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瞑想専科「真理のことばに瞑想する」一年半コース

去年の6月からスタートした瞑想専科「真理のことばに瞑想する」一年半コースですが、もうすぐ一年が経過しようとしています。毎月『マハーヨーギーの真理のことば』の中の一つの章を取り上げて、実践した成果を発表し、互いに学び合っています。
今月は【第九章――大宇宙と小宇宙の神秘】について取り組みました。

クラスの中では、毎回2人の方に体験談を話していただき、クラス担当者からのレクチャーがあって、最後に30分ほど瞑想を行います。

廉くん
研究者である島本廉さんは、二十四の原理についての興味深い実践談を話してくれました。

OM
映像の仕事をしているNさんは、画面共有しながらオームのマントラの本質を直観的に捉えたお話をしてくれました。

マードゥリー、ヨーガダンダ
担当のマードゥリー、ヨーガダンダのどちらかがレクチャーを行います。今回はヨーガダンダが、タントラ全般についてのお話をしました。

瞑想専科
瞑想の後は質疑応答の時間です。
みんなの話を聞いて師のサットサンガの時と同じように自然と瞑想状態になったという感想も聞かれ、師の恩寵によってクラスが運ばれているのを感じました。
動画受講も含めると約60名の方が参加しています。

ちょうど一年ほど前、この瞑想専科が始まる直前に師は御入滅されました。重い心を引きずるようにしてクラスを始動させたのですが、私たちにとって希望の光となる師の教えをご紹介させていただきます。

グル(師)と弟子の関係は、肉体的な近さを意味してはいません。それはハートの問題です。ですから、たとえ地球の裏側にいても、その関係は強く結ばれています。それをもっと納得してもらうために、彼の偉大なブッダの最後の言葉を紹介しましょう。「私の弟子とは、この体の近くにいる者ではなく、私の教えを生きる者が本当の弟子である」。もちろんブッダの教え、真理の教えは、時間と空間を超えています。彼の教えに生きるならば、この二十一世紀に生きる私たちでも彼の直接の弟子になることができます。真理と真理の教えというのは、時間と空間を超えています。ですから、たとえ遠く離れていても、グルと弟子の関係は可能です。

時空を超えて誰もが師の弟子になれるように、そして真理を実現できるように、師は『マハーヨーギーの真理のことば』を残して逝かれました。
瞑想専科を通じて『マハーヨーギーの真理のことば』と向き合っていく中で、改めてこの本には、あらゆるヨーガの道から日常で直面する問題の解決法に到るまでの全てが網羅されており、内にも外にもあらゆる理を知り尽くした師が、限りなく多くの人に手を差し伸べられているのを感じます。
私たちがやるべきことは、どの教えからでも、どの入り口からでもいいから、生涯かけて真理に到達するということです。
その時、師が教えられるように、本当の弟子になれるのと同時に、本当の交流ができるのでしょう――師だけでなく、ブッダや過去の聖者たち、そして日常で関わる全ての人や生き物に対しても。
『マハーヨーギーの真理のことば』の後半は、ヨーガの核心に触れるような濃密な教えで溢れています。
理想に一歩でも近づけるように、最後までしっかりと取り組んでいきたいと思います。

ヨーガダンダ yogadanda

 


ブッダから届いた宝物

木曜日と土曜日に、京都、大阪で開講されている瞑想入門のクラスでは、講師のゴーパーラさんならではのヨーガ行者としての鋭い視点で、瞑想やこの世界の理、心のしくみについての興味深いお話が聞けて参加者たちの質問も活発です。先日は、ブッダってどういう人だと思う?という投げかけからそれぞれのイメージを共有し合い、ブッダを身近に感じてよりブッダが好きになってしまいました♡ 「入門」というだけに素朴な質問がしやすい雰囲気があり、質疑応答を通じたみんなでの交流も楽しく、また、瞑想の時間はピタッとした静けさと集中があり、メリハリがあります。

そんな瞑想入門クラスに熱心に通われているNさんは、「自分はまだまだ真理やヨーガを信じられていない」と包み隠さず話されます。ある日のクラスで、「真理があるか、ないかを確かめたい」と真剣に言われました。ゴーパーラさんは、ブッダの教えにもある「たとえ古い聖典が出てきてもそれを盲目的に信じる必要はない」という言葉を紹介され、師も同じように仰っていることを話されました。

