きれいになりたい!

ゴールデンウイークにテレビをつけると、どこかの国の、深海の生き物たちが映った。海底の無人カメラには、10メートルもの巨大イカの姿が・・・。俊敏に手足をビュンッと動かし一瞬で獲物を捕らえる。思わず釘付けになって見ていたら、ふとハタチくらいの時に育てていたクラゲのことを思い出した。

クラゲの体は、ほぼ水でできていてデリケートだった。小さなミズクラゲの飼育なら、装置がなくても毎日水をきれいにすれば、ガラスのボールでもOKだった。餌になる微生物みたいなエビの幼生をスポイトでとり、クラゲの傘の部分にそっと与える。その後は排泄物で水が汚れるので、作った人工海水と交換する。別の容器に一時避難させるとき、クラゲの体に触れるとクラゲが傷付くので、触れないよう注意して、フワフワ浮遊するクラゲを水と共にすくいとる。これがわりと至難の業で、神経を使うし時間もかかる。毎日繰り返していると、年頃の遊び呆けていた私は、面倒だなーと思うことも…。しかし面倒くさいと思おうが水をきれいにしないとクラゲが死んでしまうので、その一連の作業は欠かせなかった。

水面の煌めき。・・・私にはクラゲに見える。笑

ところで、ヨーガの全行程は浄化です、と聞いたことがある。
ヨーガに出会う前は、心の中の矛盾で、体感的に漠然とした気持ちの悪さを抱えていた。自分という存在は、そういった思いでできている塊のように感じて、疑いもなく、体=自分、心=自分、だと思っていた。だから、身体(自分)が何だか気持ちが悪い、スッキリさっぱりきれいになりたい、とよく思っていた。でも、どこかでは、人間ってそういうもんなのかな、と有耶無耶(うやむや)にしていた。有耶無耶にしなければ生きていけなかった。
ところがヨーガでは、本当の自分はこの体でもなく心でもない、と教えられた。師は言われた「そういう自分をただ見ている、知っている純粋な意識がある、それが真の自己です」。

それを実感したい思いが年々募る。体が自分ではない、とはっきり言われているのだから、体が自分だと思っている限り私はヨーギーになれない。スワミ・トゥリヤーナンダ(インドの昔の聖者)が言われている、「自分は肉体である、と思うことが肉体の苦痛を感じる原因なのである」。

それで少し前、聖典のある言葉に動揺した。内も外も浄めること、不潔な人は決してヨーギーにはなれない、内面の清らかさの伴わない外面だけの清らかさは価値がない、という内容だった。不潔な人は決してヨーギーにはなれない!? 私はヨーギーになりたい。絶対にその不潔にはなりたくない!きれいになりたい!と思った。「潔」の字は辞書によれば、汚れがなく清らか、余計なものがない、心や行ないがけじめ正しい、など。不潔とか清潔とか安易に言ってるが、本当に清らかなるものって何なのか? 不潔とは、見た目ではなく目には見えないものかもしれない。

ヨーガの全行程は浄化だと聞いてきたから、ヨーガを学ぶ過程自体もその不潔からは遠ざかっていくと思う。学べば学ぶほど、内面の汚れである余計な思いや、良くない習慣などに気付かされる。拙い実践であっても、不純物は師によって、有難くも浄化されていると思う。なぜなら、身体が気持ちが悪い、というかつての感覚も消えている。ちょうどクラゲの水交換みたいに、知らない間に毎日浄化された水に新しく体が入れ替わっているような…。クラゲをすくう時、やむを得ず一緒に入る古い水もあるけれど、毎日の浄化を続ける限りは希釈されていき、いつかは古い水も無くなる。ということは、ヨーガの実践も、途切れさせたら浄化はストップされる。そういえば実践を怠れば、まるで魔法が溶けたように、心身の重~い感覚を味わったこともある。一日でも水換えをサボれば、たちまち水が汚れてクラゲが衰弱するように、心と体も浄化が不可欠。クラゲの飼育とちょっと似ている?!

と分かったふうなことを書いているが、実はこの記事に苦戦していた…、先輩が助け船を出してくださった。師のヨーガの清浄(せいじょう)の教えを改めて教わった。そして、師ご自身の境地に、今更ながら驚愕してしまった。師から、理屈ではないんだよ、と教えられたようだった。散々悩んだからか師の教えを読んだとき、まるで泉に清澄な水が広がっていくようだった。皆さんにもぜひご紹介したい。

少しヨーガを進めていけば、直観的に感じてくることは、この肉体は不浄に満ちているということ。暑い時期は老廃物として汗が出てきたりしますでしょう。それもまた不浄なもの。だから生理的に見れば、極めて自然で当たり前なものであったとしても、その自然のメカニズムそのものが相対的な変化を被っている以上、完璧な清浄という、浄らかなるものとは言えないものなのです。動物たちやあるいは人の死を見ても、三日もすれば腐敗していきます。そしてどんどんどんどんおぞましい姿に変化していく。また心の中を覗いてみれば、もっと醜いものがいっぱいある。様々な欲望に執らわれた執着、これも浄らかなものではない。もう一方で真理とか真実、あるいはアートマン、ブラフマン、あるいは神を思い起こす時、誰もの心の中に浄らかなるもの、完璧なるもの、絶対なものという漠然とした印象があるに違いない。そこには一点の曇りさえもが認められない。そういう直観的な真理とそうでないものへの識別感が基本となって、シャウチャ、清浄というものが(ニヤマの中で)一番目に挙げられています。だから決してこれは身体的な、特にお風呂に入ったら解決するというような問題ではない。その意味ではニヤマの清浄というのは、ニヤマだけでなく、その後のすべてのヨーガの完成に至るまでの意味合いを示唆しているというようにも見えます。

シャウチャは清浄、要するに身も心も清浄にしていくということです。そして、それはもちろん環境も含めた全部を浄化していくということですけれども、他のニヤマとかヤマ、あるいは瞑想やサーダナ(修練)を行なっていかなければ当然心の浄化はできないし、それをも含みます。『ヨーガ・スートラ』に、シャウチャに徹すれば肉体への厭(いと)わしさが生まれる、あるいは他者との接触が煩わしくなるとあります。
それは嫌悪して触らなくなるのではなくて、触っていこうとすると、物質というものがまるで体に撥(は)ねつけるような、そういう生理的な、物質的なものが自然に出てくる。それで結果として何にも触らなくなる。特に他人の体というのがいちばん顕著なのだけれども、それを他人の体はカルマ(業)で汚れているとか浄化されていないからというのは後からのこじつけであって、そうではない。事実そうかもしれないけれど、理屈抜きにそういうことが出来上がってしまう、変化してしまう。

そういえば師は、人に触れることがおできにならなかった期間がある、と聞いたことがある。簡単に言葉にするのも憚られるが、師はヨーガを完成されたその境地におられるからこそ、このような深遠な事柄を、誰も分からないような肉体の本質についてを、科学のようにスッと解き明かしてくださるのだと思う。本当に物凄いことだと思う。

