聖者と教え」カテゴリーアーカイブ

夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

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そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


ラーマクリシュナの福音 〜ウシガエルのお話〜

この小さな部屋で不滅の言葉が語られたのです。

自室の小さい寝台の上に東を向いて座っておられるシュリー・ラーマクリシュナが、床に座っている信者たちに主ラーマの物語から教えられました。 

苦痛と快楽は肉体にはつきものだ。神を悟った人は、心も生命も、肉体も魂も神に捧げる。
ラーマとラクシュマナが沐浴をしようとパンパ湖に入った時、彼らは弓を地面に刺しておいた。ラクシュマナが自分の弓を引き抜くとその先が血で汚れているのに気が付いた。ラーマは彼に言った。「ごらん、弟よ。たぶん何か生き物を傷つけたのだろう」。ラクシュマナは地面を掘り、大きなウシガエルを見つけた。それは死にかけていた。
ラーマは悲しみにみちた声でカエルに言った。「どうして鳴かなかったのだ。私たちはお前を助けようとしたはずだ。お前はヘビにくわえられた時でも、元気に鳴くではないか」。するとカエルが言った。「おお、主よ。私はヘビに襲われたときには『おお、ラーマ、お助けください。おお、ラーマ、お助けください』と言って鳴きます。この度は、自分を殺そうとしていらっしゃるのがラーマであることを知りました、それで黙っておりました」。

私は以前、命を投げ出してでも悟りを得るということはどういうことなのかと師に質問をしたことがあります。師は「私たちの心が最も執着しているのが命です。その命を投げ出す、捧げるということは完全に心が開け放たれた状態、まったく執着のない状態を表しています」と教えてくださいました。
このウシガエルは何の執着もなく、完全にラーマ神のみを信じ、愛し、頼り切って生きていたのだと思いました。神に命を捧げると、自分のことをすっかり忘れ、すべてのすべてが神だけで充満してしまう、そして神以外の一切の思いが消え去ってしまうのだと思いました。

自分のすべてを神に捧げ、行為することができますように。

                                       ダルミニー 


バクティ・サンガム キールタン

Bhajamana Ma

Bhajamana Ma Ma Ma Ma   Bhajamana Ma Ma Ma Ma

Anandamayi Ma Ma    Anandamayi Ma Ma

Anandamayi Ma Ma   Anandarupa Ma Ma

 

6月から3ヶ月間バクティ・サンガムでは「Bhajamana Ma 」というキールタンを歌っています。Bhajamanaとは心から讃えよという意味、そしてMaはお母さん、母なる女神のこと、Anandamayi は至福に満ちている、Anandarupaは至福の姿をとられたという意味です。

「心よ!至福に満ちている母なる女神を讃えよ!!」

というキールタンですね。女神の優しさに包まれるようなメロディー、単純で覚えやすい歌詞、日常でもいつの間にか口ずさみ、その都度Maに思いを馳せることができます。

ところで、Maといえば、一番に思い出す聖者がいませんか?
Maへの信仰に全てを捧げた19世紀のインドの大聖者、シュリー・ラーマクリシュナです。

カーリー(女神、Ma)寺院の神職をしていたシュリー・ラーマクリシュナは毎日熱心に礼拝するうち、「生きているMaに会いたい!」という思いを募らせていきます。そしていつしか寝食を忘れ、狂ったように神を求め、ついにMaを見神するのです。

シュリー・ラーマクリシュナは生涯をかけて神を求め、愛することを教えられます。全身全霊でMaを求めた彼が、実際どのようにMaに祈っていたか、その言葉を弟子に教えておられる箇所を見つけましたのでご紹介します。

「私はいつも彼女(Ma)にこう祈った『おお母よ、おお至福に満ちたお方よ、私にお姿を見せてください。くださらなければ駄目です。おお低き者たちの主よ、おお、宇宙の主よ、私は決してあなたの宇宙の外にいるのではありません。私は知識を失っています。修行もできていません。信仰もありません。あなたはお慈悲をもって私にお姿を見せてくださらなければいけません』」

