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聖地を巡る

パワースポットなるものが人気ですね。
(今でも人気があるのかな? もう下火なのでしょうか?)
われわれ日本人は宗教を毛嫌いしていると自分たちでは思っているのですが、世界でもまれに見る宗教的な民族だと思います。
どうしてパワーがあるのか知らなくても信じることができるわけですから。(感じる能力が精細とも言えるし、ある意味では迷信的とも言える)
それが良いところであり、悪いところでもあると思います。

パワースポットというのは、昔の言葉で言えば「聖地」ということなのだと思います。
聖地はどうして聖地なのか?
そこで聖なることが行われたからです。

そこを訪れる人が皆、聖なる気持ちをもって歩くだけでも、その思いが土地のプラーナ(生命)として蓄積されて、現代的に言えば「パワー」として感じられるのでしょうね。
特に、聖なる人がかつて住んでいた場合には、特別な聖地になります。
聖者の純粋な思いと行為がその地に染みつき、人々にそれを思い出させ、また無意識のうちにもそれに影響されます。
インドにおける聖地というのは、そういうものです。
インドの人はそうした聖地を巡って、かつてそこに生きた聖者たちの思いや息吹を浴び、祝福を受けようとします。

シッダ・マールガでは今、そういう試みをしています。
かつてこの地上を生きた聖者たちの生命(いのち)、息吹を感じ、清純な思いと憧れで、その生命の中に入っていこうとしています。
手がかりは彼らの生きざま、その行為と言葉です。
残された手がかりを頼りに、彼らの思いそしてハートへと入り込んでいきます。
どのような決意をもって彼らは悟りを目指す旅に立ったのか? 日々を淡々と過ごしながらも、その無執着とは対称的な燃える信仰をいかに生きたのか? 彼らの人々を見つめる眼差しはいかなるものだったか?
残された情報は多くはありません。
それでもその行間に彼らの魂を感じることができます。

今週日曜日のシッダ・マールガでは、佐野さんが素晴らしい発表をしてくれました。
近代の覚者シュリー・ラーマクリシュナの直弟子、スワーミー・ラーマクリシュナーナンダについて本を読み、彼の生きざまについてじっくり考えて、瞑想をしてくれました。
じっくりとはいっても、考えて瞑想していたのは実質3日だったそうです。
時間・期間の長さではなく、やはり瞑想は集中の強度が大事だということが改めて分かりました。
インドの地図を買ってきて、スワーミーが歩いた足跡を丹念に辿りながら、まるで聖地を歩むように、彼の魂の足跡を辿っていったようです。
その地を歩き、修行に情熱を傾け、そして人のために働いたスワーミーの短い生涯が、佐野さんの言葉を通して伝わってきました。
特に、師であるシュリー・ラーマクリシュナに捧げられた思いが格別で、それが彼を愛と無恐怖の境地に導いたことが印象的でした。

聖地を巡ってパワーをもらうというのも、その根源の真実を知って、むしろダイレクトにその聖なる生命の源に入っていけば、単なる迷信に終わらない、確かな祝福があると思います。
そういう意味で、聖者たちのハートこそが詣でるべき真実の聖地であり、またその息吹を感じられれば、われわれの心もまた聖地にすることができるのだと思います。

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ヨーガの実践「他者だけのために行為する」

皆さん、こんにちは、ダルミニーです。

先日職場で、上司から注意を受けました。

「もっと相手の立場に立って、仕事をするように」

なんということでしょう。このエゴと無知を無くすためヨーガを実践しているはずなのに、相手の立場に立って仕事をするように心掛けていたはずなのに、この言葉は私の師からいただいた教えのように私の心に響きました。

エゴとは自分中心に物事を考えることです。自分がいちばん心地良いように行為することです。無知とは以前にも言いましたが、この世の中に対する誤った見方です。永遠でないものに永遠を見ること、浄らかでないものに浄を見ること、幸福でないものに幸福を見ること、私でないものに私を見ることです。

私は素直に反省し、今後も気を付けますと伝えました。すると上司は言いました。

「これはとてもいいことなのだ。これを機会に改善できればいいことだし、これはあなただけのことではなくて、みんなの意識がもっと高くなっていってくれれば嬉しい」

なんと、これも私の師から教えられたような気がしました。それから上司は引き続き、

「あんまり相手の言うことを聞きすぎると、大変なことになることもあるから、その点は注意して」

なんとも、そのへんの境界が難しいものです。しかしインドの聖者の方々は、一切の自分というものを無くして、他者だけのために行為されています。本当に高い境地におられるのですね。自分というエゴ意識が全くない状態、それが本来の理想の人間の姿なのでしょう。

