執着と無執着

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執着とは、

心の中に理想像を作り上げ、

それと比較して異なるときに発生する心の作用です。

その理想像を作らないようにすることが、

無執着です。

サットグル・シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

 

この教えに触れると、いつも「なるほど〜」って唸ってしまいます!

確かに、何かにつけて心が動揺するときは、心の中に何らかの理想像があるからです。それがある限り執着が生じ、心は揺れ動きます。

例えば、恋人、友人、成績、評価、仕事、出世、結婚、子供、娯楽、おしゃれ、旅行、スイーツ、パソコン、iPhone・・・なんと様々な自分を幸福にするだろうと思った理想像をこれまで作り上げてきたことかと思いませんか!その度に心は揺れ動いてしまう…なぜなんでしょう!?

例えば、最初にiPhoneを購入しようと思った時は、素晴しい喜びを自分に与えてくれるiPhoneは輝きを放っていて、それを手に持つ自分を想像しただけで喜びに満たされましたが、入荷待ちで手に入れられない苦しみを味わいました。

そして手に入れたら、その素晴しい先進的な機能に喜びを感じ、それを持つことの優越感に浸りますが、それからの生活というものは日々iPhoneに縛られ、常にメールのチェックやアプリの活用を迫られることは、喜びでありながら、束縛の苦しみを味わいました。

そして新機種が発売された途端に、自分が所有している機種が古びて見え、魅力を失い、新しい機種が輝いて見えるのでした。その繰り返しでiPhone3GからiPhone6plusまで来たのでした。

一事が万事で、iPhoneを恋人、仕事、結婚、人間関係、おしゃれなどに置き換えれば、似たようなものです。本当に、絶えず心はさまざまな物事に理想像(期待)を作り上げて執着してしまっています。どうもその理想像は夢のように儚く、iPhoneのようにたった1年の理想にしか過ぎず、手に入れたと思ってもあっという間に手から離れていくので、尽きることのない渇望が起こってきます。それがなければどんなに楽なことかと思うのです。あーもう十分です!

ところが、たった一つだけやってきて過ぎ去らない夢があります。真実を悟りたいという夢です。早くその夢から醒めたいと思います。本当の私は真実そのものなのですから!

サーナンダ

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執着と無執着」への2件のフィードバック

  1. 小林厚二

    しかし、人類の不平不満、恐怖、心配、不安…が、テクノロジー、物質的文明を造ってきたんですよね。真理、真我、神を探求する僕は、このバランスに(@_@)時があります。 無執着の実践と、職場で働く時の心構えと言いましょうか、なんか職場で働いてても、仕事的な向上心があまり沸いてこないんです。神を意識しながら自動運転みたいな(カンナガラ)境地かな。どう思われます?

    返信
    1. サーナンダ 投稿作成者

      小林さん、コメントありがとうございます。
      そうですね、心の欲求が文明を作ってきたのでしょうね。だからこそ互いの利己の欲求を満たすだけでは苦悩や争いは絶えませんものね。その心の力を正しい方向に使いたいですね。よりよい理想をもって!まずは自分自身からと思って取り組んでいます。
      真理の探求は素晴しい理想ですね!

      こと仕事に関していえば、結果に執らわれない方が仕事に集中できて、結果としてよい仕事ができるように思います。
      目標が定まれば、後はやるべきことにだけ集中することで最大のことができますから、仕事をする時に自分の気持ちーー例えばやる気があるとかないとか、あるいは好きな仕事とか嫌な仕事とかーーに動揺しないようにすることがポイントだろうと思います。無執着の境地は、単純にいえば、要は好き嫌いなく、一所懸命するということかなと思っています。

      そういえば、会社で働いているときは、仕事に対するモティベーションは特に高くありませんでしたが、そうすると仕事の好き嫌いが少しずつなくなり、どういう仕事がやってきても区別なく平静な気持ちで取り組めたように思います。一方で常に真我への渇望がハートにありましたから、仕事はやってきては通り過ぎていくような感じの時もあったかな・・・自動運転てそういう感じですか?

      返信

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