シュリー・ラーマクリシュナはいつも、神はもっとも親しい身内だと言われます。子供が母親に泣きつくように心の底から泣いて神を求めたら、神がそっぽを向いておられるわけがないと教えられます。私はこのBhajaman Maを歌うとき、いつもこのシュリー・ラーマクリシュナの祈りの言葉と、神への態度を思い起こし、心でこう叫んでいます。

「私に純粋な信仰を授けてください。くださらなければ駄目です!!」

8月のバクティ・サンガムでもBhajamana Maや、他の女神のキールタンを歌いますので、ぜひぜひご参加ください! 大阪8月10日(金) 京都8月26日(日)になります!


ラーマクリシュナの福音

みなさん こんにちは

七月も半ばですね。七月にしては暑すぎるような気もします。七月は文月(ふづき、ふみづき)と呼びますが、由来は、七夕の詩歌を献じたり、書物を夜風に曝す風習があるからという説と、稲の穂が含む月であることから「含み月」「穂含み月」の意であるとする説もあるそうです。今年は暑い文月になりましたね。

さて、今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。

ある日曜日、シュリー・ラーマクリシュナは朝、カルカッタに近いカンクルガチの村の、彼が愛しておられる在家の弟子たちの一人、スレンドラの別荘にお着きになった。スレンドラがある祝祭に、彼と大勢の信者たちを招待したのである。部屋の床は敷物でおおわれ、その上に白布が敷かれていた。いくつかの長枕やクッションがあちこちに置いてあった。ラーマクリシュナが信者たちに向かってお話になっている。

ラーマクリシュナ「『私が』とか『私のもの』とかいう感情は無知からくる。人々はラーニ・ラシュマニがカーリ寺院を建立したと言うが、誰もそれは神の御わざであったとは言わない。誰もそれは神の思し召しによってつくられたとは言わないのだ。この『私が行為者である』という感情は無知である。反対に『おお神よ、あなたが行為者であられます。私はお道具にすぎません。あなたが運転者、私は機械なのです』という思いが知識である。知識を得ると、人は『おお神よ、なに一つ私のものはありません。これらは全部あなたのものです。妻も息子も家族も、私のものではありません。すべてあなたのものです』と言うようになるのだ。これらのものを自分のものと思って愛するのはマーヤーだ。しかしすべてのものを愛するのは、ダヤー、慈悲である。自分の家族だけを愛するのはマーヤーだ。自分の国の人々だけを愛するのはマーヤーだ。だがすべての国の人を、すべての宗教の信者を愛するのはダヤーである。そのような愛は神への愛から、つまりダヤーから生まれるのだ。マーヤーは人を巻き込み、神に対してはそっぽを向かせる。しかしダヤーによって、人は神を悟る。シュカデヴァやナーダラのような信者たちは、常にハートにダヤーを抱いていたのだ」

ダヤー、慈悲という言葉からは、ブッダの行為がすぐに頭に浮かびます。清貧に中に生き、生きとし生けるものすべてを、生涯をかけて救い続けたブッダ、その慈悲の行為を思い出すことができます。そしてシュリー・ラーマクリシュナは、すべてを神として愛する、神への愛、それはダヤーであると教えられています。

私たちの師もまた、こう説かれています。
「愛は、心が主人公の間は愛着として所有とか支配とかに基づいた、限定的で偏った愛の姿をしていますが、心が純化されて、純粋な意識というアートマンの普遍の意識に目覚めてくれば、その愛そのものが喜びに変わってくる。喜びというのはもちろんエゴがないから利己的な喜びではないし、普遍的な宇宙的な喜びという至福という姿に変わる。そして他者の喜びを見ることが愛の姿となっていく。それは元々、純粋な本質として私たちの中にあるから、無条件に出てくると思う。愛というのは、神そのものがこの万物に現われた原理そのもの、万物宇宙がお互い引きあい、あるいは離れあい、育んでいっている姿そのものも愛の基本。あのクリシュナとラーダーのストーリーでは、あまり慈悲という言葉は出てこない、むしろ愛という言葉が非常に多い。古い時代のブッダに遡る頃は、慈悲という言葉がさかんに使われたと思うんだけれども、よくよく見てみるとそれは非常に同質のもの。時代によって、あるいは時代の思想の影響によって多少言葉が違ってきているかもしれないけど、その本質においては同じようにみえる」

