2018年秋 台湾特別サットサンガ速報

11月1日(木)、シュリー・マハーヨーギー秋のご訪台第一回目のサットサンガが開かれました!

サットサンガには多くの方が参加され、初めてヨーギーに会われる方がそのうちの約半数ほどを占めていました。この日は終始ヨーギーから発散される強力なエネルギーによって、会場のすべてが支配されているかのようでした。多くの参加者はヨーギーの存在そのものに圧倒され、魅了されていました。質問が途切れることなく続き、あっという間にサットサンガは終了しました。サットサンガ終了後は、たくさんの方が目をきらきらさせながらヨーギーとの謁見の感動を話してくださいました。また、多くの喜びの声と決意が寄せられましたので、その一部をご紹介したいと思います。

「再び台湾に来て導いてくださってありがとうございます。今日のサットサンガにとても感動しました。学び、そして精進し続けたいという気持ちがもっと強くなりました。これからも自分が正しく学んでいけますように」

「私も本当に悟りたい、目覚めたいです」

「グルの存在に感謝いたします。グルの存在によって、この移り変わりゆく世界の中に、私の魂は拠り所を見つけることができました」

「ヨギさんはグルの存在は自分のためではなく、弟子が傷つかないためにあると話されました。自分は本当に深く愛されて、守られていると感じました。ヨギさんは私と私の家族に大きな安堵を与えてくださいました。過去世からもってきた恐怖は、毎回ヨギさんにお会いするたびに次第に力を失っています。今、頭で理解できなくても、私の心は確かにそれを感じています。ヨーガの教えを生きていけるようにがんばります!」

その他にも、サットサンガの時間が短すぎるのでもっと延長してほしい!という声がたくさん上がったそうです。

今回のご訪問では、あと二回のサットサンガが予定されています。さらに多くの魂たちが真のヨーガの元に辿り着くことができますように!

mirabai (in 台北)

 

 


秋の日は釣瓶(つるべ)落とし

私の職場は嵐山です。
仕事の合間に渡月橋のベンチで休憩していると、青い空と秋雲、流れる川と山、西に沈みゆく太陽がとても美しく、ダイナミックに展開していました。

この景色を眺めていると、太古のリシ(聖仙)の言葉が内から湧いてきました——

「この宇宙はどこから来たのか? どこへ行くのか? 私は誰か?」

スマホやテレビがなかった昔の人はこういう風景をずっと眺め、その宇宙万物の力や生命の神秘に思いを馳せたことは、とても自然なことだと感じました。

それから30分も経たないうちに、景色は一変、空は茜色に染まっていきました。

職場に戻ってスタッフにこの感動を話すと、次のことを教えてもらいました。

「秋の日が急に暮れることを、井戸の中に釣瓶(つるべ)が落ちていく早さに例えて、『秋の日は釣瓶落とし』って言うんだよ」

 

皆さんは、この宇宙万物のダイナミックな力はどこから来ていると思いますか?

リシはその思索を極め、それは「宇宙の主ブラフマン(梵)」から来ている、

そしてそれが「本当の私(我)」——

「梵我一如」であると悟ったようです。

 

ゴーパーラ


ラーマクリシュナのうたわれたキールタン 

『ラーマクリシュナの福音』の中で、シュリー・ラーマクリシュナは、たくさんのキールタンを歌っておられます。そのキールタンは、私たちが普段うたっている神の御名を繰り返すという単純なものではなく、歌詞があるものです。メロディーは分かりませんが、歌詞の内容はとても美しく、私もうたってみたいなぁ・・・と思うものがたくさんあります。今回は、その中の一つを紹介します。

