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春の祝祭レポート:ヴィヴェーカーナンダに出会った日

4月6日 第8回サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー 神性示現大祭に参加しました!今年は、インドの聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていく祝祭でした。
春の暖かな日差しがあふれる京都アスニーの会場には、等身大のヴィヴェーカーナンダのパネルが祭壇の横に設置されました。私は「ヴィヴェーカーナンダが会場に来ている!」と感じました。


祝祭はプージャーから始まり、讃歌、祝辞、ショートメッセージ、映像の上映、聖劇などが奉納されました。第一部「師シュリー・ラーマクリシュナの導き」、第二部「衝動と覚悟」、第三部「サナータナ・ダルマの布教、そして後世へ」で進行しました。
台湾やニューヨークの兄弟弟子たちもオンラインで参加し、国を越えて心をひとつにして、皆でヴィヴェーカーナンダの生き様に触れ、その言葉に鼓舞されて、新たな一歩を踏み出せた一日でした。


祝祭の中で私は何度も感動しましたが、今も印象に残っているのは、ヴィヴェーカーナンダが「とても忙しく働き、すべてを人のために捧げていたこと」です。ヴィヴェーカーナンダの西洋での活動をまとめた映像が紹介されました。その中で、彼がアメリカ滞在中に講演を行なった数十カ所の都市を、地図上にマークしたシーンがありました。私はそれを見た時、ヴィヴェーカーナンダは寝る間もないほど忙しかっただろうなと気付きました。アメリカという異国の地で、様々な不自由もある中で、人々に真理を語り続けたこと。その裏には、辛抱強さや優しさがあったと思います。私は、仕事で悩んだとき、彼の講演の一部がまとめられた『カルマ・ヨーガ』にいつも勇気づけられています。この本の中で、「すべてを人のために捧げて働きなさい」と教えられていますが、ヴィヴェーカーナンダご自身が、本当にそのように働かれていたのだなと思いました。深く心を打たれ、この本がますます大切な一冊になりました。
そして何より、印象に残ったのは、祝祭のさまざまな場面で紹介された、ヴィヴェーカーナンダの力強い言葉の数々です。その中でも、ショート・メッセージの方が引用されていた次の言葉は特に私の心に深く響きました。

「弱さの治療薬とは、弱さについて考えることではなく、強さについて考えることだ。人には強さについて教えよ。それは既にわれわれの中にあるのだ。信じること、信じること、自分自身を信じること、神を信じること――これが偉大さの秘訣だ。……自分自身を信じ、自分自身への信仰に立脚して、強くあれ」

(『立ち上がれ目覚めよ – スワーミー・ヴィヴェーカーナンダのメッセージ』 15~16ページ)

この言葉は、私の内側に静かに突き刺さりました。これまで私は、自分に対してどれだけ信頼を持っていたのだろう。ヨーガを学び、「真理を求めている!」と言いながらも、どこかで言い訳を作って諦めていたのではないかと思いました。しかし、同時に、前向きな考えも浮かびました。「日々の行ないを正し、精進することで、自分自身をもっともっと信じることができる。強くなれる。自分自身の中にもきっと真理はあるはずだ!」と強く思えたのです。

祝祭の三部、「サナータナ・ダルマの布教、そして後世へ」の中で、とても力強く祝辞を述べるグルバイの言葉がありました。「今、失敗や成功だとしても、その判断さえも間違っているかもしれません。私が失敗しても、次の人がその失敗を学びとして、それでうまくいけば、それで成功です。一人ではただの失敗や不可能なことでも、みんなで力を合わせれば、目標に到達できる」「スワミジー(ヴィヴェーカーナンダ)からの仕事が今も進行中で、私たちは今も仕事をしています。彼からのバトンを受け取り、走っている最中です」とおっしゃっていました。その姿はまるでヴィヴェーカーナンダのようでした。私も、「まだヨーガを始めたばかりで、人に伝えるなんてできません」と言い訳せず、「自分も学んでいることを還元できるようにしていきたい!」と思いました。

