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心をピカピカに磨く!

ヨーガを実践する上で、大切にしている教えがあります。それは、「真実は既に自分の中にある」ということ。ヨギさんはこの教えを繰り返しおっしゃってくださいますが、耳にする度に胸が高鳴ります。この真実があるから私は生きているんだ!ハートの奥底から力がみなぎってくるのです。
ところが日常生活を送っていると、いつの間にかこのことを忘れてしまい、目の前のことに振り回されてしまっていることに気付きます。クラスやサットサンガが休止状態になってからは、この教えで胸がいっぱいになっている時よりも、忘れている時の方が多くなっていました。だから言い聞かせるように心の中で唱えるようにして、唱えること自体を忘れてしまうことがあっても気にせずに可能な限り続けていました。
そうして過ごすうちに、「真実は既に自分の中にある」ことを忘れてしまう原因に思い当たりました。

それは、「真実」が本当に自分の中にあると信じられていないからなのではないか?
自分には無理…まだできない…そういった心の思いが、曇ったガラスのように真実を覆って見えなくしているからではないかと思いました。

「真実」は物体のように手を伸ばして掴めるわけではありません。
真実は掴むものではなくて、体感するもの。体感するためには、心の思いで曇ったガラスをピカピカに磨いて綺麗にすることが必要なのではないかと思い至りました。

では、どうすれば曇ったガラスを磨いて綺麗にできるのか?
何か手がかりはないかと、これまで参加したクラスやサットサンガの中で印象に残って自分で書き留めたメモ、聖典、等々、これまで以上に意識して読み返しました。そうしている中で、『ヨーガの福音』のある一文が目に飛び込んできました。

”心も複合物です。エゴや知性や想念や記憶などさまざまなものによって成り立っていますから。
心は心のためにあるのではなく、他者のためにあるのです。主人である本当の自己のためです。”

何度も何度も読んで十分に知っているはずなのに、今回初めて胸の中にすぅーっと入ってきて、ストンと音がしたと感じるほど、腑に落ちました。

心は主人である本当の自己のためにある。これこそが「真実」であり、これだけを信じて進むのみ。他の思いは一切いらない!
曇ったガラスをきれいに磨き上げるには具体的に何をすればいいのか、数日間ずっと考え続けているうちに、自然と心が「真実」に集中されていたのかもしれません。
自分で勝手にいろいろ考えて自信をなくしたり、できないと諦めたり、心というのは本当に厄介なものだと手を焼くところがあったのですが、何かに依りかかることでしか存在できないようなものだから、たいしたことではないと感じられました。そして心を構成するものをエゴに依るものではなく真実に拠るものにすればいいだけ。そう思えるようになりました。

「真実」は 純粋そのもので、普遍的なもの、永遠に変わらないものです。
対してエゴから生まれる思いは純粋ではありません。それは人によって異なるし、過去に経験してきたことなどによって物事を判断するので、その時々の条件で変化します。
条件によって変化する「私」というエゴ意識をなくすことができれば、心の思いは純粋なものとなり、「真実」に近づくことになります。
これも何度も繰り返し教わってきたことですが、エゴをなくそうと頑張ってもなかなか簡単にはいきません。自分が憧れている具体的な存在だったり、聖典の言葉1つだったり、まず1つのことを足がかりにしてそれに倣うようにすることで「真実」へ近づき、一点集中へと繋がる。それが曇ったガラスを磨いて綺麗にする行程ではないか。ガラスを磨いて綺麗になった暁には「私」という思いはなくなり、覆い隠されていた「真実」がありありと見えるようになるのではないかと感じました。

真実がクリアに見えるようになると、真実という対象が明確になり、自分がどう行為すべきかも明確になる。それ(真実)しか見えなくなったら、どのような手段を取ってもそこに辿り着ける。最終的には覆っていたガラスが砕け散って真実と一つになれる。
身体の奥底から、強い確信のようなものが湧いてきました。

いつも私たちを真実へと力強く辛抱強く導き続けてくださっている、ヨギさん。
時間や距離は何も関係ないと、そのお姿が目の前にある時もない時も、常に私たちと共にある
と言ってくださっていますが、ヨギさんが力強く真実へと手を取り引っ張ってくださったよう
に感じた出来事でした。

きっとグルバイ(兄弟姉妹弟子)のみなさんもそれぞれの場所でヨーガの実践を続けられていることと思います。
今は一人一人が自分と向き合い、すでに学んだことを淡々と実践する時期なのかもしれません。
みんなで集まれる機会はまだ少し先になりそうですが、今できることをやり続けつつ、少しでも成長してその日を迎えられたらと思っています。

 

ハルシャニー


子育ても家事も仕事もぜんぶがヨーガになる!