師は「まずヨーガを進めていくには、それまで経験で培った観念とか概念とかいう心の秤を無視するところから始める、あるいは疑うところから始める。またその聖典とか真理の言葉といわれるものも、鵜呑みにする必要はない。ただし、その両方についてよくよく考え、そして瞑想して、間違いのない答えが出てくるまでそれを探求しなければいけない」と説かれています。

まさに師のこの教えの通り、探求の真っ只中のNさんと私たち。ゴーパーラさんは、瞑想を山登りに例えられ、学生時代に行ったチベットの高度5000メートルの山で、高山病になったことを紹介されたことがありました。どんな山を目指すかは人それぞれ。目指している山が違ってもいいけれど、でもどんな山を目指すにしても頂上に辿り着くためには、やらないといけないことがある。それは土台作り。基礎体力が必要! その基礎作りが瞑想入門のクラスなのです。基礎は何度も繰り返し学び実践することで強固になるなぁと私は感じています。

とっても為になる実践的な瞑想入門クラスなのですが、実は参加人数が少なくて(涙)クラス宣伝のため、チラシ蒔きを兼ねて数人でインドカレーのお店に行く機会がありました。私はそこでNさんと初めてゆっくり話しました。Nさんは、すっごく正直で、真っすぐで、ある意味、師の教えの言葉を地で行く(!)絶対に何も鵜呑みにしない人(笑)なんだなということを感じ、何てヨーガ向きな人なんだ?!と思いました。真理も神ももちろん全く鵜呑みにはせず(笑)、自分自身で確かめながら、着実に道を歩んでこられたんだと分かりました。Nさんは師のサットサンガでも師に、疑心暗鬼になるんです、神という存在についても信じられないです、どうやって信仰する神を選ぶのですか?というような正直な質問をたくさんされていました。私はNさんに対して、疑心暗鬼だと言われながらも、でもこんなにも熱心にサットサンガやクラスに参加し、これだけヨーガを続けられるその理由は何なんだろう??凄いなと密かに思っていました。お話してその謎が解けました、Nさんは師の存在にただただ惹かれている! 好きになってしまっている♡

さて、そんなNさんからあるエピソードを聞きました。Nさんが書いてくださったそのエピソードをここでご紹介したいと思います。(ナリニー)

* * *

 

「まあ、なんてかわいらしい仏様!」
2019年12月8日、この絵はわたしのもとに届きました。
その1週間前、師の特別サットサンガの日、瞑想の対象を決められずにいたわたしは

師に「神様に来てくださいとお願いしてもいいですか」と尋ねました。
師は「お願いしてもいい。その中で親しみのもてた神を信仰すればいい」と
仰ってくださいました。

それから数日後、知人から「Kさんが、渡したい絵があると言われている」というお電話がありました。Kさんは長年マザーテレサの下で奉仕活動をされている方だったので、わたしは「もしかしたら、キリスト様かマリア様が家に来られるのかなぁ」と思っていました。

そして、12月8日、ブッダが悟りをひらかれたその日、この絵はわたしのもとへ。
以来、ずっと見守ってくださっています。

師のはからいによってもたらされた宝物です。

 

ブッダの版画
N 

* * *


京都・大阪 瞑想入門4回コースのお知らせ

皆さま、こんにちは。
ゴーパーラです。
私が講師を務めさせていただく「瞑想入門  4回コース」が京都(5/13)・大阪(5/18)でスタートします‼️(詳しくはこちらから⇨瞑想入門

昨今、たくさんの瞑想が紹介されていますが、どれが正しい瞑想なのか分からないほど多く出回っていて、混乱しますよね。。
私は瞑想をして15年ほどになるのですが、正しい瞑想のポイントとして「目的と基礎がしっかりとしていること」、それが挙げられると思っています。

例えば、○○大学に入りたいとなったら、その大学に受かるためにがんばって勉強すると思いますし、まずはその目標・目的を定めることが大事なことになってきますよね。
また、どの大学を目指すにしても、いちばん始めにするべきことは、基礎を学ぶことだと思います。
基礎が身に付いていれば、それがベースとなって、勉強をさらに促進させてくれるはずです。

この瞑想入門コースでは、瞑想の「目的」「基礎」をしっかりと学べるプログラムになっています。
瞑想の王道の教え「ラージャ・ヨーガ」を指針に、正しい座り方や呼吸法、ひいては日常の心構えについても学び、目標に向かって実践していきます。
瞑想で実現したい目標は人それぞれかもしれませんーー集中力をつけたい、心穏やかになりたい、また真実を悟りたいなどさまざまかと思いますが、王道に則って瞑想をすれば、それらは実現できます!

