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ブッダから届いた宝物

木曜日と土曜日に、京都、大阪で開講されている瞑想入門のクラスでは、講師のゴーパーラさんならではのヨーガ行者としての鋭い視点で、瞑想やこの世界の理、心のしくみについての興味深いお話が聞けて参加者たちの質問も活発です。先日は、ブッダってどういう人だと思う?という投げかけからそれぞれのイメージを共有し合い、ブッダを身近に感じてよりブッダが好きになってしまいました♡ 「入門」というだけに素朴な質問がしやすい雰囲気があり、質疑応答を通じたみんなでの交流も楽しく、また、瞑想の時間はピタッとした静けさと集中があり、メリハリがあります。

そんな瞑想入門クラスに熱心に通われているNさんは、「自分はまだまだ真理やヨーガを信じられていない」と包み隠さず話されます。ある日のクラスで、「真理があるか、ないかを確かめたい」と真剣に言われました。ゴーパーラさんは、ブッダの教えにもある「たとえ古い聖典が出てきてもそれを盲目的に信じる必要はない」という言葉を紹介され、師も同じように仰っていることを話されました。

師は「まずヨーガを進めていくには、それまで経験で培った観念とか概念とかいう心の秤を無視するところから始める、あるいは疑うところから始める。またその聖典とか真理の言葉といわれるものも、鵜呑みにする必要はない。ただし、その両方についてよくよく考え、そして瞑想して、間違いのない答えが出てくるまでそれを探求しなければいけない」と説かれています。

まさに師のこの教えの通り、探求の真っ只中のNさんと私たち。ゴーパーラさんは、瞑想を山登りに例えられ、学生時代に行ったチベットの高度5000メートルの山で、高山病になったことを紹介されたことがありました。どんな山を目指すかは人それぞれ。目指している山が違ってもいいけれど、でもどんな山を目指すにしても頂上に辿り着くためには、やらないといけないことがある。それは土台作り。基礎体力が必要! その基礎作りが瞑想入門のクラスなのです。基礎は何度も繰り返し学び実践することで強固になるなぁと私は感じています。

とっても為になる実践的な瞑想入門クラスなのですが、実は参加人数が少なくて(涙)クラス宣伝のため、チラシ蒔きを兼ねて数人でインドカレーのお店に行く機会がありました。私はそこでNさんと初めてゆっくり話しました。Nさんは、すっごく正直で、真っすぐで、ある意味、師の教えの言葉を地で行く(!)絶対に何も鵜呑みにしない人(笑)なんだなということを感じ、何てヨーガ向きな人なんだ?!と思いました。真理も神ももちろん全く鵜呑みにはせず(笑)、自分自身で確かめながら、着実に道を歩んでこられたんだと分かりました。Nさんは師のサットサンガでも師に、疑心暗鬼になるんです、神という存在についても信じられないです、どうやって信仰する神を選ぶのですか?というような正直な質問をたくさんされていました。私はNさんに対して、疑心暗鬼だと言われながらも、でもこんなにも熱心にサットサンガやクラスに参加し、これだけヨーガを続けられるその理由は何なんだろう??凄いなと密かに思っていました。お話してその謎が解けました、Nさんは師の存在にただただ惹かれている! 好きになってしまっている♡

さて、そんなNさんからあるエピソードを聞きました。Nさんが書いてくださったそのエピソードをここでご紹介したいと思います。(ナリニー)

* * *

 

「まあ、なんてかわいらしい仏様!」
2019年12月8日、この絵はわたしのもとに届きました。
その1週間前、師の特別サットサンガの日、瞑想の対象を決められずにいたわたしは

師に「神様に来てくださいとお願いしてもいいですか」と尋ねました。
師は「お願いしてもいい。その中で親しみのもてた神を信仰すればいい」と
仰ってくださいました。

それから数日後、知人から「Kさんが、渡したい絵があると言われている」というお電話がありました。Kさんは長年マザーテレサの下で奉仕活動をされている方だったので、わたしは「もしかしたら、キリスト様かマリア様が家に来られるのかなぁ」と思っていました。