地域の人が、いつもきれいにしている花壇。ハッとするような花が咲いていた

また、肉体の浄化と聞けば、私はインドの沐浴も連想する。トゥリヤーナンダは生涯にわたり、環境や身体がどんな状態であろうとも自分が日課と定めた宗教上の務めを怠らなかったそうだ。毎朝、夜が明ける前に起床され、沐浴、瞑想、聖典の学習を行なわれた。それは晩年まで続き、病で歩くことが難しくなっても、ガンジス河まで歩いていかれ、身体にふりかけるための河の水を汲んできてもらったりまでされている。私には、信仰という文字しか浮かばない。
トゥリヤーナンダは言われている「絶え間なく自分はこの肉体ではなく、アートマン(真我)である、ということを忘れないように努力していた」。
“努力”をされていたというのだ。
トゥリヤーナンダの、けがれのない心の清浄さが際立って感じるようなエピソードがある。

彼が若い頃のある日、沐浴で河の中にいる時、浮いているある物体を見た。でも暗がりで見わけることができなかった。すると岸辺の人たちが「急いで上がってこい!ワニがお前をめがけて来ているぞ!」と叫んだ。彼は本能的に岸に駈け上がった。しかし水から出ると同時に思った「お前は何をやっているのだ。お前は朝に夕に、ソーハーム!ソーハーム!私は`かれ`である!私は`かれ`である!と繰り返しているではないか。それなのにたちまち、自分の理想を忘れて自分は肉体であると考えている!恥知らずめ!」と。そして直ちに水の中に引き返した。ワニは決して彼に近づかなかった。彼はいつも通りに沐浴をした。だが自分が早く終えようとして急いでいると気が付き、自分に言った「いや急がないぞ、いつものように沐浴するぞ」と。そしてそうした。

アートマンへの信仰を貫く、理想に従う、本気で理想以外のものを棄てる、浄化ってこういうことなんだと思う。死ぬかもしれない場面で、一度は岸に上がりながら、でも再びまた戻るという強さ、潔さ。信仰心への潔白さ。内も外も浄らかにする、本気の浄化とは、死をも超える覚悟、一念が必要なのかもしれない。

凄まじい水の音

よく師がおっしゃるように、粗大な汚れを落とすところから始まり、きれいになれば小さな汚れや塵に気付く。浄化の対象も、ヨーガの深まりとともに微細なものへと移行していくのかもしれない。
私は最初、師に、ヨーガをしていけば全然違う自分になるんでしょうか?と伺った。その変わっていった自分が本当の自分なんですか?それは終わりはないのですか?と。師は教えてくださった。

最後までそれは変化して、もう変化しないところまで行き着いたときに、本当の自分が見つけられる。でも、間違いなくその方向に進んでいってることになるから。本当の自分に近づいていくということは、本当ではない自分をなくしていくということだからね。

クラゲがきれいな水でしか生きていけないように、毎日の浄化を怠ればヨーギーとしては致命傷、死ぬと思う。一点の曇りさえも認められない、浄らかなるものーー師の言われた真理と、いつも共にあれるよう、実践していくのは自分。
というわけで、今年もステイホームなゴールデンウイークだったが、深海の生物たちによって心と体の浄化に気付かされた、ある意味まさに黄金の週間だった。まずは粗大なものから、ということで部屋の掃除もまとめてできたし、きれいスッキリさっぱりした!

目指すところ!

野口美香


天に一番ちかいシェアハウス

こんにちは!あたしの住んでる家には、ヨガっていうのをやってるおんなのひとふたりがいっしょにいるねん。
母ちゃんよりちょっと年上、やって。
あたしはまいにち保育園行くけど、ダルさん(ダルミニーさんやよ、って母ちゃんに教えてもらったけど、まだあたし小さいからダルさんってよんでんねん)とちささんはおべんとう作っておしごと行きはんねん。
保育園から帰っておやつ食べてるときもまだ帰ってきはれへんで。だからあたしのおやつのラムネ、1個づつ置いといてあげんねん。
最初来たとき、夜になっても帰りはれへんから「今日はとまっていくの?」って聞いた。「これからずっと一緒やで。ずっと一緒に寝たり起きたりご飯食べたり、一緒に暮らすの。お部屋に入る時はトントンってしなあかんよ」って母ちゃんが教えてくれた。
朝、トイレに行くときにちょっと見えたで。鏡のまえでおなか出してベコってしてはるとこ。ヨガしてはんねんて。あたしもちょっとできるで、保育園でやったことあるし。

と、同居人で3歳のあ〇ちゃんに登場してもらいました。
去年の10月、女の子とお母さんが先に住んでいたシェアハウスに、ダルミニーさんと私は引っ越して来ました。ちょうど東へ15分程歩くとアーシュラマ、西へ15分程歩くとプレーマ・アーシュラマという立地にある一軒の家です。
不思議な取り合わせだと思われるかも知れません。でも当然のめぐりあわせだったように感じます。

四人家族!?

私にとって、いまは東京から京都に引っ越してきて3年目の春になります。京都に引っ越して来てからはサットサンガやクラスに自転車や徒歩で通えるようになり、へなちょこだった私は満員電車で身体や心が潰されることもなく、余力いっぱいの新鮮な気持ちでヨーガに取り組めるようになりました。
色々なクラスに通ってみて、「日曜日の朝のクラス」がとても心地良いと思うようになりました。日曜日は仕事が休みのこともあり、前日の土曜日は夜更かしをしてしまいがちです。
そして朝は遅くに起きて「ああ、休日だ!今週も良く働いたからゆっくりしよう」と、本当によく働いたかと言えばそうでない週もあるのに、何もしないで午前中を過ごすことも良しと考えていました。
日曜日のクラスに通いたいと思うと、朝は早く起きます。土曜日は早く眠ります。
スタジオへはバスか自転車で下鴨方面まで通うのですが、道程がとっても気持ち良いです。鴨川を渡っていくときに見える山や川の景色や、街道沿いの樹々が、雨の日も晴れの日も四季おりおりの様子を見せてくれ、朝から得をした気分になります。

日曜朝クラスに通う途中の鴨川で

スタジオの板張りの木は立派で、大切に作られた空間なんだと伝わってくるところです。
そして講師のダルミニーさんですが、クラスの最初や終わりに話してくださる体験談やヨーガの話は笑いあり時には涙ありで、また次の週を楽しみにするようになります。
休日のスタートにダルミニーさんから指導を受けてアーサナをしっかりやることで、1日を通して心や身体が善い方向へ動くようになり、月曜日からも新たに仕切り直して過ごすことができます。休日の朝一番のクラスは本当にお勧めですよ!!