今回の祝祭では、ヴィヴェーカーナンダの言葉に何度も勇気づけられました。なぜ彼はこれほどまでに人々を鼓舞し続けたのだろう、その原動力はどこにあったのだろうかと疑問に感じました。その疑問に対する答えを、司会者の方が教えてくださいました。それは、師シュリー・ラーマクリシュナの恩寵だということです。
恵まれたことに、私達にも尊敬する師シュリー・マハーヨーギーがいます。この春の祝祭を考案されたのは師です。師に教えていただいたヨーガをしっかりと体得し、できる限り多くの方々に伝えていきたいと思います。そのために、これからも精進してまいります。

聖劇では金森さんがヴィヴェーカーナンダを力強く演じられていました。「放棄せよ!放棄せよ!--あなた方は自由である!自由である!自由である!」という言葉は私の中に今も響いています。祝祭後にその金森さんと撮った一枚の写真は、私にとって大切な一生の思い出です。

島本 廉


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ②

4月6日に開催された春の祝祭は、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの魂に迫っていく内容でした。ヴィヴェーカーナンダの力強い言葉、人類の救済に全てを捧げた生き様は、兄弟弟子や大勢のヴィヴェーカーナンダの元に集った人々を真理へと導きました。そしてその導きと恩寵は、今も私たちにも注がれていることを感じました。ヴィヴェーカーナンダの衝動によって魂が奮起するような、祝福に満ちた会でした。

さて前回から始まった『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ。
大学生になったナレンドラ(後のヴィヴェーカーナンダ)は、ブラフモ・サマージという社会運動及び宗教運動組織に参加していました。しばらくの間その祈祷会や信仰の歌に心の高揚を感じたものの、霊性の実体験を伴っていないことに気がつきました。そして「神を見た人のもとで教えを乞いたい」という抑えがたい欲求を感じ、その切望のもと、1881年11月、師ラーマクリシュナに出会いました。

ラーマクリシュナから見て、身なりや外見に無頓着なナレンドラは、一緒に寺院を訪れた他の若者たちとはまったく違っていました。いくぶん内に向いた目が印象的で、瞑想的な雰囲気を醸し出していました。ナレンドラは師に尋ねました。

「師よ、神をご覧になったことはありますか?」
師は間髪入れずに答えられました。
「ああ、あるとも。私はここでお前を見ているように神を見るのだよ。しかももっとはっきりと見るのだ」
ナレンドラは、初めて神を見たと言いきる人に対面して驚愕しました。

五年間にわたって師と間近に接したナレンドラは、決して盲信に影響されることなく、常にラーマクリシュナの言動を厳しい理性の試験にかけました。近代精神の象徴の如く、知識欲旺盛で、機敏で、知的な純粋さを持つナレンドラは、どんな結論も合理的な証明なくしては受け入れませんでした。しかし、師がナレンドラに理性を捨てるように求めたことは一度もありませんでした。ナレンドラの理性が究極の神秘を解き明かせなかった時には、師が弟子に必要な洞察力を授けられました。こうして師は限りない忍耐と愛、そして慎重さを持ってナレンドラの反抗的精神をなだめ、霊性の修行へと導かれました。

ヴィヴェーカーナンダが肉体を離れる2年前に、弟子に宛てた手紙にこのように書かれています。

「結局私はドッキネッショルのバンヤンの樹の下でラーマクリシュナの素晴らしい言葉に耳を傾けて心を奪われていた少年に過ぎないのです。それが私の本性なのです。善をなすことなどはすべて付け足しです。今再び師の声を、私の魂を感動で震わせたあの懐かしい声を聞くのです」

『スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの生涯』より

最愛の師の下で、仲間と修行に励んだかけがえのない日々。美しいドッキネッショル寺院、ガンジス川、バンヤンの樹。後に西洋へ渡り、世界中に真理を広めたヴィヴェーカーナンダの胸の内にはいつもこの情景があり、力の源となっていたのではないかと思います。