そして、12月8日、ブッダが悟りをひらかれたその日、この絵はわたしのもとへ。
以来、ずっと見守ってくださっています。

師のはからいによってもたらされた宝物です。

 

ブッダの版画
N 

* * *


師のお言葉の力

「ヨーガに出会う前の私と同じように苦しい思いをしている人が、本当は苦しみなどない尊い存在なのだと感じられるように、行為したいです」

サットサンガの中でそう話した時、師は笑顔で仰いました。
「そうしてくれたら私も嬉しい」

糸がぐちゃぐちゃに絡まったような状態だった私の心を、師は少しずつ解いてくださいました。
その糸の端をしっかりと師に結び付け、少しでも師に近付くために手繰り寄せるようにヨーガの道を歩めていることは、本当に幸せなことだと感じています。

ヨーガに出会う前、私は自分は不幸だと思い込み、自分と似たような悩みや苦しみを感じている人には共感し親しくするけれど、幸せそうに見える人とは距離をとって関わらないようにしていました。
ヨーガを実践するようになってから、誰しも悩んだり苦しんだりしながら生きていることを理解し、自らの中に光り輝く真実があることに気付かず生きていることこそが不幸であると思うようになりました。

 

私の仕事は悩みや苦しみを抱えた人と関わることが多く、かつての私と同じように糸が絡まったような状態だと思われる方もいます。
師のように絡まった糸を解くことはできなくても、少しでもほぐすことができたら…自分に何ができるのか考えると、師がなさっていたように、常に誰に対しても等しく、謙虚に行為することだと気付きました。

今は、目の前にいる人が、一瞬でも自らの中にある真実を感じられるように祈りながら、何か一つでもその人のために行為できるように努めています。

 「そうしてくれたら私も嬉しい」
師の言葉と笑顔が、私に力を与えてくださっています。


真っ白なクルクマの花。この花を見ると夏が来たと実感します。蓮の花のような清らかな雰囲気なので、見つめているだけで心が調います。

   ハルシャニー  

 

 

            


『マハーヨーギーの真理のことば』 自分の一生は自分で生きる

子供の頃から我が家にはいちじくの木があった。母が養女としてこの家に来た時に、庭に好きなものを植えたらいいと養父が言ったので、好物のいちじくの苗木を植えたところ、いちじくはだめだ、根が強く他の植物をダメにしてしまうと引っこ抜かれてしまったそうだ。しかし母はその苗木をこっそり家から離れた小さな畑に植えた。養父は数年後に亡くなり、母はやがて結婚し、子供を育てながら、丹精込めていちじくの世話をして、毎年夏になると鈴なりに実がなった。家族だけでは食べきれず、好きな方に差し上げているうちに、甘くて美味しい、販売して欲しいと声が上がり、軒先で売ると、毎朝買いに来られる方が増え、口コミで遠い所からも来られるほど、評判となった。

風邪も引いたことがないと健康を自慢していた母であったが、思いがけず病を得た。手術と治療を繰り返し、なんとか日常生活を送っていたが、病状が進み、最期の2年ほどは坂道を転げ落ちていくように急速に悪化した。それでも母は最後まで前向きに生きた。大切に育てた畑を見るのが何より大好きで、私は週末になると母を車椅子に乗せて畑まで行った。いちじくの世話は父と姉夫婦が受け継ぎ、親木から挿し木をして子供の木も育てた。亡くなる2ヶ月前の6月には、親木も子供の木も立派な葉をつけているのを見て喜んでいた。母がいちじくを愛でたのはそれが最後となり、8月に旅立った。
その1年後、去年の夏の終わりのこと、雨の多い夏となり、例年より少し時期が遅れ、9月の初めになって実をつけた。そんな朝、前日まで青々とした大きな葉を伸ばしていた親木のいちじくが一夜にして実だけ枝に残して、全ての葉を地に落とし、寿命を全うした。この2回の夏に私たち家族は母といちじくの、二つの魂を見送ることになった。

