーガ教室の先生はいつも「自分の心の赴くままに生きていれば、何も問題はない」と言っていましたが、ある時、本当にそれが自由に生きるということなのか疑問を持ちました。その答えを知りたくて、『あるヨギの自叙伝』や『秘められたインド』を読み、真実を実現した存在、グルのことを初めて知りました。
「私もグルに会いたい!」
どうすればグルに会えるのか?インドに行けばいいのか?
調べるうちにMYMのHPに辿り着き、この日本でグルに会うことができると知ってとても嬉しくなったそうです。

そして2007年9月、ひとみさんは初めて師にお会いしました。
サットサンガでは真剣な質疑応答が繰り広げられ、時に笑いが起こり、会場は終始熱気に包まれていました。皆、師を一心に見つめていて、まるで師という花に蜜蜂がむらがっているように見えました。それはこれまで感じたことのない甘美な光景でした。
そのサットサンガの中で、いつも不安感があることについて師に質問しました。

師は「ヨーガを行うと無恐怖(むくふ)になります」と答えられました。初めて聞く言葉でしたが、ひとみさんはこの上なく安心しました。
「ヨギさん(師)のことをグルだと思っていいですか?」
「はい、いいですよ」
そう答えられた師の目元に涙がにじんでいて、そのお姿を見て、ずっと探していたグルにやっと会えたという気持ちになり、胸がいっぱいになりました。

その後はサットサンガに参加する度に背負っていた荷物を下ろしていくことができましたが、未来に対する漠然とした不安と死に対する恐怖は、なかなか消えませんでした。

「それだけがある」
ひとみさんが一番大切にしている教えです。
「それ」とは、神のこと。 

「すべては神である」ということをはっきりと感じているのに、不安や恐怖がこびりついているような感覚があり、その不安や恐怖がどこから来たのか、瞑想で辿っていったことがありました。 
瞑想の中で、その大元には「純粋な意識」と「私という意識」が存在していると感じました。

それからしばらくして、この私という存在がどこから来て、どうやって成り立っているのか、それを辿っていくように瞑想した時に、大好きなクリシュナが自分の命そのものであることと、生も死もクリシュナと共にあるのだということを実感。とてつもなく安心し、それからは死への恐怖が少しずつ薄らいでいきました。

 

ひとみさんは師が描かれた絵の一つ、『アーディーナート』を観ていると、「それだけがある」という教えそのものだと感じるそうです。

『アーディーナート』とクリシュナ神

絵の中の黒い神は師であり、クリシュナでもある。白いのは私という意識。

神の光は圧倒的。自分が囚われていることは取るに足らないこと。

神はあまりにも眩しいから、それに照らされたら光で真っ白になる。

「それだけがある」、絵に描かれている状態になりたい!

そう語るひとみさんからは熱い想いが溢れていて、私の中にも流れ込んでくるようでした。

ひとみさんの純粋な想いをもってすれば、必ずその境地に至れるはず。お話を伺ってそう思いました。

 

ハルシャニー  

 


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ④

1893年5月31日、インドのボンベイから出港したヴィヴェーカーナンダは、コロンボ・シンガポール・広東・大阪・京都・東京などに途中寄港した後、横浜から太平洋を渡ってバンクーバーに到着し、そこから宗教会議の開催地であるシカゴへ汽車で向かいました。
7月終わりにシカゴに到着し、宗教会議について問い合わせをすると、開催が9月まで延期されたことや、然るべき団体からの信任状がなければ代表として認められず、また代表として登録するには遅すぎることを知らされます。なんと宗教会議を勧め、アメリカ行きを手配してくれたインドの誰一人として、宗教会議の詳細については問い合わせしておらず、会議の日時や参加条件について知らなかったのです。
思いもよらない状況に直面し、異国の地で頼れる人もいませんでしたが、ヴィヴェーカーナンダが信仰を失うことはありませんでした。なぜならインド放浪時代に優しい神の摂理が加護して下さらなかったことはなかったからです。
ヴィヴェーカーナンダはこの頃、友人に書いた手紙の中でこう述べていますーー「私は聖母マリアの息子の子供達の中にいる。主イエスがお助けくださるだろう」。

9月までシカゴに滞在する所持金のなかったヴィヴェーカーナンダは、生活費の安いボストンに移ります。汽車で移動する途中、裕福な婦人と出会い、客人として招かれました。婦人は極東からの珍客を友達に見せびらかしますが、その内の一人が宗教会議の代表選考委員会の議長の友人であり、ヴィヴェーカーナンダの類い稀なる博識を認め、議長にヴィヴェーカーナンダを紹介する手紙を書きます。その後シカゴに戻りますが、不幸にも代表者委員会の住所を忘れてしまいます。人々に道を尋ねながら、空腹と疲労で歩道に座り込んだ時、窓からその様子に気付いた婦人が食事と休息を与えます。なんと彼女は宗教会議の議長と友人であり、ヴィヴェーカーナンダを紹介して、ようやく参加が決まるのです。
度重なる困難が訪れましたが、手を差し伸べる人々と出会い、主の導きの確信を深めたヴィヴェーカーナンダは、その思し召しに値する道具にならんことを絶え間なく祈りました。

