聖典」カテゴリーアーカイブ

『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑱

今回は、『パラマハンサ』No.90の表紙絵をご紹介します。
これは2012年4月から12回シリーズで開講した講座「誰もが実践できるヨーガ」のチラシのイメージに描いたイラストを、ヨギさんが表紙としてデザインしてくださいました。

ヨギさんは「ヨーガは誰でも(どんな人でも)できる」し、「ヨーギーには誰でもなれる」とよくおっしゃっていました。ヨーガとは、本当の私を知ることだと言われますが、それは、今私たちが人生において苦楽を経験しながら右往左往しているのが当たり前だと思っているこの状態は、実は夢の中に生きているようなもので、本当は、もっと自由であり、至福に満ちた状態であるというのです。それを知るための道がヨーガであり、そしてそれは誰でもできること。その道を実践できるようにと願って、この講座のタイトルを決めました。

そしてこのイラストのモティーフとした内容は、この講座のコンセプトにぴったりだと思って選びました。表紙にはウパニシャッドの言葉がデザインされていますが、ヴィヴェーカーナンダが語られた『ギャーナ・ヨーガ』の最後に物語として分かりやすく掲載されていますので、ぜひ読んでみてください。

シャチー


『マハーヨーギーの真理のことば』 ~新年の抱負 「献身」

新しい年を迎え、皆さまに心より新年のご挨拶を申し上げます。
今年も実り多き良き一年となりますようお祈りいたします。

昨年は、私自身にとって人生の一つの節目となる年でした。
4月に次女が大学を卒業し、社会人として歩み始めたことで、私も長い子育ての時間を終え、清々しい気持ちで次のステージに進むことができました。肩の力が抜け、同時に、これからの人生をどう生きるのかを改めて深く見つめ直す一年でもありました。

さて、皆さまは今年の抱負はもうお決めになりましたか?
私は師の教えが詰まった書籍『マハーヨーギーの真理のことば』の中から、今年の抱負としてだけではなく、これからの人生の目標として次の教えを選びました。

献身

誰ものアートマンなる真実在という存在は、何ものにも依存しません。全く自存、自立しているものです。だから常に自由で普遍的で至福です。それだけが真実です。その他のもの、たとえ聖典の教えであろうが言葉であろうが、全ては消え去ります。存在というものだけがリアリティです。
それを知ったならば、たとえこの限りある体の状況でも、その道具として、肉体が朽ちるまで存分に動かせばいい。それは正に献身、身を捧げるということに尽きます。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十章 奉仕と献身の道 /第三節 ヨーギーの行為 より

アートマン:真我、真の自己。絶対不滅の存在。純粋な意識。

昨年、これからの人生をどう生きたいのかを自分に問い直し、瞑想を深める中で「残りの人生を神・真理とともに生きていきたい!」という思いが、以前にも増してはっきりと自分の内側から湧き上がってきました。
自分も他者も生きとし生けるすべてが真実在の顕れであるなら、その真実在のために限りあるこの身体を道具として朽ちるまで動かす─。それはなんと喜びに満ちた幸せな生き方でしょう!そして、そのように思えることがもう既に神の祝福の中にあるのだと感じています。

今年も喜びとともにヨーガを生きていきたいと思います。
日々の実践を通して、その喜びを皆さまと分かち合えますように!!

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

シャルミニー


ヨーガとインド神話~ビシュヌ神のアヴァターラ「クリシュナ神」

クリシュナ神は前回ご紹介したシヴァ神と並び、ヒンドゥー教の三大神の一柱であり、現代でもとても人気がある神様です。そしてまた、シヴァと同様にヨーガととても深い関わりがある存在なのです。
例えば、ヨーガの聖典として有名な『バガヴァッド・ギーター(神の詩)』の中で、アルジュナにヨーガの教えを説くのがクリシュナ神です。