愛する存在の死は悲しい。この上ない苦しみである。苦しみを乗り超えるために私は言葉の通り七転八倒した。そしてやはり最後にすがるところはヨーガだけであった。
死を理解することは今の私には難しい。それなら必死に生きようと思った。そして私は今、真理のことばに支えられて生きている。

問題は、一個人として自分はどう感じるのか。
どう生きたいのかを自分自身に問うべきです。本当の自由が欲しいのではないのですか。本物の幸せを得たいのではないですか。
真実在というべきその存在が自らの中に在ると教えられながら、
どうしてそれを探そうとしないのか。
この単純な問い掛けを自分自身に真剣に為すべきです!
それ以外の想念は全て、単なる情報の影響にすぎません。
そんな影響の渦に巻き込まれて、自らを失いたくはないでしょう。
自分の一生は自分で生きるのです!

『マハーヨーギーの真理のことば』 第八章 実践の秘訣 より

母といちじくが自らの人生を見せてくれた。そのことに感謝して、私も自分の人生を生きたいと思う。それがヨーガとなったら本望だ。
そして今年も我が家のいちじくが大きな葉を広げて甘い実をつけるのが楽しみだ。

サラニー


旬の野菜を食べてサットヴァになる

今年の春は、心身の不調を訴える患者さんが多く来院されました。

フルタイムで働きながら子育てされている患者さんは、仕事も子育ても精一杯頑張っているのにうまくいかない状態が続き、無力感に苛まれているようでした。
多忙だと食生活が乱れがちかも、と思い尋ねてみると、簡単に調理ができる市販のものを利用することが多く、食べても満足できずに間食の量も増えているとのこと。
ちょうど春の野菜が次々と旬を迎えている時期だったため、旬の野菜を頂くことで身体も元気になることを話し、子供は大人以上に素材のおいしさを敏感に感じ取ることがあるから、お子さんのためにも、1種類でもいいから、素材を生かしたシンプルな味付けで食べてみたらいいかも、と提案しました。

翌日その患者さんから、メールが届きました。
その後帰り道に一つ野菜を買って帰り、蒸して食卓に並べたら、お子さんたちがおいしい!と言いながらたくさん食べたそうです。
子供は野菜だけだと食べないだろうと思っていたのに、旬が分かるのかな?とびっくりした、明日もやってみます、と書いてありました。

旬の野菜はサットヴァ(清浄)な性質を持ち、生命力に満ち溢れています。
その命を頂くことで、私たちの心身もサットヴァになり、満たされる。

現在、その患者さんは以前より表情が明るくなりました。多忙な生活に変わりはないけれど、少しずつでも旬の野菜を食事に取り入れるのを意識するようになったそうです。

近所には農家さんが多く、採れたての野菜が手に入るのでありがたいです。

    ハルシャニー  

 


聖なる交流は、師からの贈り物

私たちの最愛の師が御入滅されました。こんな時、一体ブログに何を書けばいいというのか。
でも・・・こんな時だからこそ、いつも通りにしないとです。だから今回もいつも通りに、毎回、自分が立ち返って確認すること“タイトルに沿う”に従って、進めたいと思います。このブログのタイトルは『ヨーガを生きる』。サブタイトルは、『ヨーギーたちのダイアリー』です。

*  *  *

お別れのセレモニーの日、日本各地、世界から弟子たちが集まりました。お別れをした後、私は、ヨーガを志しておられる台湾のご夫婦とお会いすることになっていました。ただ、言語のこととデリケートな心境の時に交流するに相応しいお店の雰囲気に心配がありました。
しかし、師の恩寵の下、皆の優しさによって、すぐさま心配は消えていきました。先輩の家で、ニューヨーク、台湾の仲間とみんなで交流することができたからです。皆が辛い心境ではありましたが、お互いがお互いのことを思い合い、それは本当に尊く、美しい時間でした。

