「聖典」カテゴリーアーカイブ

バクティ・サンガム キールタン

天王寺にあるプレーマヨーガサークルで12月5日(火)にバクティ・サンガムが開催されます。http://www.mahayogi.org/classes/bhakti_sangam(詳しい場所と時間はこちらから)
熱心にヨーガを学ぶ尾崎さんが、バクティ・サンガムとキールタンの魅力について書かれた文章をご紹介いたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先週のクラスは「バクティ・サンガム」でした。年に4回しかない貴重なキールタンのクラスですので毎回とても楽しみにしているのですが、今回はいつもと違いました。というのも、私はここ最近ヨーガに真剣に取り組むことができなかったのです。

きっかけは些細なことで動揺し、ズルズルと心に振り回されている自分に気づいたことでした。思い通りにならないことに直面して苦しいばかりか、ヨーガを学んでいるが故に心を制御できないことに対して不甲斐なさも感じ、また苦しくなる。同じ苦しさを感じるのならヨーガを知らない方がマシだったのではないか?何のために苦しんでまでヨーガを学びたいと思うのか?また、家族と暮らす身でヨーガを学ぶことに窮屈さを感じていました。どちらも大切で優先させたいけれど、どうすればできるかわからない。自分にはできない。 かと言って、今さらヨーガの教えなしに生きていくなんて到底無理だとわかっている。それなら今まで学んだ少しのヨーガの教えと時々アーサナをやっていれば、それでいいんじゃないか?そんな事ばかり考えていました。 もう、心はドロドロとしたエゴでいっぱいでした。

そんな最悪の状態でしたが京都のヨーガの師のところへ行く機会があり、そのままの気持ちを聞いていただきました。師はいつもの穏やかな笑顔で「とにかく少しでいいから毎日アーサナと瞑想をすること。続ければ必ず変わるから」と仰られ、やはり続ける他に道はないのだと気持ちを新たにしましたが、どこか靄のかかったスッキリとしない気持ちのまま「バクティ・サンガム」を迎えました。

今回は「Nanda La La」というゴーパーラ(クリシュナの幼少期の名)を歌ったキールタンを教えていただきましたが、メロディが頭に入ってきません。神に向けて歌うなんてほど遠く、必死に歌詞カードを追っているうちに1回目のキールタンが終わってしまいました。続いて、ミラバイさんがゴパーラ・マーのお話をしてくださいました。それを聞いて私のハートは大きく揺さぶられました。

ゴーパーラ・マーは幼くして未亡人となり、貧しい生活をおくっていましたが、とても信仰心が篤く、朝は3時に起床し、夜遅くまでジャパ(神の御名を詠唱するマントラのようなもの)を唱えるなど、苦行を行っていました。また、ラーマクリシュナを純粋に愛し彼のもとへ足しげく通っていました。ある朝、いつものようにジャパを唱えていると左側にラーマクリシュナが座っておられるのに気づきます。そっとその腕に触れた途端、その姿は生後10か月ほどのゴーパーラのビジョンに変わりました。ゴーパーラはゴーパーラ・マーを「お母さん」と呼び、イタズラをしたり甘えたりしてきます。彼女はゴーパーラの世話に没頭し、ジャパや苦行をするどころではなくなってしまいました。

夜が明けるとゴーパーラのビジョンを抱いてラーマクリシュナのもとへ向かいました。ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナに昨日あったことを涙ながらに高揚しながら話します。その間ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったりするのを見て、ラーマクリシュナとゴーパーラは同じなのだと気づきます。その数日後、ゴーパーラ・マーはラーマクリシュナから「もうジャパはしなくていい。おまえは一切を成就したのだ」と言われました。「だが、私の体が健康であるように修行をしてくれるか?」とも言われ、ゴーパーラ・マーは「これからは全てあなただけに捧げます」と誓い、一層修行に励みました。ゴーパーラのビジョンは2か月間ほど続き、その後も瞑想すればゴーパーラが彼女の前に現れたそうです。


ゴーパーラはバターが大好物。
こっそり食べていたのがお母さんに見つかってしまいました。

私はこのお話を聞いていたとき、ゴーパーラのビジョンがミラバイさんの周りをぴょんぴょん飛び跳ねて遊んでいる姿が見えた気がしました。そうしたら、ゴーパーラが自分の家族の姿と重なり涙が溢れてきました。そして、ゴーパーラのビジョンがラーマクリシュナの体を出たり入ったり…という所で、私は大切な事を忘れているのに気づきました。

