死に逝く人は美しい

死に近づくと人の顔貌は変わります。顔色が悪くなるとか、見ていられないくらい痩せてしまうとか、そういうことではありません。意識がなくなるにつれ、焦点の合わない独特の表情になっていきます。生命力のない、弱々しい目のように映るかもしれない。ある医師は、それを「仏様の目」だと表現していました。私は、何とも言えない美しさを感じます。それは、息をするのを忘れるほど美しいのです。あまりに美しすぎて、ため息も涙も出ません。ただ、ちっぽけな自分が偉大なものの前に立ちつくし、その美しさを茫然と眺めるしかないのです。自分が手を入れられる領域ではないこと、ただ偉大な者の手に委ねるしかないことを思い知らされるのです。誰もが同じように感じているわけではないと思います。違う表現をする人もいるでしょうが、多くの人が神聖な何かを感じているはずです。

人は死を宣告された後も希望は持ち続けると言われます。希望というのは、明日にでも新薬が発明されて病気が治るかも知れないとか、パリで個展を開こうとか、こんな料理に挑戦しようとか、大小さまざまな希望です。でも、体は徐々に思うようにいかなくなる現実を見せつけられます。そうすると、希望はどんどん剥ぎ取られ、死が現実のものとして見えてきます。ある医師はその状態を「剥ぎ取られるというよりも、自ら手放していっている」と表現していました。そしてもう何かを欲したり感じたり、そんな余裕すらなくなった時、人は呼吸の一息一息がすべてになります。一瞬一瞬を生きるだけになります。心のいらないものが捨てられ人の本質に最も近くなった姿、それが死に逝く人の姿なのです。だから美しいのです。

神は、人が死に逝く時のために神秘的な体のシステムを作られたようです。それは、死に近づくに従って、人は苦痛を感じなくなっていくのではないかというものです。これはある医師が著書の中で書いていた彼自身の考えのようですが、医学的にもある程度説明がつくとされています。呼吸機能が低下すると二酸化炭素が吐き出せなくなり、体内の酸素と二酸化炭素の割合は逆転します。この状態になると、意識が朦朧として痛みが感じなくなるということが証明されています。また、脳の中で強い鎮痛作用と多幸感をもたらす脳内モルヒネと呼ばれる物質が増えるという報告もあるそうです。見た目は苦しそうに見えても、その人の中で本当に起こっていることは、計り知れないのですね。こうして人は死に向かうと共にそのための準備を進めているそうです。

しかし、肉体的な苦痛が和らいだだけでは死の恐怖からは救われません。ある癌を患った患者が死に直面してその苦悩を書いています。「死に至る病の苦しみさえなければ、と人は考える。それさえなければ死もそれほど怖いものではない、とすら思う。しかし、その考え方はまだまだである」。医学では、死に逝く人の痛みは肉体的なものだけでなく、精神的な痛み、社会的な痛み、そして魂の痛みというものがあるとされ、数年前からこの魂の痛みに対するケアが行われるようになってきました。魂の痛みは、スピリチュアルペインとも呼ばれ、生まれた意味、病気になった意味、死にゆく意味を自らに問うものです。ただ、これは外からのアプローチでは答えを見出しにくいと言われています。 医療では、長年死は敗北だとみなし、救命に力を注いできましたから、この分野は不得意なのです。

それを担うのは宗教の役割だと言われます。かつて、生老病死に寄り添うのは宗教者の役割でした。それが多くの人が病院で亡くなるようになると、医療者が担うようになってきた。しかし、現場は忙しく、また医療者自身が答えを見出すよう導く術を知りません。

宗教も医学も行きつくところは同じ問いであると言われます。それは「人の本質は何なのか」ということです。自分は一体何者なのか、この問いに自らの内に答えを見出すことができた時、生きる意味、死ぬ意味、すべての謎が解き明かされ、私たちは自分自身だけではなく、他者をも死の恐怖から救い出すことができる。そしてその時、本当の意味で生きることも死ぬこともすべてが美しいのだということができるのだと思います。

コスモス

 

                              ユクティー


はるか未来を歩くブッダに我々は追いつけるのか?

——心を静めて強烈な探求を行なえば真理は自ずから現れる。
本当ですか? それが事実だと経験から言えますか?
僕は言葉を超えた事実が欲しい。

真理はどのように現れるのか。
それは(悟りという)最後の最後の瞬間にだけ訪れるものなのか。
それまではそういうことがなくても当然なのか。

「真理」という言葉を定義して、「あるべき事実(真実)に関する直観知」だと捉え直すとする。
最近気づいた直観知の経験を話したいと思います。

今年の4月に「永遠のブッダ」というお芝居を上演し、僕はその脚本を書きました。
題材にしたのは『アングリマーラ経』という仏典に描かれているブッダと一人の弟子の話です。
1000人にも及ぶ人を殺害して人々に恐れられた残忍な盗賊アングリマーラのもとに、ある日ブッダが赴き、不思議な力と教えの言葉と慈悲によって彼の心を開かせます。
ブッダの弟子となったアングリマーラは、アヒンサカ(不殺生)という名を与えられて、新しい聖なる命に生まれ変わり、ブッダから「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と教えられます。
アヒンサカは過去の悪業による苦難に耐えながら、ブッダの教えを守り、生来の正直さを生かし、ついに一人の妊婦とその胎児の命を救います。
それが彼がブッダの教えを実践した瞬間だったというところでフィナーレを迎えます。(実際の芝居の映像は以下)