ママ・ヨーギニーの皆さま、今年の春休みはとーっても長いですね!毎日いかがお過ごしですか?まだ小さなお子さんがいらっしゃるお母さんはお休みなど関係なく、ずっとお子さんと一緒という方もおられることでしょう。外出を控えて家族みんなが家にいる時間が増えた方も多いのではないでしょうか。そうすると、必然的に家事が増えますよねー。あり余る子どものパワーを分けて欲しいくらいですが、大人にはホッとできる静かな時間も必要ですよね。もちろん、家族との時間がゆっくり取れるいい機会だという方もおられると思います。

私が横浜の方で担当させていただいているヨーガサークルも、先月から新型コロナウィルスの感染防止の為にお休みが続いています。先日、皆さんにご様子をお伺いしたところ、クラスに15年以上通われている小6中2高2の三人のお子さんがいらっしゃるお母さんから「ストレス・マックスです」とお返事が返ってきました。そしてその続きには「少しでも自分の時間を作ってアーサナをしたいと思います。皆さん、頑張りましょう!」とありました。長年続けてこられている方だけあってさすがだなぁーと、とても励まされました。

瞑想中の横浜のヨーガ・サークルの皆さん

私には今社会人と高校生の娘がいますが、実は子育て真っ只中の頃、自分の時間が取れず「ヨーガなんて出来ない!」と諦めていた時期があります。その頃はまだマハーヨーギー・ミッションにも師にも出会っておらず、ヨーガ=アーサナ(ポーズ)や呼吸法をすることだと思っていたのです。今、振り返るといつでもヨーガは出来たのに…と、少し勿体ないような気持ちになります。

例えば、ラージャ・ヨーガの一番始めにあるヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)は、日常生活の中でこそ行なわれるべきとても大切な基本の教えですし、家事や仕事、また一番身近な家族や自分の周りの人に対しての日々の行為をカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)にすることが出来ます。

そして、何よりも師に教えていただいたバクティ・ヨーガ(神への信愛のヨーガ)をその頃に知っていたら!聖典を読む時間がなくても、ベイビークリシュナにそうするように喜んで娘たちに絵本を読んで、子守唄にはキールタンを歌ったことでしょう。仕事から疲れて帰宅した夫をクリシュナを見るラーダー(クリシュナの愛人)のような笑顔で出迎え、時折、カーリー女神のように我を忘れ地球を破壊するほど怒って、うっかり夫を踏んづけてしまいそうになっても!?ハッと我に返り、ペロッと舌を出してすぐ素直にごめんなさいと言えたことでしょう!

幼子クリシュナ神と養母ヤショーダ。神を愛する態度の一つに、母が子を愛するように、神を我が子のように愛する母親の態度があります。クリシュナは偉大な神の化身でしたが、恩寵によってヤショーダは神の偉大な面ではなく、ただ愛しい我が子を愛するように、愛そのものである幼子クリシュナを愛し献身したのでした。

カーリー女神は悪魔の軍勢(人間の無知)との我を忘れるほどの激しい戦いに勝利し、その歓喜の踊りで大地が破壊されそうになりました。そこで夫のシヴァ神がカーリーの足元に横たわり自らがクッションに!夫を踏みつけたカーリーはやっと我に返りペロリと舌を出しました。

ヨーガでは、この世界のすべてに神が顕現していると言われます。たとえ、今の私にまだそれを見ることが出来なかったとしても、どんな時も全てのものの中に神を見よう、見たい!と思う時、子育ても家事も仕事も、家族や周りの人との関わり方に至るまで、毎日の生活全部がヨーガになっていくのだなぁと、感じています。

今、世界中が先の見えない状況にありますが、私の師は「どんな時でも、誰にでもヨーガは出来ます」と教えて下さいます。その時その時、それぞれの人の置かれた立場の中で実践出来ることが必ずあると思います。一人一人別々の場所にいたとしても、共にヨーガを学び、共に実践していきましょう!

シャルミニー/東京


インターネットの動画配信でヨーガを学ぶ!