私たちの師もまた、神への愛、真実の愛と慈悲とは同じものだと教えてくださっています。師はその慈悲もまた私たちの中に、もうすでにあるのだと教えてくださいました。ヨーガは私たちの忘れている故郷に帰るようなもの、愛深くあれるよう、慈悲深くあれるよう、少しずつ実践しながら、その理想の姿を目指し、諦めず歩んでいくことで、この生を価値のあるものにしていくことができるのだと思いました。

ダルミニー

 


十二因縁(十二縁起)

師と過ごした台湾での夜、私は原因、原因を探求していくブッダの十二因縁の瞑想の必要性を感じた。(前回のブログ「集」はこちら
では、「十二因縁(十二縁起)」とは一体どういうものなのか?
それは、老いや死をはじめとする一切の苦しみが起こる原因のプロセスを、根本原因である無知にまで遡っている。

無明…真実を知らず、永遠・絶対でないものを永遠・絶対だと見なす根源的な無知。
…自我意識や執着を生み出す元となる、無意識のうちにある潜在的傾向、サンスカーラ。
…自我と他者を区別し、外界を認識する意識。
名色…名前と形という、区別・差別を生み出す微妙な要素。
六処…視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という5つの感覚機能と思いの働き。
…感覚や思いを通じた外界との接触。
…外界の対象を感じ取ること、感受。
…欲望の対象を渇望・渇愛すること。
…欲望の対象を取ろうと執着すること。
…カルマをもって輪廻する煩悩的存在。
…生まれること。
老死… 老いと死をはじめとする一切の苦しみ。

見慣れない仏教用語が並び、十二の意味を理解するだけでも難解に感じるが、この十二因縁を知的に理解している人は学者をはじめ、仏教者にも少なからずいるだろう。
ただ、どれだけの人が実際に十二因縁の瞑想を行ない、本当の意味を理解しているだろうか?
台湾での夜、師は「知的理解」と「体験的理解」の違いを次のようにおっしゃられた。

ゴーパーラ「十二因縁の公式を、心に当てはめながら見ていってもいいんですか」
ヨギ「それを単なる知的理解で終わらせてはいけない。自分の心を材料にして、自分の心はそれに対してどのような反応を示すか――自分の心がその十二因縁のリアルな体現者となったように順次、十二の原因を遡っていくというのかな」
ゴーパーラ「リアルな疑似体験というか、そういうように進めていく」
ヨギ「本当は疑似体験じゃない。自分の心を材料にするから、(強調されて)直接体験やで、これはほんまは。それを直接体験と思えるぐらい切迫した、心に切迫させていかないといけない。そうでないと知的理解という疑似体験に終わってしまう」
ゴーパーラ「それは言い聞かせのレベルとは全く違う」
ヨギ「言い聞かせじゃない。その原因をしっかり理解すること。単なる言い聞かせはいらない。(強調されて)しっかりと理解すること。それは心そのものが変わっていく。それが直接体験の効果というか結果というふうになっていくはず」

私は小さい頃からずっと執らわれている欲望があった。
台湾の夜から私は十二因縁について考えを巡らせていたのだが、瞑想中にその執らわれている欲望が湧き出てくることがあった。
するとその瞬間、名と形が形成され、そこに手が伸びてつかみにかかり、その対象を渇愛する心の動きが感じられた。
それは一瞬の出来事だった。
この十二因縁とは生死の輪廻という大きなスパンの構図だと理解していたが、一瞬の思いの中にも十二の要素すべてが詰まっているようにも感じられた。
私自身、今まで行なっていた識別瞑想では、欲望やその対象に対して、「それは永遠ではない、絶対ではない」というふうに真理をあてがっていた。
その効果として欲望への執着は薄らいでいたが、まだ完全に消えてはいなかった。
だが、この十二因縁の構図でもって欲望を分解していった時、何か咀嚼しやすい感覚があった。
それは、心の中で欲望の消化が促進されるような新たな実感であった。

