松山ヨーガ特別クラス

先週末、松山にてヨーガの特別クラスがあり、快晴の中しまなみ海道を通って、ミラバイとともに行ってきました。その模様をお届けしたいと思います。

4月16日(土)バクティ・サンガム、サットサンガ(ミラバイ)
4月17日(日)瞑想クラス(サーナンダ)

バクティ・サンガムは、今回は紙芝居から始まりました。3月のシッダ・マールガで上演したものですが、今回はとってもグレードアップしていました!!!

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開演前、喜びに満ちた表情で紙芝居の準備をするミラバイです。しばらくすると続々と参加者が集まってきました。36名の方が参加されました。

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紙芝居の様子です。主題は「The Story of Mira’s Love」ー中世のミラバイの愛の物語です。みんな童心に戻って(?)紙芝居に釘付けです!

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では、少しだけ紙芝居を動画で観てみましょう。

今回の紙芝居では、途中突然の寸劇も始まったり、絵の内容もヴァージョンアップし、とても楽しくそしてバクティとはいかなるものかをうかがわせるような、集中感のある内容でした。みなさん、「本当に良かった!神への愛を感じられた!絵も声も美しく魅せられた」という好印象の感想でした!ぜひミラバイの紙芝居に興味のある方はお問い合わせください。縁があるところにはどこへでも駆けつけることでしょう!

さて、その後続いてバクティ・サンガムがありました。

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主クリシュナが見守る中、みんなで主の御名を繰り返し繰り返し捧げました。ミラバイが松山を訪問するのは2年ぶりなので、彼女と一緒にキールタンを歌うことを待ち望んでいる人がたくさんいました。みんな喜びに満ちが表情でキールタンを歌い、神への愛に没入しているようでした!それもぜひ動画で味わってください。

30分インターバルを挟んで、ミラバイによるサットサンガが行われました。著書『真実を求めて』が発刊されて1年。その著者に会いたい!声を聞きたいということで、参加者のほとんどの方が読まれていて、この日のサットサンガは、本当にたくさんの質問が絶え間なくありました。それぞれが日頃から真剣にヨーガに向き合い、実践している様子が伺えるような質問が多かったです。そして、ミラバイのわかりやすく親身になった導きは、師を彷彿させるようなサットサンガでした。瞑想のように心地よい状態になりましたという声を後で聞きました。

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とても多くの問答がありましたが、印象にある問答を一つご紹介します。

質問「私は安定を手に入れるために頑張っていたことがわかってきました。白馬の王子様を待っているのです。神に恋して愛していくことで、人に頼ることなく安定して生きていくことができるのでしょうか?」
ミラバイ「私はそれが一番いい選択だと思います。最初は依存関係に見えるかもしれないし人間の恋人とどう違うのかと思うかもしれない。神を恋人にすれば神しか求めなくなっていく。そこにすべての答えがある。すべての安定や幸せがあると思います。神を愛するときも神を愛しているようで自分自身の心をものすごくダイナミックに変えていくことになる。今まで望んでいたことや求めていたことが机をひっくり返すように忘れ去られていく」

 

翌日は、瞑想クラスでしっかりとみんなで座りました。神への愛も、真我の探究も、ヨーガは実践あるのみ!参加された方の毎日の真摯な取組みがうかがえるような熱心なクラスでした。

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クラス後、現在申し込み受付中のMYM40周年記念Tシャツを、みんなで楽しく選んでいました〜中には全色申し込みされた豪鬼な方もおられましたよ〜(^ ^)

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そして、、、来5月は、近日ご案内があると思いますが、

私たちの最愛の師シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサによるサットサンガが松山(5/21-22)と今治(5/23)で開催されます!!!!