この演劇の内容自体は、元の仏典の内容と大筋において同じですが、各部分では脚色が入っています。
脚本を書いている時は、この経典の真意は何なのか、つまりアングリマーラという人の存在の本質は何なのか、そしてブッダは何をしようとしたのかということに集中して、それを最もよく表すように、経典の構成や言葉を離れて、場面もセリフも生み出していきました。
そこではただ、この芝居が楽しく、面白く、そして何より深い真意を表すようにということにだけ集中していたのです。

しかし、最近になって気づきました。
この芝居は、4月から今までの6カ月間、それから今後数年にわたることの預言でもありました。

今の僕にはこう見えます。

アングリマーラは、自分の村の人1000人を全滅させた都の人間を恨み、被害者の生き残りとして、自らの正義(=法)のために、人々の殺害を繰り返している。
一方、都の人々は、罪もない人々が被害にあっているため、恐ろしい盗賊を無法者と見なし、アングリマーラの縄張りにブッダが近付かないように警告する。
双方とも正しいのは自分であり、正義は自分たちにあると考えています。
そして自分こそ悪の被害者だと思い、暴力に対する暴力の報復がなされている。
決して交わることのない対立です。

これに対してブッダは、アングリマーラのもとへ何も言わず進んでいく。
人々が止めるのも聞かず、平気で進んでいきます。
彼はどうするつもりだったのでしょうか。
僕が思うところでは、ブッダははっきりとすべてを見通していました。
アングリマーラという盗賊がいて、彼のせいで多くの命が奪われている。
人々は彼を無法者と決めつけており、行為においてはその通りだが、しかし、その外面的行為には微妙でかつ複雑な内面的原因があり、それが正されない限り問題は解決しない。
そしてアングリマーラの内面的苦悩は、その被害者である人々の内面の苦しみと異なるものではなく、同じものとして重なるものなのだと見た。
ブッダは、人々の実際的被害と不安、そしてアングリマーラの苦悩を取り除くために、両者を共に生かすため、自ら立ち上がり、歩を進めたのです。

ブッダは火中の栗を拾いに行ったと思う。
ブッダは出家者である。
法律や社会に対して関与せず、超然としていることが本来の姿だ。
たとえどんな問題が世の中で起こっていようとも、それに当事者として関わる必要はない。
それどころか、そうした世間の出来事に執らわれてはならないのである。
たとえ両者を哀れだと思い、あるいは殺害のむごさを見るに忍びなく、助けに入ったとしても、両者に話し合いの場を設けて仲裁に入るというような方法が取れたはずだし、今だってそれが一般的だろう。
それなのに、ブッダはアングリマーラを弟子にしに行ったのである。
犯罪者、それも極悪人を弟子にとれば、人々の世論や法や社会を敵に回すことは明らかで、犯罪者をかくまったとしてブッダの教団全体が社会の圧力によって潰されてもおかしくない。
長老弟子のアーナンダが「他の弟子たちに悪い影響がありませんか」と心配するが、常識的なのは彼であって、ブッダの方が非常識である。
面倒なことにあえて首を突っ込むようなことをしなくてもよかったはずである。
ブッダはどうしてそのようなリスクを冒す行動に出たのか。

ブッダはあえて当事者になりに行きました。
当事者になって、自分個人とは元来関係のない問題を解決に行った。
自分には害の及ばない、超然とした客観的第三者の立場でアドバイスをしたり、なだめたりするのではなく、悪と苦しみの根源を自ら引き受けに行きました。
近代の聖者スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、「たった1人の人を救うために私は地獄にでも行く」と言ったが、まさに彼はブッダの心境をそのままハートに写し取ったのだと思う。
そうしてブッダは、アングリマーラとアーナンダ、そしてブッダを慕う都の人々を兄弟弟子にしてしまった。
互いに害を与え合ってきた人々を、本来愛のみで結ばれるべき兄弟にしてしまったのである。
そして彼らの親として、すべての面倒を見る責任を負ったのである。
問題とは本来、そうした自らを犠牲にするような関与がなくしては解決しない。
ブッダの無言の行動はそれを強く指し示しているように思う。

そしてもう一つ、脚本家として僕はブッダにこう語らせていた——「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」。(とはいえ、ブッダ役としてこのセリフを語らされたのも僕なのですが)
これは、そのまま仏典にある言葉ではありません。
元の経典の本旨は、経典中に見られる詩、「悪い行ないも善によって克服されるなら、雲を離れた月のようにその人はこの世界を照らす」という一点に極まっていると思いますが、悪人が悪を償うだけでなく、この世界を照らし出す聖なる存在にもなれるということを、「人の命を生かす」というセリフにしました。