9月11日、宗教会議が開催されました。会場は7000人で埋め尽くされ、特定の宗派ではなくヴェーダの普遍宗教を代表したヴィヴェーカーナンダは、その華やかな衣、黄色のターバン、そして美しい容姿によって、壇上でも際立って人目を引きつけました。
31番目にスピーチをする順番でしたが、ヴィヴェーカーナンダは原稿を用意しておらず、大舞台での講演も初めてで緊張のあまり何度も順番を遅らせました。ついに順番が回ってきて演壇に上り、形式的な言葉をかなぐり捨てて、同胞としての素直な暖かさをもって語りかけました。

「様々な場所に源を持つ異なった川も、すべて海で溶け合って一つになる。主よ、同様に様々な性質によって人々が歩む異なった道も、曲がったり、まっすぐだったり、様々に見えながら、すべてあなたへと導かれる道なのです」

聴衆は深く心を動かされ、たちまち数千の人々が立ち上がって拍手が沸き起こりました。全ての聴衆がこの宗教の調和のメッセージを辛抱強く待っていたかのようでした。
インドの名もなき若き僧侶は、一晩にして著名人になりました。シカゴの街には等身大の肖像画が貼られ、新聞にスピーチが掲載されました。またインドの雑誌や新聞にもその活躍が紹介され、祖国の人々の心を誇りで満たしました。

誰一人知り合いがいない異国の地で、目的である宗教会議の参加の見通しが立たず、所持金も足りない八方塞がりの中で、ヴィヴェーカーナンダが頼れるものは本当に神だけだったと思います。その信仰を胸に行動し続ける中で導きがあり、宗教会議への参加が叶うことになりました。この信仰と行動力は、目的に向かって歩むときの理想的な姿を示してくださっていると思いました。ヴィヴェーカーナンダほどの大きな仕事や困難な状況ではなくても、あらゆる状況の中で模範にできるものだと思います。

引用・参考文献:『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』

サルヴァーニー


夏休みブログ🍉🎐〜円空や鬼、ブッダのことばについて〜

残暑お見舞い申し上げます。
まだまだ暑い日が続きますね☀️
今回は夏休みシーズンということで、ちょっとラフでフリーな感じでブログを書いてみました🏖️🏄
少し長くなったのですが、お付き合いいただけたらと思います🙏

1年半ほど前になりますが、あべのハルカスで開催されていた円空展に行ってきました。
円空は生涯で民衆のために12万体の仏像を彫ったと伝えられている修行僧です。

飛騨千光寺に伝わる金剛力士像。まるで木からそのまま仏が現れたかのような姿です。寺の境内の立ち枯れた木から直にこの像を彫ったとか。

円空の特徴は大胆な荒彫りーー私は初めてその彫りをネットで目にした時、衝撃を受け、私の心にも深い印象を刻み込みました。
そこからというもの、円空に魅了された私は、その仏像が安置されている滋賀や岐阜のお寺に足を運びました。
その時のブログはこちら💁「ブラゴパーラvol.8」

この円空展では、たくさんの作品(円空仏)が展示されていました。
素朴な微笑みを浮かべる数々の円空仏を見ていると、円空が民衆のために12万体の仏像を彫ったという事実が心の中に浸透していきました。
円空のその偉大な行跡はもちろん知ってはいたのですが、実際に円空仏を見ていると、自然と頭が下がる思いになったのです。
ブログを1000書いたとしても円空には遠く及ばないし、アーサナを毎日12ポーズ×12年間やり続けても50000ポーズほどです。
数がいちばん大事ということではないですが、円空仏と対面することで、彼の行動がどれだけ驚異的なことであったのか、また神狂いであったのかと心の奥から感じ、謙虚な気持ちになりました。

そして円空展の目玉は「両面宿儺(りょうめんすくな)」でした。
『呪術廻戦』という人気漫画に登場し、有名になった鬼神です。


歴史上で両面宿儺は朝廷に叛逆した飛騨の豪族だと言われ、異形の鬼の姿で伝えられていますが、地元では武勇に優れた英雄的な人物だったそうです。
その両面宿儺の像を円空が飛騨高山の千光寺に滞在中に製作したようです。

ちょっと話は逸れますが最近、仕事で映画『鬼滅の刃』を観る機会があったのですが、鬼にもいろんな鬼がいて、それがきっかけで「鬼って何なのかな?」って考えることがありました。
それは王権側から見たら叛逆者であり、また人間の心が生み出す嫉妬や怒り、欲望、死への恐怖etcが鬼となって現れているのかな思ったのと、不平不満や嘘、暴言を口にすれば、鬼のように顔が赤くなりツノが生え、その場は修羅・地獄と化します👹
かのブッダは、「人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割く」と言って言葉の慎重さを説いていますし、また「時を空しく過した人は地獄に落ちて悲しむ」とおっしゃっています。
以下が、ブッダが私たちを苦しみから脱するように鼓舞した言葉になります。

起(た)てよ、座れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。
起(た)てよ、座れ。平安を得るために、ひたすらに修行せよ。汝らが怠惰でありその〔死王の〕力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。
神々も人間も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。この執着を超えよ。わずかの時をも空しく過すことなかれ。時を空しく過した人は地獄に落ちて悲しむからである。
怠りは塵垢である。怠りに従って塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。

『ブッダのことば』 第二 小なる章 10、精励

とても力強い言葉です。怠惰になって地獄に落ちないように、瞑想の修行を怠らずに努め励むこと、それが心を平安にするためにすごく大事なことだと分かります。

あと、もし心が波立ったり荒れているな、怠惰になっているなと思ったら、円空仏などの仏像や聖なるシンボルを目にすることも大事なことだと感じています👀
目を通して、心は落ち着き、清涼になると思います👹⇨😊🏝️

ゴーパーラ