サルヴァーニー

 


春の祝祭を終えて

春の祝祭2025昨日開催された春の祝祭「サナータナ・ダルマ アヴァターラー メーラー―神性示現大祭―」は、日本各地より、またオンラインではニューヨーク・台湾の仲間たちも集い、盛会のうちに終えることができました。

数々のメッセージ、聖劇や映像など、すべてのコンテンツを通して、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダの息吹、偉大なハートに触れることができました。人類の救済へと立ち上がり、師シュリー・ラーマクリシュナと一体となって世界を駆け巡った彼の精神の迸り、勇敢なる力強い生き様と言葉に、私たちは落雷に打たれたような大きな衝撃、感動を受けました。

彼が成し得たことを思えば、ただただ圧倒されます。しかし、そこで止まってはいけない。この祝祭は私たちの内面と行動を革新させるべく、一人一人に大事な問いを残したのではないでしょうか。

彼の生き様に少しでも倣い、現代、これからの未来に向かって、私たちはどのように具体的な行為として踏み出していくことができるのか――。
高い理想を掲げ、自らの使命に覚醒するために、どれほどまでに悩み葛藤し、渇望できるのか――。

スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ


目覚めよ! 起きよ!

大胆なれ! 真理に立ち向かえ!
真理と一つになれ!

――スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
(当日のプラサードのカードの言葉より)

当日の報告、感想を改めてこのブログでも掲載します。また詳しい模様は、マハーヨーギー・ミッションの会員サイトWeb版「パラマハンサ」にて配信予定です(4/30)。

 

桜 プレーま

プレーマ・アーシュラマ周辺の桜も満開を迎えました

マハーヨーギー・ミッション 


『Paramahamsa』表紙絵シリーズ⑭

「桜の花がほころぶ頃に来ていただきたい」
一昨年秋に開講した大阪クラスの弟子たちの強い願いを、ヨギさんはお聞き届けになり、大阪でのサットサンガが開催されました。
それは2002年3月31日のこと。
突き抜けるような青空が広がっていました。

大阪に来てくださった師のお姿を前にして、目に涙を浮かべる大阪の弟子たち。
その姿にヨギさんは満面の笑みで応えてくださいました。
弟子たちは、溢れる喜びと最大の感謝の記しに師に花束を捧げ、そして会場までの道のりを談笑しながらゆっくりと進みます。途中、満開の桜の下では写真撮影も行なわれました。

そうして会場に到着。この日の参加者は30名ほどでした。
師の紹介がなされ、サットサンガの質疑が始まろうとしたまさにその直後のこと、先程まで晴れ渡っていた空から突然大粒の雨が降り出し、屋根を叩く激しい音が会場に響きました。まるでスコールのような激しい雨は、屋根の下に居ることへの安堵と、また清々しさを感じさせ、その小さな驚きが緊張ぎみの皆の心を解き放ちました。

そして「今日はちょうど桜も見れましたし」と楽しげなヨギさんのお言葉に笑いが起こります。

これには理由があり、今回のサットサンガの準備を主軸となって進めていた長石さん(アンビカー)には、満開の桜並木を通ってヨギさんを会場へご案内するという計画がありました。しかし、桜だと思っていた並木が実はケヤキだったと、新しい眼鏡を作って(?)気がついたというのです。え〜〜!!!!!! とは、長石さんがいちばん思われたことでしょう。
ただかろうじて2本の桜の木があったそうで、そのことを先週の京都のサットサンガで報告され、楽しい話題となってあがっていたのでした。