去年の夏の日のクラスの終わりでした。
ダルミニーさんから、お知り合いが管理している家があり、部屋を見に行く予定があると聞きました。
たまたまその日は予定が空いており、興味があってついて行かせて頂くことにしました。特に引っ越す気持ちはありませんでしたがーー
行ってみると何故か心地良いと感じる家で、先ほどのあ〇ちゃんが膝に乗って親しく話かけてきてくれました。
そしてたまたま、近々に部屋が4つ空いたというタイミングでした。
翌日には、色々考えずにあそこに住んでみようと決意して、ダルミニーさんと二部屋ずつ借りることになりました。
特に強い思い入れがあったり、何が何でもグルバイと一緒に住みたいと思ったりしたわけではありませんでした(もちろん一緒に居たいですが)、という話を先輩グルバイにすると笑いながら「熟年夫婦みたいですね」と言われました。
そうかもしれないなあ、熟年の電撃結婚みたいだなと思いました。縁に手繰り寄せられ、気づいたら入籍していましたという感じかもしれません。
ダルミニーさんと一緒に住まわせて頂くと決めると、健やかなる時も、病める時も、助け合っていこうという気持ちが湧いていました。やはり夫婦のようです。
そのうえ想像もしなかった子育て疑似体験もさせて頂くことになり、日々、話題や驚きが多く、笑いが絶えません。
ある時、郵便物が届きました。差出人は私の知っている人でした。しかしあて名は同居人の名前(あ〇ちゃん一家宛て)でした。
共通の知り合いがあったのでした。フェイスブックの「知り合いかも?」のようにそんな郵便が届くことってあるのかと思いました。しかもその差出人は、10数年前にクラスに通っておられて、師にも会っている人なのでした。驚きました。
夏の日に家を見に行く日程から、住まいの立地場所、同居人になる人と共通の知り合いがあってその人がクラスに通っていたこと、いま滞りなく暮らせていること等を考えると、自分が選んで決めていることなんて何もないんだなと思いました。そもそも何かを選ぶという何かができるような自分も存在していなくて、神が計り知れない配慮を払っておられるだけなのでした。
こうやってこの家で先輩グルバイと3歳児とお母ちゃんと暮らすことになって、荷物を片付けて広場に連れ出してもらったような気がしています。それは、身軽になってすがすがしい気分です。東京から京都に引っ越して来た際にもそのすがすがしい気持ちはあったのですが、それに伴って少しの不安もあり、力強く動くことはできずにいました。今回は、先輩グルバイが同じ屋根の下に居て下さるという願ってもない環境です。心が揺らいだり怖じ気付いてしまいそうな時も、毎朝、1階のダルミニーさんが開けるブラインドの音が聞こえると、正しい場所へ戻ってくることができます。それは、師のいらっしゃる場所です。同じ志を持つ仲間と過ごす日々が、自分自身だけでは困難な道のりも、高みに登らせて下さると信じています。
この肉体での時間は無限ではありません。最後の最後までやり切ったと言えるように、この世の事とあらゆる人に対してあなたのご意志を行為できるよう、存分に私を使いきりたいです。そのために環境を整えてくださったのだと思っています。

ダルミニーさん(右)と

最後に再びあ〇ちゃんからです。

あたし、6月になったら田舎に引っ越しするねん。もうすぐダルさんとちささんともお別れ。あたしと母ちゃんがいなくなったら寂しいと思うから、だれか一緒に住んでくれる人がないかなあって。いつでも見にきていいよ、あとちょっといるから遊びにきてね。

そんな訳です。同居人を募集しています。天にいちばん近いシェアハウスの住人になりたい方はいらっしゃいませんか?いつでもご見学ください、お待ちしています。
(余談ですが、あ〇ちゃんの名前の漢字には「天」が使われています)

早川ちさ


スワミ・ヴィヴェーカーナンダからのインスパイア

『ヴィヴェーカーナンダの生涯』は何年も前に一度読んだことがあるのですが、断片的な記憶しかありません。しかし、あまりにも有名な聖者ヴィヴェーカーナンダのことは、サットサンガやパラマハンサ、ブログでもよく登場するので有名なエピソードは知っています。久しぶりに読み返してみると、とにかく心臓がえぐられるぐらい感動し、言葉をなくし、ただただ泣いてしまいました。なんと濃密な人生でしょうか。今回は、その感想を少し書かせていただきました。


(ヴィヴェーカーナンダの略歴などは今回省かせていただきます。まだ読んだことがないかた、あまり知らない方は私の説明を聞くよりは実際に読んでもらった方が良いと思います。)

今、私がヴィヴェーカーナンダとはどういう人か?と聞かれたら、こう答えます。

「人間の中にある神性を最も信じ、それをありありと見た人。自分自身がそれであるということも、それを他の人の中に見ることも、誰にでも可能だと断言し、それは、人に奉仕することによって実現する、ということを自らの命を削って世界に発信した人」

読んでいると、本を飛び出してヴィヴェーカーナンダが、今この世界に向けて同じように「全てが神の表れである、だから万人に仕えなさい」と語りかけてくるようで正直圧倒されました。それは彼のあまりにも濃厚な人生全体が、そのメッセージを含んでいると思ったし、一瞬たりともその想いから外れていない彼の一つ一つの行動が、彼の獅子の如く力強い言葉とともに証明しているように感じました。彼は、メッセージを世界に送っただけに留まらず、実際に一人でも多くの人間を目覚めさせるために、具体的に行動を起こし、そのために命を使ったのです。

多くの言葉に感銘を受けましたが、その中で自分自身が時代を超えてヴィヴェーカーナンダの恩寵をいただいていると感じた言葉を一つ紹介させてください。

「ヒンドゥ思想を英訳し、無味乾燥な哲学と難解な神話、奇妙で驚くような心理学をわかりやすく簡潔な一般向けの宗教にして、同時に最高の知性の要求にも答えることは、実際に試みた人にしかわからない大役だ。難解なアドヴァイタが日常生活の中で生命を持った詩的なものとならねばならない。煩わしいヨーガの学説が極めて科学的で実践的な心理学が引き出されなくてはならない。そしてすべての子供にも把握できるような形にすること、それが私の仕事だ。どこまで完成するかは、神のみがご存知だ。働く権利はあっても、その結果に対する権利は持たないのだから」

インドの歴史背景については詳しくありませんが、ヴィヴェーカーナンダの時代(そのもっともっと前から)インドには宗教の地盤はしっかりとあったと思います。しかし、難解で誰にでも分かるようなものではなく、おそらくブラーミンと呼ばれる僧侶階級にある人が理解できるものとなっていたのかもしれません。彼はヒンドゥ思想がもつ、その霊性の宝石をもっと日常生活の中で生命を持つよう、子供でも分かるような形にする必要性を感じていたのではないでしょうか。インド人に対してはもちろんのこと、新しくヒンドゥ思想に触れた世界中の人、特にアメリカ人に対して理解できるようにという思いがあったと思います。ヴィヴェーカーナンダは、インドの貴重な霊性の宝石は、宝石箱がないために汚物の山に埋もれている、反対に西洋は、健全な社会という形で宝石箱を作り上げたが、宝石を持ってはいなかったと言われています。そのため宝石箱を持つ国に、宝石を伝える必要性を感じていました。