古代の修行者たちから、「俺たちの時代なんて…」と説教じみた小言が聞こえてきそうなほどの恵まれた状況が、昨年の四月、私に与えられました。

ヨーガに出会ってまだ1年しか経っていなかった私は、『パラマハンサ会員限定瞑想専科 ヨーギーを目指して!12回コース』という力強いタイトルにやや尻込みしたものの、通常のクラスにはない動画受講コースがあり、何度でも繰り返し視聴できるというインターネットならではのメリットに惹かれて、結局受講することにしました。

このコースは熱心なヨーガ実践者に向けたパラマハンサ会員限定コースで、遠方の人も受講できるように、クラスの模様が1週間以内にYouTubeで動画配信されてオンライン受講できるコースも付加されているのが特徴です。レクチャーと45分の瞑想実習、そしてQ&Aの構成です。

会員限定というだけあって、おっかなびっくりの新参者に対する配慮など微塵もないディープなヨーガ愛が、全12回のクラス全てを貫いており、「動画視聴者は会場のプラーナを少しでも感じながら受講をするように」とのアドバイスを意識するまでもなく、毎回、モニター越しに熱いものを感じながら視聴させていただきました。

ある先輩から、今回の講師であるサーナンダさんについて、「サーナンダさんは、ラージャ・ヨーガ(王道ヨーガ)やギャーナ・ヨーガ(真知のヨーガ)の話をするときはとても知性的・論理的だが、バクティ・ヨーガ(神への信愛のヨーガ)の話をするときは敬虔なバクタ(神を信愛する者)のように喜びに溢れかえる。クラスなどでそういった話をすること自体も、聞いた人が少しでもヨーガを深めることができるようにという他者への思いに根ざしたカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)そのもので、とにかく本当に凄い方だ」という講師像を聞いたことがあります。

講師のサーナンダさん

確かに、バクティやプレーマ(真の愛)について涙ながらに語られていた第7回【グルへの愛と献身】第8回【真の愛】あたりの映像や、24の宇宙原理や真我探求についての小難しい話をされていた第6回【心を知り尽くす】第9回【真我の探究】あたりの映像を思い返してみると、改めてそのギャップの大きさを実感し、「バクタ=神の愛人」や「ギャーニー=智者」といったカテゴリーにすら執らわれない『Theヨーギー』の姿を、記憶の中のサーナンダさんに垣間見るような思いです。

第8回真の愛の動画受講の一画面

第9回真我の探求の動画受講の一画面

実際の会場にいる受講者の一人からも、「ヨギさんのことが好きだと言う人はバクティ的な瞑想をする人が多い中、誰にもましてヨギさんに惚れまくっているサーナンダさんが、何故アートマン・ヴィチャーラ(真我の探究)を中心に実践されてきているのか?」という疑問が呈されていました。サーナンダさんは、「入口が違うだけで中に入ったらどちらも一緒です」という言葉で答えられていましたが、あの師が書かれた「ヨーガ・サーラ」の結びの一文、『王道、知、神への愛、献身行為の四つの大河は各々に、また重なり合って一つの大海に流れ込む――真実在という至福の海に。』を地で行くようなご自身の様子そのものが、言葉以上にその答えを体現してらっしゃるように感じました。

永遠の真理、サナータナ・ダルマが人の姿をとってこの地上に現れてくださったのがヨギさんなら、その教えを淡々と黙々と実践し続ければどうなるかを人の姿をとって示し続けてくださっているのが、サーナンダさんを始めとする諸先輩方の皆さんだと言っても過言ではないでしょう、多分。事実、ヨーガを真剣に教え真剣に学ぶ先輩方の姿が映し出された動画を見るたびに、実践に対する信頼と情熱が私の心に湧いてきたものです。

先にも述べたとおり、1年前はそれほどの覚悟を持って受講を決めたわけではありませんでした。この覚えの悪い頭に動画受講コースのメリットを生かすべく、繰り返し視聴しながら教えの部分を文字に起こしてみたものの、結局それに満足してそれっきり読み返さなかったり、何回かの瞑想実習の時間は、1クリックで簡単にスキップできる利便性がよろしくない方向に作用したりと、まったく私らしい体たらくです。
しかし、1年間の動画受講を通して、モニター越しに現代でヨーガを実践しているヨーガ行者の姿を繰り返し見続けた結果、たとえ教えの内容は覚えていなくとも、その姿自体の印象は色濃く残りました。またその印象に、こんな私をして(今のところ)一日最低一時間、瞑想の座に着かせる力があったことは、受講前には想像だにしていなかったことです。

実際のクラスでの瞑想シーン(最終回)

