投稿者「アマラー」のアーカイブ

心の立て直し方

ゴールデンウィークも終わり、普段の生活が戻ってきました。私事ですが、長い休み中は子供の習い事の行事があったり、親戚が泊まりに来たり、ときどき仕事に行ったりと充実した日々を過ごしていました。

しかしながら主婦(夫)は平日も休日も忙しいですね。つい「疲れた〜」と口にして、もう何にもしたくない!動きたくない!と思ったりすることもあります。そんな時、何時からか心掛けるようになったことがあります。それは「心の主張と真逆のことをする」です。

なぜそういうふうにしようと思ったのかな〜?と考えてみると、それは日々のアーサナを通して感じてきたことだと思います。きついポーズの中で味わう苦痛を無視して、愛おしい神、または呼吸に心を向けていく。毎回それを繰り返すことでいつの間にか苦痛だったポーズが心地良いものへと変容していく・・・。

日常も同じ。もう何もしたくない!と心が苦痛を訴えた時こそ、洗濯物を干す、食事作りに取り組むなど、家でのやるべきことに意識して集中するようにすると、「疲れた」という思いがいつの間にか消え満たされた気持ちになっているのです。

つくづく心の主張ほどいい加減なものはないな〜と思います。そういう経験を何度も何度も繰り返していくうちに、以前より心の扱いが上手くなったよう気がします(ウシのように寝そべっていることもありますが・・・苦笑)。

ちょっとしたことなのですが、こうして毎日心を立て直す機会を与えてもらえて有り難いなあ・・・と思います。ちなみに昨日の夕食はさまらさレシピより、我が家みんなのお気に入りスパイス入りコロッケを作りました美味しかった!

さあ、本日も頑張っていきましょう!

                                                                                                                                                            アマラー


善と悪を超える

ある時のこと、どうしても解り合えない人がいました。その人から物理的に離れたいと思い、師であるヨギさんにご相談すると、仏みたいな人なんてこの世に滅多にいないんだから、と諭されました。

ヨギさんからそう言われて、改めて考えてみれば、善と悪は人それぞれの経験や価値観によって変わってくるような、とてもあやふやなものです。自分の心を見てみると、小さな経験の範囲でその人を評価し、解り合えない、相手が悪いと決めつけていたことに気が付きました。そして、そのことに集中していると、自分のこだわりがパンッと弾けて消え、とても清々しい気分になって、これで完全に物差しが消えたと思いました。

でもまた最近、同じ思いが湧いてきたのです。解り合えないと思っていたその人が、自分に対して苛ついて怒っているように感じて、やっぱりこの人と付き合っていくのは無理なんじゃないかと思いました。

この世界は自分の心のフィルターを通して見ている世界であることは、ずっと教えてもらっているし、すべては神であることを恩寵によって少しは垣間見せて頂いてもきました。だから自分の意思で居場所を変えることは神のご意志に反すると思って今までやってきたのですが、今回のことは、別の環境に身を移してもいいというメッセージなのではないかと考えました。

それからは環境を変えることを思案し続け、神のメッセージ通りに動いているつもりでいたのですが、苦しみは一向に消えません。何か間違っている気がして、落ち着かない日が続きました。あまりにもしんどいので、この問題はひとまず置いて、絶えず神を思うようにしていきました。

すると、私に怒っていたその人が嘘みたいにニコニコするようになりました。あまりの変化に諸行無常を思うとともに、神のメッセージだと思っていたことは、自分の問題から目を背けて都合の良いように解釈していたのだということに気が付きました。

自分の物差しで相変わらず人を評価する習慣がまだある、だから心が動揺する。原因は自分の中にあり、それに心が反応しているだけなのだと、やっと冷静になれました。

自分のもつ原因がなくなれば、どこにいようと誰といようと円満で楽しい時間が過ごせるはず。もういい加減、こんな茶番劇は終わりにしたいです。神への思いをもっと強くして、今ある環境の中で、これからもやっていこうと思います。

amara


京都マムフェスにてヨーガ・瞑想ワークショップ

今現在、師であるヨギさんが台湾をご訪問されています。ミラバイさんの速報記事から、ヨギさんの愛でハートいっぱいに満たされた台湾の方々が目に浮かびます!