ブッダは当事者となって(同時にまったく巻き込まれることなく)、それぞれの人を生かし、またその人たちにも他の命を生かすように導いた。
脚本を書いて芝居を上演していた時にはまったく気づかなかったが、自分が書いて演じていた中に、自分のあるべき姿とそれに向かう未来が含まれていたことに最近気がついた。
「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と書いたのは僕であり、そのセリフを読んだのも僕だが、その過去の自分が未来に先回りして、これからのあるべき自分を示しているようにも思うのだ。
あるいは、今から2,500年前に生きたブッダが、むしろ今から2,500年先の未来に先回りして、僕に道を示しているようにも思う。

事実、4月以降の僕は、その方向に動き、感じ、決断してきた。
我々ヨーガ行者のあるべき姿、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションのあるべき姿を、ブッダのサンガやヴィヴェーカーナンダが作ったラーマクシュナ・ミッションに求めてきた。
それは単に形を真似るということではなく、彼らの情熱を自分の胸にも灯し、自らのミッション(使命)を自覚するということである。
過去に求めながら、同時に未来に求めることでもあった。
それと同じようなことが、たまたま手に取った経営学の本にも書いてあった。
サンガやミッションも人の集まった組織だから、組織運営のことも少しは学ぼうと思って駅の本屋で偶然手にした本だったが、たいして魅力的なタイトルでもないのに、引き付けられるようにその本を取った。
7月のことである。
そして8月には、東京に引っ越すことを決めていた。
東京でのヨーガの活動を活発にするためである。
今月10月には東京で最初のクラスを行なった。

そうした顕著な出来事だけでなく、あらゆる考えと感じ方と行動が1つの方向に向かっていた。
それはまるで、「これからは自分の命を生かし、人の命を生かすのだ」と、まったく無意識だった自分あるいはブッダ自身が、未来のあるべき姿、あるはずの事実を指し示していて、知らないうちに、この半年はまったくその通りに生きてきたようなものだと最近気づいた。
潜在意識の中にそうした願望があったのだといえばそうかもしれないが、しかし直観に基づくであろう感性と行動が、これほどまで頭脳よりも速く動いたのを経験したのは今までにはなかったのである。
自分が書いたり言ったことを、半年後の自分が解釈するなんて、いったい何が起こっているのだ!

とても長くなりましたが、これが預言とも感じられた、「あるべき事実(真実)に関する直観知」の経験でした。
劇中、ブッダがアングリマーラの縄張りに向かっていったとき、走る馬でも捕まえられたほどの脚力を持つアングリマーラが、全速で走ってもブッダに追いつけない場面があります。
彼はブッダに対して「止まれ!」と叫ぶのだが、逆にブッダに「お前こそ止まれ」と言われる。
それはアングリマーラが暴力の思いに捕らわれて心が止まっていないということを教え諭すためだったし、僕もそう理解して脚本を書いた。
しかし今になって、それだけでなく、ブッダは彼以降2,500年の間に生まれ死んでいったあらゆる人類が、最大の努力を行なっても未だに追いつけない、はるか未来に先行していることをひしひしと感じる。
それは、現在も世界各地で起こっている決して交わることのない紛争、その根源にある正義感と悪と憎しみ、そしてもう末期的とすら言われている民主主義のあり方(その真の姿としてのサンガ)……これらはみな未だ解決・解明されることなく、しかしブッダによって2,500年前に解決されていた。
ブッダ、新し過ぎる!!
我々はまだ、2,500年前のブッダに先を行かれているように感じる。
はるか未来を歩くブッダに我々は追いつくことができるのか?
しかし今それに気づいたということは、少なくとも後ろ姿ぐらいは見えているはずなのだ。


インディア・メーラ中止

こんばんは、3つ前の記事に、10月13日(月祝)神戸のメリケンパークで行われるインディア・メーラというイベントに参加すると書きましたが、台風19号の影響があり13日(月祝)はイベントが中止と決定しました。予定を立ててくださったみなさま、残念ですがまたの機会にお会いしましょう!
キールタンは、定期的に京都・大阪で「バクティ・サンガム」をしていますので、そちらでご参加いただけます。

次回の予定
「Bolo Bolo Sambila Bolo」 シヴァ・根源なる神よ!

神と魂が結ばれるとき、恍惚が生まれる 唱えよ オーム・ナマ・シヴァーヤ!

京都
11月30日(日)
ギャラリーju:彩
京都市東山区松原町291-2F  14:00~16:00(13:45開場)

大阪
12月5日(金)
プリヤメーラ
大阪市西区土佐堀2-1-2 西村ビル2F  19:00~21:00(18:45開場)

参加費:2700円

 

 


アーサナ野外授業!