今回のパラマハンサNo.31の表紙絵は、この大阪に来てくださったヨギさんのことを描いてみました。
春色の花束を胸に抱かれ、オレンジ色のジャケットとパンツをスマートに着こなされているヨギさんのお姿は本当に美しく、笑顔が輝いていました。
大阪クラスの弟子たちは、日数はまだ長くはないものの、皆、真剣にヨーガを学び、実践を続けていました。そしてクラスは毎回高い集中感の中で行なわれ、皆のヨーガへの情熱は高まり続けている、そんな頃だったのです。
--この情熱こそが、全ての障害を速やかに取り除く、そして、ヨギさんがいつも弟子たちに求められるものではないでしょうか。
師の慈愛に満ちた眼差しが弟子たちに注がれました。

この日のサットサンガの内容は、基本的な3つの瞑想法の伝授から始まり、師の教えと、シュリー・ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダの教えとの共通性と特異性に関して、という師のミッションに関わる質問がなされました。その中で、短いながらもシュリー・ラーマクリシュナやスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの偉大なる働きについても言及され、濃密な時間となりました。
*このサットサンガの内容は紙面『パラマハンサ』No.31に掲載されているのでぜひお読みいただきたい。

🌸         🌸        🌸

さて、今年の桜の開花はどうでしょうか。
「桜の花が咲く頃に」とヨギさんが企画してくださった、今年の「サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー」は、ももうすぐそこまで来ています。今年の祝祭ではヨギさんが愛されたスワーミー・ヴィヴェーカーナンダがどのようなお姿を見せてくださるのかとても楽しみですね。
願わくば、桜が満開に咲き誇る中、サナータナ・ダルマとアヴァターラへの憧れと敬意を胸に抱き、共に感謝を捧げることができますように。

シャチー


『ヴィヴェーカーナンダの生涯』イラストシリーズ①

今年の春の祝祭は、インドの聖者、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダに迫っていく内容になるとのことで、とても楽しみにしています。個人的にもこの機会にヴィヴェーカーナンダにもっと親しみたいと思い、本を読んでいます。今年のブログでは、『ヴィヴェーカーナンダの生涯』から印象に残ったエピソードなどから想像を膨らませてイラストを描いていく予定です。

今回は子供の頃のヴィヴェーカーナンダのいくつかのエピソードをイラストに描きました。可愛く陽気な性格で、エネルギーに溢れていた子供の頃のヴィヴェーカーナンダ。
ペットの牝牛や猿や鳩や孔雀を可愛がっていたそうで、それを聞くと鳥や動物に対する愛情を持ち、命を大切にされていたことを感じます。
またサードゥ(僧)が好きで、サードゥが施しを求めた時には、唯一の持ち物であった新しい腰布を与えてしまうほどでした。
母親から教わったヒンドゥの神々への愛を育み、子供の頃からシヴァの神像の前で瞑想を行なっていました。瞑想の最中にはしばしばこの世に対する意識を失い、ある時は、杖と水椀を携えた澄み切った表情の光り輝く人のヴィジョンが見えました。それはおそらく仏陀のヴィジョンだったと、後に思われたそうです。
この頃は眠りに入ろうとする時に、毎日不思議なヴィジョンを体験しました。目を閉じると、眉間に輝く光の球が色を変えながらゆっくり広がって、最後には全身に白い光を浴びせながら破裂するのです。この光を見つめながら徐々に眠りに落ちていきました。毎日のことなので誰にでも起こる現象だと思っていましたが、友人が、そんなのは見たことがないと言うのを聞いて驚きました。この光は、偉大な霊性の過去と生来の瞑想の習慣を示唆するものでした。

このように子供の頃から神を慕い、神との強い結びつきを感じさせるヴィヴェーカーナンダですが、恐れと迷信には我慢がなりませんでした。ある時ヴィヴェーカーナンダは友人たちと子供の悪戯で、近所にある木に登って花を摘んだりして遊び、その木の持ち主に注意を受けていました。それでも悪戯を止めないので、木の持ち主はこう言いました。「あの木を守っている白い着物の幽霊は、邪魔されると、必ず首をへし折りに来るんだぞ」
それを聞いて友人たちは怖がって木に近づくのを止めました。しかしヴィヴェーカーナンダはいつも通りに木登りを楽しんで、さらに枝を数本折るという悪戯をして、友人たちにこう言いました。
「君たちは何て馬鹿なんだ! ほら、僕の首はまだつながっているじゃないか。あの爺さんの話は真っ赤な嘘だ。自分が本当だと信じない限り、人の言うことを信じるな」