そして台湾から帰国して約2週間後の4月7日、ブッダ御聖誕日の前日にサットサンガが開かれた。
私は実践した十二因縁の瞑想について師に確認した。
師は、「それは心が造り出す条件下の構造そのものを明らかにするという意味において、その十二個を辿っていくということは有意義」と言われた。
しかしながら師は、それよりも「もっと大事なことがある」と示されたのだった。
(続く)

ゴーパーラ


*老いや死のような一切の苦しみ(老死)は生まれたこと(生)に原因があり、生まれたことはカルマによって輪廻する煩悩的存在(有)に原因があり、その輪廻的存在はさまざまなものを取ろうと執着すること(取)に原因があり、執着は欲望の対象を渇望すること(愛)に原因があり、渇望は対象を感じ取ること(受)に原因があり、対象を感じ取ることは外部との接触(触)に原因があり、接触は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・思いの六つの感覚機能があること(六処)を原因とし、六つの感覚機能は名前と形(名色)という微妙な想念があるために起こり、名前と形は自分と他者を分けることで外界を認識する意識(識)を原因としながら、名前・形とその外界意識は相互に依存して成り立っている。また自他を区別して外に向かうその意識はサンスカーラという無意識の潜在的傾向(行)を原因とし、潜在的傾向は永遠でないものを永遠と見、自己でないものを自己と見る無知(無明)に原因する。これら十二の因果をまとめると以下のようになる。(原因<結果、で示す)
無明<行<識><名色<六処<触<受<愛<取<有<生<老死

 


師 グルとは

人間何をするにしても一人で全て切り開いてきたという人はいないでしょう。産まれた瞬間から親に育てられ、就学して先生に教わり、働いて上司に指導され。

習い事も師と仰ぐ人を敬い、教えを授かる事で上達します。

ヨーガでもグルという師から、日々の修行法や生活における心構え、そしては最終的に悟りに至る道を教わります。

グルとはどんな存在なのでしょうか?また、グルと弟子の関係とはどういったものなのでしょうか?

私が大好きな聖者ラマナ・マハリシのグルについての、とても興味深い教えがありましたのでご紹介したいと思います。

「神・恩寵・グルはみな同義語です。すべてに遍在する神は愛する帰依者を哀れに思い、自らを帰依者の次元に相応させた姿で現れ真理を説くのです。そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。ところが帰依者は彼を人間だと思い、二つの身体の間に何らかの関係を結ぶことを期待します。あなたは自分を身体だと思っているため、グルもまた身体を通して何かをしてくれると思うのです。しかし神であり真我の化身であるグルは帰依者の内側に働きかけ、彼が道を間違っていることに気づかせ、内なる真我を実現するまで正しい道へと彼を導きます。グルは内面と外面の両方に存在しています。外面からは心が内面に向かうように後押しをし、内面からは心を真我に引き込み静かになるように助けます。」

いかがでしょうか?思っていたグルのイメージを遙かに飛び越えていませんか?

私がヨギさんとお目にかかれた経緯を思い起こしても、もはやたまたま縁あって京都にいらした先生と生徒の関係などではなく、もっともっと深遠なそれこそ恩寵としか言いあらわせない絆、巡り合わせを感じてしまいます。

なぜ私はグルと出会ったのだろう?