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こんにちは。ミラバイです。昨日の皆既月食、皆さまご覧になりましたか?
私、昨日は大阪に行ったのですが、ちょうど夕方、電車に乗りながら日が暮れていく様子を見ていました。昨日の夕暮れ空も本当に美しく、頭上から西にかけて静かな青い空が覆い、その先には沈みゆく太陽の光を受けた淡黄色の空が続いています。まるで片田舎の風景のような、映画の1シーンを見ているかのようで、車内の騒音を忘れ、思わずその美しさに見とれていました。ふと気付くと、私が見ていた車窓に、何か丸く光るものが映し出されています。
あ! あれは! ……そう! 今日は皆既月食だった! びっくりして反対側の窓を振り返ってみると、金色に輝くとっっても大きな満月が、空低く浮かんでいます。まぁ、なんて美しい! この日は天気もよく、空が澄んでいたこともあって、とってもクリアに見えました。電車に乗っている人は携帯の画面を見ていたり、眠っていたり、新聞を読んでいたり……。みんな、忙しいのかな。疲れているのかな。あんまり空を見上げることもないのかな。あぁ〜、でももったいない。こんなにきれいなのに。思わずみんなに声をかけたくなってしまいました……。

さて、昨日は久しぶりに大阪中央公会堂のクラスに参加しました。この日のクラスは女性ばかり。もちろんクラスの窓からはその月の様子も眺められます。でも、なんだか室内でするのもなぁ〜〜と思っていると、どこからともなくみんなから「外でする?」という意見が出始め、「よし! 今日は野外授業だ!」ということで、部屋を飛び出して、屋外でアーサナレッスンをすることになりました!!

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木のポーズをすれば、彼方にはちょうど赤銅色の月、ブジャンガ・アーサナ(コブラの形)をすれば、目の前にはライトアップされた中央公会堂、シャヴァ・アーサナ(休憩の形)をすれば、空には星も見えます。なんて贅沢なクラス! 最後には月に向かって瞑想しました。

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瞑想の時は、みんなピタッと止まり、集中していたようでした。いつの間にか人気も少なくなり、周りも静まっていったようです。約2時間のクラスはあっという間に過ぎていきました。時間とともに月食も進んでいき、クラスの後半には完全に隠れていた月が見え始め、まるで三日月のように見えました。

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そしてやはりクラスの締めは、なぜか(?)突然キールタン!
初めてキールタンに触れられる方もいらっしゃいましたが、みんなで三日月を見ながらシヴァ神を讃える歌を歌います。

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クラスが終わった後は、皆さま「あぁ〜、とっても楽しかった!」と本当に喜んでおられました。満月から滴る甘露を受け、アーサナで気を満たし、また気候もよく、充実した時間だったようです。満月から新月、そしてまた満月と、一日で一カ月分を凝縮して見れたね〜とみんなで話しながら帰りました。私もとても堪能させていただきました。どうもありがとうございました。たまには屋外授業もいいね!

ミラバイ

 


ヨーガの実践「心と四つの意識」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

『ヨーガの福音』にこうあります。

ヨーガ行者たちは四つの意識があることを発見しています。
1、起きている時の意識
2,夢見の意識
3,熟眠の意識
4,そして、その三つの意識をすべて知っている第四の意識
その証拠に今あなたの心はその意識によって観られている。通常は第四の意識が心に同化してしまって分からなくなっている。

第四の意識とは、純粋で、永遠の意識だといわれています。ではこの第四の意識とはどんなものなのでしょうか。
私は子供の頃、自分の事しか分からないということが不思議でしかたなかったのです。
なぜ私は、大好きなあの子の事を知らないのだろう。なぜ私はお父さんやお母さんのことが分からないのだろう。
こんな事、当たり前すぎて大人に聞く事ができませんでした。でもヨーガを学んで、その謎が解けたんです。私の心は第四の意識によって観られているのです。

例えばあなたはあの時、嬉しくて、嬉しくて、この世で最高の幸せ者だと飛び上がらんばかりの喜びに包まれました。私はその事を知りません。でもあなたはその事を全部知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、悲しくて、悲しくて、御飯も食べられないくらい落ち込み、最低な気持ちを味わいました。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心を知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、とても怖い目に遭いました。どうしていいか分からないくらい混乱しました。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心をよく知っています。それが第四の観ている意識です。
例えばあなたはあの時、この世で最も尊敬する素晴らしい人と出会いました。あなたは昨日とは全く別の人生を歩む事になったのです。私はその事を知りません。でもあなたはその時の心を知っています。それが第四の観ている意識です。

私はこの第四の意識にふれた時、「あー、私は一人ではなかった。この意識はずっと子供の頃から、いやもっと以前から共にあり、見守っていてくれていたのだ」と感謝の念がこみ上げました。しかしこの意識は心と同化してしまっているので、なかなかその意識に留まり続けることができません。師は本当に徹底的に目覚めるためにも、一連のヨーガの修行をやり続けることが必要だとおっしゃっています。