『ヨーガ・スートラ』に「心の作用を止滅することがヨーガである」とあります。心はいつも外界の刺激にさらされて、ああでもない、こうでもないと右往左往しています。そしてこの心と身体を私だと思い、その私を満足させるために心を働かせています。心の作用を止滅させるということは、そういった心の動揺を少しずつ静めていって、そうして不動の状態に留めておこうとするものです。

しかしそれは並大抵のことではありません。私たちは本当に大きな仕事に立ち向かっています。この困難な仕事を推し進めるためには、日々の実践と大いなるものへの憧れ、具体的に思い描く理想の姿への憧れが大切なのだと思いました。どうありたいのか、どうなりたいのか、自分の未来の具体的な姿をイメージし、その姿に近づいていけるよう努力することが大切なのだと思いました。

その話のあとには続きがあります。私はその日、上司から注意を受けたのでちょっと元気がありませんでした。しかしその夜、私は大いに人から感謝される夢を見たのです。

師から、「この世の出来事は夢のようなもの、早く夢から覚めなさい」と教えられています。全く真反対のその夢を見た時、本当は何が現実なのだろうと思いました。本当のこと、真実ってどこにあるのだろうと思いました。でもその時に一条の光のように差し込んでくるのが師のお言葉です。

「誰もの中に真実があります。それこそがリアリティです」

師の教え、ヨーガの教えが私の生きる支えです。今日もまたむくむくと勇気がわき起こり、本当の自分、真実のために生きて行こうと元気いっぱいになる私なのでした。

みなさん、日々お仕事大変でしょう。ご苦労様です。日常生活の中にこそ、ヨーガを実践する場所があります。ヨーガの教えにそって日々の生活を送ることこそが、この世間という大海の荒波を渡っていく大切な智慧と力になります。ヨーガという大船に乗って、みんなでこの大海を渡りきりましょう。

またクラスに来てくださいね。待っています。

 ダルミニー


シッダ・マールガ

シッダ・マールが1

こんにちは、写真は日曜日に行われたシッダ・マールガでの様子です。
総勢40名ほどが集まりました 😀 このクラスは3年以上ヨーガを実践して来た人が参加できるクラスで、クラスの名前の通り、シッダ(成就者)への道を進むものが参加しています!
今回は3人の方が、それぞれに憧れる聖者を選び、その聖者がどのようにして成就したのか、成就した後どのように生涯を生きたかということを話してくれました。

聖者に瞑想していく中で、それぞれの人にはその聖者との親密な関係が出来ていったように思いました。ある発表者のときです、彼女が選んだ聖者の名前を口にした瞬間、「あー!この二人の間には、何か親密な交換があったんだな〜」ということを感じました。それを感じ、それだけで感動して泣いてしまいました。心の思いが言葉となるのなら、心の中での親密な関係性は発する言葉ですぐに分かるものだな〜と思いました。
聖者との親密な関係って、本当に素敵ですよね。これからも楽しみです!

サティヤー

 


次の瞬間に死んでもいいという生き方

この間は年末のことについて書きましたが、今日は年始のことについて書きたいと思います。みなさんはお正月、家族や親戚の方たちと賑やかに過ごされたのでしょうか。私は、元旦から仕事でした。正月だからって患者さんはおられるので、休むわけにはいきません。そして、死は正月だからって遅れてきてはくれないんですよね。元旦から急死、急変、看取り、さまざまなことがありました。年末年始に亡くなる人って、結構多いんです。

その日、私はサブリーダーといって、患者さんを担当しているスタッフの補佐をする役割でした。血圧を測ったり、医師の指示を聞いて書類を作成したり(これがまた都会のようにパソコン一つですべて処理できるのと違ってやり方がアナログ!すごい面倒×××)、薬を準備したり、医師の処置の介助をしたり、やることが多くて結構スピードが問われます。

うちの病棟にMさんという高齢の男性患者さんがおられまして、朝9時過ぎに私が血圧を測りに部屋に入ると、「おぉっ!下顎呼吸になっている!」。これは、死が近い兆候です。死の間際に置かれた患者さんは、血圧が低下した後、胸郭を使った呼吸から下顎を使った呼吸に変わり、呼吸回数が極端に減少します。その後、心拍数が低下し始めます。もともとMさんの状態は良くはなかったのですが、これは明らかに家族や主治医を呼ばないといけないレベル。そんな申し送りもなかったので、慌てて大声でスタッフを呼びました。でも…、あれれ?誰も来ない…。ここにはスタッフコールとか、病院なら普通にある気の利いた設備がありません。(注:スタッフコールとは、緊急事態にスタッフが他のスタッフを呼ぶコールで、患者が押すナースコールとは別にある)。仕方なくナースコールを押してみた。うぅっ!誰も出ない…。なんでやねん!(←つっこみではない)。本当はこういう場合、患者から離れてはいけないんですが、仕方なくあたふたと部屋のドアを開けに行って、大声で人を呼びました。それで何とか、その日のMさんの担当看護師と二人で看取る体制を整えたんです。