これはゴーピー(牧女)たちが、クリシュナ神への愛をうたった歌で、『ラーマクリシュナの福音』の中で何度か出てくるものです。

「私のクリシュナはまだ見つからない。おお、友よ
彼のいないわが家のなんと寂しいこと。
ああ、もしクリシュナが、
私の頭の髪でさえあったなら、

私は念入りにそれを編み、バクルの花で飾るのに。

私のクリシュナ髪のお下げを、
入念にととのえるでしょう。

クリシュナは黒く、私の髪も黒い、
黒と黒は一つになる。

ああ、もしクリシュナが、
私の鼻の飾り輪でさえあったなら、

彼はつねに私の鼻に下がり、
私の唇は彼にふれたでしょう。

    だが、そんなことはあり得ない。
ああ、なぜ私は、こんな愚かな夢を見る。

クリシュナが、私の鼻の飾り輪などになるものか。

ああ、もしクリシュナが、
私の腕の腕輪でさえあったなら、

彼はいつも私の手首にくっつき、
私は誇らしげに歩くでしょう。

腕輪をゆすって音をさせ、
これ見よがしに腕を振り、

クリシュナ腕輪を身につけて、
王様の道を歩くでしょう。」

恋をしたことがある人なら、誰でもわかると思いますが、愛する人とは片時も離れていたくなく、一緒にいたいものです。「ああ、彼が(彼女が)ここにこうしていてくれたなら…」という想像(妄想?)は誰でもするものです。そして「そんなことはあり得ない、なぜこんな愚かな夢を見る…」と言いながらも、また想像を始めてしまうところが、この歌の中でとてもリアルで、素朴で、なんとも言えない可愛さがあります。

これは、一見すると単なる人間の恋愛の様子がうたわれているようですが、本当は魂と神との関係を象徴的にうたったものです。魂(牧女)は神(クリシュナ神)に恋い焦がれ、一心に神を求め、常に一つになりたいと望んでいるのです。バクティの感情を表現する時には、日常の中の誰もが経験するような状況を、バクタの心境になぞらえてあるのものがたくさんあります。キールタンは、神への魂の叫びであり、神と魂を結ぶ愛の歌なのですね。


アイドルと神の追っかけ

もう10月も終盤ですね。この1年を振り返るにはちょっと早いですが、私にとって2018年は仕事でもヨーガでも「追っかけ」ということを感じている年であります。

私は介護の仕事をしているのですが、車椅子の利用者さんが今年に入ってから急に女性アイドルグループにはまり、毎日その音楽を聴いたり動画を見るようになって、コンサートにまで行くようになりました。介助の付き添いでコンサートに行くと、そこには「追っかけ」のような熱狂的なファンの人がいっぱいいて、会場内は「超絶カワイイ〜ちゃん!」などの叫び声が聞こえ、その興奮と熱気で独特の雰囲気が醸し出されていました。

で、ヨーガの方はいうと、今年に入って私はバクティ・サンガムによく参加するようになりました。今までバクティ(神への愛)やキールタン(神の讃歌)には抵抗があったのですが、ちょっと行きたくなって参加してみたら、なんとはまってしまいました(笑)。それからというもの、京都にとどまらず大阪、松山、この前の神戸のインディア・メーラーにと、バクティ・サンガムがあるところ、「追っかけ」のようにどこでも行くようになりました。

そして先日も大阪のバクティ・サンガムに参加してきました。会場には大阪や兵庫、京都、また松山から来た熱狂的バクタ(神の信愛者)たちがいて、不思議と歌う前から瞑想的な独特のムードに心が支配されました。今月からテーマ曲は『Govinda Hare Gopala』。自分の名前が連呼されるという嬉しいような恥ずかしいような曲……歌の始めはリードと追っかけの掛け合いですが、後半からはみんなで神の御名を歌っていきます。今回、繰り返し繰り返し神の御名を歌っていくうちに、太鼓、鈴、ハルモニウム、コーラス、そしてリードも追っかけもすべてが一つに溶け合うような一体感があり、それは初めて味わう感覚でした。

10/28(日)京都のコイズミ楽器さんでバクティ・サンガムがあります。
どうですか、神の御名の「追っかけ」、一緒にしませんか?

