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ラーマクリシュナの福音 〜聖き御名〜

武器を取れ!武器を取れ!おお人よ!死が戦列をなして、お前の家を襲うぞ!
知識の矢筒を負い、信仰の戦車に乗り、愛の弦を張ったお前の舌なる弓に、
母カーリーの聖き御名なる矢をつがえて、彼に向かって放て。
この戦いに一つの策略がある、それには戦車も御者もいらない。
ガンガーの堤に立って敵を迎えよ。彼はたちまち殺される。

神の御名という種子には偉大な力があるのだよ。それは無知を破壊する。種子はか弱いものだ。芽も柔らかなものだ。それでもそれは固い土を突き破る。土が割れて芽を出させてやるのだ。

カーリー マー

私はラーマ神(インドの神様)が大好きで、日常的にラーマの御名を唱えています。ですので、神の御名が武器となるということがとてもよく分かるのです。
この世界には、いろんな争いが蔓延していて、世界でも紛争は絶えないですし、社会でも理不尽なことがたくさん起こります。その原因は人の心にエゴや無知があるからだとヨーガでは教えられています。自分さえよければいいというエゴ意識!自分の中にも周りにもいっぱいあります。このエゴ意識と戦うときに、ラーマ神の御名が武器になるのです!!
身近な社会の中で人間関係がぎくしゃくした時に、ラーマ神の御名を唱えたり、聖者のお姿に思いを馳せたりすると、すぐに平安を取り戻すことができます。

それはなぜかと考えてみますと、「人の本性はこの身体でも心もなく、その奥にある純粋な意識、(存在、アートマン、魂、神ともいう)である」という真実の教えをヨーガの師から授かり、私はこの教えに絶大なる信頼を寄せていますので、神の御名を唱えることによって、自然に心が純粋な神なる意識の方にシフトして、エゴ意識や無知が簡単に消えていってしまうのだと思いました。不思議に思うこの現象も、ごく当然なことなのでしょう。

この無敵の武器を手にして、長きに渡る戦いに勝利したいと思います!

ダルミニー


イベント報告 & 2018年振り返り

一昨日の12月29日、左京区のZAC BARANにて、アーサナ・瞑想のデモンストレーションを行ないました。
今回の演目のテーマは、ヨーギーの起源であるシヴァ神でした❗️


シヴァ神のルーツは、インド土着のルドラという暴風雨の神だと言われております。
演目は『The Eternal Quest—永遠の探求—』の前半部をベースに、イントロでシヴァ神を想起させる雷雲の音を鳴らし、宇宙万物を司る主であり、またヨーギーの第一人者であるシヴァ神に、アーサナと瞑想のデモンストレーションを通して近づこうと試みました。
ただ私、うっかりして写真撮影を依頼しておらず、その時の様子は写真でお伝えできませんが😓、友人からは「宇宙を感じた!アーサナ、音響、着ていたTシャツ(カーリー・ヤントラ)、すべてがマッチしていた」という嬉しい感想をいただきました。
年末の寒波の中、グルバイやクラス参加者の方々もお越しくださって、とっても嬉しかったです!
本当にありがとうございました😊🙏

それで皆さん、2018年はどんな年だったでしょうか?
私はこの1年を改めて振り返ってみると、主ブッダがその中心にあったと思いました。
今年は、ブッダがテーマであった4月の祝祭をはじめ、師は折に触れてブッダについてたくさんのことを教えてくださいました。
その中でも特に印象に残っていることは、5月の松山特別サットサンガ後の夜でした。
その時に師は、「ブッダはこの世でいちばん偉大な人物」と言われ、私は「なぜそう言えるのでしょうか?」と尋ねると、次のようにおっしゃられました。

