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オンラインで「理想の聖者」について語らう!

6月に入りましたが、皆さま、いかがお過ごしですか?
こちら京都は緊急事態宣言が再々延長され、私の住む嵐山は観光客も少ない状況です。
そんな中ですが、5月は多くのグルバイ(仲間)とオンライン交流をしました!

「フォカッチャの会」では愛媛、金沢、和歌山、また台北のグルバイと楽しく有意義な時間を共有しました。

また、ニューヨーク・ミッションで行なわれている「Study In Practice (SIP)」にも3回続けて参加させていただきました。

「学ぶことを学ぶ」がテーマのSIPは、余談なしの真剣な勉強会で、終始ヨーガの話が展開されます。
「ヨーガは知識ではなく実践、そして体得」
そう師は教えられますが、「どうしたら知識ではない学びができるのか?」「自分の偏った考えに陥らずに学べるのか?」「どのようにヨーガの教えを日常に結び付けられるのか?」といったことを話していきます。
会に参加する中で、私自身改めて感じたのは、やはり「学ぶ」には「理想の存在」が必要不可欠だということです。
「こうなりたい」「こう生きたい」「こうすればいいんだ」という気付きや道標が、理想の存在を見つけることでより明確になるーー
つまり、理想の存在を持つことで、学び、見倣うことがより実際的になされ、修行者の大いなる助けになると思ったのです。

SIPに参加した数日後、フォカッチャの会のヨーガ・トークスの時間には、皆さんと理想について話をしました。

参加したグルバイたちは、それぞれ理想の聖者をもっておられ、そこに近づく努力をされていました。
以下、要約したものをご紹介します!

神に対してひたむきで真っすぐなスワーミー・アドブターナンダが大好きで理想としていますが、私は以前、人間関係に悩み、部屋で声を押し殺してよく泣いていました。そんな時、アドブターナンダのエピソードを読みました。「人気のないところに行き、泣いて神に祈らなければならない。その時に初めて、彼はご自身をお示しくださるだろう」というシュリー・ラーマクリシュナの教えを実践していたこと、「彼はこの世の何事にも頓着せず、人生の唯一つの関心ごとは師にどのように忠実にお仕えするかということだった」、これらに衝撃を受けました。「私は自分のことばかり考えて自分のために泣いている。こんなばかばかしいことは、もうしたくない!神を求めて泣きたい!神に対して誠実に真摯に生きたアドブターナンダのようになりたい!」苦しい時だったからこそ、真逆の生き方をしていたことに気付き、より深く心に響き、理想に生きたいと心底思うことができました。

・昔から闘う女性に憧れている自分がいて、その性質を棄てるのではなく、ある時から生かそうと思い、闘う女性の究極に女神カーリーを見出しました。また理想の聖者は、煉瓦に頭をぶつけるぐらい狂っているナーグ・マハーシャヤ、それしかないと思っています。

・以前、理想(の聖者)を決めかねていた時、先輩弟子から「気楽に決めていいよ」とアドヴァイスをもらいました。理想って気楽に決めてええの?と戸惑いつつ再考……スワーミー・プレーマーナンダの伝記の一節「彼は骨の髄まで清らかだった」に触れた時、「私には無理だ」とすぐに自分でもびっくりするほどの拒否反応が出た事を思い出しました。そして、なぜそれほどまでに拒否したのだろうとその原因を探っていく中で、逆に清らかさに憧れをもっている自分に気付き、プレーマーナンダを理想としました。彼に近づきたいけれど近づけない。壁を感じていたのですが、つい最近、どうにかしたいと七転八倒していると、「プレーマーナンダ」という「名前と姿」を超えた言葉では表せない『何か』が理想であり、更にその先に師のヨギさんがおられるのを感じました。
プレーマーナンダの言葉、「まずはじめに全身全霊でひるむことなく誠実であるように試みることだ。過去、現在、未来におけるいかなる時も、真理は必ず勝利する」が大好きです。

・最近、ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』を読んで、とても感銘を受けました。この人生を彼のように神への礼拝に生きたいです!

理想について話すのは、本当にいいですね。
とってもポジティブになれます!!

最後に、私の理想の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの最高に力強い言葉を紹介させていただきます。

皆さん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。歌のように、それを昼夜、心の中に響かせなさい。そして死の時には、「私は彼である」と宣言しなさい。それが真理です。世界の無限の力は皆さんのものです。皆さんの心を覆っている迷信を追い払いなさい。勇敢になろうではありませんか。真理を知り、真理を実践せよ。ゴールは遠いかもしれない、しかし目覚め、立ち上がり、ゴールに達するまで止まるな!