クリシュナ(左)とアルジュナ(右)が戦場で対話する場面。クリシュナが戦車の上で教えを説く場面が描かれています。1830年ごろの作品。

さて、ヒンドゥー教の三大神とは、宇宙を創造するブラフマー神、維持を司るヴィシュヌ神、破壊(再生)するシヴァ神を指します。この三柱を総称してトリムルティ(三神一体)と呼ばれています。
「おや、クリシュナ神はどこに!?」ですよね。
クリシュナ神話を理解しやすくするために、ヒンドゥー教の重要な概念をひとつ押さえておくと分かりやすいと思います。

ヒンドゥー教の神がこの世界に姿を変えて現れることを「アヴァターラ(化身)」と呼びます。(インターネットなどで使われる「アバター」の語源にもなっています)
特にビシュヌ神においては10~20のアヴァターラがあるともいわれ、クリシュナ神はその第八の化身であるとされています。
ちなみに、古代インド叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマは第七の化身です。
ビシュヌの系統の神は額にUの字が描かれていることが多く、これが特徴的な印となっています。

クリシュナ神も、長い歴史のなかでバラモン教が各地域の土着神を取り込みつつヒンドゥー教へと発展していく過程で、姿を変えていきました。
現在に伝わるクリシュナ像は、モデルとなった英雄的人物(ヤーダヴァ族の英雄)や地域の土着神(ヴァスデーヴァ、パンドゥランガ・ヴィッタル、ジャガンナート)など、複数の要素が融合したものともいわれているそうです。

『シュリーマッド・バーガヴァタ厶』(日本ヴェーダーンタ協会発行)の表紙絵のクリシュナ神。 頭にはクジャクの羽根飾り、黄色の腰巻を着て、片足を曲げ横笛を持っている姿で描かれることが多い。

古代から人々は神への信仰を持っていますが、時代によって人々が神に求めるものが変化し、信仰の対象である神の役割や物語も変化していっています。
一見すると、人々の思惑や時代の波に神さえも翻弄されているように見えますが、この宇宙の一切万物の創造主が、私たちの理解に合わせて真理の表現を変えている──という見方もできるのでないでしょうか。いつの時代も、宇宙の主は大いなる愛と慈悲によって、姿かたちを変えながら私たちに真理を示し続けているように思えます。

クリシュナ神が描かれている主な文献としては、
・叙事詩『マハーバーラタ』(聖典『バガヴァッド・ギーター』)
・聖典(神話・伝説)『バーガヴァタ・プラーナ』(聖典『シュリー・マッド・バーガヴァタム』)
・抒情詩『ギータ・ゴーヴィンダ』
があります。

次回は、聖典『バーガヴァタ・プラーナ』からクリシュナ神とバクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)について取り上げてみたいと思います!

シャルミニー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑰

今回は、『パラマハンサ』No.23の表紙絵をご紹介します。
この号は、2000年11月23日に行なわれた師の御聖誕祭の内容が掲載されており、師への感謝を込めてこの絵を描きました。
ヨーガとの出会いによって、生きる意味を見出した多くの仲間がいます。それは本当の幸せに向かう道です。そして、その道を示してくださった私たちの師、ヨギさんの御聖誕日は、私たちにとって、もっとも大切で歓びに満ちた日です。
特に今年は、MYM設立50周年を迎える、始まりの御聖誕祭であり、これだけの年月を休むことなくヨーガを人々に話し続けてきてくださったヨギさんに、改めて感謝を捧げたいと思います。

MYMでは、これからの1年をかけて、ヨーガをさらに知っていただくためにいろいろな会を企画していますので、この機会にぜひ京都まで足をお運びいただけたら嬉しいです。

*   *   *

今年の御聖誕祭まであと少しです。
最後に、『パラマハンサ』No.11に掲載しました御聖誕祭に向けての言葉をご紹介します。

深い想いを秘め、ハートは師の御聖誕に震える。
アートマン ブラフマン プレーマ
常に真我に在り、不変の梵に在り、無量の愛に在る、
最愛のサットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの蓮華の足元に、
慎ましく感謝の想いを捧げます。
おお、我は知る、我が深奥の真実の自己があなたであることを。
誰が知ろうこの真実を。
どうか、この真実を覆い隠さず、知らしめてください。この永遠の祝福を。
この聖なる日は、あなたとともに私が生まれた日。
パラマハンサの妙なる風とともに在らんことを。
オーム・タット・サット、オーム!!