「ブッダは聖典の権威に影響されていないから」

私は「それが偉大な理由?」とクエスチョンマークが浮かびましたが、少し考えた後、師がいちばん好きだというシュリー・ラーマクリシュナの次の言葉が思い出されました。

「私はヴェーダも六派哲学も超えている」

そしてその瞬間、師が教えてくださっている次のブッダの言葉とつながったのでした。

「たとえ古い聖典が出てきても、それを鵜呑みにする必要はない。自らで確かめ、実践せよ」

インドの地においてヴェーダをはじめとする聖典は生活やその精神性の支柱であり、最高の権威に位置するもので、「それを超えている」「鵜呑みにする必要はない」とは簡単に言えることではありません。
しかしながら聖典は、人間を悟りという偉大な完成に導く言葉であり、その言葉の意味する内実をどれだけ感じ、肉迫することができるのか、つまり「実践」と「体得」がもっとも大切なことだと私は改めて気付かされ、そして何より、師がブッダやシュリー・ラーマクリシュナが発した言葉の内実を知っていると感じ、驚愕させられたのでした。

聖典の言葉は深遠で、どんな言葉でも奥深い意味や、また修行者を悟りへと導く力が隠されていると感じます。
一昨日の演目で、アーサナを終えて瞑想に座り、『The Eternal Quest』で朗唱されたウパニシャッドの詩を流した際、期せずして次の言葉が私の胸に響いてきました。

「身体の動きを止め、呼吸を制御せよ。御者が馬を操るように、心を制御して、全身全霊で神を瞑想せよ!」

今年も残すところ1日ですが、来年と言わず今日も真剣にヨーガを実践し、もっと、もっと、もっと聖典や師の言葉の息吹を感じたいですね!!!

最後になりましたが今年も1年間、ブログ「ヨーガを生きる」を読んでくださった皆様、まことにありがとうございました‼️
来年はより精進をし、良い形でブログに反映できればと思います。
そして、いつも真理を教え、導いてくださっている師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。
皆様、来年もブログ「ヨーガを生きる」をどうぞよろしくお願い致します😇🙏

ゴーパーラ


神への態度 バクティ・サンがム キールタン

先日の日曜日は今年最後のバクティ・サンガムでした。10月から3ヶ月間歌い込んできたキールタン、「ゴーヴィンダ・ハレ・ゴパーラ」をみんなで歌いました。ゴーヴィンダもゴパーラもクリシュナ神の幼少期のお名前。このキールタンでは、その御名を、何度も何度も繰り返します。愛らしい幼子ゴパーラが、森の中で無邪気に遊び戯れている様子を見て、母親は愛おしい我が子の名前を叫ばずにはいられなくなる。そんな印象がこのキールタンにはあります。

バクティ・ヨーガの中では、バクタ(神を愛するもの)の神への態度が5つ教えられていますが、その5つの中には、ヴァーツァリアという、神を子供と見立て、母親のように愛するという態度があります。まさにこのキールタンは、ヴァーツァリアの態度がぴったりだと思いました。ちなみに、他の態度には、神を平安な気持ちで愛するシャーンタ、召使いの態度のダースィヤー、親友の態度のサキヤ、そして愛人の態度、マドゥーラがあります。

私は、このバクタの態度の話を聞くたび、自分は一体どの態度なのだろうか…という疑問が生まれます。以前そのことをヨギさんにお尋ねしたとき、「それぞれの人の素直な態度というか、ふさわしい態度というのが自ずと生まれてくる」と教えてもらったことがあります。

「ふさわしい態度が自ずと生まれる」

では、生まれるまでは何をしたらいいのでしょうか。そんなことを考えていたとき『ラーマクリシュナの福音』の中である物語を見つけました。

ある娘が幼いときに夫を失って寡婦となった。彼女は自分の夫に会ったことがなかった。他の少女たちの夫を見て、ある日父親に「私の夫はどこにいるのですか?」と尋ねた。父親は「ゴーヴィンダがお前の夫だ、もしお前が呼べば、彼は来るだろう」と答えた。これを聞いて少女は自室に入り、扉をしめてゴーヴィンダに向かって「おお!ゴーヴィンダ、私のところに来てください、なぜ来てくださらないのですか!」と叫んだ。神は少女の哀れな叫びに抵抗することができず、彼女の前に現れた。人は子供のような信仰と子供が母親を見たいと感じるときの強烈な憧れとを持たなければならない。その憧れは、暁の東の空の紅のようなものだ。空が紅くなれば、必ず太陽が昇る。その憧れの直後に人は神を見る