今こそ、内面へのヨーガを深める時ーー理想を見つけ、学び、近づき、一つになる時だと感じます!!

誰かが間違ったボタンを押したら、こんな画面になりました。

ゴーパーラ


フォカッチャの会は『Automatic(オートマチック)』

ゴールデンウィークですが、どこにも行けないですね。。
でも暗くなっていても仕方がないので、今回のブログは「ポップ」にいきたいと思います〜☘

最近、宇多田ヒカルの『Automatic』という曲を思い出しました。
私が中学生の頃、流行った曲です💿
特に好きな曲でもなかったのですが、あることがきっかけでその心に眠っていた曲の再生ボタンが押されました。
「心のサンスカーラ(潜在的な残存印象)が克服されていないのでは?」と指摘されたら本当に何も言えないのですが……😓、以下その経緯を説明させていただきます。

3月のブログで紹介された「フォカッチャの会」ですが、一応私は主催者でありまして、4月は要望も多く、2週連続で開催させていただきました。
このフォカッチャの会は、オンラインでの宿泊・交流会で、以下のプログラムで行なっています。

🌃土曜の夜:フォカッチャ生地の仕込み(15分)&ヨーガトークス
🌅日曜の朝:瞑想(45分)&フォカッチャ焼き(30分)&朝食・ヨーガトークス

私自身、当初はオンラインというツールには抵抗があり、巷で「オンライン飲み会」というものが出てきた時には、「そこまでして、誰かとお酒飲みたいか?」と思っていました。
しかし、このフォカッチャの会でオンライン交流してみると、師が毎日好んで召し上がっているフォカッチャを皆で作り、いただき、そしてヨーガについて語らうーー「これ、こんなに楽しくていいの?」と思うほど、毎回笑いの絶えない楽しい会になっています。

また朝の瞑想もオンラインで皆でする方が集中感が増し、清々しい気持ちになれます。
前回参加した松山のグルバイ(仲間)の方からは、「オンラインの特徴として、ヨーガが自分の生活に入り込む感じがいい」という感想をいただきました。
確かに、私自身もそうだと思いました。
コロナ禍でグルバイとなかなか交流できない日常生活にヨーガのプラーナが入り込んで、その集中や喜びに満たされるーー
オンライン上ですが、グルバイと密な時間を過ごすことで、「自動的にヨーガの状態になる」という感覚がありました。
それを思った時、自動的➡︎オートマチック、はい、それで宇多田ヒカルの『Automatic』が流れ出しました。
そして断片的ですが「君とパラダイスにいるみたい♪」という歌詞が出てきました。

「なんや、そのオチは!」と言われたら、「私は関西人ではないので」と言わせていただきます✋

話を戻します↩️、師は「フォカッチャはただ単純に美味しい」とおっしゃられているそうです。
そのようにフォカッチャを単純に美味しいから毎日いただくように、いつもただ「神だけを愛する」ことができたら、心は自動的にパラダイスになると思いました🏖

美味しいフォカッチャもいただけ、親交(神交)も深められるフォカッチャの会の参加申し込み、ぜひお待ちしております🙋‍♂️

ゴーパーラ


「私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」

季節は春になり、厚着していた洋服もだんだんと薄くなって身軽になっていきますね🌸🌿
先週の日曜は日差しが強くて私は日中、半袖で過ごしました💦

私は春の身軽になっていく感じがとても好きなのですが、少し前まで心はちょっと重〜い感じがありました😓
識別しても解決されず、どうしようかと思っていた時、瞑想の中で神にそのことを相談してみました。
もうただ、その起こっている事実を神に聞いてもらいました。

するとその瞑想中、2つのリュックサックのヴィジョンが見えました。
一つは重いリュックサック、もう一つは空っぽのリュックサックでした。

瞑想から覚めた時、「あぁ、私は余計な荷物を背負い込んで、思い煩わされていただけなんだ」と思い、それに気付かされたら自然と気持ちが軽くなりました。
そして、次のイエス・キリストのお言葉が思い起こされました。

「疲れた者、荷物を背負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

その翌日、期せずしてその煩っていた物事に大きな進展があり、とても驚きました。
その後、上記のイエスのお言葉について調べてみると、続けて次のことが書かれてありました。