さてさて、11月3日(土)京都では子育て中のママを応援するお祭り、マムフェスにてヨーガ・瞑想ワークショップをしてきました〜。

会場は平安神宮の参道です。広々していて、しかも清々しいほどの秋晴れに恵まれ、とっても気持ちの良い日でした。赤ちゃん連れのお母さんや、もうすぐ臨月に入る妊婦さんと旦那さん、ママに限らずいろんな方が会場の前を通り、ワークショップに興味を持って参加してくださいました。

ヨーガのアーサナは呼吸からアプローチして、心を穏やかに、身体を健康にしていくという話をさせて頂いたのですが、どの方もそのことについて興味深そうに聞いてくださっていました。会場の隣ではヴィーガンフェスが開催されており、そこから流れてくる人たちもちらほら。「他のヨーガに通ってるんです」と言われる方も何人かおられましたが、その方たちも呼吸の話は初めてだったようで、「へ〜!なるほど〜!」ととても感心されていたのが印象的でした。

ワークショップの後は「気持ち良かった〜!」と来たときよりも顔が緩んだ様子で帰っていかれる方がたくさんいました。師から学んだヨーガを、少しの時間でしたが体験して頂く機会をもてたことが、とても嬉しかったです。参加された方の中には京都クラスがどの場所にあるか聞いてくださる方もいて、今後もヨーガのご縁が繋がっていくといいな〜と思っています。

さて、話は変わりますが、京都金曜午前クラスは今月から第1,3金曜日のみのクラスに変更となり、それに伴い新しい企画を始めています。アーサナのあと、ヨーガのお話を月ごとにテーマを決めてお伝えする内容となっています。https://www.mahayogi.org/classes/kurashi-yoga
ちなみに11月のテーマは『呼吸と心の関係を知る』、体験談を交えてお話しさせて頂きます。お子さん連れ、身体の硬い方、シニアの方、大歓迎です!ぜひお越しください!朝ヨガ気持ち良いですよ〜

amara


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

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そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


虫の音

猛暑を抜けて、やっと秋らしい気配が感じられるようになってきました。一日の仕事が終わる夜更けには、美しい虫の鳴き声が聴こえてきます。

伸びやかな虫たちの声を耳で愛でながら、ふと、虫たちはただ命を全うしているのであって、こちらに声を届けようなんて、これっぽっちも思っていないんだな・・・と思いました。

ベランダの外に出て空を見上げると、漆黒の中で小さな星が絶え間なく輝き、大きな雲の切れ間からは柔らかい光が放たれています。

計らいのないみずみずしい生命がこの世界を美しく彩って、誰かのために当たり前のように存在している。自分もその煌めく1つの命なのだ、と思うと胸が熱くなるのでした。

amara


今夜、自転車を漕いでいると、柔らかく生温かい風が顔に触れて、神が、優しく撫でてくださったような気がして、『ギータ・ゴーヴィンダ』の中に書かれたクリシュナとラーダーの、一節を思い出しました。

(激しく燃え上がった情事の後、ラーダーの豊かな編み髪は乱れ、巻き毛が揺れ、両の頬から汗が落ちていた。ビンバの実のような下唇の輝きはあせ、水瓶のような乳房に輝いていた真珠の首飾りは、どこかへいってしまった。腰帯の美しさも、惨めなありさま。恥ずかしがるラーダーに、優しくクリシュナは口づけをする。からだもたいそう疲れ切ったラーダーは、歓喜しながらも恭しく、突然、とてもうれしそうに、つぎのことをゴーヴィンダ(クリシュナ)に言った。)

「ヤドゥナンダ様(ヤドゥを歓喜させるという意味のクリシュナの異名)。愛神カーマの祝祭の水瓶のようなこの乳房の上に、白檀でとても冷たいあなたの手で、麝香を使って、模様を描いてください。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「愛するひと。群れなす蜂をも恥じ入らせるような眼膏を輝かせてください。ラティの夫(愛神カーマ)の矢を放つ(わたしの)目に。あなたの下唇に口づけされて油煙の流れてしまった(わたしの)目に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「きれいに着飾ったひと。耳飾りをつけてください。目という鹿がどんどん飛び跳ねるのを制する愛神カーマの輪縄にも似た(わたしの)両の耳に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「巻き毛を整えてください。蓮の美しさをも凌ぐわたしの清らかな顔の上にいつまでもかかっている巻き毛を。群れなす黒蜂のように輝く巻き毛を。悦楽を生み出す巻き毛を。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「蓮のようなお顔のひと、麝香の精を混ぜた愛らしいティラカをつけてください。汗のひいた、月のようなこの額に。(月に)黒斑を置くように。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「尊敬を与えるひと。花をつけてください。愛戯のうちに解けてしまった、わたしの美しいつやつやした髪に。孔雀の尾をも驚かせる(わたしの髪は)、愛神の幟。そしてチャーマラ(蠅払い)。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