ヨーガの日常の行為の中で、慈悲喜捨の態度を培うことが大切であることは皆さんもご存じでしょう。慈悲喜捨とは、他の幸福を喜び、不幸を憐れみ、他の有徳を歓び、不徳を捨てる、簡単なようでなかなか難しい事かもしれません。ではなぜこのような行為が必要なのでしょうか。

『ヨーガの福音』はさらにこう続きます。

私はこの体でもなければ心でもない、それを知っている、観ている純粋な意識。この世界での経験はいわばそれを教える材料です。真実を悟ることが目的です。私たちは皆、一人ずつ神聖な存在なのです。

私たちは純粋な意識そのものだと教えられます。純粋であるということは、単純に不純ではないということですから、心を常により良く、清らかにして、静めておくことによって、その純粋な意識により目覚めやすくなれるのです。そしてそれを常に行為し続けなさいとヨーガは教えてくれます。

私たちはなぜ生まれてきたのか、そしてこの命とは何なのか。ヨーガは一つ一つの謎を解き明かしてくれる鍵です。私たちはもうこの鍵を手にしました。さぁ、この鍵でもう一つの扉を開けましょう。

ダルミニー


インディアメーラー2014

インディアンメーラ

10月11日(土)〜13日(月祝)まで、神戸市メリケンパークでインディアメーラーというイベントがあり、そこにキールタンとアーサナのデモンストレーションで参加することになりました。

インディアメーラーの会場は無料で入場していただけます。インド料理やインド雑貨などたくさんのブースが出るようです。お祭りの詳しい内容は:http://indiamela.so-good.jp

「青空広場 de インド体験」のコーナーでは、マハーヨーギー・ヨーガミッション主催による
キールタンの体験をしていただけます。
キールタンとは、インドで古くから民衆の間で歌い継がれてきた信仰の歌、シンプルなフレーズですので、だれでもすぐに歌っていただけますよ。このブログ内でもたくさん紹介しています!ぜひこの機会に参加してくださいね。

10月13日(月祝) 15:00〜16:00
参加費:1,500円

アーサナのデモンストレーションは会場内にあるストリートパフォーマンス場所で行います。(当日パンフレットの会場レイアウトをご覧ください)こちらは無料で見ていただけます。
以前、京の鴨川というお祭りでもしたのですが、シタールの音色とともに集中感のあるアーサナをご覧いただけます(たぶん 🙄 )

10月13日(月祝) 14:00 〜、15:30〜 2回 (各15〜25分)

3連休中!インドを満喫してみてはいかがでしょうか!

 

 

 


誰もが実践できるヨーガ・瞑想専科 合同合宿!

9月20日、21日と誰ヨガ&瞑想専科合同で合宿を開催しました〜
テーマは瞑想。講師は瞑想専科を担当しているサナータナです。

まずは初日、20日の講座は・・・・・・40名以上の参加者が集まりましたよ。合宿1

瞑想って「何も考えないことですか?」「無になることですよね」・・・とよく聞かれますが・・・というお話から始まりましたね。

サナータナはホワイトボードに

瞑想

という文字を書いてこう説明してくれました。

瞑想の文字には「想う(思う)」という文字が入っていますね。
瞑は元々は「冥」という字が使われていたのだけれど、これは「真っ暗」という意味。
・・・「他のことは考えないで(他のことには目をつむって)一つのことだけを想うこと」・・・つまり、思わないことではなく、一点に集中することとなります。
なるほど〜 😀

そして、瞑想の3つの段階を学び、自分がいったい何をのぞんでいるのかを見つめる瞑想をしてみました。
「自分の望み、希望、願望、欲望でもいいですよ。
ただこれを否定せずに、これさえあればもう完全に満足だ!と思える最高地点にまで高めていくようにしてみてください」
欲望を持たない、執着をしないという教えを何度も聞いているから、ついつい「〜したい」を否定してしまいがちですが、これらを否定せずに、永遠で絶対の最高の欲望にしていく。突き詰めていくことで、本当に自分がどう生きたいのか、人生の理想を見つけていくことができるそうです。
そしてそこには、誰もが求めている純粋なものが入っているというのです。

瞑想は対象が大事だといわれています。またそこに向かうには集中力が必要ですが、なかなか最初から集中して瞑想することは難しいもの。そこでサナータナは私たちが楽しんで集中に向かうことができるようにいろいろと考えてくれたのですね。
まずはこんなふうにして瞑想の練習をしましたよ。

さてさて本当に瞑想するのはここからが本番。
皆に寄り添って進めてくれた講座ですが、この後、サナータナはブッダの教えをもとに、そして時にはヨーガ・スートラの教えから、真我の瞑想と識別の瞑想を私たちに分かりやすいように解説してくれました。そしてそれを受けて実際に瞑想を体験、と繰り返し、講座は、2日間で計4時間半ほど。分かりやすく、しかも思わず笑ってしまう場面も多々あったりなど、楽しみながら学んだ、あっという間に過ぎた2日間でした。

本当の内容はブログでは伝えきれません。詳しく知りたい方はぜひサナータナの瞑想専科にお越しください!(大阪10月6日より中央公会堂、京都10月16日よりウィングス京都で開講!)