「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷物は軽いからである」ーーマタイによる福音書11章

このイエスのお言葉に「軛(くびき)」とあります。
軛とは「牛馬の首の後ろにかける横木」のことで、牛馬を制御する道具のことです。
私は軛と聞いてすぐに連想するのが「ヨーガ」という言葉です。
ヨーガの語源は「ユジュ(軛をかける)」だといわれ、ヨーガは「心を制御して真理(神)を実現すること」を説いています。
上記のイエス・キリストのお言葉「私の軛を負い、私に学びなさい」は、「神の教えである心の制御を実践し、神を見倣いなさい」と読むことができると思います。

心に背負うリュックサックは、やっぱり神のリュックサック(軛)がいいですね。
それはとっても軽く、空っぽだと感じるからです。
そしてその中身は至福のプラーナで満ち満ちていると感じます😇🎒

新緑の嵐山

ゴーパーラ


神のかくれんぼ

「もういいかい?」「まーだだよ」

私は小さい頃、ときどきですが、『かくれんぼ』をして遊んでいました。
鬼になった人が目をふさぎ、「もういいよ」の声で、隠れん坊を探し出す遊びです。
今の子供たちもしているのでしょうか👀?

今回のブログは、『神のかくれんぼ』についての物語をご紹介させていただきます。

あるとき、裕福な商人が商用で旅に出た。
実業家に変装した泥棒が彼の道連れになり、チャンスがあり次第、彼からお金を盗もうと狙っていた。
毎朝、彼らが泊まっていた行きずりの宿屋を出る前に、商人は決まって明けっ広げに彼のお金を数えてからポケットに入れた。
そして夜になると商人は、見たところ怪しむ様子もなく眠りについた。
商人が眠っている間に、泥棒はいつも必死に商人の持ち物すべてを調べるのだが、お金を見つけることはできなかった。
失望に終わる宝探しの夜を何度か味わった泥棒は、結局諦めて彼の本当の意図を商人に白状した。
そして、どうしてそんなに上手くお金を隠せたのかを教えてもらうように懇願した。
すると商人は、何気なく答えた。
「私は、最初からあなたの企みを知っていました。ですから毎晩、あなたの枕の下にお金を置いたのです。あなたが決して見ようとしない、唯一の場所がそこだと十分承知していたので、私は安心して眠れました」

泥棒(心)は外の世界に財宝があると思って探し求めます。
しかし、至高の財宝(神・真実)は泥棒が決して見ようとしない唯一の場所、心の内奥に神ご自身が隠されたという、何ともトリッキーな神のお遊びをこの物語は隠喩しています。

私はこの物語を読んだ時、「今、ここに、この瞬間に、神(真実)は在る!」そう思い、ハッとさせられ、心の内側に意識がグッと引き戻されたのでしたーー

「もういいかい?」「もういいよ」

私、大人になっても、かくれんぼやってるなと感じます。

心は目隠しされた鬼ーー
「もういいよ」の神の呼び声で心の目を開いて瞑想し、神を探求しているのだと思いました👹💨

そして、「みーつけた!」と言って笑いたいです、無邪気な子供のように😄

愛するクリシュナが突然お隠れになり、クリシュナを探し求めるゴーピーたち。 再び彼女たちの前に顕れたクリシュナは、次の弁明をします。 「手に入れた財が失われたとき、財をなくしたその人は、それのことばかり考えて、他のことは気にもとめないように、それと同じように、女たちよ、私のために世の常識も、ヴェーダの規定も、自分の身内も、放擲し去ったあなた方を、私に信順させるために、私は眼に見えぬ姿をとって、密かに隠れてしまったのだ」

ゴーパーラ


オンライン瞑想会 in 東京

以前はアーサナ・ヨーガクラスや瞑想会を定期的に開催していましたが、そうした当たり前にできていたことができなくなって、早1年が経とうとしています。

東京では昨年の2月を最後に、グルバイ(兄弟姉妹弟子)と思うように会えなくなりました。瞑想会に使用していた会場も借りることができなくなったため、オンラインで瞑想会をするようになりました。

東京でのオンライン瞑想会の画面。この日(2/1)は9名の方が参加されました。

瞑想は1人でもできます。むしろ1人で静かに座るイメージを持っている人が多いのかもしれません。私はヨーガを始めた頃は瞑想にそんなに興味が持てなかったし、みんなで集まってすることなのかな?と不思議に感じていましたが、一度京都で2時間座る瞑想会に参加してからイメージが変わりました。もちろん2時間座るなんて無理で、雑念と足の痛みとの戦いでした。しかし集中して座っている人たちに囲まれた空間にいるだけで、少しずつ集中した感覚を味わえるようになり、2時間の中で確実に変化していきました。
1人でも深い瞑想状態にある人がいるだけでその空間の気が調い、他の人も瞑想しやすい状態になることがあります。また、それぞれが集中して自分の中に潜っていくように取り組んでいるうちに相乗効果で瞑想しやすくなることもあります。それが誰かと瞑想する醍醐味であると思うようになりました。