シャチー

 


『マハーヨーギーの真理のことば』~心が唯一頼るべきもの  

11月23日は、私たちが敬愛してやまない師サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの御聖誕日です。私たち弟子にとって、師へ心からの感謝を捧げるとともにヨーガの成就に向かい心新たに誓願を立てる日でもあります。

15年ほど前、私は長年実践してきたヨーガに疑問を抱き、進むべき道を見失ってしまったことがありました。そして、心の奥底から真のグル(師)を求めました。
その数ヶ月後、まさに「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」という聖句の通り、ヨーガのご縁によってその願いは現実のものとなりました。
皆が親しみを込めて「ヨギさん」と呼ぶその方は私が求めていた“真のヨーガの師”であり、私はシュリー・マハーヨーギーのもとでヨーガの道を歩むことを決心しました。

非常に残念なことですが、最愛の師は2023年5月に肉体を離れられ、直接お姿を拝することは叶わなくなってしまいました。深い悲しみに沈みながらも、「今こそ師から学んだ教えを実践する時だ」と自分を奮い立たせていたある日、『マハーヨーギーの真理のことば』の中にまるで師からの励ましのような教えが目に飛び込んできました。

「心が唯一頼るべきもの」

グルの真実は姿形ではなく、その本質にあります。それは形と言葉を超えている、存在そのもののことです。真実です。それはあなたの中の、あなたの真実と同じものです。
唯一、心が頼るべきは、グルとその真実の言葉です。

――『マハーヨーギーの真理のことば』第十六章「聖なる存在」/第三節「グル」より

私はハッとしました。
師の教えはこの御本の中にあり、師の言葉は師の本質であり存在そのもの。師の存在は失われたのではなく、言葉を超えた「真実」として今も常に私の中にある――と。

私が師に巡り会えたように、これからも一人でも多くの人がこの『マハーヨーギーの真理のことば』の中に師の存在を見出し、シュリー・マハーヨーギーのもとに導かれることを心から願っています。
私もまた心を新たに、師が教えて下さった「私の中の真実」を実現するために精進を重ねていきたいと思います!

シャルミニー


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ⑤

宗教会議で一躍有名になったヴィヴェーカーナンダは、アメリカの東部や中西部の大都市を駆け巡り、週に12回から14回の講演を行ないました。何百何千という人々が押し寄せましたが、そこには教養豊かな人たちや真理探究者に混じって、人を欺く人や興味本位の人やならず者もいて、どこででも厚遇されたわけではありませんでした。

ヴィヴェーカーナンダの目的は、永遠の真理を説いて誠実な人々の霊的生活が深まるように手助けすることでしたが、無知、迷信、宗教一般、特にヒンドゥー教についての誤解を取り除くという仕事は大変に困難なものでした。

あらゆる類の障害や反対や脅しに対してのヴィヴェーカーナンダの答えはただ一言でした。

「私は真理のために闘います。真理が偽りと手を結ぶことは絶対にありません。たとえ全世界を敵に回そうとも、真理は最後には勝利するに違いありません」  

(『ヴィヴェーカーナンダの生涯』より)

次第に裕福な特権階級の人々を離れて、霊性の生活に熱心な学生の訓練に専念し、静かに個人の人格形成をすることに熱意を抱くようになりました。ニューヨーク滞在中にブルックリンで定期クラスが開かれることになったのをきっかけにして、貧しくも熱心な数人の学生がニューヨーク市内の貧困地域に部屋をいくつか借りました。ヴィヴェーカーナンダはその一部屋に暮らし、貸家の二階にある普通の部屋で講義と授業を行ないました。講義中のヴィヴェーカーナンダは床に座りましたが、数多い受講者はタンスやソファの肘掛けや部屋の隅にある洗面台までも利用して座りました。扉は開け放たれたままで、あふれた人々は廊下や階段をも埋め尽くしました。真理に関する理解を深めるために、数人の選ばれた弟子にギャーナ・ヨーガを教え始め、自己制御、集中、瞑想の科学を教えるためにラージャ・ヨーガも指導し始めました。