そして実際に試みられた彼のいう「大役」の一つが、私たちが手にすることができる代表的な四冊「カルマ・ヨーガ」「バクティ・ヨーガ」「ラージャ・ヨーガ」「ギャーナ・ヨーガ」ではないでしょうか。


クラスに通いだしてまず始めて読んだ本は、「カルマ・ヨーガ」だったと思います。働くということの意味が理解できない、生きるためにお金を稼ぐ必要があることは頭で理解できるが、それをすることが生きることなのかと混乱していた私にとって、働くときの正しい考え方を教えてくれました。「利己心を捨てて働くこと、働きの結果、果実は私のものではないこと、そこに重要性はないということ。結果ではなく、働くという行為によって束縛から解き放たれ、ついには自由になること」自分自身の人生の方向性を知り、安心と喜びを得たことを覚えています。

「キャーナ・ヨーガ」を読んだときは、人間の本性について、私の中に神聖なものがあるのだということを知り、そのものすごく力強い言葉に圧倒されてしばらく動けなくなったことを覚えています。また、神、宗教というこれまで漠然としていた言葉、それでもその言葉の中に「神聖なものがあってほしい」と心のどこかで願っていたことに対して、「それでよかったのだ」と思うことができ、喜びで満たされたことを覚えています。

どちらの本にしても、それを読んで終わりではなく、実際の仕事や家族と関わりの中で、その考えを根付かせようと努力するすべを教えてくれたように思います。これこそが、ヴィヴェーカーナンダが願っていた「アドヴァイタが日常生活の中で生命を持ったもの」となったのだと思います。彼の働きは、時代を超えて、国境を超えて、ひとりのまだヒンドゥの思想を知らない日本人の中に根付き、理想を持たせてくれたと思います。

そして何より、インパクトがあったのが、「誰がこれを言っているのか!」ということでした。これを書いた人が実際に存在していた人間であるということ、それが何よりの励ましでした。人間の可能性をどこまでも広く大きくし、理想的な姿を現してくれました。同じ人間としてこのような人がいる・・・それだけで私は希望を持ち興奮したことを覚えています。

ヴィヴェーカーナンダと自分との関わりについて思いを馳せていたとき、ふと思い出されるエピソードがありました。それは、ヴィヴェーカーナンダのグルであるラーマクリシュナが、修行時代、自らの内にある驕りを無くすため、パリヤと言われる不可触民のトイレを自分の髪の毛を使って掃除をしたというエピソードです。ラーマクリシュナの中に不平等さや驕りが実際にあったのかどうかは分かりませんが、これは弟子に、教えを行為で示すためになされたように思います。誰もの中に神聖がある、すべてが同じ存在であると口で言うだけでなく、実際の行為で見せる。ヴィヴェーカーナンダがアドヴァイタ(不二一元論)を日常生活に根ざしたものとするために奮闘したことは、師であるラーマクリシュナの教え、そのものだったのだと思いました。ラーマクリシュナが実際に生き、それを見たヴィヴェーカーナンダが、それを同じように生き、さらに方法を駆使して世界に広めた、すべての根っこは師であるラーマクリシュナにあるし、こうして生きざまとして師と一つである、その姿にとてもとても憧れを感じました。

ひとつひとつのヴィヴェーカーナンダの行為は、あまりにも大きく、自分の生きている生活とかけ離れていて、彼を理想として何をすればいいのか一瞬わからなくなることがあります。でもそうではなく、彼が信じた人間の本性、神聖さ、純粋さは、すでに誰もの中にあるのだから、それを自らの中に実現していくこと、そして、目の前の人もその神聖な存在なのだから、自分の目の前の人に奉仕していくこと、それだけなのだと気付かされます。

最後にヴィヴェーカーナンダの力強い言葉を紹介して終わりにします。

「私は死ぬまで弛まずに働くだろう。そして死後も世界のために働くだろう。非真理に比して、真理は無限の力を秘めているのだ。それは人格、純粋さ、そして真理の力、人としての力だ。私にこうした力がある限り、あなた方は安心してよい。誰一人として私の髪の毛一本とて痛めることはできない。やっても失敗に終わるだろう、主がそうおっしゃったのだから」

彼は今も働いているのです。私たちもそれに続こうではありませんか。


フォカッチャの会は『Automatic(オートマチック)』

ゴールデンウィークですが、どこにも行けないですね。。
でも暗くなっていても仕方がないので、今回のブログは「ポップ」にいきたいと思います〜☘

最近、宇多田ヒカルの『Automatic』という曲を思い出しました。
私が中学生の頃、流行った曲です💿
特に好きな曲でもなかったのですが、あることがきっかけでその心に眠っていた曲の再生ボタンが押されました。
「心のサンスカーラ(潜在的な残存印象)が克服されていないのでは?」と指摘されたら本当に何も言えないのですが……😓、以下その経緯を説明させていただきます。

3月のブログで紹介された「フォカッチャの会」ですが、一応私は主催者でありまして、4月は要望も多く、2週連続で開催させていただきました。
このフォカッチャの会は、オンラインでの宿泊・交流会で、以下のプログラムで行なっています。

🌃土曜の夜:フォカッチャ生地の仕込み(15分)&ヨーガトークス
🌅日曜の朝:瞑想(45分)&フォカッチャ焼き(30分)&朝食・ヨーガトークス

私自身、当初はオンラインというツールには抵抗があり、巷で「オンライン飲み会」というものが出てきた時には、「そこまでして、誰かとお酒飲みたいか?」と思っていました。
しかし、このフォカッチャの会でオンライン交流してみると、師が毎日好んで召し上がっているフォカッチャを皆で作り、いただき、そしてヨーガについて語らうーー「これ、こんなに楽しくていいの?」と思うほど、毎回笑いの絶えない楽しい会になっています。

また朝の瞑想もオンラインで皆でする方が集中感が増し、清々しい気持ちになれます。
前回参加した松山のグルバイ(仲間)の方からは、「オンラインの特徴として、ヨーガが自分の生活に入り込む感じがいい」という感想をいただきました。
確かに、私自身もそうだと思いました。
コロナ禍でグルバイとなかなか交流できない日常生活にヨーガのプラーナが入り込んで、その集中や喜びに満たされるーー
オンライン上ですが、グルバイと密な時間を過ごすことで、「自動的にヨーガの状態になる」という感覚がありました。
それを思った時、自動的➡︎オートマチック、はい、それで宇多田ヒカルの『Automatic』が流れ出しました。
そして断片的ですが「君とパラダイスにいるみたい♪」という歌詞が出てきました。

「なんや、そのオチは!」と言われたら、「私は関西人ではないので」と言わせていただきます✋

話を戻します↩️、師は「フォカッチャはただ単純に美味しい」とおっしゃられているそうです。
そのようにフォカッチャを単純に美味しいから毎日いただくように、いつもただ「神だけを愛する」ことができたら、心は自動的にパラダイスになると思いました🏖

美味しいフォカッチャもいただけ、親交(神交)も深められるフォカッチャの会の参加申し込み、ぜひお待ちしております🙋‍♂️

ゴーパーラ


サナータナ・ダルマを生きる!