しかし、実際に空間を共にしていないオンラインでそれがどこまで可能なのか、最初は少し心配していました。でも実際に参加してみると思いの外集中しやすく、同じ空間にいてする瞑想会とほぼ同じような感覚になりました。
毎週メインで話をする人を決めて、順番に担当していくようになり、興味深く話を聞く楽しみもありました。ただオンラインではそれぞれが自由に発言し合うことは難しく、参加者が増えてからはさらに難しさが増したように感じました。
そこでみんなで相談し、1つアーサナ(ポーズ)をして、毎回メインで話す人がそれぞれ大切にしている教えや聖典の言葉を朗読し、その後瞑想に入るようにしてみることにしました。

先日その1回目を迎えました。
私が担当する回だったので、数日前からどの教えをにするか検討しました。参加者の中にはまだ師にお会いしたことがない方もおられるので、より分かりやすい内容をと、『ヨーガの福音』の中から選ぶことにしました。どれにするか、何度も読み返していくのもとても楽しかったです。どの教えも素晴らしいのであれこれ迷った結果、「人生の目的」という一節を選びました。

『ヨーガの福音』は一節が短めにまとめられているので、いつでもどこからでも読みやすい本です。この節は少し長めにはなりますが、タイトルの通り、人生において目的とすべきことについてしっかり丁寧に説明されています。

”人生の目的は真理を実現することです。真理とは何か—- これは頭では答えを出すことはできないのです。しかし体験はできます。その叡智と方法がヨーガにはあります。”

この冒頭の部分は何度読んでも身が引き締まる思いがします。

私は最後の部分が特に好きです。

”・・・それを実践するには毎日を真剣に生きなければならないということに気付かされます。仕事や生活は何でもかまいません。執着をしないことです。そして本当に得なければいけないものを、悟らなければいけないもの、真理だけを求めてください。誰でも、どんな状況の人でも悟りは可能です—-純粋な信仰と真剣な実践があれば。”

この文章の内容をみんなで味わって瞑想したいと思ったことが決め手だったのですが、いざ朗読するとなると私が読むので大丈夫か?とドキドキ。
この素晴らしい内容を私自身が味わって読むこと、そしてみんなにしっかり伝わるように想いを込めて朗読することにしました。

読み進めるうちに心が静まり、平安な気持ちに満たされていきました。

45分ほど瞑想しましたが、同じ空間にいなくても一緒にいるような感覚で座り続けられました。
グルバイの1人から、あっという間だったと感想をもらえたのも嬉しかったです。

ヨーガの仲間の自宅での瞑想の様子。

なかなか先が見通せない日々が続いていますが、こんな時だからこそひたすらに自らの中にある信仰を強くしていけるように感じています。信仰を一層純粋なものとするのは自らの中に深く潜っていくことでもあると思います。それは瞑想そのものでもあります。
人生の目的である真理を実現するということ、その真理を体感する方法の1つが瞑想です。離れていても共に瞑想する仲間がいることはかけがえのないこと。共に実践することで1人で実践するよりも真剣さが増すのを実感しています。

純粋な信仰と真剣な実践があれば、誰でもどんな状況の人でも悟りが可能となる。

まだしばらくはオンラインでの瞑想会を続けることになりそうですが、『ヨーガの福音』の言葉を胸に、真剣な実践の場としてこれからも機会を持ち続けたいと思います。

ハルシャニー


瞑想会 @嵐山 シャーンティ庵

昨日、京都でも緊急事態宣言が発令されました。
年始から全国的にコロナの感染者数が増加していますが、皆さま、お元気でお過ごしでしょうか?

不安な日々が続いていますが、先日の1月10日、私の自宅である嵐山のシャーンティ庵で小さな瞑想会を行ないました。
参加されたのは、私が勤めている福祉事業所のヨーガクラスに通っているスタッフ2名の方でした。
1人の方は70代の女性で、もう1人の方は昨年に埼玉から移住してこられた50代の男性です。
お2人とも瞑想の経験は私よりも長く、長時間座ることには慣れており、その集中感に引っ張られてか、あっという間に感じた1時間の瞑想でした。

