ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。
神を愛することで神と一つになるバクティ・ヨーガには、5つの態度があると教えられます。
シャーンタ(平安な心の態度)、ダースィヤ(召使いの態度)、サキヤ(友人の態度)、ヴァーッツァリヤ(子を思う親の態度)、マドゥラ(愛人の態度)。
先日行われたサットサンガで、私はマドゥラ(愛人の態度)について師に質問しました。
チャイタニヤ:私は自分の身体が男性だというところで、愛人のように神を想うマドゥーラの態度が理解できないです。そういう態度を示している弟子を見ていると、ためらいや遠慮とかが無くなっている。私はそういう女性的な態度をとることがきないです。
師:まず、自分が男の身体を持っているという肉体のことは忘れないといけないです。神だけが男性であって、男女ということで言えばバクティにおいては、バクタはすべて女性としてみなされる。そのことをまず整理して、ただ神に飛び込むようにするのがいいです。
チャイタニヤ:私には躊躇というか遠慮というか、畏れ多いと感じるのです。でも本当に神と一つになりたいと思って近づいている人には、そういう思いは全く見えません。もう放棄が済んでいる、明け渡しているということですか?
師:ええ、そういうことを意味します。誰もが初めから完全な放棄ができているわけではないかもしれない。それでもバクティを深めるうちに残されている放棄も速やかに行なわれていくはずです。
神の愛人として神だけを激しく求め、一つになろうとするうちに他の一切余計なものが振り落とされる。最愛の神以外に何もいらない。たとえ自らの命であっても……最も強烈な究極の愛の形。マドゥラ・バーヴァ(愛人の態度)はただ愛ゆえに愛するのです。そこには自分という痕跡が跡形もなく消え去っています。
サットサンガ終盤にある弟子が識別について質問しました。「先月のサットサンガでボートを漕ぐ前にロープを外すことを教わりました、でも私は神様を思うことで、別に自分で外そうと思ったわけではなくても勝手に外れていたと思うんです!」とキラキラした笑顔で話していました。
純粋で喜びに溢れた彼女を見ていると、愛に勝る力は無い。神を愛すること以上に為すべき事など本当は無いのだと感じました。
チャイタニヤ



amara
5年ほど前には、インドの北から南まで旅をしてアーシュラマ(道場)に滞在したこともあるという藤井かおりさんにお話を伺ってみました。クラスに来られて3年が過ぎましたが、彼女を見ていると姿勢が美しく変わり、体の軸がしっかりしてこられたのがよ〜く!わかります。 
師:今回、ニューヨークでも似たり寄ったりの弟子たちの心情を聞くことがありました。彼らは一所懸命、聖典を学び、そしてサーダナ(霊的修行)も行ない、ヨーガを深めているようなのですけれど、しかしまだ安らぎには達していない。なんとか本当の幸せ、自由というものを望みます。そんな時、真理の教えがやってきて、本当はこうだよと教えてくれる。例えればそれは彼岸というか、あの向こう岸に達すれば、そういった幸せな世界があるよと教えられるようなものです。そして、みんなは熱心にボートを漕ぎ出す。一所懸命漕いで、一日中漕いでーー翌朝目が覚めれば、まだこの岸の一寸たりとも動いていない。なぜなら、ボートを繋いでいるロープを外していなかった。だからいくら漕いだって進むわけがない。やるべきことは、まずロープを外すことです。船を杭に止めているロープですよね。これがこの世における執着、あるいは煩悩とか無知といわれているものを象徴しているわけです。それが繋がっていたらいくら漕いだって動きもしない。だからまず、それを外しなさい。そうすれば、軽やかに向こう岸に辿り着くことができる。