「高潔な気質のひと。宝石の腰帯と衣と装身具をつけてください。なまめかしく、きりりとしまって美しいわたしのお尻に。シャンバラの殺戮者(愛神カーマ)という象の(住む)洞穴をもつお尻に。」と彼女は、(彼女の)心を喜ばせようと戯れているヤドゥナンダに、言った。

この高貴な詩の書かれた意味について、自分がどれほど理解できているのか、分かりません。でも、愛おしい人に、触れられたいと願うラーダーを思い、それに応えてくださるクリシュナを思う。詩から溢れ出る熱が、苦しいほど私のハートに伝わって、どうしようもなく甘美な夜です。

Amara

 


娘との対話から

先月の話です。家で家事をしていると、友だちの家に行くと言って出かけた娘(9歳)が、すぐに帰ってきました。どうも様子がおかしかったので「どうしたの?」と尋ねると、しばらく沈黙が続いたあと、静かに話し出しました。

娘「○○ちゃんと○○ちゃん(よく遊びに来る友だち)が遊ぼうって言ってきたから家に行ったんやけど、やっぱりやめとくって言ってきた。家でマンガ読んどくわ」

私「なんで?せっかく誘ってくれたのに?一緒に遊んだ方が楽しいんちゃうの?」

娘「(涙ぐみ)だって、いつも2人で遊んで・・・・・・私ひとりぼっちになるんやもん(堰を切ったように泣き出す)」

一人っ子だからか、自分が注目されたいという思いがあることを時々感じていた私は「それは寂しい思いをするな」と気持ちに寄り添いつつ、彼女にどう声をかけたらいいのか分からなくなって、ヨギさんに集中し、直観を待ちました。そして自分の経験を交えて話しました。

母「でも、自分のことを構って欲しい、って思ってばっかりいたら苦しいで。人生思い通りにならへんことの方が多いもん。お母さんも仕事場で働いてて、何人かの人たちが仲良くしてたら寂しいな、って感じることあるよ。でも、みんなが楽しそうだったらいいな、って思うようにしたら自分も楽しくなってくる、そういう魔法(本当は真実ですが・・・)をヨギさんが教えてくれてん。そう思うようにしたら、いつの間にか寂しい思い消えるねん」

それでも泣き続ける彼女に、ストレートな言葉が出てきました。

「自分のことを見て欲しいっていう気持ちは、諦めなさい」

まだ幼い年頃の娘にはきつかったかもしれません。でもその言葉を受けて彼女は、ハッとした顔をして、やがて何か吹っ切れたような、爽やかな表情に変わりました。そのとき、たしかなヨギさんの気配を感じました。

娘は日に日に成長しています。私の元から離れていくのもそんなに先の話ではないかもしれません。母親という役割を通して、今でしか味わえない神を、味わっていたいと思いました。

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その日の夕方、心配して例の友だち2人が我が家にやってきました。

「ほら、あんたのこと大切に思ってるやん。自分、自分ってなってたら、本当のことが見えなくなってしまうよ」と声をかけると、娘は気恥ずかしそうに笑いました。そして言いました「お母さん、こないだお父さんと喧嘩してたやんな。あれは自分のことばっかり考えてたん?」

・・・・・・ああ・・・・・・鋭い。私が話すことよりも、姿そのままを見ている・・・・・・(遠い目)。

「あれはお母さん自分のことを考えてた。あかんな、反省です」

しどろもどろになって答えつつ、ヨギさんの教えを語るのではなく、彼女の前で真摯に生きることがいかに大切なのかを感じました。

Amara


京都千本丸太町 暮らしのヨーガ 

あちらこちらでかわいいお花が咲いていて、見るに楽しい季節ですね〜そして世間ではゴールデンウィーク終盤!実家に帰省したり、どこかにお出かけして楽しんでいる方も多いでしょうか

さてさて、京都千本丸太町、金曜午前クラスからのお知らせです。5月より第1、3、5週の通常クラスに加え、第2、4週目にヨーガトークスを行います。アーサナを30分間行ったあと、テーマにそって日々の中のちょっとした疑問や悩みを話し合い、解決策を考えていきます。

ものごとの見方を少し変えると気持ちが楽になったり、話すことで自分の思いに気付けたり、人の話を聞いて「自分だけじゃないんだ〜!」とホッとしたり 次の日からまた頑張ろう!と思える憩いの場となればと思っています お子様連れでも参加していただけます

主婦の方を対象にしていますが、もちろん主夫の方、興味のある方、どなたでも大歓迎です

詳しい内容、お申し込みはこちらからどうぞ http://www.mahayogi.org/classes/kurashi-yoga

お待ちしています!