瞑想後に70代の女性は、「途中から目を開けて、(本棚にあったラマナ・マハリシの)書籍の帯に書いてある『私は誰か?』という言葉に瞑想していました」と話されました。
すると50代の男性が、「実は私は小さい頃、寝る前に『自分という存在は一体何なのか?』ということをずっと考えていました。それを考えると、宇宙を感じる時や自分がなくなっていく感覚があり、これが私の瞑想の原点なのです」とお話されました。
私自身、「この人生、どう生きていきたいのか?」とは大人になるにつれて考えていましたが、その人生の主体である「私とは誰か?」ということを真剣に考えるようになったのはここ数年のことなので、この男性の話を聞いて驚きました。
この時に話題にあがった「私は誰か?」という帯が付いていた聖典『沈黙の聖者』の中で、ラマナ・マハリシは次のことを説いています。

「私たちは自分の内部にある長年のサンスカーラ(潜在残存印象)のすべてを完全に投げ出さねばならない。それらがすべて放棄されたとき、真我(本当の自分)がひとりでに輝くだろう。しかし、あなたは努力なしにはその状態に達することはできない。それは意図的な瞑想への努力なのだ」
「真我である、注意深く観察されたスムリティ(記憶)以外には、どんな想念をも微塵だに生じさせないほど真我の中にしっかりと留まる、よく鍛えられた内在性こそが、至高の主への自己放棄を形成する」

ーーー『沈黙の聖者』ラマナ・マハリシーー

瞑想後の少しの会話でしたが、瞑想者同士、静かに深い話ができ、私自身も「私は誰か?」という問いを常にもって「本当の自分を実現したい」と改めて強く感じた、たいへん有意義な瞑想会でした。

そして一昨日の1月12日は、私が尊敬してやまないスワーミー・ヴィヴェーカーナンダのご聖誕日でした。
最後にヴィヴェーカーナンダが瞑想について述べた言葉を紹介したいと思います。

「瞑想は重要だ。瞑想せよ! 瞑想は偉大だ。それは霊的生活への近道だ。それはわれわれの日常生活における全く物質的ではないーー魂がそれ自身を思うーーしばしの時間だ。あらゆる事物から自由なーー魂のこのすばらしい感触」

ーーー『真実の愛と勇気』スワーミー・ヴィヴェーカーナンダーーー

緊急事態宣言が出されて瞑想会は当分できませんが、また状況が改善されたら皆様にもお声がけして、一緒に瞑想をしていきたいです。
1日も早いコロナの収束を願い、感染予防に努め、今はひとり瞑想に励み、「魂がそれ自身を思うすばらしい感触」を増やしていきたいと思います。
今冬は寒さも厳しいので、皆さま、どうぞお体には気を付けてお過ごしください。

ゴーパーラ


ふとした瞬間

夜勤に入る前、いつも時間調整をしている公園があります。その公園のベンチに腰掛けると、目の前には大きな田んぼが、見上げればどこまでも続く大空が拡がっています。

ほっと一息つき、心に空白が生まれるような瞬間。神に思いを馳せると、身体も心も、目の前の景色も、すべて神で満たされるような気持ちになります。田んぼから聞こえてくる蛙の声はオームの振動、電灯や星の光は純粋意識の顕れであるかのような・・・・・・ そんな時、私が憧れる境地を表わしたシュリー・ラーマクリシュナの教えが蘇ってきました。

 

水また水――

上も下も、果てしない水――

人は魚のように楽しげに泳ぐ

 

無限の大海よ、水に極みなく

その中に一つ 瓶が漂う

瓶の外も、中も水――

智者は悟る、これすべてアートマン

 

あぁ、早くこの境地を知りたい!と切に願いました。

瞑想の状態は必ずしも行儀良く座っている時に訪れるものではないと、師は言われます。集中しようという力みが抜けた――ふとした瞬間に、すっと瞑想に入れるのだと思います。だからこそ、何の手応えもなく、何の感触も得られないけど、ひたすら瞑想に座って集中し続けた時間も決して無駄ではないと思うのです。

これからもあきらめず、めげずに瞑想に座っていきたいと思います。

 

ヨーガダンダ


ヨーガ・アーサナのポイント

最近、私はサマコーナ・アーサナ(両開脚の形)をしても、お尻が地面に付かなくなりました。
プラーナーヤーマ(呼吸法)を取り入れ、アーサナの時間を減らしてサマコーナをしなくなったら、すぐにできなくなってしまいました。。😓
まぁなぜ、こんな話をするかというと、アーサナのことをちょっと話したいからです。

鴨川でデモンストレーションしていた時の懐かしい写真です〜!(2015年6月)