ヴィヴェーカーナンダは西洋で働いていた間も、インドのことを忘れることはありませんでした。講演で稼いだ金銭を、宗教、教育その他慈善活動のために送り、彼の熱烈な手紙がインドの兄弟弟子たちを奮い立たせました。「自分の足で立つのだ!」と繰り返して、自立するように励ましました。

ヴィヴェーカーナンダは、どれだけ想像しても及ばないほど、全てを注ぎ込んで働かれたのだろうと思います。それはひとえに人々を真実へと導くためでした。

ヴィヴェーカーナンダが西洋に真理を伝えてくださったことで、現代の日本でもその教えを知ることができます。ヴィヴェーカーナンダが残した言葉は私にも届き、励まし、奮い立たせます。真理が真理であるからその真理のために闘うという、ただそれだけが在るということを突きつけられ、心に光が差して、それだけを求めて歩もうと背中を押されるのです。

サルヴァーニー


ヨーガとインド神話~シヴァ神

インドの神様といえば、「シヴァ神」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?

8月にこのブログで、聖典『デーヴィー・マハートミャ(女神の素晴らしさ)』に登場する女神ドゥルガー(カーリー)をご紹介しましたが、その夫がシヴァ神です。
シヴァは破壊と再生を司る神であり、ヒンドゥー教の三大神の一柱として、ヒンドゥー教の国々で現在でもとても人気があるそうです。

瞑想をするシヴァ神

シヴァ神はとても古い神で、そのルーツは暴風雨の神「ルドラ神」まで遡り、数千年の歴史の中でさまざまな地域の土着神や信仰が融合して、今日の「シヴァ神」として伝わっているようです。

実はヨーガの実践者にとっても、シヴァ神は非常に重要な存在です。
なぜなら、シヴァはヨーガを最初に人間に伝えた“ヨーガの祖”であることが、いくつかの聖典に記されているからです。
確かに、シヴァ神の絵には修行者の姿で坐し、半眼で瞑想している様子がよく描かれています。

パシュパティの印章(PashupaiSeal)。ヨーガ行者の姿をした人物を刻んだインダス文明の印章。シヴァにパシュパティという別名があることから、シヴァの原型と関連付けられることも…。

そのような古い歴史をもつシヴァ神には、体系化されていない数多くの神話が各地域に伝えられていて、その中にはシヴァから人間にヨーガが伝わった経緯に関する伝承もあるようです。
例えば、ある日、川のほとりでシヴァが妻パールヴァティーに深遠なヨーガの奥義を語っていたところ、一匹の魚が熱心にその教えを聴き取り、奥義を理解して人間の姿に変わり、最初の弟子マッチェーンドラナートとなってヨーガを広めたというお話や、シヴァがヨーガの奥義をまとめた聖典を作ったが、普通の人間には危険だと考えてそれを川に投げ捨てたところ、一匹の魚がその聖典を呑み込み、漁師がその魚を捕らえて魚の中から聖典を発見し、その聖典を学んでマッチェーンドラナートになったというお話など。これ以外にも諸説あるようです。面白いですね。
ヨーガのアーサナ(ポーズ)の中に「マッチェーンドラ・アーサナ(ねじるポーズ)」や「マッチャ・アーサナ(魚のポーズ)」があるのも、興味深いことだと思います。

左/マッチェーンドラ・アーサナ(東京・国分寺クラス) 右/マッチャ・アーサナ(東京・中野クラス)

私自身のシヴァの体験は、以前バクティ・サンガムでシヴァ神のキールタンを繰り返し歌った後、無性にシヴァに瞑想したくなり、そのまま瞑想に入りました。
そのとき感じたのは、山のように雄大などっしりとした不動の存在感。いつも瞑想していたクリシュナ神とはまったく異なる感触で、とても驚いたのを覚えています。