書ききれないほど印象的な事がありましたが、今回は台湾の仲間たちに焦点を絞りたいと思います。
その場には、夫婦三組が居合わせていました。新婚夫婦のご主人は、初めて日本のヨーガ仲間と交流されたそうですが、皆の辛さを吹き飛ばすような快活さで、ヨーガへの真剣なピュアな思いを話されました。また、皆のために絶えず通訳までしてくださり、彼の存在そのものと、その素晴らしい献身のおかげで、私たちは大変救われました。印象的だったお話があります。ヨーガを真摯に学びヨーガを生きておられる奥さんは、既に何度か日本に来られていますが、毎回ヨーガの拠点以外のどこにも観光へも行かず、ヨーガを学ぶためだけに日本に滞在されていたそうです。それを知っていたご主人は、本当にそのような滞在の仕方で満たされているのか?と不思議に感じていたそうです。

また、もう一組のご夫婦は、お仕事上ではパートナー、ヨーガでは同志、家では夫婦、という、つまり四六時中一緒におられ、ヨーガへの思いが真剣なあまり、時には衝突などもあると正直に仰いました。それが特に顕著だったのは台湾で開催されたヨーガの展覧会を作り上げる過程だったそうです。いかに真のヨーガを空間に表現するか?という点において、夫婦で幾度も諦めずに話し合いを重ねられたといいます。私はそれを聞き、尊敬しました。はっきりいってその状況は逃げ場がどこにもない。すべての行動を共にしなければならないなかで、衝突が起こっても、そこから逃げずに、ヨーガ的に真剣に真正面から話し合い、その問題をなかったことにはしないと仰っていたからです。ヨーガの教えに沿って自分を隙なく律して、夫婦ともに真摯にヨーガの教えを生きていく、その強い忍耐の精神力と覚悟が伝わってきて圧倒されました。近しい人や家族にはエゴが出やすいと思いますが、そんななかで師の教え、ヨーガを生きて、切磋琢磨されていることを強く感じ、とてもかっこいいと思いました。

その交流の場には、台湾、アメリカ、日本、の三か国語が飛び交っていましたが、全員一致で分かる共通言語がありませんでした。また、言語の通訳はできても、ヨーガを学んでいる年数の違いや教えや言葉の理解度も違います。だから全員でフォローしあいながら、人から人へ時間をかけて丁寧に伝えていくことでしか交流が成立しませんでした。みんなが平等に理解できているか?その一点に神経が集中されていき、一つの熱い塊のようなものの中にいた気が私はします。

台湾でいつも通訳を担っておられる女性は、全体の話を把握されつつも、全てを自分一人では通訳してしまわないで、他の皆にも通訳する機会を分かち合うようにして、見事な調和を保たれていました。時に、彼女が目を真っ赤にしながらも感情を制御して通訳に献身される姿には、なんて優しいんだろう・・・と強烈に胸を打たれました。台湾の仲間の自然な助け合いと、素晴らしい分担に感動しました。相手に応じて、ヨーガの教えや言葉を、瞬時に分かるよう訳し伝えることは簡単なことではありません。何語であっても、聞き、要約し、それを相手に伝える、という作業は、本質を掴んでいないと出来ないと思います。言葉を超えて、彼らの行為から伝わってくるものがたくさんありました。

そして、その陰では、交流を断念して他者のためのご飯作りに専念してくれる人、みんなが交流できるように場を調えて一人で洗い物をしてくれる人もいます。通訳に徹してくれる人、インスパイアに満ちた話をしてくれる人、質問をしてくれる人、相手の話を真摯に聞いてくれる人、静かにお茶を淹れてくれる人・・・皆一人ずつに完璧な役割があるように思えました。すべてが他者のために存在しているようでした。その中の誰か一人でもが欠けていたら、どう考えても物理的に、聖なる交流ができませんでした。師はいつでも私たちを、一人も残さず全員を活かされていると感じました。

その場には、生前の師と会ったことのない人、師から教えのお言葉を直に聞いたことのない人もいて、彼らに、どうしても今、師の教えを、師の尊い行為をそのまま伝えたいとみんなが思って、悲しんでばかりなんていられない状況が与えられていました。師であるヨギさんの教えを分かち合いたい。そうするためには一人では無理で、お互いがお互いのことを思い合わないと出来ない状況でした。これから一体どうしていったらいいのか?その答えがその交流そのものに思えて仕方ありませんでした。