この単純にして大胆な言葉は、ヴィヴェーカーナンダが将来世界に発した次のメッセージを暗示するものでした。
「本で読んだからといって、信じてはならない。誰かが本当だと言ったからといって、鵜呑みにしてはならない。伝統的に崇められている言葉だからといって、信じてはならない。自分で真理を見つけなさい。解明しなさい。それが本当に理解するということだ」

子供の頃から深い洞察力を持ち、真実を見極めようとしていたこと、またそれを大胆に行動に移していたという、ヴィヴェーカーナンダの素晴らしい気質や探究心を知ることができるエピソードで、印象に残りました。

サルヴァーニー

 


人は神になることができる

今年のバクティ・サンガムのシリーズでは、毎月様々なインドの神様を取り上げ、その神様にちなんだキールタンを歌っています。そしてもう一つの柱が、ヨーガを西洋に伝えたインドの聖者、ヴィヴェーカーナンダを取り上げ、彼の純粋な信仰と献身奉仕について学んできました。また彼のグル(師)を讃えた讃歌、「Achandalapratihatarayo」も、年間を通してずっと歌ってきています。

この歌は前半部分はとてもメロディアスで、後半はリズムがあり、また途中には楽器だけの間奏があったり・・・と、様々な表情をもつ歌です。歌詞が難しいこともあり、シリーズが始まった頃は、参加されている皆さまも、ずっと下を向き、歌詞カードを見ながら歌われていた方も多かったのですが、先日1月末のバクティ・サンガムの時には、ずいぶん歌詞とメロディーを覚えられたようで、顔をあげて歌われる方も多くなってきました。継続は力なり! 月一回でも少しずつ歌うことによって、とても安定して歌えるようになってこられていて、本当に素晴らしいなぁ!と感じました。

この歌は、途中で「naradeva」という単語を何度も何度も繰り返していきます。nara が人、deva が神という意味で、「人にして神である者よ!」という意味になります。この曲はキールタンとは違い、全体的に歌詞がどんどん変わっていく歌なのですが、途中から、naradeva という単語を、”これでもか!”というくらいずっと繰り返す部分が何か所かあります。歌の中で歌詞にできる文字量って限られていると思いますが、それでもこれだけの分量を割いて、ヴィヴェーカーナンダはこの言葉をこの歌の中に入れ込みました。

ヴィヴェーカーナンダは、師であるシュリー・ラーマクリシュナに出会い、薫陶を受ける中で、人は神のような存在になり得るということを目の当たりにして、本当に驚嘆し、歓喜したに違いありません。それはどんなに多くの聖典を読んだとしても、どんなに聡明であっても、実際に肉体をもったグルに出会わなけば、きっと知り得なかったことだと思います。

彼が少年のような眼差しで師を見上げ、敬愛し、生涯その御足下にひざまずいたその純粋な思いが、この単純な「naradeva!」という歌詞に凝縮されているように感じて、本当に感動します。バクティ・サンガムに参加されている方も、特にこの「naradeva」の箇所がお好きな方が多いようで、この部分を歌う時は、みんなの熱がこもっているのが伝わってきます。
4月に行なわれるサナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラーでも、この歌を歌います。大勢の方とともに歌えることがとても楽しみです。

今回のバクティ・サンガムのシリーズは、次回の実開催2/23(日)(オンラインは3/2)で一旦終了となります。ご興味のある方は、ぜひご参加いただき、一緒に歌っていただければ嬉しいです!