「人は皆、神なる存在である」ということです。もちろん家族も一人一人が神なる存在であり、家族に奉仕することは神に奉仕すること。私がヨーガか、家族か、と悩んでいたことは全くの愚問だったのです。私は、家族という無償の奉仕を捧げることができる環境を与えて頂いていたのに、それに気づかないどころか、ヨーガと真剣に向き合えない言い訳にしていました。2回、3回と「Nanda La La」を歌うたびに今まで否定的に考えていたことが、全て正反対であったこと、師からたくさん恩寵を受けていることに気づき涙が止まらなくまりました。

いつもはキールタンを歌うと、なんだかわからないけど喜びが溢れ涙が出てくるのですが、今回は歌いながら様々なことに気づき、終るころには、それまで感じていた靄はなくなりスッキリした気持ちになりました。本当に一生懸命、神に集中してキールタンを歌えば、それは識別瞑想をも上回ることがある。と、ミラバイさんが経験談を話してくださいましたが、ほんの少しそれを味わえたのかもしれません。

やっぱりキールタンって、いい ヨーガって、面白い


ラーマクリシュナの福音

皆さん、こんにちは
十一月二十三日は、私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの御聖誕日です。師は、私たちに、人間として生きる本当の意味を教えてくださいました。それは私たちの人生にとって大きな歓びの泉となっています。尊敬する師のお歓びの日に精一杯の感謝を捧げたいですね。その吉祥な日はもうすぐです。

さて今日も「ラーマクリシュナの福音」よりご紹介いたします。

シュリー・ラーマクリシュナ

ある日の午後三時、シュリー・ラーマクリシュナは若い信者たちと共に大いに楽しんでいらっしゃった。会話はハヌマーン(ラーマ神に忠誠を尽くした猿の英雄)のことに及んだ。彼の絵がシュリー・ラーマクリシュナの部屋にかかっているのだ。

ラーマクリシュナ「ハヌマーンの心境をまあ想像してごらん。彼は金にも、名誉にも、衣食にも、他の何ものにも頓着しなかった。神だけを求めていたのだ。彼が、ラーヴァナの宮殿で、水晶の柱の中に隠してあった天上の武器を奪って逃げようとしたとき、マンドダリ(シーターを誘拐した魔王ラーヴァナの妻)は、彼を下りてこさせ、武器を落とさせようとさまざまな果実を見せて誘惑し始めた。しかし、彼はそうやすやすと欺かれはしなかった。彼女の誘いに答えて、この歌を歌ったのだ」

私に果実が必要か。私は人生を本当に実り豊かにする果実をもっている。
私のハートの内にラーマの木が生えていて、それの果実として救いを実らせる。
ラーマという願望成就の木の下に、私はくつろいで座り、何でも欲しい果実を摘む。
しかしもしあなたが果実をうんぬんするならーー
私は普通の果実の乞食ではないぞ。
見よ。私は行く、あなたに苦い果実を残して。

この世の中には、いろんなかたちの幸福や自由があるかのようです。あなたの幸せとは何でしょうか?あなたが自由と感じるものは何でしょうか?あなたはどんな果実を欲していますか?もしかしてちっぽけな幸せや自由に執われているのではありませんか?
ヨーガでは、永遠でないものに永遠をみること、純粋でないものに純粋をみること、至福でないものに至福をみること、私でないものに私をみること、これを無知といい、このように世の中に対して間違ったものをみて、求めてしまうことが、苦しみや悲しみを生み出している、そうではなく、この世を正しくみて、正しく判断し、正しいものを求めなさいと教えてくれています。

人生の目的は真実を実現することです。
                 サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

私たちの師は、この多様な世界に、生まれ、変化し、消滅するものではなく、自分自身の奥にある、永遠なるもの、真実の自己、真理あるいは神を求めなさい、それを実現しなさいと教えてくださっています。

自分のハートのうちに真実を実現させることができたら、もうこの世で何も恐れることもなく、常に平安で円満、歓びに満ちて暮らしていくことができるのでしょう。ヨーギーは甘そうにみえて苦い果実ではなく、真実の果実を求めて生きていくのだと思いました。

ダルミニー


ヨーガの福音 〜カルマ〜

皆さん、こんにちは

皆さんが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、あなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

今日、ご紹介する「ヨーガの福音」はカルマです。

カルマとは作用と反作用、原因と結果のことです。
「蒔いた種は刈り取らなければならない」ということです。
今日は昨日までの結果です。
今日の原因が明日の結果となるのです。
だから「今」を生きなさい