それは、まさに『ヨーガの福音』と『マハーヨーギーの真理のことば』にも載っている師の教えでした。どうしていくか?それは自分たち次第でいくらでも変わる、とその時学びました。

ある人が黄泉の国を見た時のお話です。
一つの館では、大勢の人間が食卓を囲んで、食事をしていて、よく見ると彼らの片腕は椅子の肘掛けに結わえ付けられていて、もう一方の手には長い柄のスプーンがくくり付けられていた。

彼らは目の前のご馳走を食べようとするが、口に運べず、頭に被(かぶ)るやら床に落とすやらで、苛立ち怒りだし、とうとう喧嘩を始める。彼は、これは地獄だと思って次の館に入った。
ここでも多くの人間たちが片手を椅子に、片手に長いスプーンをくくり付けられて食事をするところだった。すると彼らは長いスプーンで相手の口に食べ物を運び、貰った者はお返しをする、という具合で皆満足気に喜んでいた。彼は、ここは天国だと思った。

そう、天国と地獄は人の心の中にあります。あなたが「私」と「私のもの」を突っ張ればそこは地獄になり、「あなた」と「あなたのもの」に自らを捧げるなら天国になるのです。心は迷いやすく間違いを犯すかもしれないが、自らの苦しみを避けるためには他者を苦しめてはならない。自らの幸いを招くためには他者の喜びに奉仕することです。それは愛です。

 その日の交流では、夫婦というキーワードもありましたが、お互いがお互いのことを思えば、そこは天国になる、自分のことを思えば地獄になる、このお話の通りだと実感しました。その時間、師の教えを平等に分かち合うことができたのは、みんながみんなのことを考えて自然に動いていたからでした。誰一人として、自分が自分がという人はそこにいません。尊い師の存在と全く同じである他者のことを考えていた。自分が苦しい時や辛い時にこそ相手を思いやる、そのことを師は私たちに教え、与え続けてくださっている。また、その教えに徹するならば、自分にもできる役割はいくらでもあるのだと教えられました。

優れた能力や技術も何もないけれど人の役に立ちたいと師にお伝えした昔、師はこのように仰いました。

人にはそれぞれの役割がある、そこに優劣はないし同等。ただ役割が違うだけ。だから、やることは心を込めてやっていくということ、それでいい。
何をやるかが重要ではなくて、今やっていることに真心を込めること、たとえ間違えたり失敗したりしても、それでも誠実に純粋にしていく努力を諦めないこと。そこに意識を向け続けることで、いつも事がスムーズに転換します、師の恩寵によって。それを皆の姿から改めて学んだ時間でした。

皆で交流して、新婚夫婦のご主人が最後に言われました。
「彼女がどうして日本に行っても全く観光もせず、それでも十分に心が満たされて帰ってきていたのかが今、よく分かりました!!
私ももう十分に満たされている。もう足りないものがない!!!」

みんなのお弁当を買いにヨーガ・ヴィハーラの前を自転車で通ると、青空の下、師の描かれた看板が生き生きと輝いていました。師が楽しそうに扉にサハスラーラを描かれていた姿を思い出しました!

ジャイ!サットグル!シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ!キ・ジャイ!!!
グルデーヴァ!!!

ナリニー  


『マハーヨーギーの真理のことば』 第七章 食の大切さ

ヨーガでは、悟りへの乗り物であるこの身体を維持するために食事をする、と考えます。 

食材も命であり、食べるとはその命を頂くということ。 
食材に感謝し調理したものを食べると、食べた後も満たされた気持ちが続き、心身が調うと、日常生活における言動も調っていきます。 

 そう分かっていても、仕事が忙しくてつい買ってきたものを食べて済ませてしまうことがありました。 
買ってきたものは味が濃くておいしいと思えず、油っこくて胃腸の調子を崩し、食べても満足感を得られませんでした。そのことで自己嫌悪に陥ってしまい、やるべき事を後回しにしがちに。 
安易に口にした食事が日常生活にも影響を及ぼしていくことを痛感したタイミングで、『マハーヨーギーの真理のことば』の第7章のページを開きました。 