アーサナを10年くらい続けていると、できるポーズも増えてきます。
「ゴーパーラさんは、痛いと感じるポーズはないのですか? 最初からアーサナできたのですか?」と聞かれることがありますが、「いや、そんなことはない」と答えます。
もともと体は硬く、身体測定で前屈をしても、「マイナス17センチ」とかの記録でした。
なので、アーサナを始めてから最初の数年間は、重い身体を引きずるように行なっていました。
徐々に身体と呼吸がアーサナに慣れ始め、アーサナをすることに気負いや抵抗のようなものはなくなっていきましたが、ルーティンワークのようになってしまう時もありました。
ただそんな中、アーサナへの向上心を持ち続けるターニングポイントのようなものが、二度あったように思います。

一度目は2015年11月の『The Eternal Questー永遠の探求ー』に出演させていただいたことです。
形には慣れ、アドバンス(高度)のものも少し行なっていた時期でしたが、このイベントでアーサナと向き合ったことで、ポーズを完成させるためには、いくつかの「ポイント」があるということを実感しました。
例えばサマコーナ・アーサナ(両開脚の形)であれば、まず手にしっかりと体重をあずけ、腰を入れてお尻の位置を変えずに重心を上体の方に移行し、その重みで足を開いて踵を立てる。
心というのは厄介なもので、どうしてもお尻が地面に付くこと、つまり結果を求めてしまいます。
形や結果に執らわれずに、呼吸を調え、ポイントをしっかりと意識して丁寧にアーサナを行なう。
これは先輩がクラスで指導されていた内容でありましたが、最終ポイントに至るにはいくつかのポイントがあることを身をもって感じたのでした。

二度目は、2016年末から2年ほど行なっていただいた「師の直伝クラス」でした。
直伝クラスでの師は、細かいことはおっしゃらず、いろんなアドバンスに挑戦するように促されました。
そうすると、できないと思っていたアドバンスがスッとできるようになったり、できないものも少しでもできるようにがんばれたのでした。
シャラバ・アーサナ(バッタの形)のアドバンスができないでいる時に師は、「なかなかできひんな。でも、そのうちできるようになるやろ!」とおっしゃられることもあり、その二年間の直伝クラスは、師のお言葉や視線、クラス中の一挙手一投足が私を奮い立たせたのでした。

ヨーガの一部門のアーサナだけ見ても、師の導きは至極、積極的であります。
できていても、できなくても、前に進めてくれるダイナミックな歩みだとすごく感じます。
最近、久しぶりに私は『In The Cave With The Master』のDVDを観ました。
師はアーサナ自体が15年振り、また30年振りにしたというアドバンスのアーサナを軽々とこなしておりました。
これは本当に「驚愕」の映像です。(まだ見ていない人は見るべし!)
私は1カ月も経たないうちにサマコーナができなくなっていたので「この差はいったい何だろうか……」と思わずにはいられませんでしたが、最近読み返した『図解 ヨーガ・アーサナ 基本編』の冒頭には、

「ヨーガとは、本当の自分を実現することです」

と書かれてありました。

「過去や形には執らわれたら、ダメだな」と前向きに捉え、今はヨーガの最大の的(ポイント)「本当の自分」に一点集中を試みている最中です。

『In The Cave With The Master』『図解 ヨーガ・アーサナ 基本編』をまだお持ちでない方は、クラス休講中の折、ぜひこの機会にご覧になってください!(👈こちらをクリック)

ゴーパーラ   


インターネットの動画配信でヨーガを学ぶ!

古代の修行者たちから、「俺たちの時代なんて…」と説教じみた小言が聞こえてきそうなほどの恵まれた状況が、昨年の四月、私に与えられました。

ヨーガに出会ってまだ1年しか経っていなかった私は、『パラマハンサ会員限定瞑想専科 ヨーギーを目指して!12回コース』という力強いタイトルにやや尻込みしたものの、通常のクラスにはない動画受講コースがあり、何度でも繰り返し視聴できるというインターネットならではのメリットに惹かれて、結局受講することにしました。

このコースは熱心なヨーガ実践者に向けたパラマハンサ会員限定コースで、遠方の人も受講できるように、クラスの模様が1週間以内にYouTubeで動画配信されてオンライン受講できるコースも付加されているのが特徴です。レクチャーと45分の瞑想実習、そしてQ&Aの構成です。

会員限定というだけあって、おっかなびっくりの新参者に対する配慮など微塵もないディープなヨーガ愛が、全12回のクラス全てを貫いており、「動画視聴者は会場のプラーナを少しでも感じながら受講をするように」とのアドバイスを意識するまでもなく、毎回、モニター越しに熱いものを感じながら視聴させていただきました。