今回参加された多くの方から、ミラバイが一心に愛する師に自分もお会いしたいという声を聞きました。多くの方が師にお会いするのを心待ちにしています。本当に師のサットサンガが楽しみです!またとない吉祥な機会ですから、ぜひみなさんご予定ください!お申し込みは松山ヨーガ・サークルまでお願いします。

ミラバイのバクティに刺激を受けて、松山の皆さんの神への愛とヨーガへの熱の高まりを感じた2日間でした。

ありがとうございました。

サーナンダ


集中と瞑想

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

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先日行なわれたサットサンガで、日常の中で誰もが経験する自分の心に関しての次のような質問がありました。

質問者「人の話を聞いているようで聞いていないことに気が付きました。人の話をよく聞けるようになるには、どうしたらいいでしょうか」

師「常日頃のサーダナ(修練)としての、アーサナや瞑想、真理への学びをしっかりとしていくことはとても大切なことです。それによって呼吸が乱れなくなると、内も外も動揺がなくなり集中がたやすくできるようになります。相手の言葉を確実に理解するためにも相手の行為をしっかりと観察することが大切です」

師のお答えは単純明快です。相手に集中することによって、相手の話をより理解することができると教えてくださいました。また相手の行為をしっかり観察するということは、言葉だけに執らわれず、客観的に全体を見て、相手を理解するということだと思いました。いろいろなものに心を奪われているような散漫な状態では、集中することもできません。ヨーガを実践することによって呼吸を調え、集中力を身につけていくことが日常の生活にも大いに役立つということがよく分かりました。

また師は以前、客観的に全体を把握するということは瞑想の中でも行なわれると教えてくださいました。瞑想によって一つの物事を対象にして集中していくと、その物事に対する自分の心の執われとか、思い込みとか、観念とかに心自身が気づいていき、主観を離れ、より深い洞察をもって、その対象の本質を知るということになっていくのだということを教えてくださいました。瞑想はただのリラクゼーションではありません。深い集中をもってすれば、すべての物事の本質を明らかにしていくことができると師は教えてくださっています。

集中と瞑想はヨーガの基本であり、中心でもあります。鋭い洞察力を身につけ、この世間という大海を一緒に渡りきりましょう。

ダルミニー


さまらさの台所 4月

先週の日曜日はさまらさの台所がありました。旬の食材は「筍」

竹冠に旬と書いて「筍」。旬とは出盛り期を指す言葉ですが、漢字で「旬」は「10日」を意味します。例えば上旬、中旬、下旬とは一ヶ月30日を3つの期間、10日ごとに分けて表現していることでもわかりますね。食物などの「旬」は本来その食物がもっとも美味しい10日間のことを言うようです。意外と短いですよね。そして、「筍」の場合、美味しい期間が10日というのではなく、なんと10日経つと筍は「竹」になってしまうんですって。
今回のさまらさの台所では竹林をお持ちの方のご厚意でこの「筍」を掘りに行くことができました。さまらさの台所先日の朝6時にヨーガ・ヴィハーラを6人で出発、竹林は京都の大原野にありました。
竹林

足をそーろり、そーろり引きずりながら歩くと「こつん!!」と靴に尖ったものが当たります。それが筍なんです。筍の回りの土をバールや金槌を使って掘っていきます。すると太ーい地下茎(親の竹とつながっているところ)に突き当たります。そこからは写真のような「掘り」という道具を使って筍を傷つけないように切っていきます。
掘り
これは職人の腕が必要、地下茎を傷つけないように、そして筍が中でぼろぼろにくだけないように予想を付けながら切り離します。「ほーら取れたよ!」
森ピー 筍

筍掘りのダイジェスト
慣れないたけのこ掘りでしたが、2時間でこんなに掘ることができました。しかも、顔より大きい!!
どっさり筍
大きいものが大味という訳ではないようです。京料理は見た目が大事、あまり大きいと美しい切り方ができないので料亭では敬遠されるようですが、「味に違いはない!食べたら同じ!」ということ、私としては大きいので助かりました。筍は持って帰ってすぐに下ごしらえをしました。ぬかを入れた熱湯でゆがくという方法が一般的ですが、今回は新鮮なのでぬかは必要ないと教えてもらい、お湯で40分ほどゆがき、翌日まで置いておきました。

次の日のさまらさの台所は13人の参加者があり、にぎやかに筍づくしを作りました。
筍ご飯、筍ステーキ、若竹煮、姫皮のおかか炒め。新鮮な筍はえぐみがなく、色も白くて美しい!本当に美味しかったです。
さまらさの台所 筍

いただきます!筍


バクティ・サンガム始まりました!