このお話を読み、「ふさわしい態度が自ずと生まれる」までは、この少女のように、ただ純粋に神を求め続けることだと思いました。神への態度が先にあるのではなく、まずは素直さと熱心さが何よりも大切なのだと思います。

12月でいったん歌い納めした「ゴーヴィンダ・ハレ・ゴパーラ」ですが、1月のバクティ・サンガムでは2018年の振り返りをするので、もう一度歌います!ぜひ、ゴーヴィンダ!!ゴパーラ!!!と叫びにきてください。


ラーマクリシュナがうたわれたキールタン 至福のお酒

さて、年末のシーズンになり、忘年会などお酒を飲む機会が増えてくる時期ですね。そこで今回は「ラーマクリシュナの福音」に出てくる詩のなかで、お酒にまつわるものをご紹介します。

私は並の酒は飲まない
永遠の至福の酒を飲む
母カーリーの御名を繰り返しながら。
それは私の心を深く酔わせるので
人々は私が酔っ払ったと思う。
まずグルがその酒をつくるための糖蜜をくださる。
わが渇仰の心は、それ酒を変容させる酵母。
知識という作り手が、私のために酒を醸す。
酒ができたとき、私の心はそれを
マントラというびんから飲む。
それを浄めるために母の御名をとなえながら。
この酒を飲め、とラームプラサードは言う、
そうすれば人生の四つの果実はお前のもの

私はお酒を飲むことが割と好きなので、これまでの人生でそれなりにお酒を飲んできたと思いますが、この詩に出会ったとき、私が飲みたかったのは、この「永遠の至福の酒」だ!!!とはっきりと分かりました。そして、私はもう並の酒は飲みたくない!と思ったのでした。

ではその永遠の至福の酒はどうしたら飲めるのか!?それをつくる方法が詩の中に書かれています。まず、グルがその酒をつくるための原料となる糖蜜をくださるのです。糖蜜とはサトウキビの絞りかすで、お酒の原料になるもの、日本酒ならお米のことです。まずはグルの恩寵が必要なのですね。そして、お酒作りに酵母が必要なように神への渇仰の心、信仰心は欠かせないものです。そして作り手として、真理の知識(真知)が醸造してくれるのです。

あーそのようなお酒を心が飲むとき、どれほどに甘美なのでしょうか!!この詩を読むたび、私は永遠にその至福のお酒に酔いしれたいと思うのです。最後に書かれてある四つの果実は、ダルマ(正義)アルタ(富)カーマ(欲望の達成)モクシャ(解脱)のことを指します、憧れは増すばかりです。

さて、収穫が秋のお米を原料に作る日本酒は、冬に仕込むことが多いようです。それは雑菌が少なく温度調整がしやすいためと言われています。ぜひ仕込みやすいこの寒い時期に、みなさんも永遠の至福の酒を仕込んではいかがでしょうか。


ラーマクリシュナの福音 〜目標は神、それがヨガ〜

十二月のある日、シュリー・ラーマクリシュナはお芝居を観るためにスター劇場に行かれた。聖者プララーダのお芝居を見終わられたあと、劇場経営者のギリシュの部屋で信者に向かって神のお話をなさっている。

「心のすべてを神に向けないで、彼を知ることなどできるものか。バーガヴァタはシュカデヴァのことを語っている。彼は歩く時、拳銃をかまえた兵士に見えたという。視線はさまようことがなかった。それはたった一つの目標を持っており、その目標は神だった。これがヨガというものだ。
チャータク鳥は雨水しか飲まない。ガンガーやジャムナーやゴダヴァリ河をはじめとしてすべての河には満々と水が流れており、七つの海には淵まで水がたたえられているのだが、チャータク鳥はそれらにはふれようともしない。雲から落ちてくる水しか飲まないのだ。このようなヨガを開発した人は、神を見ることができる。劇場で観客は、幕が開くまで家庭のことや勤め先のことや学校のことなど、あらゆる種類の会話にふけっているだろう。だが幕が上がるやいなや、すべての会話は止み、人々は一心に芝居を見守る。長いことたって、誰かが一言か二言しゃべるとしても、それは芝居のことだ。大酒飲みが酒を飲むと、酔う楽しみについてしか話さない」