          サットグル・シュリー・マーハーヨーギー・パラマハンサ

 「自業自得」、「因果応報」、この言葉と法則は、誰もがもうすでに知っていることだと思います。私は昔、「因果応報」という言葉を初めて知った時、それを試してみました。人に優しくするとどうなるか試してみたのです。それは単純なことでしたけれど、確実に自分に返ってきました。そして、それはおもしろいほど本当の事でした。そしてそれは、自分のことしか考えていない人、人を押しのけてまで自分が得をしようとする人には、その人が困った時に助けを求めても、誰も手を差し伸べてくれないということも教えてくれました。「因果応報」、「自業自得」の理は、この世界で山ほどありますよね。師は、この単純な因果の法則のもと、悪い結果を招きたくなければ善くしていくことであるし、そして人がその努力をしているのか、していないのかだけの問題なのだと教えてくださっています。

師は説かれます。
昨今、騒がれている環境問題というのは、人類の歴史そのもののカルマの蓄積が結果を迎えているというふうに見なすことができます。それは快適さという幸福を求めた結果の自然破壊であったり、社会の混乱であったり、あるいは犯罪もまたそうです。犯罪にはもちろん、個人的なものもあれば戦争という巨大な犯罪もあります。すべては悪徳を原因として生じたものだと思います。人類と一口に言っても、それは一人ずつの人間の集まりですから、一人ずつのカルマを無くしていく他ありません。まさにそのカルマを無くす作業こそがヨーガでもあります。無益な欲望を無くしていくこと、知足という足りたるを知ること、さらには献身奉仕という有徳の行為を積むこと、これらはすべてヨーガの主要な柱であり、それがカルマを無くしていくことになるのです。

宇宙の理を知り、ヨーガを学び深めていくことがカルマを超越する道であり、そしてそこに自らの真実が存在していると師は教えてくださっています。その教えを深く信じ、生きる支えとして、私は今日もヨーガを実践しているのです。

ダルミニー


ヨーガの福音 〜あなたは真剣か〜

皆さん、こんにちは
春ですね。この時期、桜が本当に美しいですね。古来、桜の木は花王と称せられ、国花とされて守られていたようです。桜にはいろいろな種類があり、次々と咲き乱れては、私たちの目を楽しませてくれます。そうした後に、儚げに散りゆく桜もまた美しいものですよね。

さて、お知らせです。長らく絶版になっていた「ヨーガの福音」、みんなが待ち望んでいた「ヨーガの福音」が装丁も新たに再版されました。この書は私たちの師である、サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサの珠玉の教えが、シュリー・マハーヨーギー自らの手によって抜粋、編集、製作されたものです。この本はコンパクトなサイズになっていて、バッグの中にいつもしのばせておくことができます。なにげなく開いたその一ページが、今のあなたにとって重要なバイブルとなっていくことでしょう。

ヨーガを学び始めた頃、手にした「ヨーガの福音」、そして最初に開いたページ、そこにはこうありました。

あなたは真剣か 

まだ悟りへの情熱が不十分です。三日でもいい、寝ないで「自分は本当にこの人生で何を望んでいるのか」、「自分自身は一体何なのか」を問いかけてみなさい。生きているということは何なのか、ただ食べて寝て、そして死ぬだけなのか……これこそ恐ろしい話です。私たちは永遠の命なのです。そんな限定された命に満足するはずがありません。そんなちっぽけな人生の成功や失敗を恐れる必要はありません。幸福も不幸も塵ほどにもならない。皆さんは悟りに関して、あるいはヨーガに関しての知識は随分お持ちだと思います。でもまだ実体験は赤子のようです。頭だけでやっているからです。そうではない、悟りは「体得」と言われます。体全体で実現するものです。そう、体がなければ実現できないのです。それが人生の、生まれてきた大きな目的です。悟りにあっては体も心も消えていきます。でもそこまでは役割があるのです。生きざまそのものを、一日一日、一瞬一瞬の生き方を真剣になさい。

              サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

「あなたは真剣か」最初に目に飛び込んできたこの教えにどきっとしました。そしてこれは「真剣にヨーガを学びなさい」というメッセージなのだと思いました。私はそれまで、正にここに書かれてあるように、食べて寝て、遊んで仕事して、それだけでいいのかな?他にすることがあるんじゃないのかなと思っていたのでした。そして師と出会い、私たちは永遠の命なんだよ、それを体得することが生まれてきた目的なんだよと教えていただいて、俄然生きていることが嬉しくなりました。他にすることってヨーガだったのね、そっちの方が大事だったのねと思ったのです。「真剣」とは、自分が取り組んでいること、自分の生き方に対して、手を抜かず夢中になること、ひたむきに、真摯に向き合うこととありました。