でも結局、家族が到着する前にMさんの心臓は止まってしまったんですね。亡くなったのは、私が発見してから30分後のことでした。家族はすごく悲しまれていました。毎日病院に来ては食事介助したり優しく話しかけたりされるような熱心な家族でしたから、見ていられないくらい泣いておられました。Mさんにはとてもしっかりしたお孫さんがおられて、その方が詰所に来て言われたんですね。まったく何の準備もできていないので、しばらく置いておいて欲しいと。Mさんが亡くなることを家族は誰も想像してなかったということなんです。師長が15時までならということで許可したのですが、急死ならともかく、Mさんは長い間重症の肺炎を患っていて、ずっと治療してきたし、何度も主治医から覚悟するようにと言われてきたんですよね。なのに死ぬと思っていなかったって…とスタッフはみんな驚いていました。

でも、きっと人間って皆そうなんですね。特にMさんのように何度も肺炎にかかり、何度も死ぬような状況を乗り越えてくると、また今度も大丈夫だろうと思ってしまう。いつか医者のいうこともお決まり文句だくらいに思ってしまって、死が間近に迫っているという実感がわかなくなっていく。

Mさんの家族を見て、あぁ、私もそうなんだなと思いました。私だって明日死ぬなんて思ってもいないけど、そうならないとは限らない。いつか自分が、身近な人が死ぬという実感がない。どれほどたくさんの患者さんを看取ったとしても、その経験によって自分の死を実感することはないんです。

そんなことを感じながら思い出すのは、やはり聖者たちの言葉です。聖者たちの言葉を見ますと、一瞬一瞬を、その時その時を生きなさいというのをよく目にします。聖者たちがそのように生きたということですね。私たちのヨーガの先生も言われます。次の瞬間に死んでもいいという生き方をしなさいと。では、次の瞬間に死を感じれば、そういう生き方ができるかと言えば、そうではないです。次の瞬間に死ぬって感覚、本当に私たちは持つことができるのでしょうか。

私は過去に自分の死を予感したことがあります。私の場合は病気でしたが、症状が日に日に重くなり、死を自ら感じるというより、いくら拒んでもいやおうなく感じさせられるという言い方のほうが的確です。症状による苦痛はひどく、言葉に表せませんが、何と言っても孤独感がひどい。次の日目覚めなかったらどうしようと思って布団に入り、体は重くてくたくたなのに、怖くて眠れないんですね。でも一方で、このままずっとこの苦痛が続くのかと、苦悩し続ける自分もいる。この時、私は生まれて初めて、誰でもない自分がもうすぐ死ぬんだと感じるようになっていたんですね。毎日、恐怖と不安でビクビクしていた。だから、次の瞬間に死ぬかも知れないとは思っているけれど、死んでもいいという生き方をしていたわけではない。

しかし、やがて、ほんの少しずつ死を受け入れ始める日がやってきます。

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

あの時は、こんな風にコンクリートの隙間に咲き続ける花からよく勇気をもらっていました

 長くなったので、つづく
ユクティー

 


まっすぐなお客さま

新しい年があけましたね。みなさんは、年末年始をどんな風に過ごされましたか?年末、私のところには素敵なお客さまがみえました!とても愉快で安らぐ時間でした。今日は、その時のことについて書いてみたいと思います。

人が来てくれるというのは、とても幸せなことです。なぜなら、ここでは誰かが去るのを見送ることの方が多いからです。私は今年の春からここに来て三年目に入ります。この二年で何人の人が去っていくのを見送ったでしょう。近々また別れがあります。

さて、お客さまは誰かと言えば、パラマハンサの表紙を描いておられる、東京在住のグルバイ内山さんでした。出張でいわきに来たので、寄ってくれたのです。寄ってくれたといっても、バスを乗り換えて約4時間半。しかも年末、帰省客でバスは満員だったそうです。震災前はいわきまで電車が通っていたのですが、原発の関係で途中の区間がまだ開通していないので、遠回りしてもらわないといけないんですよね。

彼女とは京都ではあまりお話したことがなかったのですが、よくぞ来てくれました!地元の知り合いは時々遊びに来てくれるのですが、彼女は私にとって記念すべき初めて家に来てくれたグルバイだったので、とっても興奮しましたよ!