古きに渡って培われた東洋の精進料理は、 
まず真理を求めることを念頭に置いて、 
修行者の体と心を調える役割を担っている。 
修行が深まり、身口意が不動となり、真理の一片なりとも悟るなら、 
何を着ようが何を食べようが構わないのだ。 
もはや彼あるいは彼女は何ものにも影響されないから。 
しかしその境地に至るまでは、 
真理の正しい教えと同様、正しい食生活にも留意しなければならない。 


第七章の冒頭に書かれているこの教えを読んで、目が覚めたような感覚でした。
 

私は真理を求めて生きると決めた。 
真理を実現するために、いつでもこの体を道具として最大限に使えるように調えておく必要がある。 
それには真理の教えを学ぶことと同じくらい、それに基づいた正しい食生活が不可欠である。 

身口意が不動となり、真理の一片でも悟り得るまではそれを徹底する! 

この章を読むことで、ようやくその覚悟が決まりました。 

 

 ハルシャニー  


京都・大阪 瞑想入門4回コースのお知らせ

皆さま、こんにちは。
ゴーパーラです。
私が講師を務めさせていただく「瞑想入門  4回コース」が京都(5/13)・大阪(5/18)でスタートします‼️(詳しくはこちらから⇨瞑想入門

昨今、たくさんの瞑想が紹介されていますが、どれが正しい瞑想なのか分からないほど多く出回っていて、混乱しますよね。。
私は瞑想をして15年ほどになるのですが、正しい瞑想のポイントとして「目的と基礎がしっかりとしていること」、それが挙げられると思っています。

例えば、○○大学に入りたいとなったら、その大学に受かるためにがんばって勉強すると思いますし、まずはその目標・目的を定めることが大事なことになってきますよね。
また、どの大学を目指すにしても、いちばん始めにするべきことは、基礎を学ぶことだと思います。
基礎が身に付いていれば、それがベースとなって、勉強をさらに促進させてくれるはずです。

この瞑想入門コースでは、瞑想の「目的」「基礎」をしっかりと学べるプログラムになっています。
瞑想の王道の教え「ラージャ・ヨーガ」を指針に、正しい座り方や呼吸法、ひいては日常の心構えについても学び、目標に向かって実践していきます。
瞑想で実現したい目標は人それぞれかもしれませんーー集中力をつけたい、心穏やかになりたい、また真実を悟りたいなどさまざまかと思いますが、王道に則って瞑想をすれば、それらは実現できます!

瞑想に興味がある、やっていきたい、深めたいという方、誰もに必要な基礎が学べ、無理なく始められるプログラムになっております。
ぜひご参加いただけたらと思います😇🙏

ゴーパーラ


『マハーヨーギーの真理のことば』 呼吸と心の制御

私の心は長い間、この世の出来事に翻弄され波立っていました。苦しい時はその思いに執らわれて、考えても仕方のないことと分かっていながら、何日も思い悩み、眠れぬ夜が続きました。互いに思いやりあって円満に暮らしたいのに、すぐに忘れて相手を傷つけてしまうこともあったように思います。この心をより良くしたいと思って足掻いてもなかなかできず、自分で自分の心を変えることはできないのだと失望し、諦めていました。
そんな時、師シュリー・マハーヨーギーと出会いました。『呼吸を変えれば、心は変わります』。その教えを聞いた時、暗闇の中にいた私の心はハッとして、そこに一筋の光明を見出しました。呼吸を変えれば心は変わる、呼吸を変えれば心は変わるんだ、呪文のように繰り返し、私は毎日アーサナ(ヨーガの体位)を行ないました。このことばに私の心は救われたのです。
 
心は風、呼吸は水、身体は氷に例えられる。
これらは全てH2Oだが、
風を掴むのは非常に難しい。
そこで掴みやすい氷、
つまり身体をアーサナによって制御するのです。
そうすれば水、つまり呼吸は器に従い、
呼吸が制御されれば心も制御されます。
心が完全に制御されたなら、