初のオンライン開催となった、春の祝祭「サナータナ・ダルマ・アヴァターラ・メーラー」。
出席された皆さんは、身体に収まり切らないほどの歓びを感じられたことと思います。

祝祭前は、初めてのオンライン開催がどんな風になるのだろうとドキドキしていましたが、いざ始まってみると、画面を通していることも忘れて没頭し、あっという間でした。
時間も空間も超えて出席者全員が共に在るということを強烈に感じました。
祝辞を献上した方々から、サナータナ・ダルマ=永遠の真理だけを見て行為してくのだという決意が伝わってきて、胸が熱くなりました。

祝祭後の土曜クラス終了後に、久しぶりに東京のグルバイ(兄弟姉妹弟子)で話す機会を持ちました。一年以上ぶりに拝見する師のお姿に感極まったのは皆同じだったようで、それぞれの表情や言葉から大きな歓びが感じられました。

東京グルバイのメンバー(後左から小菅さん、シャルミニーさん、前左ハルシャニー、マイトリーさん)

今回祝辞をされたグルバイの1人、小菅(こすげ)さんは、祝辞の文章を考えていく過程でたくさんの気づきと学びがあったと話してくれました。
名前も形もない真理について祝辞を考えるのは難しく、真理に関する知識を書き並べる感じになってしまい、「もっと自分の気持ちを出したい!」と悩んでいると、筆は自然と師であるヨギさんに向かっていました。それからはヨギさんへの想いが高まるばかりで、真理とかそういった知識ではなくバクティでいっぱいの内容になっていったそうです。
その表情からは歓びが溢れ出ていて、その場にいたみんなの歓びも一層大きくなったように感じました。

また、アーサナ・瞑想クラスの参加者のSさんは、まだ一度も師にお会いしたことはないけれど今回の祝祭に参加され、冒頭のヨギさんのプージャを拝見し、画面からでも神聖なエネルギーを感じました。 祝辞を述べられた皆さんの体験談も素晴らしく、それぞれヨギさんへの思いや、ヨギさんの言葉によって、人生に大きな変化があったんだなぁと思いました。」と感想を寄せてくださいました。 師を想い慕う気持ちはたとえお会いしたことがなくても同じなのだと感じ入りました。 

左から、ターリカーさん、マイトリーさん、シャルミニーさん。マスクをしているとわかりにくいですね。笑 いいお天気でした!千駄ヶ谷駅前にて。後ろに見えるのは新しくなった国立競技場です。

師が与えてくださるこの上ない歓び、そして自分の中にも真実があるという想いは、確かに私の胸の中に在ります。
それでも、日常の中で様々な出来事に巻き込まれてそれが覆い隠される状態になり、一人ではなかなかその覆いを取り払えない時もあります。
私はこの3月半ば以降、やむを得ず過密なスケジュールで働き続けてしまい、祝祭前日にはっと我に帰ったような状態になっていました。しかし祝祭当日、歓びしかないひと時を体験し、真理以外のことは全て吹き飛んでしまったように感じられました。そして翌日からは再び働き続ける日々が始まり、もっと余韻に浸っていたいのにともどかしい思いを感じながらも、仕事に集中するよう努めました。
そうしてグルバイで話す日を迎えたのですが、みんなで揃って会うこと自体がとても嬉しくて、慌ただしかった日々のことは一瞬で消え去り、再び歓びいっぱいになりました。1時間ほどではありましたが、交わす言葉以上に祝祭の余韻をみんなといるだけで味わえました。

かつてブッダは、「この世は美しい」とおっしゃったそうです。
私は日々の暮らしの中で、この言葉をよく思い出します。一体この世の何を美しいとおっしゃったのか…それは全ての命は等しく尊い、命そのものが美しいということではないかと思います。

ブッダの生きた時代と今とでは、環境も人々の暮らしも大きく異なりますが、「この世は美しい」ことは変わらない真実です。
人、動物、植物、それぞれの命が織りなすこの世界。その世界の中で、ずっとサナータナ・ダルマ(永遠の真理)は存在し続け、今を生きる私たちへと繋がり、これから先にも繋がっていく。
世の中がどんなに変わっていこうとも、絶対になくならないもの。

そのサナータナ・ダルマを体現してくださっている師の存在と、共にサナータナ・ダルマを生きようとするグルバイの存在がある限り、どんな世の中であろうとも必ずサナータナ・ダルマを実現できる。そう強く感じた祝祭でした。

ハルシャニー


真っ直ぐな竹のように!

一夜にして目の覚めるような美しい桜に包まれる春。すべてが桜色一色に見える十日間ほどの時間。その格別な時に、一切万物の根源である存在へ、感謝を捧げる祝祭が行なわれた。あれは夢だったのかな…と思うような歓喜の中にいた。
祝祭の翌日もまた翌日もその次の日も、世界は何事もなかったかのように朝を迎え、道行く人々も何事もなかったかのように歩いている。なぜかそれがとても不思議に見えた。瞬く間に桜の花びらは風に舞い、大地には次々に鮮やかな花々が蕾を付け始め、木々からは黄緑色の新緑が一斉に芽吹きだし、季節はどんどん進む。私の住む地域には竹林が多く、新しい竹、竹の子も顔を出している。

美しい竹と桜

祝祭から数日後の仕事の帰り、バスに乗る気分になれず竹林の道を歩くことにした。とぼとぼ歩きながら、私は誰なんだろう、と思った。何事もなかったかのように道行く人々の方でもなく、こうして生を謳歌している植物たち鳥たちの方でもない。どっちでもない自分は、なんなんだろう。急にポツンと浮いてるような、心もとない気持ちに襲われた。
仕事帰りだったからか珍しく疲れている自分がいた。疲れるということは、何かが間違っているんだと思う。そう思うと、一挙に虚しくなった。
これまで自分は、人と接する時には人を傷つけないようにと細心の注意を払い、自分の行動や言葉が真理に沿っているのかと考え、直せることは直し、ヨーガの教えに沿えるよう、やれることは全部やりたい、人からのアドヴァイスがあれば全て取り入れたいと躍起になって、自分なりに気を付けてやってきた。けれど、こんなに頭でずっと考えて、生きて、これがヨーガなんだろうかと、そんな思いがどっと押し寄せてきた。