こんにちは! ミラバイです! お久しぶりです〜。皆さまお元気にされてますか?

さて、今年のバクティ・サンガムが京都は3月末から、大阪は先週の4月8日から開始しました!早速ご報告させていただきたいと思います〜。

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今年のシリーズは、毎回いろんな聖者を取り上げ、その方にちなんだキールタンを歌っていきます。初回は、ラーマ神を愛した、名もなきある機織りの聖者をご紹介しました。

「彼はとても敬虔な人で、誰からも信用し、愛されていたそうです。いつもは市場で品物を売っていて、人々からの信頼もあつく、お客はすぐにお金を払って彼の売る布を購入していきました。

ある日、機織りが夜更けに礼拝堂に座ってたばこをふかしていると、盗賊たちが前の通りを通りかかりました。盗賊たちは盗品を運ぶ男が欲しかったので、彼を引っ張っていきました。機織りは言われるがまま盗品を頭に乗せて運んでいると、そこに突然警官がやってきたのです! 盗賊たちは逃げ去り、機織りはなんと捕まってしまったのです。

彼は取り調べの際、長官に言いました。『私はラーマの思し召しによって、夜の食事を済ませました。それからラーマの思し召しによって礼拝堂に座っておりました。その時、ラーマの思し召しによって盗賊が通りかかりました。ラーマの思し召しによって、彼らは私の頭の上に盗品を置きました。ちょうどその時ラーマの思し召しによって警官が到着し、ラーマの思し召しによって、私は捕らえられました・・・』

長官は、機織りがとても信心深い男であることを知り、釈放を命じました」

この物語が大好きな人がおられて、ぜひ紹介したい!という声がありました。それがこの方、ヨーガダンダさん。

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いい笑顔ですね〜。今回からバクティ・サンガムを一緒に行なっていくことになりました。(よろしくお願いします 😀 )。ヨーガダンダさんはこの物語を読んで、ラーマ神だけを思い続けるという単純さにとても惹かれたそうです。常に神を思い続けるって、とっても難しい。機織りは素朴な人だけれども、いつも身近に神を感じ、至福に満ちた高い境地におられるということを感じたと話されていました。

常に平安な心境でいること、神に満たされた状態のことをシャーンタというそうです。すべては神の思し召し。いいことがきても、悪いことがきても、何がきても、すべては神からやってきたこと。愚痴を言わず、自分のところにやってきたことすべてを受け入れ、その思いに徹することができれば、全く動揺など起こらず、いつも平安なのでしょうね。また、そのように思うことは、最初は心の訓練のように感じるかもしれませんが、それこそが——すべては神から与えられているということが——この世界の真実の姿なのだなと思いました。

「すべては神の思し召し」

さーて。

私たちも、今一度、自分の心に問いかけてみましょうか。

 

次回はどんな聖者のお話が飛び出すのでしょうか。どうぞ、お楽しみに〜!

 

 


琴の弦のように

春ですね。でも早々と満開の桜も散り始め、もう葉桜も見かける時期となりました。

さて4月8日はお釈迦様のお誕生日、花祭りとして有名ですね。この日はお釈迦様に甘茶をかけてお誕生のお祝いをします。私も子供頃お寺に行き、神々や動物たちに囲まれた清らかなお釈迦様の絵を見たり、やかんから水筒いっぱいに甘茶をもらったりして、楽しい一日を過した記憶があります。そういうわけで今日もまた本願寺出版社の「ブッダ」より、ブッダの教えをご紹介します。

若い修行者シュローナ・コーティヴィンシャは河の淵に坐り、傷ついた足の汚れを水で洗い落とした。指先で傷口に食い込んだ尖った小石を取り除くと足の痛みは少し軽くなった。