「あなたは真剣か」この言葉に再び励まされ、私は初心を思い出し、前だけを向いて、ただひたすらヨーガの道を歩んで行こう、そう思うのでした。

ダルミニー


一切は神

今回は、ラマナ・マハリシの「沈黙の聖者」をご紹介いたします。

インドの聖者であるラマナ・マハリシはその生涯をアルナーチャラという聖なる丘で過ごされました。インドの聖地の中でもアルナーチャラは最も聖なる場所、シヴァ神の秘められた聖なるハートの中心であるとも表現されています。そしてアルナーチャラにはさまざまな動物が住んでいて、この本の中でもたくさん紹介されています。

maharisi5

ramanaさる

いちばん有名なのは雌牛ラクシュミーの逸話です。子牛のラクシュミーは、毎日シュリ・バガヴァン(ラマナ・マハリシ)のところへやってきては足元に頭を垂れていくのでした。また牛小屋の定礎式のときにはたいそう喜んで、シュリ・バガヴァンを迎えに来たりしました。たいへん利口で気の利いたラクシュミーが亡くなった後の墓碑銘には、タミル語で「雌牛ラクシュミー、ヴィシャーカ星座の下で解脱したことをここに記す」とあります。そしてたくさんのお猿さんたちもアルナーチャラには住んでいました。猿たちがシュリ・バガヴァンの前にサマーディの状態で坐り、瞑想の手ほどきを受けている様子も書かれています。また白い孔雀も登場します。このときシュリ・バガヴァンは、これは混じりっけのない純白、グナの混合をもたないスッダ・サットヴァ(純粋の自己)を意味すると言っておられますが、その前を得意そうに通り過ぎる孔雀の写真が載っています。また三日間、同じ枝に止まり続けたカラスの話も出てきます。シュリ・バガヴァンに会いにきたこのカラスは、待ち望んでいたかのように主の手のひらの上で死んでいくのでした。他にも虫や、犬や蛇などたくさんの動物たちがラマナ・マハリシと一緒にアルナーチャラで暮らしていたのでした。その中には高貴な魂の動物たちもたくさんいたのでしょうか。ラマナ・マハリシはすべての動物たちに対して、本当に分け隔てなく接し、共に暮らしておられたのだなと思いました。

師は説かれます。

「ヨーガ行者たちがどのように社会と対処していけばいいのかといえば、すべて平等に接していくのがいい。すべては尊いアートマンなる存在、神なる存在なんだから、その真理を心得た上で丁重に接する、優しく接するということが基本になります」

「結局のところ、実存という、真実在として在るのは真理であるアートマン、あるいは神という存在だけです。形が千差万別あったとしても、そこにあるのは一つの真実だけです」

「ヨーガやあるいは神について学んでいけばいく程に、神は打算がない、そして駆け引きもない、そしてヨーガが教えるところはすべてが神でありアートマンである。単純にその思いだけが心を占めれば、さまざまな出来事の中に自ずと謙虚と感謝が生まれると思います」

 日本にも山を、神がいる場所、神が降臨する場所とみなすような山岳信仰がありますよね。それを思うとラマナ・マハリシがアルナーチャラという丘に住み続けておられたことも、私たち日本人にとっては、なんら驚くべきことではない、素直に受け入れられる出来事なのではないでしょうか。そして京都の町中の至るところにたくさんのお地蔵さんがおられます。日本古来の宗教である神道は「一切は神である」という考えを持っていますが、神々が住むこの日本に、そしてここ京都に、真実を説かれる私たちの師がお生まれになったことも、なんら不思議なことではないのかもしれないと思うのでした。

ダルミニー


平和にあるということ

在るのは平和である。
私たちに必要なのはただ静謐(せいひつ)だけだ。
平和が私たちの真の性質なのだ。
                       ラマナ・マハリシ

ヨーガを学び始めた頃、心は、身体のように目に見える物質ではないけれど、微妙な物質であると聞いてびっくりした覚えがあります。物質なのだと思ったとたん、心が自分から少し離れていったように感じました。心はいつも何かを考え、片時も静かにしていません。そのように客観的に「心」を眺めたことは今までにはなかったことでした。

師は心についてこう説かれています。

「心は自立できません。そのために常に何かを所有したがっている。『私は何々である、誰々である』『これを持っている、あれを持っている』『これができる、あれができる』『知恵がある、力がある』。何であれ心はそういうものであってしか成立しないのです」

師は、心は常に何かに依存しているものであると教えてくださいました。そしてそういう一切の依存関係、執着関係を離れた状態に心があるとき、それが静謐というものであり、その静謐を得る方法がヨーガにあると教えてくださっています。