内山さんとは、ヨーガの先生のこと、ミッションのこと、グルバイのこと、自分のこと、いろんな話をしました。話の内容というよりも、話をする彼女から何を感じたかというと、それは神へのまっすぐな思いです。淡々と話す彼女から不安や悩みなどは聞かれませんでしたが、毎日を過ごす中できっと大変なこともあるでしょう。でも、そんなことを越えるまっすぐな思いが彼女の心の中に根付いているのを感じました。自分の意見をしっかりと持ちはっきり言葉に出す、そんな彼女のまっすぐな性格も神への思いに表れているのかもしれません。そんなことを感じながら、私はふと旧約聖書に出てくる預言者イザヤの言葉を思い出しました。旧約聖書はすべて読んだわけではないのですが、この言葉はイエス・キリストと深くかかわった人が発したことで有名なので、私も覚えているんです。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」

道というのは、神に向かう思いです。人間の思いは色々なものが入り混じり、まっすぐではなく凸凹です。虚栄心や妬み、捉われ、打算、コンプレックス…。それを誠実で偽りのないものにしないといけない。それがまっすぐな道であり、最も神に近く最も早く神に辿り着く道だといわれます。彼女のまっすぐな思いは私の思いのゆがみも正してくれたようで、まるで京都に行ってサンガに参加した時のようにすがすがしく、新たに神に向かおうとする力をいただいたように感じました。

彼女の滞在中は家でリラックスしながら話したり、ドライブに行ったり…。初日は震災で何にもなくなってしまった海岸に行きました。

海辺なにもない

ここら辺は民家がありましたが、全部流されてしまいました…

ここら辺は民家がありましたが、全部流されてしまいました…

 翌日は外で昼食を食べた後、私のおススメ、いわき発「木村のむヨーグルト」を買いにスーパーイオンへ。これ、すごく美味しいんですよ~。

ヨーグルト

いよっ!いい飲みっぷり!

いよっ!いい飲みっぷり!

やっぱり、楽しい時間はあっという間に過ぎるんです。二日目の夕方彼女をバス停まで見送りました。また元の生活に戻った私は、残された寂しさよりも、神に見守られている温かさと安心を感じていました。そんな良いものを彼女は残していってくれたんですね。これからますます厳しくなっていくだろう現実にきちんと向かい合っていこうと決意を新たに固めるのでした。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」

内山さんが来てくれた日からずっと、この言葉が私の心に残っています。

 ユクティー


マーラー

こんにちは! ミラバイです。昨日からぐんと寒くなりましたね。今日の京都は朝から雪が降り積もっています〜。皆さまお変わりありませんか?
さて、今日はマーラー(数珠)について書こうかなと思います。

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これは私のマーラーなんですが、もう10年以上も前になるけれど、私がヨーガを始めて間もない頃、師からいただいたものです。その時のことはとっても印象的で、今でも私の心の中に強く残っているのですが、それは、ある日のサットサンガ(師から教えを請う問答の場)が終わった時のことでした。呼ばれて師の下に行くと、両手で大切に包み込むように持っておられたものを、私の目の前にすっと差し出されたのです。「ええっ! もしかしてマーラー?!」。当時先輩たちがマーラーを首に掛けているのは目にしていて、それが何を意味しているのかは分からなかったのですが、なんとなくかっこよく見えて、私も欲しいなぁ〜、でもきっと自分にはまだまだなんだろうなぁ〜と思っていたところでした。あまりにも驚きすぎたため、せっかく師が渡そうとしてくださっているのに、私はそれを受け取らないまま、ものすごい勢いで部屋の隅っこまで後ずさりして、そのまま座り込んでしまいました(笑)。
もちろんしばらくして、気持ちが落ち着いた後にいただいたのですが、その時に言われたことは「これは、信仰の印です」ということ。

信仰の印……。

その頃、私は正直、信仰心なんて全くもっていませんでしたし、信仰が何かもよく分かりませんでした。でもこのマーラーが、師と私をつなげるもの、ヨーガと私をつなげるもの、そしてこれから先、自分がヨーガの道を歩んでいく上での希望が込められているような気がして、本当に嬉しかったのを覚えています。その日の夜は首に掛けたまま眠り、次の日からも毎朝会社につけていき、肌身離さず持ち歩いていました。