「こんな修行をいつまで続ければいいのだろう?過酷な行に励み、ひたすら体と心を鍛えてきた。けれど、その成果はまだ手にしていない。それどころか迷いは深まるばかりだ。やはり自分には真実の境地を得ることはできないのだろうか」

ゆったりと流れる河に視線を向けてシュローナ・コーティヴィンシャは溜息をついた。

「そんなふうに考えてはいけない」振り返るとブッダの姿があった。

「シュローナ・コーティヴィンシャ、傷は痛むのか」

「いいえ、もう痛みはありません」

「そうか。お前の足の皮膚は柔らかい。これからは一重の履き物をつけて歩くがいい」

「とんでもありません。私だけが履き物をつければ、サンガの仲間たちに笑われてしまいます」

「では、皆に一重の履き物を許そう」

若い修行者は恐縮して深々と頭を下げた。修行を途中で諦めてはいけないと心の中で思い直した。

「シュローナ・コーティヴィンシャ、お前は琴の名手だった。お前が弾いてくれた琴の調べがまだ耳に残っている。もう琴は弾かないのか?」

「琴を奏でる時間があれば、坐を組み瞑想したいと思います」

「熱心だな。お前ほど熱心な修行者はいない。しかし、シュローナ・コーティヴィンシャよ、琴の弦は緩すぎても強く張りすぎても良い音がしないのではないか?」

「仰せの通りです。緩すぎず強すぎず、ちょうど良い張りをもつ弦が良い音で鳴ります」

「修行も同じだと思わないか?琴の名手、若き修行者よ」

「……ありがとうございます。ブッダ。私もこれからはちょうど良い張りで良い音を響かせたいと思います」

シュローナ・コーティヴィンシャは頭を下げたまま、ブッダに言った。

 

この修行者は真剣に修行してきただけに、できない自分を責めて途中でくじけそうになったのでした。みなさんも、ある一つの出来事に心が執われて、周りを見る余裕がなくなってしまったことはありませんか?それは本当に張り詰めた弦に例えられるように、すぐにでも切れてしまいそうな状況に自分を追い込んではいけないということを意味していると思いました。この時も修行者の師であるブッダが、適切な言葉でもって修行者の心の緊張を解きほぐし、心のあり方の間違いに気づかせてくれたのでした。

心を張りすぎず緩めすぎず、波のない状態、不動の状態に保つことはなかなかできることではありません。しかしヨーガの一連の実践が、心に不動の状態をもたらす努力であることに間違いはありません。私たちの師は驚くほどいつも同じで、変わることがありません。そういう師のお姿を拝するたびに、自分たちの理想とする不動の境地が、師の中にあるということを理解するのです。

ダルミニー

天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊


初心忘るべからず

4月1日の夜勤のとき、利用者さんや家族さんとテレビでニュースを見ていました。ちょうど世間は入社式の日、新しい門出に希望で胸いっぱいの新入社員の様子が放映されていました。インタビューでは、「ここまでこれたのは家族のおかげ、初心を忘れずにがんばっていきたいです!」と話している人が多くいました。私も利用者さんも何て初々しい姿なんだろうと見入っていました。ニュースキャスターはその様子を見て

「私にもこんな時がありましたね〜初々しい姿を見ると、自分の初心を思い出します〜」「本当にそうですね〜」と嬉しそうに話していました。

「?????」当たり前のように聞き流す会話かもしれませんが、何となく違和感がありました。

「え!初心、忘れてるんやん!」私は思わず突っ込みそうになりました。

「初心を忘れずに」と言っている新入社員を見て、ほとんどの人は自分の初心を思い出すということは、初心というのは、「忘れず」という決まり文句が付くのにも関わらず、結果的には「忘れる」ということがお決まりなのでしょうか……なんか不思議と思ったのでした。