ある時の問答で、この地球上での戦争や環境破壊、さまざまな理不尽なこととどう向き合っていけばいいのかという質問に、師は、人として苦しんでいる人たちにできることをしていくべきだとも教えてくださいましたが、それよりも自分自身をより良くしてくことが先決だと教えてくださいました。

「第一には自分自身の器、心とか身体とか状況とか、そういうものをより良くしていく。これは心が作り出す間違った欲望とか執着をなくしていくということに他ならないと思いますし、そうして普遍的な愛や慈悲あるいは平和を望む心、そういうものを培って、それを具体的な行為に移していくことができればいいと思います。ともあれ、まずすべきは自分自身の中の平和を確立すること、真実を確立すること、それによって外への働きは有意義に行なわれると思います」

自分自身をまずより良くしていくこと、それがこの世界をより良くしていく第一歩となる、この意味はヨーガの教えを学び、実践していくと実に良く分かります。なぜならヨーガを実践していくと家庭や職場の中で、次第に自分と人と人との間に調和というものが生まれてくるのを感じることができるからです。平和が私たちの真の性質であるからこそ、私たちは平和を強く望んでいるのだと思います。
ヨーガを実践し、もともとの性質である平和な自分自身に戻ろうではありませんか。
それが、世界の平和に貢献することになるのですから。

ダルミニー

シュリー ラナマ マハリシ

シュリー ラマナ マハリシ

 


シュリーマッド・バーガヴァタム アンバリーシャ王の物語

かのスータ(神話を朗唱したり解説する高徳な吟遊詩人)が、「バーガヴァタム」を語り続けている。

アンバリーシャは全地の王となり、すべての富と快楽を思いのままにしました。しかしそれらは王にとって何の意味もありませんでした。なぜなら彼は主クリシュナを愛していたからです。永遠で至福に満ちた存在であられる神、主クリシュナを愛するようになった者は、この世の空しい欲望に魅了されることはないのです。

アンバリーシャの心は、いつもシュリー・クリシュナに集中していました。
彼の唇は主クリシュナの栄光のみを語り、手はクリシュナへの奉仕のみを行ない、耳は主の御言葉のみを聴いていました。眼は主の神聖な現れを観、触感は主の現存を感じ、臭覚は主の神聖な香りのみを嗅いでいました。味覚は主の取られた食べ物のみを味わい、足は主のおられる場所のみ赴き、頭は主クリシュナの蓮華の御足に触れていました。

Krishna-4
シュリー クリシュナ

ある時彼は、全宇宙の主に、ある誓いを立て、一年間の特別な修行を行なっていました。その最後の断食を解こうとしていた時、聖者ドゥルヴァーシャがやってきました。王はうやうやしく挨拶をし、祝宴の席にその聖者を招いたのでした。その後、ドゥルヴァーシャは沐浴に行ってしまい、断食を解く吉祥な時間になっても帰ってきませんでした。そこでアンバリーシャは誓いを無効にしないために、水だけを飲むことにしました。これは招き客に対しても無礼にはならないことだったのです。

しかしドゥルヴァーシャは戻るなり、王が水を飲んだことに対してひどく立腹しました。自分が軽んじられたと思い、瞬間的な怒りの熱で王に呪いをかけたのです。呪いはデーモンの姿を取って、アンバリーシャに襲いかかろうとしました。しかし、悪魔は王の平静で恐れのない態度に敵意を挫かれ、反対にドゥルヴァーシャの方に向き直り、彼を食い殺そうと襲いかかってきたのでした。自己の呪いから必死に逃げようとするドゥルヴァーシャは、ブラフマーやシヴァのもとへと赴きましたが、誰も彼を助けることができませんでした。最後の手段としてドゥルヴァーシャは主ヴィシュヌのもとへ行きました。主ヴィシュヌはこう告げます。

「私もまたどうすることもできないのだ。なぜならお前は私の帰依者を侮辱したからだ。私は自分の帰依者を愛し、喜んで愛する者たちの奴隷となっている。また彼らは私のためにすべてを喜んで犠牲にし、自らを全く私に捧げきっているのだ。もし誰かがそのような帰依者を呪うなら、その呪いは力を増して、その者自身へと戻ってくる。唯一人だけお前を救える者がいる。呪いによって侮辱した者のところへ行って、彼の許しを請え。それだけがお前を救い得るだろう。さぁ、すぐに行け。成功を祈ろう」

ドゥルヴァーシャは自己の呪いから逃れる術がないことを知り、王のもとへ行き、謙虚に許しを請いました。王は十分な敬意を示して、聖者を快く許し、その魔力からドゥルヴァーシャを救うために、主に祈りを捧げました。