最終回【永遠の真理】でのサーナンダさんは、強力なカルマの中にある我々がヨーガの道を歩もうと思い立ったこと(一年前、第1回【真理】の動画内でおっしゃっていた『発心』)を奇蹟と称されました。
思い返せば、「何のために生きているのか、人生の目的は何なのか」と悩んでいた2年前の私が、インターネットを介してヨーガと出会い、そして今、『真実を悟ること』を人生の目的としてヨーガを実践しているのです。まったく、涙がちょちょ切れるほどの奇蹟です。

さらにサーナンダさんはこうおっしゃいました。「自分自身の中に真実があるということ、自分自身が真実そのものであるということの自覚が少しでも起こったなら、この世の中で何が起ころうと何ひとつ影響を受けない。外の世界に求めるものは何ひとつ無くなる」と。
この世の中で起こることに逐一影響を受け、外の世界に求めるものが百八つある私にとっては耳が痛いところもありますが、この言葉が一層身につまされるような昨今の現状に対して、一年間の動画配信クラスを学び終えた今の私は、淡々と黙々と実践し続けるという態度で応じなければなりません、ヨーギーを目指す者として。

第10回【理想を行動する】の映像で、「志は行動し、実現しなければならない」という言葉が紹介されていました。この1年間で私が最も意識したのも理想についてです。ヨーガに出会えたものの、ヨーガがなかなか深まらないという思いに執らわれていたとき、そもそも自分の理想や志が明確とは言えないことに気付きました。
無知があるからこそ真実を悟ることを目的とするのが道理なのに、その目的たる真実は、無知があるうちはどうしても漠然としたものであり続けるのもまた道理なのです。ヨーガを深めるためには理想を明確にすることが先決なのだと感じました。しかし、理想について考えてみると程なく、理想を明確にするためにはヨーガを深めなければならないとの答えが浮かんできました。…頭の中まで輪廻です。
こうして、結果堂々巡りに終わるような無力な思考に頼っていた今までの傾向は、徐々に力を失っていきました。そして、映像の向こうの現代のヨーガ行者の姿に、思考では結論の出なかった理想の片鱗を見て取り、実践をもってヨーギーを目指すという決意に至ったことが、この1年間における私の中の最も大きな変化なのかなと思います。

曰(いわ)く、この時代の特異性はインターネットとのことですが、そのおかげを蒙(こうむ)って、動画配信という形でヨーガの教えに触れ続けることができた一年間でした。
ありがとうございました。

深水晋治/松山市


心動かされる真実の言葉〜パラマハンサより

マハーヨーギー・ミッションの機関紙『パラマハンサ』。その冊子を初めて手にしたのは、一受講生としてアーサナ・瞑想クラスに通ってまだ間もない頃でした。聞きなれない真理の言葉やインドのサンスクリット語、未知なるヨーガの世界に一瞬戸惑い、頭の中ははてなマークでいっぱいでしたが、とにかく何回も繰り返し読みました。 

そしてその中で、師の「ヨーガは普遍的である。普遍ということは無差別に、あらゆる人にとって共有できる内容を持っているということです。——その教え、方法について。当然、その真実は同じ、一つです」という言葉に目が止まりました。その時、自分にも道が開かれているのを感じ、これからもっとヨーガを学んでいこう!という気持ちが起こったことを覚えています。

『パラマハンサ』を頼りにしながら、私は心を見つめる作業を続けていきました。実践してきた人の経験談には説得力があり、それぞれの人の人生を変えたヨーガとの出会い、師と弟子の物語はとてもドラマティックに感じられました。また苦悩や葛藤を乗り越えながら道を突き進む姿に共感し、とても励まされました。そして何より、さまざまな人が投げかけるあらゆる疑問に対して、優しく、力強く、シンプルに語られる師の言葉に何度も心を動かされ、確かな真実を感じてきました。

久しぶりに紙面を開いてみると、かつて大きな衝動を与えられた師の言葉が、再びみずみずしくハートに流れ込んできました!