祝祭で師のお顔を見た。声を聞いた。その優しい声を、私はずっと聞きたかった。あなたの声を、あなたの姿を、ずっと見たかったんだ、と思った。自分がそんなことを思っている自覚はなかった。けれど、あの時に分かった。師に直接お会いできるのは、かけがえのない瞬間。インドでは師を生涯かけて探すんだという。それほどの尊い稀有な存在に巡り会えたという奇跡。でも、そう思うのなら、師の教えを生きていなければ堂々とお会いすることに喜びを見いだしてはいけないように、どこかで思ってきた。ヨーガじゃなく、どんな世界でも、師匠から教えてもらったことを生徒が体現できていなければ、師匠のおられる甲斐がないじゃないかと思うから。だから、この状況になった時、今こそ教えを生きる機会を与えられている、会えなくても大丈夫なはず、と繰り返し思ってきた。でもそれは単なる稚拙な強がりで、全然そうじゃなかったのだ、私は、いつも師の声を、師の姿を、自分の見る世界の中に探していた。だからこそ、生きてこれたんだと気付いた。あの日、一日だけは、探さなくても、今は師の、その優しい声が聞こえる、お姿が見える。オンラインでも何でもどんな方法でも有り難かった、ただ、師が、お元気にされていることが見たかった。生きる歓びを教えてくださった大切な先生が、師匠が、どうされているか、ずっとお元気で幸せに、と願うのは当たり前のことだ。今、どんな声で、どんな話されかたで、どこを見られて、どんなふうにおられるか、それが私は知りたかったんだと思った。師に一度でも会えた人なら、きっとそう思うと思う。師はそういう方だ。それでじゅうぶんだと思った。それよりも大事な、知りたいことがあるのか?
だからもう、自分が考えることや行なうことなんか特に価値はない、いちいち悩むのも根本的にヨーガじゃない、問題のあることなんて本当は何もないんだと思えた。ヨーガは悩みや苦しみを解決してくれる、でも、そのためのものじゃない。そんな小さなものじゃない。「仕事や生活はなるようになります」と師がさらりとよくおっしゃっていたこと、本当にその通りだと思った。

静かに佇む竹

半年ほど前、問題があり、心の中で何日も師のお姿を求めていたことがあった。道を歩いていても限界だと思えて涙が溢れてきた。涙がこぼれないよう空や木ばっかり見て、気を逸らそうとしていた。その時、道の上の垣根の草むらがザワザワと動き、虎のしっぽ⁈のような太いしっぽの先が一瞬見えた。何? 目を凝らしていると、一匹の大きな猫が姿を現した。昔、ヨーガのクラスに行く時に限っていつも会う猫がいて、師の化身(?)と勝手に思い込み「行ってきます」とよく言っていた猫にとても似ていた。もう何年も姿を見なくなっていた。その猫にそっくりの猫が、じっと私を上から見おろしていた。猫は、頷き「何も問題はないね」と師の声がした(ホントに!)。そう言うと猫(師⁈)は即座に、くるっと背中を向けてシュッと草むらの中に姿を消した、カッコいい虎みたいに。息が止まるような一瞬だった。「何も問題はないね」という声を聞き、こぼれそうな涙も感情もぜんぶ呑み込んだ。私にとってあれほど大問題だったことが、師のたった一言によって、これは問題じゃないんだ、と一変した出来事だった。

竹林にたくさん咲いている花

竹藪を歩きながらそれを思い出した。そうだった、もう細かいことは取りあうべきじゃない。まるでモグラたたきのゲームみたいに、自分に起こる問題をただひたすら叩き続けて消していく自分を想像すると滑稽だった。好きなことに喜び、嫌なことに苦しみ、快・不快、生きる・死ぬ、その間をさまよい続けている、こんなのが生きるということじゃない! 本当の自分はそんな存在じゃない。
足を止めて、まわりを見渡せば、どんどんと小さな生命が生まれ育まれている。空を見上げれば、雀やひばりが飛びまわり、カラスは高い街灯の上にたくましく巣を作って、よく見ると口をパクパクさせた小さな雛がいて、せっせと親鳥は忙しそうに餌を与えていた。春の風が、ぶわっと吹いた。竹林がシャラシャラ~と音をたてて揺れる。おびただしい数の命が蠢き、その真っただ中に私もいるんだと思った。

どしゃぶり雨でもカンカン照りでも、植物や動物たちは、それなりにいつも過ごし、たくましく生を謳歌している。二元性に右往左往しているのは人間の私だけだった。どうすれば二元性を克服できるのかと頭で考えすぎて、逆に執らわれている。こっちがいいか?そっちがいいか?そういうことじゃない。どっちも棄てる道、それがヨーガの道、ブッダの説かれた中庸の道。何も掴まない、執らわれない、そのニュートラルな道を歩くためには、絶対に信頼できる何か――真実への信仰がなければできないと思った。二元性を克服するなんて普通はできることじゃない。ヨーガという軸があるからこそ、できること。不可能を可能に導いてくださっている師。

真実を深めるということ。教えを体得していく。おのれの存在への純粋な信仰を深めていく。そうすれば生活や作業もその中で行なわれていく。
物事を行なう時はその時々の状況で工夫をして、それなりに対応していけばそれでいい。

そう教えてくださった師のお言葉を思った。いつも何にも執らわれない、そういう生き方がしたい。いろんな事に執らわれて、いちいち余計な思いが多すぎたな、と素直に思った。二元性を感じる原因を作っているのは、自分の心だった。
うららかな春の光の中で、こんなにも美しい世界の中で、一体何をそんなに悩むことがあるというのか。師の声が聞こえるようだった。蝶々が、ゆらゆらと戯れるように、ゆっくりと花から花へと飛んでいく。

煌めく生命

祝祭を紹介するブログ記事に「サナータナ・ダルマの道の真っただ中にいる――」という言葉があった、それを目にした時、身体中がカッと熱くなり震えた。きっとこの言葉の意味することは物凄いこと、それが知りたいし、それを高めたい、と思っていた。そこに繋がるヒントが、その竹藪の道に散りばめられていたのかもしれない。
スッと天に突き抜けるように高く伸びる竹。真っ直ぐな線。幹はしなやかで強く、軽やかな葉は風に乗って自由に揺れ動き、雨が降ればただ雨を受け、枯れる時がくれば枯れる。いつもただ無為自然。竹を見ていると、そんなふうに、また新たな気持ちでヨーガと向き合っていこうと思った。
一本一本が独立したものと見えている竹は、実は土の中で根が繋がっていて、竹林全体で一個の生命体なんだという。一本一本の寿命が異なっていても、全体としての一個体。120年くらいに一度、花を咲かせ種を残し竹林ごと消滅するという。そして新たな種として生まれ変わって次の新しい竹林が形成されるというのだ。まるで時代時代に応じて神の化身が姿を顕し、その時には弟子たちも一緒に、と聞いた、それみたいだと思ってしまう。形や姿は違っても、同じ一つの種が、ずっと繰り返し受け継がれている。また、竹は花を咲かすまでがとても長い。ヨーガは生涯を懸けた大事業だという。竹が120年かけて竹林全体として成長する、その一生を思うと、なんだか鼓舞される。竹の生態は解明されていないことも多いらしく、ちょっと神秘的でもある。

きっと私たちも、師と一つの生命体だと私は思う。別々に見えていたとしても、根は繋がっている!はず。私は誰なのか、まだはっきりとは分からない。でもきっと、そういう、たった一(ひとつ)の存在、それに違いない!