「おお主よ、あなたの無限の御力は、すべてのものの内に存在しております。
日の中にも、太陽の中にも、月や星々の中にも、あなたはおられます。
また水や地の中にも、空や風の中にも、そして、全宇宙の微細なエレメントの中にもおられます。
あなたは全てのものの内の全てです。
どうか、まったき愛の御力によって、ドゥルヴァーシャを守護してくださいませ。
そして、私たちすべてが、あなたの平安を知ることができますように」

ドゥルヴァーシャはハートのうちに平安を見出し、すべての悪から清められたのでした。

この美しい、愛あふれる物語を読んでいるだけで、私の心は深い充足と安心に満たされます。
主ヴィシュヌの愛、そして、その帰依者であるアンバリーシャの愛によって、ドゥルヴァーシャは清められ平安へと導かれていったのでした。

バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)の中で、愛はこう定義されています。

バクティ・ヨーガは、真の、純粋な主の探求です。愛に始まり、愛でつづき、愛に終わる探求です。たった一瞬の神への愛の狂気は、我々に永遠の自由をもたらします。
「バクティは、神への強烈な愛である」「人がそれを得ると、彼はすべてを愛し、何者をも憎まない。彼は永久に満足してしまう」「この愛は、いかなるこの世の利益の期待にも、格下げされるものではない」

まさにアンバリーシャ王は、この愛の中に生きた人であったのだと思いました。
師はヨーガによって、本当の愛に目覚めることができると教えてくださっています。
私たちすべてが、本当の愛に目覚めることができますように。

ハレ クリシュナ ハレ クリシュナ  クリシュナ クリシュナ ハレ ハレ
ハレ ラーマ ハレ ラーマ      ラーマ ラーマ ハレ ハレ

ダルミニー


ヨーギーの日常

ある時、ヨーギーは自分の心に起こるすべての思いを制御しなければならないということを本で読んだことがあります。その時、すごいな〜と思う反面、大変だなぁと思いました。

思いは絶えず無秩序、無制御に湧き起るし、とてもじゃないけれどすべての思いは制御できそうにありません。

でもある時、師は言われました。

自分の体の行為、それから言葉、そしてまた心が何を思っているかという想念は、すべて知られている。知っていなければいけない。そうでなければ制御できない。そうでないと、単に習慣が我が物顔で体を支配してしまう。

これを伺って、「単に習慣が我が物顔で体を支配している」様子を思い浮かべると、何だかぞっとしました。

でも自分の行動をよく観察すれば、習慣的に無条件で行動し、言葉を話し、思いが湧き上がっているようです。実態を知ることから始め、ここにヨーガの条件を当てはめて習慣を変えていく、これが「識別」といわれる実践です。

知らず知らずについた習慣と言いますが、よくよく注意して自分自身の行動と言葉と思いを検証してみなければなりませんね。

ヨーギーとは、そんなとてつもないことをさり気なくしているのですね。

サーナンダ


バーガヴァタ・プラーナ 悪魔バウマの解放

みなさま

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年は酉年ですね。酉年は「とりこむ年」といわれ縁起のいい年です。運気を取り込み、“絶好鳥”な実りある年といたしましょう。というわけで、鳥といえばクリシュナの乗り物である聖鳥ガルーダが有名ですが、今回は「バーガヴァタ・プラーナ」から、主クリシュナが聖鳥ガルーダに乗り悪魔バウマを退治した物語をご紹介しましょう。

悪魔バウマが水神ヴァルナの王座から君主の象徴である傘を力ずくで奪い取り、神々の母であるアディティから耳飾りを略奪し、さらに天界のメール山にあるマンダラ山頂のマニパルヴァタを占領してしまったことを、天界の王インドラ神から知らされた主クリシュナは、妻サティヤバーマーと共にガルーダに乗り、悪魔バウマが治める都まで飛んでいかれたのでした。

その都の四方は要塞で囲まれていて、火と水、風の帯がその周囲を囲み、バウマの従者である悪魔ムラの造った罠があちこちに仕掛けられていました。主クリシュナはこん棒と円盤(スダルシャン)を使って、そのすべてをことごとく破壊し、また五つの頭をもつ悪魔ムラをもスダルシャン・チャクラを使って、その頭を断ち落とされたのでした。