ミラバイ

 


『ホーリー・マザーの生涯』に触れて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に聖典を通してお会いできたのは、ヨーガを始めて比較的早い時期でした。その頃の私は、マザーの生涯に触れる度に、考えられないほど多くの家事を淡々とこなし、日夜、家族の問題を抱えられている・・・他者の幸せを喜び、苦しみに泣かれる姿を想像し、なんて大変なんだろうという思いでいっぱいになり、憧れというよりは遠い存在に感じました。しばらくは聖典を手に取ることもなく本棚に並べたままになっていました。

けれども、今年の春の祝祭では「サーラダー・デーヴィー」に焦点が当てられることになり、バクティ・サンガムのクラスでは毎回マザーを讃える歌や、講師の方が聖典を通して彼女の生き様からどのようなことを学んでいったのかを教えていただく時間がありました。クラスで学びながら、久しぶりに聖典を取り出し、もう一度、読み進めていきました。改めてマザーの生涯に触れると、前とは違う気付きがありました。それは大変なことが多かったかもしれないマザーの生活は、霊性の修行が礎にあって成り立っているということでした。

“大小を問わずひとつひとつの行為に、神との全き合一であるヨーガを実践しておられた。彼女と神のご意志はひとつだった。家住者でありながら、出家者に定められた放棄の理想から決して逸脱されることはなかった。不快な務めを避けられることも、快い務めを歓迎されることもなかった。あらゆる活動の最中にあって、決して神を忘れられることはなかったのである”

『ホーリー・マザーの生涯』より抜粋

マザーが実践された修行は、とても凄まじいものだったと思いますが、このことに気付いてからは、私たちもヨギさんから教えていただいたアーサナや瞑想、聖典の学習などの修行をしているのだから、少しずつマザーに近づいていけるに違いないと、マザーの存在を以前より近くに感じられるようになっていきました。

そんな時、職場で、準備から当日の発表まで何カ月もかかる仕事を任されることがありました。そしてその仕事が終わってからも、なかなか忘れられずに抱えたままになっていて、ふとした時に思い起こされる日が続いていました。アーサナをしていても、ちょっとした隙に思い出してしまう・・・もう捨て去りたいと思いながら瞑想に座りました。瞑想に座ってしばらくすると、マザーが近づいて来てくださり、真剣な表情で「一体それは誰の仕事だというのですか」と言われました。思いもよらないお導きでした。そのお言葉に気付かされ、抱えていたものは消えていきました。神と一体であられるマザーの力強いお言葉に救われ、常にお傍にいてくださっていることを感じました。

日々の務めのただ中にありながら、常に心は神に向けられ、内なる平安を乱されることはなかったマザー、神聖の権化であられたマザーに謹んで礼拝いたします。これからもマザーの生き様に瞑想し、もっともっと近づいていきたいと思います。

毎日、自然の美しさを感じながら、賀茂川沿いを自転車で走って通勤しています。
賀茂川の清らかな流れを見ると、純粋なマザーのお姿を思い出します。

桜井みき桜井みき

 

 


マザーに導かれて

マザー(サーラダー・デーヴィー)に初めて出会ったのは、ヨ―ガのクラスに通い始めて間もない頃、先輩グルバイからマザーの本を勧めていただいて読んだ時でした。馴染みのないインドの風習や、時代も今から百年以上前のお話でしたが、本を読むうちに不思議に風景がリアルに感じるようで、自分がマザーのお側にいるような気持ちになりました。そしてマザーが大好きになっていきました。
クラスでシャヴァ・アーサナ(休憩の形)の時に「何も考えないで」と指導されても、目を閉じるとマザーのお姿が浮かんでくるほど、マザーのことを思うようになっていきました。
私がマザーを思う時はいつも、自分が小さな子供のようにマザーの膝に甘えているような、そんな気持ちになります。それはきっとマザーが、