真の自己の自覚ー即ち悟りがあるでしょう。

            『マハーヨーギーの真理のことば』 第六章 アーサナの実践 より 
 
このH2Oの例えはものすごく分かりやすくて、呼吸を変えて心を変えていこうという一つの大きなモチベーションとなりました。第六章にはアーサナを実践するにあたって、知っておくべき自分たちの微細な身体の仕組みのことや心のあり方など、大変興味深い教えが分かりやすく丁寧に説かれています。『マハーヨーギーの真理のことば』を読んでいると、目から鱗が落ちるような教えが明快に説かれているので、真剣に、自分のことやこの世界の本質のことを知っていこうという意欲が自ずと湧いてくるに違いありません。私自身も本書からヨーガの道を歩んでいく上での新たな勇気をいただきました。
 
私たちの知らない真実が『マハーヨーギーの真理のことば』の中に宝石のように散りばめられています。
この本は本当の自分を知り、より良く生きたいと願う心に必ず答えてくれる一冊となっています。
 
 
 
 
ダルミニー

『マハーヨーギーの真理のことば』 全ては同じ存在である

他者との関わりについて、私がもの物心ついた頃から両親や学校の先生に教えてもらったと記憶しているのは、「相手の立場に立って物事を考えなさい」ということでした。確かに自分がされた嫌なことは相手も嫌だろうとは思うものの、なんだかぼんやりした曖昧なもので、なんとなくそうしないといけないものと捉えていたと思います。そしてそれをしたとしても気の合う人だけだったり、機嫌が良いときだったり、いい加減なものでした。時には傷ついたり傷つけられたり、人間関係ってそんなものじゃないの?と思って生きてきました。ですが真理の教えと出会って、なぜ相手の立場に立って物事を考えないといけないのかが、だんだんと腑に落ちるようになっていきました。

『マハーヨーギーの真理のことば』第5章の中で、その答えが明確に書かれているのでご紹介します。

真理というものを学ぶならば、最初に気付かされることは、全てのものが平等であり、尊いということです。ここにおいては自らと他者、あるいはその他の動物や生き物、全てにおいて差別観を持ってはいけない、全ての中に同じ尊い存在があるということです。そうすると、誰かが誰かに暴力を与える、与えられるという関係は矛盾するでしょう。それは平等ではなくなる。これは真理に反することです。盗む、盗まれるもそうです。真理というところから見ても、当然の行為のあり方です。そういうふうにまず真理をもって理解することで、自らの心の制御が為されるし、また行為が正されていくと思います。もちろん行為は実践を通して行なわれますから、確実なものとしてそれが本当の修行というものになっていくと思います。単に頭の知的理解だけでは駄目、体を通して体得していくことが求められます。

教えを学び始めてから程なく、全ての中に同じ尊い存在を見るように努め、言葉も、行為もそれに矛盾なく沿わせていくという実践が始まりました。私が特に意識してきたのは誰に対しても暴力的な思いをもたないようにするということです。うまくいかないことは多々ありました。余裕がなくて優しくなれなかったり、いやいやこれはこの人が悪くない?と葛藤したり、ああかな?こうかな?と経験を繰り返すうちに、徐々に自分の心の形相が見えてきました。

自分の中に他者に対して暴力的な思いがあると、心の中がずっともやもやして、気分を変えようと場所を変えても、誰かと話しても、結局気分は晴れずにずっとしんどい思いを抱えているのです。

(なるほど、この世を見渡すと数多くのものがそれぞれ点在しているように見えるけれど、そうではなくて、師が仰っているように全ての中に同じ尊い存在があるのかもしれない。もしそうだとしたら、他者は自分自身ということになる。他者に暴力的な思いを持つと自分が苦しいと感じるのは、結局自分に対して暴力を振るっているのと同じ。そうか、相手がどうこうではなくて、自分が同じ存在を見ていないから苦しむのだ)と実践を通して少しずつ心が理解するようになっていきました。

今までの心の習性からこの世界を見るか、それとも真実の方から見るか。どちらから見るのかによって、天国にでも地獄にでもなる。自分が天国を見たいのなら、自らの心の持ち方や言葉遣い、行為の全てに責任を持たないといけないということが分かってきました。