そんなマーラーですが、実は一度紛失しかけた(笑)ことがあります。
ない! ない! どこを探してもない! 何日も何日も探し回り、歩き回り、いろんな人にも尋ねましたが、全く出てきません。あぁ、どうしよう〜(ToT)
あまりにも「私のマーラー」をなくして落ち込み、食事も喉を通らない様子の私を見て、心配した先輩は、「もしそれが自分のマーラーではなく、誰か他の人のものだったら、それほどにまで動揺するかな?」と、私に識別を促そうとアドヴァイスをくださったこともあります。確かにヨーガの中でよくいわれる「私」と「私のもの」という思いが自分の中にあるのか……。それが苦しみを生んでいる? もしそんな思いがなかったり、やっぱり誰か他の人のものだったらそんなに落ち込まないかも……と思い、瞑想や識別をしようとしてみましたが、そう、ご想像の通り、全くできませんでした。これまでキールタンの活動をしてくる中で、私は必ずマーラーを首に掛けてきましたが、そのときはいつも師が私の傍におられるように感じていました。きっと私はいつの間にかこのマーラーに、師とのつながりや師の存在、また自分自身の信仰の印を見いだそうとしていたのだと思います。何より、師がマーラーを手渡してくださった時、手のひらの中であたためてくださっていたその温もりをずっと感じていたのかもしれません。私の信仰はいったいどこにあるのか。主はどこにおられるのか。猿の神様ハヌマーンが自分の胸を切り裂き、主、ラーマはここにおられる!と叫んだように、私の主は私の胸の内におられるのか。
いつの頃からかはもう忘れましたが、私は自分自身の内側にもっと確かなものを見いだしたいと願うようになったと思います。

結局、マーラーは本当に思いがけない(!)ところから出てきて、おかげさまで一件落着しました(それも神のご加護としか思えない〜〜!)。この一件を通じて、私はマーラーの意味や信仰について改めて考える機会になったなぁと思います。
今は毎日身に着けることは少なくなくなりましたが、大切に部屋の祭壇に置いています。そしてサットサンガに参加する時は、できるだけ身に着けていくようにしています。ここが私の信仰の原点だと感じているのです。

ミラバイ


今日のオシゴト

今朝、なんとなく早めに職場へ行ったら、ユキオさんという患者さんの意識が早朝からなくなり、脈拍も落ちてきていると聞きました。それは、もう間もなく彼がこの世を去ろうとしているということです。3日前には元気はなかったけど、お話してたんです。私は今日彼の担当でしたから、すぐに色々と準備を始めました。家族の意向で、延命は行わず看取りと決まっていましたが、それでも、ただ見ていればいいというわけではありません。看護師には、いつもなかなかたくさんの仕事があります。死に逝く人がどんなに美しくても、ただずっと付き添ってうっとりと見ているわけにはいかないんです。家族に連絡したり、主治医を呼んだり、エンゼルケアの準備したり、書類を整えたり…。他に見ないといけない患者さんもたくさんいる。それに、主治医や家族への連絡のタイミングを計るのも結構難しいんですよね。呼吸が止まったからそれ電話だ!と思って主治医に連絡しても、ずーっと心電図の波形がフラットにならなくて、あまりにその時間が長くなると医師との間に気まずい雰囲気が流れていくんですよね…。また、家族がどういうタイミングで連絡してほしいかという家族の意向も、それまでのやり取りの中で読んでおかなくてはいけない。

うちの病院に入院している患者さんの家族は、震災前はほとんどが近くに住んでいました。でも、震災が起こって県外に避難して、家族が誰も近くにいないことも多いんです。家族の到着が間に合わず、先に心臓が止まっていても、家族が来てから立ち合いのもとに医師が死亡確認するんですけど、家族が到着するまでの時間があまりに長いと、死後硬直といって死後2~3時間で筋肉が固まり始めるので、電話で家族にお断りして先に死亡確認し、体を拭いたり着替えたりといったエンゼルケアを行ってから家族を待つことも多くなりました。

ユキオさんのご家族はかなり遠くにおられるので、到着されたのはお昼すぎでした。家族が来られるまで、なんとなく気になって何度も足を運びました。ユキオさんの心電図の波形がフラットになる瞬間、たまたま私は病室に一人で彼を見ていたんですけど、ゼロになると同時にそれまでパッと見開いて一点凝視していた目がスーッと閉じたんですね。同時に開いていた口もわずかの隙間を残したまま閉じていきました。あまりにもその閉じ方が自然で何のよどみもなくて、一瞬神秘的な世界に引き込まれました。