私は幸せになりたかった。時間やお金、他者との関係で変化するような幸せでなく、決してなくならない永遠の自由と安住をもとめていた。はたしてそんなものがあるのか?と思いながら。これは辛かった当時の状況から逃げたかったという反射の対応であると同時に、私という存在の本質からあふれる、原点への回帰願望だったのだと思います。

そして時期と準備が調ったタイミングで、私はヨギさんにお目にかかりました。

真理への願望が生まれたとき、グルが現れた。真理を実現するのにグルは不可欠だから。

以下太字は『悟り』の中での、シュリー・マハーヨーギーの御言葉です。

グルと弟子の関係は一般的な社会における教師と弟子の関係でもなければ、取引でもありません。ただ、真実の愛によってのみ成立するものです。(愛とは他者に自らを捧げるという行為でしたね!)

グルの直接的な意味は、闇を取り除く光、つまり無知を取り除く真実という意味です。すでに真実の光は、それぞれ皆の中に在ります。ただちょっと邪魔をしている影があるだけ。そのために外からの光が必要な時もあります。その闇が取り除かれるまでの間を弟子と呼びます。それが実現すればグルと弟子に違いはありません。不異(おなじ)・一(ひとつ)です。(私の真我実現に必要な無知が取り払われたなら、ヨギさんはもうグルではなくなるの?……)

まず弟子は、悟りを求めなければならない。そして真実の教え、正しい教えを、真実のグルから学ばなければならない。さらに真剣さと情熱をもって、学びと修行を実行しなければならない。これらは最も中心的な心と行動のあり方です。さらにもう少し繊細なことを言えば、素直であること。素直な心、謙虚。(これに関しては、常に常に念を入れながら日々精進しています!)

自分の体験を一つ一つ検証しながら、ラマナ・マハリシとシュリー・マハーヨーギーの御言葉を読み解くと、私達と同じ現代の日本に住まわれ、私達と同じものを食べ、同じ楽しみを喜ばれるヨギさんの存在と、八十数年前にインドで語られたラマナ・マハリシの教えで明かされるグルという存在の驚くべき一致に改めて平伏してしまいます。

どちらも、“知っている側”から語られた事実としての真理の手触りが感じられます。同時に、私達のグルという存在が、どれほど崇高な顕れであるかということに畏敬の念を禁じえません。

私が肉体という粗大な身体をまとって、この現象世界に生まれ落ちた末にどういう因果か真理を求めた。そうしたら、神は自らを人間の形に顕してグルとして目の前に現れた。行く先々で愛という無償の働きで私に教えを授け導かれるグル。ともに歩む沢山の素晴らしい兄弟姉妹も授けてくださった。かたや真我という自らの本質に自分の力では気づけずに何度も何度も転生を繰り返す私。

これは冷静に考えるとそら恐ろしいことです。もしこのチャンス(今生)に、この期に及んで言い訳や、迷いを口にして進まなかったら、果たしてまた何生涯私は転がり続けるでしょうか?

神は一切取引をしません。神にはただ、愛し、近づくことだけを考えなさい。すべてを神に任せるのです。あなたの痛みも苦しみも、喜びも楽しみも、命も!できますか?神に接する時はそのような真剣さをもたなければいけません。(はい。師よ、もちろんです。とっくに覚悟は決めています。どうぞ受け取ってください。)

Caitanya


今夜、自転車を漕いでいると、柔らかく生温かい風が顔に触れて、神が、優しく撫でてくださったような気がして、『ギータ・ゴーヴィンダ』の中に書かれたクリシュナとラーダーの、一節を思い出しました。

(激しく燃え上がった情事の後、ラーダーの豊かな編み髪は乱れ、巻き毛が揺れ、両の頬から汗が落ちていた。ビンバの実のような下唇の輝きはあせ、水瓶のような乳房に輝いていた真珠の首飾りは、どこかへいってしまった。腰帯の美しさも、惨めなありさま。恥ずかしがるラーダーに、優しくクリシュナは口づけをする。からだもたいそう疲れ切ったラーダーは、歓喜しながらも恭しく、突然、とてもうれしそうに、つぎのことをゴーヴィンダ(クリシュナ)に言った。)