ゴーパーラ


サットサンガより バクティ・ヨーガの態度

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

神を愛することで神と一つになるバクティ・ヨーガには、5つの態度があると教えられます。

シャーンタ(平安な心の態度)、ダースィヤ(召使いの態度)、サキヤ(友人の態度)、ヴァーッツァリヤ(子を思う親の態度)、マドゥラ(愛人の態度)。

先日行われたサットサンガで、私はマドゥラ(愛人の態度)について師に質問しました。

チャイタニヤ:私は自分の身体が男性だというところで、愛人のように神を想うマドゥーラの態度が理解できないです。そういう態度を示している弟子を見ていると、ためらいや遠慮とかが無くなっている。私はそういう女性的な態度をとることがきないです。

師:まず、自分が男の身体を持っているという肉体のことは忘れないといけないです。神だけが男性であって、男女ということで言えばバクティにおいては、バクタはすべて女性としてみなされる。そのことをまず整理して、ただ神に飛び込むようにするのがいいです。

チャイタニヤ:私には躊躇というか遠慮というか、畏れ多いと感じるのです。でも本当に神と一つになりたいと思って近づいている人には、そういう思いは全く見えません。もう放棄が済んでいる、明け渡しているということですか?

師:ええ、そういうことを意味します。誰もが初めから完全な放棄ができているわけではないかもしれない。それでもバクティを深めるうちに残されている放棄も速やかに行なわれていくはずです。

神の愛人として神だけを激しく求め、一つになろうとするうちに他の一切余計なものが振り落とされる。最愛の神以外に何もいらない。たとえ自らの命であっても……最も強烈な究極の愛の形。マドゥラ・バーヴァ(愛人の態度)はただ愛ゆえに愛するのです。そこには自分という痕跡が跡形もなく消え去っています。

サットサンガ終盤にある弟子が識別について質問しました。「先月のサットサンガでボートを漕ぐ前にロープを外すことを教わりました、でも私は神様を思うことで、別に自分で外そうと思ったわけではなくても勝手に外れていたと思うんです!」とキラキラした笑顔で話していました。

純粋で喜びに溢れた彼女を見ていると、愛に勝る力は無い。神を愛すること以上に為すべき事など本当は無いのだと感じました。

チャイタニヤ


ラーマクリシュナの福音 〜グルの言葉への信仰〜

ダクシネシュワル寺院

ある日の午後、シュリー・ラーマクリシュナは、ダクシネシュワルの寺院境内の自室で、信者たちに信仰の話をしておられます。 

信仰だ!信仰だ!信仰だよ。ある時、あるグル(師)が弟子に言った。「ラーマだけがいっさいのものになっておられるのだ」と。イヌが来てその弟子のパンを食べ始めたら、彼はそのイヌに「おお、ラーマ、ちょっとお待ちなさい、バターをつけてあげましょう」と言ったそうだ。グルの言葉への彼の信仰はそれほどのものだったのだ。つまらぬ人びとは、信仰というものをまったくもたない。しじゅう疑ってばかりいる。
神への愛が唯一の大切なものだ。真の神の愛人は、何ひとつ恐れるものはない。何ひとつ悩むことはない。彼は、母なる神がいっさいをご存じなのを知っている。ネコはネズミを扱うのとはまったく別のやり方で自分の子は扱うだろう。

 グルの言葉への信仰というところを読んで、私はヨーガを始めたばかりの頃を思い出しました。「自分の心を変えたい。このままの自分ではいやだ」と思い、私はいろいろな本を読んでいましたが、その方法を教えてくれるものは一つもありませんでした。そうしてヨーガとヨーガの師に出会い、「ヨーガのアーサナ(ポーズ)によって呼吸を変えれば、心は変わります」という教えをいただき、本当に驚きました。「この心を変えることができるのなら真剣にヨーガをやっていこう」、そう決意し、私は仕事を辞め、師の下に引っ越してきたのでした。
しばらくしてから私は、毎日アーサナができること、ヨーガのクラスとサットサンガ(真実の集い)に必ず参加できるということを条件に、仕事を探し始めました。しかし、その条件に合うところはそうそう見つかりません。そうこうしていたある日、師は「仕事は見つかりましたか」と私に声をかけてくださったのです。「いいえ、なかなか見つかりません。でもヨーガのことだけ考えていたらいいんですよね」「その通りです」と師は大きく頷かれました。私は、もうすぐ仕事が見つかるのだなと思いました。すると本当にすぐに今の職場が見つかったのです。その時私はその職場は神様が与えてくださったものだと思いました。そして、この出来事を通して、グルの言葉への信仰を強く意識しました。
それから毎日アーサナをする中で、今度はクラスを担当したいという思いが湧いてきました。正しく伝えられるようになるためにも、アーサナをきっちりやっていこう、そう思い、ますますアーサナの修練に熱心になっていきました。それから何年かして、クラスをまかされるようになってきました。そんな時、友人からいいスタジオがあるからやってみないかと誘いを受けたのです。そのスタジオは朝の日の光が入る、サットヴァなスタジオでしたので、すっかり気に入りました。今、そこでもクラスを担当させていただいていますが、そこもまた神様が私に働くところを与えてくださったのだと思っているのです。