このブログ「ヨーガを生きる」でも、シヴァ神について何度も取り上げられています。ヨーガとシヴァ神の関わりが詳しく書かれていて、とても面白いので、ご興味のある方はぜひご覧ください。

シャルミニー


『マハーヨーギーの真理のことば』~瞑想─基本編

ひと昔前に比べて、瞑想に興味を持つ方が増えてきたように感じます。瞑想に関する情報も多くなりましたが、その一方で、「瞑想をしてみたいけれど、どんな方法がいいのか分からない」といった声を、私の周りでも耳にすることがあります。

私自身も、師に出会うまでは、瞑想を基礎から学んだことがなく、ほんの少し習った知識で見よう見まねで行なっていました。確かに、心が落ち着いたり、何かひらめいたような感覚を得ることもありましたが、どこか茫洋としていて、「これでいいのかな…」と何度も考えることがありました。

シュリー・マハーヨーギーの下で、瞑想を一から教えていただくようになり、私はそれまでかかっていた心の靄(もや)がサーッと晴れていくように感じました。

『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章「瞑想─基本編」には、これから瞑想を始める方や、始めて間もない方でも共感できる問答が数多く載っています。
例えば――

─良い瞑想とはどういう状態ですか。
─瞑想の効果がいちばん現れる時間というのはあるのでしょうか。
─アーサナの後に瞑想すると、直ぐ眠くなってしまうのですが、何か良いアドヴァイスがあれば教えて下さい。
─集中がすごく難しくて、いつも雑念ばかりになってしまいます。どういうふうにしたら集中しやすいのかを教えていただけますか。

ここで、特に大切な「瞑想の対象」についての問答を一つご紹介します!

─考えたいことがある時に瞑想しようとするのですが、一点に集中というよりは、考えてしまうのです。まだ瞑想がどういうものなのか全然分かっていないのですが、瞑想の具体的な対象について教えていただけますか。

瞑想の内容は大きく分けて三つある。一つは私は誰か、アートマンという本当の自己を探求する、それだけに集中する。これは私という言葉と概念がその入り口になります。もう一つは、神もしくは神的存在、理想の神の姿を思い浮かべる。そしてもう一つは、真理という抽象的なものについての集中。何か他の様々な考えはこの三番目のものに該当する。どういう考えが起こっていようと、それが真理かどうか、真実かどうかということを瞑想で悟っていく。
だから、この三つの柱のどれかには纏めないといけない、どれかにしないといけないということね。これが混乱していると集中感がなかなか掴めないと思う。

─その三つのうちから自分でどれかを選ぶということですか。

そうです。

─自分には何がしやすいかということでしょうか。

何を求めているかです。しやすさの問題ではなくて、何を本気で真剣に求めているかということ。それによってこの三つのどれがいちばん身近に感じるかというのが自然に繋がってくると思う。

─行き着くところは全部一緒なのですか。

そうです。
真実の幾つかの面というか現れとして、その違いがあるわけです。自己を探求するのがギャーナ・ヨーガ、神的存在に瞑想するのがバクティ、そして真理、真実を確かめていくのはラージャ・ヨーガ。そういうふうにその集中対象と内容に応じて呼び名は違いますけれど、行き着くところは同じだし、またギャーナ・ヨーガでもバクティ・ヨーガでも純度を高めるためには識別を必要とします。識別というのは心の中にまだ残っているかもしれない煩悩性のものを取り除く作業です。これは真実と突き合わすことによって放棄されていく。だからそれらをしっかり覚えておいて、そして最も切実に求める対象を選ぶ。

─対象は一つだけにするものなのですか。

いえ、そういうわけではないです。その三つを、一時にではないけれども、一人の修行者が行なっていくことは普通です。
( 『マハーヨーギーの真理のことば』第十三章「瞑想─基本編」第一節 瞑想の基礎/瞑想の対象を選ぶ)