ある先輩から、今回の講師であるサーナンダさんについて、「サーナンダさんは、ラージャ・ヨーガ(王道ヨーガ)やギャーナ・ヨーガ(真知のヨーガ)の話をするときはとても知性的・論理的だが、バクティ・ヨーガ(神への信愛のヨーガ)の話をするときは敬虔なバクタ(神を信愛する者)のように喜びに溢れかえる。クラスなどでそういった話をすること自体も、聞いた人が少しでもヨーガを深めることができるようにという他者への思いに根ざしたカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)そのもので、とにかく本当に凄い方だ」という講師像を聞いたことがあります。

講師のサーナンダさん

確かに、バクティやプレーマ(真の愛)について涙ながらに語られていた第7回【グルへの愛と献身】第8回【真の愛】あたりの映像や、24の宇宙原理や真我探求についての小難しい話をされていた第6回【心を知り尽くす】第9回【真我の探究】あたりの映像を思い返してみると、改めてそのギャップの大きさを実感し、「バクタ=神の愛人」や「ギャーニー=智者」といったカテゴリーにすら執らわれない『Theヨーギー』の姿を、記憶の中のサーナンダさんに垣間見るような思いです。

第8回真の愛の動画受講の一画面

第9回真我の探求の動画受講の一画面

実際の会場にいる受講者の一人からも、「ヨギさんのことが好きだと言う人はバクティ的な瞑想をする人が多い中、誰にもましてヨギさんに惚れまくっているサーナンダさんが、何故アートマン・ヴィチャーラ(真我の探究)を中心に実践されてきているのか?」という疑問が呈されていました。サーナンダさんは、「入口が違うだけで中に入ったらどちらも一緒です」という言葉で答えられていましたが、あの師が書かれた「ヨーガ・サーラ」の結びの一文、『王道、知、神への愛、献身行為の四つの大河は各々に、また重なり合って一つの大海に流れ込む――真実在という至福の海に。』を地で行くようなご自身の様子そのものが、言葉以上にその答えを体現してらっしゃるように感じました。

永遠の真理、サナータナ・ダルマが人の姿をとってこの地上に現れてくださったのがヨギさんなら、その教えを淡々と黙々と実践し続ければどうなるかを人の姿をとって示し続けてくださっているのが、サーナンダさんを始めとする諸先輩方の皆さんだと言っても過言ではないでしょう、多分。事実、ヨーガを真剣に教え真剣に学ぶ先輩方の姿が映し出された動画を見るたびに、実践に対する信頼と情熱が私の心に湧いてきたものです。

先にも述べたとおり、1年前はそれほどの覚悟を持って受講を決めたわけではありませんでした。この覚えの悪い頭に動画受講コースのメリットを生かすべく、繰り返し視聴しながら教えの部分を文字に起こしてみたものの、結局それに満足してそれっきり読み返さなかったり、何回かの瞑想実習の時間は、1クリックで簡単にスキップできる利便性がよろしくない方向に作用したりと、まったく私らしい体たらくです。
しかし、1年間の動画受講を通して、モニター越しに現代でヨーガを実践しているヨーガ行者の姿を繰り返し見続けた結果、たとえ教えの内容は覚えていなくとも、その姿自体の印象は色濃く残りました。またその印象に、こんな私をして(今のところ)一日最低一時間、瞑想の座に着かせる力があったことは、受講前には想像だにしていなかったことです。

実際のクラスでの瞑想シーン(最終回)

最終回【永遠の真理】でのサーナンダさんは、強力なカルマの中にある我々がヨーガの道を歩もうと思い立ったこと(一年前、第1回【真理】の動画内でおっしゃっていた『発心』)を奇蹟と称されました。
思い返せば、「何のために生きているのか、人生の目的は何なのか」と悩んでいた2年前の私が、インターネットを介してヨーガと出会い、そして今、『真実を悟ること』を人生の目的としてヨーガを実践しているのです。まったく、涙がちょちょ切れるほどの奇蹟です。

さらにサーナンダさんはこうおっしゃいました。「自分自身の中に真実があるということ、自分自身が真実そのものであるということの自覚が少しでも起こったなら、この世の中で何が起ころうと何ひとつ影響を受けない。外の世界に求めるものは何ひとつ無くなる」と。
この世の中で起こることに逐一影響を受け、外の世界に求めるものが百八つある私にとっては耳が痛いところもありますが、この言葉が一層身につまされるような昨今の現状に対して、一年間の動画配信クラスを学び終えた今の私は、淡々と黙々と実践し続けるという態度で応じなければなりません、ヨーギーを目指す者として。