ユキオさんは生前はとても頑固なおじいさんで、少し認知症が入っていましたが、いつも同室者の奥さんの心配をしていました。もちろん基本的には男女同室はないのですが、このご夫婦の場合は奥さんの認知症がかなり進行しているのと、ユキオさんがとても心配性だということで、奥さんと同室にしました。でも、奥さんはユキオさんのことが誰かを、もう分かってなかったんですね。自分の夫は家にいるんだといつも言ってました。「この人は誰?」とユキオさんのことを聞いても「知らない」という返事。「ご主人、体悪いんですよ」と言っても、「あら~、そうなの~」と他人事。でも、ユキオさんは自分がいなくなったら妻はどうなるのかといつも気がかりで、今妻はどこへ行った?と常に心配していたんです。ユキオさんの呼吸が止まりそうになった時、奥さんは隣で朝ごはんを食べ、食べ終わるとさっさと背中丸出しで寝ていました…。ユキオさんが亡くなった後、死後の処置をしてくれた看護師が、奥さんをベッドサイドに連れて来て、ユキオさんの冷たくなった手を握らせました。そのせいなのか、それからしばらく奥さんの元気がなかった…ような気がしたんですけどね。気が付いたら、廊下に置いてある私たちがつけるマスク、片っ端からポケットに入れてました…。女性って、やっぱり強い…。どうしたのかと尋ねると、「だって、退屈だから」とのこと。

あれ、あれを思い出しました。あの絵ね。再び登場です。でも、カーリーの強さも、シヴァの寛大さと愛があればこそ。ユキオさん、お疲れ様でした。いってらっしゃい!

カーリー

 ユクティー


はるか未来を歩くブッダに我々は追いつけるのか?

——心を静めて強烈な探求を行なえば真理は自ずから現れる。
本当ですか? それが事実だと経験から言えますか?
僕は言葉を超えた事実が欲しい。

真理はどのように現れるのか。
それは(悟りという)最後の最後の瞬間にだけ訪れるものなのか。
それまではそういうことがなくても当然なのか。

「真理」という言葉を定義して、「あるべき事実(真実)に関する直観知」だと捉え直すとする。
最近気づいた直観知の経験を話したいと思います。

今年の4月に「永遠のブッダ」というお芝居を上演し、僕はその脚本を書きました。
題材にしたのは『アングリマーラ経』という仏典に描かれているブッダと一人の弟子の話です。
1000人にも及ぶ人を殺害して人々に恐れられた残忍な盗賊アングリマーラのもとに、ある日ブッダが赴き、不思議な力と教えの言葉と慈悲によって彼の心を開かせます。
ブッダの弟子となったアングリマーラは、アヒンサカ(不殺生)という名を与えられて、新しい聖なる命に生まれ変わり、ブッダから「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と教えられます。
アヒンサカは過去の悪業による苦難に耐えながら、ブッダの教えを守り、生来の正直さを生かし、ついに一人の妊婦とその胎児の命を救います。
それが彼がブッダの教えを実践した瞬間だったというところでフィナーレを迎えます。(実際の芝居の映像は以下)

この演劇の内容自体は、元の仏典の内容と大筋において同じですが、各部分では脚色が入っています。
脚本を書いている時は、この経典の真意は何なのか、つまりアングリマーラという人の存在の本質は何なのか、そしてブッダは何をしようとしたのかということに集中して、それを最もよく表すように、経典の構成や言葉を離れて、場面もセリフも生み出していきました。
そこではただ、この芝居が楽しく、面白く、そして何より深い真意を表すようにということにだけ集中していたのです。

しかし、最近になって気づきました。
この芝居は、4月から今までの6カ月間、それから今後数年にわたることの預言でもありました。

今の僕にはこう見えます。

アングリマーラは、自分の村の人1000人を全滅させた都の人間を恨み、被害者の生き残りとして、自らの正義(=法)のために、人々の殺害を繰り返している。
一方、都の人々は、罪もない人々が被害にあっているため、恐ろしい盗賊を無法者と見なし、アングリマーラの縄張りにブッダが近付かないように警告する。
双方とも正しいのは自分であり、正義は自分たちにあると考えています。
そして自分こそ悪の被害者だと思い、暴力に対する暴力の報復がなされている。
決して交わることのない対立です。