この道のりが遠いように思ってはいけません。なぜならその真実がどこに在るかと言えば、自分の中に在るのですから。それがなければ皆さんはこうして肉体も持っていらっしゃらないし、この仮の存在すらもなかったのです。こうして在ること自体が、すべてにその「真実」が、「存在」が在るという証拠なんですよ。だから素直に、単純に、ひたすらそこに瞑想を深めていく、進めていくことで、その真実が体験されます。そうしてそれに目覚めます。
——シュリー・マハーヨーギー

パラマハンサ中面

何度も読んだ『パラマハンサ』31号(2002年発行)

 『パラマハンサ』はまさにリアルな聖典だと思います。それは遠い過去のお話ではなく、今、現代に繰り広げられている師と弟子の真摯な問いと答えが、ヨーガを実践する人たちのありのままの体験がそこにあるから。そして、1997年の発刊当時から諸先輩方によって紡がれてきた熱、信念が込められています。

今はインターネットの時代ですが、紙の媒体で文字を読むのも味わい深いものがあります。(と言いながらいつかオンラインになる日もあるかもしれませんが)。難しく、読み進められなかったコーナーがあっても、時が経って再び開いてみると、不思議と新鮮な気付きがあったり、すとんと胸に落ちたりということもあります。
春から定例サットサンガが開催できず、全クラスも休講中という状況ですが、この期間に私も少しずつバックナンバーを読んでいきたいなと思いました。
またクラス受講者の方などにも、ぜひこの機会に『パラマハンサ』を手にし、少しでもお家でヨーガに触れる時間をもっていただけたら嬉しいです。

パラマハンサ

インド細密画を神話とともに紹介するページやヨーガの料理「さまらさ」のコーナーもあり。

マードゥリー

追伸。少し次号の予告を〜。5月発刊の139号は、厳選されたサットサンガの記録や、今回師が渡米されていた際にニューヨークに滞在した日本の弟子たちの手記も掲載予定です! お楽しみに〜。

*2020年度の新規パラマハンサ会員を募集中です。
詳しくはこちら

桜を追いかけるように一気に芽吹いたもみじの若葉(プレーマ・アーシュラマより)


何があっても淡々と黙々と!

想いが溢れる。
ヨーガを実践にするにつれ、時に強烈にそれが起こるようになりました。
ヨーガに出会う前は、その時々の感情が昂り、爆発してしまうこともありました。嬉しい、腹立たしい、悲しい・・・種類は違えど、感情が昂っておさまった後に残るのは虚しさが多かったように思います。
今も感情が昂ることがなくなったわけではありませんが、以前のような感覚とは異なる想いが湧いてくることがあります。胸の奥がじーんとするような、それは愛しいような感じもするし、ひと言では言い表せない感じ。その想いがあるだけで揺るぎのない安心を感じるというか。胸の奥から自ずと湧き上がってくるものが、ただ在る、という感覚です。
その想いが強く溢れ出てくるのは、師であるヨギさんのお姿を目の前にしている時。お姿は見えなくてもヨギさんのことを想う時。そして、ともに学び実践しているとグルバイ(兄弟姉妹弟子)と一緒にいる時。

東京では、2月末から新型コロナウイルス感染症の影響で、グルバイと会うこともままならない状況となりました。クラスもなく、こんなにも長く誰とも会えないのは初めてのことです。

また、私は鍼灸師として働いていますが、心身共に不安定になった患者さんと接することが急に多くなりました。こんな時こそぶれないよう淡々と、と意識はしていても、強い不安感に引っ張られそうになる瞬間が度々ありました。

そんな時、受講中の瞑想専科の配信動画を観ました。

2月22日に開催された会員限定瞑想専科のYouTube動画配信クラスの一画面

テーマは「ヨーギーの生き様」。
今回は最初に瞑想だったので、45分間座につきました。
日中だったので周りの音が気になりましたが、ひたすら胸の奥一点に集中するよう努めました。ここしばらく長く座る時間を取れないまま過ごしていたこともあり、落ち着きのない心との格闘が続きました。決して集中できたとはいえない45分間でしたが、自分の中の軸のようなものが一筋通ったような感覚がありました。

瞑想に続いて講座が始まりました。
ヨギさんの教えは比類のない叡智。真理を糧に生き、人を導き救済する。そこから一瞬もぶれない生き方をされている。その生き様を見せてくださっている。私たちはどれだけヨギさんの生き様を感じられているか。
PCの画面越しですが、いろんなものが一気に伝わってきました。
「ヨギさんは、淡々と、黙々と、それを実行され続けている。何が起きてもまったく惑わされず、ただ同じように淡々と黙々と…。」
それを聴いた瞬間、涙がどっと流れました。久しぶりに、大泣きしました。そして自分の中に鬱々と溜まってきたものが何もなくなったと感じました。