なぜ初心を忘れるのでしょうかね。

新入社員の姿を見ていると初々しく、希望に満ちています。それは彼らはまだ何も知らない真っ白な心で会社を見ているからだと思います。でも勤務が始まると、「あれ!?思っていたのと違うな、結構大変だな、あの先輩恐いな、この仕事向いてるのかな?」もちろん悪いことばかりではないけれど、心の感想は次々に出てきます。真っ白だった心には日に日に記憶が溜まり、その印象が刻み込まれていきます。そして、仕事自体は勤務の初日と同じことをしていても、その印象を通して会社や仕事や同僚を見てしまうことが始まるのです。その時点で初心は少しずつ忘れられていくのだと思います。

では、初心はあくまで「初めの気持ち」なので、変わっていくのは当たり前なのでしょうか?ヨーガでは、その記憶やそれによって持つ印象のことを「サンスカーラ(心の残像印象)」と言います。そしてヨーガの教えにはこうあります。

「サンスカーラを消していくのは真実の知恵だけです……瞑想における真実の知恵は、心の記憶にゼロというサンスカーラを残していきます」

ヨーガをしていくと確かに物事に対する印象が弱まっていくのを感じます。今までなら仕事から帰ってきても「今日はどうだった、こうだった、あの人はどうのこうの」と心の中でずっと仕事のことを考え続け、心に印象を強く刻んでいるようなところがありました。でもヨーガをしてからは、仕事は仕事、終わったらそのことは終わったと心の切り替えができるようになったと思います。「嫌だな」と思うようなことがあっても、心を切り替えることができると、さほど気にならなくなるという不思議な変化を感じてきました。

でもこれはまだまだ、印象を持たないというのではなく、「印象を持ったけれど、それを切り替えている」という感じ。私がそのテレビを見て思ったのは、「そもそも常に初心でいるということが可能なのか」ということでした。だって毎日8時間以上働き、毎日会社での出来事や人の印象を持つたびに切り替える、この繰り返しではもう切りがない……考えただけでもめんどくさいと思ったのです。

初めから印象を持たないためにはどうしたらいいのかな……。

夜勤から帰り、その日はそんなことを考えながら瞑想に座りました。瞑想の途中でふと目を開いたとき、視界に飛び込んできたのは女神ドゥルガーの巨大な絵(ヴィハーラの2階にあります)、ドゥルガーは美しく微笑みながらライオンにまたがっています。私にはそのときたくさんの手で剣を持っているように見えました。ドゥルガーはずんずん迫ってきて、私をバッタバッタと容赦なく切っていきました。

そうか!!!もう自分の力でその印象をどうこうしようというのでは追いつかないということか!心を神に明け渡す、神のみで満たしていくことだけが印象を持たないということを可能にするのだと理解しました。

ヨギさんはいつも言われます。

「心を常に神のみで満たしなさい」

それが、ただ一つの答えでした。

ヴィハーラの2階にある女神ドゥルガーの絵

ヴィハーラの2階にある女神ドゥルガーの絵


桜満開!瞑想合宿のご案内

急に暖かくなり、京都ではこの週末桜も満開です!どこもかしこも観光客で賑わっています。

新年度が始まりましたね〜!フレッシュな装いの新社員の姿も見え、また学校では新入生の姿が初々しいですね。MYMでも今年度は設立40周年の記念となる年として、気持ちも新たに活動していきたいと思います。

さて、昨日滋賀県大津市にある近江神宮に行ってきました。近江神宮は大津京の跡地に作られており、天智天皇が漏刻(水時計)を設置し日本で最初に時報を始められたところです。百人一首かるた大会や流鏑馬などでも有名です。現在上映中の映画「ちはやふる」の舞台でもありますね。

それで今回、夏の瞑想合宿を近江神宮内にある近江勧学館で行おうと企画し、企画チームで昨日訪れてきました。京都の観光客の賑わいとは打って変わり、それほど人も多くなく、静かな心地よいプラーナ(気)があって、瞑想合宿には打って付けの場所でした。

近江神宮の桜
桜も満開です!