悪魔ムラとガルーダ

悪魔ムラとガルーダ

ムラには七人の息子がいて総攻撃をかけてきましたが、ハリ(クリシュナ)は鋭い矢を三本ずつ射て、それらをことごとく粉砕されました。さらに背に主を乗せる聖鳥スパルナ(ガルーダ)は、眼下を駆ける象たちを翼でなぎ倒していき、くちばしや翼、爪で攻撃するや、象たちは完全に狼狽して、慌てて都まで退却していったのでした。こうして自軍が壊滅するのを見た悪魔バウマは、稲妻さえも凌ぐほどの勢いで、ガルーダめがけて槍を投げつけました。しかし聖鳥ガルーダは並の鳥ではありません。その槍は、まるで象の身体に花環が触れたほどのものでしかありませんでした。攻撃が完全な失敗に終わったのを知ると、悪魔バウマはクリシュナめがけて、手に構えた槍を投げつけんとします。その瞬間、シュリー・ハリは剃刀のように鋭い円盤を投げて、象に乗った彼の頭を切断されたのでした。

その後、あらゆる富に囲まれた悪魔バウマの宮殿に入られたクリシュナは、バウマが諸国の王たちを滅ぼして連れてきた一万六千百人もの王女たちが幽閉されているのを発見されたのです。自分たちの部屋へ入って来られた美しい英雄の姿を目にすると乙女たちは完全に心を魅了されて、主を全員が夫として求めたのでした。
「どうか、この方が私の夫となられて、創造主がそれに賛成してくれますように」
そんな王女たちの思いを知られるとクリシュナは、王女たち全員の身を清めさせて、美しく着飾らせ、最高の宝石や馬車、馬などをもたせて、駕籠に乗せ、ドワーラカーへと連れていかれたのでした。

幽閉されていた王女たちは美しい主クリシュナに惹きつけられます

幽閉されていた王女たちは美しい主クリシュナに惹きつけられます

全能の主はその後、自らの普遍性と完全性を保ちながら、王女たちと同じ数にご自身を顕わされて、各宮殿で結婚式をあげられました。自らの祝福において完全であり、想像もできぬわざを為されるクリシュナは、素晴らしい宮殿にて、全く同時に姿を現して、家長の義務を立派に果たし、まるで普通の人間のように振る舞いながら、女神ラマーの部分的顕現である彼女たちと楽しく暮らされたのでした。王女たちには何百人もの侍女がいたものの、主が宮殿に来られるや、自分で主を迎えにいき、礼拝の品や席を捧げ、主の御足を洗い、キンマの葉を捧げたり、扇で風を送ったり、白檀や花環を捧げ、主の髪型を整えたり、沐浴の準備をしたり、食事を提供したりして、主に奉仕をしていったのでした。

シュリー・クリシュナは聖典の中でおっしゃっています。

私の献身者はすべての人に憐れみ深く、そして誰にも敵意を抱かない。彼らは忍耐強く、真理を唯一の力としている。また彼らは汚れなく、すべての生き物たちを平等な眼で観て、すべての人々の利益のために働く。ハートが欲望で汚されず、自制心があって、心優しく、純粋で、エゴの意識がない。また寂静で、節度があり、心をよく制御し、私を拠り所として、絶えず私を瞑想している。

主クリシュナのお妃たちは、主クリシュアの献身者であることに間違いありません。これは、人間の営みの理想の姿を現しているのだと思いました。私たちは家族に対して、また他者に対して、どれくらい献身ができているでしょうか。この物語を絵空事だと片付けてはいけないのだと思いました。
師は、私たちの本当の自己は、純粋な意識、存在、アートマン、または神と呼ばれると教えてくださっています。そうであるなら、私たちすべてのうちに主クリシュナがおられるのです。その思いが私たちを他者への献身へと向かわさせてくれるのだと思いました。そして悪魔は無知やエゴの象徴です。ばっさばっさと悪魔を切り刻む主クリシュナの栄光を、この目で見てみたいものだと素直に思うのでした。

ダルミニー


シュリーマッド・バーガヴァタム  チトラケトゥの物語

%e3%82%af%e3%83%aa%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%83%8a-29

人としての誕生は実に祝福された誕生です。すべてのさらなる成長のもととなる自己認識への一つの進化だからです。人間のみが最高の真理を知り、完成に達することができるのです。しかし、あぁ自己にとって何が有益かを知ろうとするものは実に少数です。真の自由を望む者はさらに少なく、真理を学び自由を獲得するものはもっと僅かです。そしてハートを神と合一させ、至高の善に達した平穏なる魂は、まことに希です。私が説こうとしている真理を示す、古代のある物語を教えましょうとスータは話し始めました。

ある時、シューラセナに、チトラケトゥという有名な王が住んでいました。彼の心の欲望はただ一つを除き、すべて満たされていました。しかしただその一つのために王は幸福ではありませんでした。巨万の富も、美しい妻も、若々しい活力も、彼を満足させることはできませんでした。王は息子を望んでいたのでした。