「ヤドゥナンダ様(ヤドゥを歓喜させるという意味のクリシュナの異名)。愛神カーマの祝祭の水瓶のようなこの乳房の上に、白檀でとても冷たいあなたの手で、麝香を使って、模様を描いてください。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「愛するひと。群れなす蜂をも恥じ入らせるような眼膏を輝かせてください。ラティの夫(愛神カーマ)の矢を放つ(わたしの)目に。あなたの下唇に口づけされて油煙の流れてしまった(わたしの)目に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「きれいに着飾ったひと。耳飾りをつけてください。目という鹿がどんどん飛び跳ねるのを制する愛神カーマの輪縄にも似た(わたしの)両の耳に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「巻き毛を整えてください。蓮の美しさをも凌ぐわたしの清らかな顔の上にいつまでもかかっている巻き毛を。群れなす黒蜂のように輝く巻き毛を。悦楽を生み出す巻き毛を。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「蓮のようなお顔のひと、麝香の精を混ぜた愛らしいティラカをつけてください。汗のひいた、月のようなこの額に。(月に)黒斑を置くように。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「尊敬を与えるひと。花をつけてください。愛戯のうちに解けてしまった、わたしの美しいつやつやした髪に。孔雀の尾をも驚かせる(わたしの髪は)、愛神の幟。そしてチャーマラ(蠅払い)。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「高潔な気質のひと。宝石の腰帯と衣と装身具をつけてください。なまめかしく、きりりとしまって美しいわたしのお尻に。シャンバラの殺戮者(愛神カーマ)という象の(住む)洞穴をもつお尻に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

この高貴な詩の書かれた意味について、自分がどれほど理解できているのか、分かりません。でも、愛おしい人に、触れられたいと願うラーダーを思い、それに応えてくださるクリシュナを思う。詩から溢れ出る熱が、苦しいほど私のハートに伝わって、どうしようもなく甘美な夜です。

Amara

 


ラーマクリシュナの福音

みなさん、こんにちは

今回の地震で被害を被った方々にお見舞いを申し上げます。
京都は比較的、台風とか災害もよけて通るようなところなのですが、今回の地震は、さすがに京都のみなさんも驚かれたと思います。天変地異に際しても、さまざまな場面でも正しい判断ができる自分でありたいと改めて思いました。

 さて今回も『ラーマクリシュナの福音』からご紹介いたします。
今日もまた、シュリー・ラーマクリシュナは神を愛することについてお話になっています。

シュリー・ラーマクリシュナは自室の小さい寝台の上に、東を向いて座っておられる。信者たちは床に座っている。Mがここに着いて師に礼拝をした後、席についたのは昼頃だった。次第に他の信者も集まりはじめた。
ラーマクリシュナ「もし、人が神を愛するなら、ごく細やかなことが彼の霊的感情に火をつける。そのときにラーマの御名をたった一度唱えれば、彼は一千万回のサーディヤー(上位三階級の聖糸を受けた男子が毎日行なうことになっている礼拝)と同じ効果を得るのだ。一片の雲を見ると孔雀の感情が目覚める。彼は尾を広げて踊る。ラーダーは同じ経験をした。雲を見ただけでクリシュナを思い出したのだ。チャイタニヤデヴァがある村を通り過ぎた。彼はその土地の土からドラムが作られるということを聞いた。たちまち彼は恍惚感に圧倒された。ドラムはキルタンに使われるからだ。だが、誰がこのような霊の目覚めを感じ取ることができるのか。世俗の物ごとの執着を放棄した人だけだ。もし執着という液が、ある人の内部で完全に干上がれば、ほんのわずかのヒントが彼の霊的感情に火をつける。湿ったマッチを千回こすっても火花ひとつ出はしない。だが、乾いていれば、ちょっとこすっても燃え上がるだろう」

 シュリー・ラーマクリシュナは神を愛することができる人は、この世の中の物ごとの一切を放棄した人だけだとおっしゃっています。
私たちの師もまた、心が何かを掴んでいる、所有しているという、心の執着をなくした状態でないと、悟りという真実の智慧は生まれないと教えてくださっています。ヨーガを学んでいくにつれ、心は、神を真実を思いながら過すことが多くなってきましたが、なかなか神を真実を愛することができない自分に気がつかされました。聖典を読むと、神を愛すること、一切の執着を放棄することは、主にグルの導きや神の恩寵によって得られると書かれてあります。私たちの師は恩寵についてこのように説かれています。