瞑想に興味がある、やっていきたい、深めたいという方、誰もに必要な基礎が学べ、無理なく始められるプログラムになっております。
ぜひご参加いただけたらと思います😇🙏

ゴーパーラ


マハーヨーギー・ミッションのInstagram

ミッション公式のInstagram(インスタグラム)が始まりました。今は、それぞれ自分に合う方法を使って情報を得られる恵まれた時代だなぁと思いますが、その方法の一つにInstagramがあります。そこで、少しでも多くの方に真理の教えやヨーガを生きるということについて、ご縁を持っていただけばとInstagramはスタートしました。

新刊『マハーヨーギーの真理のことば』からの教えを、マハーヨーギー・アーシュラマや、アーシュラマに由縁のあるお花や、美しい自然の写真などと共にお届けしたり、またクラスに纏わるコンテンツ、旬のお知らせなどもアップしていきたいと計画中です! 秘蔵写真もお目見えするかもしれません(!)ぜひご覧いただき、フォローしてくだされば嬉しいです。

「見る、という行為はフィルターを通さずに直接に心に届く」と師からお聞きしたことがあるのですが、Instagramは、写真や動画をまさに見ることが中心のSNS。
仕事の休憩時間や家事の合間のひとときに、心に静けさを感じたり、胸の奥の真実を思い起こしたり、自分をリセットしたりできる機会となれば・・・。

情報が溢れかえり混沌としている中でも、古(いにしえ)より伝えられてきた永遠の真理を悟るためのヨーガの道を、その一筋の光を、純粋に発信していければと願います。
師がお伝えくださっている真のヨーガが多くの方に届くよう、ぜひみんなで一緒にMYMのInstagramを盛り上げていけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします! 

Instagram-image

Instagramのプロフィール画面の上に並んでいる丸いアイコン(ハイライト)の「書籍」をクリックすると・・・『マハーヨーギーの真理のことば』の案内が出てきます。その画面の右下にある♡マークを押していただくと、見たよ!いいね!という意思表示で、MYMのInstagram管理画面には、♡ハートがたくさん届きます~! 皆さんの画面からはその様子をご覧いただくことができないので、ぜひここでご覧ください。 こんなふうに師へハートマークが・・・届きます。

Instagram
Instagramアカウント:@mahayogi.mission
https://www.instagram.com/mahayogi.mission/

 

ナリニー  


途切れない集中力

花盛りになったヒオウギ

花盛りになったヒオウギ

6月、京都市内へ出かけたお昼時のこと。コロナ禍で外食はやめていたので鴨川の河川敷で一緒に来た相手と横並びで、パンをモグモグモグ・・・。すると「バサッ!!!」二人の間を野球の球(?)が通過し何かに当たったような風圧と衝撃。「何!!」事態を飲み込めず一瞬唖然としました。あれ?でも二人ともどこも痛くない、無事。ん?・・・相手が手に持っていたはずのパンが忽然と姿を消していました。魔法・・・ではなく、正体は鷹。0・1秒くらいの一瞬のうちに、はるか上空から急降下しパンをさらっていくと同時に猛スピードで上昇していったのだと思われます。すべてが瞬間に行なわれた御業だったので人間の私たちには、まるでパンだけが消えた魔法のように見えた華麗な技でした。