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第5章は全ての中に尊い同じ存在があることを体得するための、日常の行為の秘訣が書かれています(他者との関わりにおいて守るべき教えをヤマ、自分に対して守るべき教えをニヤマと呼びます、詳しくは以下の通りです)。

ヤマ(禁戒)他者に対する行為と言葉と想念の制御
 アヒンサー(非暴力)ー一切万物を傷つけてはならない
 サティヤ(正直)ー真実だけを語り、誠実であること
 アステーヤ(不盗)ー何ものも盗んではならない
 ブラフマチャリヤ(純潔)ー純潔であること
 アパリグラハ(不貪)ー必要最低限の物以外所有せず、贈り物を受け取らない

ニヤマ(勧戒)自らに対する行為と言葉と想念の精進
 シャウチャ(清浄)ー身心を潔斎浄化する
 サントーシャ(知足)ー生きる上で必要最低限度で足りたるを知る
 タパス(苦行)ーあらゆる身心の二元状況を克服する
 スヴァーディヤーヤ(聖典学習)ー真理への理解を育む
 イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への誓願)ー神への帰依

本の中ではヤマ・ニヤマ一つ一つの戒律について、具体的にどう考え実行すればいいのかがとても分かりやすく書かれています。読んでいると面白くて、ワクワクしながら読み進めていけます。そしてすぐに実践しようと思えるものばかりです。ぜひ読んで、実践して、味わってみてください!

アマラー

 


ラージャ・ヨーガ「ヤマ」の実践で気付いたこと

松山と東京のクラスを結んで昨年5月に始まった「ヤマの会」ですが、先月、ヤマの5つの教えの実践を終えて一旦会を終了することとなりました。

「ヤマ」とは、ラージャ・ヨーガにおいて一つ目に挙げられている修練であり、日常でおこなわれるとても大切な教えです。

アヒンサー(非暴力)
サティヤ(正直)
アステーヤ(不盗)
ブラフマチャリヤ(純潔)
アパリグラハ(不貪)

私たちは教えを順番に実践し、オンラインで実践したことや感想などを話し合ってきました。

最初の頃、「私は人から盗むことも嘘を付くこともしない」と、ピンとこないところがありましたが、たとえば、人の考えをさも自分が考えたように言ってしまうこともアステーヤに反することや、根拠が曖昧ないい加減なことを言ってしまうこともサティヤに反するということを知り、どれも私はよくしていたことなので身が引き締まりました。本を読んで得ただけの知識だと納得してそこで終わってしまいがちですが、ヤマの会ではテーマについて話し、実践し、また振り返りをするのでより深まると思いました。
そして皆さんのいろいろな捉え方、実践を伺えるのはとても勉強になりました。
また、できないと落ち込んだ時もあったのですが、皆さんのヨーガへの真剣な姿勢とともに前向きな明るい姿に、ヨーガって楽しい!という思いが伝わってきて、たとえ少しでも出来たことを喜び、半歩でも前へ進もうと思うことができました。

オオイヌノフグリはいち早く春を教えてくれます。

私は実践していく中で気が付くことがありました。
アヒンサーを学んでから家族を傷付けないようにしていたつもりでしたが、ちょっとした言い争いをしてしまい、その直後私が今まで家族にとってきた良くない態度やきつい言い方が、そのまま自分に返ってきていることにはっきり気が付き、驚きました。身口意(行為・言葉・思い)を一つにしなければ、と改めて思いました。
そんな時、『マハーヨーギーの真理のことば』の御本が届き、パッと開くと「身口意を調える─ ヤマ・ニヤマの実践」とありました。
ヤマ・ニヤマの章を読んでいく中でヨギさんの次のお言葉に、私は胸の奥がぎゅっとなりました。

「平等ということを徹底することによって、それらの戒めは自然と身に付くことになります。これがヤマに対する一つの考え方の基本です」

平等ということを徹底する————
この教えを日々深め、実践を続けたいと思いました。

皆で相談をして、4月から今度は「ニヤマの会」が始まります。楽しみです!

ツタバウンランと蟻。小さな命に見入ってしまいます。

中村 凪