白いダリアの花。サハスラーラ・ チャクラのようで、眺めているだけで穏やかになり、胸の奥に集中が起こりました。

ヨギさんは常々時間も空間も関係ないとおっしゃっています。
分かっていても、ヨギさんにお会いする機会がなくなり、クラスなどでグルバイにも会えなくなると、モチベーションを保ち続けるのが厳しくなってきていました。
そんな中、この動画が一気にいろんなものを吹き飛ばしてくれました。
そうして、胸の奥にただ在る感覚が戻ってきました。ヨギさんはいつでもここにいらっしゃってくださること。真理はいつでもここに既に在ること。同じ真理への道を歩んでいるグルバイの存在がいつでも共にあること。想いが溢れて、次の一歩を踏み出す原動力となりました。

この瞬間もヨギさんはヨーギー/ヨーギニーの生き様を見せてくださっています。私たちはどれだけその生き様を感じ取ってそこに迫れるのか。何が起きても、淡々と黙々と。今こんな時だからこそやるべきだし、より集中して迫っていけるのではないでしょうか。

ハルシャニー

*クラス体制の変更に伴い、3/29より東京クラスの Webサイトがリニューアルします。それに合わせて東京ブログメンバーだったハルシャニーとシャルミニーが新たにこちらのブログメンバーに加わります。


春の風を受けて

新型コロナウィルス感染の影響で、うちの娘は学校が休校となって家で過ごす毎日でした。お菓子作りをしたり、集中してじっくり本を読んだり、普段なかなかできないことが出来ていたようです。非常事態の中、比較的のんびりと過ごしている娘を見て、先輩グルバイがずいぶん前に仰っていた言葉を思い出していました。

ヨーガ行者はどんな時代が来ても、影響されない

どのような話からこの言葉をお聞きしたのか、今回は割愛させて頂きますが、この言葉を聞いたとき、ヨーガ行者というのは常に内面で満たされているから自分の外側に幸福を求めようとしない、世間の動揺とはまったく無関係のところで生きるということなんだな、と思いました。気持ちが揺らいでいるということは、逆に儚いところに喜びを求めてしまっているということになりますし、そういう時こそ、いったいどこに真のリアリティがあるのかを真剣に、緻密に探求せねばならないと思ったのでした。

朝、自転車を漕いでいると、ふわっと優しい風が吹いてきました。どこからか沈丁花の甘い香りが漂ってきて、ラーマクリシュナの聖句を思いました。

葉っぱが動くのも、それも神のご意志によるもので、あのお方(神)のご意志なしには、一枚の葉も動くことは出来ない。

ああ、神のご意志がないと葉っぱを揺らす風も吹かない!目にも美しい花も咲かないのだ!と思うと神の存在がとても身近に感じられて嬉しく思いました。

もっともっと私の内面が神で充満していけば、その歓びは周りの人たちにも良い影響が与えられるのではないかと思いました。私のするべきことは明らか!神を思い続けることです。

京都では少し桜の花が開いてきました

アマラー


純粋な愛

「光陰矢の如し」と言いますが月日の経つのは早いもので、ヨーガを学び始めてから、もうずいぶんと時が経ちました。ヨーガの師と巡り会った頃、見るもの、聞くものがすべて新鮮で、心はその教えに惹きつけられ、すぐに虜になりました。それから、いろいろな問題がスムーズに解決し、めまぐるしく変わる環境の中で、心はどんどん新しい世界を受け入れ、軽やかに自由になっていったのでした。
でも月日が経ち、淡々と日々を暮らす中で、真実はいつになったら実現できるのか、思うような結果をみることができない自分は、何か進歩の証がほしいと思うようになりました。しかし、そんな悪魔のささやきには耳をかさず、自分の内にあるという真実だけを頼りに、心を正していくということも繰り返し、繰り返し行なっていました。
そういうふうに悶々としていたある日、シュリー・ラーマクリシュナの教えが再び頭の中に蘇ってきました。

「追い風は常に吹いている。自らが帆を上げるだけだ」

 最初の頃、この教えに背中を押され、勇気を出して小さな帆を広げ、師の下に飛び込んでいったのでした。その追い風は間違いなく確かに、真実の方向に私を進めてくださった、そうなんだ、私は今だって、この追い風の中で、もっと大きな帆を上げて、スピードをあげていくこともできるのだと改めて気付かされました。私はやっと、状況が困難にならないように、真実へ向かっていけるように、師がいつも影になり日向になり、どんな時も辛抱強く、私を見守り、愛をもって、支え続けてくださっていることに気がつきました。その師の純粋な愛を見つめていた時、私は自分の中の愛をも見つめることができたのでした。いつの頃からか私は師を愛し始め、そして今ではこんなにも愛しているんだと自覚し、そんな自分に自分が驚いたのでした。その純粋な愛の力を信じ、これからも淡々と精進していこうと思います。 