ちなみに私はパンを食べ始めた時から、大空で彼らが風に乗る凧のごとく悠々と飛んでいる動きには注力しており首が痛くなるほど上を気にしていました。にもかかわらずです。鷹は、あんなに高い上空で旋回しながらも、実はじわじわと的に狙いを定め集中状態を極めつつ頂点に達した時、今だ!!と勝負に出たのでしょうか・・・見事な一点集中と正確さにシビれました。しかも側面からの攻めではなく、私たち二人の間、ド真ん中の背後からの攻めでした。決してボーっとしていたわけでも静止していたわけでもありません。なのに一ミリたりとも人間の体は傷付けることなくパンだけに的中したことがカッコよすぎました。はるか上空の鷹をポカンと見つめながら、あの集中の塊のような風をしばらく忘れることができませんでした。

7月。京都の祇園祭

7月。京都の祇園祭

そんな衝撃的な(笑)出来事から月日は経ち、今月の瞑想専科クラスのテーマは「ブッダの生き様」でした。講師のヨーガダンダさんがブッダのお話をされ、最初にまず10分程度、皆それぞれにあるブッダのイメージをもとに瞑想しました。その瞑想の後ヨーガダンダさんは、かくも穏やかで柔和なブッダが、どうして大勢の人々を導くという大きな活動をすることができたのでしょうか?と素朴な問いを投げかけてくださいました。そして、覚者や聖者のことを考えていった時、なぜこうなんだろう?と感じる気付きが起これば、そういう時こそ、それは瞑想のポイントになる、そこを深堀りして集中していけば何かしらブッダの心境に迫っていけるものがあるかもしれない、と言われました。「なぜ?」「どうして?」という疑問が大事な気付きになるのか・・・とそのお話は印象に残りました。

その後も、師がブッダに瞑想され一(ひとつ)となられた時のことや、ブッダのエピソード、臨場感に満ちたヨーガダンダさんの様々なお話によって、私たちの胸にブッダの印象がたくさん刻まれていきました。
二回目の30分程度の瞑想の時、次はそれぞれがもつブッダのイメージの、そのどこからでもいいので、とにかく素直にブッダの心境、本質に迫っていける瞑想をしていただければと思います、と言われました。「『この時のブッダの心境はどうだったのだろう?』と考えてみるとか」とヒントも。

今回クラスの前には、『ヨーガの福音』の「真理」の章を読んでおくことになっていました。私はその中の師のお言葉――「彼(ブッダ)の教えの特徴の一つは、『小さな虫も人間もすべては仏性を有した尊い存在であり、一切万物は平等である』というものです」――この一文に心を捉えられていました。もし、本当に虫と人間を全く同じように等しく見て、同一の尊さを見ることができたら・・・「一切万物は平等」という教えを完全に会得できたら・・・これはもう凄いことだな、としみじみ思ったからです。それが私の憧れる境地でもあるからです。
だから二回目の瞑想は、ヨーガダンダさんのアドバイス通り、ブッダのこの教えに素直に瞑想してみようと思いました。すると、あるブッダの姿が浮かんできました。

ブッダの前に一羽の鳩がいます、その後ろには鳩を狙っている大きな鷹がいます。鷹が猛スピードで鳩を追いかけ襲おうとしたその時、ブッダが鳩を助けるために自分の太ももの肉をナイフで切り裂いて鷹にあげました。(※後で調べたところ、このお話はシビ王というブッダの前世の菩薩のお話でした。私はブッダのお話だと思い込んでいたのでした。)私には先月の衝撃的な出来事があったので、すぐさま鷹のあの並外れたハンター能力、瞬発力、集中力が風とともに蘇り、狙われたら絶対に逃れられない!そんな鷹から鳩を助けようとするブッダが無謀だと思ってしまいました。どうしてそんな無謀なことできたのか?どうして自分の肉体を切るなんて痛いことできたのか?私には絶対にできない、できない、したいけどできない、と思えば思うほど、「どうしてブッダにはできたのか?」とそこから離れられなくなっていました。

瞑想とは言えないかもしれませんが、それでもその場面をじっと見ているうちに、ブッダが鳩のことも鷹のことも全く同じに見ているその感じが伝わってきて、ブッダは鳩だけを救おうとしたのじゃない、ブッダは鳩も鷹もみんなを救うことしか考えてなくて、お腹を空かせている鷹に、即座に食べ物をあげられる瞬時の判断がそれだった、と思いました。どうすれば目の前のすべての尊い命が助かるのか、それだけに集中されている、だから自分の太ももを切るのが痛いとか怖いとか、そんなこと一切見てない、目的だけに狙いを定めて一点集中されている、だから犠牲という思いすらない、だからそんなことができた、ブッダの中の凄まじい集中感を感じた気がしました。まるで師だと思いました。