瞑想合宿をしようと思ったきっかけは、瞑想に関心を持つ方は多いのですが、皆さんいろいろと忙しく、なかなか腰を落ち着けて瞑想について学んだり座ったりすることが難しいようです。それなら、しっかりとまとまった時間をとって瞑想についての学びを深め、実修する機会がもてればいいなと思いたちました。しばしの間世事を離れて、静かな時間の流れの中で自分自身に向き合うことも有意義ではないかと思います。そうして、心の奥にある静けさと喜びを少しでも体感できれば、また日々の生活の中での瞑想につなげていくことができるでしょう!

7月16日(土)午後〜7月17日(日)午前の一泊二日の合宿です。瞑想に関心のある方なら誰でも、初心者の方も大歓迎です。また詳細が決まればMYMのWebサイトやブログでもお知らせしていきます。翌18日(月)も祝日(海の日)の3連休でもあるので、ゆっくりとお越しいただけるかもしれませんね。少し先になりますが、いろいろ予定が入る時期だと思いますので、早々と案内させていただきました。

澄んだプラーナの中で、ぜひ瞑想を始めてみましょう!楽しみです!

サーナンダ

 


ブッダの根本的教え

師は、ブッダは偉大なヨーギーであった、また彼の教えとラージャ・ヨーガはとてもよく似ていると教えてくださっています。今日は「ヨーガの福音」の中のその教えをご紹介しましょう。

大いなる悟りを啓かれた主ブッダの最初の教えは次の通りです。

一切は苦である。病むこと、老いること、死ぬこと、その原因である生まれること、これは誰もが避けることのできない大きな四つの苦しみである。この他に四つの苦しみがある。求めるものが得られない苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、憎む人と一緒にいる苦しみ、この肉体と心が不浄である苦しみ。 

これらの原因は欲望であり、その原因はエゴと無知である。

それらに対し一切の苦悩を離れた真実の境地、ニルヴァーナがある。 

そしてそれに至る道が八正道である。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。

ブッダはこのように非常に具体的な方法を教えました。誰もが真剣にそれを行なえば、必ずニルヴァーナは実現します。

最初の正見(しょうけん)というのは、この教えの全体像を正しく理解するということです。この世の中は「一切は苦である」という言葉を最初に聞いた時は衝撃を受けましたが、本当に今までもそうであったと納得しました。それは全く厭世的な考え方ではありません。そういうふうに理解することによって、苦しみは悲観的なものではなく、人間界においては当然あるべきものとして、すんなりと受け入れることができるようになりました。最初に「一切は苦である」と言い切ったブッダはすごい方ですね。この世の有り様をそれこそ正しく見ていたのだなと思いました。最後の正定(しょうじょう)は瞑想のことです。思いも言葉も行為も生活も正しく調えていくことによって精度の高い瞑想ができるようになる、そのようにこの尊い八つの道を真剣に歩めば、必ず真実の境地を実現することができると教えてくださっています。

この尊い教えに出会い、ブッダに帰依した人は、その当時千人以上もいたといわれています。そのように具体的な道を分かりやすく説いた方は、その頃にはいなかったんでしょうね。噂が噂を呼んで、道を求める人たち、苦しみから解放されたい人たちが、花に蜜を求めて蜂が集まるように、清らかなブッダのもとにたくさん押し寄せていったことが想像できます。ブッダと巡り会い、心の迷いを取り除かれた人たちのなんと幸いなるかな。

二千五百年の時を超えて、私たちも主ブッダと巡り会いました。この尊い教えを聞き、実践できることを本当に幸せに思い、感謝し、ますます精進していきたいと思います。

ダルミニー

主ブッダ

主ブッダ

 


新しい道

みなさん、こんにちは。ユクティーです。東北はやっと寒さが和らいで春の気配が感じられるようになりました。私が南相馬に移り住んで3年。今も3年前と同じ病院で看護師として働いています。