この身を捧げる

すべてのサンスカーラを取り除くには、命を引き換える献身がいる」と以前ヨギさんがおっしゃったことがあります。献身とは何か調べてみると(献身とは、身を捧げること。自分の利益をかえりみず尽くすこと)と書かれていました。

何年か前、人を不快にさせることを口にしてしまう人がいて、私の指を見て「爪が半分割れてるね(生まれつき親指の爪が半分しか生えてこないのです)。気持ち悪い」と言いました。人の気持ちを考えず自由奔放に言葉を放つその態度に、激しい怒りが湧いてしばらく嫌な思いが続きました。

その日寝る前にそのことを考えていて、何故あの人はああいう言葉を発したのだろう?言葉の奥に秘められた思いは一体何だったんだろう?と考えました。その人自身の状況を考えてみると、他の人とあまり関わることがない孤独な状況であること、コミュニケーションを取ろうとしたが、素直な性格なためにそのような言葉が出たのだと分かってきました。

自分が不快だったのは、小学生の時クラスの男子に同じようなことを言われてからかわれ、悲しい印象をもったままそのフィルターを通して物事を見ていたからだということに気が付きました。真理をあてがってみると、この肉体は自分ではなくて、神の道具である、本当の私とは一切関係ない。だから何を言われようとも私が傷付く必要はない、そう思えました。

次の日からその人と話す機会があると、この身すべてを差し出す覚悟で向かい合いました。その人の語る思いに集中していくよう毎回努めていると、いつの間にかその人の気持ちがよく理解できるようになり、自然に本音を言ってもらえるような、そんな関係が築けるようになっていきました。

それから何年か経ち、爪のことを言った人がまた同じこと(爪のこと)を言いました。けれどそこには以前感じた嫌悪感はありませんでした。その人の性格が分かってきたことに加え、肉体をただの物質と見なしている自分がいました。「爪は生まれつきやけど、あんまりない形で格好いいやろう?」と冗談を言う余裕さえありました。

後で振り返って、こういう機会がなかったら私は自らの肉体を物質として扱っただろうか?と考えました。心が反応して逃げ出したくなるときこそ、サンスカーラを取り除くチャンス。どこにいても喜びだけを感じる自分になるまで、取り組んでいこうと思います。

 

 


サナータナ・ダルマを生きる

 先日、京都アスニーで仏陀の聖劇の上映会がありました。キサゴータミーという女性が出てくるのですが、彼女は自分の子どもの死が受け入れられず、悲しみのあまりその亡骸を抱き狂ったように彷徨います。そんな彼女に仏陀は「誰も死人を出したことがない家に行き、芥子の実を分けてもらいなさい」と言われます。彼女は家々をまわり、誰もが死というものを必ず経験することを、身をもって理解し、平安を得て仏陀の中で生きる決意をするのでした。

 キサゴータミーの心の変容をスクリーンで見ながら、私も早くに父親を亡くし、生きるとは何かということについて、ずっと悩み苦しんできたことを思い出しました。ヨギさんと出会った日、世の中の息苦しさから一気に解放され、水を得た魚のように、本当に嬉しい気持ちでした。この世界にこんな方が存在するなんて!信じられない!という喜びと興奮が入り交じり、この感情をどう捉えていいかよく分からなかったことを思い出します。思えばこの時初めて、ヨギさんから発せられたサナータナ・ダルマ(永遠の真理)に魂が触れた瞬間だったのでしょう。

 あれから十数年経ち、ヨギさんのご存在から、そしてグルバイたちを通してヨギさんの教えを学び、少しずつ理解を育み、今、ヨーガの教えを下に仕事をさせて頂き、ヨーガの教えを下に子育てをし、どんな場所でもヨーガが私の指針となっている。ヨギさんによって、サナータナ・ダルマによって私は生かされている。私が、私のもの、と言えるものは何にもないかもしれないな、と思いました。

 キサゴータミーが心の変容を遂げ、「仏陀、あなたの中に私は生きます!」と高らかに宣言したように、私もヨギさんの中で生き、サナータナ・ダルマと一つになれるように命を輝かせていきたい、そう思っています。