ぐんぐん伸びる竹!

野口美香


よりよく生きるための「食」~さまらさの台所

先日、ヨーガの料理教室「さまらさの台所」のオンラインクラスに初めて参加させていただきました。これまで「さまらさの台所」には何度か参加させていただきましたが、オンラインクラスは初めてだったので、どのように進められるのかとても楽しみにしていました。
今回のメニューはクラムチャウダー、アスパラとチーズの春巻き、菜の花と新玉ねぎのマリネ。わが家は4人家族なので、日頃はつい手慣れたメニューをさっと作ることが多いのですが、動画を見ながらレシピ通り丁寧に作ることにしました。

今回は食材の一つにちょうど春が旬のアサリが使われていました。今は砂抜きのアサリもよく見かける様になり、私も普段は砂抜きのものをよく使うのですが、動画ではアサリの砂抜きの仕方も紹介されていたので、久しぶりに砂抜きから始めることにしました。
殻を閉じた状態で白いトレーにパックされスーパーで特売していたアサリは、塩水の中でだんだんと口を開き、2本の水管や舌のようなあしを出して動き始めました。時折、ピューッと勢いよく水を吐き出します。その様子をじっと見ていると、広い海でこのアサリたちが魚や他の生き物と一緒に元気に生きている光景が私の頭に浮かんできました。すると、買ってきた時は食材の一つだったアサリが、一匹一匹、今まさに生きている私と同じ、命ある生き物なのだと強く実感され、急にアサリたちが愛おしく思われました。「この子たちを食べるのか…」何だか食べたくなくなってきました。その時ふと、今と同じ気持ちになる時があることを思い出しました。私はよく、料理で使った後の大根や人参やネギなどをキッチン栽培で育てて、新しく伸びてきた葉っぱをスープやお味噌汁の具に使ったり、小さな家庭菜園でハーブやベリーなどを育てています。目の前でだんだん育っていく様子をみていると、野菜も生きているんだなぁと同じように愛おしくなり、食べるのを躊躇してしまうことがあります。けれど、野菜やハーブも美味しくいただいていることを思い出し、アサリも美味しくいただこうと決心して調理しました。

その後、別の日に行われたオンラインクラスでは、実際に調理をした感想を皆で話したり、疑問に思った事などを講師のサラニーさんとサティヤーさんに質問したりしました。普段はお母さまが料理をされているという方は、「母にとても喜んでもらえました!」と嬉しそうな笑顔で話され、「子どもが独立したので、久しぶりに自分のためだけにゆっくり楽しんでお料理をしました」という方もいらっしゃいました。やはり共通して一番多かったのは、生きているアサリをいただくことに対しての感想でした。皆さん、生きているアサリを目の当たりにして、アサリの命をいただいているということを実感し、感謝していただかなければいけないと改めて感じたと話されていました。

アサリのクラムチャウダー。殻からも出汁を取りました。

今回のお話の中で「全体食」について、サラニーさんから「動物性のものであっても野菜であっても命あるものはすべて余分なところは一切なく、丸ごと全部いただくことで、その食べ物のエネルギーを最大限いただくことができ、命を無駄にしない。またそうすることで食べ物への感謝を行為として表わすことができる」というお話がありました。
そのお話を聞いて、私たち人間も動物なので、何かを食べなければ生きていけない。命と命は繋がっている。生命全体としての命の営みの中で、“食べる”という行為を通して私たちは与えられたこの命をどう考え、どう生きるのか。日々、何のために“食べる”=“生きる”のか。“全体食が食べ物への感謝を行為として表わすことができる”ということなのだとすると、ひいては他者からいただき続けている自分のこの命を、精一杯よりよく生きるということが、すべての命に対する感謝を行為として表わすことなるのだと、思い至りました。

この日のオンラインクラスの様子。調理中の失敗談も楽しい!

現代は食に対する考え方も多様化していますが、ヨーガを生きる私たちはどんな時も“全体の生命の中で、与えられたこの命をどう生きるのか”ということを常に自分に問いながら、自分の命を真剣によりよく生きて行かなければいけないと改めて考える機会となりました。
サラニーさん、サティヤ―さん、どうもありがとうございました!また、参加させていただきたいと思います!

見本の写真と私作。家族みんな喜んでくれました!

シャルミニー


「私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」

季節は春になり、厚着していた洋服もだんだんと薄くなって身軽になっていきますね🌸🌿
先週の日曜は日差しが強くて私は日中、半袖で過ごしました💦

私は春の身軽になっていく感じがとても好きなのですが、少し前まで心はちょっと重〜い感じがありました😓
識別しても解決されず、どうしようかと思っていた時、瞑想の中で神にそのことを相談してみました。
もうただ、その起こっている事実を神に聞いてもらいました。

するとその瞑想中、2つのリュックサックのヴィジョンが見えました。
一つは重いリュックサック、もう一つは空っぽのリュックサックでした。

瞑想から覚めた時、「あぁ、私は余計な荷物を背負い込んで、思い煩わされていただけなんだ」と思い、それに気付かされたら自然と気持ちが軽くなりました。
そして、次のイエス・キリストのお言葉が思い起こされました。

「疲れた者、荷物を背負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」

その翌日、期せずしてその煩っていた物事に大きな進展があり、とても驚きました。
その後、上記のイエスのお言葉について調べてみると、続けて次のことが書かれてありました。

「私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷物は軽いからである」ーーマタイによる福音書11章

このイエスのお言葉に「軛(くびき)」とあります。
軛とは「牛馬の首の後ろにかける横木」のことで、牛馬を制御する道具のことです。
私は軛と聞いてすぐに連想するのが「ヨーガ」という言葉です。
ヨーガの語源は「ユジュ(軛をかける)」だといわれ、ヨーガは「心を制御して真理(神)を実現すること」を説いています。
上記のイエス・キリストのお言葉「私の軛を負い、私に学びなさい」は、「神の教えである心の制御を実践し、神を見倣いなさい」と読むことができると思います。

心に背負うリュックサックは、やっぱり神のリュックサック(軛)がいいですね。
それはとっても軽く、空っぽだと感じるからです。
そしてその中身は至福のプラーナで満ち満ちていると感じます😇🎒

新緑の嵐山

ゴーパーラ


春の祝祭―台湾編

2021年4月4日、グルの恩寵と祝福とともに、台湾のグルバイたちは台北のアーナンダ・アーシュラマで一緒に7時間半以上を過ごしました。とても濃密で幸せな時間でした!