講座は終わったけれど合宿の醍醐味はまだまだ続きます。
合宿所はマハーヨーギー・アーシュラマの傍に住むヨーガの仲間の家5つ。それぞれにヨーガの名前がついていて、何人かでシェアして住んでいます。これまでも遠方からヨーガを学びに来られている方々の宿泊を受け入れてきました。その五つの菴に分かれての宿泊になります。

各庵に分かれた参加者たちは、ヨーガの仲間の先輩たちとともに、さまらさ料理を作っていただき、またその後は各庵でヨーガの話に花が咲きます。
また今回の合宿は瞑想がテーマだったので、それぞれが30分〜1時間程度の瞑想をしっかり行ない、ぐっすりと眠りました。

ヴィハーラで

庵の一つであるヨーガ・ヴィハーラにて、朝食後の写真です。前の晩にはヨーガの話をいっぱいした後に、自然とキールタンを歌うことになったそうです。皆さんいい顔をされていますね〜

ということで、合宿が終わった後は、勉強になった、とても楽しかった、充実していた、また合宿を計画してほしい、と嬉しい声もいっぱいいただきました。
皆さまありがとうございました〜

 

今回の合宿でとても印象的だったのは、私の家でもあるセーヴァ・クティーラに宿泊した女性の言葉です。
彼女は月1回あった誰ヨガ講座を2年間、ずっと続けて学びにきてくれていたのですが、初めて参加した時、そこに来ている人たちの多くが顔見知りなのだなと感じたというのです。(実際、マハーヨーギー・ヨーガ・ミッションでヨーガを学びに来ている仲間も多く参加していた)
でもそこに参加している人が、1人で参加している彼女に気付いて声をかけてきてくれて、それがとても嬉しかったそうです。そうして少しずつ他の人たちとも仲良くなって、月に一回の講座であっても、たとえ話すことがなくても、ああ来てはるなぁ、嬉しいなあと会えるのを楽しみにしていたと伝えてくださいました。
また、今回の合宿でも各庵に分かれて7〜8人ほどで宿泊しましたが、自分のことや抱えている問題なども、皆、隠さずに話されていたことや、だからこそ自分も素直に話し、聞いてもらえることができること。大人になってこういう人たちと巡り会えたのは、自分にとってもとても貴重なことなのだと話してくださいました。

ヨギさんは、教えを学ぶこととともに、サットサンガやヨーガの仲間との時間を大切にするようにとよくおっしゃいますが、こういう集まりに参加して落ち着いた、心地よく感じているというお声もよく聞きます。自分自身もクラスに参加したり、ヨーガの仲間と会うことで、ぶれない自分でいられたり、もっとがんばろうと思えたりします。
求めるだけではなく、捧げようと思う気持ちがある人たち、そんな仲間の中にいられることを改めて貴重であると感じ、本当にありがたいことだなあと思いました。

またこういう機会をぜひ作っていきたいと思います。その時はまた参加してくださいね!
久しぶりの登場、シャチーでした。


誰もが実践できるヨーガ特別編 in 松山 映像公開!

すっかり涼しくなりましたね。
こんにちは、マーダヴィーです

これから京都では、誰ヨガ・瞑想専科合同ミニ合宿が始まりますね

さてさて、今年の8月に松山で「誰もが実践できるヨーガ特別編」が2日間に渡って開催されました。その時の映像を公開しました

サーナンダさんとミラバイを中心として、アーナンディー、アミティー、松山スタッフと共に行なわれた今回の誰ヨガ特別編。撮影された映像の中から、“バクティ・ヨーガ” に焦点を当てて編集をしました。1日目の講座と、2日目のキールタン・ワークショップから構成されていて、“バクティ” 一色!の内容となっています。サーナンダさんがバクティを語ります!(全国のサーナンダファンの皆さまは必見でございます)

バクティ・ヨーガは、ヨーガの道の一つで、神を愛するヨーガです。

ちなみに私が初めてバクティ(神への愛)と出会ったのは、2004年インドでのこと。当時、私は中国〜インドを旅していて、ネパールのとある村で中古の自転車を買い、自転車で旅していました。

ちょうどその頃インドではドゥルガー・プージャの真っ最中!ドゥルガーは見た目はとっても美しいのですが、実は怖〜い戦いの女神さまなのです。ドゥルガーのお祭りのクレイジーな大熱狂と共に、自転車をこぎこぎ (…マーダヴィーは女神ドゥルガーの別名でもあるそうです…)

チベット〜インドへの道中、私が目にしてきたものは、人々の神に対する純粋な信仰でした。それは大阪で生まれ育った私の宗教観とは全く違っていました。そこには信仰の中に日々の生活がありました。素朴に純粋に神を敬い、愛し、感謝を捧げている人々と出会い共に時を過ごす中で、神の存在と神への信仰そのものが彼らの生命の源なんだとわかってきました。