この3年間の私の功績??と言えば…この地域の人たちにちょっとだけ関西弁を広めることができたことくらいですかね。なんせ、仙台の人にしても福島の人にしても、私と接して初めて実際に関西弁を聞いたという人ばかりでしたから。福島に来る前は、関西人と東北人は正反対の性質だから合わないとか、嫌がられるから関西弁は絶対しゃべらない方がいいとか、さんざん色々言われましたけど、実際来てみたら…、何でしょう、この歓迎ムード。耳に心地いいとか、わざわざ聞きに来る人もいましたよ。それだから私も周りの期待に応えるべく関西弁を話し続け、結果私は今もこの地域の方言が全く話せません。

たしかマザーテレサは、奉仕活動していたコルカタの人たちが話すベンガル語をすぐにマスターしてとてもうまかったことから、ベンガリーシスターとも呼ばれていたそうです。すごいなあ。

私が働いている所はベッド数100床くらいの小さな病院で、職員さんも全員知っているし、職場ではもう私がここにいるのは当たり前になっています。でも私事ですが、その職場を来月いっぱいで退職することになりました。…と言っても、京都に帰るわけではないですよ。この地域には住み続けるのですが、5月からは知り合いが3年前に立ち上げた訪問看護ステーションでお世話になります。病院から追い出されるわけでも私が嫌になって辞めるわけでもないですよ。

これには被災地ならではの、そして日本の看護界ならではの事情があるんです。早く言えば看護師不足で(法律上訪問看護ステーションは2.5人の看護師がいないと開設できない)その知人の訪問看護ステーションは今閉鎖の危機に直面しています。もともと訪問看護を希望する看護師は多くないし、日本は病院に看護師を確保することが優先される傾向にあるので、全国的にも看護師が定員に満たず閉鎖していく訪問看護ステーションが少なくありません。知人のステーションが閉鎖の危機ということで所長さんも娘さんも関係者の方たちも私も必死に看護師を探したけど、なかなか見つからない。そんな中である時ふと思ったんですね。「そういえば、私がいたなあ」と。でも、今の病院だってどんどん看護師はいなくなって、ぎりぎりの人数でやっているし、私が抜けたら夜勤だって誰かが代わらなくてはいけない。それに震災後病院を辞める人が後を絶たないので、ここの人たちはもう人を送り出すことが辛くて仕方ないんです。だから、本当はあまり出て行くと言いたくなかった。でも、病院は私がいなくても今すぐ潰れるわけではない。知人の訪問看護ステーションは早ければ5月に閉鎖。この決断には京都から南相馬に来る時とは比べ物にならないくらい勇気とエネルギーが必要でした。まあ実際は2日間で決めたんですけど。

そして病院側にも何とか分かってもらい、私は知人のステーションを手伝いに行くことが決まったんですけれど、次は私の住む家がなくなるんですね。今この地域は除染や建設で多くの業者が入ってきていて、次々とその人たちが住むためのアパートが作られています。家賃も倍近くに高騰しています。いくらアパートが増えても追いつかない現状があり、吹いたら飛んでいきそうな小さな事業所には回ってこないんです。今私が住むアパートも私が南相馬に行ったその日に建った復興支援者用のものですが、病院が借りてくれていて、小さいけれど地元で力のある病院だったからこそ確保できたし、それでも一部屋借りるのも大変だったと聞いています。訪問看護の事業所から、「まず仮設住宅に移ってください」と言われました。仮設住宅は南相馬市ではなくて福島県の持ち物で、県が医療再建のための医療者用に一部確保する方針を取っています。でも、仮設は来年春から解体予定で、結局はアパートを探さないといけない。私としては当分は仮設でも良かったし、まあ何とかなるだろうくらいな感じでいたのですが、所長の娘さんは「何としてでも探します!!」と意気込んで言われ、人の信念って本当に実現させるんですね。先日アパートが見つかったそうで、私は4月下旬にそこに移ることになりました。あぁ、この1,2週間は本当に色んなことがあって、ここでは書ききれない。でもこういうことがなかったら、私は被災地の深い多岐にわたる様々な問題を知ることはなかったと思います。