「恩寵は、その真実、もしくは神と魂との間に生まれる贈り物です。それが生じるのは、魂たち、つまり人間としての純粋な信仰が生まれた時、その真実の存在は恩寵をもたらします。具体的には祝福、そして霊感、正しい智慧、真実の愛、そのようなこの人間の世界では得られないものがやってきます」

ヨーガを学び、純粋な信仰を育んでいくことが、私たちに必要なことなのだと思いました。純粋な信仰とは、神や真実を信頼し、その教えを誠実に生きていくこと、そして見返りを求めず、ただ愛していくことなのだと思いました。しかしみなさん、私たちは、この人間の世界では得られない、祝福というものをもういただいていますよね。師の教えを守り、誠実に、このヨーガの道を歩んでいけば、真実の愛に辿り着けるのだということを確信し、嬉しくなりました。湿ったマッチのままじゃ嫌だ、諦めず歩んでいこう、そういう覚悟を今回さらに固めたのでした。

 ダルミニー


集(原因)

渇望――それは、喉が渇いて水を求めるように、激しく執着すること。
仏教の教えでは十二因縁の中に含まれていて、執着の原因である。
しかし師は台北での夜、「のたうちまわるほどの切羽詰まった真理への渇望」を説かれた。(前回のブログはこちら⇒「渇望(タンハー)」

ブッダは身的苦行を棄て、瞑想によって生死の原因である欲望への執着を見つけ、またさらなる原因のサンスカーラ、そして大原因の無知を暴き出し、悟りを実現した。
後にその因果の理は「十二因縁」として体系づけられた。
では、どうしてブッダはその内的探求が可能だったのだろうか?
通常、人は原因を外に見たり、たとえ内に見たとしても、無知という大原因まで辿り着くことは到底不可能のように感じられてしまう。
事実、ブッダ以前にカルマの因果論は見つけられていたが、カルマの原因である執着とその根本原因の無知は見つけられていなかった。
私は師に問うた、「ブッダのように原因、さらなる原因を探求するには、どうしたらいいのでしょうか」
師は次のように応えられた。

「気付くこともいっぱいあると思うけれど、そこで断定しないこと」

何の変哲もない言葉かもしれない、しかし私はそれを聞いた瞬間、直観的にその教えの深みが感じられた。
「断定しないこと」、それは自分の修行や行為、どれにも当てはまると感じられた。
例えば、日常の実践について。
何年か前、私はミラバイさんから「洋平君(当時の名前)は日常が大事って言っているけれど、それってどういうこと?」と尋ねられたことがあった。
その時私は、「サットヴァ(快活)に行為していくことかな」と答えた。
自分自身この数年、日常生活で軽快に動くことを意識的に取り組んでいた。
しかしながら最近ミラバイさんと話していると、「日常の実践とは心の波を静めること、つまり内的な軽快さがそれである」と暗に教えていただくことがあった。
振り返ってみると数年前、ミラバイさんはそのことを私に教えてくれていた。
にもかかわらず、自分の実践やサットヴァの理解を疑わなかった。
つまり、「断定」していたのだ。

人は自分の心のフィルターという色眼鏡を通して物事を見て、判断して生きている。
さまざまなものを付加しているのである。

「付加条件とは、すべて。環境や性別、年齢、経験、それらをすべて外していく。眼鏡が曇っていることはヴェーダーンタで説かれていること。でもそれを実際に外さないといけない。それがヨーガ全体の実践」

師は実際に眼鏡を外すジェスチャーをして、そのように言われた。
私はこの師の一言で、ヴィヴェーカーナンダが「プラティカル・ヴェーダーンタ」という言葉を使っている意味が理解された。