私は、バクティ・ヨーガの瞑想を何年も続けていましたが、今はアートマンへの瞑想に変わりました。
それは、神を求めなくなったからではなく、むしろ神を求めて瞑想を続けるうちに自然とアートマンという真我への瞑想に繋がっていったという感覚です。
瞑想の進み方やその様相は一人一人それぞれに違うものだと思いますが、行き着くところは同じ一なる真実。私の中にあるその真実を実現するまで、これからも真剣に瞑想を続けていこうと思います。

シャルミニー


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑯

今回ご紹介する表紙絵は『パラマハンサ』No.22のものです。

ヨーガの奥義は、古より師から弟子へと密かに伝えられてきたといいます。
師の御足下に静かに座り、真理の教えを受ける弟子。真正の師より与えられる恩寵は彼を満たし、その時間は至福そのもの。そんな姿を描いてみました。

グルとは真理そのものです。
すべての経験もまた教師でしょう。
しかしグルがいれば経験の苦労は何千倍も軽減され短縮されるでしょう。
グルは束縛ではなく自由をもたらすのです。

シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

*パラマハンサの表紙は、毎回、絵とともに師の教えを飾らせていただいていました。

シャチー


『ヨーガ・スートラ』写経ーー『インテグラル・ヨーガ』

9月に入っても暑い日が続いていますが、皆さまはこの酷暑、どのように過ごしておられますか?
私は先月、『ヨーガ・スートラ』の写経に取り組んでいました✍️
3年前にもその写経をしたのですが(『ヨーガ・スートラ』写経)、今回はスワミ・サッチダーナンダが『ヨーガ・スートラ』を解説した『インテグラル・ヨーガ』を写経しました。
実はこの本、私たちの師シュリー・マハーヨーギーが翻訳監修に携わっていて、私はその一つ一つのスートラ(節)を写経していると「あぁ、師の的確で明細な表現だ〜!!」と感じ入り、師の息吹に触れたように感じられました。
さて、ちょっと問いかけなのですが、ヨーガの偉大な発見って、何だと思いますか👀?
「梵我一如」の発見、「無知」の発見、「バクティ(信愛)」の道の発見など、たくさんありますが、「見ている意識(本当の自分)」の発見もその一つだと思います。
『ヨーガ・スートラ』では、心をただ客観的に観照している「見ている意識」があり、それが「本当の自分」であると説いています。
私自身、「見ている意識」を知ったのは、師シュリー・マハーヨーギーのニューヨークでの問答が収められた『プラナヴァ・サーラ』という聖典を読んだ時でした。
その時まで私は、心が自分だと思うこともないほど、心が自分であり主体だと何の疑いもなく思い込んでいました。
しかし、「見ている意識」を知った時、「今、確かに見ている意識が在り、心は見られている。心は客体であり、主体は見ている意識である」ということに気付かされ、そして次の瞬間、心は電流に打たれたかのような天地がひっくり返るほどの衝撃と顛倒(てんどう)が起こりました。
それにより、その後の1週間ほどは心が真実を知った歓び、そしてそれを教えてくださった師への感謝で満たされたのでした。


今回、『ヨーガ・スートラ』の写経をして再認識したことは、やはり「見ている意識」について『ヨーガ・スートラ』は克明に書き記しているということです。
また、「見ている意識」に留まれるように、心の煩悩を無くすアプローチも仔細に説いています。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、『ヨーガ・スートラ』は苦悩する人類を救う「希望の光」だと感じています。
心は「見ている意識」を知らないから、欲望や世界に巻き込まれ、苦しんでいます。
そして何より、聖典が輝き、人を苦しみから救済へと導くのは、「グル(師)」によってです。
グルの存在ゆえに、難解な聖典に光が当てられ、人は真実を知り、実現したいと思えるのです。

私がグルから教えていただいた「見ている意識」ーーその真実を初めて知った方は、今、この瞬間、目を閉じて、その存在を感じ取っていただけたらと思います。
それは誰もの中に在る確実なるものです。

ゴーパーラ