第10回【理想を行動する】の映像で、「志は行動し、実現しなければならない」という言葉が紹介されていました。この1年間で私が最も意識したのも理想についてです。ヨーガに出会えたものの、ヨーガがなかなか深まらないという思いに執らわれていたとき、そもそも自分の理想や志が明確とは言えないことに気付きました。
無知があるからこそ真実を悟ることを目的とするのが道理なのに、その目的たる真実は、無知があるうちはどうしても漠然としたものであり続けるのもまた道理なのです。ヨーガを深めるためには理想を明確にすることが先決なのだと感じました。しかし、理想について考えてみると程なく、理想を明確にするためにはヨーガを深めなければならないとの答えが浮かんできました。…頭の中まで輪廻です。
こうして、結果堂々巡りに終わるような無力な思考に頼っていた今までの傾向は、徐々に力を失っていきました。そして、映像の向こうの現代のヨーガ行者の姿に、思考では結論の出なかった理想の片鱗を見て取り、実践をもってヨーギーを目指すという決意に至ったことが、この1年間における私の中の最も大きな変化なのかなと思います。

曰(いわ)く、この時代の特異性はインターネットとのことですが、そのおかげを蒙(こうむ)って、動画配信という形でヨーガの教えに触れ続けることができた一年間でした。
ありがとうございました。

深水晋治/松山市


識別とヴィヴェーカーナンダ(最終回 )& 今年の締め括り

2019年も残すところ、あと2日になりましたね。
皆さま、年末をいかがお過ごしでしょうか?

さて、今年の私の目標は「徹底識別」ということで、この「識別とヴィヴェーカーナンダ」の連載をスタートさせ、ヴィヴェーカーナンダ、おもにその著作『ギャーナ・ヨーガ』を通して、識別を学んでいきました。
また同時に、私自身の心が執着している世界の対象と、それに対する心の動機というものにも「常浄楽我」という真理を当てがって識別を行ない、世界と心の働きにリアリティという実在性がないことを見極めていきました。
しかし依然として、心には「私」と主張するエゴ意識があり、どのようにしてエゴ意識がなくなるのか分からず、識別も難航していました。
そんな時、10月のサットサンガで師にその打開について尋ねると、師は大きなヒントを与えてくださいました。
それがサーンキヤ哲学が説く二十四の原理ーーエゴ意識が発生する前段階の「ブッディ(認識)」ーーその教えです。

「アハンカーラ(エゴ意識)のもう一つ始まりにあるブッディ(認識)というものだけれど、このブッディがすべてのナーマ・ルーパ(名前・形)をつくり出す原因になっている。だから必然的に私意識の源にいけば、そのナーマ・ルーパというものの正体というか、それの根源の方に行き着くことになって、ナーマ・ルーパというものもこの世界が展開するときに発生したものだから、それらは消えていくことができます。消えていくというのは、プラクリティという根源にそれを引き戻すという、実際には消えていくという関係です」

この教えを聞いて、「ブッディ(認識)があるから自分と他者、世界の区別ができ、エゴが成り立ってくるのか」と感じ、目から鱗でした。
そこで私は、エゴ意識に常浄楽我を当てがうということから、エゴが出てくる源のブッディ、そしてプラクリティを辿っていく二十四の原理の瞑想を行なっていきました。それと同時に、二十四の原理の教えと類似している十二因縁の瞑想も行ないました。
その瞑想を続けていくうちに、心にゼロがかけられていく感覚が起こったり、また心を辿っていくと最後に残るのはプラクリティの根源であるカーリー、オーム、師のお姿という感触がありました。
そして忙しい合間、ただ階段に腰掛けて休憩していた時、この識別瞑想を行なうと、心そのものが解体されていく実感がありました。それは家が崩れていくようなものでした。
それからは不思議と、心自身がリアリティという実在性を失い、心の思いに執らわれることが一気になくなっていきました。
そして『ヨーガの福音』の師の教えの一節が自然と思い出されました。

「『複合物』はすべて生まれ、変化し、消滅するということです。『単体』なるものは初めから生まれもしないし、なくなりも変化もしない。それのみが実存しています。実体は永遠なのです。それが私たちの本当の自己であり、神、真理です。それだけを求めなさい。そして実現しなさい。あなた自身なのですから」

人生の主人公は解体されるような心ではない、その奥に在る壊れることない本当の自分、アートマンであります!
心に実在性がないと分かった今、私の心はアートマンに向かっています!!
2019年、この年も師の大いなる導きに誘っていただいたと確信した1年でした。
最高の師シュリー・マハーヨーギーに感謝致します。

ゴーパーラ