「私は、善人だけでなく、悪人の母でもあります。私を母と呼ぶ人に、決して背を向けることはありません。子供が泥や埃にまみれていたら、汚れを拭って膝に抱いてやるのが母の務めではありませんか」「困った時はいつでもあなたを守っている母がいることを思い出しなさい」

と言ってくださっているからだと思います。日常で誰かにそんなふうに言われても、私はきっと素直に受け入れることはできないだろうと思うのですが、実際にお会いできなくても、マザーのお言葉は心の奥で確かに真実だと思えるのです。

♦♦♦

今年の春の祝祭は、大好きなマザーをお祝いする会でした。
祝祭に向けてマザーへの讃歌を練習する機会を設けていただいて、何度も練習を重ねました。優しいメロディーはマザーの愛そのもののようで、歌う度にマザーに包まれているような幸せでいっぱいになりました。
祝祭当日は、初めて京都の会場で参加させていただいたのですが、祭壇の美しさや聖劇の迫力など全てが感動的でしたが、中でも一番心に残ったのは、大きなスクリーンに映し出されたマザーのお写真の数々です。マザーの瞳は例えようが無いような輝きに満ち溢れていました。マザーの瞳の先にはシュリー・ラーマクリシュナがいらっしゃって、全てに師を見ておられるのだと思うと、マザーの強い信仰心と汚れのない純粋さに感動しました。

いつも私のことを、母なるマザーが、そして最愛なる師、ヨギさんが見守っていてくださっているから、私は勇気を出して一歩一歩歩みを進めることができます。

大好きなマザーのように、私もいつか全てにヨギさんを見れるように歩いていきたいです。

小野ちさ

 


ホーリー・マザーからの贈り物④

昨年末から、ホーリー・マザーの生き様に少しずつでも迫って行けるように取り組みました。
『ホーリー・マザーの生涯』を読み、この世の中でどう行為すべきか、ホーリー・マザーはそのお手本を示してくださっていると感じました。

教えを実践することが毎日の習慣となり、最初は意識して想うようにしていたホーリー・マザーの存在は、いつしかハートに張り付いたようになりました。 
それは、私にとって揺るぎない信仰の対象である師を想っているのと同じ感覚でした。

それにより大きな安心感が与えられ、日々行為する際には、ホーリー・マザーがいてくださるから大丈夫だと思えるようになりました。

そして迎えたサナータナダルマ・アヴァターラ・メーラー当日。

一人一人がホーリー・マザーの生き様に触れ、その行為に倣い実践をしている様子を見ていたら、
母であるホーリー・マザーは時間も空間も超えて今ここにおられる!
私たちのすぐそばで、大きな愛を持って見守ってくださっている!!
そう感じられたのです。

今、ホーリー・マザーは私にとってかけがえのない存在となりました。この事実が、今回頂いた贈り物の中で一番大きなものです。

きっとこれからも、ホーリー・マザーだけではなく、人々を真実の光を導き続けてくださっている、アヴァターラ(神の化身)たちから贈り物が届きます。
それを大切に受け取り、他者へ行為することで、僅かでも感謝の意を示すことができますように。

ハルシャニー  


春の祝祭🌸〜サーラダ・デーヴィー〜🌸「真の愛(プレーマ)」

外は雲一つない青空が広がり、桜は満開を向かえ、草木は新芽が可愛らしく顔を出して生命の歓びを全身で表しています。
4月7日、「第7回 サナータナ・ダルマ アヴァターラ メーラー ――神性示現大祭――」が開催されました。今年のテーマは「真の愛(プレーマ)」、シュリー・ラーマクリシュナの霊的な妻であったサーラダー・デーヴィーに焦点が当てられました。
5年ぶりの実開催ということもあり、全国から集った60名程の弟子達は歓びに輝き、オンラインではニューヨークや台湾の方々が笑顔と共にスクリーンに映し出されました。