「目標は神だ。これがヨガというものだ」
神だけ見続けておられるシュリー・ラーマクリシュナの言葉には、強力な力が宿っていますね。
私たちはさまざまな理由でヨーガと出会いました。私は子供の頃、テレビでマッチェーンドラ・アーサナ(捻りの形)を見て、身体によさそう、やってみたいと思ったのがきっかけです。時間に余裕ができて、やっとヨーガのクラスに通えるようになりましたが、しだいに「ヨーガって、心のことも教えてくれるんだ」と驚き、さらに「ヨーガって、本当の自分を知ることなんだ」と、だんだんとヨーガの教えの深淵さに惹きつけられていったのでした。
ヨーガの語源はユジュ、心を本当の自分と結びつけるという意味だそうです。本当の自分とは、真理、存在、純粋な意識、アートマン、魂、神とも呼ばれているものです。シュリー・ラーマクリシュナは「目標を定めて、ヨーガの道をまっすぐに進みなさい」と教えてくださっているのだと思いました。
そして私たちは師の導きによって、甘い真理の水をちょっぴり舐めさせていただいたのでしょうか。いろんな水がある中でも真理の水だけがほしいと願っていることに気が付かされました。チャータク鳥とは、どんな鳥なのかなと思っていたのですが、それは私たち、求道者のこと、「求道者は真理の水だけを求めなさい、そうすれば真理を実現することができる、神を見ることができるのだ」とシュリー・ラーマクリシュナは教えてくださっているのだと思いました。

私たちがチャータク鳥のように、どんなに喉がカラカラになって死にそうになっても、真理の水だけを求めて生きていくことができますように。

降ってくる雨水しか飲まないチャータク鳥

ダルミニー


ラーマクリシュナのうたわれたキールタン 

『ラーマクリシュナの福音』の中で、シュリー・ラーマクリシュナは、たくさんのキールタンを歌っておられます。そのキールタンは、私たちが普段うたっている神の御名を繰り返すという単純なものではなく、歌詞があるものです。メロディーは分かりませんが、歌詞の内容はとても美しく、私もうたってみたいなぁ・・・と思うものがたくさんあります。今回は、その中の一つを紹介します。

これはゴーピー(牧女)たちが、クリシュナ神への愛をうたった歌で、『ラーマクリシュナの福音』の中で何度か出てくるものです。

「私のクリシュナはまだ見つからない。おお、友よ
彼のいないわが家のなんと寂しいこと。
ああ、もしクリシュナが、
私の頭の髪でさえあったなら、

私は念入りにそれを編み、バクルの花で飾るのに。

私のクリシュナ髪のお下げを、
入念にととのえるでしょう。

クリシュナは黒く、私の髪も黒い、
黒と黒は一つになる。

ああ、もしクリシュナが、
私の鼻の飾り輪でさえあったなら、

彼はつねに私の鼻に下がり、
私の唇は彼にふれたでしょう。

    だが、そんなことはあり得ない。
ああ、なぜ私は、こんな愚かな夢を見る。

クリシュナが、私の鼻の飾り輪などになるものか。

ああ、もしクリシュナが、
私の腕の腕輪でさえあったなら、

彼はいつも私の手首にくっつき、
私は誇らしげに歩くでしょう。

腕輪をゆすって音をさせ、
これ見よがしに腕を振り、

クリシュナ腕輪を身につけて、
王様の道を歩くでしょう。」

恋をしたことがある人なら、誰でもわかると思いますが、愛する人とは片時も離れていたくなく、一緒にいたいものです。「ああ、彼が(彼女が)ここにこうしていてくれたなら…」という想像(妄想?)は誰でもするものです。そして「そんなことはあり得ない、なぜこんな愚かな夢を見る…」と言いながらも、また想像を始めてしまうところが、この歌の中でとてもリアルで、素朴で、なんとも言えない可愛さがあります。