もっともっと師を、神を、愛することができますように。
オーム タット サット オーム

Satguru shri Mahayogi Paramahamsa
Painted by Saci

ダルミニー


深水会

誰が呼んだか「深水会(ふかみかい)」。
これは、齢(よわい)四十を超えて料理の一つも出来ず、かつヨーガに出会った後もなお食に対して無頓着な不届き者に、一からその教えや習慣を叩き込むための、いわゆるお料理教室の呼称なのです。
食べる物・時間・量に何の配慮もせず、料理の煩わしさから数十年に渡り逃げ続けていた私の首根っこを、神は遂に捕らえられたのです。

私の食に関する価値観を叩き直すために遣わされたのは、会の企画と料理指導をしてくださるアミティさん、食材の準備や料理の補助、洗い物など様々なサポートをしてくださる山口正美さん、出来上がった料理を食べてやや大げさに褒めてくださるアーナンディーさん、の3人のお姉様方。

左から、アミティさん、山口さん、アーナンディーさん。

ヨーガを始めて一年余りだった当初の私には過ぎたる布陣に思え、初回はしっかり委縮しておりましたので、正直一回こっきりかなと思っていましたが、気付けばこの会の開催も、昨年7月の第1回を皮切りに、既に6回を数えるに至りました。
カレーに始まり、オムライス・パスタ・天ぷら・湯豆腐・蕎麦と、おそらく独身アラフォー素人男子という条件を考慮して決めていただいたメニューを、この隙のない布陣が、諭したり鼓舞したり褒めたりとあの手この手で素人の私に手ほどきしてくださいます。
さらに教わるのは料理だけではなく、肉体を持ってこの世に生まれた我々が、米や野菜などの食材の命をいただきながら身心を調えヨーガを完成させてゆく、そのためにはいつ何をどのくらい食べるべきかは自ずと決まってくるといった、ヨーガにおける食の捉え方なども一から丁寧に教えてくださいます。

おかげさまで徐々にではありますが、私の食生活にも変化が現れ始めてきました。今年の年明けをさまらさの台所で教えていただいた手作りおせちで迎えることができたり、と。このような勢いのまま、これからも最低限の料理の習得と食に関する価値観の改善を図りたいという思いはもちろんあります。

一方で最近は、私が本当に学ぶべきは、素人のおっさんに一から料理を教えるというこの意味不明な役割を、嫌な顔一つせず、普段の先輩方と何ら変わらない優しさで淡々と果たす、この他者への奉仕の姿勢そのものなのではないかと思うことがあります。料理はある意味方便で、ご指導の本命は行為のヨーガなのではないかと。
ヨーガを始めてからよく耳にするようになった「他者への献身奉仕」という言葉の意味を、この料理の会での先輩方を通して、私はまだまだ分かっていなかったのだと痛感します。この献身奉仕のお手本を奉仕される側から目の当たりにしている私には、同じヨーガを学んでおきながらいつまでこちら側に甘んじているのか、という葛藤が生まれつつあります。
この葛藤には、インスタント食品コーナーから生鮮食品コーナーへと私の踵(きびす)を返させる力はもちろんのこと、ひいては、カルマの道(私)からヨーガの道(あなた)へと踵を返させる力も秘められているように感じます。
そんなこんなで、いよいよ自分が甘えていられる時間も残り少なくなりつつあるなという予感のもと、これを腹をくくるまでの猶予と捉えて、何かにつけてカルマの道に引き込まれがちな低次な傾向と袂(たもと)を分かつ覚悟を、今の内に養っておこうと決意を新たにする次第です。
以上が、私がこの料理の会を通じて教えていただいていると感じているところです。

まぁ時間切れまではしっかり甘えようかという不埒な思いともじゃれ合いつつ、第7回深水会のメニューに思いを馳せる、今日この頃の私でした。

深水晋治


ラーマクリシュナの例え話

梅の開花便りが聞かれ、日差しに春の訪れを感じますね

久しぶりに「ラーマクリシュナの福音」を手に取り、パラパラとページをめくっていると、私の好きな例え話が目に入ったので、ご紹介します。

ラーマクリシュナは、誰にでもわかるように、目に見えない真理や神を分かりやすい例え話にして教えを説かれることがあります。「どのようにしたら真理を実現できるでしょうか」と言う信者からの問いに対して、このように答えておられます。