さて次の私の働くところはどこでしょうか?それもすべて母なる神がご存じなのでしょう。私は、グルの言葉への信仰を軸として、神様への信仰を少しずつ深めていっているのだということに気が付かされたのでした。

                                      ダルミニー


インディア・メーラーに参加してきました!

10月7日(日)、神戸メリケンパークで行なわれたインディア・メーラーのサブステージに参加してきました。

快晴! 10月とは思えないほどの暑さとなりましたが、大空の下、潮風を受けながら歌うキールタンはとっても気持ちがよかったです。

少しですが、動画をご紹介〜↓

 

ご参加くださいました皆様、本当にありがとうございました!

ミラバイ

 


夏休みの思い出〜神と一つになる〜

ある時、師であるヨギさんがもっと神と一つになるようにと私におっしゃられたことがありました。神と一つになる、か・・・・・・と考えていた時、インドの大聖者シュリー・ラーマクシュナが弟子であるヴィヴェーカーナンダに授けた次のような教えが心に留まりました。

「愛のネクター(甘露)がビンの中に入っているとしたら、お前はどのように楽しもうと思うか」とおたずねになり、ナレーンドラは「私はネクターの入っているビンのふちに座って、そこから吸いましょう」と答えた。師は微笑され「なぜ中に入って吸わないのか。ビンの真ん中に入って吸えばよいではないか」とおっしゃった。「いいえ、そんなことをしたら死んでしまいます」シュリー・ラーマクリシュナは「そういうものではないのだよ。人は愛に溺れてもけっして死にはしない。それはアムリタ、不死そのものなのだから」と笑いながらおっしゃった。

ひとたびこの愛の味がわかると、魂にとってこれ以上ほしいものは何にもなくなる。この歓びは無限であり、何ものによっても増やすこともできなければ滅することもできない。

この教えに触れて、私の中で「神の愛に溺れたい!神と一つになりたい!」という思いが強くなっていき、しばらくは甘美なムードに浸っていたのですが・・・・・・。そのムードは小学校4年の娘が、夏休みに入るとともに消えていきました。

夏休みに入るといきなり、「学童に行きたくない!」と娘が泣き出したのです。事情を聴くと、仲の良い友だちが一緒に行ってくれなくなり、学童で一人ずっと過ごしているようでした・・・・・・。それからは家で一日どのように過ごさせるかや、お昼ご飯の準備などで頭の中はいっぱいになり、神よりも娘に集中する時間の方が多くなっていきました。娘と友だちの関係で気をもみ、一緒に遊ばせる段取りを組んだり、娘にこういうふうに考えたらどうかなとくどくど話したり、どうしてこんな簡単なことが理解できないのだろう・・・とイライラして感情的になったり、お世辞にも娘と調和がとれたようなものではありませんでした。

これではいけないと思って考えていると、娘が生まれた時、ヨギさんから「大らかに育ててください」と言われたことをふと思い出しました。私は自分の経験や価値観という小さな枠で彼女を見ている。物差しを当てず、常に自分を空っぽにする努力をして、彼女と向き合おうと思いました。

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そうして幾日が過ぎ、地蔵盆(※関西地域で行われる子どもたちの幸せと健康を願う行事)の日がやってきました。お布施をもって会場に行くと、先に行っていた娘が他の子どもたちと離れ、一人でポツンと寂しそうに遊んでいるのです。娘は私に気付くと(みんなで楽しく遊んでいるよ)と気遣って気丈に振る舞っているように見え、居たたまれない気持ちになりました。