ブッダについて考えていたはずがブッダは師のお姿に変わり、師、ブッダ、鷹、それぞれの途切れない集中感に圧倒されました。ブッダは太ももの肉を切って鳩と鷹を助けたけれど、師は目には見えないだけで全く同じようにご自身の身を削り命あるものを救済されている、師の決して途切れることのない集中によって私たちはどれほど命を生かされているだろうかと、そんな思いでいっぱいになりました。 自分の志、人生の目的、その対象への途切れない集中だけが、不可能と思えることも可能にしてくれる。信仰心も、対象への集中が途切れない状態のことだと思いました。集中が途切れた途端、恐怖や不安や余計なものに惑わされる。

的を射るには、的だけを見なければいけない」と師が仰ったことがあります。自分は何に集中して、何に突き動かされて、何のために行為するのか?
あの鷹のように真実への一点集中で生きていきたいと思いました。ブッダと鷹が教えてくれたことでした。  

神の化身・・・

神の化身・・・

野口美香 


熱心に真理を求めて識別瞑想する

5月から「瞑想専科実践編 シュリーマハーヨーギーの教えと生き様に学ぶ」が始まりました。

師にお会いできない月日が重なる中で、グルバイとともに師の教えに触れられる貴重な機会となっています。

先日のテーマは「真実の存在と識別瞑想」。
講座の中で、ヨーガダンダさんご自身の識別瞑想の体験談を話されました。
ある出来事により、苦手な人の顔が何をしていても胸に張り付いたように離れなくなり、アーサナを必死でしてもなくならず、瞑想の中でもその人の顔が浮かび上がってくる状況だったそうです。それでも瞑想の対象に集中し続けていたら、突然直観が訪れ、その苦手な人も自分も本質的には同じ存在だと分かり、瞑想の対象から光がやってきて、苦手な人の顔が消えていったということでした。その後その人に対する苦手意識はなくなり、ぶつかることもなくなったそうです。常日頃からできるだけ心を乱したくない、瞑想に没頭したいという思いが強かったからこそ、その人のことが気になるようになり、真実への思いが強くあったからこそ、その障害となるものを見つけられて、心の奥底からの戦いになっていった、とも話されていました。

私はその話を何度か聞いたことがあったのですが、お話の内容だけでなく語り口が軽妙なので、いつも楽しさを感じながら、自分もそんな風に苦手な人のことが一切気にならないようになったらいいなと憧れていました。
しかし、今回はこれまでと異なる気持ちになりました。
何度か識別に取り組みそれなりに結果を得られたことはありましたが、ヨーガダンダさんのお話を改めて聞いたことで、心の表面的な部分でしかできていなかったことに気付きました。心の奥底までしっかりと潜るには、何度でも諦めずに実践するのみです。いつか、ではなく今この瞬間に。

実践するほどに難しさを感じてしまい、時折挫けそうになることもありますが、
先輩グルバイの大きな背中を見せて頂けたことで、しっかりとやる気スイッチを押してもらえました。
もっともっと熱心に真実だけを求めていきたいです。

講座の中で紹介された、講師のヨーガダンダさんが描かれたイラスト。

心は湖面に、真実は月に例えられます。
湖面のさざなみが静まれば、月ははっきりと映し出され、同じように輝きます。
心が静まれば真実のみが輝き出します。

 