…ということで、もうすぐ私は病院という囲いの中から外に飛び出して行きます。どんな人と出会うんだろう。まさか南相馬の地を自分が車を運転して仕事をするとは思いもしなかった。あー、こわ(-_-;)でもきっとこの道も、私が辿り着くべき所につながっているに違いない。

ユクティー

ユクティー


大阪ー中央公会堂クラス

毎月第4水曜日は120分クラス、アーサナを1時間ほど行なった後は、ヨーガの知恵を学ぶ時間です。今週がちょうどその日でした。
お話はヨギさんから教わった教えを紹介するところから始めました。

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ヨーガの目的は、この私たちの本性は「吉祥で自由な存在」だと知ることなのですよね。

自由、それは私も長年追い求めてきたことです。
かつて、この人ってなんて自由なんだ!と、とてもうらやましく思った人がいました。心に正直で、いいことはいい、嫌なことは嫌、求めるものにはまっしぐらに向かい、躊躇なく言葉を話す。それでいて人への気遣いもできる素敵な人でもありました。が、時には周りとの間に不調和を生むこともありました。

今思うと、彼女は振る舞いこそ自由であったかもしれない。けれど実際には自由でなかったのだと思います。
もしかしたら、行為に移さない方がよかったのかもしれない、そんな時にでも、やはり何かを言ってしまう、行為してしまう。思いが強すぎて思いに引っ張られていたのだと思いました。

私もそんな感情に振り回されることがずっと以前にありました。感情が高ぶってすぐに行為に移すと、たいていはロクなことにはなりませんよね。周りも嫌な思いになるだろうけれど、自分だって相当嫌な思いになります。

だからこそ、行為に移す前には、ひと呼吸おいて、行為に移すことを減らしていきました。それは相当苦しいですよ。心は表にだせー!!!と号令をかけてるわけですしね。それでもぐっと耐え忍び、心に言い聞かせたのです。出してしまうと結局苦しむのは自分。そんなすぐに感情が高ぶる自分でいいのか、もっと穏やかな人になりたいでしょ、と。またその後も心が揺れる度に何度もこれこそが自分を苦しめているもの、理想の自分になりたいならその思いを捨てなさいと言い聞かせました。そうしていくうちに、すぐに感情が出てくることが少しずつですが減っていったのです。

それまでは、思ったように心を爆発させていたので、心が揺れる習慣がついていたのですね。忍耐をもって感情を制御していくごとに、自分のキャパシティも広がって楽になっていきました。

こうなふうにヨーガを学んできたわけですが、こうしてがんばれたのも、本当の自由な方に出会えたからなのでした。

お会いした頃、その方は持っている物は本当に少なかった。いつも同じ服を着られていました。またたとえば、3カ月ほどの海外滞在に持っていったものは、小さな手かばん一つでした。
ご自身については、こんなことができるとか、あんなことができるとか、何ひとつ語られませんでしたが、なぜか人を包み込むような大きさを感じていました。何も持っていないようで、すべてを持っているように見えます。
それが私たちの師匠、ヨギさんです。
ヨギさんは、楽しむ時はこの上なく真剣に楽しまれ、仕事は完全に終わるまで集中が途切れません。それでいて終わった後はすべてを忘れられるようです。思いに支配されていないのだと思いました。

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すべてのことには必ず原因がある。行為に移す前に、思いもより良く調えていこう・・・

そんなお話をしながら、参加してくれた皆さんも、自分のことに置き換えていろいろと質問もしてくださいました。人の話を聞くと、また自分を振返り、クラスで学ぶとみんなの声が聞けるから、より理解も深まるように思います。真剣に、理想の自分を見つめて、向かっていけるよう、みんなとともにがんばっていきたい!と思えるような皆さんとの会になりました。

来週は第5水曜日、特別企画クラスです。
「The Eternal Quest」の映像を見て、その後ミラバイとともにキールタンを歌います。
ぜひご参加ください。
シャチー