まず初めに神があり、神への信仰が生きる礎となり、そしてその上に毎日の素朴な生活がある。その様子はとてもシンプルなのに心は満たされていて、本来、人があるべき姿のように感じました。

自転車旅の目的地はシヴァの街!ヴァラナシです。ヴァラナシはインドの中でも最大の聖地!!そこにはシヴァを祀ったヴィシュワナート寺院があります。「ハラ・ハラ・マハーデーヴァ」というキールタンにもその名前は出てきますね。(ご存知ない方は、YouTubeの「Sakti vol.6 – Hara Hara Mahadeva」を見てくださいね♪ 私が撮影したヴァラナシの写真も何枚か入っています♪♪ )

基本的にヒンドゥーの寺院には異教徒は入ることができません。が、なぜだか私はどうしてもどうしても黄金寺院と呼ばれるこのヴィシュワナート寺院に行きたかったのです。警備のインド人数人に止められながらも「私はシヴァを信仰してるのだー!!!」と強引に押し切り、ついにその中へと入ることができたのです。そこで体験したのは一言で言うと『絶対的な神の臨在と、神に狂う』ということ。この瞬間から私は神に飲み込まれてしまったのです。そして、今でもその中に私は生きています。

それは、ひとえにヨーガのお陰です。ヨーガと出会ったから、いつも神を親しく想い、彼の真実に魅了され、その虜となってしまったからです。もしヨーガを学んでいなかったら、とっくの昔にあの経験も忘れ去ってしまっていたでしょう。私たちは色んなことに心が奪われ、本当に大切なことをいとも簡単に忘れてしまうのです。

バクティ、神への愛・・・ その火種は誰もの中にあると言われています。かの地とは歴史や文化の違う場所にいても、この現代の日本においても、神の愛を知り、神は愛であることを知り、愛そのものである神を愛することは可能です。神の存在と神を愛することを忘れてしまうことは、人間の最大の苦しみです。神を想う私の中に神がいて、その神に圧倒される!あの時飲み込まれてしまった神の臨在が今この胸の中に在る。どうして私を残しておく必要があるのでしょう。神は絶対の存在!我を忘れて神に狂喜乱舞!

おっと、、、 しまった。。。
今回は松山映像公開のお知らせなのです。
思わず熱くなり過ぎました冷汗

それではどうぞご覧下さいませ〜。

マーダヴィー


自業自得

こんにちは、サティヤーです!
最近、自分の周りの人の悩み事を聞く機会が多くなったような気がします。
そのほとんどが人間関係の悩み 😥 悩んでいる人は本当に苦しそうで、何とかしたい!!と思っていることが伝わります。ほとんどは相手の話をじーーーーっと聞き、相手が落ち着き、思いが整理できるのを待つというぐらいしかできないなぁといつも思います。

話を聞き終わり、一人になって思ったのは、私はヨーガを始めてから7年ほど経ちますが、こういう悩みは本当になくなってきたなぁということ。でもヨーガを始めて何が変わったんだろう、ヨーガの何によって変わったんだろうと思いを巡らしていました。

以前の私は、仕事にも、人間関係にも悩みがありました。それが大きいときもあれば気にならない程度のときもありましたが、何か問題があるときは気晴らしをしたり、気の合う友達に愚痴を聞いてもらったりして何とか苦しい状況をなくそうとしていたと思います。ヨーガを始めたからといって、それがすぐに改善されたわけではなく、しばらくの間は続いていたと思います。何がきっかけでそれが変わったのか、そこには一つの経験がありました。

ヨーガを始めたことにより、サットサンガやクラスで真理の言葉を聞いていましたが、それはまだ「聞いている」という段階で、理解しているとはいえないときだったと思います。ある人との関係性に悩んでいた私は、とにかく相手を責めていました。「こんな関係性になったのはすべて相手が悪い、私はこんなにも努力しているのに、理解できない人が悪い 😡 」と心の中で悪態をついていました。思えば思うほど、その人に会うのが嫌になり、会わないといけない状況になると憂鬱で、そのような気持ちにさせられることでまた相手への怒りが込み上げてくるという、何とも最悪の状態だったと思います。

ただ、相手を責める気持ちが強くなればなるほど、心のどこかで「嫌気」のような後味の悪い感触があることも感じていました。本当はこんなことを思いたくない、こんな気持ちを持っている自分は嫌だという思いもあったのです。

ある日、ぼんやりと座っているときに、自然とこの相手との関係性について考え始めました。結局のところ、何が原因でこんなことになってしまったのか……。始めは相手を責める気持ちが出てきました。出るだけ出し尽くした後に、そのままじーっと考えました。「で、私はどうなのだろう……」私は本当に本当に1ミリも悪くないのか?そうすると時間はかかりましたが、自分の本当の気持ちが浮かび上がって来るのを感じました。相手にも問題はあるけれど、相手だけが悪い訳ではない、この悪い関係性になった原因の一端は私にもある。少し自分に素直になったのでしょうか。