ハルシャニー


真理を愛す

バクティ・ヨーガは「感情も五感も全てを愛する神に向け、愛そのものである神との合一を果たす」と表現されていて、ヨーガを学び始めた頃、私はこの強烈なイメージに漠然とした憧れを持っていました。何となく魅力的だなとしか思えなかったのは、瞑想の対象は神というよりも真我や真理の方が集中しやすく、神に瞑想するということがどういうことか私にはピンとこなかったからです。
もう何年も前のことになりますが、それまで誰かを好きになるとか愛するという感情に縁なく(興味なく?)生きてきて、グルバイ(仲間)が嬉しそうに「ヨギさん(私たちの師)の夢を見た」と話しているのを羨ましく思い、「あぁ、私にはバクティがないのだろうか」と不安が募り、勢い余ってヨギさんに尋ねたことがありました。この時、ヨギさんは何も仰らずに、静かに微笑んでいらっしゃるだけでした。何か答えてくださるものと期待していた私は拍子抜けして、それ以上尋ねることもできないまま、もやもやした思いが心の隅に残ったのです。
その後の数年間はキールタンを歌う機会やバクティ・サンガムに参加することで、少しずつ神に触れ学ぶ時間も持てましたが、結局それ以外の時間は神を忘れることが多くて、その存在を身近に感じるという実感はあまり持てなかったように思います。

けれど少し前からバクティ・ヨーガへの憧れが次第に強くなってきたのです。ちょうど瞑想専科のバクティ・ヨーガ編が始まり、この講座で多くの仲間と学べたことは大きな支えとなりました。日常生活で神を忘れることはしょっちゅうでしたが、そのたびに思い出すの繰り返しです。課題の聖典とともに、大好きな本である『悟り』の中のバクティ・ヨーガに関する記述も何度も読み返したりしていました。そうしていくうちに自然に神を思う時間も増えていき、いつの間にか、自分にはバクティがないのでは、という思いは消えていました。そして『悟り』の中のある箇所が目に飛び込んできました。

「クリシュナという神の化身を普遍の神に置き換えてもよろしい。アートマンでもいい。またブラフマン、真理に置き換えることも可能です」

そうか、神を愛するとは真理を愛することでもあるのだ、それならすごく分かる。今まで何回も読んでいたはずだったのに、初めて目にしたような言葉でした。
かつて質問をした時に、ヨギさんが答えてくださらなかった理由が今なら分かります。言葉で説明されたなら、きっとそれに執らわれてしまっていたでしょう。
それよりも、「バクティは既に、その胸の奥にあるよ」と伝えてくださっていると感じます。

祭壇のヨギさん。 私もいつも笑顔でいたいと思います。

マイトリー


真実という宝

松山のヨーガ・サーラ・スタジオに通う太宰さん。昨年より松山のスタジオだけではなく、MYMのオンラインクラスを最大限に活用され、誰ヨガ、瞑想専科バクティ・ヨーガ編、バクティ・サンガムなどにも熱心に参加されています。実は最近、太宰さんに大きな心境の変化があったとのこと。今回はそんな太宰さんにインタビューをしてみました。

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Q: 最近はよく日常でキールタンを歌われているそうですね。歌われていてどうですか?

太宰さん: (笑顔で)キールタンはすごいですね! 元気になる。楽しい! 今は日常生活において、掃除、洗濯、食事の用意の時もとにかくずっとキールタンを歌っていて、それが自然となっています。嫌なことがあってもキールタンを歌うようにしたら、自然と笑顔になるんです。とにかくキールタンが好きになって、めちゃくちゃ楽しいです!

 

Q: 何かきっかけがあったのですか?

太宰さん: 昨年、瞑想専科バクティ・ヨーガ編に参加しました。そこで、「信じることができればそれでいい。これ以上のものはない」というラーマクリシュナの教えが紹介されたんです。それを聞いて理解はできるけど、では自分はどうしたらいいのかなって思って。講座では実践方法や体験談も紹介されていたので、私にもできるかなと思って、二つのことを実践しようと思いました。一つは、キールタンができるかなと思いました。

Q: そうなんですね、あと一つは何を実践されているのですか?

太宰さん: 信じるということはどういうことかと思った時に、真剣さが一番だけど、信じることに対しても(自分には)謙虚さがない。そう思って、とにかく(瞑想に)座る、ということを決めました。「純粋で素直な信仰心をお与えください」ってお願いするだけなんですけど、まずそこからと思っています。最初からはできませんでしたが、回を重ねて講座の終わり近くになって、もっと真剣に頑張ろう!本当に変わりたい!変わらなければいけない!と強く思いました。

 

Q: 実践を続けてこられた中で、何か気付きや変化などはありましたか?