前日から会場の準備が始まりました。 前日と当日の朝、昼のお弁当も用意しました。 (日本ブログに紹介されたフォカッチャもメニューに入れました!)

前日は日差しが強く暑かったですが、祝祭当日は突然涼しくなり、まるでここが京都で、春の祝祭に参加するために出かけているような気分でした。

春の花が飾られた開始前の静かな会場

参加者たちは午前中にアーナンダ・アーシュラマに到着し、先に今回の祝辞の翻訳を聞きました。祝辞の中には、深い自己探求の思いや、人生の無常に対して心に疑いや動揺が生じたとしても、ヨギさんが遥かなる人生の大海で永久なる真実の光を弟子のために灯してくださっているから、私たちは永遠の真理が自分の中に在ることが分かるようになったという話がありました。祝辞を通して、グルバイたちが堅固な決心をもって真理の道に進んでいると感じました。彼らの姿はまるで真っ暗な海に光り輝く星のようであり、聴きながら何人かは涙がこぼれていました。

台湾語に翻訳された祝辞を先に聞いて、祝祭への思いが高まりました!

その後、少しお昼休みを取ってから、わくわくしながらみんな席に着きました。久しぶりですから、ヨギさんや日本やニューヨークのグルバイたちと会えるのをすごく楽しみしていました。

開会後のプージャーの時、ヨギさんがスクリーンに現れました。誰もが息を止めたかのようにグルの姿を見つめました。スクリーンを隔てていましたが、会えない長い時間も遠く離れている空間も消え失せ、安らぎと歓びに満ちた雰囲気に包まれて、ヨギさんが優しく一人一人の弟子に応じてくださっているように感じました。

それから祝祭が進んで、先輩とグルバイたちのお姿を見ながら、みんなは笑みをこぼしたり、時には祝辞者の情熱が伝染して感情が高まったり、感動していました。画面で拝見したニューヨークや日本のグルバイに実際に会ったことがなくても、共にヨギさんに教わる真理の道に歩んでいますし、Pranavadipaを通してグルバイの記事を読んだりすることもありますから、いつもみんなが一緒にヨギさんの下で学んでいるような感覚をもっています。今回オンラインで「会う」ことができて、長年の知り合いのように親しく感じました。

祝祭の中盤には、45周年の記念スライドショーが上映されました。祝辞にもありましたように、ヨギさんは変わりなく、いつもの優しさと歓びをもって、私たちに唯一の真理を示してくださっていました。真理を渇望する人々のため、45年もの間、真理の教えを絶えず伝えてくださっていました。世界中で布教されているヨギさんのお姿をみんなは高揚した気持ちで拝見しました。その時、自分がヨーガと出会った日を思い出したのかもしれません。

ヨギさんの2017年台湾初ご訪問!<45周年記念スライドショーから>

実は、ヨギさんは、私たちがヨーガを始めるだいぶ前から、すでにこの道で私たちを待たれていたのだと思います。そして今も、その悟りを啓くヨーガの道に立たれて、優しく私たちを見守って導いてくださっています。信念と決心を持って行動に移せば、必ず永遠の真理を実現できると、私たちに高らかに宣言されています。

グルへの礼拝

終盤に、再びスクリーンに現れてくださったヨギさんのお姿。世界はまだ混乱しているのだがきっと良くなる、このような時こそ自分のヨーガの実践を深めるようにと弟子を励まし、そしてみんなとの再会を楽しみにしているとおっしゃってくださいました。その場にいた誰もが名残惜しくスクリーンを見つめて、ヨギさんからもたらされた幸福と平安に浸る時間が続いて欲しいと願っていたことでしょう。

だけど、私たちには分かっています。本当にヨギさんと共にいたいなら、生活の中で一歩ずつ実践していき、無知なエゴを棄てるしかないのです。ヨギさんのかっこいいお姿のように生きて、永遠なる真実に成ることが、グルの無限の愛に報いることになるのです!

祝祭の後、1時間くらい感想を分かち合いました。 祝辞からのインスパイアされたことや感動したこと、そして自分の経験やグルへの思いなど、たくさん話をしました。

マハーヨーギー・ミッション台湾 シンユン


45th記念 NEW! Tシャツができました!!!

春の祝祭の歓びの余韻が続く中・・・とっても嬉しいお知らせです!
「待っていました〜!」という方もたくさんおられると聞いていますが、マハーヨーギー・ミッション設立45周年を記念したオリジナルTシャツの注文の受付をスタートしました!

 Tシャツには、マハーヨーギー・ヨーガ・アーシュラマが開設された当時(1976年)作られた看板(写真はこちらの記事に掲載しています)に、師が手描きされたヨーギーのシルエットそのものがデザインされています!!!
ゴールドのシンボルに、Mahayogi Missionのスクリプト系の白のフォントが美しくレイアウトされ、シンプルでとっても格好いい!大人っぽいTシャツに仕上がっています!

ヨーギーのシンボルは、私たちの本当の自己であるアートマン、そしてヨーガの守護神シヴァを象徴するものでもあります。着てみると、ちょうど胸の中央に黄金色に光り輝くアートマンが―—!!!
私たちの中に真実が在る!ということを常に思い起こさせてくれるTシャツになっていると思います!

 今回はなんといっても、カラーヴァリエが豊富! 半袖は全21色です! 使いやすいベーシックカラーから、夏の日差しに映えそうなヴィヴィットなカラー、そしてやさしい雰囲気のニュアンスカラーもあり!で、どれも素敵な色合いなので選ぶのも本当に迷います!

Tシャツ

左からライトグリーン、アクア、ライム。並ぶとグラデーションがきれい〜!

サイズは半袖のほうがユニセックス、レディース、キッズと3種類。女性がユニセックスをオーバーサイズっぽく着るのもいいですね!
また女性用には人気のドルマンスリーブも作りました! 薄手の素材でさらりと、ゆったり着れるので、夏場はとても涼しいし、なんといってもかたちがお洒落で可愛いです!

そして、喜ばしいことに、松山のヨーガ・サーラ・スタジオも全色同時発売されます!
レディースの七分袖は今回は松山だけですよ〜!

スタッフの4人。左からコーラルオレンジ(ユニセックス)、ショッキングピンク(七分袖)ミント(レディース)、ケリーグリーン(七分袖)。

Tシャツのデザインは、師が一昨年ニューヨークにご出発される前から取り掛かってくださっていて、変更や微調整を重ねながら今春、仕上がったものです! カラーの選択も本当に吟味してくださいました。
デザインワークスにご尽力くださった師に心から感謝いたします。

Tシャツのサイズ、カラーのラインアップ、ご注文についてはこちらをご覧ください。
受付締め切りは4/24。ご注文お待ちしております〜〜〜!!!
https://www.mahayogi.org/other/2021mymt-shirts

マードゥリー