これに対してブッダは、アングリマーラのもとへ何も言わず進んでいく。
人々が止めるのも聞かず、平気で進んでいきます。
彼はどうするつもりだったのでしょうか。
僕が思うところでは、ブッダははっきりとすべてを見通していました。
アングリマーラという盗賊がいて、彼のせいで多くの命が奪われている。
人々は彼を無法者と決めつけており、行為においてはその通りだが、しかし、その外面的行為には微妙でかつ複雑な内面的原因があり、それが正されない限り問題は解決しない。
そしてアングリマーラの内面的苦悩は、その被害者である人々の内面の苦しみと異なるものではなく、同じものとして重なるものなのだと見た。
ブッダは、人々の実際的被害と不安、そしてアングリマーラの苦悩を取り除くために、両者を共に生かすため、自ら立ち上がり、歩を進めたのです。

ブッダは火中の栗を拾いに行ったと思う。
ブッダは出家者である。
法律や社会に対して関与せず、超然としていることが本来の姿だ。
たとえどんな問題が世の中で起こっていようとも、それに当事者として関わる必要はない。
それどころか、そうした世間の出来事に執らわれてはならないのである。
たとえ両者を哀れだと思い、あるいは殺害のむごさを見るに忍びなく、助けに入ったとしても、両者に話し合いの場を設けて仲裁に入るというような方法が取れたはずだし、今だってそれが一般的だろう。
それなのに、ブッダはアングリマーラを弟子にしに行ったのである。
犯罪者、それも極悪人を弟子にとれば、人々の世論や法や社会を敵に回すことは明らかで、犯罪者をかくまったとしてブッダの教団全体が社会の圧力によって潰されてもおかしくない。
長老弟子のアーナンダが「他の弟子たちに悪い影響がありませんか」と心配するが、常識的なのは彼であって、ブッダの方が非常識である。
面倒なことにあえて首を突っ込むようなことをしなくてもよかったはずである。
ブッダはどうしてそのようなリスクを冒す行動に出たのか。

ブッダはあえて当事者になりに行きました。
当事者になって、自分個人とは元来関係のない問題を解決に行った。
自分には害の及ばない、超然とした客観的第三者の立場でアドバイスをしたり、なだめたりするのではなく、悪と苦しみの根源を自ら引き受けに行きました。
近代の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、「たった1人の人を救うために私は地獄にでも行く」と言ったが、まさに彼はブッダの心境をそのままハートに写し取ったのだと思う。
そうしてブッダは、アングリマーラとアーナンダ、そしてブッダを慕う都の人々を兄弟弟子にしてしまった。
互いに害を与え合ってきた人々を、本来愛のみで結ばれるべき兄弟にしてしまったのである。
そして彼らの親として、すべての面倒を見る責任を負ったのである。
問題とは本来、そうした自らを犠牲にするような関与がなくしては解決しない。
ブッダの無言の行動はそれを強く指し示しているように思う。

そしてもう一つ、脚本家として僕はブッダにこう語らせていた——「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」。(とはいえ、ブッダ役としてこのセリフを語らされたのも僕なのですが)
これは、そのまま仏典にある言葉ではありません。
元の経典の本旨は、経典中に見られる詩、「悪い行ないも善によって克服されるなら、雲を離れた月のようにその人はこの世界を照らす」という一点に極まっていると思いますが、悪人が悪を償うだけでなく、この世界を照らし出す聖なる存在にもなれるということを、「人の命を生かす」というセリフにしました。

ブッダは当事者となって(同時にまったく巻き込まれることなく)、それぞれの人を生かし、またその人たちにも他の命を生かすように導いた。
脚本を書いて芝居を上演していた時にはまったく気づかなかったが、自分が書いて演じていた中に、自分のあるべき姿とそれに向かう未来が含まれていたことに最近気がついた。
「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と書いたのは僕であり、そのセリフを読んだのも僕だが、その過去の自分が未来に先回りして、これからのあるべき自分を示しているようにも思うのだ。
あるいは、今から2,500年前に生きたブッダが、むしろ今から2,500年先の未来に先回りして、僕に道を示しているようにも思う。

事実、4月以降の僕は、その方向に動き、感じ、決断してきた。
我々ヨーガ行者のあるべき姿、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションのあるべき姿を、ブッダのサンガやヴィヴェーカーナンダが作ったラーマクシュナ・ミッションに求めてきた。
それは単に形を真似るということではなく、彼らの情熱を自分の胸にも灯し、自らのミッション(使命)を自覚するということである。
過去に求めながら、同時に未来に求めることでもあった。
それと同じようなことが、たまたま手に取った経営学の本にも書いてあった。
サンガやミッションも人の集まった組織だから、組織運営のことも少しは学ぼうと思って駅の本屋で偶然手にした本だったが、たいして魅力的なタイトルでもないのに、引き付けられるようにその本を取った。
7月のことである。
そして8月には、東京に引っ越すことを決めていた。
東京でのヨーガの活動を活発にするためである。
今月10月には東京で最初のクラスを行なった。