太宰さん: 以前、ヨギさんが松山に来られた時のサットサンガで、いろんなことに執らわれている悩みを相談した時に、「目の前に宝物があるのに、もったいない!」と言われたことがあるんです。それで、目の前の宝がどういう意味なのか分かりませんとお聞きしたら、「至福という――壊れない幸福のことを至福といいますが――そういう歓びに満ちた状態、それがその宝の山の正体なんです。それはどこに在るのかといえば、自分の中に、胸の中に在るんです」と言ってくださったんです。ただ、言葉上は理解していたんですが、本当の意味では理解できていなくて。

それで、瞑想専科の最後の方なんですが、座っていた時にやっとその宝の意味を理解できて、あぁ、これと同じことをヨギさんは教えてくださっていたのかなと思いました。宝というのは、真実であったり、真理のことです。瞑想専科で学んだ神への愛ということと自分はマッチして、同じことなのかなと捉えました。私はこれまで非実在のことでいっぱいで、たくさんの時間を費やしてきて、本当にもったいなかったなぁと思いました。
まだまだ、これまで積み重なってきたものがふつふつと出てきたりするんですが、今は「もったいないからやめよう。ここに真理があるんだ!」というふうに言い聞かせて、そのように思いを変えていくというようにしています。
やっと、スタートに立てたかなと思っています・・・こんなこと話したら、いいようにばっかり言っているように思うんですけど笑。

Q: それは本当に良かったですね! 今後の目標はありますか?

太宰さん: 今、していることを頑張って実践して、体得して、心が穏やかになりたいです。そして神を感じて、神で(身も心も)パンパンになりたいです! そして、次にヨギさんにお会いする時には、「目の前の宝、頑張ってつかんでいます!」というふうに言えるようになりたいです。

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 インタビューの間も、真剣でありながらも、終始とても楽しそうな笑顔を見せてくださった太宰さん。本当に心が軽やかになられた様子と実践の大切さが伝わってきました。

目の前にある宝を、私たちもつかんでいくことができますように!

MYM京都 


熱心に神を求める 〜瞑想専科バクティ・ヨーガ編を受講して〜

昨年10月から12月まで、瞑想専科バクティ・ヨーガ編が開講されました。毎回欠かさず参加されていた、和歌山在住の中島さんがご感想を寄せてくださいましたので、ご紹介します。

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 第1回目から、講師のミラバイさんの「バクティ・ヨーガで大切なことは、熱心に神を求めること!」という力強い言葉に刺激を受けて、やる気満々でスタートした3カ月。
私は、『ラーマクリシュナの福音』を毎日読むという課題や毎回の宿題に加えて、神の御名を唱える・常に神を想う(忘れていると気付いたらすぐに思い出す)ことから実践し始めました。 

3カ月の実践中、強く感じたのはオンラインクラスの素晴らしさです。
毎回、宿題や聖典を読んだ感想を発表する方の純粋な想いをダイレクトに受け取り、一緒に泣いたり笑ったりするうちに一体感が生まれ、皆で意欲を高め合うことができました。そして、画面に映る皆さんがキラキラと輝き出し、そこから伝わるサットヴァなプラーナに包まれて、クラスが終わる頃には充電完了! 次のクラスまで実践を続ける大きな力となりました。

また、講師のお二人の熱意あふれる講義は、ご自身の体験談などを交えた分かりやすい内容で具体的な実践への足掛かりとなり、バクティ・ヨーガの教えに対する理解も深まりました。それでも理解の深まりとは裏腹に、すぐに神から離れる心に振り回され、その状況を打破する糸口がなかなか見つかりませんでした。しかし5回目の講座は、それまでの「実践」のとらえ方や、自分の生き方を見直す大きなきっかけとなりました。

この時に紹介された、師への純粋な愛と信仰心だけを拠り所に、快楽的な生活を送る大酒飲みから神の思し召しのままに生きる聖者へと生まれ変わった、ラーマクリシュナの信者ギリシュの真っ直ぐでひたむきな生き方は、強く私の心を打ちました。そして「思し召しのままというのは、”私には何もできない”という消極的なものではなく、とても積極的な生き方。人としての本来の生き方だと感じる」というミラバイさんの言葉にも衝撃を受けた私は、自分の生き方を振り返り、自分がまだ神だけを求めて生きているとはいえないことに気付いたのです。