「これではない、これではない……」

原因、原因を見ていきたい――私は「十二因縁」の瞑想が必要だと感じた。
窓から見える台北101のライトアップは消えていた。

(続く)

 

ゴーパーラ


渇望(タンハー)

「アッ、アイスコーヒー!」

私は台湾で開かれるサットサンガに参加するため、早朝に日本を発ち、バスと地下鉄を乗り継いで直接、会場のジョイフルリビングに向かっていた。
3月後半にもかかわらず、南国の台湾は暑く、汗が止まらなかった。
普段は夏でもアイスコーヒーはめったに飲まない。
でも私は思わず、会場近くのカフェでアイスコーヒーをオーダーした。
私の喉は、冷たいアイスコーヒーを渇望していたのだ。

サットサンガに参加し、台湾グルバイと交流した後、師の滞在している宿に着いた。
ミラバイさんが夕食のカレーを準備してくださっていて、皆でいただいた。
宿にはミラバイさんの他、ニューヨークからアーナンダマーリーさん、また前日から一緒に住んでいるラームダースも京都から来ていた。
食後は師の淹れる極上のドリップコーヒーをいただき、至福のひと時を満喫。
リラックスした中、会話は自然とサットサンガのようになっていった。
約2週間後に春の祝祭が行なわれることもあり、その内容は「ブッダ」についてであった。
ブッダが最初に説いた教えは「苦集滅道」であったといわれている。
感情を挟まず心の苦しみを観察し(苦)、その原因を瞑想によって見極め(集)、執らわれを無くし(滅)、実生活でその無執着を実行する(道)――
このブッダの苦集滅道の教えを、時代を超えて私も実践していた。
その結果、心の執着は弱まり、真理への思いが高まっていた。
しかし、どこか深まりが足りないということも感じていた。
この夜、苦集滅道の「感情を挟まずに心の苦しみを観察すること(苦)」に関して、師は次のように強くおっしゃられた。

ラームダース「瞑想を深めていく時に、まず止観というのが大切ですよね。何の思い込みも挟まずに、とにかく観察を続けていくことで、どんどん原因の部分に深く入っていくというか」
ヨギ「そうできたら。誰が止観しているのか? 一方では心やろ。もう一方では心を見るわけやろ。それは矛盾した話やん。同じ一つの心が二つのことはできない。だからそんな悠長な止観みたいなものはできない。もっと苦しみながらと言ってもおかしいけれども、のたうち回るくらいの切羽詰まった直接的な体験をしないとだめ」
ゴーパーラ「何の感情も挟まずに心を見ることが大事だと先輩から教わったのですが、そんなの無理?」
ヨギ「感情挟んだらええねん。もっと感情挟んだらええねや」
ゴーパーラ「のたうち回るぐらい」
ヨギ「そうや。感情が無くなるというのは、全部終了して初めて無くなるんやから。それまではついて回ってるんやから。心の働きそのものが思考とか感情とか、そういうものによって成り立っているわけやから、それを無くすなんていうことははっきり言って不可能や。だからもう一方では、必死になるとか言うやんか。それは、のたうち回るっていうことやで。格好もクソもないねん」

確かにそうだ、病気の正確な診断ができるのは優れた医者だけである。
患者が患者自身の病気を冷静に診断し、治療することなんてできない。
病気に絶望し、病気を治したい、健康な状態に戻りたいという強い思いが患者自身から湧き出てこない限り、医者を探すことはもちろん、治療やリハビリは不可能だ。
私は、はっきりと自分に足りないものが感じられた。
それは、のたうち回るくらい切迫感をもって真理を求めるということ!
そうでないと苦しみは完全に滅しない。
薬をちょこちょこ飲んでももう意味がないのだ!
師は、さらにこう言われた。

「のたうち回わるというのはタンハー。渇望を伴いながらもがくとかね。もがくというのは、単純な話はほら、修行者が水の中に頭をつけられて息ができひん、もがくやんか。何がしたいんやって、息がしたいだけやて。まさに水の中に頭突っ込まれたあの状況や」

(続く)

ゴーパーラ