「祈ることによってすべての魂はあの至高の霊と一体になれるのだ。どの家にもガス栓がつけてある。ガス会社からガスがくるようになっているのだ。だから、申し込め!申し込みさえすればガスをよこす手配をしてくれるだろう。部屋に明かりがつくだろう。シアールダハに事務所があるよ(一同笑う)」

おそらくシアールダハは実際にガス会社のある場所の名前ではないでしょうか。ユーモアがありますね。私はこれを読んだ時とても素直に「そうや、申し込まなあかん」と思ったのですが、それにはある経験が関係しています。

私は少しの期間ですが外国に住んだことがあります。知り合いがいなかったので、自分で住む部屋を探し、契約し、家具を揃え・・・ととても大変でしたが、屋根裏にある小さな部屋に落ち着きました。お茶でも飲むかとガス栓をひねったとき、ガスがきていないことに気が付きました。水道も電気も申し込みしなくても(おそらく大家さんがしてくれていた)そのまま使えることになっていたので、ガスについて聞くことをすっかり忘れていました。なぜかそのとき、私は備え付けのガスコンロの方に不備があると思い、大家さんに電話するも繋がらず、どうしようかと思っていると、隣に住む人が訪ねて来ました。ガスコンロに不備があると話すと、彼は、「違う!違う!申し込んでないから!今すぐ申し込め!」と言うのです。そこで、彼はすぐにガス会社に電話をかけてくれたのですが、私の語学力が追いつかず、電話でのやり取りは無理と判断され、直接事務所に行くことになりました。その日は営業時間に間に合わず、次の日の午後、仕事と仕事の合間に行ったのですが、昼休みで対応してもらえず、次の日に行くも、申し込むために必要な書類が揃っていないと帰され、書類をそろえるのにもさらに時間がかかり、土日は対応してくれない・・・・何日もかかって、やっとの思いでガスが使えるようになったことを覚えています。そんな苦労話もすっかり忘れていましたが、この例え話を読んだとき、そのことを思い出しました。

ラーマクリシュナの「申し込め!」の言葉とあの時の隣人の「申し込め!」がリンクして、なんとも忘れがたい例え話となりました。そうです、必要であれば申し込まなければならないのです。「私はガスが必要です」と同じように「私は真理が必要です、真理を実現させてください」と神に祈らなければならない。あの時、少し?(実際にはかなり・・・)手間はかかったけれど、申し込んだ途端にガスが来るようになったように、きっと申し込み続ければ、その思いは実現されるのではないかと思わせてくれました。

 


生まれる時も死ぬ時も裸

ある時のことです。家にもし泥棒が入って何かを盗られたら、絶対に許せない!と思いました。
その次に、そのような思いが自分の中にあることにも驚いてしまいました。
ヨーガは儚いこの世界に執われないように、永遠不滅の存在である本質を見なさいと教えます。それで自分自身もこの世界の物事に執われないようにしようとこれまで実践してきました。そうして人からどう思われても、どうでもいいと思えるようになってきて心が随分と軽くなってきたのですが、こと家の中の物質的なものに対しては、まだまだ執着があるんだと驚いたのです。
「私のバッグ」「私のお金」「私の大切なもの」・・・というように、「私の○○」があるんだなあと思い知らされました。そのことについてサットサンガでヨギさんに質問をしましたら、次のように教えを授けてくださいました。

 「生まれた時は裸、死ぬ時にも何も持っていけない。持っていけるのはカルマだけ。そんなものは捨てていきたいもの。生活する上での必需品はある程度やむを得ないが、それ以上執着する必要はない

 本当にそうだと思いました。人間本来裸一貫。死ぬときは何も持ってはいけない。執着というカルマなんか持っていきたくもありません。物質的なものに対する執着もそうですが、「泥棒が入ったなら」とありもしないことに執らわれていたことにも気付き、そんな思いも必要のないことだと思いました。そしてヨギさんは、知足についても教えてくださいました。今ある必要最低限のもので足りている、これを知りなさいということです。神から必要なものは十分与えられているのだとしたら、何かを失っても恐れることはないと思いました。そうして神を思い、神に感謝し、知足を徹底して実践することによって、自ずと無執着になっていくものなのだということにも気付かされたのでした。 

ダルミニー