そこから私はまず、日常の出来事に心が執らわれる暇のないくらいに、絶え間なく神を求めることを目指しました。そして、家事をしながらキールタンを唱え、バターを見たらクリシュナを、雨が降ったらシヴァを思い、神から心が離れても「心を見ない!」というアドヴァイスを思い出してはすっぱりと切り替えて、とにかく心と身体を目いっぱい使って全身で実践し続けました。

そして、受講を終える頃には、聖典を味わえるようになったり、いろんな気付きがあったりと、参加して良かったと思いましたが、肝心なバクティの深まりはほとんど感じることがありませんでした。しかし、日々の小さな積み重ねは、自分でも気付かないところで心に変化をもたらしていました。ふとした瞬間に、胸の奥から理由のない歓びが溢れ出し、その源に神の存在を感じるようになってきたのです。

聖典の中でラーマクリシュナは、どんなにつたなくても信念を持って熱心に求め続けていれば、神は必ず応えてくださるとおっしゃっています。純粋なる歓喜ともいわれる神。この歓びの先に純粋なる歓喜、神がおられるという直感を手掛かりに、これからも毎日熱心に神を求め続けたいと思います。


~オンラインクラスを通して大きな力を下さった講師のお二人とクラスメイトの皆さん、
そして師のお導きに感謝しています~

中島尚子

 


聖典を味わう

10月から始まった瞑想専科バクティ・ヨーガ編。

誰もの中にある純粋な存在のことを、真理、アートマン、神、など、様々に言い表しますが、私は「神」という言葉に対してなかなか馴染めないままでした。しかし、ずっと抱えていた問題と向き合う中で「神」への愛を感じる出来事があり、もっとバクティを深めたくて受講を決めました。

その課題として『不滅の言葉(コタムリト)』を読み進めていますが、聖典を味わうとはこういうことか!と今更ながら実感しています。
今までも、聖典は味わうように意識して読んでいたつもりでしたが、これまでとは全く異なる感覚に驚きました。

まず、ラーマクリシュナがとても近くに居られるような感覚になりました。どのエピソードからも、ラーマクリシュナがどんなに情熱的に神を求めて、神と共に生きておられたのかが感じられ、実際にはお会いしたことがないのに、その表情や仕草まで目に浮かぶようでした。
また、弟子との交流が描かれているところでは、それぞれの弟子の性質を的確に見抜かれて導かれるご様子に胸が熱くなりました。
すでに読んで知っているはずの内容なのに、初めて触れたような新鮮さとリアリティを感じました。

同時に、著者であるMの師であるラーマクリシュナへの想いがひしひしと伝わってきました。
これまではMに対して、膨大な記述を人生をかけて書籍という形にまとめ上げたすごい人という印象を持っていました。しかし今ほどMを身近に感じたことはありませんでした。師であるラーマクリシュナに出会った瞬間から彼の虜になり、師だけを見つめて慕うバクタの姿を見たように感じました。

それから毎日ページを読み進めるにうちに気持ちがどんどん晴れやかになるようでした。

これまでは慌ただしかった日はもう読まなくていいか、と聖典を手にすることなく寝ていたことも度々でしたが、受講している他の人たちも同じように取り組んでいる、ということも大きく後押ししてくれました。一度習慣になってしまえば特に努力しなくても自動的に実行できるようになりましたし、1日の終わりに1ページでも読むことで本当に心が洗われるので、欠かせないことの一つとなりました。

今読んでいる『不滅の言葉(コタムリト)』。毎日就寝前に読んでいます。

 

なぜ急に聖典を味わえるようになったのか、自分でも不思議だったのですが、今までで1番強く神に近づきたいと願うようになっていたからなのかなと思います。

第1回目の中で、特に印象に残った言葉、
”バクティ・ヨーガで大切なことは、熱心に神を求めること!”

私はこの瞑想専科を受講することで、自分が囚われていたものから少しずつ解放されていくような感覚になっています。
もっと熱心に神を求めて、素直になって、神に全てを差し出したい。
それを目標として、さらに聖典に親しみ、今後の瞑想専科で学びを深めていきたいと思います。

高川山(山梨県)山頂からの富士山。雪化粧した姿を見るのはとても久しぶり。
いつまでも眺めていたくなるような美しさでした。

ハルシャニー