その夜、娘の寝顔を見ながら、私は申し訳ない気持ちになって泣きながら謝っていました。この子の存在を自分は本当に尊んできたのだろうか、この子が友だちと楽しく過ごせるような環境を整える努力が、もっと必要だったのではないだろうか・・・・・・。・・・・・・でも・・・・・・友だちと仲良くなれるようにできるだけ努力をしてきたし、考えても、考えても、もう何をどうすればいいのか分かりませんでした。

シュリー・ラーマクリシュナの弟子であるトゥリヤーナンダは、『すべてのなやみを母(女神)のもとに持っていけ。彼女は一切の誤りを正して下さる、母を知れば、他の問題はなくなる。あなたが、自分を彼女に捧げ切ったとき、一切のものを新しい光の中で見るようになる。そして、この世の生活を問題にする必要のないことを知るのだ』と言われます。

もう神に祈るしかできない!という切羽詰まった思いで、ヨギさんとトゥリヤーナンダのお写真を前におき、瞑想に座りました。瞑想の後寝床についた時、突然聖なる力が私を押し上げ、ヨギさん、トゥリヤーナンダ、私、3つの意識が一つとなって、万物が展開していくビジョンが見えました。

意識が肉体に戻ったとき、すべては私が神から目をそらさないように神がなされていたんだ、と思いました。そして自分がすべきことは神だけを思うこと、という確信がありました。甘美なムードに浸るという漠然としたものではなく、日常としっかり向き合うことで神と一つになれるということが分かりました。

そして娘にとっての人生の目的もやはり、神と一つになること。友だちと楽しく過ごせるに越したことはないですが、友だちと一緒にいて安心することではないのです。親としてしっかりとそのことを踏まえ、関わっていきたいと思いました。

その出来事のあと、不思議と娘の状況はどんどん良くなっていきました。近所の子とまた自然に家を行き来するようになり、同級生が遊びに来たりするようになりました。また、他のお母さんたちと話すと少なからずどの子も同じようなことで悩んでいて、そういう多感な時期であることが分かりました。

こうして娘の夏休みは幕を閉じました。そして私の信仰をより強くしてくれたのでした。

amara


ヨーガを続けてきて今、感じること—烏丸ヨーガ・瞑想クラス インタビュー②

ヨーガ・瞑想クラスに参加されている方へのインタビュー第二弾!(前回の記事はこちら

5年ほど前には、インドの北から南まで旅をしてアーシュラマ(道場)に滞在したこともあるという藤井かおりさんにお話を伺ってみました。クラスに来られて3年が過ぎましたが、彼女を見ていると姿勢が美しく変わり、体の軸がしっかりしてこられたのがよ〜く!わかります。 


——ヨーガと出会いどのような変化を感じていますか?

以前は呼吸が浅く、息苦しくなることもありましたが、今は日常で気持ちのよい呼吸ができているように感じます。
また、物事を自分のいいように解釈したり、都合の悪いことは見ないようにしていた部分があったのですが、ありのままを受け止めて、前向きに捉えられるようになってきました。

——藤井さんにとってクラスはどんな場所ですか?

心が落ち着く場所です。クラスの後、何日かはその余波が続きます。
みんなでアーサナをするとすごく集中できるし、穏やかな気持ちになるので、やっぱり行くとぜんぜん違うなあと感じます。

——ヨーガを続けている理由は何でしょうか?

ヨーガは、私にとって一生学んでいられると感じる大切なものです。その時々で自分に必要な新しい気づきのようなものがあるからです。
例えば、日常のふとした時にヨーガの教えや、ブログに書かれていたことが腑に落ちたり、悩んでいることの解決法が見えてきたり、本当に大事なものはこっちだと、教えてもらっているように感じます。

——ヨーガを通してどのようになりたいですか?