そうした顕著な出来事だけでなく、あらゆる考えと感じ方と行動が1つの方向に向かっていた。
それはまるで、「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と、まったく無意識だった自分あるいはブッダ自身が、未来のあるべき姿、あるはずの事実を指し示していて、知らないうちに、この半年はまったくその通りに生きてきたようなものだと最近気づいた。
潜在意識の中にそうした願望があったのだといえばそうかもしれないが、しかし直観に基づくであろう感性と行動が、これほどまで頭脳よりも速く動いたのを経験したのは今までにはなかったのである。
自分が書いたり言ったことを、半年後の自分が解釈するなんて、いったい何が起こっているのだ!

とても長くなりましたが、これが預言とも感じられた、「あるべき事実(真実)に関する直観知」の経験でした。
劇中、ブッダがアングリマーラの縄張りに向かっていったとき、走る馬でも捕まえられたほどの脚力を持つアングリマーラが、全速で走ってもブッダに追いつけない場面があります。
彼はブッダに対して「止まれ!」と叫ぶのだが、逆にブッダに「お前こそ止まれ」と言われる。
それはアングリマーラが暴力の思いに捕らわれて心が止まっていないということを教え諭すためだったし、僕もそう理解して脚本を書いた。
しかし今になって、それだけでなく、ブッダは彼以降2,500年の間に生まれ死んでいったあらゆる人類が、最大の努力を行なっても未だに追いつけない、はるか未来に先行していることをひしひしと感じる。
それは、現在も世界各地で起こっている決して交わることのない紛争、その根源にある正義感と悪と憎しみ、そしてもう末期的とすら言われている民主主義のあり方(その真の姿としてのサンガ)……これらはみな未だ解決・解明されることなく、しかしブッダによって2,500年前に解決されていた。
ブッダ、新し過ぎる!!
我々はまだ、2,500年前のブッダに先を行かれているように感じる。
はるか未来を歩くブッダに我々は追いつくことができるのか?
しかし今それに気づいたということは、少なくとも後ろ姿ぐらいは見えているはずなのだ。


インディア・メーラ中止

こんばんは、3つ前の記事に、10月13日(月祝)神戸のメリケンパークで行われるインディア・メーラというイベントに参加すると書きましたが、台風19号の影響があり13日(月祝)はイベントが中止と決定しました。予定を立ててくださったみなさま、残念ですがまたの機会にお会いしましょう!
キールタンは、定期的に京都・大阪で「バクティ・サンガム」をしていますので、そちらでご参加いただけます。

次回の予定
「Bolo Bolo Sambila Bolo」 シヴァ・根源なる神よ!

神と魂が結ばれるとき、恍惚が生まれる 唱えよ オーム・ナマ・シヴァーヤ!

京都
11月30日(日)
ギャラリーju:彩
京都市東山区松原町291-2F  14:00~16:00(13:45開場)

大阪
12月5日(金)
プリヤメーラ
大阪市西区土佐堀2-1-2 西村ビル2F  19:00~21:00(18:45開場)

参加費:2700円

 

 


インディアメーラー2014

インディアンメーラ

10月11日(土)〜13日(月祝)まで、神戸市メリケンパークでインディアメーラーというイベントがあり、そこにキールタンとアーサナのデモンストレーションで参加することになりました。

インディアメーラーの会場は無料で入場していただけます。インド料理やインド雑貨などたくさんのブースが出るようです。お祭りの詳しい内容は:http://indiamela.so-good.jp

「青空広場 de インド体験」のコーナーでは、マハーヨーギー・ヨーガミッション主催による
キールタンの体験をしていただけます。
キールタンとは、インドで古くから民衆の間で歌い継がれてきた信仰の歌、シンプルなフレーズですので、だれでもすぐに歌っていただけますよ。このブログ内でもたくさん紹介しています!ぜひこの機会に参加してくださいね。

10月13日(月祝) 15:00〜16:00
参加費:1,500円

アーサナのデモンストレーションは会場内にあるストリートパフォーマンス場所で行います。(当日パンフレットの会場レイアウトをご覧ください)こちらは無料で見ていただけます。
以前、京の鴨川というお祭りでもしたのですが、シタールの音色とともに集中感のあるアーサナをご覧いただけます(たぶん 🙄 )

10月13日(月祝) 14:00 〜、15:30〜 2回 (各15〜25分)

3連休中!インドを満喫してみてはいかがでしょうか!