ある日、偉大な聖者アンギラが宮殿にやってきました。彼は王の胸に悲しみがあるのに気付き、その原因を知ると同情して、彼と王妃に祝福を授けました。そして別れ際にこう告げました。「おお王よ、あなたには息子が与えられるだろう。しかし彼はあなたにとって、大きな喜びとともに大きな悲しみの原因となるだろう」

やがて男の子が誕生し、王の喜びは限りがありませんでした。すべての人の心にも喜びがありました。しかしその喜びは悲しみへと変わりました。息子は嫉妬深い妃たちによって毒を飲まされ死んだのでした。

王は苦悩に耐えきれませんでした。そこへ再び聖者アンギラが、今度は聖なる予見者ナーダラと共に現れ、このように話しかけました。
「おお王よ。誰のためにそのように悲しんでいるのでしょうか。あなたが息子と呼んでいた者は死んではおりません。魂たちは川の流れる砂のように、時という流れに運ばれて互いに出会い、そしてまた別々に連れ去られます。肉体にのみ誕生があり、そして死があるのです。しかし魂は不滅です」

チトラケトゥ王は二人の偉大な聖者の御前で大いなる平安を感じ、尋ねました。
「おお聖者方よ、あなた方はどなたでしょうか。あなた方のような聖者は地を彷徨いつつ、無知と不安のあるところに知識と平安の光を放っておられます。どうかすべての無知が消えますよう、その光を私にもお注ぎください」

聖者アンギラが答えます。
「以前あなたにお会いした時、私は最高の覚醒を授けることもできたのです。しかしその時、あなたの唯一の望みが息子であったため、私は息子を祝福したのです。しかし、今やあなたは、息子を欲することの意味を知ったはずです。人の生のすべては無常です。富も健康も家族や子供たちも、それらはすべて消えゆく夢に過ぎません。悲しみや苦しみ、幻想や恐れもまた、つかの間です。誕生や死など、人生の多くの二元性を実相と見ることを捨て、識別することを学びなさい。一なる真理のみを知り、平安を見出しなさい。私はあなたに聖なるマントラ、神の御名を授けましょう。このマントラを繰り返し唱え、それについて瞑想しなさい。自己を制御し、心を集中して神を思いなさい。すぐにもあなたはすべての悲しみを超え、平安を見出すでしょう」

すると死んだ息子の精霊が偉大なる聖者ナーダラの御前に現れました。ナーダラは精霊に「もう一度、死んだ身体に入って、地上での与えられた寿命を全うし、両親や友人を喜ばせてください」と頼みました。しかしその精霊はこう言いました。
「母とは誰でしょうか。父とは誰でしょうか。私には誕生も死もありません。わたしは永遠なる意識です。魂はカルマに支配されて、多くの生と多くの身体とを旅します。無知の故に肉体に縛られ、この世のさまざまな人間関係を経験させられます。しかし私は自分自身が誕生も死もない普遍の意識であることを悟りました。私はこの世の愛情や善悪に触れられても、影響されもしない永遠の意識です。私は永遠の目撃者、私は実に彼である」こう言って精霊は消え去ったのでした。

嘆き悲しんでいた両親は執着や悲嘆から解放され、二人の偉大な聖者の叡智によって慰められ、その御足に平伏したのでした。チトラケトゥ王が偉大な聖者に教えられた霊性の教訓を実践し始めると、すぐに心は覚醒され愛なる神のヴィジョンを観ました。修行を続け平安と静寂を得た王の心に、ますます大きな覚醒が訪れ、ついには自己とブラフマンとの合一を達成したのでした。

ヨーガと瞑想の修行に熟達した者は、人生の目的とは神との合一を得ることであると知るようになる。

師は説かれます

人間の本質というものは一体何なのか、そしてその本質と心と身体の関係はどうなっているのか、これを明らかにし、正しく理解することによって、肉体から生じた苦しみ、あるいは心が作り出す苦しみや悲しみ、こういうものを正しく解決することができます。私たちの本体というのは、この身体でもなければ心でもなくその奥にある魂である。このことを知り、悟ることが人間の全歴史の究極です。

ヨーガを学び、死を正しく理解することによって、死は悲しむべき不幸なことではない、死にゆく人の次の生での幸せを祈ることができるのだと思えるようになりました。そして私たちの本質を知ること、私たちの真理を知ることが、この誕生を本当に祝福された誕生とすることになると、この物語は教えてくれているのだと思いました。

ダルミニー