これは、一見すると単なる人間の恋愛の様子がうたわれているようですが、本当は魂と神との関係を象徴的にうたったものです。魂(牧女)は神(クリシュナ神)に恋い焦がれ、一心に神を求め、常に一つになりたいと望んでいるのです。バクティの感情を表現する時には、日常の中の誰もが経験するような状況を、バクタの心境になぞらえてあるのものがたくさんあります。キールタンは、神への魂の叫びであり、神と魂を結ぶ愛の歌なのですね。


ラーマクリシュナの福音 〜グルの言葉への信仰〜

ダクシネシュワル寺院

ある日の午後、シュリー・ラーマクリシュナは、ダクシネシュワルの寺院境内の自室で、信者たちに信仰の話をしておられます。 

信仰だ!信仰だ!信仰だよ。ある時、あるグル(師)が弟子に言った。「ラーマだけがいっさいのものになっておられるのだ」と。イヌが来てその弟子のパンを食べ始めたら、彼はそのイヌに「おお、ラーマ、ちょっとお待ちなさい、バターをつけてあげましょう」と言ったそうだ。グルの言葉への彼の信仰はそれほどのものだったのだ。つまらぬ人びとは、信仰というものをまったくもたない。しじゅう疑ってばかりいる。
神への愛が唯一の大切なものだ。真の神の愛人は、何ひとつ恐れるものはない。何ひとつ悩むことはない。彼は、母なる神がいっさいをご存じなのを知っている。ネコはネズミを扱うのとはまったく別のやり方で自分の子は扱うだろう。

 グルの言葉への信仰というところを読んで、私はヨーガを始めたばかりの頃を思い出しました。「自分の心を変えたい。このままの自分ではいやだ」と思い、私はいろいろな本を読んでいましたが、その方法を教えてくれるものは一つもありませんでした。そうしてヨーガとヨーガの師に出会い、「ヨーガのアーサナ(ポーズ)によって呼吸を変えれば、心は変わります」という教えをいただき、本当に驚きました。「この心を変えることができるのなら真剣にヨーガをやっていこう」、そう決意し、私は仕事を辞め、師の下に引っ越してきたのでした。
しばらくしてから私は、毎日アーサナができること、ヨーガのクラスとサットサンガ(真実の集い)に必ず参加できるということを条件に、仕事を探し始めました。しかし、その条件に合うところはそうそう見つかりません。そうこうしていたある日、師は「仕事は見つかりましたか」と私に声をかけてくださったのです。「いいえ、なかなか見つかりません。でもヨーガのことだけ考えていたらいいんですよね」「その通りです」と師は大きく頷かれました。私は、もうすぐ仕事が見つかるのだなと思いました。すると本当にすぐに今の職場が見つかったのです。その時私はその職場は神様が与えてくださったものだと思いました。そして、この出来事を通して、グルの言葉への信仰を強く意識しました。
それから毎日アーサナをする中で、今度はクラスを担当したいという思いが湧いてきました。正しく伝えられるようになるためにも、アーサナをきっちりやっていこう、そう思い、ますますアーサナの修練に熱心になっていきました。それから何年かして、クラスをまかされるようになってきました。そんな時、友人からいいスタジオがあるからやってみないかと誘いを受けたのです。そのスタジオは朝の日の光が入る、サットヴァなスタジオでしたので、すっかり気に入りました。今、そこでもクラスを担当させていただいていますが、そこもまた神様が私に働くところを与えてくださったのだと思っているのです。

さて次の私の働くところはどこでしょうか?それもすべて母なる神がご存じなのでしょう。私は、グルの言葉への信仰を軸として、神様への信仰を少しずつ深めていっているのだということに気が付かされたのでした。

                                      ダルミニー


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

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そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