そのまま考えを続けていく中で、いつの間にか考えはこの問題を通り越していきました。すなわち今、目の前にしている問題だけではなく、あらゆる自分にかかわることの原因は「私」にあるということ。それは良いことも、そして悪いこともです。私がこうして生きているということ、すべてはそこから始まったのだと思ったのです。

しばらく経って、自分の中で浮かんできが言葉は「自業自得」

自業自得を認めた瞬間、なぜかホッとしたのを覚えています。なぜホッとしたのか?
想像すると真反対の気持ちがこみ上げてきそうな気がするかもしれませんが、私の中では道が定まった瞬間でした。

自分に起こるあらゆることの原因が自分にあるなら、裏を返せば自分自身でなんとでもしていけるということ。誰かに性格を変えてもらう必要もないし、居づらくなって仕事を変える必要もない。自分にできることは、自分自身を変えていくことだけ。ある意味覚悟というか、自分が生きているということを受け入れた瞬間でした。

その後は、ビックリするような展開がありました。その相手と会ってももう何も感じるところはありませんでした。同じ状況、同じ相手なのに、私の心が完全に変化してしまったのか、昨日のような感情は湧いてこなくなったのです。初めての経験に、何とも不思議な気がしたことを覚えています。

私たちの師は言われます。

「心は苦しみや束縛を感じ、自由になろうともがいているのです、もとより真実という自由が在るにもかかわらず。このように見ると、心は自分で一人芝居をしているかのようです。そう、自分で縛って苦しんで、そして自分で解いて自由になる、という」
(『悟り』心と至福より)

私はまさに一人芝居をしていたのだと思います。

師は言われます。

「心がその過ちに気付いた時が真実に回帰するポイントです」

この経験があった時から、私が自由になるための本当のこと(真理)を教えてくれるヨーガへの信頼は増していきました。

誰もが同じ心の構造を持っています。思いは違えど、その思いが浮かんでくる仕組みは同じ。だとすれば、私が悩みを聞いている人たちもヨーガによって、同じように悩みを解決することができるはず!何かきっかけがあれば……。その人の中に必ず解決の糸口があるはず。根気よくつきあっていこうと思いました。

 

 

 

 


ヨーガの実践 「ヨーガって何?」

皆さん、こんにちは、下鴨ラージャ・ヨーガクラスを担当しているダルミニーです。

ヨーガを志した皆さん、皆さんにとってヨーガとは何ですか?自分の人生のどんなところに位置していますか?「そんな大袈裟な、ただの習い事よ」と思っていますか?

最初は本当にこの身体を良くしたい、痛いところをなくしたいなど、自分の身体のことからヨーガと縁をもつ人も多いのではないかと思います。私もそうでした。私が最初に見たヨーガのポーズ(アーサナと呼びます)はアルダマッチェーンドラ・アーサナでした。この見たこともない捻るポーズを見て、身体によさそう、いつかやってみたいと思ったのがきっかけです。みなさんもきっかけはどうであれ、ヨーガに魅せられ、引きつけられていることでしょう。ヨーガを志すこと自体が身体にせよ心にせよ、このままの自分ではいけない、自分をより良くしたい、自分を大切にしたいという思いの表れなのだと思います。

ではこの自分とはいったい何なんでしょうか?

師は教えてくださいます。

「私たちはこの身体でも心でもない。誰もの中に本質としてある純粋な意識、それが本当の自分である」

そしてヨーガの聖典『バガヴァット・ギーター』にこうあります。

「武器で傷つくこともなく 火で焼かれることもない 風はこれを乾かさず 水はこれを濡らさない これがアートマンである」

アートマンというのは自分自身のうちにある純粋な意識のことです。真実とも言うし、神とも言うし、魂とも言います。「私たちは傷つかないんだよ。心は傷ついたと言って泣いているかもしれないけど、それは本当のことではないんだよ。そのことに早く気が付いてね」と言っているのがヨーガです。私たちは、本当はこの真実を知っているのだと思います。だから私たちはヨーガに魅せられ、引きつけられているのだと思います。

ヨーガとは、自分自身に内在する本当の自己を目覚めさせるものです。

まずヨーガを始めて気が付かされるのは、思い通りにならない、また見て見ぬふりをしていた自分の身体と心のことです。いかに自分のことを知らなかったかが良く分かります。そして次第に今の自分の問題を認識しはじめ、その問題を解決するべく努力をしていくようになります。自分自身を大切にしている皆さんであれば、それは自然に辿っていく道でありましょう。そして自分自身が変わっていくことによって、周りの人たちが変わりはじめ、互いが影響をし合い、共により良くなっていくということにも気が付かされるようになります。そうしてヨーガが、生きていくうえで自分に本当の勇気や愛や自由を与えてくれるものだということが分かってくるのです。そして師は、それらはもともと自分たちの中にあったのだということも教えてくださいます。そうするとヨーガがますますおもしろくなってくるんですよ。

大切な自分自身のことを後回しにしていてはいけません。一緒にやっていきましょう。

 ダルミニー