女神を母として信仰し、信じて生きていくという境地に憧れます。神様のこと、その中にある純粋な愛をもっと知りたいです。

以前、人のためにと思ってしたことで、自分のことしか考えていないと言われたことがあり、それに対して相手を責めるような強い感情を持ったことがありました。
その時に、知らず識らずのうちに見返りを求めていた自分に気づき、考えされられました。ヨーガを通して教えを学び、本当の意味で強く温かい、愛のある人でいられたら…と思います。


軸がしっかりしてきたと感じたのは、確かなものを藤井さんが感じていて、自分の中に理想とするあり方をきちんと据えているからなのですね。納得です〜。

今回お二人からお話を伺ってみて、あぁ、こんなふうに感じてくれていたんだ〜!と初めてお聞きする内容に驚いたり、また頼もしくも感じたり、とっても楽しいインタビューとなりました。

呼吸が変わり、心が調い、そこにヨーガの教えがすーーっと入っていく。生きるということとヨーガが結びついてきて、今の実践の先に「こうなりたい自分」というものが持てるようになるんだなあと、やっぱり続けてきた中で培われていったものは大きいと感じました。私自身もとっても貴重な贈り物をいただいたような気持ちになりました。

これからも一緒に学び、励んでいけますように!

マードゥリー

烏丸スタジオにて

クラス後に。サティヤー、二宮さん、藤井さん、マードゥリー(左から)


サットサンガより 「ロープを外せ!」

ヨーガは、真実に目覚めるための数千年の古代から伝わる霊的な道です。ヨーガを学ぶには、ヨーガを成就したグルが不可欠です。言葉を超えたグルの導きは、道を歩もうとする私たちにとってはかけがえのないものとなります。サットサンガ(真理の集い)とは師を囲んでの神聖な集まりのことであり、師から直接教えを授かる最も大切な学びの場として位置づけられています。

ヨーガを深めていくと、肉体の変化や呼吸の変化を感じることはよくあります。しかし私の場合、瞑想における深まりはというと、もどかしいばかりの日々が続いています。

瞑想の最終到達点はサマーディ。悟りです。憧れをもってそこへ行きたい。その境地を味わいたい。真理を実現するためにすべきことも、すべきでないことも一通り学んできたつもりです。しかし依然として悟りへの道は果てしなく遠く、目標に近付いている気配すらありません。

先日行われたサットサンガで、ニューヨークから三ヶ月ぶりにお帰りになったばかりの師にその事を質問しました。

師:今回、ニューヨークでも似たり寄ったりの弟子たちの心情を聞くことがありました。彼らは一所懸命、聖典を学び、そしてサーダナ(霊的修行)も行ない、ヨーガを深めているようなのですけれど、しかしまだ安らぎには達していない。なんとか本当の幸せ、自由というものを望みます。そんな時、真理の教えがやってきて、本当はこうだよと教えてくれる。例えればそれは彼岸というか、あの向こう岸に達すれば、そういった幸せな世界があるよと教えられるようなものです。そして、みんなは熱心にボートを漕ぎ出す。一所懸命漕いで、一日中漕いでーー翌朝目が覚めれば、まだこの岸の一寸たりとも動いていない。なぜなら、ボートを繋いでいるロープを外していなかった。だからいくら漕いだって進むわけがない。やるべきことは、まずロープを外すことです。船を杭に止めているロープですよね。これがこの世における執着、あるいは煩悩とか無知といわれているものを象徴しているわけです。それが繋がっていたらいくら漕いだって動きもしない。だからまず、それを外しなさい。そうすれば、軽やかに向こう岸に辿り着くことができる。

では、どうすればロープを外せるのでしょう?

師:まず識別をして、この世を正しく見ること。そうして識別をするならば、その中で自分の心がどれほどこの世に執着をしているか、あるいは何が残っているかということが見つけられ、もっと識別を深めることによって、その原因である無知や煩悩が見つかる。さらに識別をすれば無知は間違っているということに気付かされ、心から無知が滑り落ちる。これが放棄という状態になる。あるいは無執着という状態になる。ロープが外れる瞬間のことです。

心から無知が滑り落ちる!!!それが放棄……放棄というと、頭を丸めて世俗の楽しみに背を向けて耐えることのように感じていました。

悟りのために行なっているサーダナ(霊的修行)が深まっていかないのは、この世における心の煩悩や無知が絡みついているからーまず正しい教えを学び、この世を正しく見る。識別によって自分の心に絡みついた結び目を一つ一つ解いていくしかありません。

ボートを漕ぎ出せ!しかしその前にロープを外せ!!

チャイタニヤ