アーラティーの奉納

プージャー(礼拝の儀)から始まり、アーラティーや祝辞、映像、ナハヴァト(サーラダー・デーヴィーの住居)の実演、聖劇、弟子達のエピソード、賛歌などが奉納されました。
映像では、サーラダー・デーヴィーの生涯がその包み込むような慈愛が伝わってくる清らかなお顔の写真と共に紹介され、ラーマクリシュナがお隠れになられた時にはとても憔悴されるも、その後ご自身の使命を悟り、グルとして生きる愛そのもののお姿が映し出されました。
ナハヴァトでは、サーラダー・デーヴィーが住んでおられた小さな住居と同じサイズの建物が実際に組み立てられ、その謙虚なお人柄と他者への奉仕で埋め尽くされた当時の生活が生き生きと実演されました。
また弟子達のエピソードでは、ラーマクリシュナの4人の弟子が取り上げられ、どのエピソードからもかけがえのない「本当の母」との交流から与えられた真の至福と愛が満ち溢れていました。

聖劇では、夜道を一人歩くサーラダー・デーヴィーが恐ろしい盗賊夫婦に遭遇し略奪されそうになりますが、彼らはサーラダーの中にカーリー女神のお姿を見るのです! カーリーの見神によって心が変容してしまった彼らは、愛情を込めてサーラダーを守ります。

サーラダー・デーヴィーの本性であるマザー・カーリーが顕現!!

盗賊妻「あなたは、人の姿に化身したシャクティです」
盗賊「恐怖に苦しむ者に恵みと避難所を与えられます」
盗賊妻「人の惨めさをあがない、信じるものに喜びを与えられます」
盗賊&妻「あなたに礼拝いたします。おお、至高の御方、宇宙の母よ!」
(劇中、カーリー見神後の盗賊夫婦のセリフ)

盗賊夫婦は改心し、帰依する。

まるでおとぎ話のようなエピソードですが、これが実際に起こった出来事であることに驚かされます。サーラダー・デーヴィーの他者の欠点を見ない純真な心だからこその偉大な力に深く感動します。その後、夫婦は盗賊を辞めて正直で良い生き方をしたそうです。元盗賊夫婦が生き方を変えていく過程の中には、やはり大変な苦労があったのだと想像します。それでも宇宙の母の真実の愛が、彼らに神への信仰が何よりも大切なのだと痛感させ、たとえこの世界で何が起きたとしても神だけを見つめる覚悟を与えられたのではないでしょうか。

私自身はサーラダー・デーヴィーの姪にあたるラクシュミーという女性の役を演じさせていただきました。開催前に自宅で練習している時に、危険な道のりを一人で歩くサーラダーを思って胸が苦しく締め付けられるラクシュミーの心境が伝わってきて、号泣したことがありました。このエピソードはサーラダー・デーヴィーと盗賊夫婦のお話ですが、一心にサーラダーを心配していたラクシュミーと、彼女を励まし導いたシヴァラームにも同じように、宇宙の母の愛と祝福は降り注いでいたのだと思います。

サーラダーの無事を祈るラクシュミー(左)とシヴァラーム(右)。

そして、それぞれの祝辞者からも同じ印象を受けました。どの祝辞者の言葉もサーラダー・デーヴィーを通して宇宙の母のどこまでも大きな愛を体感したからこそ湧き出てくる熱意と勇気に溢れていました。ある祝辞の中に「神は身内」という言葉がありました。サーラダー・デーヴィーはこの世界に生まれてきてくださることで、私たちに転生を超えた「永遠の母」が本当にいることを、身を持って示してくださいました。そして、この世界で信仰と共に生きる模範を見せてくださいました。「永遠の母」を本当の身内とし、その生き方を見倣い、元盗賊夫婦のように、どんな状況の中でも神だけを見つめることを自身の歓びとしていきたいと強く感じた一日でした。

ラストは、盗賊夫婦と共に宇宙の母を讃えるキールタンを歌いました〜!!

船勢洋子