ラーマクリシュナの福音 〜ウシガエルのお話〜

この小さな部屋で不滅の言葉が語られたのです。

自室の小さい寝台の上に東を向いて座っておられるシュリー・ラーマクリシュナが、床に座っている信者たちに主ラーマの物語から教えられました。 

苦痛と快楽は肉体にはつきものだ。神を悟った人は、心も生命も、肉体も魂も神に捧げる。
ラーマとラクシュマナが沐浴をしようとパンパ湖に入った時、彼らは弓を地面に刺しておいた。ラクシュマナが自分の弓を引き抜くとその先が血で汚れているのに気が付いた。ラーマは彼に言った。「ごらん、弟よ。たぶん何か生き物を傷つけたのだろう」。ラクシュマナは地面を掘り、大きなウシガエルを見つけた。それは死にかけていた。
ラーマは悲しみにみちた声でカエルに言った。「どうして鳴かなかったのだ。私たちはお前を助けようとしたはずだ。お前はヘビにくわえられた時でも、元気に鳴くではないか」。するとカエルが言った。「おお、主よ。私はヘビに襲われたときには『おお、ラーマ、お助けください。おお、ラーマ、お助けください』と言って鳴きます。この度は、自分を殺そうとしていらっしゃるのがラーマであることを知りました、それで黙っておりました」。

私は以前、命を投げ出してでも悟りを得るということはどういうことなのかと師に質問をしたことがあります。師は「私たちの心が最も執着しているのが命です。その命を投げ出す、捧げるということは完全に心が開け放たれた状態、まったく執着のない状態を表しています」と教えてくださいました。
このウシガエルは何の執着もなく、完全にラーマ神のみを信じ、愛し、頼り切って生きていたのだと思いました。神に命を捧げると、自分のことをすっかり忘れ、すべてのすべてが神だけで充満してしまう、そして神以外の一切の思いが消え去ってしまうのだと思いました。

自分のすべてを神に捧げ、行為することができますように。

                                       ダルミニー 


バクティ・サンガム キールタン

Bhajamana Ma

Bhajamana Ma Ma Ma Ma   Bhajamana Ma Ma Ma Ma

Anandamayi Ma Ma    Anandamayi Ma Ma

Anandamayi Ma Ma   Anandarupa Ma Ma

 

6月から3ヶ月間バクティ・サンガムでは「Bhajamana Ma 」というキールタンを歌っています。Bhajamanaとは心から讃えよという意味、そしてMaはお母さん、母なる女神のこと、Anandamayi は至福に満ちている、Anandarupaは至福の姿をとられたという意味です。

「心よ!至福に満ちている母なる女神を讃えよ!!」

というキールタンですね。女神の優しさに包まれるようなメロディー、単純で覚えやすい歌詞、日常でもいつの間にか口ずさみ、その都度Maに思いを馳せることができます。

ところで、Maといえば、一番に思い出す聖者がいませんか?
Maへの信仰に全てを捧げた19世紀のインドの大聖者、シュリー・ラーマクリシュナです。

カーリー(女神、Ma)寺院の神職をしていたシュリー・ラーマクリシュナは毎日熱心に礼拝するうち、「生きているMaに会いたい!」という思いを募らせていきます。そしていつしか寝食を忘れ、狂ったように神を求め、ついにMaを見神するのです。

シュリー・ラーマクリシュナは生涯をかけて神を求め、愛することを教えられます。全身全霊でMaを求めた彼が、実際どのようにMaに祈っていたか、その言葉を弟子に教えておられる箇所を見つけましたのでご紹介します。

「私はいつも彼女(Ma)にこう祈った『おお母よ、おお至福に満ちたお方よ、私にお姿を見せてください。くださらなければ駄目です。おお低き者たちの主よ、おお、宇宙の主よ、私は決してあなたの宇宙の外にいるのではありません。私は知識を失っています。修行もできていません。信仰もありません。あなたはお慈悲をもって私にお姿を見せてくださらなければいけません』」

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、神はもっとも親しい身内だと言われます。子供が母親に泣きつくように心の底から泣いて神を求めたら、神がそっぽを向いておられるわけがないと教えられます。私はこのBhajaman Maを歌うとき、いつもこのシュリー・ラーマクリシュナの祈りの言葉と、神への態度を思い起こし、心でこう叫んでいます。

「私に純粋な信仰を授けてください。くださらなければ駄目です!!」

8月のバクティ・サンガムでもBhajamana Maや、他の女神のキールタンを歌いますので、ぜひぜひご参加ください! 大阪8月10日(金) 京都8月26日(日)になります!